はてなキーワード: 信心とは
絵描きは、「俺たちの元データを使うな」という世界的な運動ができるから良い。
小説や脚本家も、確かに、「自分たちのデータを使うな。無断で学習してデータを使うな」
という運動を起こしている。
プログラマとかも、OSSが自分のコードを丸写しで吐き出していることに対抗措置を取ろうとしている。
これは、反論されているものの、ある程度の一定の説得力が有る。
でも、なにも持たない人たちというのがいて、その人達はAIのちからに対して無力である。
何のデータも持たない人たち、というのがいて、その人達は「AIを使う」ことによって、無力になると思っている。
本来ならば、普通に働けば、手取り30万まで行けそうな仕事の椅子が、一気に縮小した。
これをどう見るべきか?
米国企業が、AIを理由にレイオフしまくっているのをみるに、もうそろそろ危険な段階に入っていると思う。
「この流れは止められない」とか言ってるが、AIを理由にクビを飛ばすだけでは社会的な貧困が拡大するだけで、政情不安にしかならない。
その場合、どうするのだろうか。ライダットと揶揄している人たちが、実は一番首筋が寒いことを気にしていて、なんとかAIを使うイス取りゲームに残ろうと必死なのだが、実際、言動を見ているに不安感に襲われているだけのような気がする。
日本の政治家たちは、なぜかAIを素晴らしいものだと勝手に解釈しているが、もはやAIが新興宗教団体レベルの信心になってしまった。
AIに任せれば世界がうまくいくし、日本は発展すると勘違いしているようだが、日本の最大の問題である少子高齢化については、まったくAIは役立たずである。
ちょっと前に「井戸を埋めるときにパイプを通しておかないと祟りが起こる」みたいなオカルトまとめがちょっと話題になってたけど、それに関連して今の仕事で悩んでいることがある。
リフォームの会社に勤めているんだが、やや高齢のお客さんが「電磁波有害説」を最近信じ始めてしまったようで、オール電化の予定だったが急遽ガスに変更したり、炊飯器もガス炊飯器にしたいとかの変更がでた。
今のところ変更自体は別にいいんだけど、この前打ち合わせにお家に行ったら珍妙な機械(説明が難しいんだけどでっかい円錐形の金属が上下についてるオブジェみたいなやつから線が出ていて、白い陶器製?っぽい丸いなにかに繋がってる)が置いてあって、嫌な予感がして調べたらやっぱり高価な電磁波対策機器だった。
そこのホームページには要領を得ない説明と、電磁場測定器を使っても変化が無いことへの言い訳が赤文字で書かれているようなもうカスッカスの詐欺商品だ。
で、最近また壁に電線を埋め込まないで欲しい(これは普通に無理)とか、コンセント全部にアースを付けてほしいとかのリクエストが増えてきた。
ちょっとずつコストが上がるような要望が出るにつれ、自分が詐欺に加担しているような嫌な気分になる(実際、工事費が上がれば比例して儲けも増えるわけだし)
でも風水に従って変な位置にトイレ付けて余計に工事費がかかるくらいのことなら普通にあるわけで、それと何が違うのか?それで施主が満足するなら別にいいじゃないか。とも思う。
俺はべつに電磁波の専門家でもないし、お客さんを安心させられるような化学的に正しい説明も出来ない。
そんな中途半端な人間がお客さんの信心を中途半端に否定しても悲劇しか起きないだろうということもわかっている。
でも同時に目の前で明らかな詐欺に引っかかろうとしている人を放っておくのは人倫に悖るとも思う。
もし騙されているのが自分の親なら徹底的に調べて言葉を尽くして説明して止めると思う。
どうしたらいいだろう。いや、どうすることも出来ないんだけど。
元々電磁波有害説にハマってる人として出会っていたらこんなに葛藤しなかったと思う。
知り合ってから徐々にハマり始めたのを目撃しているからこんなに嫌な気持ちになるんだな。
打合せに行くたびに野菜とかお菓子を持たせてくれるようなひとなんだよな。
底なし沼に沈んて行く人を黙ってみているような気分だ。
与党議員がとりさげさせようとする理由がよくわからなかったが、
https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20230414/1681484184
話を把握した上でブログの内容には「ん?」となる点もあるので
ブログやその周辺のコメントによる山田批判の妥当性も含め以下検討したい。
という問題がある。
以下の二人の発言を読んでほしい。
cinefuk NOと言えない状況に追い込むテクニック(たとえばロリコンの使うグルーミング、家庭内性暴力、職場のハラスメント)がある訳で
「NOと言わないのは自己責任」は、性暴力を矮小化したい勢力だけに寄り添う想像力の貧困
2023/04/15
お気付きだろうか?
二人の挙げる全てが蝶ネクデブが問題視したポスターの状況とは異なるのである。
https://twitter.com/yamadataro43/status/1646452603415560192
二人の作為に逆らい、話を「蝶ネクが論じていたもの」へ戻そう。
https://twitter.com/KodomoKatei/status/1645230118015586305
https://pbs.twimg.com/media/FtE8SrwaEAAhQB9?format=jpg&name=4096x4096
どうだろうか。
チェックポイントを並べてみよう。
・男女間に年齢差は見えず、「ロリコンの使うグルーミング」も表現されていない。
・父子ではないし兄妹の示唆もなく、「家庭内性暴力」も表現されていない。
・職場のディテールや背景もなく、「職場のハラスメント」も表現されていない。
なんと一つのチェックも入らなかった。
ほっけさんシネフクさんが持ち出した要素は図案の中に一切存在していない。
要するにこれはそのような要素の無いフラットな男女を描いた図案なのだ。
ほっけ「でもこの2人が上司と部下だったら?」
しねふく「でもこの2人がロリコンと幼女だったら?父子だったら?」
それはもう別の話だろう。
こういうのは決して「別の言い方でわかりやすく問題を紐解いた」のではない。
「相手の主張を別内容にすり替えてしまった」と言ってよいだろう。
そもそも詭弁をやる気のない者は相手の言ったことにそのまま反論するものだ。
私は少なくとも蝶デブの言いたいことは分かる気がした。
意思表示がされていなかったにも関わらず
わりとなんでもありになってしまう
という問題だ。
もちろん交際相手に甚だしく支配的に振る舞う人間というものは実際にいる。
皆さんご存じのように、暴力や脅迫は社会的にも法律的にもアウトだ。
そんなとっくにアウトと知れ切ったモロ犯罪行為についていまさら啓蒙しているわけではなかろうから、
なのだ。
男が顔を赤らめ「喜んでると思ってた」と言っていることからもわかるように
「暴力や脅迫で言うこと聞かせてはダメですよ」なんて話をしてるのではなく
より繊細な領域について啓発していると取るのがポスター解釈としても無理がないだろう
繰り返しになるが、
当該ポスターがカップル間での暴力や脅迫について啓蒙する意図なら率直にそう書けるし必ず書く。
そんなものは絵にも文にもずっと描きやすいし、何より「これらは犯罪です!」と書けるからだ。
もう少しハラスメントの程度を落として
が、それらについて啓蒙したいならやはり率直にそう書けるし必ずそう書く。
(ほっけさんシネフクさんですら、そういう明白な脅迫や威圧等は無い、より微妙な状況下の話をしている)
つまり
もう片方の重大な落ち度とする
というのがこのポスターの周知せんとしている内容だ。
これはどんなもんだろうか?
適切な内容だろうか?
