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2021-06-02

ブコメを消した方がいい方々

https://www.bengo4.com/c_23/n_13123/

SEALDsメンバーの涙「女として生まれ絶望と向き合った」 中傷ツイート投稿者賠償命令

 

https://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASK3B6D3YK3BUTIL04L.html

元SEALDs「韓国では国民政治を動かした」:朝日新聞デジタル

id:big_song_bird さすが偏差値28の学生の言うことは違うw。

id:yunoka0314 やっぱり中身は出来損ないの中核派だったんだな。FARCの末端構成員の末路を参考に身の振り方考えた方がいいよ。

id:abracadabra321 民主主義知らないのか。こいつらホントバカだな。

id:kunitenten_tokyo これを大衆迎合主義というのも解らない底辺大学生は大変だな。

id:simgorira SEALDsアホ過ぎて腹が立つ。んで、それを支持しているアホな政治家やら、アホな脳科学者やら、靴下履かない人やらアホな大人も腹たつ

id:yazuka08 能天気にも程があるだろう。

id:Hiro0138 頭の中がお花畑つ~よりぺんぺん草が生えてそうなレベルやな

id:xufeiknm あんなモノを「国民政治を動かした」と捉える幼稚さ。本当はきちんと叱るべき所を持ち上げる新聞

id:takipon もう「SEALDs(シールズ)」という名前を見ると、代替案も出さずとにかく「反対」しかわめかないオバカ学生しか見えない。記事にする価値もない。朝日だけは「SEALDs」に価値があるらしい。

id:dumpsterdive 言ってることがまともじゃない。まともじゃないことを、さもまともなように記事として取り上げる新聞もまともとは思えない。

id:chokuchoko 玉川大の時点でアウトなのにSEALDsなんてゴミみたいな団体に入ってさらにアウトでかつ24にもなってまだ大学生なところでスリーアウトチェンジ。そこまでアホやから韓国日本の違いがわからない…池沼なのかな。

id:yoiIT DIOに憧れるモブレベル「そこに惹かれる憧れる〜」

id:u_eichi 動かしてみたかっただけなのがよくわかる。こういうのを馬脚を現すという。|彼らというか、彼らを担ぎだしてはしゃいでた連中だな。

id:takah-jugemSEALDs肩書きあやまんJAPANぐらいどーでもよい

id:youhey この亡国の危機に憧れを感じちゃう他人事感と、手段への並々ならぬこだわりと目的が伴わない感じ。いっそ清々しい、これぞ活動家という月並み感想

id:b0101 もう少し考えてから喋ってくれ

id:htb48 このバカどもは攻撃対象敵対者ありさえすればたとえ暴動の類だろうと称賛するんよな

id:toshiyam 玉川大って下手すりゃ偏差値35とかだけど、四年生24)ってまさか政治ゴッコで2留したんか、、、

id:terada_beta さすが朝日さん。この知恵の働かない青年を、何か若者の1つのあるべき姿であるかのように見せたいのか…? 自分たちが何を主張してきたか韓国で何が起こっているか、そこを理解できる脳みそゲットが先決。

id:toratsugumi こいつらの思い描く理想的政治とやらと百姓一揆区別が付かないんだが。

id:blackyamadataro 政治なんてどうでもいいので、まずは定職について奨学金を返してくれ。それだけで社会貢献だ。デカイこと言ってないで、地に足つけて生活したらどうだ。

id:beerbeerkun “「韓国では国民政治を動かした」。そう思うと、鳥肌が立った。”厨二病

id:dogear1988 結果などどうでもよく「政治を動かしたい」という欲求で動いてるんだな。ただの扇動家だ。支持されるわけがない。

id:YukeSkywalker 移住して、どうぞ。

id:technocutzero もう喋んなよマジで

2021-05-13

anond:20210512184924

四年生

あの偽サイトドメイン管理してた団体「Rights」の副代表理事(当時)が菅直人の息子の菅源太郎だった

ちなみのこの「Rights」だが、今年2月NPO法人認証を取り消されて解散に向けて清算

理由は「3年以上にわたる事業報告書等の未提出」だそうな

https://www.npo-homepage.go.jp/npoportal/detail/012002683

代表理事(高橋亮平)が書類の提出を延々すっぽかしていたらしい

もしこれがただのズボラじゃなかったとしたら色々と藪から蛇が出てきそうな感じではあるな

https://twitter.com/ryohey7654

http://blog.livedoor.jp/ryohey7654/

もう当人の中ではRightsは「なかったこと」になってるっぽい

2021-04-15

anond:20210414180525

そう。一年生と他の学年は授業時間全然うから今は一緒に帰れない。

うちの子学校場合、上に兄姉のいる子は、学校ボランティアの人に面倒を見てもらいつつ、兄姉の下校時間まで待てるんだけど。

の子時代土曜日まで授業があったので、六年生ですら六時間目まで授業のある日は週に一日あるかないかだったんだけど、今は全学年が五時間以上授業があり、四年生以降は週四日も六時間授業だ。

2021-04-11

学校タブレットの貸与のニュースを聞くが

何でノートパソコンじゃないの?コピペファイル管理ノートパソコンの方が楽じゃね?

小さい子には重いと思うから四年生からノートパソコンにすればいいのに

風野又三郎

宮沢賢治


   九月一日

 どっどどどどうど どどうど どどう、

 ああまいざくろも吹きとばせ

 すっぱいざくろもふきとばせ

 どっどどどどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな四角な学校がありました。

 学校といっても入口とあとはガラス窓の三つついた教室ひとつあるきりでほかには溜たまり教員室もなく運動場はテニスコートのくらいでした。

 先生はたった一人で、五つの級を教えるのでした。それはみんなでちょうど二十人になるのです。三年生はひとりもありません。

 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかに誰たれも来ていないのを見て

「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫さけびながら大悦おおよろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。がひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけはそのしんとした朝の教室なかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪かみの子供がひとり一番前の机にちゃんと座すわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり眼めをりんと張ってそっちの方をにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から

ちゃうはあぶどり、ちゃうはあぶどり」と高く叫ぶ声がしてそれからいなずまのように嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから太郎だの耕助だのどやどややってきました。

「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩かたをつかまえて云いいました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛おかしな子がすましてしゃんとすわっているのが目につきました。みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集って来ましたが誰も何とも云えませんでした。赤毛の子どもは一向こわがる風もなくやっぱりじっと座っています。すると六年生の一郎が来ました。一郎はまるで坑夫こうふのようにゆっくり大股おおまたにやってきて、みんなを見て「何なした」とききました。みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指しました。一郎はしばらくそっちを見ていましたがやがて鞄かばんをしっかりかかえてさっさと窓の下へ行きました。みんなもすっかり元気になってついて行きました。

「誰たれだ、時間にならなぃに教室はいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して云いました。

先生にうんと叱しからえるぞ。」窓の下の耕助が云いました。

「叱らえでもおら知らなぃよ。」嘉助が云いました。

「早ぐ出はって来、出はって来。」一郎が云いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなの方を見るばかりでやっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛こしかけに座っていました。

 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこな鼠ねずみいろのマントを着て水晶すいしょうかガラスか、とにかくきれいなすきとおった沓くつをはいていました。それに顔と云ったら、まるで熟した苹果りんごのよう殊ことに眼はまん円でまっくろなのでした。一向語ことばが通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

外国人だな。」「学校さ入るのだな。」みんなはがやがやがやがや云いました。ところが五年生の嘉助がいきなり

「ああ、三年生さ入るのだ。」と叫びましたので

「ああ、そうだ。」と小さいこどもらは思いましたが一郎はだまってくびをまげました。

 変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけきちんと腰掛けています。ところがおかしいことは、先生がいつものキラキラ光る呼子笛ぶえを持っていきなり出入口から出て来られたのです。そしてわらって

「みなさんお早う。どなたも元気ですね。」と云いながら笛を口にあててピル※(小書き片仮名ル、1-6-92)と吹ふきました。そこでみんなはきちんと運動場に整列しました。

「気を付けっ」

 みんな気を付けをしました。けれども誰の眼もみんな教室の中の変な子に向いていました。先生も何があるのかと思ったらしく、ちょっとしろを振ふり向いて見ましたが、なあになんでもないという風でまたこっちを向いて

「右ぃおいっ」と号令をかけました。ところがおかし子どもはやっぱりちゃんとこしかけたままきろきろこっちを見ています。みんなはそれから番号をかけて右向けをして順に入口からはいりましたが、その間中も変な子供は少し額に皺しわを寄せて〔以下原稿数枚なし〕

と一郎が一番うしろからまりさわぐものを一人ずつ叱りました。みんなはしんとなりました。

「みなさん休み面白おもしろかったね。朝から水泳ぎもできたし林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだりまた兄さんの草刈くさかりについて行ったりした。それはほんとうにいいことです。けれどもも休みは終りました。これからは秋です。むかしから秋は一番勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんも今日から又またしっかり勉強しましょう。みなさんは休み中でいちばん面白かったことは何ですか。」

先生。」と四年生の悦治が手をあげました。

はい。」

先生さっきたの人あ何だったべす。」

 先生はしばらくおかしな顔をして

「さっきの人……」

「さっきたの髪の赤いわらすだんす。」みんなもどっと叫びました。

先生髪のまっ赤なおかしなやづだったんす。」

マント着てたで。」

「笛鳴らなぃに教室はいってたぞ。」

 先生は困って

「一人ずつ云うのです。髪の赤い人がここに居たのですか。」

「そうです、先生。」〔以下原稿数枚なし〕

の山にのぼってよくそこらを見ておいでなさい。それからあしたは道具をもってくるのです。それではここまで。」と先生は云いました。みんなもうあの山の上ばかり見ていたのです。

「気を付けっ。」一郎が叫びました。「礼っ。」みんなおじぎをするや否いなやまるで風のように教室を出ました。それからがやがやその草山へ走ったのです。女の子たちもこっそりついて行きました。けれどもみんなは山にのぼるとがっかりしてしまいました。みんながやっとその栗くりの木の下まで行ったときはその変な子はもう見えませんでした。そこには十本ばかりのたけにぐさが先生の云ったとおり風にひるがえっているだけだったのです。けれども小さい方のこどもらはもうあんまりその変な子のことばかり考えていたもんですからうそろそろ厭あきていました。

