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はてなキーワード: 武家とは

2022-06-12

anond:20220612123201

自分売れ残り婚活女性は死んでもお姫様モードくずさねえんだなって話がしたかったんだけどな。

気高き姫の誇りがあるなら死の間際まで高潔でありたいだろう。

武家地方の旧家の娘で生涯独身を貫いた人の伝記を読むとそんな感じ。

2022-05-28

明治時代、庄屋の娘が夫のDVから逃げて上京議員財政を立て直した話

矢島 楫子(やじま かじこ、1833年6月11日天保4年4月24日〉 - 1925年大正14年6月16日)は、日本女子教育者社会事業家

肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって度重なる女児誕生は歓迎されず、名付け親10歳違いの姉である三女・順子であった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰徳冨蘆花兄弟を生んでいる。蘇峰は明治大正昭和にかけての大論客、蘆花は明治大正文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれた。

かつは学校などない当時、一通りの教育を母から厳しく身につけさせられるが、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主だったかつは、やがて母亡きあとは母に替わって兄・直方のために尽くす。その兄も妹のために良縁を求め、かつ25歳の時、初婚にはもはや遅いとして既に2男1女を儲けていた富豪林七郎(1828年生) を家柄・人物ともに相応と認め、後妻として嫁がせる。林は武家出身で、横井小楠弟子であった。後年楫子自身の口からも「この人は気品の高い、竹を割ったような人でした」と語らせるが、家族への乱暴など夫の酒乱の悪癖にかつは極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥り、かつ自身も三人の子まで儲けながら、このうえは身の破滅と思い、末子達子を連れ家出する。迎えに来た使いの者に見事に結い上げていた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのである明治元年(1868年)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生元年」ともなった。

妹たちの間を転々とする間、兄・直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意する。長崎東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。兄は大参事副知事兼務左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付けると、生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。明治6年学制が施行され全国に小学校が設置、訓導試験合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区御成門小学校)に採用される。当時教員初任給3円のところ、楫子は5円という破格の待遇であった。

このころ長姉・藤島もと子が息子二人と、直方の妻・糸子も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。しかしそうした喧騒の中、楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿す。堕胎父親に渡すべきだと諭す姉の言を受け入れず、楫子は妙子(鵜飼猛の妻、湯浅清子の母)と名付け、練馬農家に預けて独り下宿生活に戻る。そんな折届いた兄から手紙で、熊本に残してきた長子・治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本学校生徒35名による花岡キリスト教奉教同盟事件である。治定だけでなく甥の横井時雄、徳富蘇峰徳冨蘆花も参加している。やがて熊本学校廃校になり、彼らの一部は、新島襄同志社入学し、熊本バンドと呼ばれることとなるが、この熊本バンド札幌バンド横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。

明治11年(1878年)、楫子は後半生に多大な影響を受ける米国宣教師教育者マリア・ツルー夫人運命的に出会う。明治7年(1874年)にB六番女学校として設立された築地居留地にある新栄女学校教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に移る。

自ら吸いかけのタバコによるぼや騒ぎを起こして禁煙を決意、翌12年(1879年築地新栄教会ディビッド・タムソンから洗礼を受ける。ほぼ同時期に、三人の姉である富久子、横井つせ子、竹崎順子洗礼を受けている。当時17歳キリスト教徒であった甥の徳富蘇峰は、純粋がゆえに楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと 2.妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきでないかとの手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。

明治14年(1881年)夏、櫻井女学校の校主(現在校長理事長を兼ねた職)代理就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。

明治23年(1890年)、櫻井女学校新栄女学校合併して女子学院となり、初代院長に推される。

明治29年(1896年)、恩師のツルー夫人が55歳で客死。楫子64歳であった。

一方、恵まれなかった結婚生活小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。

楫子の情熱日本に止まら日本国外にも向かい明治39年(1906年)、74歳にして渡米、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年1925年6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。

大正時代華族の娘が50歳の男に売られた話

anond:20220526160552

2022-05-09

[]

熱海MOA美術館に行ってきましたわ!