というかポスターの女性を一人前扱いしない場合に限って成り立つルールだと思う。
図案は少なくとも性交同意年齢以上の想定で描かれた男女であるはずで
にもかかわらず特別困難な状況も無いのに自分の意思表示が出来ない責任が取れないというなら
それはもう当局の定めた性交同意年齢の設定が間違っているのではないか。
「保護者の同意なき若年層のセックス禁止」としたほうがすっきりしないか。
(ちなみに若年層というのはおよそ20代までを含む。)
でも意志表示が出来ません、
言い出さなかったけど本当は「NO」なんです。
これを保護して相手を責めるとなると今度は相手の立場や権利と正面衝突することになる。
特に障害も無い性交同意年齢以上・成年以上の女性達に広く与えてどうするのか。
まるで女性全員を知的障碍者に準ずる何かだと言ってるようにすら見える。
というより、これは殆ど家父長制の再来ではなかろうか。
娘が自由意思で異性と交際していても実はそれは「NO」であって
娘の当時の意思表示がどのようなものであれ手を出した男は不法な泥棒であって
娘の父や兄はその泥棒をショットガンで追いまわして石打でぶっ殺すのが名誉を守る術である
自分を「禁治産者」や「父兄の管理財産」などではなく責任と権利のある人間として扱ってほしいし
お豆扱いの啓蒙するぐらいなら暴力や脅迫について駆け込むホットラインを充実させてほしい。
というか私だけでなくて
「このポスターにはちょっと問題があるな、庇って戦うには苦しい部分があるな」
と感じていたのではないだろうか?
何故そう推測できるかと言えば、
ポスターの内容に弱みが無ければ、
他の話をせずにただひたすら絵の内容と議員の発言だけを取り上げて
「この絵のどこが問題だ変な首輪しやがってこのブタが」と言えばいいではないか。
少なくとも私なら絶対にそうする。
だが彼等は
「権力関係」
という持ち込みマヨネーズを添加し内容を別物にしてから反論した。
まさに彼等の言うとおり、
権力者と被支配者、成人と未成年、保護者と被保護者、上司と部下、
いちいち暴力や脅迫や怒声や罵倒なんかを示さずとも相手を従わせることも可能になる。
だからこそ現行で既に、
上司が部下に告発されたら、成年が未成年に告発されたら、保護者が被保護者に告発されたら
事実関係さえ確認されれば(場合によってはそれすら省略されて)即アウトという相場になっている。
「実際のカウアン少年が老け専のゲイで自分から望んで喜多川と恋愛関係にあった可能性は?」とか
「当時のカウアン少年は本当に「NO」だったのか?」とか
喜多川が成年かつ保護者かつ使用者で、カウアンは未成年かつ被保護者かつ使用人だったから。、
ほっけさんらの言が山田太郎批判のつもりであれば、それは完全に破綻している。
「セカンドレイプがしたいんだな」
のような。
しかし上で見た通り
脅迫等をされてないのに自分の意思表示をしねえ&後から「NOだった」と言い出せるルールならば
それはもう例えYESの言質を取ったって同じではないだろうか?
そういうことを言える身分の人相手では例え書面の同意を取っても意味がないだろう。
同意を毎回相手の口から言わせて確認取るコミュニケーションなんてものが現実的に有り得ないわけだし、
「無条件に後出しOKな相手から、決して後から変わることのないYESを取り付ける」
「何故飛ぼうとしないんだ」などと相手の倫理的問題であるかのように責める、
これはパワハラ上司やモラハラ運動部監督のあの低レベルな対人テクニックと何が違うのだろうか。
果ては
「やろうとしないってことは悪意があるんだな」
「性加害擁護したいんだな」
などと凄まじいレッテル貼り戦法に展開するに至っては
とにかくこいつを否定してワーワー言えればそれでいいや。」
本当にそれでいいのか?
ネクがどういう人なのか詳しくは知らない。
このあたりのハチャメチャな論客たちより議論姿勢は誠実に見える。
・敵視した者の話はまともに読まず
対等な男女間で無条件後出し「NO」は認めるべきか?
・言いにくい意志でもきちんと言うのが責任能力者の権利であり義務では。
・どうしてもできないなら成年後見人を立てたらよいし
全体に言えること
・せめて「社会をよくするために真面目に考える」という姿勢は持つべき。
そこを守った上で論敵を超えられないならその議論に時間使う価値はない。
人の役に立たないし自分の頭も悪くする。
これ書いてるうちに気になって庁のツイートとwebサイトを見たんだが、
https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/jakunengekkan/index.html
これがwebサイトなんだけど。
AV出演被害、JKビジネス、レイプドラッグの問題、酔わせて性的行為を強要、SNSを利用した性被害、
ここまで一緒に見てきた人はみんな「えっ?」ってならないか?
AV出演は年齢クリアしてりゃ好きにしろの話であって性暴力じゃないし、
セクハラも痴漢もふつーに告発して社会的に法的に罰を与えられるやつだよね。
なんかこれ、啓発内容とポスターが別内容過ぎない?
https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/jakunengekkan/img/r05_poster.png
サイト記載の文章の啓発内容は「AV出演」を除いて明確に違法行為のクロばっかりで、
一方当該ポスターの図案は男女交際におけるグレー領域……少なくともクロにしちゃうと色々問題だろという繊細で曖昧な領域のことが描かれている。
このポスター見て「性サービス業や痴漢やレイプのこと言ってんだな」と思う人間がどこにいる?
山田とは別論点なのかもしれないが、何かがおかしい感じは凄く感じる。
文章の啓発内容はごもっともというか「クロ」であるコンセンサスがとれたものばかり(AV出演を除く)なのに対して
ポスターはものすごく曖昧な部分で男をクロとする踏み込みまくった内容になっている。
これは制作とチェックの混乱でこうなっただけなのか?ほんとに?
ほっけさんたちに軽く突っ込むつもりで書いてきて、最後に不気味な謎にぶちあたってしまった。
tzt いや「怖くて何も言えなかった」て書いてるやん。メッセージが迂遠だという批判はあり得たとしてもお前の批判については完全に的外れだよ。
2023/04/17
いや、そういう
「明らかな脅迫等は無くても権力関係を背景にNOを言えない状況」
については私とほっけさんシネフクさんの3人で散々確認したよね?
くどいかな?ってぐらい何回も書いたよね?
でもあのポスターはそれらのどの状況にも当てはまらないんだわ。
そういう特別な困難のない条件下で
「言えなかったんです!」という後出しを免責して
「遡ってあのセックスにNO!だからこの人は性暴力!」という告発をアリにしていいの?
そんなのやり出したら
交際において片方だけを知的障碍者レベルに責任問わないルールになるんだけど
本当にそんなことをして誰かの為になると思う?
こういう時に問題点に目をつぶってとりあえず賛同すると簡単にいい人ぶれるし、
もしくはあなたはひょっとすると能力的にそもそもこのポスターの問題に気付かないかもしれない。
でも例えばほっけうるふさんとシネフクさんは本心ではちょっと問題点に気付いてると思うよ。 既に書いた通り。
彼等は多分あなたよりは頭がいい。
hate_flag
いやほんと、このポスターに対する反発が強ければ強い程「やっぱこのポスター必要だったな」って結論にしかならんわ
2023/04/17
この「私達が反論受けたということは私達は正しいということ!」っていう論法、無敵すぎない?
日蓮宗かなんかなの?
具体的な形で考えを述べて理屈を添えたし、
なのに具体的再反論ではなく
「非難や反論されることがわたしたちの正しさの証明!Q.E.D!」という
どっかの学会みたいな絶叫で終わりで、
あなた達の知性は本当にそれでいいの?