 そしてみんなはわかれてうちへ帰りましたが一郎や嘉助は仲々それを忘れてしまうことはできませんでした。

   九月二日

 次の日もよく晴れて谷川の波はちらちらひかり

私は公務員だったのに

 4月に転職をして一週間以上経過した。新しい職場ガラスの卸をやっている中小企業で、私は制服を着て、営業事務として見積書を作ったり請求書を作ったりしている。雇用形態契約社員で、この会社営業事務契約社員しかいない。会社の中ではパートさんと呼ばれている。とはいえ私はフルタイムで働いているので、何でパートさんと呼ばれているかは謎である

 私は大学卒業してからこの3月まで、区役所に勤めていた。だいたい10年間働いた。その話をすると、聞いた人はみんな「どうして辞めちゃったの?公務員の方が安定していたのに」という。私もそう思っていた。ただ、私は非常勤職員嘱託職員最後会計年度任用職員と呼ばれていた、つまり非正規雇用公務員だった。

 大学四年生の時に、内定がなかった。就職浪人するだけの余裕がなく、かといってフリーターになるのも嫌だった。そんな折、叔父がそこで働いていた関係で、非常勤職員の働き口を紹介してもらった。期間は一年だけど、みんな延長を繰り返していて、実質的には公務員から、と叔父は言っていた。私は履歴書を書いて、形ばかりの面接を受けて働き始めた。

 私の職種事務補助員だったので、コピーを取ったり簡単な打ち込みをしたり、来客にお茶を出したりするような仕事だった。給料は良いとは言えなかったが、実家だったのでなんとかやりくりしていた。同じ職場更新を二回した後、その職場事務補助員を廃止したので、私は別の部署を紹介され、そこの嘱託職員になった。仕事はだいたい同じで、若干の接客が発生した。

 令和元年度から法律が変わって、私は会計年度任用職員になった。うちの区役所では、基本的事務補助の非常勤職員嘱託職員も全員会計年度任用職員に移行した。筆記試験面接を受けた。面接の時に、筆記の成績が悪いか勉強しないと来年は危ういよ、と面接官に言われた。そこで初めて会計年度任用職員は毎年試験を受ける必要があるのを知った。

 会計年度任用職員になってからも、同じ部署所属していた。課長は、「できればきちんと試験を受けて正規職員になれるよう努力して欲しい」と言っていたが、専門学校にいくだけの余裕はなかったし、独学できるほどの頭もなかった。転職も考えたが、スキルがなかった。とはいえ試験さえ受ければ会計年度任用職員でもずっと役所にいられると思っていたから、この時はそれも無視していた。

 二回目の試験普通に受かったので、令和二年度も同じ場所で働いた。去年の秋の試験では、面接から「できれば一つの職場にとどまらず、正規職員と同じように職場をローテーションしてほしい」と言われたが、同じ職場で働いて6年も経っていたのでピンとこなかった。だから、ローテーションは絶対に嫌というわけでではないが、同じところの方がいい、というようなことを答えたた。

 結果的に、私は今年は採用されなかった。コロナの影響で受験者が多かった、と言うふうに説明されたが、筆記が悪かったのか、面接が良くなかったのかは不明である。聞いた時は目の前が真っ暗になった。一応は名簿搭載されているので空きが一年以内に出ればまた採用してもらえたらしいが、私の職場にはもう別の会計年度任用職員がいるし、何をやらされるか、いつから働けるかも分からない。そう思うと転職する他なかった。

 転職エージェント登録をして、今の会社を紹介してもらった。派遣期間は2年で、給料は今までと変わらない。会計年度任用職員になってからボーナスも出ていたのに、今の会社ボーナスが出ないのでげんなりしている。一緒に働いているパートのおばさんからは、「公務員は辞めちゃダメだって」としたり顔で言われるが、おばさんは終身雇用でない公務員がいることを知らない。

 非常勤職員嘱託職員時代はともかくとして、会計年度任用職員制度上は公務員だった。服務の宣誓もした。官制ワーキングプアをなくすため、なんて試験の時に会計年度任用職員の成り立ちを教わったが、私は賃金もずっと低く貯金もできないワーキングプアだったし、その挙句簡単に切られてしまった。勉強をして正規公務員にならないのが悪いと言われたらそれまでだが、そこまでの頭がなかったから仕方ない。でも、やっぱり私は区役所でまだ働いていたかった。友達も知り合いも多かったし、仕事内容も気に入っていたのに。ボーナスだってやっともらえるようになったのに。会計年度任用職員だって、きちんと公務員だったのに。

 誰かに公務員を辞めるのはもったいないよ」と言われるたびに、本当は「私だって辞めたくなかったよ!」と言い返したくてたまらない。だけど、そうすると色々説明しなければいけないことがありすぎるから、私はただ曖昧に笑うだけだ。

2021-03-23

生理貧困女児だった過去

ちょっとだけ追記

私の家庭は父親と兄と私の三人家庭だった。母親は私を産んで四年後に事故で亡くなった。父方の親戚縁者との関わり合いもあまりなく、父親収入は人並みにあったので金銭面は問題なかった。

小学校五年生の時に学校トイレで股から血が出ているのに気付いた。初潮だった。四年生の時に月経について学んでいた私は保健室に行った。養護教諭先生は私に昼用数枚と夜用を一枚くれた。

初潮だったからかその月は最初にもらった昼用一枚だけで済み、次の月も一枚で済んだ。汚したパンツ風呂で手洗いして洗濯機に放り込んだ。

数カ月を一枚ずつで済ませたが、経血の量も増え、夜用も使ってしまった。だがどうしても父に言えなかった。

スーパーでの買い物は父の役目だったし、小学生の小遣いで買うにはナプキンはなかなかの値段だった。

百均で買った数枚入りのナプキンを、朝学校に行き夜の風呂の前に付け、風呂の後に付け、また朝取り替え、一日二枚で過ごした。夕方にはだぶだぶになっていて際まで真っ赤だった。もう吸収できないと思ったらトイレットペーパーを上に敷いて挟んでいた。もしかしたら臭いもしていたかもしれない。ゴミ学校に持って行って捨てていた。

夜に昼用を使っていたので何度か下着パジャマを汚し、股の間にきつく挟んでトイレットペーパーをパジャマの中の尻の周りに詰めて寝た。朝になるとトイレットペーパーには血がついてパリパリと硬くなっていた。

中学校に上がるまでそういう形でしのいでいたが、中学入学前に出会ったある女性が気にかけてくれて、父に生理必要ものを買うよう説明してくれた。

父はその場でその女性に一万円を渡し、私は女性と一緒に近所のドラッグストアナプキンを買いに行った。サニタリーショーツというものを知ったのもその時だった。

父にはほぼ知識がなかったようで、男の自分しかいなかったので知らなかった、申し訳ないと女性に話していた。

パリパリの尻の感触記憶などについては何となく誰にも何も言えないまま、私は成長して、先日結婚した。

私が女の子を産んだ後にもしも先立ってしまったら、夫は娘の生理周りまで気にかけて育ててあげられるだろうか。現段階の夫では難しいと思う。いつかそうなっても大丈夫なように、ある程度は教えておかないといけなさそうだ。

2021-03-22

又三郎

風の又三郎

宮沢賢治


どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。

 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。

 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室なかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。

 もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から

「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。

「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛おかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。

 みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。

 赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、

「何なにした。」とききました。

 みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。

 みんなもすっかり元気になってついて行きました。

「だれだ、時間にならないに教室はいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。

「お天気のいい時教室はいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。

しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。

「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。

 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。

 それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

あいづは外国人だな。」

学校はいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、

「ああ三年生さはいるのだ。」と叫びましたので、

「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。

 変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています

 そのとき風がどうと吹いて来て教室ガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。

 すると嘉助がすぐ叫びました。

「ああわかった。あいつは風の又三郎またさぶろうだぞ。」

 そうだっとみんなもおもったときにわかにうしろのほうで五郎が、

「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。

 みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、

「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。

 五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。

「わあい、けんかするなったら、先生ちゃん職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。

 たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。

 風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。

「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。

 みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。

「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」

二百十日で来たのだな。」

「靴くつはいでだたぞ。」

「服も着でだたぞ。」

「髪赤くておかしやづだったな。」

「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。

「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」

「そだないでああいづあ休み前に嘉助石ぶっつけだのだな。」

「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。

 みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、

先生お早うございます。」と言っただけでした。

「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。

 すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。

 二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。

 するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。

 みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。

 先生はまた玄関の前に戻って、

「前へならえ。」と号令をかけました。

 みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子ちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。

「直れ。」先生がまた号令をかけました。

一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手下駄箱げたばこのある入り口はいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。

 まもなくみんなははきもの下駄箱げたばこに入れて教室はいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。

「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」

「わあ、おらの机代わってるぞ。」

「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」

「わあい、さの、木ペン借せ、木ペン借せったら。」

「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」

 そのとき先生はいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんしろで、

「礼。」と言いました。

 みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。

「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。

「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんしろからまりさわぐものを一人ずつしかりました。

 みんなはしんとなりました。

 先生が言いました。

「みなさん、長い夏のお休みおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校勉強ときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」

 すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、

「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。

 ところが嘉助がすぐ、

先生。」といってまた手をあげました。

はい。」先生は嘉助を指さしました。

高田さん名はなんて言うべな。」

高田三郎さぶろうさんです。」

「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。

 先生はまた言いました。

「きょうはみなさんは通信簿宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」

 みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿宿題を机の上に出しました。そして先生一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。

 ところが先生別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。

「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しまから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたかちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」

 一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろ大人おとなも扇を下にさげて立ちました。

「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろ大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。

 すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。

「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。

「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。

「何ぶんどうかよろしくねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。

 運動場を出るときの子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。

先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。

「そうです。」

「なんの用で来たべ。」

「上の野原の入り口モリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」

「どこらあだりだべな。」

「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」

モリブデン何にするべな。」

「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」

「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。

又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」佐太郎が言いました。

又三郎又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。

「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。

「わあい。やんたぢゃ。きょう四年生ど六年生だな。」

 嘉助は大急ぎで教室をはねだして逃げてしまいました。

 風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。

 次の日一郎はあのおかし子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がして、いつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは一郎よりもっとそう考えていたと見えて、とうにごはんもたべ、ふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを話しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集まっていて、棒かくしをしていましたが、その子はまだ来ていませんでした。またきのうのように教室の中にいるのかと思って中をのぞいて見ましたが、教室の中はしいんとしてだれもいず、黒板の上にはきのう掃除ときぞうきんでふいた跡がかわいてぼんやり白い縞しまになっていました。

