「信徒」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 信徒とは

2024-09-24

光通信社長タクシー使いまくり云々とかいTogetter

若い時はやんちゃだったんだ」みたいないわゆる昔のDQN自慢みたいな話ブクマして持ってくるのやめね?「欧米では」みたいな話もすごく雑で欧米でも宗教信徒とか慎み深く協調性を重んじる人達もいるわけで。欧米ビジネスエリートはみんな道徳無視から俺達もそれでいいんだぜ、みたいな貪欲で上を目指すのが勝ち組だぁ、みたいなの痛い。

2024-09-04

anond:20240904210126

論点ずらししかできないんだなあ

「〇〇人には販売しない」とか「〇〇教の信徒にだけ安く提供する」とか、そういう自由のことではない

という話とも関係がないよ

今回はプランによる価格設定の話であり、こんな話ではない。プランの設定、価格設定営業自由で認められています

anond:20240904205858

現代においても、「法律に反していないこと」は「差別ではないこと」の十分条件ではないよ

 

それから

営業自由」とは、職業選択の自由の上で、その職業を実際に営む自由のことで、

「〇〇人には販売しない」とか「〇〇教の信徒にだけ安く提供する」とか、そういう自由のことではない

という話とも関係がないよ

 

営業自由があるから女性だけ半額は認められる」というのは、いずれにしても間違いだよ

営業自由は、そのような内容の自由権ではないよ

anond:20240904192828

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば、人間のすべての理解を超える神の平安が、あなたがたの心と思いをキリストイエスにあって守ってくれるでしょう。」

フィリピの信徒への手紙 4:6-7

信仰は望んでいる事柄確信し(ヘブライ11:1)、私たちの苦しみと忍耐は希望につながるのです。」

ローマ信徒への手紙 5:3-4

アーメン

anond:20240904192539

「人はすべてのものを試みることができますが、すべてが有益ではありません。すべてのものを試みることができますが、すべてが建設的ではありません。」(コリント信徒への手紙10:23

人々を尊重し、正義と公平を追求することで、真の平和と愛がもたらされると信じています。どのような議論においても、互いに理解し合い、神の教えを心に抱くことが重要です。アーメン

2024-08-24

ウクライナ人Alex Kさんの思い出と、キリスト教の話

ゼロ年代インターネットには、Alex Kさんという日本語が堪能なウクライナ人がいた。彼は日本語ウィキペディアで、ウクライナに関する有益記事をたくさん執筆していた。ウクライナ語のиをすべて「ウィ」と表記した結果、「フメリヌィツィクィイ」みたいな記事名ばっかりになっていたが、これも彼の正確さを重んじる姿勢のゆえだと好意的に見ることはできる。

しかし、Alex Kさんウクライナ民族主義者であった。もちろん、民族主義者であっても良質な記事を書いてくれるなら問題はない。だから彼は、ウクライナ歴史上の人物や、都市や、教会についての記事執筆し、加筆し、あるいは修正のために議論した。そしてある日、ひとりの日本人編集者が、彼の書いたウクライナにある教会に関する記事修正しようとした。それが問題のはじまりだった。

話を150年ほど遡る。鎖国が終わり、自由キリスト教布教してよいことになったので、欧米人はこぞって宣教師日本に向かわせた。宣教のためには、現地の言葉で書かれた聖書必要不可欠である。だから宣教師たちは、それぞれが独自日本語聖書を作った。正教会宣教師だったロシア人の聖ニコライは、漢文の素養のある日本人に助けられながら、教会スラヴ語(教会で用いられる古風なスラヴ語)に基づいていかめし文体日本語聖書を作った。カトリックプロテスタントは、時代に合わせて聖書をよりやさしい日本語に置き換えてきたが、正教会聖書は、明治時代からその言い回しなどがほとんど変わっていない。結果として、正教会聖書は読みにくく、使われる語彙もカトリックとは異なっている。たとえば、こんなふうに。

正教会カトリック
主教司教
顕栄変容
生神女聖母
至聖三者三位一体
イイスス・ハリストスイエス・キリスト

これがいいかいかは、その人の価値観によるだろう。他の教会共通する用語を使うべきと考える人もいれば、独自伝統を守るべきだと考える人もいてよい。だがそれを決める権利日本人の正教徒しかなく、外部の者はそれを尊重すべきであるはずだ。