いいならあなた達はそれでいいや…。
何日か前に「井戸を埋めるときにパイプを通しておかないと祟りが起こる」みたいなオカルトまとめがちょっと話題になってたけど、それに関連して今の仕事で悩んでいることがある。
リフォームの会社に勤めているんだが、やや高齢のお客さんが「電磁波有害説」を最近信じ始めてしまったようで、オール電化の予定だったが急遽ガスに変更したり、炊飯器もガス炊飯器にしたいとかの変更がでた。
今のところ変更自体は別にいいんだけど、この前打ち合わせにお家に行ったら珍妙な機械(説明が難しいんだけどでっかい円錐形の金属が上下についてるオブジェみたいなやつから線が出ていて、外付けハードディスクみたいな白い四角い箱に繋がってる)が置いてあって、嫌な予感がして調べたらやっぱり高価な電磁波対策機器だった。
そこのホームページには要領を得ない説明と、電磁場測定器を使っても変化が無いことへの言い訳が赤文字で書かれているようなもうカスッカスの詐欺商品だ。
で、最近また壁に電線を埋め込まないで欲しい(これは普通に無理)とか、コンセント全部にアースを付けてほしいとかのリクエストが増えてきた。
ちょっとずつコストが上がるような要望が出るにつれ、自分が詐欺に加担しているような嫌な気分になる(実際、工事費が上がれば比例して儲けも増えるわけだし)
でも風水に従って変な位置にトイレ付けて余計に工事費がかかるくらいのことなら普通にあるわけで、それと何が違うのか?それで施主が満足するなら別にいいじゃないか。とも思う。
俺はべつに電磁波の専門家でもないし、お客さんを安心させられるような化学的に正しい説明も出来ない。
そんな中途半端な人間がお客さんの信心を中途半端に否定しても悲劇しか起きないだろうということもわかっている。
でも同時に目の前で明らかな詐欺に引っかかろうとしている人を放っておくのは人倫に悖るとも思う。
もし騙されているのが自分の親なら徹底的に調べて言葉を尽くして説明して止めると思う。
どうしたらいいだろう。いや、どうすることも出来ないんだけど。
元々電磁波有害説にハマってる人として出会っていたらこんなに葛藤しなかったと思う。
知り合ってから徐々にハマり始めたのを目撃しているからこんなに嫌な気持ちになるんだな。
底なし沼に沈んて行く人を黙ってみているような気分だ。
落雷の結果、有機合成で空気中の窒素が固定化されて稲の生育がよくなる。落雷のことを稲妻と呼ぶようになった。
日本人がやたらと豆をたべるのは、豆が貴重なタンパク源だったこともあるが、稲の裏作で豆を栽培すると、根菌が窒素を固定するため、稲の生育が良くなることのほうが大きい。
田舎でやたらと彼岸花が栽培されているのは日本人の信心深さ、というよりも、彼岸花が窒素の固定をすることを知っていたからに他ならない。
日本史の教科書に「江戸時代、通貨経済が発達し、菜種油として現金化しやすい菜の花の栽培が普及した」と記述されているが、菜の花が窒素の固定をすることを知っていたから、という理由のほうが大きい。
7歳上のアンケセナーメンと結婚。夫の死後彼女が捧げた花を墓の発掘者カーターは「どんな財宝よりも美しかった」と称えた。未亡人となったアンケセナーメンは後継者アイとの結婚を嫌がった。
・ネロ
7歳年上の美女ポッパエアを寵愛。彼女の死を深く悲しみ、当時の慣習であった火葬ではなく防腐処理をして霊廟に収めた。
・曹丕
3歳年上の文徳皇后を寵愛した。聡明な彼女は夫に助言を与えた。曹丕も群臣の反対を押し切って彼女を皇后に立てた。
・劉駿
・宇文邕
北周の皇帝。7歳年上の李娥姿を寵愛した。北周が滅びると彼女は出家し、常悲に改名した。
・煬帝
占いにより吉とされた2歳年上の蕭皇后と結婚した。聡明な彼女は外遊の度に付き従い、度々煬帝の暴政を諫めた。
25歳の時に15歳年上の未亡人ハディージャと結婚。天啓を受けたムハンマドを励まし予言者としての自覚を与えたのは他ならぬ姉さん女房のハディージャである。
・仁明天皇
初代神聖ローマ皇帝。2歳年上の妃エドギタは美貌と信仰心を兼ね備え、彼女が若くして無くなると深く悲しんだ。
・ルイ4世
西フランク国王。7歳年上のジェルベルジュと結婚した。彼がバイキングに誘拐されたとき彼女は交渉により彼の解放を実現した。夫の死後は摂政として息子ロタールを支えた。
・李克用
後唐の太祖。3歳年上の劉夫人と結婚。武勇に優れた彼女は夫が朱全忠に殺されそうになると、自ら軍を率いて窮地を救った。
・円融天皇
12歳年上の媓子と結婚した。夫婦関係は良好で会ったが、跡継ぎに恵まれず立后後6年で媓子は崩御した
フランス国王。8歳年上のベルトと結婚したが、彼女とは又従姉妹であったため近親相姦に当たるとされ、ローマ教皇に破門と引き換えに離婚させられた。しかし、離婚後もベルトを愛し続け関係は続いた。
・藤原道長
2歳上の正室倫子とは夫婦円満で多くの子宝に恵まれたことが出世に繋がった。
・一条天皇
・三条天皇
2歳年上の綏子、4歳年上の娍子を娶る。綏子は当初は寵愛を受けるも、愛を試すために氷を握らされ、変色した手を見て興ざめされるという理不尽な理由で寵愛を失う。娍子も寵愛を受け6人の子を儲けた。
9歳上の中宮威子以外の妻を娶らなかった。
・堀河天皇
中宮は19歳年上の叔母篤子。夫婦共に教養人であったために仲睦まじかった。天皇が若くして崩御すると篤子は出家した。
・鳥羽天皇
2歳上の中宮璋子の間に7人の子を儲け、彼女の死を看取った際には号泣した。
・二条天皇
病没した近衛天皇の中宮で3歳上の多子を寵愛した。夫の没後多子は出家し、二人の夫の菩提を祈った。
・世宗
遼の皇帝。12歳年上の甄皇后を寵愛した。聡明な妻の助言を聞き入れず、放蕩にふけった彼は従兄弟に暗殺された
・徽宗
北宋の皇帝。側室の顕粛皇后は3歳年上。身分は低かったが、美人で詩才の会った彼女は皇帝の寵愛を受けた。
・高倉天皇
平清盛の娘で13歳年上の徳子と結婚し、安徳天皇を儲けた。同時代に活躍した右京太夫によると夫婦仲は良好であった。
・平宗盛
平清盛の息子。1歳年上の妻清子が亡くなると深く悲しみ、官職を辞した。一方で妻の遺言に従いその遺児を大切に育て上げた
・寧宗
南宋の皇帝。3歳上の温和な韓皇后と6歳上の多芸多才な楊皇后と結婚し、二人は皇帝の寵愛を競った。
1歳上の妻ボルテと結婚した。チンギスが弱小武将であった頃からの妻は特別な存在であったようでチンギスの後継者は皆ボルテの息子である。
・藤原頼経
鎌倉幕府将軍。16歳年上の竹御所と結婚した。夫婦仲は円満だったが、男児を死産し亡くなったため、頼朝の直系は途絶えた
・ビルイェル
スウェーデン国王。3歳年上の王妃マルタと仲が良く、彼女は国政に大きな影響を与えた。一方で弟のエリクとは不仲であったため、妻と共謀して獄死させた。
フランス国王。1,2歳年上の妻ジャンヌが姦通の疑惑で幽閉された際も彼女を信じ続けたため、無事釈放された。
・足利義満
・李芳遠
朝鮮王。妃は2歳年上の元敬王后。当初は夫婦関係が良好で8人の子を儲けた。また、夫を暗殺の危機から救い、李氏朝鮮の建国に貢献した。しかし、夫が即位し後宮を持つようになると、夫婦仲は悪化した。
・世宗
朝鮮王。2歳年上の昭憲王后を深く愛し、10子を儲けた。父王が外戚を警戒し、昭憲王后を廃位しようとした際にも妃を守り抜いた。
・端宗