「きのうのやつまだ来てないな。」一郎が言いました。

「うん。」嘉助も言ってそこらを見まわしました。

 一郎はそこで鉄棒の下へ行って、じゃみ上がりというやり方で、無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くと、そこへ腰掛けてきのう三郎の行ったほうをじっと見おろして待っていました。谷川はそっちのほうへきらきら光ってながれて行き、その下の山の上のほうでは風も吹いているらしく、ときどき萱かやが白く波立っていました。

 嘉助もやっぱりその柱の下でじっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに長く待つこともありませんでした。それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの鞄かばんを右手にかかえて走るようにして出て来たのです。

「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、

お早う。」とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。

 それは返事をしないのではなくて、みんなは先生はいつでも「お早うございます。」というように習っていたのですが、お互いに「お早う。」なんて言ったことがなかったのに三郎にそう言われても、一郎や嘉助はあんまりにわかで、また勢いがいいのでとうとう臆おくしてしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりに、もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。

 ところが三郎のほうはべつだんそれを苦にするふうもなく、二三歩また前へ進むとじっと立って、そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきょろきょろ三郎のほうはみていても、やはり忙しそうに棒かくしをしたり三郎のほうへ行くものがありませんでした。三郎はちょっと具合が悪いようにそこにつっ立っていましたが、また運動場をもう一度見まわしました。

 それからぜんたいこの運動場は何間なんげんあるかというように、正門から玄関まで大またに歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねおりて嘉助とならんで、息をこらしてそれを見ていました。

 そのうち三郎は向こうの玄関の前まで行ってしまうと、こっちへ向いてしばらく暗算をするように少し首をまげて立っていました。

 みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向こう側の土手のほうへ職員室の前を通って歩きだしました。

 その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵ちりがあがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風になって、黄いろな塵は瓶びんをさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。

 すると嘉助が突然高く言いました。

「そうだ。やっぱりあい又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」

「うん。」一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。三郎はそんなことにはかまわず土手のほうへやはりすたすた歩いて行きます

 そのとき先生がいつものように呼び子をもって玄関を出て来たのです。

お早うございます。」小さな子どもらはみんな集まりました。

お早う。」先生はちらっと運動場を見まわしてから、「ではならんで。」と言いながらビルルッと笛を吹きました。

 みんなは集まってきてきのうのとおりきちんとならびました。三郎もきのう言われた所へちゃんと立っています

 先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけて、とうとうみんなは昇降口から教室はいりました。そして礼がすむと先生は、

「ではみなさんきょうから勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生(と二年生)の人はお習字のお手本と硯すずりと紙を出して、二年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して、五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」

 さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎が、いきなり手をのばして二年生のかよの鉛筆ひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは、

「うわあ、兄あいな、木ペン取とてわかんないな。」と言いながら取り返そうとしますと佐太郎が、

「わあ、こいつおれのだなあ。」と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとはシナ人がおじぎするときのように両手を袖そでへ入れて、机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、

「兄あいな、兄なの木ペンはきのう小屋でなくしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながら一生けん命とり返そうとしましたが、どうしてももう佐太郎は机にくっついた大きな蟹かに化石みたいになっているので、とうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。

 すると三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたが、かよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると、だまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の目の前の机に置きました。

 すると佐太郎はにわかに元気になって、むっくり起き上がりました。そして、

「くれる?」と三郎にききました。三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように、「うん。」と言いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。

 先生は向こうで一年の子の硯すずりに水をついでやったりしていましたし、嘉助は三郎の前ですから知りませんでしたが、一郎はこれをいちばんしろちゃんと見ていました。そしてまるでなんと言ったらいいかからない、変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。

「では二年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に25-12=の数式と書きました。二年生のこどもらはみんな一生

風の

どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。

 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。

 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室なかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。

 もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から

「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。

「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛おかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。

 みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。

 赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、

「何なにした。」とききました。

 みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。

 みんなもすっかり元気になってついて行きました。

「だれだ、時間にならないに教室はいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。

「お天気のいい時教室はいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。

しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。

「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。

 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。

 それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

あいづは外国人だな。」

学校はいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、

「ああ三年生さはいるのだ。」と叫びましたので、

「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。

 変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています

 そのとき風がどうと吹いて来て教室ガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。

 すると嘉助がすぐ叫びました。

「ああわかった。あいつは風の又三郎またさぶろうだぞ。」

 そうだっとみんなもおもったときにわかにうしろのほうで五郎が、

「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。

 みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、

「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。

 五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。

「わあい、けんかするなったら、先生ちゃん職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。

 たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。

 風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。

「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。

 みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。

「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」

二百十日で来たのだな。」

「靴くつはいでだたぞ。」

「服も着でだたぞ。」

「髪赤くておかしやづだったな。」

「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。

「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」

「そだないでああいづあ休み前に嘉助石ぶっつけだのだな。」

「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。

 みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、

先生お早うございます。」と言っただけでした。

「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。

 すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。

 二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。

 するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。

 みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。

 先生はまた玄関の前に戻って、

「前へならえ。」と号令をかけました。

 みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子ちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。

「直れ。」先生がまた号令をかけました。

一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手下駄箱げたばこのある入り口はいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。

 まもなくみんなははきもの下駄箱げたばこに入れて教室はいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。

「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」

「わあ、おらの机代わってるぞ。」

「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」

「わあい、さの、木ペン借せ、木ペン借せったら。」

「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」

 そのとき先生はいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんしろで、

「礼。」と言いました。

 みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。

「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。

「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんしろからまりさわぐものを一人ずつしかりました。

 みんなはしんとなりました。

 先生が言いました。

「みなさん、長い夏のお休みおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校勉強ときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」

 すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、

「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。

 ところが嘉助がすぐ、

先生。」といってまた手をあげました。

はい。」先生は嘉助を指さしました。

高田さん名はなんて言うべな。」

高田三郎さぶろうさんです。」

「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。

 先生はまた言いました。

「きょうはみなさんは通信簿宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」

 みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿宿題を机の上に出しました。そして先生一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。

 ところが先生別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。

「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しまから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたかちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」

 一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろ大人おとなも扇を下にさげて立ちました。

「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろ大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。

 すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。

「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。

「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。

「何ぶんどうかよろしくねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。

 運動場を出るときの子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。

先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。

「そうです。」

「なんの用で来たべ。」

「上の野原の入り口モリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」

「どこらあだりだべな。」

「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」

モリブデン何にするべな。」

「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」

「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。

又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」佐太郎が言いました。

又三郎又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。

「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。

「わあい。やんたぢゃ。きょう四年生ど六年生だな。」

 嘉助は大急ぎで教室をはねだして逃げてしまいました。

 風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。

2021-03-18

学生の2年間≒助教の2週間は良いレート

私のタイムライン限定かもしれないが以下のポストがバズっていた

旧帝大助教普段何をしているのか

https://anond.hatelabo.jp/20210228234557

私も数年前まで旧帝大工学部助教をしていたので楽しく読んでいたが

そこにあった一言

>私がやれば 2 週間で片付くような作業に 2 年くらい費やす学生が大半だ

に「そんなわけあるか」というような反論をしばしば見たのだが

そんなわけあったほうがいいんだよ

学生が2年かかる作業助教が1年かかるなら

助教の6年~十数年の研究経験があまり役に立たない単純作業だろう

毎朝実験動物に餌をやるとか大腸菌培養して半日待機するとかそういう肉体労働

そういうあまり知的でない活動学生時代を空費するのはよろしくない

理論系の研究室になると学生は2年かけて助教がすでに知っていることを理解する

学生が2年かかる作業助教にとっては0秒だ

ずっと既知の事実をなぞっていたわけだから

修士論文学術的にほぼ無価値ものになるだろうし

学生研究体験させるという意味では問題がある

助教が2週間で終わる内容を学生に2年掛けてやらせ

というのはなかなか良い難易度設定だと思う

修士も二年目になればもう少し効率が良くなって

学部四年生修士二年生の3年間で助教の1ヶ月分に相当するイメージだろうか

平均的な学生に少し高めのハードルを設定するとだいたいこれくらいになる

私の研究分野なら難しくない国際会議で1回発表して

修士論文微妙レベル論文誌に載るくらいだろう

2021-02-21

コラボ転用コールセンターで働いてた話

【前提】

大学四年生の後期で時間に余裕があった。

・今まで土日だけで時給1500円のバイトをしていたので、平日だけのを探していた。

【発端】

・時給1400円に釣られた。

・髪色自由

・土日入らなくてもいい。

・9時5時で終わる。

コールセンターの受電じゃなくて掛ける側だったのも心理的負荷が軽そうだった(受電だとクレーム対応させられそうだし)。

違和感

面接で「docomoNTTの身内がいる?」みたいな質問をされたのが今では印象に残ってる。

【入ってみて】

最初マニュアルを渡された。マニュアルの内容としては「Aで切り出して、Bと返されたらA+、Cと返されたらA-」みたいなのがずらっと書いてあった。

電話の内容】

予約の確認という求人だったのに、実際は光コラボセールスマンを家に訪問させるためのアポ取りだった。どこで入手されたかからない電話番号を押してひたすら掛けまくる。昨日は京都今日大阪みたいに日ごとに各担当地域が分けられていた。

また月に一回会社名と掛けている電話番号が変わるのもちょっと怖かった。

今日から○○○という社名で掛けてください。絶対間違えないように」って言われた。

階級

4クラスに分けられていて、初心者→初級→中級→上級と上がって行く。初心者から初級に上がるには何十時間電話をかけ続けたら自動で上がる。そして初級から中級、中級から上級は一日に何件アポを取ったかで決まってくる。

また朝礼、昼礼、夕礼があり、その際に上級になれば何も言われないけど初級は当然取れるアポ数が少ないのでめちゃくちゃ怒られる。

自分は全くアポが取れずに初級にいたので毎回その時間が嫌いだった。

【辞めた理由

一件アポが取れたら分かる様に物を置くシステムで、一日で一件もアポを取れなかったらすごく気まずかった。

また初級から上に上がることが出来なくなっており(アポが取れない)シフトを出しても全く入れてもらえない状態だった。

そして何より詐欺まがいの事をしていると二ヶ月間行ってようやく気がついたので、バイトに行くことが苦痛で仕方がなかった。

なので規則シフトを出してはいたが、入りませんように!とずっと祈っていた。

自分が掛けている電話番号をググる迷惑電話一覧と共にクレームがめちゃくちゃ出てきて普通にへこんだ。

対処法】

自分のところでは「代表者お願いします」とずっと言って代表者を出させてアポ取りという流れだったが、ちゃんサラリーマンを始めて代表者電話を回すなんてほぼ無理と言うことを理解した。