このようにキリスト教各派が使っている用語バラバラなので、日本語ウィキペディアでは、「各派の独自用語尊重する」というデファクトスタンダード確立された。たとえば日本政府は少し前までローマ教皇のことを「法王」と呼んでいたが、ウィキペディアではカトリック独自呼称である教皇」が採用された。カトリック教会が「主教座」と表記されていたときは、カトリック用語の「司教座」に直された。だからその日本人編集者は、2009年に、Alex Kさんの書いた記事にある「三位一体」「変容」を、「至聖三者」「顕栄」に直した。

ところが、Alex Kさんにはそれが気に入らなかった。ウクライナ語や英語では、当然ながらこのような区別存在しない。Alex Kさんは、「三位一体」は日本語の定訳なのに、なぜ「至聖三者」という日本正教会独自用語を使わなければいけないのか? と反論した。さらに、大部の国語辞典を参照して、「顕栄」とは立身出世するという意味であり、「変容」の方が教義的に正しい、とも主張した。これに対し、日本人編集者たちは次のように答えた。

  1. 日本語ウィキペディアでは、各派の用語尊重することになっている。正教会事物は、日本語ウィキペディアでは日本正教会用語に従って書かれるべきだ。
  2. 日本正教会があえて違う訳語を使っているのではない。歴史的経緯から各派がバラバラ訳語を使っているだけである日本正教会用語だけ特殊扱いするのはおかしい。
  3. キリスト教徒は日本において人口の1%程度しかいない。したがってキリスト教用語の多くは国語辞典に載っていないかキリスト教用語としての意味が書かれていないので、国語辞典基準にしてしまうとウィキペディアにおけるキリスト教関係記事の多くが成り立たない。実際に、Alex Kさんが参照している国語辞典の「変容」の項には「キリストの変容」という意味は書かれていない。国語辞典基準にするなら、まずAlex Kさんが推す「変容」からしてアウトではないか
  4. 仮に「一般通用しているか」を判断基準にするなら、ウクライナ固有名詞の多くはロシア語読みで書くべきということになるはずだ。Alex Kさんウクライナに関しては慣用表記ではなく当事者呼び方を優先すべきだと主張するのに、日本正教会に関しては当事者呼び方ではなく慣用表記を使うべきだというのはおかしい。
  5. Alex Kさんが振り回す辞典の「顕栄」の項には、「立身出世」のほかに「名があらわれ、身のさかえること」という語義も書かれている。キリストの「名があらわれ、身がさかえる」というのは教義的におかし表現とはいえないだろう。そもそも顕栄は漢語であり、「えある姿をす」と解釈できる言葉だ。Alex Kさん漢文を読めないのか?

このような反論Alex Kさんがきちんと応答していれば、もしかしたら有意義な論争になったかもしれない。だがAlex Kさんは、すでに論駁された自身の主張を繰り返すだけだった。あまつさえ投票に参加しなかったにもかかわらず勝手記事名を元に戻すなどの問題行動を起こした。最終的にAlex Kさん日本語ウィキペディアから出禁を言い渡され、現在のゆくえは杳として知れない。

Alex Kさんは何が気に食わなかったのだろうか。それはおそらく、日本正教会立ち位置にある。実は、日本正教会は完全に独立した教会ではない。日本正教会ロシア正教会の一部なのである

それの何が問題なのだろうか。日本カトリック教会は、全世界信徒を統べるカトリック教会地方支部に過ぎないではないか。それと同じように、日本正教会ロシア正教会支部であって何か問題があるのか? カトリック正教会組織運営上における最大の違いが、まさにこの点にある。カトリック教会は全世界組織ピラミッド状になっているが、正教会では各地にある正教会は対等な存在で、それらを統べる上位者はいないのだ。つまりカトリック教会が「世界政府」だとしたら、正教会は「国際連合」のようなものなのだコンスタンティノポリスの全地総主教あくまで同輩中の首席にすぎない)。

正教会において、国際連合における独立国のように振る舞うことができる教会のことを「独立教会(autocephalous church)」という。ロシア正教会ブルガリア正教会などはみな独立教会であり、対等な存在である。そして、国際連合に加盟する独立国の中にも自治区があったりするように、独立教会の内部にも自治を許された独自組織存在することがある。日本正教会はこのパターンで、教会内の人事は基本的日本人信徒神品聖職者)で決めているが、教会トップモスクワから承認を受ける必要がある。日本正教会は、少数派であるキリスト教の中でもさらに少数派で、文科省統計では人口1万人いるかいないかだ。小さな島が独立を諦めてイギリス領に留まることを選ぶのと同じように、日本正教会ロシア正教会から独立しようとしていない(というか日本だけじゃなく、そもそも東アジア独立教会がない。中国正教会ロシア正教会の傘下だし、韓国香港に至っては全地総主教の下の単なる府主教区であって自治権はない)。