朝鮮王。妃は1歳年上の定順王后。政治闘争に巻き込まれ、16歳の若さで流刑・処刑された。妻は毎日朝夕、泣き叫んで夫の冥福を祈った。
・睿宗
朝鮮王。正室は1歳年上の恭恵王后。間に子はなかったが、心優しい彼女は後宮にも優しく接っした。正室が病に倒れると王は毎日彼女を見舞った。
・中宗
朝鮮王。正室であった1歳年上の端敬王后は即位後7日で廃位されてしまう。しかし、王は彼女のことを生涯愛し続け、妻の実家のある仁王山を毎日眺めた。それを知った王后は自分が良く来ていた服を山にかけた。
・フアン
アラゴン王。3歳上のマルタは穏やかな性格で短気な夫を度々なだめた。
ブルゴーニュ公。1歳年上の善良な妻ミシェルは夫によく尽くし、領民からも愛された。
・ルネ・ダンジュー
フランスの王族。ロレーヌ公。9歳年上の妻イザベルは聡明で夫と共同で統治に当たった。夫が敵と交戦中には自ら軍を率いて援護に向かう、夫が敵に捕らわれている間も国政や軍事を代わりに行うなどした。
・正統帝
明の皇帝。正妃は1歳年上の銭妃。彼女は夫を深く愛し、皇帝がモンゴル軍の捕虜となった際には宮中の財産を集めて身代金を払おうとするも失敗、悲しみから毎日泣き続け、左目が失明、足が不自由になった。解放された正統帝は軟禁状態になったが、その間銭妃は夫を慰め続けた。その後帝位に返り咲いた皇帝は妻との合葬を遺命したが果たされなかった。
・成化帝
明の皇帝。19歳年上の万皇貴妃を溺愛したが、嫉妬深い彼女は他の妃を悉く堕胎させた。彼女が亡くなった悲しみから皇帝は同年に没した。
神聖ローマ皇帝。2歳上のマリー・ド・ブルゴーニュと結婚しブルゴーニュ公となった。政略結婚であったが仲は良く、共に乗馬や狩猟に興じた。しかし、マリーが落馬事故で亡くなったため、5年で幸福な結婚生活は幕を閉じた。妻の死後マキシミリアンはローマ皇帝となる。
・アフォンソ
ポルトガル皇子。5歳上のイザベルと結婚した。夫婦関係は良好だったが、落馬事故で夭折した。イザベルは再婚しないことを宣言したが、ポルトガル国王マヌエル1世と結婚することとなった
フランスヴァロワ朝の国王。19歳年上の愛人ディアヌ・ポワティエにうつつを抜かし、正妻カトリーヌ・ド・メディシスを冷遇した。厳密には妻ではない。
オーストリア大公。秘密裏に2歳上の豪商の娘フィリッピーネと貴賤結婚した。フィリッピーネは豊富な薬学の知識を持ち、貧民の救済に努めた。
8歳年上の信子を寵愛し、後土御門天皇を儲けた。
5歳年上の朝子を寵愛し、後柏原天皇を儲けた。
・ヨハン3世
スウェーデン国王。兄王エリク14世の許しを得ず、11歳年上のポーランド王女カタジナと結婚したため謀反を疑われ投獄された。加えてロシアのイヴァン4世からも離婚を要求されたが、妻への愛を守り通した。解放され即位した彼の政治にも妻は大きな影響を及ぼした。
・織田信長
6歳年上の側室生駒吉乃を正室なみに優遇し、病に倒れた際には頻繁に見舞ったとされる。吉乃は不明な点が多く実は信長より年下ではないかとされることもある
・直江兼続
3歳上の船と結婚した。側室を持たなかったことから彼女への愛の深さが窺える。
・バッハ
1歳年上のマリア・バルバラと結婚。7人の子を儲けた。夫婦仲は円満であったが、彼女が急死したため再婚した。バッハは前妻と同じく後妻も深く愛し生涯20人の子を儲けた。
・ウィレム4世
オラニエ公、オランダ総督。2歳年上のアンと結婚した。彼女は国民からの人気が無かったが、残された手紙から夫婦仲は良かったことが窺える
・フェルナンド6世
スペイン王。妃のバルバラは2歳年上。不美人であった妻を初めて見たときは落胆したが、音楽を通じて良好な夫婦関係を築き、妻の死を深く悲しんだ
ロシアの軍人。10歳上の女帝エカチョリーナ2世の事実上の夫。二人は深い絆で結ばれ、ポチョムキンは妻を支え続けた。晩年は軽んじられるようになったが、彼が没するとを女帝は深く悲しんだ
神聖ローマ皇帝。2歳年上の妃マリア・ルドヴィカと結婚。美人で親切な彼女は夫に献身的であり、愛人にも優しく接した。貧者の救済も行い、「女性の美徳のモデル」と称された。
・上杉鷹山
1歳年上の未亡人マーサと結婚した。家庭的で穏やかな性格の彼女は夫に献身的に尽くした。独立戦争の最中には夫に同行し傷病兵の看護に当たった。
イギリスハノーバー朝の国王。6歳上の未亡人マリア・フィッツバードに夢中になり、秘密結婚した。正妻キャロラインのことは嫌っており、冷遇したため、国民は彼女に同情した。
イギリス首相。3歳年上のルイザと結婚した。ルイーザは病弱ながらも信心深く献身的で時には秘密文書をコピーするなどして夫の政治活動を支えた。彼女は貧者や病人の援助にも力を注いだ。
・ハンス・アンデルセン
童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの父親。12歳上のアンネ・マリーと結婚した。
6歳上の美女ジョゼフィーヌと結婚した。ナポレオンが妻に熱烈な愛を向けたのに対し、ジョゼフィーヌは夫のラブレターを晒して笑いものにするなど、当初は良好とは言えない夫婦関係であった。跡継ぎに恵まれなかったため、二人は離婚したが、ジョゼフィーヌは皇后の称号を維持することが許され、二人の間に交流が続いた。ナポレオンは臨終の際に元妻の名を呼んだ。
アメリカ大統領。2歳年上の教師アビゲイルと結婚した。共に読書家であった二人の仲はよく、大統領就任後も妻に政治的アドバイスを求めた。ホワイトハウスに図書館を建設したのもアビゲイルである。
イギリス首相。12歳年上のメアリーと結婚。当初は金目当てで結婚したが、次第に愛し合うようになり、政敵グラッドストンですらその夫婦関係を模範的と称えた。
1歳上のいとこエマ・ウェッジウッドと結婚。エマは絵に描いたような良妻賢母で度重なる子の死に耐え、病弱な夫を支え続けた。
イギリスの首相。父からの激しい反対を押し切って3歳年上のジョージナと結婚したため、仕送りを停止され経済的苦境に陥った。生活費を稼ぐため政治記事の寄稿で稼いだが、聡明な妻は夫の執筆活動を支えた。首相就任後もジョージナは内気な夫に代わって社交界で活躍した。
・マネ
フランス印象派の画家。弟の家庭教師を務めていた2歳年上のピアノ奏者シュザンヌと恋仲になる。結婚に反対した父の死後二人は結ばれ、マネは妻をモデルとした絵を何点か残している。
南北戦争の英雄。2歳上の妻アニーは夫の死後生涯独身を貫いた。
・勝海舟
2歳上の民子と結婚。民子は奔放な夫を懸命に支え続けたが、最後は愛想を尽かしたようで勝のそばに埋めるなと言い残した。
・小松帯刀
維新の十傑の一人。7歳年上の妻近を深く愛した。日本で初めて新婚旅行に行ったのは坂本龍馬とされることが多いが実は小松帯刀である。
・明治天皇
・同治帝
清の皇帝。2歳年上の孝哲毅にうつつを抜かしすぎたため、母の西太后に引き離された。孤独を紛らわせるため、遊郭に通うようになりそこで梅毒に感染し死亡した
・ハリソン
アメリカ大統領。1歳年上のキャロラインと結婚。彼女はホワイトハウスの改修、女性の権利向上に貢献し、ホワイトハウス初の女性スタッフが雇われた。
イギリスの首相。4歳年上のシャーロットと結婚。夫婦は生涯にわたり親密であった。シャーロットは野心に欠ける夫の政治活動を支え、彼女の死後体調が悪化するようになった。
・エルガー
イギリスの作曲家。8歳年上のキャロライン・アリスと結婚。「愛の挨拶」は将来の妻のために捧げられた曲である。聡明なキャロラインはエルガーの音楽活動を生涯にわたって支え続けた。妻の死後彼の音楽活動は低迷した。