MOAはMokichiOkadaAssociationの略でしてよ。手かざしで有名な世界救世教開祖岡田茂吉美術愛好家だったこからできた美術館ですわ。

滋賀MIHOミュージアムでも思いましたけど、宗教団体は山の中にクソデカ施設作るの好きですわね。

からバスでつづら折りの坂道走るのは結構怖かったですわ。

けど山腹から見る海は絶景でしたし、設備も金かかってそうで良かったですわ。

展示室のガラスがすごい透明度で、一瞬何も無いのかと思ってしまいましたわ。隣のおじさまなんか額をごっつんこしてらっしゃいましたわ。

蒔絵特集した展示だったのですが、時代別に並べられてその変遷が興味深かったですわ。

最初は仏の神々しさを表現するものだった金が武家町人文化と共に一般化、技巧化していくように感じられましたわ。

あと最後に展示されてた現代工芸家が作った作品が、ため息が出るくらい美しかったのですわ。

当たり前ですけど、漆も金も銀も螺鈿も、作られた当初からはかなりくすんでしまっているのですよね。

館内の和食屋でいただいたお昼も美味しかったですわ。

世界救世教自然派法大好きで、古参はてなーには有名なEMを推進してる団体なのですわ。

EMインチキでもEMを使うようなこだわりのある農家が作る野菜は大概うまいのですわ。

久しぶりにお昼から無為信っていうポン酒をいただいて、そちらも素晴らしいお酒でしたわ。

ほろ酔い日帰り温泉に入って帰りましたわ。

2022-04-02

anond:20220401211442

はてな匿名ダイアリーで?

TPOのPをはてな匿名ダイアリーとするならばはてなキーワード(現はてなタグ)への自動リンク機能があり中目黒柳ヶ瀬下通には適用されていることから増田の上げた中で不適切なチンポは騎射場のみになるのでは。

ただマナー違反とはいえパッと見で御武家さんと繋がりがあるんだろうなって想起させられるし、鹿児島ということで薩摩武士の勇猛さも重なって風情のます良いチンポだと思う。好きだよ。今は西にある大学学生街なのかな。最寄り駅ではないけれど南東の運動文化施設エリアと合わせて近場に文武両道集まってるのも素敵ね。

しかしそんな素敵な地名であってもキーワードがとうにサービス終了しタグ

タグ説明投稿したり、投稿された説明編集できるようにアップデートする予定です。お楽しみに!

と言いつつリリースから二年半放置プレイの現状では不適切チンポ扱いのままなので、株式会社はてな様におかれましてはインターネットというフリーの場でより多くのフリチンがぶらぶらできるようにさっさとアップデートいつになるんだオイコラ