この電話が来たらガチャ切りして大丈夫です。多分相手も行けると思って掛けてません。

代表者すら出さなければ次のフェーズに行けないので断るかガチャ切りでいいです。

【今思うこと】

バイト選びはちゃんとしようね。

それと丁寧に扱ってくれないバイト先はすぐに辞めていいと思います

以上、読んでくれてありがとうございました。

2021-01-30

心室中隔欠損症をもって生まれた。

 心室中隔欠損症とは、文字通り心臓の右心室と左心室を隔てる壁の一部が欠損している、先天性の心臓病だ。手術さえ成功すれば予後は良いらしい。

 私の場合心室中隔欠損症合併症らしき肺高血圧症も患い、あとなんか動脈に異常があって手術したっぽいけど忘れた。心室中隔欠損症という病名がインパクトでかすぎるのが悪いな。

誕生から乳児

幼児期

幼稚園時代

  • ずっと自覚がなかったが、私は走り回るわりには絶望的に走るのが苦手だということに、幼稚園入園して初めて気づく。走るとすぐに息が切れ、疲れてしまうのだ。
  • 身体が大きくなっていくにつれ、身体の重さと心臓のパワーのバランスが崩れていった気がする。
  • どんどん、運動が苦手になっていった。とにかく走れない。入園したての頃には楽々こなしていた、タイヤの馬跳び跳び箱ができなくなっていく。
  • 幼稚園健康診断の時、お遊戯室に肌着パンツ姿で集合するのだけれど、階段を上がる時に列の前後女の子達が、「それなあに?」と無邪気に胸の傷痕をベタベタさわろうとしてくるのが嫌だった。指で傷を上から下までツーッとなぞるのが、気持ち悪い。
  • 私が「心臓病の手術のあとだよ」というと、女の子達が一斉にサッと引いて、「気持ち悪い!うつるの?」と聞いてきた。それがショックで、聞いてきた女の子ジュンコちゃん嫌悪感丸出しの表情が、今でも忘れられない。
  • 私はジュンコちゃん達に「先天性の病気は生まれつきだからうつらないんだよ」と説明したが、誰も「先天性の病気」という言葉を知らないし、いくら説明しても理解してくれないことがまたショックだった。
  • 私自身は、今も昔も自分の胸の傷痕をとくに気にしてはいない。私にはなくてはならないものと感じている。子供の頃は、弟にも四つ下の妹にも胸の傷がなく、ツルツルの肌をしていることが不思議に思えた。
  • 幼稚園では気持ち悪いと言われ、一瞬バイ菌扱いされたが、先生が物凄く怒ってバイ菌呼ばわりしてきた子達を叱ったので、すぐにバイ菌は言われなくなった。
  • 幼稚園バイ菌呼ばわりされたことを私は家で言ったのかなんなのか、父がいきなり、「その胸の傷はお父さんお母さんじいちゃんばあちゃん勲章からな。お前が今生きていられる証なんだから誇りを持ちなさい」とか言い出した。私はそもそも傷痕自体にくよくよすることはないのだが、家族から大事にされている印と見ればそう無下には出来ないもの的なことを思った。
  • 幼稚園担任先生は、私の病気理解があるところとないところがあった。私が病気のことでバイ菌扱いされるのを先生は許さなかった。一方で、普段普通に走り回っている(すぐに疲れて立ち止まるけど)私を運動会のリレーから外した。私は走れる子達から「ずるい!」と詰られるのが嫌だった。
  • 仮面ライダーブラック』かなんかで、余命の短そうな心臓病の女の子?が登場する回があった。なんか凄く悲劇的な話だが、それに引きかえ私はこんなに楽天的に生きていていいのか?的な疑問が湧いた。ちなみに、仮面ライダーの話だし、心臓の子は手術に堪えて命が助かったエンドだった……はず。
  • 私も仮面ライダーに元気づけられてみてぇとも、たぶん思った。
  • 6歳の頃、身長クラスで二番目くらいに大きくて、たぶん既に120cmあった。足のサイズが19cmもあった。19cmの、プラスチックで出来たトゥシューズっぽい靴を履いた私の足を「すらりとして羨ましい」と母が言ったので、足のサイズを覚えてしまったのだ。
  • 幼稚園の頃は、定期健診の日の朝イチに母が病院に診察券を出しに行き、その間私は病院に近い母の友人宅か祖母の友人宅に預けられて、その家の子達や近所の子達に混じって集団で遊んでいた。
  • その集団の中に、凄く薄幸そうな美少女がいた。その女の子は口蓋裂かなんかの病気だったようで、唇が『鬼滅の刃』の伊黒小芭内みたいになっていた。その女の子は私の胸の傷痕を観て、「私達、同じ仲間だね」って言った。たった一日限りの関わりなのに凄く仲良くなった。

小学生時代

 幼稚園で同じクラスだったガキ大将と共に、就学前健診で引っ掛かり、以来、健診のたびに皆とは別に二人で心電図を受けることになった。低学年の頃は男女一緒の場所で受けさせられたので、タコ吸盤と巨大洗濯ばさみに拘束されている間、退屈しのぎに見詰め合ってへらへら笑ったりなどした。

2020-12-16

anond:20201216215221

内定式を済ませた大学四年生が「後は卒業論文を完成させて残り少ない大学生活を満喫しよう」と思っていたら、突然内定を取り消されて阿鼻叫喚卒業までの間に就職活動をやり直して無名中小企業に応募をするか、来年度に向けて卒業後に就職活動をするかの地獄の二択を強要される。

そして、憐れんだ大学留年を認める制度を導入することになった。

2020-12-15

おもらし好きという特殊性

あれは忘れもしない。5歳の頃に幼稚園ピアニカの発表会の練習をしていた時の事。

クソ寒い体育館?みたいなとこで練習してたんだけど、当時から陰キャ爆発してた俺はおしっこを漏らした。泣いた。周囲に気付いた人はあんまりいなかった。

この経験人生初の壮絶な羞恥であり、今の俺の性癖の土台となった。

 

これも忘れはしない、広島の己〇小学校四年生とき帰りの会リコーダーで「パフ」という曲を全員で練習するのが当時の常だった。

俺は全力で演奏していたが、演奏中に隣の女子がリコーダーを置いて教卓の前に歩いていき、一人静かに出て行ったのを横目で見た。

全力の演奏が終わり、あとは挨拶して帰るだけ、なのに隣の女子は帰ってこないし先生も「待ってろ」と言い残して消えた。

ふと横を見ると水溜まりが広がっており、俺の机の足にもばっちり届いていた。おもらしだ。あの隣の内気な女の子が、おもらしをしたんだ。

もう9歳か10歳にもなるというのに、おもらしをした。それまでその子に興味を持ったことは一度も無かったのに、それからはその子の事を考えるだけで胸がはち切れんばかりだった。

5歳の頃でさえ、俺は死ぬほど恥ずかしく、泣きじゃくり、消えてしまいたいと絶望感が身を襲っていたのだから、倍の年齢である10歳でのおもらし、しか教室中に知れ渡っている。

の子羞恥心と絶望感は筆舌に尽くし難いことを俺は知った。そして、酷く興奮した。

の子は翌日普通の顔して登校した。いじめも起きず不登校もなく、みんな優しかった。俺はひとり「女の子はなんて強いんだろう」と感動し、また興奮した。

 

そして俺は今26歳になり、女の子教室体育館でおもらしする同人誌を買い漁っては抜いている。

放尿ではなく、着衣失禁で無いとダメだ。できれば人前が良い。大は範囲外。

漏らすまでずっと心の中の葛藤(「トイレ行きたい、でも手を上げたらみんなに『おしっこ我慢してるんだ』ってバレるし恥ずかしい」「あと〇分なら我慢できる…」)があるとなおよい。

 

そして葛藤とは裏腹にドンドンもじもじが強くなり、手はスカートの上から押さえてないともう漏れ出しそうな状況で、とにかく我慢するしかなくて、「おしっこしたい、おしっこしたい、おしっこしたい」以外の感情がなくなり、ふとした瞬間、押さえた手の隙間からおしっこ漏れ出し、何とか我慢するも止まらず、止められず、無力に自分意志とは裏腹におしっこが溢れ出し、暖かさと微かなアンモニア臭が鼻孔をくすぐりながら、「もう〇歳なのに…」と不甲斐なさに絶望して泣きじゃくり、みんなに「漏らしてる…」と気付かれる終わり方。そういうので抜いている。

 

てか書いてて自分文章で興奮して抜いてしまった。 

の子には申し訳ないけど、俺の性癖開拓してくれて感謝している。

2020-11-20

anond:20201120122515

保育園を利用しなかった(できなかった)家庭は学童必要ないと見なされて優先順位落とされるのが、私の住む地方普通なんだけれども。

うちの地方学童はまず一年生が最優先で、優先順位判定に親の就労時間が加わるのは四年生以降なので

保育園卒の正社員フルタイム共働き家庭の二年生より、幼稚園卒の母親が週3で15時帰宅パート一年生の方が優先されるよ。

幼稚園でも延長保育あるからパートくらいならやってる人が多いし。

増田みたいな地域だと、富めるもの正社員共働き出来る者がますます富んで、

それが出来なかった貧困家庭ますます困窮、ってなるよね。

保育園はそういうシステムが出来上がってしまっているけど、学童は後からシステムが出来たからそうならないようにしたんだろうと思う。

2020-11-14

就活が辛い

毎日のように就活を辛い辛いと言っているが、よくよく思ったらなんで辛いのかよくわからないので言語化してみることに。

著者ステータス

以下つらみポイント

就活が始まるのが早すぎる

就活大学四年生の3~4月くらいから始めるものだと思っていたが、どうやらwebエンジニア志望だともう動かなければいけないらしい。ということを私は2週間前くらいに知った。

急いで就活サイト登録し、アドバイザーの人にカウンセリングをしてもらったが今から準備をするのは遅い方だと言われてしまった。

特にweb系だとポートフォリオ必須らしく、急いでポートフォリオ作成しているのだが後述するようにこれもつらみポイント

web系に就職するなんて考えてすらいなかったので、ちゃん勉強してなかったのも後悔している。特にセキュリティネットワークに関してはちゃん勉強しておけばよかったと後悔・・・

大学講義が難しすぎる

上でも述べたが私は自分の専攻に全く興味がない。じゃあなんで受験したんだと言われると「東京で二番目に偏差値の高い大学で二番目に入りやす学部だったから」以上の理由はない。カスである

大学3年生となれば講義もより専門分野に踏み込んでくる。幸いというと不謹慎まりないが、コロナ禍で講義オンラインになったことにより録画を見返せること、評価期末テストから期末レポートへ変更する講義が多いことにより平常時よりは楽だが、それでも普通に興味がなく、さらにそこそこ難しい分野を勉強しなければいけないのは辛い。

特に実験はまじで辛い。わたしポンコツすぎるせいでペアの人にも迷惑をかけてしまうし、合成はめっっっっっっっちゃ時間かかるし、録画して見返せないし・・・

インターンが忙しい

そこそこのweb企業フロント/バックエンドエンジニアとしてインターンをしているのだが、それを週三も入れてしまっているのである。アホ。

私はマルチタスクが得意な方ではないのだが、まともな企業インターンをしておかないと就活で苦労しそうだなと思いたまたま見つけた企業インターンに申し込んだ。それが間違いかどうかはまだわからないが、少なくとも8h/dayを週三は馬鹿すぎる!授業は聞かない前提で後で録画を見直さなきゃいけないし・・・

あと強強webエンジニアでもないのに初っ端から特に構成説明もなく開発に参加しなければいけないのは辛かった。今はなんとかやってるけど一ヶ月前とかひたすらコード読んでたわ!Reactとか触ったことなかったのに!

