はてなキーワード: 人知とは
ほとんどの人は無関係で別の世界のお話だと思っているかもしれない。しかし風俗に行く男は直接関係している当事者だ。同じ世界の地続きの話だ。そして、風俗嬢からすれば風俗に来る男は金でしかない。しかし俺は風俗に行く男側の気持ちもわかる。「何か人肌恋しいし、寂しいし、ヌキたいな」ぐらいの気持ちだろう。その男たちもまた、愛されたいのだろう。
男側になぜか勘違いしているやつがいるのだが「風俗をやる子なんだからエロいことが好きなんでしょ」と思ってるやつが比較的多い。そういう男はマジでバカだ。そりゃあ稀に本当に好きな女もいる(ただしそういう女も結局病んでいる。セックスが好きなだけなら出会い系でいくらでも選べるからだ)。しかし全体的には「キモいジジイの臭いちんこをしゃぶって自分がただただ惨めな気持ちになる」「金を払わなければセックスもできない男どもに人生を吸い取られている」というものになる。清潔感あふれるイケメンが来ればある程度軽減されるようだ。ただし結局、風俗の客という記号にすぎない。凡俗の男なんて、ヤられながら「しあわせ……」って言って微笑んでりゃ落ちるのだ。雑魚乙チェリー乙である。(ただし中にはそのまま本当にカップルになる・結婚するパターンもある。だから余計に厄介なのかもしれないが)
担当がわかってくれないというときもある。担当がストレスで精神崩壊しているときは対応がおざなりになる。毎日毎日よくわからない男たちのちんこをしゃぶっていれば毎日狂う。なぜ1回を1本と呼ぶか。ちんこの本数だ。ネットでは「いいえ、実はプレイ時間に使う線香の本数のことなんです!」というクソみたいな由来説が出てくるが、これは求人サイトで「風俗はクリーンなお仕事!!」と見せるためのものだ。風俗はクリーンではない。線香の燃焼時間についてググったら「短寸(短い線香)よりも長いタイプは長寸と呼ばれ、燃焼時間は約40分です。 長い時間の供養に使われます」と出てきた。したがって証拠もクソも無いがおそらく違う。大体ペニス1本の方が相当しっくりくる。実際「今日は2本しゃぶったわ」というように使ったりする。1日7本しゃぶって、300日で2100本!そういう計算だ。客は、1/2100のちんこなんだ。これで病まなきゃ何で病むというのか。
風俗嬢は、男というものを汚い存在だと認識していく。そんな中、担当だけが綺麗である。担当だけが愛してくれている。"本物の愛"をくれるのだ。1/2100のちんことはわけが違う。「俺はお前とヤらなくてもいい!」と思っているのだ(疲れるから)。なのに1/2100は言う。「そんなホストなんて行かない方がいいよ。行くのやめたら」と言う。そんなことを言われるのがめんどくさいから「家庭の事情で…」などと言う。ペルソナ作りだ。「親が借金まみれで……」など。それに対する1/2100の回答は「親の借金って返さなくてもいいんだよ。何にも知らないんだなあ……」という言葉だ。風俗嬢には、ジジイは脳がお花畑で安易で安直で馬鹿で無能の無知の汚いモテないジジイでしかない。まあジジイの言葉を聞くのもプレイ料金の一部だ。「君を救ってあげたい」と言葉では言っている。本心は「あわよくば俺の性奴隷になってくれないかな」である。ちんぽ騎士団連隊! そんなことはお見通しである。第一、嫌いな男である。ただの金。ただの金を運んでくるATMの鳴き声は耳に届かない。友人の誠意ある言葉すら届かないのだから。
1/2100に何か言う資格はない。地獄作りに微力ながら貢献しているのだ。立派な悪人なのに、自分は善良な一般市民ぶっているのだ。お金を払っているのだからいいだろう。それぐらい許されるだろう。こっちもストレスたまっているんだ。お金を出さなかったら彼女たちはどうする。ちんこのために自己正当化を始める。なにゆえ悪人というレッテルを貼られる言説よりもこのオレのちんこの方が正しいのか。オレが直接手を下したわけではない。オレはただサービスを使っているだけだ。仕方ないじゃん。そんなに悪いかよ。いいですとも、いいですとも。犯罪ではない。それにこうしたシステムの存在が性犯罪の防止にも一役買っている可能性もある。引き続き風俗ライフを愉しめば良い。