2022-04-01

女性専用車両から考える男女平等とは

女性専用車両にあえて乗り込む男性がいるようだ。

わざわざ騒ぎを起こし、動画を撮ってアップするのは「女性専用車両男性差別だ!」と主張する為のパフォーマンス?らしい。

本当に気味が悪いなぁと思う。



日本には欧米でいうレディーファーストという概念が元々ないに等しい。

ただそれは単なる文化の違いで、「男は女を守るもの」という概念現代日本にもなんとなく存在している。

人間は元来、群を成す事で生きながらえてきた種族である

人間がまだ猿に近かった時代から

男は身を呈して外敵から群れを守り、狩に出て食料を確保する役割を担い

女は群や同士のコミュニティを強化し結束力を高め、群の存続を保証する子孫を育む役割を担う。

それは「概ね」今も変わらない。

男性は外に働きに出て、家族という群れに資産を運び

女性は周囲や家族などのコミュニティを強化したいと望みながら子育てをする。

なので本能的な役割必要とする能力の傾向として

男は短絡的、効率的で瞬発力があり

女は多角的、社交的で想像力がある



しかし、本来ただの役割として過ぎなかった機能が、時代が移り変わると共に形を変え続けてきた。



江戸時代、全体の約1割だった武家層は男尊女卑であった。

武家層が男尊女卑だったのは、戦国時代の名残により武士はとても物騒な仕事であった為、女子供を巻き添えから守る為に受け継がれた習わしであると考えられる。

女性男性の三歩後ろを下がって歩くのは、前から斬り付けられた時に備えての事で

男性が先に食事に手をつけるのは、毒味のためである

男性が外敵から身を守ってくれる為の女卑であると知っている女達は、敬意を払って男性を立て内助の功として勤めながら子供を育てた。

男は身を呈して外敵から群を守り、外に出て財を確保する役割を担い

女は群や群れ同士のコミュニティを強化し結束力を高め、群の存続を保証する子孫を育む役割を担う。

まさに本能で受け継がれられてきた人類の男女の形そのものである



一方、全体の約7割である農民男尊女卑はなく むしろ女性が強かったそうだ。

平和暮らしを営む農民は命の危険を伴うような外敵などいないに等しく

女性男性同様働いている場合も多くあった。

農民の間では

男は身を呈して我が群を守る必要はなく、ただ外に出て財を確保する役割のみを担うものとなり

群の存続を保証する子孫を守り、コミュニティの強化を役割とする女性にとって

群を守らない、その出番のない男性 しかも自らも財を確保する役割を担っていたのなら、男性に敬意を払ってコミュニティの一員として認識するという感覚を持ちづらいであろう。

コミュニティの結束力を高め合う女性達の中で、そのコミュニティの一員として男性認識しないのなら

農民の間で女性が強いのは当然だったのかもしれない。





明治から昭和初期にかけて、全体として男尊女卑の色合いがこくなる。

武家層のような上流階級への憧れが市民の間に広がったのもあるが、一番は「戦争」だろう。

戦争により再び男は

身を呈して外敵から群を守り、外に出て財を確保する役割を担うという役割の復活を果たし

男性が外敵から身を守ってくれる為の女卑であると知っている女性達は、敬意を払って男性を立て内助の功として勤めた。

このように、本来人間が持つ男女それぞれの性質役割を発揮している時にのみ、異性が互いに敬意を払えるのだと思う。





では近年はどうだろう。

昭和後期、戦争により男女がそれぞれの役割を果たし、互いに敬意を払っていた理想男尊女卑の両親の姿を見て育った者達は

戦後その男女の理想の姿を追い求めた。

しか戦後、身を呈して群を守る役割を失った男たちに(つまり本来男の持つ本能的な役割果たしていない事に) 静かに不満や不信を抱える女たちに気づいた男は

女性を力で制圧する事で威厳を保とうと試み始めた。

男尊の強制亭主関白という名の暴君である

もちろん、うちの亭主は家族を何より想い いざという時は身を呈して守ってくれるという確かな信頼関係の元、健全男尊女卑の家庭を営む夫婦もいたであろうが

しかし大部分は家族を守る器も経済力もないというコンプレックスと、妻の静かな不満と不信に怯え、DVモラハラによって、力で女を抑圧する事でしか威厳とプライドを保てない 名ばかりの亭主関白 もとい糞男がはこびっていた。

