はてなキーワード: 愛する人とは
この世界の宇宙にある星の生態系は絶えず新陳代謝(リセット)を繰り返していて「泡」という集合体はそのリセットさせるプログラムみたいなもん
「泡」には自我は無く、宇宙全体をランダムにクロールし生態系を見つけたらリセットをするだけの存在
自我は無いのだけど「泡」同士連携を取るために共鳴音(歌?)を出しているのね。でもその音は生物たちには聴こえない……
んで話は劇中の5年前
今回地球がリセット対象に選ばれ地球の生物を消し去ろうと、「泡」が世界中に降り注いだ!!
そんなとき「泡」の一部が「ヒビキ」という「泡」の共鳴音(歌?)が聴こえるイレギュラーに出会ってしまいバグが発生
当然ウタはヒビキとヒビキのいる世界を壊したくないと思うのよ(これはラブストーリーのオキテだから深くは考えるな。一目惚れってやつさ)
よく知らんがバグ「ウタ」は他の泡より強い権限を持っていて、その権限を使い世界崩壊を食い止めるべく世界中に降る泡を一箇所に集めて封印したのよ
なんで東京に集めたんだってツッコミはするなよ集まっちゃったんだよ。そんでなんか知らんが大爆発。東京沈没だよ。めっちゃ迷惑やん
ヒビキ少年はその爆発に巻き込まれ死にかけるんだけどウタが守った。それが終盤近くにある過去回想、東京タワー辺りのシーンね
そして劇中の時間に戻って
5年経って「泡」の封印が弱まってしまい、終盤のように再び地球を滅ぼそうと暴走し始めたのね
その暴走を食い止めるため「泡」に戻り、自分の持ってる強い権限を使用して地球をリセットしようとしていた「泡」のプログラムを書き換えたの
終盤「泡」が赤→青に変化していったシーンね(赤い泡が地球破壊プログラム、青がウタ)
身を挺して愛する人とその人が生きる世界を守った切ないラブストーリーさ
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/animovie/1652184109/585
今回、初めてスパコミに出た。
好きなキャラへの愛をこれでもかと詰めて作った本で、そこそこの数を手に取ってもらえて、嬉しかった。はずだった。
その人はバドエンはもちろん死ネタ、グロ、スカ、割と何でもアリな人で、そういうのが好きと普段から豪語してた。でもジャンル内でも割と大手で、交流上手な人で、フォロワー数も多い。
私とは真逆の人だった。
もちろん他人の趣味を批判するつもりは一切無い。でもその人の描く本や話の傾向は私にはどうしても受け入れがたいものだし、大手だし人気な人だからと、しばらく見ていた時期もあったけど、結局その人の日常ツイも肌に合わなさすぎた。本当に苦手なんだと分かって、だから黙ってミュートしてた。
これが前提。
あなたの本買いました!サンプル見たときから楽しみにしてました、とっても好きです、買えて嬉しいです!みたいなリプだった。ミュートしててもリプって通知くるし見られるんだな…と思った。
でもすごく嫌だったし、正直ショックだった。
私にとって本当に苦手な死ネタとかグロを愛する人が、私が真剣に描いた本を楽しめるのか。そんなことあるはず無いって思ってしまう。私があの本に込めた思いを、きっと本当の意味では分かってもらえないと思う。
買えて嬉しいですとリプをくれたその人はとても善良で、一切悪気はないと思う。自分の趣味と少しくらいズレてても気にしない、色んな本を楽しめる性格なんだろうし、きっとその方が幸せだと思う。
私は小心者なので、リプを無視なんて出来なかった。びっくりしました、手にとってくれてありがとうございます!と当たり障りのないリプを返した。フォローされたことについては触れずにおいた。私みたいな弱小がフォローしてもらったこと、普通なら喜ぶところなんだと思う。
でも本音を言うと、まったく嬉しくない。あの人のことブロックしたい。
せっかく買ってもらった本だけど、あの人の手元に自分の本があるのがすごく嫌だ。その人には私の本を触って欲しくないとまで思う。手元にあるなら燃やして欲しい。払い戻しなら喜んで受けるから、私の本を手放して欲しい。
私の推しキャラを殺して痛めつけて喜ぶ人に、私の本を渡したくない。そんな人に向けて描いた本じゃない。
二次創作で肌に合わないものに触れたとき、not for meで離れろ、という格言めいたものがあると思う。私の場合、not for youだった。
あなたのための本じゃない。
事前にブロックしておかなかった私もきっと悪かった。