煎じ詰めて考えれば、社会と経済と政治と法と道徳観や価値観の問題であろう。最近、千葉でJKが自殺配信をしたが、根本的にはすべて同じであると思う。物質的にはそこそこ問題ないのに、愛が無くなったために絶望して死ぬ。家庭で救えない。学校でも救えない。警察も救えない。行政も救えない。誰も救えないのだ。努力がなされているのは知っている。人知れず救われている人も多いだろう。俺はフェミニストは全く好きではないしむしろ嫌いだが、フェミニストがなぜキレているかはわかっているつもりだ。見えている視界が全く違う。中には救いようのないやつもいるようだがそれは知らん。
そういえばコメントに「ナンパされてブスと言われた」とあるがそれはナンパではなくキャッチである。「ブス!」というのは最後に苦し紛れに呪いをかけているのだ。現に記憶に焼き付いてしまっているだろう。真実はわからないが、呪いをかけたかったのは、そのホストの売上がまずくてストレスがたまっていて、キャッチを何度もしたけど無視され続けていたところに通りがかったのが言及者で、ストレス発散先にちょうど良かったといったところだろう。ホストだけではないが、「しゃーない。『安牌』行くか」と思って声をかけたときに、その『安牌』にすら無視されると強烈にイライラするようだ。高跳びで140cmが飛べないから110cmまで下げて飛ぼうとしたら引っかかったようなものだ。それからここでいう安牌だとか「お前なんかゴミだぞ」というのはホスト側の価値観による。マジで気にする必要はないと思う。奴らは別に誰にでも言う。通行人のことはNPCだと思っているから。
ウシジマくんに似ていると思うかもしれない。ホストもウシジマくんを読んでいるからだ。影響は受ける。
話は変わるが、フェイクニュースも統一教会も、根本的に構造は同じであろうと思っている。資本主義スキームとでも言うか。需給一致だ。「私は無限の愛をあげるのでお金がほしいです」「私はお金をあげるので無限の愛がほしいです」の双方の利害が一致している。心のスキマお埋めしますとやっているのである。トランプがホストだと思えばよい。「愛してあげます!愛してあげます!あなたたちのことをわかっているのは私だけなのです!」と言う。一人ひとりの怠惰が結合してモンスターになっている。ジョーカーという映画はそれを綺麗に描いている。キラキラワールド。俺が上、お前が下、そういうことをいつまでもやっている。世界的に江戸時代。穢多・非人と呼んでいた時代と何が違う。カースト制と何が違う。末法の世。精神的支柱や象徴や依存先を永久に欲しがっている。IKIGAIである。理想郷を求めている。そんなものはない。ちんことまんこにどうして社会がこんなに振り回されなければいけないのか。みな、対岸の火事である範囲なら「あれま、可哀想に」と言うが、ひとたび自分が関係していると知ると「いや、自分じゃないですよ」「自分に刃を向けてくるとは……コイツはクズ!」と敵対し始める。同じ穴のムジナである。ホストだけが悪いのではない。悪のシステムを構築した黒幕ゴミクソ野郎だけが悪いのでもない。俺も悪い。お前も悪い。ホストも悪い。ホストに騙される女も悪い。全員悪い。最近立ちんぼやってるんだって?なんじゃそれ。クソワールド。
書いていたらすごくムカついてきた。どうかこの世はクソワールドではないと言ってくれ。
スーパーマリオは映像作品ではあるが、映画ではない、ということかな。
例えば思考実験として、先日のサッカーW杯日本対ドイツ戦の中継をガワだけ映画にしたとする。映像は完全に中継そのままだ。実況と本田圭佑による解説付きだ。声出し応援もOK。
果たしてこの映画は面白いか?多分面白い(とする)。気心の知れた友人知人と行ってよし、家族と行ってよし、恋人と見てもよし。
では映画評論家はこの映画を評価するだろうか?間違いなく評価しないだろう。
つまり映画には映画足りうる何か決定的な要素が実はあって(それが何かは知らない)、そこが欠けているからサッカー中継は映画になり得ない。
そして映画スーパーマリオもそれが欠けているから映画になり得ない、というわけだ。
では映画の要件とは何かと言われるとわからないし、映画の価値を高めるために崇高なる隠れ変数を求めるのは確かに情けない。