まりウクライナ民族主義であるAlex Kさんにしてみれば、「日本正教会尊重せよ」というのは、「ロシア正教会尊重せよ」というふうに聞こえていたのではないか。なるほど彼からすれば、ウクライナ語では正教会カトリックとで同じ言葉を使うのに、ロシア正教会日本支部ではわざわざ別の言葉を使ってカトリック差異化しようとしている、と映ったのだろう(ウクライナには「儀式のやり方は正教会だが、組織としてはカトリック」という教会存在しており、かつてロシア帝国から激しく弾圧されたこからウクライナ民族主義の核になっている)。

しかAlex Kさんが見落としていたのは、日本正教会日本人によって運営されている教会、という点である。確かに教会設立ロシア人によるものだし、ある時期まではトップロシアから派遣されていた。だが日本人の正教徒自分たち教会組織運営するようになり、ここ半世紀は教会トップ日本人が務めている。しかも、日露戦争ロシア革命によって生じた反露世論によって痛めつけられた上での話であるロシア正教会が気に食わないというウクライナ人気持ち理解するが、逆風に耐えながら百年以上も信仰を守ってきた日本人信徒に対する尊重くらいは求めてもよいはずだ。

ところが、Alex Kさんが示したような日本正教会への侮蔑あるいは敵対は、残念ながらウクライナ人あいだにしばしば見られる。たとえばウクライナ正教会は日本支部を開設しているが、その神品であるパウロコロリューク(Павло Королюк)は、「生神女就寝祭」を「聖母就寝祭」と呼ぶなど、日本正教会用語法を意図的無視する姿勢を打ち出している。ウクライナでならば好きな用語を使えばいいが、あいにくとここは日本であり、日本正教会管轄である。郷に入っては郷に従うべきではなかろうか。また、コロリューク神父あるいは彼に近しい誰かは、日本正教会を侮蔑するツイート公然としている。まあ、こういうツイートウクライナへの共感が強まると思っているならご自由にされればよい。増田は、コロリューク神父はキリル総主教精神双生児なのだから、似た者同士もっと仲良くすればいいのに、という感想しか持てなかったが。

そもそもウクライナ正教会日本支部を開設しようという時点で「シマ荒らし」といえる。日本在住の正教徒基本的日本正教会聖堂に通うべきだからだ。とはいえ移民移民先に支部を作るのは米豪などでも問題になっているし、ルーマニア正教会も日本支部を築いたことがあるので、ウクライナだけの問題ではないのだが。根本的には日本正教会独立教会ではないのでナメられているのだろう。あるルーマニア人は「在日ルーマニア人が教会に行くのに、何でモスクワ許可必要なんだ?」と嘯いたそうだ)

さらに、一昨年開かれたホロドモールの犠牲者を追悼する合同祈祷式には、コロリューク神父だけではなく「日本における総主教代理であるアンブロシオス府主教」が出席していた。日本総主教代理とはどういうことか? 実は、全地総主教日本正教会自治権を認めておらず、韓国派遣したギリシャ人神品日本正教会トップに任命しているのだ。彼は韓国正教会トップでもあるので、というかそっちが本業なので、ふだんはソウルにいる。なるほど、ウクライナ正教会が全地総主教によって承認された関係上、全地総主教が認める総主教代理を認めねばならないという事情理解できる。だがそこでも、日本正教会日本人運営する教会だということは無視されている。明治時代からの由緒ある聖書を守り続けている日本人信徒がおよそ1万人いて、神学を修めた日本人神品が何人もいるというのに、ふだんは韓国に住んでいるギリシャ人日本正教会トップを名乗るというのは、日本人への侮蔑だとは思わないのだろうか?

ロシアウクライナ侵略が許されざる暴挙であり、ウクライナ人へのジェノサイドであることにはいささかの異存もない。プーチンプーチン盲目的に礼賛するロシア正教会のキリル総主教腹を切って死ぬべきである。Оккупанты, идите домой! だがそのことと、日本人が守り育んできた日本教会を軽んじてよいかということとは、まったく別の問題であるはずだ。ウクライナ人特にウクライナ正教会関係者は、日本正教会に敬意を払うべきだ。彼らはどんなに苦しい状況でも正教会信仰を守りぬいた人びとであり、彼らの培ってきた伝統尊重されるに値する。もしもウクライナ正教会がイイスス・ハリストスの教えを日本で守り広めたいと思うなら、まずは彼らの伝統に倣うことから始めるべきだろう。

ところで、ウクライナ語版ウィキペディアの「日本正教会」の記事には、次のような記述がある。

На відміну від католицької і більшості протестантських церков Японії, Японська православна церква не використовує усталеної в японській мові християнської термінології. З 19 століття вона розробила власний словник. Більшість термінів вважаються застарілими словами і малозрозумілі для сучасних японців[13].