・ポワンカレ
・レーニン
1歳上のナデジダと結婚した。彼女はレーニンと共に革命運動に一生を捧げ、夫が病気に倒れた際も献身的に介護した。
・アルカポネ
1歳年上のメアリーと結婚した。彼女は両親の反対を押し切って結婚し、夫が投獄されると何通も手紙を書き頻繁に訪問した。稀代の大悪党だが、伴侶には恵まれたようだ
ドイツ出身の哲学者。4歳上のガードルートと結婚した。彼女がユダヤ人であったため、ナチスドイツから弾圧を受けたが、妻への愛を守り通した。夫婦で家に籠城し、強制収容所に送れられそうになる寸前で連合国軍が来て、夫婦の愛は引き裂かれずに済んだ。
ヒトラーの側近。5歳年上のカリンと結婚。二人は深く愛し合ったが、病弱な彼女は43歳で亡くなった。ゲーリングは彼女に因みカリンハルと命名された別荘を建設、自邸にもカリンの
記念品で埋め尽くされた自室を設置した。一方前妻だけでなく後妻エミーも深く愛した。
7歳上のアンケセナーメンと結婚。夫の死後彼女が捧げた花を墓の発掘者カーターは「どんな財宝よりも美しかった」と称えた。未亡人となったアンケセナーメンは後継者アイとの結婚を嫌がった。
・ネロ
7歳年上の美女ポッパエアを寵愛。彼女の死を深く悲しみ、当時の慣習であった火葬ではなく防腐処理をして霊廟に収めた。
25歳の時に15歳年上の未亡人ハディージャと結婚。天啓を受けたムハンマドを励まし予言者としての自覚を与えたのは他ならぬ姉さん女房のハディージャである。
・仁明天皇
1歳年上の淳子を寵愛し、文徳天皇を儲ける。
初代神聖ローマ皇帝。2歳年上の妃エドギタは美貌と信仰心を兼ね備え、彼女が若くして無くなると深く悲しんだ。
・ルイ4世
西フランク国王。7歳年上のジェルベルジュと結婚した。彼がバイキングに誘拐されたとき彼女は交渉により彼の解放を実現した。夫の死後は摂政として息子ロタールを支えた。
・円融天皇
12歳年上の媓子と結婚した。夫婦関係は良好で会ったが、跡継ぎに恵まれず立后後6年で媓子は崩御した
フランス国王。8歳年上のベルトと結婚したが、彼女とは又従姉妹であったため近親相姦に当たるとされ、ローマ教皇に破門と引き換えに離婚させられた。しかし、離婚後もベルトを愛し続け関係は続いた。
・藤原道長
2歳上の正室倫子とは夫婦円満で多くの子宝に恵まれたことが出世に繋がった。
・一条天皇
・三条天皇
2歳年上の綏子、4歳年上の娍子を娶る。綏子は当初は寵愛を受けるも、愛を試すために氷を握らされ、変色した手を見て興ざめされるという理不尽な理由で寵愛を失う。娍子も寵愛を受け6人の子を儲けた。
9歳上の中宮威子以外の妻を娶らなかった。
・堀河天皇
中宮は19歳年上の叔母篤子。夫婦共に教養人であったために仲睦まじかった。天皇が若くして崩御すると篤子は出家した。
・鳥羽天皇
2歳上の中宮璋子の間に7人の子を儲け、彼女の死を看取った際には号泣した。
・二条天皇
病没した近衛天皇の中宮で3歳上の多子を寵愛した。夫の没後多子は出家し、二人の夫の菩提を祈った。
・徽宗
北宋の皇帝。側室の顕粛皇后は3歳年上。身分は低かったが、美人で詩才の会った彼女は皇帝の寵愛を受けた。
・高倉天皇
平清盛の娘で13歳年上の徳子と結婚し、安徳天皇を儲けた。同時代に活躍した右京太夫によると夫婦仲は良好であった。
・平宗盛
平清盛の息子。1歳年上の妻清子が亡くなると深く悲しみ、官職を辞した。一方で妻の遺言に従いその遺児を大切に育て上げた
・寧宗
南宋の皇帝。3歳上の温和な韓皇后と6歳上の多芸多才な楊皇后と結婚し、二人は皇帝の寵愛を競った。
1歳上の妻ボルテと結婚した。チンギスが弱小武将であった頃からの妻は特別な存在であったようでチンギスの後継者は皆ボルテの息子である。
・藤原頼経
鎌倉幕府将軍。16歳年上の竹御所と結婚した。夫婦仲は円満だったが、男児を死産し亡くなったため、頼朝の直系は途絶えた
・ビルイェル
スウェーデン国王。3歳年上の王妃マルタと仲が良く、彼女は国政に大きな影響を与えた。一方で弟のエリクとは不仲であったため、妻と共謀して獄死させた。
フランス国王。1,2歳年上の妻ジャンヌが姦通の疑惑で幽閉された際も彼女を信じ続けたため、無事釈放された。
・足利義満
・李芳遠
朝鮮王。妃は2歳年上の元敬王后。当初は夫婦関係が良好で8人の子を儲けた。また、夫を暗殺の危機から救い、李氏朝鮮の建国に貢献した。しかし、夫が即位し後宮を持つようになると、夫婦仲は悪化した。
・世宗
朝鮮王。2歳年上の昭憲王后を深く愛し、10子を儲けた。父王が外戚を警戒し、昭憲王后を廃位しようとした際にも妃を守り抜いた。
・端宗
朝鮮王。妃は1歳年上の定順王后。政治闘争に巻き込まれ、16歳の若さで流刑・処刑された。妻は毎日朝夕、泣き叫んで夫の冥福を祈った。
・睿宗
朝鮮王。正室は1歳年上の恭恵王后。間に子はなかったが、心優しい彼女は後宮にも優しく接っした。正室が病に倒れると王は毎日彼女を見舞った。
・中宗
朝鮮王。正室であった1歳年上の端敬王后は即位後7日で廃位されてしまう。しかし、王は彼女のことを生涯愛し続け、妻の実家のある仁王山を毎日眺めた。それを知った王后は自分が良く来ていた服を山にかけた。
・フアン
アラゴン王。3歳上のマルタは穏やかな性格で短気な夫を度々なだめた。
・ルネ・ダンジュー
フランスの王族。ロレーヌ公。9歳年上の妻イザベルは聡明で夫と共同で統治に当たった。夫が敵と交戦中には自ら軍を率いて援護に向かう、夫が敵に捕らわれている間も国政や軍事を代わりに行うなどした。
・正統帝
明の皇帝。正妃は1歳年上の銭妃。彼女は夫を深く愛し、皇帝がモンゴル軍の捕虜となった際には宮中の財産を集めて身代金を払おうとするも失敗、悲しみから毎日泣き続け、左目が失明、足が不自由になった。解放された正統帝は軟禁状態になったが、その間銭妃は夫を慰め続けた。その後帝位に返り咲いた皇帝は妻との合葬を遺命したが果たされなかった。
・成化帝
明の皇帝。19歳年上の万皇貴妃を溺愛したが、嫉妬深い彼女は他の妃を悉く堕胎させた。彼女が亡くなった悲しみから皇帝は同年に没した。
神聖ローマ皇帝。2歳上のマリー・ド・ブルゴーニュと結婚しブルゴーニュ公となった。政略結婚であったが仲は良く、共に乗馬や狩猟に興じた。しかし、マリーが落馬事故で亡くなったため、5年で幸福な結婚生活は幕を閉じた。妻の死後マキシミリアンはローマ皇帝となる。
・アフォンソ
ポルトガル皇子。5歳上のイザベルと結婚した。夫婦関係は良好だったが、落馬事故で夭折した。イザベルは再婚しないことを宣言したが、ポルトガル国王マヌエル1世と結婚することとなった
フランスヴァロワ朝の国王。19歳年上の愛人ディアヌ・ポワティエにうつつを抜かし、正妻カトリーヌ・ド・メディシスを冷遇した。厳密には妻ではない。
オーストリア大公。秘密裏に2歳上の豪商の娘フィリッピーネと貴賤結婚した。フィリッピーネは豊富な薬学の知識を持ち、貧民の救済に努めた。
8歳年上の信子を寵愛し、後土御門天皇を儲けた。
5歳年上の朝子を寵愛し、後柏原天皇を儲けた。
・ヨハン3世
スウェーデン国王。兄王エリク14世の許しを得ず、11歳年上のポーランド王女カタジナと結婚したため謀反を疑われ投獄された。加えてロシアのイヴァン4世からも離婚を要求されたが、妻への愛を守り通した。解放され即位した彼の政治にも妻は大きな影響を及ぼした。