こんな状況でポートフォリオ作成とか無理!!!!!

上記ポートフォリオを作らなければいけないと知ったのが先週だが、こんな忙しい状況でポートフォリオとか無理!しか自分はあまりフロントエンドを触ってこなかったので、かなり辛いところであるtsを前の企業で触っていたのは不幸中の幸いだったが・・・

でも知らないことを学ぶのは楽しくて、特にフロントエンドは自分にとって新しいことばかりなのでポートフォリオ作成は今一番楽しい現実逃避しているだけかもしれない)

周りに就活している人間がいない!

私の大学学部生の90%以上が院進学するやばい大学なので、必然的学部四年で就職する人間は少なくなる。そのせいで友達有益なこと、辛いことを共有したり、傷をなめ合ったりすることができない。

今までレポート課題など辛いことはあったが、それは友達もみんな辛いので一緒に教え合いながら(一方的に教わっていたかもしれない・・・)乗り越えてきたが、就活はそういう相手がいないので本当に辛い。

相談できる相手が親と就活カウンセラーしかいないのはめっちゃ精神的に辛いです

最後

どこか私を雇ってくれ!!!webアプリ開発なら新卒という枠組みの中で中の上くらいできると思うし、モバイルも少しかじってますよ!

2020-10-21

中流家庭で育ったけど、自分貧困層になりそうで嫌だ。

都内の親元暮らし国立美大大学四年生。一応目標は院進してドクターになる事(その先はしらん

けどドクターになってどうすんだ??美術系なんて全く食えない。特に自分ファイン系だからなおさら。非常に困った。

困ったけど何故か焦りは無い。なんでだろ。

うちの大学の8割は就職しないからかな?不思議となんとかなる気がする。

弟は地方国立大。兄弟そろって国立親孝行ですわ。(なお自分も弟も一浪

なので家計も逼迫してないと信じたい。かじれるスネがあると信じたい。

一応中流家庭だったか旅行はよく行ってたし、外食もよく行く。学校でもまわりは中流以上だから気軽に友達飛行機とって海外行ったりした。

車も一応外車で、保険も出してくれるからよくドライブ行ってる。

この生活が今後できるのか、、?

ある程度の贅沢を知ってしまった身として貧困は耐えられない。

車は安いのは無理。

気軽にグリーン車乗りたい。

海外旅行は最低2年に一回行きたい。

鰻は月1じゃないと、、。

けど働きたくない。どうしよ。

一応貯金は250万あるから積立nisaを始めて気を紛らわし、宅建勉強をして親のアパート経営を引き継ぐ方針で生きていきます。なんとかなるやろ。

取り敢えず、院試勉強しますね。

2020-10-14

深夜の記憶日記1014

 深夜二時三十四分、薄暗い自室で卓上の電灯を薄く点けてパソコンを立ち上げ、これからこのこの文章を書こうと考えました。

 専門店でも専門サイトでもない、ごく一般的通販サイトで安いからという理由で買ったソレは、正面に置かれた液晶画面にデスクトップ上のアイコンを映し出します。

 詳しくはよく知らないですが、電源を立ち上げてすぐは色々なプログラムだかソフトだかも立ち上がるのか、マウスカーソル動作は少しもったりする。友人曰く安いパソコン買ったせいだとか。

 特別動作が重い訳でもなし、何か入れ込んだゲームをする訳でも、大それたプログラミング環境を構築している訳でもない。

 安物買いの銭失いという言葉があるけど、安すぎたせいで早期に壊れるとしても二年保てば御の字だと思って買ったのであんまり気にしていません。

 ボクは焦燥感に駆られて、毎日を浪費しています

 ただ虚無を抱えた人間と断ずるには語弊があり、鬱というには日々を生きる活力がある。

 けど前に進む気力は無い。焦燥感背中をぐいぐいと押すのに、ボクはただ立ち止まっている。

 大学四年生十月。周りは順調に就職活動を進めて、内々定獲得。内定式もあったりする。

 じゃあボクは何。皆ほど手早く進めていた訳じゃないがやる気自体はあったはずだ。でも結果として駄目でした。  

 ────えっと、大学では〇〇学部(出身大学普通に絞れらるの伏せる)の人間として色々な事を学びました。学んだのが… 

 「ああ、いや。別に言わなくていいよ」

 ────?

 「大学で学んだこと、別に意味ないし。それよりも君の事を教えてよ」   

 じゃあ、大学出の新卒取るなよ。

 一瞬フリーズして喉から声が出るのを必死に抑えた記憶があり、帰り道に転がってた捨て空き缶を蹴飛ばして当たり散らかしました。

 就職活動すれば言われる事も分かっていたし、実際に言われるだろうなって覚悟を決めていたつもりだった。

 確かに大学で学ぶ四年間は、社会時間スケールに換算するなら薄っぺらものだろうし。(仮にストレート新卒二十三歳くらいから働き始めて定年六十歳過ぎ、概算四十年働き詰めと考えればそうだろう)

 大学で学んだ事を生かせる会社なんてほとんどないだろうさ。特別優秀な大学に通っていた訳でもないし、この学歴に求められる人材を搔き集めるとしたら凡庸な事学んだ人間ばっかで、英語ペラペラだの特異的な技術取得者だの、高度な教養保持者なんてほとんどいない。社会人の人事部人間目線ならスペックどんぐりの背比べ。そもそも優秀な人材なんざ欲しいなら学歴フィルター足切りされるのだから、そんな凡庸学歴自分面接に呼ばれる時点で自分評価はそういう事である

 別に学歴フィルター文句を言うほど馬鹿なつもりはない。学歴スペック推し量るフィルターであるのを否定したら、その行く末は社会が駄目になるんだし。

 学歴フィルターがどうこう。そうじゃなくて、学歴フィルターを取っ払われて「一時間未満の問答で人柄を理解してくる」のが駄目だった。

 お前がボクの何を分かったつもりでいるんだ。趣味映画鑑賞って言ってLGBTについてだの、映画歴史だの語って高尚さとか演出してやたらウケてたみたいだけど、映画鑑賞なのは面白い映画観る為だけに決まってんでしょうに。何でフィクションを割り切って視聴するコンテンツ世知辛い現実問題を持ち込んで鑑賞して語らなきゃいけないんだって思ってのがボクの根底人格ですよ。

 頑張って四年間必修の単位落とさないよう勉強して、プライベート時間削って大事な必修実技講義レポート山ほど書いて、それで大学で得られた事を教えてくれ?

 大学で四年間勉強してきたのは皆当たり前だから他に教えろ? そんな事言われなくても分かってるけど、じゃあ四年間で覚えた美味しい酒場情報でも披露すればいいのですか。本当に真面目に大学通って友達作らずに勉強してた奴の「面接ウケのいい話」のストックあるのかな?

 何でもかんでも四年間の内に御大層な学びや気づきが得られたような人間ばかりだと思わないで欲しい。こちとら遊んで浮かれてレポート未提出をやらかしたら即単位落ちして留年危機に迫るのに、大学生活で得られたもの

 海外旅行するとき計画立てて海外旅行して知見でも得られたらいいんですか。そうですよね、グローバルな視野持った人間欲しいですもんね。最初から募集要項留学経験ありのみにしてくれませんか。

 何ですか、大学祭でリーダーシップ発揮して皆を先導すればいいんですか。リーダーシップ発揮しなくて名脇役こなして、何か一大事重要な場面で大立ち回りして何か得られたり気がつけばいいんですか。出店がクソ忙しかったけど黒字けが出て、還元率三倍以上になってサークル同期とガハガハとゲス笑いしてた以外あるわけないだろ。最初から部長サークル経験ありのみ語れとかにしてくれませんか。

 印象的なエピソードやらがポコポコまれるほど精力的に大学満喫していませんことよ。講義レポートやらに追われ、バイトしたりする日々のせいで虚無です虚無。

 大学で開かれた会社説明会とか企業研究会だとかの人事部の人に聞いたら、「自分の事をありのまま話せばいいよ」って言われて、いざ実際にその人の話した会社面接受けたらバチバチに落ちたよ。落ち込んで大学の同期友人に話したら「馬鹿だねお前」って言われてさ、じゃあ実際面接の時にどうしたらいいのかと思ってバイト先の社員さんとかに聞いたら「テキトーに誤魔化せばいい」って何ですか。

 最初自分もそう思ってたけど、大学のそういう就職活動セミナーみたいなので「人事部の目はプロなので誤魔化しは効かない」とか聞かされて、それを真に受けて興味持ったバリバリに志望したい会社から次々落ちてこれですか。

 何なんですか。どうすればいいんですか。

 そもそも初対面の人前で喋るのが苦手なのにどうすればいんですか。学生課の就職支援の人とか、練習重ねる相手は顔見知りレベルになるんですけど。

 お前の為に勉強した訳じゃないし、純度100%自分の為に学んできた事を前面に押し出したら落ちるのは分かる。けどさ、じゃあ大学で学んだ人間求めるの何で?