この「注13」は次のようなものだ。これは英語版やロシア語版にはない、ウクライナ語版オリジナル記述である

Наприклад звичне для японської мови слово «Трійця» саммі іттай (三位一体, дослівно: «три особи одна суть»), що зафіксоване у провідних японських словниках, японські правослані замінили на сісей санся (至聖三者, дослівно: «найсвятіші три особи»). Ця заміна сприймається неадекватно, оскільки друга частина словосполучення — санся означає не лише «три особи», а й «третю строну» або «аутсайдера». Інший приклад — «Преображення». В сучасній японській мові для позначення цього слова використовується термін хенйо (変容, дослівно: «зміна образу»). Японська православна церква замість нього вживає термін кен'ей (顕栄, дослівно: «проявлення слави»), який в японських словниках тлумачиться як «стати заможним» або «вибитися в люди».

Alex Kさん! 生きとったんかワレ! 「顕栄」についての一方的解釈が健在なのを見てとても懐かしい気持ちにさせられた。さらに、「三者」は部外者というニュアンスもあるから、「「至聖三者」」はTrinityの正確な訳ではないそうだ。もちろんこれは日英露各版のどこにも書かれていない新発見である。確かに第三者」という語を思い出せば、「三者」に部外者という語義があることは明白だ。このウクライナ人編集者勉強熱心さには頭が下がるので、次はぜひ序数という概念についての記事を書いてほしい。しかし何より驚嘆すべきは、これほど独創的な日本語解釈が堂々とウクライナ語版ウィキペディアに載っているということだろう。ウクライナ人に向けて世界言語についての知識を広めようとするAlex Kさんの思いには頭が下がる。きっとそのような手法モスクワで身につけられたに違いない。いや、実にあっぱれ。<

2024-08-20

anond:20240820102917

掛け算の順序って指導要領には本当は無いんだよな。似た概念はあるけどさ。

載っているのは、指導要領を民間出版社がより噛み砕いて先生向けに書いた本。

で、その中身は実のところ教える時に便利な勝手な決め事という以上のものではなく、まあ宗教みたいなもの。その宗教の上に立った上での「掛けられる数」みたいな概念説明や掛け算順序の○×を付けることは出来るけども、その宗教正当性担保しているものは何もないし、先生がその信徒からって児童がその宗教を信じなければならない理由もない。

そんなものから指導要領には当然従うけどその手の解説本には従う義理意味もないと思う先生もけっこういて、忘れる以前に義務教育で習ったこ自体がない人もそれなりにいるのだよ。

2024-08-12

anond:20240811120625

エジプトにいた増田です。

思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています

そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分出会ってきた)アラビア語イスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます

大前提ですが、自分は基本、道楽勉強してきた人間で、職業的研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくま個人体験を元にした個人の感想で、学問裏付けあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。

(いきなり余談ですが、わたし出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリジムスリム、つまりムスリム結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)

シリア人結婚シリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。

また日本在住のマリジムスリムでも、家族親族との交流クルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます

ほとんどの場合ムスリム男性日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)

先述の通り、わたしアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。

イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンアラビア語はお経みたいなものイラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います

お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。

日本仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味勉強すると思います。非アラビア語話者ムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。

何ならアラブ人にとっても、クルアーンアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。

(お世話になっていたエジプト人の先生クルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見アラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからんものです)

一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います

ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハー勉強します。普段使っているアーンミーヤエジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。

外国人視点で見れば、フスハーアーンミーヤラテン語フランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます勉強しないで自然にできるわけがありません。

話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。

キリスト教聖書は色んな言語に訳されていて、普通各自言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。

何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的理解できるもの第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。

現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップ全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味整合性全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味あいまって全体の美しさが練られると思います歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。

英語ヒップホップ歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉ダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為信仰というものは、容易に翻訳可能知的了解やすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。

特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語ヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。

クルアーン特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教ルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象イメージが多いですね。

音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょエピソード的な話が続くと、とてもわかりやす言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりフレーズがビシッと入りますごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。

またヘブライ語聖書旧約聖書)のエピソード知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。

こうしたエピソードっぽいフレーズ時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます

この文体翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります

わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーン読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。

良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。

余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記学問的な界隈では結構からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのはコーラン」ですよね。

カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります

クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います

では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。

英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。

ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセント表現したようです。

実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人感覚簡単カタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。

別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語ラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。