・直江兼続
3歳上の船と結婚した。側室を持たなかったことから彼女への愛の深さが窺える。
・バッハ
1歳年上のマリア・バルバラと結婚。7人の子を儲けた。夫婦仲は円満であったが、彼女が急死したため再婚した。バッハは前妻と同じく後妻も深く愛し生涯20人の子を儲けた。
・フェルナンド6世
スペイン王。妃のバルバラは2歳年上。不美人であった妻を初めて見たときは落胆したが、音楽を通じて良好な夫婦関係を築き、妻の死を深く悲しんだ
ロシアの軍人。10歳上の女帝エカチョリーナ2世の事実上の夫。二人は深い絆で結ばれ、ポチョムキンは妻を支え続けた。晩年は軽んじられるようになったが、彼が没するとを女帝は深く悲しんだ
神聖ローマ皇帝。2歳年上の妃マリア・ルドヴィカと結婚。美人で親切な彼女は夫に献身的であり、愛人にも優しく接した。貧者の救済も行い、「女性の美徳のモデル」と称された。
・上杉鷹山
1歳年上の未亡人マーサと結婚した。家庭的で穏やかな性格の彼女は夫に献身的に尽くした。独立戦争の最中には夫に同行し傷病兵の看護に当たった。
イギリスハノーバー朝の国王。6歳上の未亡人マリア・フィッツバードに夢中になり、秘密結婚した。正妻キャロラインのことは嫌っており、冷遇したため、国民は彼女に同情した。
イギリス首相。3歳年上のルイザと結婚した。ルイーザは病弱ながらも信心深く献身的で時には秘密文書をコピーするなどして夫の政治活動を支えた。彼女は貧者や病人の援助にも力を注いだ。
・ハンス・アンデルセン
童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの父親。12歳上のアンネ・マリーと結婚した。
6歳上の美女ジョゼフィーヌと結婚した。ナポレオンが妻に熱烈な愛を向けたのに対し、ジョゼフィーヌは夫のラブレターを晒して笑いものにするなど、当初は良好とは言えない夫婦関係であった。跡継ぎに恵まれなかったため、二人は離婚したが、ジョゼフィーヌは皇后の称号を維持することが許され、二人の間に交流が続いた。ナポレオンは臨終の際に元妻の名を呼んだ。
アメリカ大統領。2歳年上の教師アビゲイルと結婚した。共に読書家であった二人の仲はよく、大統領就任後も妻に政治的アドバイスを求めた。ホワイトハウスに図書館を建設したのもアビゲイルである。
イギリス首相。12歳年上のメアリーと結婚。当初は金目当てで結婚したが、次第に愛し合うようになり、政敵グラッドストンですらその夫婦関係を模範的と称えた。
1歳上のいとこエマ・ウェッジウッドと結婚。エマは絵に描いたような良妻賢母で度重なる子の死に耐え、病弱な夫を支え続けた。
イギリスの首相。父からの激しい反対を押し切って3歳年上のジョージナと結婚したため、仕送りを停止され経済的苦境に陥った。生活費を稼ぐため政治記事の寄稿で稼いだが、聡明な妻は夫の執筆活動を支えた。首相就任後もジョージナは内気な夫に代わって社交界で活躍した。
・マネ
フランス印象派の画家。弟の家庭教師を務めていた2歳年上のピアノ奏者シュザンヌと恋仲になる。結婚に反対した父の死後二人は結ばれ、マネは妻をモデルとした絵を何点か残している。
南北戦争の英雄。2歳上の妻アニーは夫の死後生涯独身を貫いた。
・勝海舟
2歳上の民子と結婚。民子は奔放な夫を懸命に支え続けたが、最後は愛想を尽かしたようで勝のそばに埋めるなと言い残した。
・小松帯刀
維新の十傑の一人。7歳年上の妻近を深く愛した。日本で初めて新婚旅行に行ったのは坂本龍馬とされることが多いが実は小松帯刀である。
・明治天皇
・同治帝
清の皇帝。2歳年上の孝哲毅にうつつを抜かしすぎたため、母の西太后に引き離された。孤独を紛らわせるため、遊郭に通うようになりそこで梅毒に感染し死亡した
・ハリソン
アメリカ大統領。1歳年上のキャロラインと結婚。彼女はホワイトハウスの改修、女性の権利向上に貢献し、ホワイトハウス初の女性スタッフが雇われた。
イギリスの首相。4歳年上のシャーロットと結婚。夫婦は生涯にわたり親密であった。シャーロットは野心に欠ける夫の政治活動を支え、彼女の死後体調が悪化するようになった。
・エルガー
イギリスの作曲家。8歳年上のキャロライン・アリスと結婚。「愛の挨拶」は将来の妻のために捧げられた曲である。聡明なキャロラインはエルガーの音楽活動を生涯にわたって支え続けた。妻の死後彼の音楽活動は低迷した。
・ポワンカレ
・レーニン
1歳上のナデジダと結婚した。彼女はレーニンと共に革命運動に一生を捧げ、夫が病気に倒れた際も献身的に介護した。
ドイツ出身の哲学者。4歳上のガードルートと結婚した。彼女がユダヤ人であったため、ナチスドイツから弾圧を受けたが、妻への愛を守り通した。夫婦で家に籠城し、強制収容所に送れられそうになる寸前で連合国軍が来て、夫婦の愛は引き裂かれずに済んだ。
ヒトラーの側近。5歳年上のカリンと結婚。二人は深く愛し合ったが、病弱な彼女は43歳で亡くなった。ゲーリングは彼女に因みカリンハルと命名された別荘を建設、自邸にもカリンの
記念品で埋め尽くされた自室を設置した。一方前妻だけでなく後妻エミーも深く愛した。
アメリカの作家。18歳年上のシシーと結婚。彼女の死後悲しみから酒浸りになり自殺未遂を図るなどしたが、周囲の支えで復帰した。
アメリカの作家。クトゥルフ神話の作家。10歳年上のソニアと結婚した。夫人は事業が失敗した後も就職のために移住し、夫に仕送りを続けるなど献身的であった。しかし、親族の反対などが原因で離婚した。その後も文通を続けるなど関係は良好であった。
3歳上のエディスと結婚。彼女とのデートから着想を得て、ベレンとルーシエンの恋物語が創られた。
・スカルノ
11歳上のインギットと結婚した。彼女は夫の独立運動を支えたが、一夫多妻制を拒否して離婚した。
ノルウェー国王。3歳年上のモードと結婚。彼女は慈善活動、芸術家への支援を行った。
ノルウェー国王。2歳年上のマッタと結婚。美人で明るい彼女は誠実な夫と共に国民から絶大な人気を誇った。ナチスドイツの侵略の際には海外亡命し、国際的援助を呼びかけた。
・ダリ
10歳上のガラと結婚。ガラは若いアーティストとの不倫を繰り返したが、ミューズ、マネージャーとして夫の創作に貢献し、彼女が亡くなるとダリは創作を辞めてしまった。
・崔 圭夏
韓国大統領。3歳年
🐈への信心が浅い犬派を滅殺しなければ🐈の決定に従わぬ暴徒と化すことは火を見るより明らか
あらためて言う事では無いけど、「神」って過去の人間の創作だよ
「神が世界を作った」なんてホントに信じてる人はいないと思うけど
「逃げたら一つ、進めば2つ」と神が言っていた。とか
「笑うべきだとわかった時は泣くべきじゃないぜ」と神が言っていた。とか
「人は正義を行う時にもっとも残酷になれる」と神が言っていた。とか
そういう昔の人の教えをまとめたのが宗教
信心が足りないから不幸になるとか祈り続ければ天国に行けるとかに科学的根拠が無いよねって疑問を持てるようになったら
あとは自分で信じるものや思考の軸になるものを決めて行けばよい
そして何を信じるかは「どの宗派を選ぶか」では無くても良い
一時期ずっとiPad AirのCMで流れていたウォルト・ホイットマンの詩「O Me! O Life!」。
訳してみた。