 そうですね、大学入学が出来て、大学に通えて、大学卒業するような「一定ラインを超えている事が確定しているスペック人間」が欲しいんですもんね。知性とかも含めて多分諸々の。

 分かります。下限値設けずに変な入社されたり、限られた社会時間の枠を食い潰すような事したくないですよね。

 賛同します。人材コストですから中々運用とか大変ですし、コスパ求めますよね。

 理解します。そうなると求めるのって必然的に明瞭な線引きのラインが「大学出の新卒」となるんですよね。

 でもボクはそのロジック理解していても、もう就職活動が嫌になりました。三月から飛んで半年以上の十月。虚無みたいな中身のない日々を送ればここまで日が経つのが早いものかと感心する。

 家に閉じこもって日がな一日寝て過ごして、起きたらご飯食べてパソコン立ち上げて自分好みの動画見る為だけにネットサーフィン

 自己分析自己分析言われて自己分析しても自分の嫌な所しか自己分析出来ないし、深い所まで掘り下げろって言われても浅い所しか掘れない。自己分析力が足りないのか、人生経験の浅さなのか。どっちが真実自分に見極めきれないまま、どちらにせよ自分自身を薄いかその程度の雑魚だと感じるようになって、世界の中心に自分が居座るわけでもない事が分かり切ってるこの年頃でも中々精神にくる。テキトーに誤魔化す事が自己否定に繋がっているような気がしなくもなくって、自称能天気の「生きてりゃ何とかなる精神」もめっためたになってきた。

 周りの人曰くまだ時間はあるから、今からでも内定は取れる。でもだらだら就職活動を進めてる。今。

 進める三社程度も大学学生課の就職支援してくれるところから回ってきた求人情報メールから適当に選んだだけ。興味がない会社ばっかなのに興味持て状態なんて無理難題

 バイト先で本職とバイトを掛け持ちしている妻子持ちのXさんには「心が落ち着く為にも内定が欲しいよね」と言われ、励まされた。

 その時は「そうなんですよねー笑」ってお茶を濁したけどまさにその通りで、自分が働く為に就職活動を進めるのも出来ない状態になっている。自分が今この精神状態を脱するため、楽になりたいだけが今の世界過半数を占めている気がする。

 今のこの状態自業自得なのかよく分からない。多分自業自得なのだろう。

 そろそろこの文章を書くのも嫌になってきた。こんな事してる暇あったらもっと別の事出来たのに、なんでこんなものを書いているのだろうか。

 感情論理が混雑したな思考を巡らせて、ぐちゃくぐちゃのそれを文章に起こすようにまとめて、まとたものブラインドタッチも出来ない両手でカタカタキーボードを叩いて捻出してる。

 今ここまで文章を書いた上で思うのは、膿は際限なく溢れるんだなぁって所です。そしてこれはまだ続く。

 ずっと疲れた疲れたってなってる。こんなに頭がぐるぐるする事が付かれた。毎日頭の中でぐるぐるしてて明らかに駄目になってて、疲れる。考えたくない。でも考えなきゃいけない

 だって考えるのやめていたのが今の十月に至るまでの虚無みたいな中身のない日々だ。

 嫌だ。疲れた。ずっと眠りたい。

 鬱? それよか楽観的で健康的。

 友達と遊ぶのは楽しいし、自傷行為も痛いの嫌だから無理。自殺は嫌なものたことあるし、それで「生きてたもの勝ち理論」は証明されたと確信しているので死ぬ気はない。

 けど非生産的で、傲慢さや我が儘だけが日に日に膨れ上がっている

 A.ニート

 世界の美味しい所しか食べたくない状態。我が儘ですわね。

 まだしばらくこの生活は続くと思います生命的に死ぬこと、自殺やら自傷だけは絶対ないけど、ゴリゴリ精神が摩耗しつつ美味しいご飯自分の好きな事だけでモリモリ持ち直すあり方の限界値はどこまでかわかんないです。

 少なくとも明日はセーフかもしれないですが、一か月後とか年明けたら駄目かもしれないですね。何とかなるでしょって今も思っているのがもう本当に嫌になりますけど、すんごい楽。


 助けてというには余りにも横暴?

 ぼちぼちキーボード叩くの、普通に腕も指も疲れてきたし、画面に打ち込まれ文字の羅列とその内容をありありと見せつけられて全部が嫌になってきたのでここいらで書くのを辞めて寝ようと思います

 気持ちのいい寝起きがありますようにって思ってこのテキストエディタを閉じます

 おやすみなさい。おやすみなさい。おやすみなさい。

 バイバイ

2020-09-17

締め切りに追われたい

大学四年生同人のために毎日を過ごしていた。

半年で4冊(5万文字)のペースで本出して、同時にpixivに3作品(1万文字)くらいの小説あげて、Twitterで3000文字くらいのssをほぼ毎日投稿していた。

それと並行して就活卒論バイトをしていた。

今思うと頭おかしいくらいに創作意欲しかなかったし、毎日締め切りに追われていた。

けど新卒になって全然書けなくなったし時間もなくなった。

毎日寝て過ごして創作全然できてない。

久々に締め切りに追われてる人に会って私も本出したい意欲が強くなった。

はやくイベント申し込みたいなぁ。

2020-09-09

anond:20200908232315

小学生男子女子純粋だと。なるほど。小学生女子は(個人差はあるが)四年生くらいで二次性徴を迎えて、読む雑誌も変わってくる。

そうなると増田的には小学生でも純粋じゃないのだろうか。

身体精神の発育では分けられないならば、主人公が何歳であろうと純粋作品はあるのではないか

2020-08-22

今更だけど上野千〇子の祝辞に関して東大生が思うこと

私は一生公教育なんて信じない。私の命は中学受験で救われた。

私が小学生時代を過ごした土地は、所謂ニュータウン。街がつくられる時にそのまま居着いたブルーカラーの家と、ベッドタウンとしていついたホワイトカラーの家が、住んでいる地域でわかるような土地柄だった。

とてもではないが治安がいいとは言えない街。小学生放火をし、中学生喫煙し、高校生バイクで走り抜ける街だ。某児童売春斡旋組織事件発覚の発端となった小学生もうちの地元出身だった。

私の家は紛うことなホワイトカラー一家だ。元ボンボンサラリーマンの父と江戸っ子の母の間で、歳をとってから出来た一人娘として、それなりに大切に育てられた。世帯収入は高くも低くもなく、他に兄弟姉妹がいれば私立に行くのは許されなかっただろうレベルだ。しか女子校に入れたいという父親たっての希望で、私の中学受験は私が園児の時に既に決められていたことだった。

そうは言っても、その受験計画は実にのんびりしたものだった。目的あくまで「公立中学校に行かないこと」。小学校一年から塾に行くような子もいる中で、私の中学受験小学校四年生から始まった。それもSAPIX日能研といった進学塾ではなく、まったりとした中堅の塾。10人に満たない同級生たちと、地元の中堅私立を目指す予定だった。

しかし、それでも学校教員からの敵意からは逃れられなかった。

彼らは常にブルーカラーの子供たちの味方だった。ブルーカラーの子供たちはまさにギャングエイジといった風体で、私の学年は4年生になる頃にはすっかり学級崩壊に陥っていた。

そんな状況の中で、私のような「恵まれた家庭」の子供は、彼らを「根性論で更生させる」ための必要悪にするのに適していた。ホロコーストと一緒。共通の敵をつくることで、教員たちは彼らと連携をとろうとしていた。

まずは保護者会で、担任教師が「私は中学受験と塾が嫌いです」と言い放つところからスタート。この言葉はあっという間に子供たちにも伝わった。小学生にとって、それがどんな不良小学生だったとしても、「先生言葉絶対」だ。「先生が悪いと言った」子は、いじめたっていいのだ。

休み時間円周率計算暗記表を見ていたら、担任にそれを取り上げられ、クラスメイトの前で激昂された。帰りの会で黒板の前に立たされ、「私は学校で塾の勉強しました。本当にごめんなさい」と謝らせられた。それを皮切りに、ブルーカラーの子供たちからいじめが始まった。

帰り道で待ち伏せされる。容姿についての罵倒や、時には両親への悪口もあった。ある時はマフラーで首を絞めあげられた。子供の力なので大事には至らなかったが、笑い声のなか、酸欠で頭がぼうっとしてきたことは覚えている。

先生の言うことは絶対」。これは私にも有効だった。だから私は、自分は悪い小学生なのだと思い込んだ。

おうちが貧乏で、ちょっと不良みたいで、勉強は嫌いで、でも、中休みになったら一番最初に校庭に出てドッジボールを始める。そんな生徒が、「良い小学生なのだクラスメイトたちが音楽室に立てこもって授業をボイコットしていた時、私は大人しく教室で待っていた。でも先生が好きなのは仲間意識の強い」彼らなのだ

悪い小学生なのだから、虐められて当然なのだ。そう思った私は、繰り返されるいじめを誰にも相談出来なかった。

また、これは本当は幸運と言えるのだが、殊にこの場合にのみ不運と言える、両親の誤算があった。私の成績だ。

私はどうやら「出来る子」に分類される子供だったらしい。入った中堅塾ではあっという間にトップに立ち、テストも満点以外とれなくなった。ここまで来ると両親にも欲が出てきたようで、私はバスで通える範囲に出来たS某超進学塾に通うようになった。そこでも女子ではトップの成績で、あれよあれよという間に御三家を目指すことになっていた。小学生にとっての成功体験は、その子人格形成において重要だ。私は勉強するのが楽しかった。そもそも運動は嫌いで、中休み図書館にいるような子供だった。かけっこしか見てくれない小学校教員たちとは違って、塾の先生は私の「勉強の」成績を褒めてくれた。後は好循環だ。持って生まれメンタルの弱さで、模試の前に嘔吐するようなこともあったが、私の中学受験は大方順調だった。

一方小学校生活は、ぼろぼろのメタメタだった。私の通塾先が変わったことがどこから漏れ出て、「エリート意識を持った嫌な奴」の烙印を押された。低学年までは仲良くしていた子達も、私のことを大腸菌呼ばわりするようになった。

担任が、わかりやすく私に嫌がらせをするようになったせいだった。授業中に指されて答えても、「どうせ塾でやったんでしょうね」。覚えもないいじめ事件の首謀者にも仕立て上げられた。

だんだんと体調にも影響が出るようになっていた。学校に行く前に必ず吐いた。食道は焼けただれ、小学校5年生の冬には胃薬が手放せない体になっていた。

真面目な気質のせいで、私はそれでも学校に行くのをやめられなかった。親も流石に勘付き、担任嘆願書を出した。しかしそれも虚しく、担任は私にその嘆願書を叩きつけ、「どうしてあたしがいじめなんて言われなきゃいけないんだよ!!」と私を怒鳴りつけた。

別の小学校越境入学しようと思ったこともあった。別の中学受験をする同級生が、そそくさと学校を変えてしまたからだ。実際両親はその準備もしていた。しかし、自分学校問題があることが外部に晒されることを恐れてか、校長はそれに難色を示し、「○○ちゃんだって仲良しと離れたくないでしょ」と、結局その小学校から離れることは叶わなかった。