同様にラテン文字表記英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。

あと不思議なのはアッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。

これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います

その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為のものは単なる殺戮肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚殺戮であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。

では実際のところ、平々凡々たる市井ムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います

色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。

キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですからムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリム感覚同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから

この低水準の信仰感覚というのは、あくまわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います

大人ですから知的敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています

そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています言語文化宗教連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。

まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います

そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢しょうが、違う場所から違う視点ものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。

人生、旅じゃないですか。

2024-08-11

anond:20240809212549

クルアーンは歌みたいな扱い。歌詞意味理解は後回しに、声に出せと言われる。

全くわからないは誇張で、意味ちゃんと教えるけど、意味より美しく吟じるのが先。

その意味でお経に近い。

聖書のような物語じゃなくて、時系列むちゃくちゃだし、物語かと思いきや端折り過ぎてさっぱりだし、なにより昔の言葉のまんまで何言ってるのかわかんない。

般若心経の「ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー」みたいな部分がずっとという感じ。意味はあったりなかったり、いやないって言っちゃダメなことになってるけど、神学者しかわからんくらいの感じ。

クルアーンイスラム教徒を束ねるのは無理で、だから一般信徒言行録しか読まない。

2024-07-25

袋入りのスナック菓子をもって高級老人ホーム訪問

毒母スナック袋の口に穴が空いていないか、これみよがしに、仔細にしつこく確認している

「毒入ってないよ(笑)

「さすがCIA(笑)

「次はお餅もってこようか?(笑)

勝手に大樹やら第一やら生命保険ネタにされて殺されかけた上、裁判所隠蔽工作かけられたんで、我慢限界はとうに超えていて冗談レベル

放火やら殺人とか起こしてない自分って、偉いわー

渋沢栄一ガチャ会社の元社員なんて最悪な奴らなんだろう

いわゆる柏木教会の異教徒にも学習院にも差別意識を持たざるを得ないんでね

どこの信徒でもないか犯罪ネットワークがないの辛いわあ

0歳の子を親戚に預ける女だから国交省の弟も含めて頭がいいんでしょ

2024-07-22

anond:20240722180222

広まる余地があるならそれでよし

日本西側諸国から

ただし宗教法人税は取るし寄付文化もない日本で定着させるには何かしらの送金がないと成立しないね

日本科学信徒であるべし

2024-07-18

郵便受けキリスト教のチラシが入ってた

A5版を縦に二つ折りにしたカラフルなチラシが郵便受けに入っていた

ざっと見てみた感じはキリスト教の何か

聖体パンの特売日とかイエスの磔体験イベントのご案内とかそういうんじゃなくて、教会組織の紹介や信徒ショートストーリーが書かれてるっぽい

書かれてるっぽいと曖昧なのは、チラシに書かれた全文が外国語で書かれてて読めないからだ

アルファベットで書かれており、英語なら昭和中学生レベルでギリ読めるが、angなんて冠詞接続詞は知らない

パッと見、aで終わる単語が多いから、イタリアスペインポルトガルといったラテン語系の言語に見える

なんでこんなものが俺の家に?

「とにかく手がかりが欲しい!英語はないか英語は!」と目を皿のようにして探していると、あった

Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania

ものみの塔かよ!!

なんでこんな言語のチラシを寄越してきたし

も、もしかしてこれは・・・バベルの塔建設される前の言語で書かれてるんじゃないのか!?

俄然、興味の沸いた俺は書いてある単語を手当たり次第にググってみた

手あたり次第と言ってもまあ2、3の単語をググった時点で、答えは出た

タガログ語

ええ、フィリピン!?

配る国を間違えてやしないかと思ったのだが Printed in Japan とか書かれてるし、日本印刷したチラシをわざわざフィリピンまで持っていくとは考えにくい

なんでこんなものを配ったんだろう?

全ては神のみぞ知る、と言いたいところだがチラシ配りは人間所業、淫らに神の名を唱えてはならない

2024-07-09

anond:20240709224101

申し訳ありませんが、あなたが述べていることは陰謀論の要素が強いようです。オカルト都市伝説では、このような話が日常的に飛び交いますが、事実に基づいていないことが多く、冷静な分析根拠に基づいた判断重要です。

例えば、「サタン」とか「信徒」などのワード使用することは、感情を煽る手法であり、真実を見失わせる恐れがあります。「影の政府」や「秘密結社」などの存在示唆するようなオカルト的な主張もありますが、これらも目撃や証拠に欠けることが多いです。