----------------------------------------------------------------------------------
O Me! O Life!
O me! O life!... of the questions of these recurring
Of the endless trains of the faithless--of cities fill'd with the foolish
Of myself forever reproaching myself, (for who more foolish than I, and who more faithless?)
Of eyes that vainly crave the light--of the objects mean--of the struggle ever renew'd
Of the poor results of all--of the plodding and sordid crowds I see around me
Of the empty and useless years of the rest--with the rest me intertwined
The question, O me! so sad, recurring--What good amid these, O me, O life?
That you are here--that life exists, and identity
That the powerful play goes on, and you will contribute a verse
----------------------------------------------------------------------------------
おお私よ!人生よ!
おお私よ!人生よ!...幾度となく繰り返される疑問の数々。
何処までも続く不信心者たちの長蛇の列、馬鹿者で満たされた都会の街、
永遠と自分を責め続ける私自身、(最も馬鹿で不信心なの私ではないだろうか?)、
あてもなく光を求める虚ろな目や、卑怯な物事、絶えず繰り返される悪あがきや、
全ての残念な結果、周りにいるだらしなく不潔な連中や、
残された空虚で無意味な残りの歳月、私に絡みつく残りの事象に。
質問。私よ、悲しくも繰り返される、この渦中に少しでも良いことはあるのだろうか?私よ、人生よ。
解答。
それは「お前がここにいる」ということ。そこに生命が存在し、アデンティティがあるということ。
その演技は力強く続き、そしていつの日か一節を捧げるのだ。
インデックス投資の宗教性について検討することは、自分自身の資産形成の一部について見つめ直す良い契機となりそうなので、少し考えてみたい。
具体的には、インデックス投資について回る「分散・長期・積み立て」の3要素について検討してみたい。
インデックス投資における「分散」の大部分は、2つの点において技術である。
「分散」は99%まで技術である。残り1%は「株式か、債権か、バランス型か」というファンドの選択をめぐる宗教である。
インデックス投資における「長期」は「ターゲットとする市場の平均価格は、短期的にはランダムウォークしつつ、長期的には右肩上がりである」という前提に基づいている。
S&P500なんかだと、過去150年のチャートを見せられて「ほら、長期的には右肩上がりでしょ?」となるところだが――実のところ「過去、そうだった」と「今後もそうなる」は別物である。
例えばニューヨークに証券取引所が開設されたのは1817年である。まだ200年の歴史しかない。世界全体を見回しても、人類史において近代的な株式・債権は歴史が浅く、まだ誕生から500年ぐらいしか経っていない。これから「今まで経験したことのない、初めての出来事」が起きる可能性は否定できない。「過去、そうだった」から「今後もそうなる」と無邪気に考えるのは宗教である。
全世界株式は「長期的に見て、世界経済は今後も右肩上がりである」と信じる宗教である。実際のところ、右肩上がりじゃないと非常に困るのだが(世界経済の長期停滞とか、悪いジョークだ)、しかしそれは願望である。願望だが、それでも縋るしかないのである。
ちなみに「長期」において確実に事実なのは複利効果である。元利金継続の定期預金でも複利効果はある(なお金利
インデックス投資における「積み立て」の半分は「弱者の兵法」だといえる。手元に大金がないから、毎月定額をコツコツと積み上げていくのである。
「積み立て」の宗教面は、大金の投資方法に現れる。「長期」を信じるならば、一刻も早くまとまった金額をつぎ込んで、少しでも長く運用するべきである。なぜならば、運用期間が長くなるほど、リターンが大きくなるはずだからだ。
ここで大金を一括投入することを躊躇する人は、信心に欠ける半端者である。悔い改めよ。
ボクサーを撲殺したのは僕さ
これから満で数つけるわ
ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ
新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼し信管が作動する。
ケニアに行ったら生贄や
柑橘類の香りに歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。
塗装を落とそうか。
観光客がフイルムに感光させた写真を刊行することが慣行になった。
サボってサボタージュ
景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)
夫を成敗するオットセイ
つまらない妻の話
竹の丈は高ぇなー
餅を用いて持ち上げる
ロストしたローストビーフ
サボテンの植え替えサボってんな
過度な稼働は可動範囲を狭める
伯爵が博士の拍手に拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人を白紙にもどす。
紅葉を見て高揚する
甲子園で講師をする公私混同した孔子の実力行使には格子窓も耐えられない。
死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」
夜祭で野菜を食べる。
信玄餅を食べながら震源を特定するように進言する新元素を発見した人。
蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ
五反田で地団駄を踏む
ようやく要約が終わった
海溝で邂逅
豪華な業
甲板で甲板をかじる
甲板で乾パンをかじる
店頭で転倒
大枚をはたいてタイ米を買う
醤油をかける人「えっっ?」
神田でした噛んだ
少食な小職
牛の胆嚢の味を堪能する
あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。
キーンという高音の起因が掴めない。
こんな誤謬は秒でわかるだろ
壊疽した箇所が治るというのは絵空事だ
経口補酔液
痴的好奇心
セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ
軽微な警備
冬眠する島民
ベットは別途用意してください
The deserted desert in desert desert.