私の小学校時代は闇だ。小学生5年生の学芸会の劇で、悪役の親分オーディションに受かったら、自分母親と隣のクラス教員が寝ていると噂されたこともある。最高学年になる頃には、私は両親と塾の教師以外の大人を信じられなくなっていた。

話は飛んで、中学受験の結果から言うと、私は第一志望には落ち、第二志望の女子校に通うことになった。そこは天国だった。私が休み時間勉強していても、誰も怒らないし、誰も馬鹿にしなかった。正直それだけで救われたし、良き友人にも多く恵まれた。そして高校生活を経て、今私は東京大学に通っている。

もし父親先見の明がなかったか、私が過度のストレス受験全滅していたことを考えると、今でも寒気がする。

数年前の東大入学式の祝辞は、ノブレス・オブリージュについての話だった。私も上野先生意見に大方は同意する。しかし私は、もし「恵まれ人間」として支えなければいけないのが「あいつら」なのだとしたら、それは吐き気を催す話だと思う。

エリートが冷たいなんていうのは嘘だ。いや、もしかしたら真実場合もあるかもしれない。でも、そんな言説よりずっと、「学のない連中は残酷で野卑だ」という言説が本当だと言うことを、私は知っている。

2020-08-06

社会、厳しすぎる

四年生大学を出て新卒で無事に会社入社した

ブラックじゃないしそこまで残業してるわけじゃないし給料新卒のわりにはちゃんと貰ってる

福利厚生だって完璧とは言わないでもそれなりに整ってはいるし、正直忙しい職場ではあるけど怒鳴られたり殴られたりすることもない

多分いわゆる真っ当な会社なんだと思う

でも正直会社、厳しすぎない?

えっこんなに厳しい?なぜ?

いや会社というより社会が厳しすぎないか…?

「一度教えたらもうわかるでしょ?」いや完璧人間か?

「なんでそうしたの?そんなこと言ってないでしょ」いやそう言われたからですが?

「また間違えたの?何度目!?」まだ3回目だし毎回パターンが違うのですが…

ここまで読まれ社会人の方の多くは多分まあそれが社会だし仕方ないね〜その考え方自体が甘いしね〜とか思ってるんじゃないかなと思っている

いや社会が厳しくない!?!?!?

私が甘いのではなく社会が…厳しすぎない…?

厳しいというか人に優しくできない人間が多い

厳しい人が多すぎる

もうちょっとみんな優しくならない?優しくなっても怖くないよ。何も怖いことは起きないよ。相手からも優しくしてもらえることが多いよ。多分。

社会ちょっと厳しすぎる。

2020-08-05

私はこの就活が終わったら死ぬ

この就活が終わったら死のうと思う。

 私は一地方都市のしがない大学生である私立四年生大学の最高学年であり、連日就職活動に振り回されている。それでもって例の如く就活病み精神的に追い詰められている。これから書くのは端的に言えば弱音であり、備忘録である。たぶん。

 私が死を意識しはじめた時期は小学生くらいだった。きっかけは保育園からの友人と疎遠になったことのように思う。その子と私はもともとタイプが違っていて、成長するにつれてお互い世界が広がって話さなくなる、というある意味典型的パターンだった。 

 ただ、問題だったのは当時の私にはその子達以外に友人がいなかったことだった。その子達は新しい友人を作っていたが、私は新しい友人を作ることが出来なかった。一度でも学生生活経験した人ならわかると思うが、学校という閉鎖社会生活するにはどこかのグループ所属する必要がある。私は友人を失ったことで学校での居場所も失ったのだ。それに加えて元友人は私にとって憧れの存在だった。私はその子のことがまだ好きだったのだ。今なら離れた理由もわかるが、当時はどうして元の友人と疎遠になったのかもわからず、何が悪かったのか折に触れては考えていた。

 なんとなく暗い気持ちで日々を過ごしていたときTVバンジージャンプ映像を見た。芸人タレントか覚えていないが、紐をつけて飛び降り映像を見て「あ、いいな」と思ったのだ。空の中に落ちていくのは、最後に晴れ渡るような青空を視界に焼き付けるのは気持ちがいいだろうな、と。

 恐らく当時の私は友人と疎遠なったことで学校生活不安を持っていた。そこで至った結論が、生きることをやめること、だったのだと思う。だからバンジージャンプをいいなと思ったのだ。もう学校に行かなくて済むから

 これがとんでもない勘違いであることは充分理解している。死ぬことはそんなにいいものじゃない。落ちてる瞬間はきっと凄く怖いし、空なんか見てる余裕もないし、落ちたときなんか死ぬほど痛い。死ぬんだから当然だ。それにそこで死ねればいいが、うっかり生還なんてしたらたまらない。障害を抱えて生きるか、自殺を失敗した人間というレッテルを掲げて生きるか、どっちにしても地獄である

 でも、当時の私には酷く魅力的だった。ここで死ね明日学校に行かなくていい、嫌な発表もしなくていい、最後に綺麗なモノを見て終われる。正直、疎遠になった友人への腹いせのような気持ちもあった。自殺すれば、友人も少しくらい私のことを気にかけてくれるかもしれないという思いもあった。

 小学校に通っている間、何度か四階の音楽室の窓から身を乗り出して晴れ渡る青空コンクリート舗装された地面を見つめた。あんなに熱心に見つめていたのに私は実行には至らなかった。単純に勇気がないから。私には死ぬ勇気がないから。結局私は「死に憧れる自分」に酔っているだけで死ぬ覚悟もなかったのである。そういうところが本当に情けなくて中途半端人間だなと思う。

 だらだらの長く書いたがここまでは前置きであるあくまでここからが本題。だと思う。

 なんとか小中高を抜け、大学にも進学できた。特に留年することもなくなんとか四年生になったが、そこで私は就活という大きな壁にぶち当たっている。

 就活で何が死にたいっておおよそ内定が貰えそうにないことである。今現在エントリーシートを提出した企業が5社でそのうち面接まで行ったのが2社、うち一つは面接遅刻した。まじで馬鹿だと思う。当然、不採用の通知が来た。あと残り5社ほどエントリーシートを提出するつもりだが正直内定が出るとは思えない。となると来年就職浪人非正規雇用の道しかない。

 私は今まで「普通」の人生を目指してきた。高校に行って、大学に行って、正社員になる。ごく一般的な「普通」を目指して懸命に生きてきた。なぜ普通を目指すかというと楽だからだ。これも部活動所属していた理論と近い。「普通」に生きるれば他者に埋没することができる。無駄な注目を浴びなくて済むし、他の人がしないことに労力を割かなくて済む。「普通」というより私は「マジョリティ」に所属したいのだ。常に多数派でありたい。多数派であることはいいことだと私は思う。例えば、何か不幸なことがあっても他の人も体験していれば、よくあることだと納得することができる。困ったことがあっても先人の意見を参考にすることができる。なにより多数決で勝てる。特に多数派であるという安心感は何者にも変えがたい。

 内定が貰えなかったら、新卒就職できなかったら、私の思い描いている「普通とはいえない。普通でないなら死ぬしかない。

 突き詰めれば私は明日の不幸が怖いのだ。小学校とき明日学校行きたくないと思ったのと同じように、明日明後日自分生活が続くことが怖い。

 これを言うと多くの人が人生は年々楽しくなるとか、いいことも沢山あるんだよとか言うのだが、そう言うことではない。楽しいことがあっても悲しい事は帳消しにならない。別々に積もっていくだけ。それに本当に悲しいことや辛いことがあったときに私を生かした人は責任とってくれない。自分の生に責任を取れるのは自分だけである

 本当は漫然と生きることが不安で、その不安が今回の就職活動きっかけに大きく燃え上がっている。だから私にとって自殺とはこの不安を解消するための手段なんだと思う。

 ネットの海を眺めていると私だけではなく、みんな本当は漫然と生きることに対する不安を抱えているような気がする。本当はみんな理想自殺の種類があるんじゃないのか。みんなそうだって言って欲しい。私は「普通だって言って欲しい。

 一方で安易理解は欲しくない、こんなに苦しいのに誰かに判られてたまるかって気持ちもある。みんなが打ち勝っている不安に私だけ負けている事実が怖くもある。

 私のこの漫然とした不安鬱病とかなにか名前の付くものでは恐らくない。だから病院に行って薬を貰うことは出来ないし、病院先生に話を聞いてもらったところで将来なんてみんな不安ものですよ、とかなんとか宥められて帰されるだけだろう。

 私は卒業後は就職するつもりだった。それ以外の選択肢は何も考えていない。就職出来なかった場合については何も考えたくない。

 小学生自分死ぬことに憧れているだけだったが、今の私はきちんと実行できるだろうか。死ぬことを考えるのは正直に言えば怖い。もしかしたら、まだ私は死にたくないのかもしれない。でも死ぬしかない。明日の私を苦しませないために今死ぬしかないんだ。あそこで死んでおけば、と後悔するのだけは絶対に嫌だ。それなら今きっぱり死なないといけない。もうこれ以上苦しまなくていいように、つらい思いをしないように。

 だから私はこの就活が終わったら死ぬ

2020-07-23

出会い系友達を失った話

私の高校時代から友達に、とても美人女の子がいた。

華奢で、シンプルニットタイトスカート高校のうちから着こなして、大学では大学院まで行って英語を学んで海外仕事をしたいと語る、耳で綺麗に揃えられたショートヘアの彼女は、私の自慢の友人だった。

高校卒業して大学に入っても、彼女とは頻繁に連絡を取り合っていたし、お酒を飲めるようになってから月に一度は私たちには少し敷居の高いお洒落なお店で近況報告をした。ふたりで丸一日ディズニーランドで過ごすことなんて何度もあったし、初めての海外旅行は彼女とだった。つまり、かなり仲が良い女友達だったのだ。

彼女はあまり男運が良くなかった。

本気で好きになった人に秒でやり捨てされた大学1年の夏、男がダメなら女と付き合うことにしたと言っていた(私はその日初めて彼女バイだったことを知った)翌月、親のために結婚をしたいと言われ振られたと泣いていた2年の春。

もはや自暴自棄になった彼女が手を出したのは出会い系アプリだった。

そこで出会った10個上の男性は、彼女曰く「完璧な人」だったらしく、彼女はわかりやすくそ男性にのめり込んでいったし、あっという間に付き合うことになった。

それはおめでたい飲み会を取り付け、肉を焼きながら話を聞くのだが何かがおかしい。

「彼は社長らしくて、忙しいから月に一回会えるかどうか」

「家が2つあるらしくて、ひとつの家にはお邪魔させてもらったけどもう一つの家には社員さんとルームシェアしてるから行けない」

「付き合って3ヶ月経つけど、未だにおうちデート以外したことがないし、写真も撮らないでねって言われてる。そういえば苗字も知らない」

「あと、完璧主義で私にもそれを要求してくるんだけど、それは全部私のためになることなだって。」

………いやいやいや。いやいやいやいやいや。

どう考えてもおかしい。麻雀のことはよくわからないけど、「役満」ってたぶんこういうことだろう。ダメ役満。どう考えても奥さんか、それか本命の女と一緒に住んでるオチだろうし、完全に遊び相手にされてるだろ。喉まででかかった言葉を飲み込んで、

ちょっとモラハラ気味じゃない?大丈夫かなあ」

と一番突っ込みやすそうな部分を笑い混じりで指摘してみたところ、彼女の顔色が変わった。

「でもね、彼と私は、今のままの私じゃ釣り合わないんだって。だから彼は強く言ってくれるし、私が気づかないような部分まで指摘してくれるの。伝えてくれたところを頑張って直すと、自分がとてもいい女になった気がするの」

「それよりね、こないだ彼と〜」

あれ、彼女、こんな子だったっけ?