けれども、「映画の価値は未来の映画にどれだけ影響を与えるかどうかだ」などという妄言よりはましだ。うるせぇバタフライエフェクトぶつけんぞ。
日本の社会人の平均学習時間は1日6分、そのうちの95%の人の学習時間は0分。
これが日本社会の現実である。つまり何もスキルを身に着けようともせず、自分が学校を卒業したころ、自分が最初に就職したころと似通ったスキルで世の中を渡りきろうとしている人々がいる。あなたはどれほど学習しているか。
ほとんどの人は『努力』と『苦行』とを同一視している。これは教育の失敗によるのであろう。努力は苦しみを伴うことも多いが、苦しめばすなわち努力となるのではない。耐え忍べばいつかは救済が来るわけではない。苦行は意味がない。苦行ばかりしている人が多い。『わたしたちはいっぱい苦行をしている』と言い張っている。それは正しい。しかし努力をしなければならない。自分の意を通すために必要なことをすべてやる能力を努力という。
他責ばかりする者が多く見られる。『他責にするな』というのではない。どうして自分の人生のすべての責任を、完全に他人のせいにしてそれを受け入れていられるのか。人生の主導権を手放して、それで満足か。痛めつけられてきて、自らの未熟さを世間から突きつけられ続けたからかもしれない。蔑まれ、馬鹿にされ、からかわれ、侮辱される。どうせやっても無駄だと感じているか。無論、社会というものがクズに見えるのは仕方がない。クズな人間は目につきやすい。ノイジーマイノリティである。悪事千里を走るとも言う。ふざけたどうしようもない人物も実際に多くいる。そういうふうに社会を見れば、社会は「クズ」の総体でできたもののように見えるのも無理はない。「ああ、社会というものはどうしようもないんだね」と思うのだろう。違う。
いつまでも自分がモラトリアム期間の中にいて、いつまでも人生が猶予されているように振る舞っている輩が目につく。年齢を重ねれば自然と大人になるわけではない。大人になろうとしなければ大人になることはできない。知識を重ねさえすれば大人になるわけではない。それはアダルトチルドレンという。どれだけの人々が、愚痴も言わず、他人の人生を助け、人々を愛しているかをしっかり見ようとしない。気付いてしまえば、己こそが真のクズだとわかってしまうからだろう。社会とは、自分の身の回りだけではない。自分の身の回りは世界ではない。世界のごく一部である。
どれほど自分が未熟で、愚かで、他罰的で、人に迷惑をかけ続け、どうしようもない、本気を出せない、信頼を容易く裏切る、クソガキ的存在なのか、そういうことに思い至りたくないのだ。このように言うと、実際反発する人が多いものだ。自分がいかに素晴らしく、いかに努力をしており、それに比べて他人はどうしようもなくダメで、他人は楽々生きているように見えて、恵まれているくせに、厚かましい無神経なやつばかりなのだと思っている。
「ああ、これは自分のことを言っているのだ」と振り返ることができない。どこかずっと他人事である。そういうことは、自分ではない他人がやるべきなのだと思っている。しかし他人も人生は1つしかない。どうしてあなたのために、他人は他人の人生を犠牲にしなければならないのか。他人にどうにかしてくれという発言は、ドラえもんを求めるのび太の声である。誰かスーパーヒーローがやってきて、自分を救ってくれはしないかと思っている。自分がドラえもんになろうとはしない。
ヒーローはいる。ヒーローは、人知れず人を助けている。感謝など誰からもされない。それこそが大人である。少し探せばいくらでも見つかるものだ。探そうともせず、目が曇っているから見つけられないのだ。自分はやっている、十分やっていると思っている。いいや、全然、やっていないのだ。耐えるだけなのは、怠けているのだ。耐えるだけなら楽だろう。耐えている自分は善で、耐えさせる他人が悪なのだ。そして、素晴らしい人々は、自分とは違う世界の住人だと思っているか。そうではない。身の回りの調度品を注意深く見よ。それはどう作られているか。あなたに作れるか。何故それがそこに存在できるのか、安全に暮らしていけるのか、思いを馳せない。それが当然のことだと思っているからだ。当然ではない。先人たちの血と努力の奇跡的結晶を「それが自然の摂理だ」と、誤って学習してしまったのだ。