ブロック、相手の存在を否定するみたいで苦手だからしてなかったんだけど、ブロックもひとつの優しさなんだと今なら思う。会話なしに、あなたのことは苦手なんですと事前に伝えられるから。
あなたも私も趣味は違うけど、それぞれ関わらず楽しんでいればそれで良いよねと思ってミュートでとどめていた私が失敗したんだと思う。
タイミングの良いことに、ツイッターでサークル機能が実装されたと聞いた。
あの人にフォローされた瞬間から、自分の好きにツイート出来なくなってたから、ありがたいなと思った。サークル機能なら自分が好きだと思う人にだけ自分のツイートを公開できる。
私のツイート、あの人には見て欲しくない。not for youだ。
頒布する相手を選べたらよかった。でもそんなことは無理だ。イベントだって通販だって、相手が誰かなんて分からない。
でも、本を頒布するってそういうことだ。自分の手元を離れたらもう自分のものじゃなくなるんだなって思った。
今回の本、好きな人たちに渡せたのはよかったなと思う。普段から交流してた、趣味が合うなと思ってた人にも渡せた。嬉しいなと思った。
でももしかしたら、その人だって義理で喜んでる姿を見せてくれてるだけかもしれない。だって私だって、あの苦手な人からのリプに「有難うございます」だなんて思ってもないことを書いた。他人が本当に何を考えてるかなんて分からないもんね。
イベント以降、こうやって悶々と考えて、何だか気が滅入ってしまった。
もしかしたら、あの人は私の本を心から楽しんで読むんだろうか。本の読み方は自由だし、その人が楽しめるならそれはとても良いことだと思う、一般的に。
だからそれを嫌がってる私の方が道理が通らないのは分かってる。おかしいよね。だって本は手に入れた瞬間からその人のものだもんね。著作権的な話じゃなくて、所有権の話。捨てようが燃やそうが、大事にしようがその人の自由だし、対価を受け取って本を渡した以上、私には何も言えることなんてないし。
もし、ものすごく楽しんだよって感想をもらったら、私のこの感覚も変わるのかな?私の描きたかったこと伝えたかったことを、その人が寸分違わず受け取ってくれてしまったら、私どう思うんだろう。伝えたいことが伝わるのはきっと嬉しいと思うけど、やっぱり、あなたに楽しんで欲しい訳じゃなかったって思うのかな。よく分からない。とはいえ、感想なんて来ないと思うけど。
少なくとも、同人誌の頒布は私には向いてなかった。もう頒布はしないと思う。今後も好きなものを描くけど、でも頒布に付随する色んなことに対する認識が私はとても甘かったなと思う。
同人誌、一度作ると次から次へと出したくなるよ!って友達に言われたけど、全然そんなことなかったし、たくさん手にとってもらえたら最高!だなんて、全くならなかった。頒布数が多くなったそのぶん、自分の作品が知らない人の手元で知らない扱いを受けるんだなって実感して、怖さと生理的な嫌悪感が先に立つ。
でも初めて同人誌を作ったのはとても良い経験だった。本自体は、私にとっては最高のものだったし、自分で描いておきながら笑ってしまうけど、何度読んでもすごく好きだし。解釈が合いすぎて笑ってしまう。その本に込められた愛も、自分が一番分かってるから勝手に感動しちゃうし。
だから今後も自分で描いて、自分のためだけに印刷するのは続けようと思う。
でも頒布は、もういいや。
最近なかやまきんに君への善性の押し付けがすごいというか・・・
「誰も傷つけない笑い」みたいなレッテルをめちゃくちゃ貼られてる気がする。
でもあの人、そこまで純粋に良い人ではない・・・と言うか普通の人と同じくらいには自分本位だし、なんなら周りの人間を笑顔にしたいみたいな願望もそこまで無いように見えるんだよね。というか、他人に対して何かを与えたいという望みは全くない感じがする。
彼自身に誰も傷つけずに面白い笑いをしたい、という思いがある上で面白いのではなく、 彼の面白いネタに対して我々が誰も傷つけていないという要素を見出しているだけ。
なので勝手にきんに君に”善”のレッテルを張るのはやめてあげて欲しいと思う。
霜降り粗品のギャンブル、せいやの性欲みたいな分かりやすいクズ?下品?項目が無いというだけで、急に清廉潔白の筋肉だけを愛する人間として祀り上げないであげたい。
同性愛者でも子供を欲しがるのってなんかうまくいえないけど不思議な感じだ