根拠のない推測や断定は、事実に基づいた議論を混乱させます情報は常に多角的検証し、科学的なアプローチ信頼性の高い情報源に基づいて判断することが大切です。

暇空茜、安野貴博の妻へぶつかり開始

都知事選出馬した安野貴博は、東大在学中に学内で知り合った女性23歳で結婚している

妻の安野里奈はKADOKAWA文藝春秋という経歴で、編集者をしている

夫の出馬にあたってコネをフル活用しようと試みるも、取材を受けてもそれを報道してもらえなかったり、

「(安野は長髪なので)髪を切ればテレビに映す」と言われるなど、メディア戦略はあまり上手く行かなかったという

それでも安野は都知事選で5位になり、歴代30代候補者で最多得票、議員経験がなく組織も持たない者としての最多得票などの記録を作った

暇空茜は小池百合子と1位争いするつもりだったが、蓋を開けてみれば7位で安野よりも下だったため、安野へのぶつかりを開始

安野は仁藤夢乃とつながっていて、暇空の名前報道させないために無理矢理担ぎ上げられたと主張

そして現在は安野の妻叩きを固定ツイートにして拡散

暇空茜

@himasoraakane

安野たかひろさん(の奥さん)は夫婦別姓論者の可能性があるそうです

https://pbs.twimg.com/media/GSC6TCiboAALLpF.jpg

https://pbs.twimg.com/media/GSC6TCgakAA0_mp.jpg

https://archive.md/c5VUc

野里奈は結婚して安野姓になっているが、Facebookでは旧姓表記している

暇空は、それは「夫婦別姓論者」だからだと認知プロファイリングし、つまり野里奈は左翼危険人物でみんなで叩きのめさなければ表現の自由が奪われるサタンである信徒たちに伝えている

・・・・・暇空には若いからの知り合いの女性がいないのだろうか

昔の友だちとつながりやすいように旧姓表記するのはごく当たり前のことだ

同姓主義者女性議員だって旧姓併記すればいいだけだから」が別姓反対の理由であり、別姓併記だけでサタン認定するのはおかし

仮に、本当に別姓論者で渋々安野姓に変えていたとして、それがなんだというのか

別姓を国民の6-7割は支持しており珍しいことでもない

2024-07-02

anond:20240702133410

信徒であることにアイデンティティがあって、教会一定帰属意識があって、現在進行形交流を持っていたら、普通にごく普通信徒ということなのでは

中には「敬虔な」と言われる人や聖職者もいて、そういう人は布教したり神学論争したり罰当たりな言動咎めたりするんでしょうけど、平信徒ってそういう人ばかりじゃないよね。宗教団体地域時代によって程度は大きく異なるんでしょうけど

からといって脱退しないのがいけないとは思わないから、本人がどうしたいのかだよね

オウム系統とか統一教会系統とか親鸞会とかその手のやつなら、ごちゃごちゃ言わないですぐやめてって思うけど、それにしたって増田自由で、何を取るかの主体的選択の結果ということだと思う

鬱の件は恋人の方が不安で甘えてるってことなんでしょうけど酷いね

でも宗教と鬱は同列に語るものではない気がする。宗教2世以降ともなれば生得のもので、価値観コミュニティへの帰属意識は植え付けられるから選択ではないのだ、と言いたんでしょうし、それも一面では事実でしょうけど、成人してたら自由意志の方が重要視されるものだと思う。暴力的言動を伴うような束縛や制約が強い団体場合はまた別なので、物理的・心理的に抜けたくても抜けられずに苦しんでいる人には最大限度同情するけど、増田は違うということだし……

暇空教

書類送検されても落選しても信仰を貫いた信徒

顔バレしたら棄教しそう

創価学会員を見ると侮蔑してしま

創価学会を信じている人を見ると内心侮蔑してしまう。 信じる事によって彼等は心が救われているのだと理解しても、蔑む気持ちが心の中に常に存在している。

 何故仏などという居ないものを崇め信じるのか。昔に『いた』と言われている、記録されているだけの何かを信じる事は、わたしには難しい。その神様か仏様が、定期的に15年に1度などのペースで現れて、何か大層な有難い言葉を紡ぎ、人間では有り得ぬ力で大勢を救う様子が見られ、記録されているのであれば信じるが、残念ながらそんな事は起こらない。

 神様や仏というものは、神話聖書等のコンテンツとして読む分には充分面白いゼウス唯一神宇宙や天候を司り、万能であるとか、ハデスは冥府の神であるとか、キリストが磔にされて3日後に復活したとか、様々な逸話物語キャラクターとして魅力的だ。才にあふれた個性豊かな神や人々が織り成す神話は、展開がぶっ飛んでいて読んでいて飽きるものでは無い。信仰心が皆無のわたしでも、素晴らしい、偉大だねと褒め称えることは出来る。鬼滅の刃で、煉獄杏寿郎が活躍する見て「煉獄さん素晴らし過ぎる…!」と言うくらいのテンションくらいで。