努力や忍耐など他国の人々もやっている。とてつもなく多くやっている。他国の人は決して無知の民ではない。同じ人間であり、ホモ=サピエンス(知恵のある人)である。野蛮人だと思っていたか。自分だけだと思っていたか。それだから追い抜かれたのだ。時代のせいにするな。甘えるな。依存するな。もうとっくに、昭和ではないのだ。今の社会人は全員が不景気しか経験していない。得など誰もしていない。「他国のもっと苦しんでいる人だって頑張っているのに」という言葉を軽く見ている。心が鎖国しているのだ。目を向けなければいけない。自分が、自分が虐げられていることだけが重要だと感じているのだろう。あくまで自己が優先。他人など蹴落としてしまえ、他人を虐げてしまってもよいという精神が、他人を容易く批判させる。
大人とは、「あなたは悪くない、あなたは少しも悪くない、悪いのはあなたではないよ、あなたは頑張っているよ、あなたは虐げられているよ、あなたは大変だったね」という悪魔を求めるべきときではない。そんなことは、ほとんどの場合、言われないものだ。当然の如くやるものだとみなされている。褒められもしない。愛されもしない。やるのが常識だと思われる。報われることもない。それでも頑張れるのは、わかってくれる人がいるからだ。自分のことだ。自分が、どれほど懸命にやっているかわかっていれば、それで良いのだ。
社会には大人が少ない。いないわけではないが、割合少ない。見えにくいというのもある。だから大人を求めている。全く割に合わず、非合理であっても、それをやろうとする人間を求めている。自分の任務をわきまえて、それを果たせる大人を求めている。年齢的な意味での大人は、見限られていることも少なくない。どうせ言っても無駄なのだ。固定観念に縛られて、他者に損害を与え自己利益だけを徹底的に追求する邪悪だと思われている。そのわりに、自分は正義だと思っている。だから子どもに教えているのだ。大人は、子どもに救いを求めている。「未来の大人たちよ、私達を助けたまえ」と言っている。
俺たちは、もはや助けられる方ではない。助ける方なのだ。誰か助けてくれると思っても仕方がない。なぜなら助けてくれる人が全くいないのだ。日本は王国でも帝国でもない。早々に自分の人生は解決して、他人を助ける側に回らなければならないのだ。進まなければならないし、進もうとしているのだ。耐える必要はない。ただ努力せよ。
もしもそれができないなら、指をくわえてみていれば良い。救ってやろう。守ってやろう。俺たちは大人だから、そうしたいのだ。
俺は、この文章の意味が、ただ1人にだけ伝わればそれでいい。俺はただ、社会がクズなものだと思いたくないのだ。世界は素晴らしいのだ。
【追記】
コメントで気づいたのだが、アラサーって20代後半からのことでもあるのですねもう数年経験してるじゃん私
てっきり30歳からのことだと思ってました
-----
初めてここに書きます
だが31になって、昨年までに感じなかった様々な変化が現れてきた
全部で5つ
まず体重。
20代の頃とおなじ食生活を送っていたのにこの1年で5キロ以上増えた
「子供でもいるのか???」と思うぐらいの体重の増加とお腹の脂肪にここまで太ったことの無い私は寧ろ感動した
脂肪の蓄積具合がやべぇすげぇ
胴体と二の腕と太ももはぶっといのに、顔と首と肘から先とふくらはぎはほっそりしてるんだよな
毎回鏡を見る度に、体のバランスの悪さがとても気持ち悪いと思う
次に肌の変化
肌の色は色白な方
そして私は元々、顔にできものやニキビができたら潰して白いのを出してしまう悪癖があった
そのせいか手穴は開き、潰した箇所にシミのような痣?がいつの間にか複数箇所できていた
日焼け止めを塗ったり化粧水をつけたり等スキンケアは最低限していたはずだが意識が足りなかったのだろう
あと、潰す悪癖を辞めるよう意識しようと思う
こうなり始めてから洗顔はLUSHのブラックダイヤを使い始めてみた
今後に期待
そして睡眠不足