いや、差別的な意識はなく、子孫を残したいという動物的な本能は持っているんだな〜それなのに子を作れない相手を選ぶんだな〜っていう矛盾?矛盾と言ったら該当者は傷つくかもしれないけど、そういう対極の欲望?を持っているのが不思議。
養子もらうのだって、コミュニティのなかで弱く小さいものを守り育てたいみたいな意味では動物的っぽく感じるんだよね。子育て自体はとても立派なことだと思うよ。
子孫を残すという動物的本能よりも高度な愛情があるので同性しか愛せないとか、子を諦めても愛する人と一緒にいたいとか、そういう想いの同性愛ってやっぱりフィクションの中にしかないのかねぇ。
そのうちお父さんを忌避するとか、いつかは他の男にとか、そんなのはライフステージ上の選択だ。
でもそんなことを心配する以前に、都市部に生まれた子は、最初の性的体験を性犯罪で行わされるのだ。選びも好みもせず強制される。
知らないわけはない。通学、通勤時に電車を使って痴漢されたことの無い人は少ない。
大勢が声をあげれば、車内監視カメラくらい設置されるだろう。公共の場だから人権侵害でもない。でも拒否する声が大きいから行われていない。
ちょうど性依存の増田が上がっているが、電車内の性犯罪行為はそもそも発見されにくいから、止めなければならないという危機意識も生まれにくい。病識の無い人は治療できない。
他者の身体に合意無く接触する行為が漏れなく咎められれば、行わずに済む人もいるし、一人が行わなければ何十、何百の人権侵害が未然に防がれる。
でもやらない。
何もしない結果として娘が性犯罪に遭っても構わない。
何が愛だ。自分の視界にかわいいものがあればいい愛玩趣味じゃないか。その子が視界の外でどんな目に遭うか、知っていても目をそらす。
その積み重ねで今がある。すべての親を許さない。すべての人が許されていいはずがない。
ウィル・スミスのビンタ事件についてアメリカ人の反応と日本人の反応がまったく違う。
アメリカではウィル・スミスはサイコパス扱いされ、英語のコメント欄はクリス・ロックを称えるものばかり、アカデミーも暴力は許されない旨のコメントを発表した。
一方、日本では、愛する妻を守る旦那として素晴らしいと称賛を浴びている。はてなでさえ、ウィル・スミス擁護一色だった。
この違いは何から生まれているのかは明白であり、女を一人前として見ているかどうかが全く違う。
はっきりもう一度言うと、アメリカは成人女性は成人男性と全く同じ一人の大人の人間であるとして扱う一方で
日本では、女性は守られるべき庇護されるべき存在として扱われる。
この違いが、ウィル・スミス事件に対する正反対のリアクションとして日本とアメリカの間に現れたのだ。
「そんなことない!ウィル・スミスは愛する人を守っただけだ!」と否定したい人のために思考実験を行ってみよう。
仮に、ウィル・スミスと愛する幼い10歳の娘が一緒にアカデミー賞に出席してたとしよう。
そんな中でクリス・ロックが彼女のスキンヘッドについてジョークを飛ばしたとしよう。
そしてそれに対して今回と同じように怒ったウィル・スミスが壇上に上がりクリス・ロックをビンタしたとする。
これに対する反応はアメリカ人も今回の日本人と同じような反応をするだろう。
愛する人のためによくやったと。
子供は大人に対して意見を言うことができないし、子供は大人に守ってもらうべき存在だからだ。
だからこそ、アメリカ人もこの行動に対してはウィル・スミスを擁護する意見が多いだろう。日本人は言うまでもない。
一方、ウィル・スミスが5歳年上の筋骨隆々の愛する兄のウォーレン・スミスと一緒にアカデミー賞に出席してたとしよう。
そんな中でクリス・ロックが彼のスキンヘッドについてジョークを飛ばしたとしよう、
そしてそれに対して今回と同じように怒ったウィル・スミスが壇上に上がりクリス・ロックをビンタしたとする。
さあ、あなたはどう思うだろうか?正直に考えてみてほしい。
愛する人を守るためによくやったと思うだろうか?おそらくそうではないだろう。
なぜなら、ウォーレン・スミスは大人であり、不快に思うなら自分で主張することはできるし、
そのウォーレンの思いを勝手に汲み取り、ウィル・スミスがいきなり殴る必要はないからだ。
さあ、さて本題に戻ってみよう。
なぜアメリカではウィル・スミスは批判され、日本では称賛されたのか。
アメリカでは、妻のジェダは大人でありセレブリティであり自立しており自分で主張することができる存在として扱われている。
