はてなキーワード: お葬式とは
祖父のような人が、昨日死んだ。
血の繋がった祖父は、自分の生まれる前に亡くなっていた、少なくとも父方の祖父は、割と早くに亡くなったらしかった。
母方の祖父は、母親が子供の頃に祖母と離婚しており、多分早くに亡くなったのだと思うが、仮に生きていても会うことはなかった。自分がいつそんなことを聞いたのかは確かではないが、物心ついた自分が、血の繋がった祖父、というものを意識した時にはどうやら亡くなっていたらしいのは確かだ。
「祖父のような人」は、僕が生まれるずっと前から、祖母と一緒に暮らしていた。多くの人が誰しも持つ思い出のように、自分も子どもの頃、祖母と彼の住む家に遊びに行き、甘やかされ、小遣いをもらい、トランプやら野球やら将棋やらをして、思う存分に遊んだ。
将棋のルール、司馬遼太郎、池波正太郎、他にもいろいろと、今ではどれが彼に教わったものか一々思い出せない程、いろいろなことを彼は教えてくれた。
むしろ、祖母と彼には、高級旅館に何度も旅行に連れて行ってもらったり、高級料理を食べたり、普通の人よりも随分いい思いをさせてもらった、祖母のお金だったのか、彼のお金だったのか分からないが。
祖父、おじいちゃん、適切な言葉は分からないが、彼は自分にとって唯一のそういった存在だった。彼は無責任で、冗談と嘘をよく話し、調子のいい軽口を叩き、良い人間とも思えないが、憎めない人だった。
陽気に昔の自慢話を語り、祖母や叔母に返す刀で昔の失敗をからかわれると、機嫌を損ねて無口になり、眠ければ眠り、食事の時は誰よりも早く食卓について料理が出てくるのをやたらと祖母に急かした。彼は一言で言えば、「簡単」な人だった。読書好きで、色んな経験をしてきたらしい割に難しいことは考えず、毎日似たようなことをして気楽な生活を送っていた。
祖母が彼と暮らし始めたのは、離婚した直後のようだった。母や叔母(母の姉、祖母の娘)は、彼のことを時折「おとうさん」と呼んだし、祖母、叔母、母、彼の四人で暮らしていた時や旅行をした話を聞くことも稀にあった。
ただ、彼は、外に出れば家族ではなかった。彼の苗字は一人だけ違った。祖母が「田中」(仮名、でもそれくらいありふれた苗字だった)と彼の苗字を口に出す時、聞いてはいけないタブーに踏み込んでいるようで、胸がざわついた。今でも克明にそのざわつきを思い出すことができる。
父方の家族に会う時、彼がその場に来ることは当然なく、それどころか、彼のことを口に出してはいけない、そんな人はいないものとして話さないといけないことは、子どもの自分にもいつの間にか十分過ぎるくらい分かっていた。
父は自分や兄や母とともに、母方の祖母の家に行くこともあったが、彼のことを嫌っており、彼と会ってもまともに話さず、彼の話を自分や兄から聞くと不機嫌になった。自分も兄も馬鹿じゃなかったので、幼い頃から、彼の話を父の前でしてはいけないことは分かっていたが、父は、祖母の家から帰ってくるたびに普段の落ち着いた様子からは考えられない程ぶっきらぼうに「田中はいたんか」と自分に聞いて、「うん」とだけ自分が答えると、より一層不機嫌になった。
母は、自分たち兄弟を育てながら、よく酒を飲み、よく荒れた。父は単身赴任で平日ほとんどおらず、母は毎晩のように台所で酒を飲み酔っ払って、自分や兄を理不尽に怒鳴って手を挙げ、警察や学校や塾にやたらと電話をかけてほとんど脅迫に近いようなクレームを怒鳴り散らかした。たまに帰ってきた父がそれを制止すると、コンクリートで出来た平成生まれの一軒家ですら、簡単に壊れてしまうのではないかという程の暴れ方で反抗した。酒を飲んだ母は、怪物だった。
