はてなキーワード: 遺体とは
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「ヘルシンキ・インスティテュートとの作業の中で、ブチャの虐殺を体験して髪の毛が真っ白になった6歳の少年イワン(仮名)がいることも分かりました。イワンのような少年が未来を取り戻せるよう支援していきたい。ブチャの住民は栄養失調とロシア軍の残虐行為によるトラウマを抱えています。食料、水、薬、治療が必要です」
イワンは目の前で母親がロシア兵に何度もレイプされ、死んでいくのを見なければならなかった。イワンの髪の毛は真っ白になり、言葉を発しなくなったという。
「彼のような子供は何十人、何百人といるのです。ブチャ市長と協力してロシア軍の残虐行為で心に傷を負った子供たちのためのリハビリテーションセンターを設立することになりました」
ウクライナ危機メディアセンターによると、5月2日時点でロシア軍が撤退したキーウ地域で民間人の遺体を埋めた8つの集団墓地が見つかった。警察当局は「占領者の残虐行為は言語道断。集団墓地から148人の亡骸が見つかった。大半の集団墓地はブチャにある。手足を縛られ、足を撃たれるなど拷問の跡が見られる民間人だ。彼らは頭を撃った」と発表した。
キーウ地域で見つかった1220遺体のうち280遺体の身元はまだ確認されていない。警察当局はロシア軍の戦争犯罪についてすでに3000件以上の手続きを済ませた。4月21日時点で殺害された子供の数は40人を数えた。ブチャでは拷問され、殺された跡のある遺体が412体もあった。民間人虐殺の証拠を隠滅するため無惨に焼かれた遺体も見つかっている。
ウクライナの人権オンブズマン、リュドミラ・デニソヴァさんは「ブチャにある家の地下室で14歳から24歳の少女や女性25人がロシア軍の占領中に組織的にレイプされました。そのうち9人が妊娠しています」と英BBC放送に証言している。「ナチスの売春婦はみんなこうなる」と16歳の妹が路上でレイプされるのを見なければならなかった25歳の女性もいた。
父が死んだ。
遺体を見て、骨を見たら何か変わるのかと思ったけれど、遺体を見ても、火葬を終えて骨壺に骨を入れても、やっぱりあんまり心は動かなかった。
家に帰り、テーブルの父の定位置に骨壺がおかれる。それを数日見ていても、相変わらずだった。
こうまで心が動かないと、自分の中で父とはなんだったのか。と思う。
振り返ってみても、父に強い思いはなかった。
小さい頃は、朝学校に行く前に出ていって、眠るころに返ってくる人だった。
日曜、母から父に面倒を見てと渡されて、行く先は漫画喫茶かパチンコ屋だった。
パチンコ屋で子供らしく騒いで店に怒られると、行先は漫画喫茶一択になった。
大きくなり、パソコンなどいわゆるIT機器に自分がちょっと詳しくなると、わからないことを聞くわけでもなく、見えるところでうーん。とうなっている姿を度々見た。
幾度も、わからないとか教えてほしいとかやってほしいのならそういってね。というも、一度も教えてほしいとかやってほしい。と言ってくることはなかった。
時々帰ってこいと母から連絡があり、実家に帰っても父は家をあけているか、母の怒鳴り声が聞こえてきた。
やがて帰って来いと言われない限り実家にも寄り付かなくなった。
そして、母が父と別居するという。
両親が別居して少ししたころ父が行方不明になったと連絡がきた。冬になり、どんどん寒くなる中、真冬には雪深くなる地方で事故を起こした車だけ見つかった。その時に、おそらく死んでいるな。と思った。
その時も何も感じなかった。
そして春になり、訃報がやってきた。
3話の予告として、
コロッケ(食べ物)を握ったご遺体発見から、コロッケ(ものまねタレント)とデヴィ夫人(おそらくちょい役)が出演している場面を流していた。
「俺の考えた最強の内藤剛志」兼「誇張しすぎた刑事ドラマ(のシーン)」でおなじみの作品だが、
少年誘拐ホルマリン漬け事件は、中学1年生の少年が誘拐・殺害され、
当時は「死者の尊厳」「遺族心情等」よりも、「報道の自由」「表現の自由」が優先されていたため、
被害少年のホルマリン漬けバラバラ遺体が新聞に無修正で掲載されました。
・被害者:プロレスラーの清美川梅之の息子(当時12歳)、犯人の12匹の飼い猫など
・犯人:囲碁棋士(七段)である林有太郎の長男、林邦太郎(当時26歳)
1957年4月2日午後7時過ぎ、東京都中野区に住む当時12歳の中学生だった少年は、
近所の銭湯の「若松湯」に行きましたが、そのまま自宅に帰ることはなく、行方不明になりました。