一方、日本では妻は守るべき庇護すべき自分で主張できないか弱い存在として扱われている。
だからこそ、こんなまったく正反対のリアクションの違いが出たのだ。
代わりに夫が守ってあげるのが当たり前だと。
リベラルとされるはてなでさえこの視点がまったくないのには驚いた。
別に日本が間違ってるとかアメリカが間違ってるとかではなく、明白な違いとして成人女性の扱いが違うのだ。女子供なのだ。
そしてそれを男性も女性も(むしろコメントを見ると女性の方が)肯定しているのだ。
AV出演の選択についても、日本では女性を守ってあげなきゃという視点で語られるが、アメリカでは自己選択権として真反対の議論がされるだろう。
それは日本の女性にとってありがたいことだろうし、悲しいことだろうと思う。
18歳男性の起業の権利や失敗の責任については、勝手に挑戦し、勝手に責任を負うことになるのが当然なのに
18歳男性のAV出演の権利や失敗の責任については、勝手に挑戦し、勝手に責任を負うことになるのが当然なのに
18歳女性のAV出演の権利や失敗の責任については大人たちが守ってあげなければいけないと議論しはじめる。
「妻は夫が守ってあげないといけないからね」「ウィル・スミスよくやった」
一方、アメリカでは評論家のミカ・ブルゼジンスキーはこう吐き捨てた。
愛する人と一緒に腹筋割りたい
愛する人がいたら嬉しい。愛する人と一緒に生きていきたい。でも愛する人との子どもがいたらもっと嬉しい。そう思う人もいれば、思わない人もいる。
もし自分が男だったら、子どもを欲しがっていたと思う。あくまでも妊娠して出産して、肉体的に身を犠牲にするのは女なわけで、男は行為さえすればよいのだから。私も男に産まれていたら、愛する女の中に射精をしてみたかった。そして愛する女の膨らんできたお腹を見て、十月十日後に無事に産まれた赤ちゃんを見て、嬉しさを噛み締めるのだ。
そして産まれた子どもを可愛がり、たまに遊びに行き、成長を見守る。
身を削って産んだわけではないがそこには愛情が芽生えるのだろう。
でも私は女だから欲しくない。子どもは可愛いとは思う。だが悪阻で苦しみ、痛い思いをし、だけど産休・育休が明けたら働かなければならない。そうなった時にやっぱり女が主体として家事をしているケースが多いと思う。話し合いをして分担をしてるご夫婦もいると思うが、どうしても女に家事の比重が傾いているような愚痴が周囲から聞こえてくる。正直にいうと、その状況を想像するだけで苦しくてデメリットしか浮かんでこない。
女が社会進出してきて久しいが、仕事と家庭を両立しなくてはいけなくて、収入も子育てをすると火の車。
昔のように男は働き、女は家を守るっていう構造は子孫を繋ぐためには利点もあったのだろうと感じる。
[注意]
全ての人々の命が戦禍によって、人の手によって奪われることのないよう心から願っています。
既に**沖には**の**、推定**に登る被害が報告されています。
これを受けて日本国政府は非常事態宣言を発令し、全ての日本国民に避難命令を発令いたします。
直ちに**の攻撃を受けている地域から可能な限り離れてください。
繰り返します
ただ今避難命令を発令しました。少しでも安全な場所に逃げてください。隠れてください。ご自分の命を守る行動をとってください。
団体、あるいは個人の判断で抗戦することを政府は推奨致しません。
日本という資源に溢れる、価値ある島と資産が侵略者の手に落ちることが何を意味するのか。
今後の世界を考慮すれば、無抵抗で全ての所有物を差し出す行為は到底看過されるものではないでしょう。
私は最も臆病で無責任な人間として歴史に名を残すかもしれません。
それでも今、自国民の命を、それぞれの愛する人の命を何よりも優先させるという判断を下しました。
日本国という社会通念上の国家は間も無く解体され、一つの歴史が終わることになるでしょう。
この結果は第二次世界大戦を経た日本が平和主義に則り、自衛のための軍事力しか持たないという方針をとり**に頼ったことに起因するというのも一つの事実です。
しかし日本国民が情勢の安定を甘受し永遠の平和を夢見たこの数十年間を「平和ボケ」という言葉のもとに否定することは果たして正しいのでしょうか。
それは反省すべき間違いだったというのでしょうか。
私たちがその実現を切望する平和とは、断じて緊張によって維持された張り詰めた平和などではなく、全ての人が「平和ボケ」できるような真の安息を手に入れることであると信じます。