九尾のキュービズム
罹災者へのリサイタル
画家の画架
不納が富農になるのは不能だ
理工がRICOHに利口な履行
I sensed tha it is in a sense sense.
私はそれをある面では扇子だと感じた。
鯖を食べている人と、それを見ている人の会話
鯖 ça va?
ça va 鯖
ça va
ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない
早漏で候
凪に難儀
東上線に搭乗した東條が登場
高校を後攻で煌々と口腔で孝行
蝉が転んでセミコロン
道徳をどう説く
写真はフォトんど撮りません
ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」
華美な花瓶のカビに過敏に反応
檻に入っておりいった話をする
夏のおサマー
夜は寝ナイト
渦中のカチューム
渦中のカチューシャ
リスボンでリスがborn
どうないはどないなってんねん
苫小牧でてんてこ舞い
市内を復旧しないと
石狩の石を借りる
おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」
砂がどしゃーw
東上線に登場した東條が登場
飽きない商い
おなか吹田市
観劇で感激する
側転に挑戦し即、転倒
別件を瞥見
凹地のお家
魚を初めてみた人「うぉー」
カラヤンの頭の空やーんw
豚をぶった仏陀
只見線をタダ見w
菊名でそんなこと聞くなよ
五秒で死んで御廟に埋葬
がらんとした伽藍
有給を使いすぎて悠久の時が流れた
長谷に想いを馳せる
Thinkerの真価
不具の河豚
暗記のanxious
半世紀にわたる半生での藩政を反省
タンチョウが単調増加
ショック死内親王w
カルカッタの石軽かった
天皇のこと知ってんのー
蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する
其方のソナタ
先王に洗脳される
防潮堤で膨張した傍聴人
砂漠で鯖食う鯖を裁く
筒に入った膵島
サイコロを使った心理テスト(psychological test)
カラシニコフが辛子個踏んだ
皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂
にようかで酔うか?
うるさい人が売るサイ
どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人
透徹した饕餮の眼球
チャカで茶菓を破壊
slimyなすり身
ゆうほど広くない遊歩道
いにしえのイニシエーション
コーランをご高覧ください
K殻の傾角を測定する計画
協賛した共産党員に強酸をかける
負けたのは聖者の静寂のせいじゃ
裏地見るウラジミール
カミオカンデの上に紙置かんでw
県大会がおわり倦怠感を感じる
夕暮れのユーグレナ
ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm(公務)」
エド・はるみの穢
祭壇を裁断
腐卵ダースの犬
全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」
四苦fuck
都バスが人を跳ね飛ばす
怒るカロテン「なにカロテンねん」
嫌がる慰安婦「いやんっ」
かえるがえる帰る蛙
沈厳な青梗菜
トリコロールの虜
布陣を組む夫人
栗けっとばすクリケット🦗
婉容と遠洋漁業
アマルガムで余るガム
ハラスメントの疑いを晴らす
滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない
他意はないタイ人の鯛の態度
鯛が蛇足
ダジャレではない↑
割と面白い
ハラッパーの原っぱ
紫に関して思案を巡らす
Huluが夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流)
下調べのムニエル
わからないので
意味ない諱
よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」
どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」
計算ができない人
着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」
enough、enoughは工夫がenough
負け負け山(カチカチ山)
薬師丸せま子
トーマス・マンの書いたふるさと「うさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」
その心は
焼結が猖獗を極める
これはstaleだから捨てるか
衒学的な弦楽を減額
完全な勧善懲悪
イボ人の疣痔
イブに慰撫
(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)
盲いるのに飯いるの?
アーヘンで阿片を吸った人「あー変」
毒吐く独白
明借りるアスカリ(車)
丁寧な砂浜「Could you九里浜」
ゴーンと奉公
その心は
サンクチュアリに山窟あり
熟れたウレタンは売れたんか?
清澄な声調を静聴し成長
プエルトリコで増える虜
象さんを増産
兄弟が今die
Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす
ソフィカルのソロカル
美人局に筒持たせる
十把一絡あげ
篤信な特進が涜神を得心
これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。
クートゥを食うとぅいいよ
マイソールで昧爽に埋葬
ドクサは毒さ
暗殺で朝死んだ
クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」
凛々しいリリシズム
衛生的な俳人
御髪も亂とはオクシモロンだ
コロナ後の世界を分析する学問→postcoronialism
影響が色濃いイロコイ諸族
あてのあてないアテナイ
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
藤井風氏が明言せずに某宗教の教えを引用し、それをそのままグッズとして販売、アルバムタイトルにもしている行為に対して、問題があるのではと指摘する記事を読んだ
https://note.com/ii_yy/n/n5ac17492a446
自分は音楽にも宗教にも全然詳しくないけれど、元々音楽と宗教は切り離せない関係なはずだ。自分の思想や信条を発信する手段として、もしくは布教活動や信心を深めるための手段として音楽が用いられた事例は沢山知っている。
いつの頃からか邦楽は、くだらない色恋ばかりを歌うのがメジャーになってしまったが……
それで考えたら藤井風氏の活動だって何もおかしいものではない。これを否定するのは信教の自由、表現の自由の侵害以外の何物でもない。
と、自分は思う
それとは別に、気軽な気持ちで買ったファングッズに記載された言葉が、新興宗教(様々な良くない疑惑あり)の教義をそのまま引用しているものだとは正直予想もできないし、事前に教えてよ〜教えてくれたら買わなかったよ〜会社に持ってっちゃったよ〜と思ってしまうファンの気持ちも分かる。事前に意味くらい調べろ、そもそもこれくらい一般教養の範囲内だろうと言われてしまえばそれまでではあるし、「教えないまま売りつけるなんて、ステルス布教だ!」とまでは思わないが。
ただ、なんていうのか。
先程も書いたように真っ直ぐ純度100%の政治的主張や宗教的主張をするアーティストと接する機会がほとんどなかったから面食らっちゃうし、耐性や自分なりの対策法も持ってないよなと……
Twitterでも色々意見を見てたんだけど、「海外ではこんなことで騒がれない。騒ぐのは宗教を嫌う日本だから」という意見と「宗教に関してのリテラシーが低い日本だからこの程度の炎上で済んでいるが、海外進出するならこのまではマズい」という意見の両方を見かけた。
もちろん国によっても違うだろうが、グローバルスタンダードはどちらなんだろう?