母は、素面の時、神経質で、常に他人の目を気にしていた。タクシーの運転手にも、ずいぶん年下の店員にも、学校の先生にも、息子の同級生の親にも、そこまで丁寧に話さなくてもいいのにという程、丁寧に低姿勢に話した。素面の時も、酒を飲んで暴れる時も、母は「正しい社会」から向けられる目に怯え、苦しみ、酒を飲んだ時だけ、自分の正しさを暴力的に吐き出すことで、何とか自分という存在を保とうとしていた。
自分が中学生か高校生くらいの頃、彼には今は離れて住む子供がいることを知った。思えば「いない」とも聞かされたことはなかったが、はっきりとそれを聞いた時は、ただ胸の内で「そうだったんだな」とショックを受けたのを何となく覚えている。
それくらいの頃、叔母が離婚し、一人暮らしを始め、段々と精神を病み、盗聴されている、組織に狙われてるなどと、典型的な統合失調症の症状が出始めた。
この頃から父はよく自分にもはっきりと言い始めた。母が酒に荒れ、叔母が病んだのは、家庭環境のせいだ、母、叔母の親である祖母と、彼が不倫をして、母や叔母の実の父親を追い出したからだ、と。きっと母や叔母は、「外で言ってはいけない」ことを家の中で強く教えられ、世間の目を気にして怯えて生きてきたのだと。
それはある意味で納得のいく説明だった。祖母は、離婚の理由を、相手、僕の実の祖父の賭け事のせいと言っていたが、どこまで本当かよく分からなかった。
知り合い、昔からの友人である大学の同級生と会う時も、祖母は、「娘が二人いて、孫もいる独り身」として話しており、彼のことを誰にも言っていないようだった。
お盆、お坊さんがお経を唱えに祖母の家に訪ねてくる時、彼は訪ねてくる少し前に外出し、お坊さんが帰ってもういないことを電話で聞くと、すぐに帰ってきた。用事があって出かけるのではなかったから、すぐ近くにいたのだろう。祖母は、お坊さんが来る時間をいつも気にして、去年は遅かったとか今年は早過ぎるとか言っていたが、後ろめたさと面倒なことへの苛立ちが入り混じっていたのだと思う。
彼は、彼の子供とは長年会っていないようだった。彼の子供は、僕の父や母と同年齢程度のはずだが、彼の子供や、家庭のことを思うと、僕に罪はないのに申し訳ないというか、複雑な気分になった。彼の家族が彼のことをどう思っていたか分からないが、少なくとも誇りには思っていなかったのではないかと思う。
祖母と彼は、僕が知る身近な家族の中で最も夫婦らしい二人だった。時に自分の子どもたちを犠牲にしてまでも二人の時間を過ごし、お互い喧嘩し、お互い気ままに生きて、美味しいご飯を食べ、よく酒を飲み、一緒になってから数十年間を死ぬまで共に暮らした。
この一年程、彼はほぼ寝たきりになり、祖母は、彼の子供のところへ帰って欲しいと伝えていたようだが、結局最後まで彼が聞き入れることはなかったようだった。
彼とのことで一番はっきりと思い出せるのは、大学で落研に入った自分に、彼が帯をくれたことだった。自分の着ていた着物は、桃色で、当時自分が持っていた水色の帯とは合っていなかった。祖母がその写真を見て、「合う帯があったら、おじいさんにもらい、おじいさん、呉服屋の社長をやってたから」と言った。彼は昔の仕事の話をされるのが少し気まずいのか、「ええの残ってるか分からんで」と言っていたが、次会った時に、自分の着物によく合う、濃紺の帯をくれた。とても気に入った帯だったし、締める時は不思議な気合が入った。他人に言えない自分の生まれを、言葉に出さずとも身に纏って話しているようだった。
思えば彼について知らないことも多い。下の名前も一度くらいは聞いたことはある気もするが思い出せない。思い出すのは、人となりと、「田中」と呼ばれているのを聞いた時の、あのばつの悪さだ。彼がくれた帯も、彼がどこにしまっていたのか分からない。少なくとも祖母と彼が暮らしていたマンションには、彼の私物をしまうスペースはほとんどなかったはずだった。彼は、祖母のマンション以外にも一応自分の部屋を借りていたらしいが、ほとんど帰っていなかったし、何を残して、何を捨ててきたのか、いつから祖母と暮らし始めたのかも、本当のところはよく分からなかった。