私たちは他でもない、その真の平和が訪れる日のために武器を捨てて命を守ります。
祖国が踏み躙られ、破壊されることは、あなたを武力による反撃に駆り立てるかもしれません。
しかし最も絶え難い苦しみ悲しみは、国民の命が失われることです。
どうか落ち着いて、日本を見捨てるためではなく日本を守るために今逃げてください。
愛する人と全員で生き残ることを諦めないでください。
生まれ育った風景が跡形もなく焼き尽くされるのは死ぬより辛いことのように感じられるかもしれません。
何よりも、私たち国民こそが日本であり、一人一人決して失われることを容認できませんし、するべきだとも思いません。
国土を失った民族となっても私たちはこの美しい島で過ごした日々を忘れない限り、日本国民として、日本国民であることを誇りに生きていけるはずです。
日本国が地球上の勢力図から無くなったとしても、どんな強大な国家もとい連合といえども日本列島を海中に沈め去ることはできません。
そして日本人は、どこにいようとも日本人であるという帰属意識を打ち砕かれることはないでしょう。
21世紀の今、国は国土だけにあるわけではありません。生きて新しい土地で、他でもない自らのより良く美しい人生を探求してください。
逃げてください。隠れてください。これは避難命令です。
[あとがき]
今一度言っておきます。以上の文は私の思想以外の論拠を持たない創作であり、参考として挙げるべきものもありません。
百歩譲って現実的・国際的な問題について傍に置いておくとしても、実際に「日本列島」と引き剥がされた日本民族が何年、何世代民族の同一性を保っていられるのか。
それは「肉体を失った魂」か、あるいは「魂を失った肉体」に例えることができるかもしれません。
上の文で描かれたものは「お国のために自らを擲つ殉国」の美徳を全時代的な全体主義の思想として批判した上で、「世界平和のために一国を殉ずる」という美徳に基づき最高権力者が国防を放棄する一種の無理心中と言えます。
私たちは前者の美徳を経験した上で反省点としてその恐ろしさを認識しています。
後者の美徳の実現に関しては有史以降前人未到の夢物語でしかありません。
それでも、それぞれ好悪善悪を超えてある種の「美しさ」を感じさせるレトリックではないでしょうか。
私個人は上述の内閣総理大臣のような「命あっての物種」思想を持っていますが、前者の美徳にも共感する者です。
「国を守るために死ぬ」ことを厭わない国家単位の「究極の共感」は社会的生物である我々にかつて経験したことのない高揚をもたらすでしょう。
そのエクスタシーの頂点で敵の兵器によって鮮血とともに命を散らせるのは、一生分の生きがいにも相当する劇的経験かもしれません。
あくまで前時代的であると感じ懐疑的ではあるにせよ、私は殉国を志す人のことを止める術を持ち得ませんし、やりたいようにやったらいいと思います。
何者かの操作によって無意識のうちに行動させられているのではなく、熟慮の果てに可能な限り内発的に選んだ道であれば、ですが。
えと、旗をかかげると、不安で泣く子供は、夢を見る若者、愛する人のいる壮年は、安らかに生きるはずだった老人は、課題が解決し安全が確保され食事にありつけるのでしょうか。
いま、この空の下でとてつもなく大きな暴力が振るわれている。
私が見ている空と同じ空の下で、赤子は泣くのをやめ、若者の未来は断たれ、壮年の大切な人は奪われ、老人の思い出は穢されている。
暴力をふるっても、2つの国、あるいはもっと多くの国の、国土はただ焼け野原になるだけだ。
私は旗を掲げる。
私は戦争に反対すると書かれた旗を掲げる。
私が旗を掲げるのは正義のためではない。
私が旗を掲げるのは命を守るためだ。
私が見ている空と同じ空の下で、不安で泣く子供のため、夢を見る若者のため、愛する人のいる壮年のため、安らかに生きるはずだった老人のため私は戦争に反対すると書かれた旗を掲げる。
どうかその銃を手にする前に冷静になって欲しい。その銃口を果たして誰に向けているのか、もう一度自分の眼で見て確かめて欲しい。
自分に、その銃を撃った後自分は正気で生きていけるだろうかと聞いてほしい。
その行為は今までの人生や、友人達に誇れることか?初対面の人に言えることか?
もう一度考えてほしい
立ち止まる勇気を持て。
途中で投げ出すことは恥ではない。それが暴力なら尚更だ。
勇気は立ち止まるために、振り返るために奮え。