 そんなわたしが何故、ここまで創価学会を毛嫌いするのかと言うと、まあシンプルわたしの願いを叶えてくれなかったからだ。

 わたし小学生の頃、母は創価学会の熱心な信徒で、毎朝題目を唱えていた。わたし題目のよくわからない言葉気持ち悪くて堪らなくて、唱える事を毎日嫌だ嫌だと抵抗していた。何故仏壇に向かってよくわからん言葉を唱えねばならんのだ。気持ち悪い、嫌だ。と嫌悪気持ちが非常に強かったのをよく覚えている。しか平穏に過ごすことを目的とした姉と弟や母にちゃんとやれと叱られ、ぐずぐず泣きながら、母の膝上で題目を唱えるフリをしていた。

 娘が毎日抵抗してるのにも関わらず、懲りずに毎日題目を唱えているので、ふとある日、「これをしたら願いが叶うのか」と聞くと「そうだよ」と母は返した。願いが叶うのならば、と単純でひねくれた小学生わたしは期待を込めて、創価学会とやらを小さく信じることにした。どうしても抵抗感があったので題目を唱える事こそしなかったが、毎日母の膝の上で「パパとママが仲良くなりますように。喧嘩がなくなりますように」と願った。そしてその願いは、当たり前だが叶わなかった。

 両親の喧嘩が絶えなかったのは、母がのめり込むこの創価学会に原因があった。創価学会に限らず、宗教というものは金がかかる。創価学会はそれが顕著で、聖教新聞や、創価学会教祖が書いた人間革命とか無駄に分厚い本の購入やらで色々金が入用なのは有名な話だ。実際、ここ数年なんかのニュースで、婆さんが聖教新聞大量購入などで貧困に陥り、栄養失調かなんかで亡くなっているなんていう話もある。ここまで来たらもうわかる話で、喧嘩の原因は主に創価学会に掛かる無駄金だった。

 父の信仰心の有無は詳しく聞いてないのでわからないが、たぶんわたしと同じように、父の信仰心ゼロに近いものだと思う。実際、願いが叶うという保証なんてどこにも無い、不確実な何かに掛ける金ほと勿体ないものは無い。こんなものに金をかけるくらいだったら、まだリターンが存在するパチンコ競馬といった賭博の方がマシだろう。しかも育ち盛りの子供3人を養わねばならぬのに、妻が宗教などにうつつを抜かしているなどとなれば尚更だ。

金が入り用なのにこんな事に使うなと、父は母に怒り、そこから喧嘩に発展していく様子を何度も何度も何度も見た。父の怒り方は神経質でうるさく、不快ものだったが、今思えばそれが正常だったのだと思う。わたしが同じ立場だったら、やり方こそ違うかもしれないが同じように苦言を催しているだろう。

 というわけで、わたしのささややかで純粋な願いは叶わなかった。

 正直、これが創価学会だろうと他の宗教だろうと、おそらくわたしは同じような過程を経るのだろうとは思うが、どちらにせよ、少なくとも創価学会に関しては信じても救われないというのがわたしの持論になった。

 ちなみに最終的に、この願いが叶ったかと言われればNoだ。

 何年かして母はフェードアウトするように創価学会を辞めたが、喧嘩は15年以上経過した今でも定期的に頻発している。今は何も信仰などはしていないが、15年以上の時を重ねても、幼い少女の『両親が仲良くなりますように』というささやかな願いさえも叶える事ができない、それどころか少女がそんな願い事をする原因になり得るあたり、創価学会には力が無い事を証明されたとわたしは思う。