「二日前くらいから入院してもう危ないとは聞いてたんやけどな、おばあちゃんが病院行かはったんやけど、内縁の妻、言うんかな、死んでも詳しくは教えてくれへんのやて。ほら、おじいちゃんて、"田中"さんやんか、息子と娘さんがお葬式とかお通夜しはるから、心の中で弔ってあげてな」
母は冷静に話すようにつとめているようだったが、その話し振りは、まだ状況が飲み込めない子どものようでもあった。
母にとって、彼がどんな存在だったのか分からない。少なくとも、幼少期ともに過ごし、自分の血の繋がった親である祖母と暮らし続けていた「彼」のお葬式にもお通夜にも出れないことは、やはりショックな出来事であり、何を悲しんでいいのか、すぐには整理がつかないようだった。
きっと、親である祖母が離婚して、その後すぐ彼が家に来て、そこからずっと母は、同じように色んなことを飲み込めないまま生きてきたのだと思った。
もう高齢で、ボケかけの祖母は、すぐには状況が完全に理解できなかったらしく、母からLINEが入っていた。
母は気持ちの整理がつかないのか、若干文章ががおかしかったが、「やはり 悲しいことと思います。」と書かれていた。
彼が死んだら、お葬式にもお通夜にも、自分はおろか、「田中」以外の人間が出ないことは、ずっと前から、僕が生まれるよりも前から分かっていたことだった。
別に祖母がそのことをどうにかしようとする素振りもなかった。祖母と彼はただ一緒に暮らして、おそらく楽しい思い出をつくり、何かを片付けることもないまま、彼は死んだ。
残された人はみんな、この悲しみをどう受け止めていいかも、怒っていいのかも、誰に話していいのかも、どう弔えばいいのかも、分からないままだ。
祖父のような人が、昨日死んだ。このことを上手く話せる日が、いつか僕に来るだろうか。
彼とお別れらしいお別れもできないまま、今年も菊花賞がやってきました
今年も現地に行って、彼の写真があちこちに飾られた場所で、ひとりで気持ちに区切りをつけてこようと思います
今年は今年の菊花賞があるし、素晴らしい馬がたくさん出るけど、僕からするとお葬式と、追悼レースのようなもの、という気持ちで行きます
では今年の展望です
勝ちに近いと言える力を持った馬は3頭です
過去の実績と馬の実力から言えば、ソールオリエンスとタスティエーラが別格です
2頭が抜けていると言っていいでしょう
ただそこに、前哨戦の神戸新聞杯で最後の最後まで伸び続けたサトノグランツは、京都3000で言えば見劣りしない力はあるものと思います
実質この3頭の3強状態ととらえていいでしょう
これも3頭
神戸新聞杯でもサトノグランツの次に最後の最後まで伸びたハーツコンチェルトは、着順こそ振るわなかったものの前哨戦としては悪くない走りで、ダービーでも3着の実力を考えると軽視はできないです
そして別路線からになりますが、スタミナ十分という話で、鋭い切れ味も見せるドゥレッツァが上がり馬の最右翼
あとは穴馬っぽくなるかもしれないし別路線ではないんだけど、札幌記念でタフな馬場を走り続け、一線級相手に2着というパフォーマンスを見せたトップナイフは絶対に軽視してはならない馬ですね
ダービーでは後ろから末脚一閃に賭けたけど不発だったため、逃げた神戸新聞杯で3着
菊花賞も先団でしぶとい競馬を選ぶと思うけど、凡走はしないはず
地力上位は間違いないです
もう1頭はサヴォーナ
特に波乱があったわけでもない神戸新聞杯で、あわや勝ちかと思わせる走り
10番人気ではあったけど、昨年のヤマニンゼストのような好走劇とは違い、実力での走りという感じ
最後に注意しておきたい馬
ノッキングポイントはPOGでも必見と言われた素質馬で、頓挫もあったけど最終的にはダービーで掲示板
後になって「そりゃ素質馬だったもんなあ、盲点だったなあ」と言われるような馬はこんな馬
リビアングラスは阿賀野川特別を逃げ切って出てくるスタミナ型のキズナ産駒
おそらくまた逃げるので展開を握るのはこの馬
ソールオリエンス 武史騎手のトーンがなぜか上がってこない。あまりソールを買ってない?そして距離適性は「3000は少し長いけどぎりぎりもたせられる」程度という話
タスティエーラ ダービーからの直行で結果を出した馬はほぼいないこと。ノーザンダンサー系がほとんど馬券に絡まないこと。ただこれらの懸念は過去の傾向だけ。
サトノグランツ 本当の意味での実力が上位2頭に通じるかの見極めが必要。長距離の川田は3割引き
ハーツコンチェルト やっぱり神戸新聞杯はふがいなかった。最近の松山騎手は「脚はたまったけど脚を使えなかった」しか言わないし、長距離の松山は4割引き。ハーツクライ産駒は京都の菊花賞で好走例が少ないのもマイナス。
ドゥレッツァ 実力が正直正確に判別できない。いいっていうからいいんだろう感がやはりある。ルメールは信頼できる。クラシック下位馬の下剋上が少なそうなので期待されている感。
トップナイフ 皐月賞ダービーと大敗しているから、ここでの力が劣るように見えてしまう。札幌記念が成長の結果ならいいのだが。ノーザンダンサー系は好走が少ない。
ファントムシーフ やっぱり実力はトップより1枚落ちる気はする。堅実だけど武器は少ない。これもノーザンダンサー系。
サヴォーナ やはり実力は少し足りてない
ノッキングポイント 長距離は正直怪しんでいる。でもモーリスでも2200や2500は好走があるし、3000だからって切るほどではなさそう。
リビアングラス 正直足りてないよね。いったいったで穴開けるなら。
タスティエーラは怪しい部分も多いけど、思えば春もそういう目を覆して勝ってきた馬だった
タスティエーラはパワーとスタミナをあわせもち、先行してしぶとく伸びるタイプで、器用さがあるほう
父サトノクラウンや、タイトルホルダー、アスクビクターモアとタイプ的に一番近く見えるのはこの子
やはり京都ならサンデーサイレンス系が勝つのではないかと思っている
川田が神がかればグランツもあって、長距離の川田やんって感じならソールが勝つ気がする
あとは直前の追い切りや枠を見てから
思ったより情報が集まってくれて嬉しい。
とりあえずまとめるとこんな感じかな。
30年前に鹿児島でもやってたという情報は親が鹿児島にいた時期とも被るので同じ地域(もしくは宗教?)だったのかも。
あと、我が家がトンカチでお茶碗を割ったことについてはそういう作法があるのではなく、住んでた家が安アパートの2階で玄関先で陶器を思いっきり割ると下に落ちて危ないからと丁寧に叩いて割ったという経緯がある。全然割れなくて大変だった。袋に入れて叩きつけるのは正解だと思う。
とても興味深い情報が集まってよかった。
こういう文化好きな人も集まってきてるみたいなので、心当たりがある人は引き続き情報を書いてくれると嬉しい。
親に人が亡くなったら「もうここに帰るんじゃないよ(あるべきところに行くんだよ)」と言う意味で玄関先で亡くなった人のお茶碗を割るんだと教えられた。
なので、お通夜お葬式みたいな人が亡くなった時の決まりごとだと思ってたんだけど、これ全国共通の文化じゃないらしい。
教えられてから30年近く生きてて初めて知った。
確かにうちの親は鹿児島出身なので、関東圏の文化じゃないのは納得。
お葬式とかで苦労しなそうで羨ましい
7刻みなので47日きとかいうらしい。
がんばって闘病して、いろいろできないことが増えていって、内心は情けないとかいろいろおもってたかもしれないけど忍耐して恬淡としたものだったな。
遺された親のほうがいろいろあったからな。
さすがにちょっと疲れたけど普段の運動不足もあって親のどちらのせいでもないな。
なんかすっごく楽しいことは年取ってるせいで間延びしてる。いつもどおり。
ガチャもあたらない。いつもどおり。
本当にわりといつもどおりの日常で
でもそれが親ののこしたもの、思いやりとか平和な日常ってやつなんだろうとおもう。
初盆台風でふきとばされないように、もどってこられるならちょっとのぞきに来てくれ。
庭の花もそこそこ咲いてるっぽいぞ。
祖父は私のことが大好きだった。
小さい頃は近所の公園まで連れて行ってくれて、もう少し歳が大きくなると自転車の後ろに乗せてイオンまで連れて行ってくれたり、お祭りに連れて行ってくれたりしたことをよく覚えている。
夏休みはほとんど親の実家に帰る家だったから、子供の頃の夏の思い出は大体がこんな感じだ。
私が20歳くらいの頃だ。
祖父祖母父母私で食事に行った。4人乗りの車だったので、私だけ自転車で店まで行き帰りをすることになった。店も自転車で20分くらいだし、仕方ないことなので特に何も思わなかったのだが、車で帰ったはずの祖父は私の帰りを道の途中で待っていてくれた。
心配だったのだろうか?まさか待ってくれているとは思わなかった。いいのに、と思うが同時になんて優しいんだろうと感動した。かなり印象深い思い出の一つだ。
そんな祖父も、近年は認知症を患って周りの人間のことを忘れたり、思い出したりしていた。詳しくないが、進行はかなりゆっくりだったのではないかな、と思っている。
私はもうアラサーになっており、さらに一人暮らしをしている。なかなか祖父と祖母に会いに行くのは難しくなっていたので母が実家に帰ったタイミングでビデオ電話で少し話したりしていた。
母が祖父に「この人誰だか分かる?」と聞いた。私のことだ。「わからん。綺麗だなあ」と言った。
私のことを忘れていたことが辛かったのもあるが、それでもまだ私を褒めてくれるんだなという思いでグチャグチャになって通話を切ってからおいおい泣いた。
私の名前は覚えているけど…と言っていたところもまた嬉しいような悲しいような気持ちになった。
去年会いにいった時は私のことを時々思い出していて、テレビ電話と実際に会うのでは違ったりするのかな?と思った。よく分からないが、たまにでも思い出してくれてたのは嬉しかった。
周りの人のことを忘れたり思い出したりする祖父は、性格こそ穏やかだったし前と変わらなかったように思うが、私と遊んでくれていた頃の前の祖父とは厳密には違う人だったのかもしれない。
でも、あの頃の祖父と会えなくなることと、もう祖父とは会えないことはやはり全く違う。
詳細は聞けてないが、おそらく老衰のような感じなのではないかと思っている。大きな病気はしていなかったはずだ。
それで90近くまで生きられるのはなかなかにすごい事だ。
なので、良かったなあと言う感情で悲しみを和らげることができるのはありがたいことだ。
まだ心の整理はついてないし、ふとした時に祖父との思い出を思い出して涙ぐんでしまう。本当にかわいがってくれていたなあと改めて思う。私も祖父のことが大好きだった。
お葬式には行けなかったが、今祭壇に囲まれる祖父の遺影なんて見ようものなら号泣してしまうだろうから行けなくて良かったと言う気持ちが少しある。四十九日には行く。
父方の祖父は私が小さい頃に、祖母は中学生の頃に亡くなったので、親族が亡くなるのはかなりひさしぶりのことだった。友人や知人を亡くしたこともない。ペットも金魚しか飼ったことがない。それも小学生の時だ。
人と比べたことがないからわからないが、どっちかと言うと死に触れることが少ない人生のような気がする。
私はもういい大人だが、大人になったからと言って辛い事や悲しい事とうまく折り合いがつけられるようにはなってない。
自分は自分の地続きでしかないんだなあと強く思った。当然のことなんだろうが、考えたことがなかった。
50になっても80になっても同じように大切な人の死はつらいんだろう。
だから毎日を大事に生きようとか周りの人を大切にしようとか、やっぱりそう言う結論になるんだけどそれがなかなか。前者は特に。仕事をしてたら無感情のまま1日が終わっている。難しいな。
今の気持ちを書き起こしておこうと思ったので、めちゃくちゃだが終わり。
いや、けしかけたの俺なんだけどね。
しばらく近隣のお寺がカバーしていたんだが、限界と言う事で、三十歳半ばの若い僧侶が赴任してきた
お寺は優良物件だそう。観光寺ではないんだけど、廃仏毀釈の流れからの戦後で、歴史的経緯で複数のお寺が合併しており、檀家数が無茶苦茶多い。その結果、無茶苦茶経営が安定している。
そのためか、赴任してきた僧侶は、10歳で仏門に入り、本山から観光寺まで巡ってきたという無茶苦茶エリートがやってきた。
檀家の世話人会に年寄りばかり出ていたところで、同世代の俺が出ていったところ、若くて住職と年齢が近いからと言う理由で大量の仕事を振られた結果である。
その連絡のためにLINEを交換したところ、何故か一日一度「今日の拙僧」みたいなLINEが届くようになった。
例えば、檀家さんが野菜を持ってきてくれたけれど食べきれないので、子ども食堂にお裾分けをしたら、浅漬けにしていただいたのでありがたく頂戴しておいしかった、とか、育成会が焼き芋をすると言うので落ち葉を貯めておいたが、水が溜まってしまってしけってしまい、煙ばかりで上手く燃えなかった、とか。
こちらが反応できなくても送られてくる。
それがあまりにも素朴で面白いので、LINEビジネスで公式アカウントを作ったらどうか、連絡も簡単になるし、ジジババも孫と連絡用でスマホ使ってるよとか言ったところ、やってくれと言う。
結果、登録者がじわじわ増えて、この間ライトプランじゃ足りなくなってスタンダードにした。
もちろんLINEだけではないけれど、お寺でお葬式をしたいという相談が来るようになって、実に二十数年ぶりにお寺で葬儀を行い、それがコンスタントに続いていたり、(先代住職の葬儀すらセレモニーホールだったのに)
近所の不登校の子が「お寺なら行く」といって、住職のところに仏教画を習いに来たり、
何より、世話人会に若いのが出てくる様になって、お布施の振込・キャッシュレス化が一気に進んだりとか色々と安定してきた。
結局、接触を増やす事が大事なんだろうなと。そのためのツールとして、LINEはやはり強い。このままLINEペイでお布施が払えると楽なんだが、これは禁止だった。
「そろそろ会いに来ませんか?」は実はお母さんが独断で言ってる可能性無い?
あんなに怒ってたのに、寂しくなったら簡単に手のひら返すようなかっこ悪い人じゃないでしょ?
ちゃんと「娘に嫌われるかもしれない」ってリスクを認識できる人でしょ?そのうえでわがまま通したんでしょ?
お父さんは増田の顔も見たくないと思うよ
すべてを思い通りにしてきたお父さんなら、思い通りにならない娘なんて会いたくないでしょ
そんなに怒ってたんでしょ
会ったら喧嘩になるかもよ
喧嘩なんてしたくないじゃん
喧嘩した思い出なんて残したくないじゃん
お父さんのお葬式で「なんで私にあんなこと言ってきた人の葬式なんて出てるんだろう」って一瞬でも考えちゃったら嫌じゃん
これ以上関係を悪化させないために、お互いのために会わないほうがいいよ
喧嘩になって怒って血管切れて死んじゃったりしたら一生後悔するよ
だから会わないほうがいいよ
許してない状態で会っても碌なことにならない
多分増田はお父さんには勝てない
きっともっと嫌なことされて本格的に許せなくなるし一生続く怒りっていうか恨みを抱くことになる
一生許さずのらりくらりと会わずにやり過ごしてもいい