これは100%私の意識の低さが原因なのだが夜中までTwitterをしたり絵を描いたりぬいぐるみ作りをしているせいで毎日の睡眠時間が4、5時間はしょっちゅうある
その影響でクマができて肌は荒れるし仕事中も何度かうたた寝してしまった
社会人失格だ
と同時に20代の頃と比べて睡眠不足の状態が続くと肌荒れに直結したり休日の日に長時間寝ても寝足りない事案が発生している
若さは偉大
友人の結婚、出産にお金が飛び、それと同時に未だに子供や結婚どころか恋人すらいない自分に情けなくなった
結婚や出産した友達におめでとうの気持ちはあるが、子供にあまり興味は無い
でも幸せになって欲しいとは思う
けど、命の危険があるし怖い
それに痛いのは無理なので無痛分娩にしても出産後の育児にも継続して莫大な費用がいる
もし、無事に出産できたとしても私が結婚して子供を作る頃には両親はこの世にいないだろうし、子供を配偶者の親に頼みたくは無い
おまけに体力もない病弱な私は赤ちゃんの夜泣きやわがままに耐えられる自信が無いし、配偶者が家事育児ノータッチの仕事人間だったら子供を殺しかねない
今年で父は65歳、母は71歳だ
配偶者なし恋人のフラグもなし一人っ子親戚とも疎遠の私に前々から感じていた将来への不安が重くのしかかる
周りの友人知人も親の高齢化による病気や事故で亡くなる人が増えてきた
飼い猫達やリアルの友人、たくさんのネ友がいるとはいえ、両親が死ねば私は一人だ
おまけに貯蓄も不安
成人してから今まで働いた年数よりも親のスネかじって飼い猫達を世話しニートしてきた年数のが長いド田舎暮らしの私
今それをとても後悔している
2年前から会計年度任用職員というものになれたが、障害者枠で就職したので税金と交通費抜いたら手取りが10万にも満たない
さらに、昨年は飼い猫の手術や通院費で貯蓄のウン十万が一瞬で吹き飛び私の貯蓄はほぼゼロ
おまけに父は恐らく今年で定年退職だし両親達も通院や家の修理費などで貯蓄は期待してない
なので私のボーナスが非常に楽しみだし、来年は会計年度任用職員にも勤勉手当がつくので引き続き働けるよう頑張りたい
あと、ゴミ屋敷となった自宅をどうにかしないとな…
と、まぁアラサーというものを経験し始めてから感じた変化はこれぐらい
とりあえず、両親と飼い猫立ち寄り先に死なないように気をつけたいと思います
エンタメ系の番組は放送中止したり、あるいは冒頭に追悼メッセージを流したりする。中止にはしないし楽しいエンタメを放送するけど、でも出演者全員の衣装が黒とかそういう場合もある。Mステみたいなアーティストの派手衣装が予想されるような音楽番組でもそう。
自殺した有名人の友人知人の有名人たちは、公の場に追悼メッセージを公開する。インスタなどでの公開で終わることもあるが、親しかった友人などは追悼会場的な場所に直接メッセージを書いた紙を残す。ファンや野次馬はそれをネットで共有し、またみんなで涙する。共有されることが前提になっている。みんなで彼を惜しみ、泣こう的なかんじ。
メッセージの内容は、自死という事象にも触れるようなものだ。辛かったなとか、お前いつも自分のことは後回しで優しすぎたもんなあとか。
別に生きてても楽しいこともあまりないので近々自殺したいと思っているけど、折角なので最期は多少派手に自殺出来たらと考えてる。人知れずひっそり死ぬのではなく、誰かの印象に残る死に方がしたい。しょうもない自分の人生だけど、せめて最期は痕跡を残して死にたい。例えば電車に飛び込んだとしても、東京では人身事故は日常の出来事過ぎて誰の印象にも残らない。電車に飛び込む瞬間を配信するというのもすでに何人かやってる人がいるのであまり話題にならないだろう。(でも先日の飛び降り配信はすごく話題のなってた気もするので、やり方次第で話題にはなるのかもしれない。)人様に迷惑をかけるのは良くないと思ってはいるんだけど、派手に死ぬということはある程度の迷惑とのトレードオフなのかなと思ったりもする。
女の人知らないかもしれないけど、引き抜くとビヨビヨなるやつかばんにつけて集団下校してるだけで子供でもそれなりに安心なんですよこの国
「権力関係なんかなくても、ただ肉体的な力の差だけで弱い方はNOを言えない状況」ってどこに発生しうるんですか?