警察が銭湯からの足取りを追ったところ、行方不明になった4月2日に「若松湯」から
25歳前後の男と一緒に出ていったという目撃情報が出てきました。
銭湯から男と一緒に出ていったという目撃情報以外は手掛かりはなく、
その後も犯人からの接触がなかったため、捜査は手づまりとなっていましたが、
その精神科医は、患者の1人の言動を不審に思い、患者の自宅を訪ねたところ、
精神科医からの電話の後、警察は林邦太郎の自宅に急行し、遺体を発見しました。
遺体はバラバラにされていて、2つの金魚鉢にはそれぞれ頭部と両脚、
2つの水槽に胴体と両腕がホルマリン漬けになって入れられて密封されていました。
警察の調査で、このバラバラ遺体は行方不明になっていた被害者の少年であることが判明します。
バラバラにされた少年のホルマリン漬け遺体の写真がそのまま新聞に掲載されました。
近年の日本では「死者の尊厳」「遺族心情等」を尊重するため、遺体写真の掲載はされていません。
しかし当時は一切の配慮なく、バラバラにされた12歳少年の胴体が修正無しで掲載されました。
「報道の自由」「表現の自由」を支持する勢力と、「死者の尊厳」「遺族心情等」を支持する勢力が戦い、
現在は「死者の尊厳」「遺族心情等」を支持する勢力が勝ったために、遺体写真は掲載されなくなった歴史があります。
事件が発生した4月2日の数日前に、犯人は被害者の少年に目をつけ、接触していたことがわかっています。
被害者少年は事件数日前に「さっき、僕の背中を流してくれたあの人(犯人)に、
僕は殺されるかもしれない」と同級生に打ち明けていて、事件前から身の危険を感じていたようです。
被害者は既に身の危険を感じていたのに、林邦太郎の家についていってしまったのは、脅されたのかもしれません。
午後9時ごろ、被害者と2人で帰宅した犯人は被害者と2人きりになるために、
少年と2人きりになった犯人は、少年の服を脱がせていたずらしようとしますが、
少年は拒否したため、少年を殴り意識を失わせ、その後首を絞めて殺害しました。
犯人は被害者を殺害後に、2日間かけてノコギリや出刃包丁、小刀などで遺体をバラバラにします。
そして、金魚鉢や水槽を買ってきて、その中に少年の遺体をホルマリン漬けにして密閉し、鑑賞していたのです。
「ついに捜し求めていた理想の少年を見つけた。住所・氏名を聞いた。必ず連れ出そう。必ず。」
「金魚鉢に入ったあの子は、見ても見ても飽きるということがない。
いっそうかわいい。親父たちがいるから、もったいないけど昼間は床下に隠す。
でも隠す前には必ずサヨナラを言うんだ。でも、別れのたびに、つらい・・・」
少年愛者で歪んだ性愛を持つ林邦太郎に、被害者の少年は「理想の少年」として映ったようです。
実際に、被害者の少年は美少年として有名だったという情報もあります。
少年誘拐ホルマリン漬け事件は、被害者・犯人の双方の親が有名人だったことも、
被害者の少年の父親は、元力士でプロレスラーの清美川梅之さんです。
伊勢ケ浜部屋に入門し、1934年1月場所で初土俵を踏んだ後は、1940年に新入幕、
1942年には横綱の双葉山に土をつけて金星を挙げています。1943年には幕内優勝も果たしました。
被害者の年齢から計算すると、現役時代に息子(被害者)が生まれています。
結婚後は1953年にプロレスラーに転向し、全日本プロレスを旗揚げして、国際プロレスに移籍しています。
国際プロレスは1956年に消滅しますが、その後は世界を転戦しました。
1956年には第1期囲碁選手権決勝に進出し、1962年には首相杯争奪戦で優勝するなど、トップ囲碁棋士として長く活躍しています。
1969年に九段に昇格し、羊羹を誤嚥して亡くなる当日まで現役最年長棋士として活動していました。
少年誘拐ホルマリン漬け事件の犯人の林邦太郎は、1931年に生まれます。そして、1953年に明治大学商学部を卒業しています。
林邦太郎は少年誘拐ホルマリン漬け事件の前から、少年に目をつけていたずらをしていました。
道を歩いている男の子をいきなり抱きしめたり、自宅に300冊以上ある少年雑誌や漫画などを餌にして
言葉巧みに家に誘って連れ込んだりしていたようです。
図書館でいきなり少年に抱きついたこともあるという情報もあります。
また、猫を12匹飼っていて、その猫たちを殺してしまい食べたことが判明しています。
林邦太郎は、上記のような異常性を見せていて、極度の精神障害が認められたため、
少年誘拐ホルマリン漬け事件を起こす前には精神病院に入院していました。