2024-07-01

じゃあ現代的な宗教つくろうよ

神話とかは禁止

科学事実整合が取れなくなってあとあと困るから

「じゃあビッグバン神様が起こしたことにすればいいんじゃないの?」

って言う人がいるかも知れないけど、2000年後は違う説が主流になってるかもしれないから駄目。

でも神様がどういうお方なのかわからないのも困るので、

「無から有を生み、森羅万象創造した」くらいのふわっとした話ならあってもいいかもしれない。

でも「無なんて存在しないよ」みたいなこと言われたら困るな。

とにかく神様創造主なのです。それだけ。あまり深く考えるな。

戒律禁止

お酒飲めないとかお肉が食べられないとか私自身辛いし絶対人気出ない。

人として守るべきルールに関しては現代では法律があるのでその道のプロに任せよう。

・面倒な集会とか儀式とかはやらない

日曜はダラダラしたいし、貴重な休日半日も持ってかれるのはキツイ

でもそれっぽい催し物があったほうが盛り上がるし、信徒義務付けないという条件付きでやってもいい。

それはそれとして、信仰の証みたいなのはあったほうがいい。

基本ネットで一文書き込むくらいでも成立するくらいがいいけど、雰囲気作りのために凝ってもいいと思う。

神様基本的に何もしない、くらいでいい

神様が何とかしてくれる」なんて期待しながら祈って、何も起こらなかったら裏切られたと思う人が出てきそうだから

まぁ祈ってもいいけど、基本何も起こらないし、何か起こったら儲けものくらいでやってみてほしい。

神様は人にそれなりに関心を持ってる、くらいでいい

「神は人を愛している」はちょっと重すぎる。程よい距離感を保ってほしい。

神様は人に(当然これを読んでるあなたにも)それなりに関心を持ってるよ。あくまでそれなりにだけど。

からあなたもそれなりに神様に関心を持ってね。くらいで。

このくらいの関係性なので、祈り神様に、自発的に何かを伝える、くらいの意味合いになる。

そんなもんでいいと思う。

2024-06-12

料理科学」の怪

料理クラスタの「料理科学化学)だ」とか言い張りたがる風潮がすげーいや。

頭悪くて料理くらいしかできないバカが、カガクサマ信仰で我は神託を受けた者なり~!ってやってるのがマジでむかつく。

科学ってのはお前らの足りないオツムを隠すための魔法のお札じゃねーの。

こちとら日々科学ってやつと必死こいて戦ってるのに、バカ利己的に使うせいで邪魔な雑音ばっかだ。

パスタをゆでる湯に塩を入れると浸透圧がどうのこうの、純度の高い塩素ナトリウムがどうのこうの、

純粋グルタミン酸摂取がどうのこうの、鉄フライパンの油膜成分がどうのこうのと、クソくだらない妄言ばっか。

お前の目の前で起きたできごとを、おとくい()のさんすうでせつめいできたらカガクだ!ってそれなんて似非科学~~。

おカガクサマの信徒はせいぜいそう名乗れや。「科学」を標榜すんな。

その辺の駅弁大学カタカナ学部あたりを出たお安いお脳で語れるほど科学は安くねーの。

そんなに科学で語りたきゃせめて博士号の一つくらいはとってからやれよ。

2024-05-22

anond:20240522204519

お布施たんまり包んで信徒になってもらわないと見せられないよね

2024-05-21

世渡り上手かどうかはともかくとして、学力知識技術という面については、オウム真理教男性信徒

頭がいいと勘違いしていたのではなく、実際に頭がよい者が多かった。

なぜなら、オウム真理教は、男性については理系高学歴を集中的に勧誘していたためである

 

バカ男性」はそもそもオウム真理教勧誘される機会自体が少なかったため、その数も少ない。

2024-05-08

anond:20240506202724

預言者を名乗るというのは新たな宗教を開くという意思表示よ。

新約聖書でも、信徒を導くロールとして、使徒と並び預言者言及されてますよね。扱いは軽いですけども。

今はさておき原始キリスト教では信仰布教活動の一環として預言行為一定行われていたわけですし、近年でもアッシジのフランチェスコはじめとして神の啓示を受けたとされる人物複数いるので(バチカン認定は死後ですけど、生前はそう活動してたわけですし)、西暦600年代前半に活動していたムハンマドが神の啓示を受けたと主張したからといって、新しい宗教を起こそうとしていたことにはならないのではないでしょうか?

今のイスラム教教義としては、三位一体キリスト犠牲による原罪からの救いも否定しているわけですからキリスト教から見たら明らかに異端だし別の宗教なのは明らかですが、ムハンマドが神の啓示を受けたと主張して地域多神教信仰偶像崇拝を、「わが神の外に、ヤーヴェの外に、神の外に、神あるなし」と攻撃し始めた経緯がどういうものだったのかな、という疑問です。

2024-05-06

増田の母は柏木教会という日本キリスト教会信徒だが

増田小学校低学年のとき母親から与えられたのは旧約聖書絵本であった

ノアの方舟の話であったり

モーゼが海を割った話であったり

ケインアベル兄弟処遇差別の話であったり

しかしその本は最後の方はキリスト生誕とか奇跡とかキリスト復活の話で終わっていたため増田キリスト教の聖書と思っていたのである

ほとんどユダヤ教聖書だったと気づいたのは、ずっと後

そういうことでひとまずどちらも嫌いになった

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん