はてなキーワード: 八百万とは
それで見えるモノぜんぶに手を叩いてるのか、八百万教はたいへんだなー
これ。
引用では賛否両論だけど、甘えるなとか言ってる人は論外として、共感している人ですらも何故か少子化と結び付けて語っている人って殆どいないんだよな
長時間労働による余暇の不足と精神的身体的な疲弊って、出会いのチャンスを減らして少子化にかなり密接に結び付いていると思うんだけど、何故かそこの所を指摘する人が殆どいない。
あと引用で言ってる人がいるけれど実際には本当に8時間のところって少なくて、
大抵のところは(残業がゼロだったとしても)9時から18時とか10時から19時とかの9時間労働がデフォルトなんだよね…残業無しのホワイトと言われる企業ですらそう。
仕事中の昼休憩は労働者の自由にならず、拘束されてる時間なのに、何故かそれを労働時間に含めないという異様な運用が罷り通っている。
この休憩1時間をちゃんと労働時間に含め、本来の意味での8時間労働(9時に開始なら17時に退勤)がデフォルトになったら
それだけで働ける人の数も増えるし余暇活動に使う余裕も増えると思うんだよね。
なんでその辺を主張する人って全然いないんだろ。
https://twitter.com/bakunojob/status/1707020242554429665
@bakunojob
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体 力 が な い
自分が会社員を辞めた原因、八百万あるけど『5日間働いた疲れがたったの2日間で取れるわけがない』はスタメン張れるレベルにデカい。
神社は割と人通りの多い小道に面しているため、静謐、といった雰囲気はないが、左右に砂利が敷かれた短い参道を抜けて、背の高い木々に囲まれた昼でも暗い拝殿の前に来ると、「ほぼ現世、少しだけ異界」ぐらいの空気はある。
境内に一本、御神木なのか、ひときわ大きい樹が立っている。木には人の胸ぐらいの高さに縄が巻かれていて、汚れ一つない純白の紙がそこから垂れている。
…
夏になると、境内の地中から蝉が出てきて、この木に登る。羽化するために現れて木を登っていく。
蝉、しめ縄をよじ登って越えていくか、反対に縄の下であきらめて羽化すればいいのに、わざわざ縄に下げられた白い紙を羽化のポイントに定めるやつが何匹かいる。真っ白な紙の上に点々と、透明で茶色い抜け殻が残る。
しめ縄というのは、どっしりとした円柱の大木に風雪で少しささくれた縄が巻かれ、そこから新しくぱりっとした純白の紙が垂れている、そういう宗教的かつ美的な意匠なんだと思うが、まあ蝉には関係ないもんな、と思う。蝉にとっては、ちょうどいい高さにあるちょうどいい場所でしかない。
…
神社を出て100mほど、道なりにいって曲がると、今度はだいぶ由緒あるらしい寺が建っている。高名な僧が数百年前に開いた名刹らしい。
俺が住んでいるのはある有名な地方都市で、住民も多いし、観光客も大勢行き来している。しかし、この寺のお堂へと向かう広葉樹と苔だけの道を1分ほど歩いて境内に入ると、まったく何の音も気配もしなくなる。聴こえるのは、それこそ蝉の声ぐらいだ。
俺はときどき、お堂の廊下に座って、物を考えないで風景を見る。廊下は南側と北側があって、南だと境内に植えられた木、北だと目の前にそびえる岩壁を清水が伝うのが見えて、両方飽きない。
…
この前、南側に座っていたときのこと、でかい羽音を立てて蜂が一匹飛んできた。
虫が好きな人間の固有スキルの一つに、蜂が刺すやつか刺さないやつか瞬時に判断できる、というものがある。そのときも、クマバチ=刺さない、とすぐにわかったので、むしろ観察するぐらいのつもりで様子を見ていた。
蜂はぶんぶん言いながら、お堂の庇に近づいていった。
お堂の庇は木を組んだ複雑なアミアミになっている。蜂は庇のどこかの一点が気になるらしく、決まった範囲をホバリングしていたが、急にふっといなくなってしまった。
「?」と思ったが、少し観察を続けてみて、さらに驚いた。
庇に直径1cm強ぐらいの穴が空いている。ある種の蜂は木に穴を開けてそこに住むが、どうも、クマバチが巣を作るためにお堂に穴を開けてしまったらしいのである。
美しい建築も、あるいは宗教的に洗練された意匠も、生き物としてあるがままにやっている存在には太刀打ちできない。物体であることの限界というか、この場合、お堂<蜂、もしくはご神木<蝉、そういう力関係と言える。
…
風情的には少しあれかもしれないが、寺社建築をよく見ると火災報知器がついていることがある。安全面もそうだが、文化的にも重要なものだから、火には注意しているのだろう(法律的に必須なのかは知らない)。
同じことが蜂に穴を開けられた場合にも言えるはずで、歴史ある建物としては損なわれない方がいいに決まっている。
俺は寺務所に言いに行こうかと思ったが、少し考えてよした。
主な理由は「お堂に蜂が穴を開けてますよ」というところから会話を始めるのが我ながら気色悪く、億劫だったからだが、もう一つ挙げると、そもそも仏教的に、「かたちあるものが虫によって損なわれようとそれがなんだろうか」というノリなのでは、とも思ったためである。
皮相な理解だが、一切皆空の世界だし、悉有仏性の世界である(と聞く。宗派的に色々あるのかもしれないけど)。
人がつくったお堂に蜂が穴を開けようが、それでお堂が朽ちようが、お堂につくった巣で蜂が栄え、その蜂もいつか滅びようが、すべてが等価というか、はじめからそういう、かたちを結んで消えていくのを織り込んでいる世界観が仏教なんだっけ、と思った。
それで考えると、神道もいわゆる「八百万」の世界観であって、序列はあるのかもしれないが、蝉にも蝉の神…というか、「土中で数年暮らしたあと地上に出てきて飛んだり鳴いたり(オスだけ)したあとあっけなく死ぬ」神性? みたいなものがあるのかもしれない。
どういう神性だよ、という気もするが、ヨモツヒラサカに生えた桃の木とか岩とかを神と見なすのだから、蝉の神がいてもおかしくはない(おかしくはないのだけど、実際のところ、虫の神を日本神話で見た覚えはなくて気になっている。アゲハの幼虫を信仰していた宗教が大昔にあったみたいだけど)。
そういう意味では、自然界の営みによってシンボルが物質的に損なわれたり、上手く機能しなくなったりしても、一部の宗教はシステムとしてあらかじめ、そういう破壊や変質をうまく組み入れているのかもしれない。これは生命よりも宗教の法理の方が、包括的という意味で上位ということで、生命<法理であると言える。
…
で、最後にどこに着地するかというと、信仰もただの理念や言葉、ロジックだけでは生き延びたり広がったりしていくのは相当難しい、やっぱりモノ・カタチにする必要がありますな、というところに着地する。
心を寄せるためのシンボルや、目で見て手で触れられるオブジェクトがあった方がいいし、大衆の政として考えても、建築やでっけえ像とかがあった方が広めやすい。
仏像でもピラミッドでも教会でも、最低限、紙の聖典でも、とにかく、教えとして生き残り広まっていくためにはブツが必要だ。水を汲んで運むのに器がいるように、信仰にはどうしても、ブツが要る。その点では信仰<モノである。
ただ、モノはいずれ、壊れるか変形するかするわけで、俺なんかはもう、「物質を伴わなければ存立・拡大できない宗教は、戦略として物質化を伴うがゆえに、滅んだり変化することも許容し、あきらめることをどこかに織り込まないと理屈が破綻してしまう宿命でもあり、拡大と必滅の板挟み」なのでは? とさえ思う。まあ考えすぎかもしれない。
…
いずれにしても、これでお堂<蜂<信仰<お堂の三すくみが完成した。ありがたいことである。
…
正しいかは知らない。
…
何年か前に泊まった旅館は山寺のふもとにあって、せっかくだから登っていったら、と宿の人に言われ、お遍路でつくような杖をわたされた。
要らねえけどなあ、と思って登り始めたら、山道というレベルを超えて文字通りのマジ崖であり、むしろ杖あっても登れねえよ、と思ったが、どうも引っ込みがつかなくなり、気合いで登り続けた。
道がどんどん狭くなって、「落ちたら普通に死ぬなこれ」と思っていると、やがて、ほとんど空中にかかったような、ひと回りするのに10秒かからないほど小さいお堂にたどりついた。
当たり前だが、誰もいなかった。辺りは静寂に支配されていて、青い空が近くて、山の中が一望できた。
厳密に言うと誰もいなかったわけではなく、小さめのスイカぐらいあるスズメバチの巣が完全に完成してお堂の庇からぶら下がっており、スズメバチが「竣工式でーす」と言って飛び回っていた。
俺はふもとに降りてから、「蜂です」と宿の人に言った。さすがにスズメバチは言う。
ただ、蜂には当然、あれがお堂かどうかは関係のない話である。また、お堂サイドも、まあ仏教の法理に人格のようなものがあるとして、「こういう世界だからしょーがねえな」と言って苦笑する感じというか、空の近くにある静かな山中のちんまりした古刹で蜂が生命を躍動させているのに、なんかすげえ調和としか言いようのないものを感じたのを覚えているので、書いておく。🦑
「NHKのクレイアニメ『ニャッキ!』で青虫のニャッキが巨大化する回に興奮をおぼえる人間が存在する」というのを風の噂で聞いた。
当初は「またまた、ご冗談を」というのが私の感想だった。千差万別、八百万のフェチが幅を利かせているこの現代社会においても、教育番組の中の粘土でできた青虫に、ましてやそれが巨大化するさまに興奮する人間など一人もいないと思っていたのだ。
だが、いた。しかも一人でなく、掲示板で、SNSで、まばらにではあるがニャッキの巨大化に興奮する旨の書き込みがいくつも見られた。さらには、「分からないと思っていたが段々わかってきた」「そんな気がしてきた」と非ニャッキ巨大化回興奮者がニャッキ巨大化回興奮者に転化する過程のグラデーションのような書き込みまでもが散見された。
つまり、ニャッキの巨大化に興奮するというフェチは先天性のものだけではないということだ。転機さえあれば、人は後天的にニャッキ巨大化フェチを獲得することができる。
そう思うと俄然知りたくなった。人はいかにしてニャッキの巨大化に興奮するに至るのだろうか。
私はこの好奇心に取り憑かれてニャッキの巨大化回をとにかく見た。いっぱい見た。そのうちに、「もしかしたらこういうことかもしれない」という仮説をいくつか得ることができた。
今日は読者の中にもきっと存在しているであろうニャッキ巨大化回興奮者に向けてこの文章を書く。
仮説を順に挙げていくので、「これこれ!」と思うものがあれば教えてほしい。私はあなたたちのことが知りたいのだ。
ニャッキ!はクレイアニメなので、巨大化するときのアニメーションはニャッキの体に順に粘土を継ぎ足していくことで表現する。
それをアニメーションで追ってみると、ムクムクムク……というか、モリモリモリ……というか、ちょうど映画AKIRAで鉄雄の身体が膨張していくシーンのような絶妙に生々しい動きになるのだ。
この動きは確かに言いようもない刺激を私たちの心に与えてくれる気がする。もしかして、これに興奮しているのだろうか。
ニャッキはただの青虫である。お弁当代わりの実をかじり、這いずりながら暮らしてきた。それ以外の事象に対しては、虫一倍に鈍感であった。
そんなニャッキが「?」「?」としきりに疑問符を浮かべながら膨張していくのには、いわゆる無知シチュのような趣がある。自分の体がどうなっているか分からない、持ち主ですら把握できない変化が身体にどんどん起きていく、というシチュエーションは相応にフェティッシュなことなのではないだろうか。だとすればこれがトリガーである可能性もある。
破壊にフェチをおぼえる人間もいるだろう。ニャッキは身体の膨張のままにビルを圧し潰し、観覧車を見れば楽しそうに転がし、東京タワーが身体に刺さるとムッとして尾でぺちゃんこにする。
この、人間にとって取り返しのつかないことが上位存在によって無邪気に引き起こされるというシチュエーションも、それはそれで興奮に値する気がしてきた。あるいは、2.で挙げた無知要素との組み合わせで興奮しているニャッキ巨大化回興奮者の存在も考えられるだろう。この説は結構有力かもしれない。
はち切れそうな何か、というのはそれだけでフェチズムを刺激することがある。
ニャッキは作中で太陽を呑み込み、内から発光しながら膨張していって最後には爆発する。このパツパツになっていくニャッキに興奮しているパツパツニャッキ興奮勢も中にはきっといるに違いない。
ということで、最果てのアキネイターみたいになりながら質問形式で4つほど仮説を挙げてみたが、いかがだっただろうか。ニャッキの巨大化に興奮する諸兄の琴線に少しでも触れるものがあったならありがたい。
そして、もしなければ是非「こういうことだ」というのを教えてほしい。私はあなたたちのことが知りたい。ただ、知りたいだけなのだ。
五輪疑惑進展があるようなないような!!!次の逮捕いつ?旧コーゾクであっても悪い人はタイホされるべし。
まずはそこから。
うまのおせわにはおカネがかかる。➡ワイロでもいいからカネほしい。➡わるいことでもへいきでやる
だから有罪確定!これくらいのロジカルフローでいけよ。検察や裁判官。
「大会マスコットの公式ライセンスを受けていたぬいぐるみ会社サン・アローから高橋氏に賄賂が流れていた容疑で近く4度目の逮捕。高橋氏の慶應時代の後輩が運営するアミューズ社にサン・アロー側から約800万円が渡ったと見られる」
「この八百万はケケ田の慰労会目的であつめられたもの! すでに聴取をうけた前会長はうけとってないと主張してます。特捜部がケケ〇氏までねらうために立件したとみられる。Xデーが関心ごとです」
ケケ田元会長の逮捕は11月8日か。高橋5度目の逮捕と元会長の逮捕は同時期か?高橋➡ケケ田➡蜃気楼ルート。
ケケ田ファミリーと地上げ会社との関係は詳しく報道。そこの会社はプリンスホテルに旧ケケ田邸を売却してからのお付き合いでsunも10年以上オフィスを借りていると
中国人に聞くと「特定の宗教はない、一部の人は仏教をやってる」って答えるよ
無宗教を特定の神様を信じてない信仰心を持ってないって意味で使うやついるけど、頭悪すぎだろ
こんなん酷すぎるし無知も極まってる
これは日本人は無宗教じゃなくて八百万信仰だとかそういう話じゃないぞ
八百万信仰ダロウも仏教、神道、空飛ぶスパゲッティモンスターだろうとどうでもいいんだよ
キリスト教徒、イスラム教徒の前で無宗教だというのは、それは私は無神論者ですって言ってることになる
そして神様を信じる人の前で無神論を宣言するってのは、お前らの信じてる神様なんていないと言ってることになるんだよ
恥ずかしいやつらだな
こちらの話
その人が「自分の気持の中だけで」好きだという感情を昂ぶらせたりするのを「推してる」と呼ぶような
言葉そのものが元々持っていた意味としては確かにより能動的、実際になにか行動したり金を使ったりという意味合いが強まりそうだけど
あえてその元々ある言葉の意味を当てはめることで強い思いを表すという形なのだと思う
以前はなにか素晴らしいものを表現する時に「神」という言葉を持ち出すことは過剰すぎて
ちょっと使い方を間違うと聞いてるほうを引かせてしまうほど引き合いに出すには意味が大きすぎた
そこには場合によっては宗教観とかやや重い意味さえ乗っかってしまいそうなので割と避けがちな表現だったと思う
しかしある時期から中高生などの若い子が「すごいじゃん」と同じくらい軽い感覚で「神ってる」と言い出した
これにより一気に一般的なレベルにまで「神」が引き下げられたのだ
その後「神ってる」は言われなくなったがなんでもかんでも「神」とする表現は定着して
ちょっと美味しいスイーツがあれば「これマジで神」と言ったり「~のリップマジ神だから」など
以前はサッカーの神様とか映画の神様とかごく一部の選ばれし人にしか使われなかった「神」はついに命のないものにも気軽に使われるようになった
この現象自体は古より「八百万神」あらゆるものに神が宿るという日本的な概念ととても親和性が高く
しかし言葉本来の意味を考えれば神というのはいわば最上級の褒め言葉なので、大人達はふと思うのだ
「それが神だとしたらもっといいものが出てきてしまったらもう言葉がなくなるのでは」
昨日の神と今日出会った神は仲良しでありまったく問題なく並列できるのだ
ちょっと話がズレた気がするが要はより過剰な言葉を当てはめることで表現の強度を強くする
「推し」という言葉についても、そもそもは実際のヲタ活動における散財や行動と相性が良いから使われ始めたのかもしれない
ただ今となっては「ファンです」と同じ意味合いで「推しです」という言葉は使われるようになった
「~さんは私にとっての神です」という比較的ガチなトーンから「今日のご飯マジ神」という軽い神にまで神の存在が近くなったかのように
「推している」という言葉の意味も今では「好き・・・」くらいの意味合いになっているように感じます
人生は辛い!
そんな風に悩んでる方いますよね!
私もそうでした、、、
のご紹介です!
従来の首吊りは体を降す、体液を片付けるなど後処理が大変でしたよね、、、
でも!今回ご紹介させていただきます商品は、自重のみで首を落とす仕組みとなっている為そのような面倒な後処理はございません!
「今年70になるはずでしたが、コロナの先行き不安からこれを使い、不安から解放されました!筋力も落ち、後付けを考えるとなかなか難しく、こちらの商品はそんなこともなくとても簡単に実行できました。体の落ちる大きな音ですぐに発見されるので、処理も早く進み大変助かりました!」
「色々なもの捨て、ついに体が最も不要な物だとたどり着きました!これのおかげで真のミニマリストへ近づけた気がします!」
「私のために死んでいる家畜が可哀想だといたのですが、八百万の考えから野菜も死んでいることに気が付きました!こちらのお陰で自然界で最も歪な存在を無くすことができヴィーガンの一歩先を行くことができました!」
いかがです?大変ご好評の声を頂いており、
今なら脚立とピアノ線の基本セットに、
なんと!
発見遅延でも楽々お片付け!
子供用プールに入る形で落ちていただき、プール内部の体液を水中ポンプでそのまま排水口へ送液します!
懐かしい子供部屋、愛する人の遺影の前、家族の思い出が詰まったリビングなど、、、
実行場所からお近くの洗面台など排水設備までの距離をご計測下さい!
最後に気になるのはお値段ですよね!
やはりこの商品、ここまでのユーザビリティを確保しましたので、少々お高くはなってしまいます、、、、
ですが、今回は皆さんを応援したいという気持ちの一心で、頑張らせていただきました!
お値段、なんと!
¥29,800
¥29,800
¥29,800
でのご奉仕です!!
今なら、初めてでも安心のユーザーガイドも付けさせていただきます!
充分な量を確保しているつもりではございますが、万が一に売れ切れてしまった際には申し訳ありません!!
今から1時間はオペレーターの数を増員して対応させて頂きます!
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ADHDとASDを周囲に理解して貰えず、仕事も友情も恋愛も何一つ上手くいかない人生で、こんなしょうもない文章考えて、死ぬ勇気もない。
ただの我儘なだけかもしれないけど…
とりあえず落ち込み病をなんとかするために休職をする。