肉体的な力の差が支配的な局面で不本意な何かが起きたとしてなんでそこに警察呼ばないんですか?
暴力で警察に勝てる個人なんてそれこそ漫画の中にしかいませんよ?呼んだらその局面劇的に変わりますよね?
どうして女の人は成人しても子供並みの能力が持てないんですか?
赤ちゃんなんですか?
女の人は歳を重ねると赤ちゃん生むんじゃなくて赤ちゃんになっちゃうんですか〜?あかちゃんごでしゃべったほうがいいかな〜?バブバブ?
1年半くらいは、だいたい調子良くシェアハウス暮らしができていた。いや、特定の住民の言動や行動がいちいちキモいな、と感じたりなどのストレスはあったが。
しかし、去年の秋くらいから、そのキモいやつ含めた住民の男性2人が、恋愛工学とかナンパ術みたいな話題で、みんながいるリビングとかでもおおっぴらに話が盛り上がるようになってしまった。
その様子や内容がものすごくひどいものだったし、そもそもそんな話は誰がそこにいるかを考えてしろって感じだし、ナンパはついにわたしの友人にも被害が及んだので、いよいよ看過出来なくて、注意してみたものの、まったく聞く耳持たず。(ややこしいことに、後々その友人からもわたしはある酷い加害をされることになり、さらには友人のほうが「被害者だ」とわたしとの共通の友人知人に言いふらしまわるようになった……)
こいつら、まさかこんなに話が通じないバカなやつだったのか、と思って、とても残念だった。
そうこうしてるうちに、住民の女性ひとりが、トランスヘイターなことが判明。トランスジェンダー女性への、絵に描いたようなヘイトを平気で吐いたりツイートしたりするものだから、見ていられなかった。
同居人ではなかったが、その女性の彼氏もなんだかおかしなやつで、言うことなすことどうにも理解できないことが多く、しかし若い子なのでフンフン話を聞いたり肯定したりしてあげてたけど、「付き合ってられない……」と限界がきた。
シェアハウスの運営の担当者も、まさかよりにもよってそこの政党の人間だったとは、といった感じで、まったく相入れねぇーーー!!……ってのは、入居してしばらくしてわかったことだったけど。
簡単に書いてるけど、じぶんは社会的弱者で属性的にもマイノリティーなのもあり、これらがなかなか複雑に地獄だったので、洒落にならないレベルでメンタルに支障をきたして、じぶんでも出来ることはやってなかなか頑張ったものの、やむなくシェアハウスを逃げるように出てきた。
次の住まいにスムーズにありつけたのは、ラッキーとしかいいようがない。
あんな泥舟のような雰囲気の家に住んでたら、潰れてしまってたと思う。
離れてかなりメンタルが安定してきたけど、いまだに潰れることがある、が、月に2回のカウンセリングを受けるようにしていて、それがそれなりに効果がある。
だが、わざわざ移動で1時間半もかけてカウンセリングを受ける労力をこちらがしないといけなくなったのには、腑に落ちなさがある。
カウンセラーも、「シェアハウスで、その状況は、苦しすぎる……」と、言葉に詰まっていた。
思い出や楽しいこと、仲良くいられた時間もたくさんあっただけに、傷ついての退去の形は、なかなか辛かった。
といいつつ、いま1人で住んでいる一軒家も、いずれシェアハウス的に共同生活になる家ではある。
経済的な事情や心身の不調で、賃貸での一人暮らしはどうしてもできない。
次にまた似たようなことが起きても、「他人事、他人事」と思って、生暖かく見守ることにする。
そう考えられるようになったところについては、はじめてのシェアハウスで暮らしてみて得られたことの一つだったのかもしれない。