最初に抱いた違和感はそこだった。一瞬言葉に詰まったのを覚えている。

無我夢中で彼の「いいところ」を並べ立てる彼女は、可愛らしいというより少し不気味だった。

そんな別人のような友達と喋ることが辛くなり、その日は早めにお開きにした。

それからは恋は盲目、あばたもえくぼ、そんな自分に気づかない彼女は周りを蹴散らしてどんどん彼に猪突猛進。そんな状態が続いた。

「ベッドに長い髪の毛が落ちていた。でも大丈夫。私は彼を信じているから。」

「彼の通知画面に出会い系アプリの通知があった。でも大丈夫。私は最後には幸せになるから。」

「彼には何年も付き合っている彼女がいて、その人と同棲していた。でも大丈夫。私が一番愛されているから」

私はそのたび彼の矛盾している部分を何度も何度も指摘したが、私の言葉彼女には何も届いていないようだった。

友達出会い系アプリで彼と出会ってから、もう一年半が経とうとしていた。

私は就活をしながら、めっきり会う頻度が減った彼女の裏アカウントツイートを眺めていた。いつのまにかラインもしなくなった私たちが、お互いの近況を知るためのツールツイッターインスタグラムだけだった。

基本的には、彼のどんなところが好きだとか、自分には何が足りないのかとか、そんなことを綴っていた裏アカウントに、衝撃の言葉が綴られていた。

「彼の会社就職することにした♡面白そうだし、楽しみだなあ。」

頭がくらくらした。たしか、彼の会社ベンチャー企業で少なくとも海外で働けるような環境ではない。

いやお前、、、あのさあ、、、

海外で働く夢は?進学予定だった大学院は?その夢を応援してくれていたご両親は、、??

もう、私が知っている彼女はどこにもいないのだとその時痛いほど突きつけられた。私が大好きだった彼女は、出会い系出会った32歳の男性によって全て塗り替えられて、まったくの別人になってしまったのだ。

大体、出会い系20歳女の子を引っ掛けて会社にまで入れちゃう30代社長って何?最初から最後まで地雷物件じゃねえか。

まあ、幸せならそれでいいのかな。話のネタにもなるし。

そんな気持ちで裏アカウントフォローも外さず、監視を続けていくと(わかっているとは思うが、私の性格全然良くない。)、彼女の様子はどんどんおかしくなっていった。

仕事が辛い。けど、頑張らなきゃ。」「大学辞めたい。仕事に集中したい。」「仕事に集中したいのにゼミの人たちが邪魔をしてくる。」

「闘っていかなきゃ。仕事を楽しまなきゃ。」

「こんなの、やりたい仕事じゃない。」

うーん、このままだと、大学中退就活経験フリーターが出来上がってしまうのかな。それとも先に鬱になっちゃうのかな。でもまあしょうがいか。もはやエンターテインメントひとつとしてしか彼女を見ていなかったが、それも長くは続かなかった。

彼女が裏アカウントを消してしまったのだ。理由は確か、仕事愚痴をここに吐いてしまって甘えてしまうとかだった気がする。

これで完全に彼女との深い友人としてのつながりは切れてしまったと思った。あとはうわべだけのインスタグラムしか残っていない。インスタグラムストーリーで、彼がついに本命女と別れて、彼女ちゃんとした同棲を始めたことを知った。(ふつうにすごい。健気さと執念と若さ勝利だと思った。)(本命女は30前半だったらしい。)

ただ、すでに私の中で、心からおめでとうと言える段階ではなかった。

私は高校時代から大好きだった友人があっという間に変わっていくのが悲しかったのかもしれない。私の話も聞かずに彼のことばかりを上の空で話し続ける彼女から目を逸らしたくて、連絡する頻度も少なくなっていったのかもしれない。ただ、今となってはそんなことはどうでも良くて、彼女は私にとって「どこからどうみても地雷の男に溺れて忠告も聞かず自分との友情を切った女」でしかなかった。そんな女を今でも大好きな親友♡と思えるほど、私はお人好しではない。

彼女同棲を始めて少し経った時くらいだろうか、彼女から急にインスタグラムDMが来た。(驚きすぎて、その日の夜は彼女社長の彼と私の3人で遊ぶ夢を見た。悪夢だった。)

2日間ほどぽつぽつとやりとりをしていると、送られてきたのは「彼が浮気していて辛い。自分の思い描いてた幸せはこんなものじゃなかったのかもしれない」というメッセージだった。

「今更気づいたのか」以外の感情が沸かなかった。ていうか彼との関係不安定になってきたから私に擦り寄っているようにしか見えないんですけど…。

ねえ、私たちってまだ友達なのかな。私がもっと優しい人だったら、今でもあなたの悩みに寄り添えるのかなあ。そう思いながら、興味本位で話を聞き続けた。彼女はいつのまにかポエマー気質になっていて、文章はとても読みづらかった。(彼も清水翔〇の書く歌詞のようなLINEをすると話していたことを思い出した。やっぱり彼氏彼女は似るのかと思ったし、良くないところばっかり似る気がする。勘弁して欲しい。)

ついきのう、彼にもう無理かと思ってると言われた、辛いけど離れようと思うと彼女から連絡が来た。これを伝えるためにライン1スクロール分くらい使って送ってきた。

ねえ、もう大学四年生の冬になるよ。失ったのは、たぶん彼に費やした時間だけじゃないんじゃないかな。学校での信頼とか、ご両親の信頼とか、私との友情とか。あなたはこれから、どうやって過ごしていくの?

あ、お願いだから、私にだけは頼ってこないでね。

そんなふうに思いながら自分の心の整理のためにメモ帳アプリに書き起こしてみたら、想像以上に大長編になってしまった。とりあえず残しておこうと思う。

後日談

結局彼女はのこのこ彼と復縁をして、また頑張ってみると抜かしやがった。2時間電話して別れたのは正解だったよとテープレコーダーのように繰り返し声をかけ続けた私の虚しさを返してほしい。

怒り半分、悲しさ半分。この時の気持ちは、同じ経験をした人にしかからない気がするが、ここまで読んでくれた人にはちょっとでも共感してもらえたらいいなとも思う。

気付いたら「なんでもいいけど彼の言うことしか聞けないならもう私に連絡してこないでね」とラインしていた。完全に友達を失ってしまった瞬間だった。(何度でも言うが、私は性格が良くない。)

ねえ、Tちゃん。今までこんな私が友達で本当にごめんね、仲良くしてくれてありがとう、彼とお幸せに。

2020-07-21

就活が嫌すぎて、でも死にたくはないって我儘か?

大学四年生就職しないと金がなくて死ぬけど、就職したくなさすぎて困ってる

死にたくはないけど、それと同じくらい自由差し出したくない。

小学校中学校高校大学とどのコミュニティでも問題を起こして爪弾きになる程度に社会性がない自分に、定年まで40年も同じところで働き続けることができるとはとても思えない。

学校と違って企業での人間関係の失敗はいつまでも尾を引くだろう。であれば自分を殺すことが必要になるわけだが、そんなことを40年も続けられるわけがない。

人間関係絶対に失敗するので、人との関わりはなるべく持たないようにしてきた。そっちのほうが気楽だったし。けれど企業じゃそうはいかないだろう。人を避けてちゃ仕事にならない。

恋人結婚したいし、子供も欲しい。それなら安心させられるだけの金と社会的信用が要る。果たして自分の命ひとつ守れそうにない自分に、そんなものを背負う資格はあるのか。あるわけないだろ。

結婚とか育児とか、贅沢なものを得ようとしているんだから、当然コストはかかる。自由を売って金を得なくてはならない。

でもさーーーー、マジで嫌なのよ。いやわかってるよ、そんなん言ったって働かなきゃ困るのは自分なんだからつべこべ言わないで働け、働かないならさっさと死ねっていうみんなの気持ちは。けどそんなマッチョ思考ができるなら最初から悩んでないわけでさーー。

「こいつは就活難航しそうだなー」と思ってた友達もそろそろ内定が出始めている。みんなちゃんエントリーをやめないので、きちんと賽を振り続けているのでなんだかんだ報われる。偉い。

一方自分はと言えば、エントリーひとつするのにも「ここで働く羽目になる可能性があるわけか……」といちいち悩む。そもそも労働自体したくないと思ってる自分が、貴社で働きたいんですと言い張らなきゃいけない。面接だって人だ。そんな簡単に騙せるわけない。説得に足る理由はあるか? いやない。だって働きたくないもん。

なんだかんだ言いながら働かなきゃ……って言ってちゃん内定とって働いてる人たち、本当にすごいなと思っている。自分はそんな納得してないのに割り切るようなことはできない。

これで就職できなくて来年4月から無職になったとしたら、そのまま慣性に任せて死んでも仕方ないよな、と半分は本気で思っている。

恋人との未来とか、自分自身の命とか、守りたいものはあるけれど、でもそれを全部捨てて無かったことにしてもいいやと、どこかで自暴自棄自分がいる。

いやわかってるよ、やらなきゃいけないのはわかっているけれど、分かったらできるかと言われれば別問題じゃん。

週5の労働いつまでも続く面倒な人間関係なんてコストを支払わなきゃいけないほど、命って高いものなんですかね。金持ちになりたいとか人を顎で使いたいとか思ってなくて、ただ生きていたいだけなんですけど。

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