そして現代女性社会進出に伴いますます役割を失った男達に

更に不満と不信を覚え始めた女性たちに対し、男達は苦肉の策として2つのパターンに分かれ始めた。

1つは、女性迎合性別役割を超えようと試み始めた者。

いわゆる「イクメン」などである

女性性別役割を超え外に働きに出るように、男性コミュニティの強化に加わるように努め始めた。



もう1つは、女性の不満と不信に怯えながら自身能力と器の小ささを誤魔化す為に、相も変わらず女性を力で制圧しようとする者である

DVモラハラ女性制圧する手法もまだまだ用いられてはいるが、しかし昨今の女性は強い。

自立し、女一人でも外敵から身を呈して家族を守り養い 更にコミュニティを強化しながら子供を育てる事ができるのだ。

まり男女の役割を女一人でこなせてしまう。

昨今男性は容易にコミュニティから排除される対象になり得るのである

そんな中で男性は、いくらDVモラハラをしても自分コンプレックスを誤魔化す事ができず、安心感も得られず

男の存在意義や尊厳を奪われる恐怖と、自身能力のなさ器の小ささのコンプレックスを更にこじらせながら

なけなしのプライドを死守する為、見ず知らずの女性をその場限り制圧する事で満たそうとする暴挙に走る者も現れる。

痴漢性犯罪職場でのセクハラ パワハラ、あるいはネットでの女叩き である



こうなってしまっては、女性にとって男性は外敵以外何者でもない。



外敵を排除する為、女は男を攻撃し始める。

男は男としての存在意義とプライドを死守する為、女を無理やりにでも制圧しようとする。

男性嫌悪、女性嫌悪、飽くなき戦いだ。





もはや本能的な性別役割など必要のない時代ジェンダーレス時代

一刻も早く異性への役割の期待や役割の意義を捨て去らないと、新時代男女平等が訪れる事は永遠にないだろう。

2022-03-08

anond:20220308133124

私たちはいから肉食になったのか?日本人の肉食の歴史を徹底解説

https://intojapanwaraku.com/culture/48024/

疲れている時、あるいは気合を入れて勝負に臨みたい時、もちろんなんでもない時にでも「お肉食べたい!!」と思うことはありませんか? 焼き肉から揚げ、ハンバーガー、さまざまなお肉をわたしたちはすぐに食べることができますしかし、こうしてお肉をなんのためらいもなく食べられるようになるまでに、わたしたちご先祖さまたちは葛藤を繰り返してきたのです。

日本人の肉食について『肉食の社会史』(山川出版社)の内容と、著者である上智大学教授中澤克昭先生お話をもとに追ってみました。

うつりかわる肉食への考え方

日本史教科書などで「文明開化」の言葉とともに「牛鍋」を食べる人の絵を教科書などで見て、なんとなく近代明治時代)以降に肉食が始まったと思っている人は圧倒的に多いのではないでしょうか。けれども中澤先生によれば、肉や魚を食べることは、伝統的な食文化だったそうです。ただ、平安時代からは「食べないことが高貴な身分のふるまい」「食べるのはいやしい」と思われるようになったとか。また、家畜労働力提供してくれる大切な存在であり、食べる対象としては見ていなかったようです。

3世紀ごろの日本ヤマト)には、誰かが亡くなった際、喪主は肉食をがまんする習慣があると『魏志倭人伝』に書かれているそうです。これは「物忌み」のひとつとして肉食を慎む「禁欲」だったと考えられています。つまりこの時点では日常における肉食は「禁忌」ではなかったのです。その後、6世紀仏教とともに「殺生」を「罪業」とする考え方が伝来します。喪に服したり何かを祈願したりする時に肉食をガマンする習慣と仏教の殺生罪業観、このふたつが融合して、のちの肉食忌避タブー)につながっていくのです。

中澤克昭著『肉食の社会史』(山川出版社

しかし、肉食忌避が強まるのは中世からで、古代には天皇も肉を食べていました。天皇は各地でとれたものを食すことで統治していることを示していたからで、イノシシシカも食べられていたことが、さまざまな記録や古代遺跡から出土した木簡からわかっています中澤先生によれば、「大地を象徴する生き物を狩ることで土地所有権確認する儀礼でもあった」と考えられているそうです。

貴族メインディッシュはあの鳥

古代には禁欲対象だったお肉も、平安時代になると禁忌まり忌避されるものへとかわっていきました。たとえばイノシシは何世代飼育されるとことで「豚」という家畜になりますが、奈良時代にはヤマトでも豚が飼育されていたそうです。ところが平安時代になると、食用に育てられている動物確認できなくなります。野生のイノシシを食べることは続くので、家畜は食べないほうがよいというメンタリティを持っていたことはまちがいなさそうです。

天神さま(菅原道真)の牛のように、神話伝承世界にも動物は出てきますが、家畜を食べるという物語はまずありません。タブーだったのです。死んだ家畜、いわゆる斃牛馬(へいぎゅうば)はいわば産業廃棄物で、専門の人々によって処理されましたが、その仕事にあたっていた人は捨てずに食べていたと思われます」(中澤先生)。ただ、そのことは公の記録には残っていません。馬刺しも牛の内臓ホルモン)も食べられていたはずですが、身分の高い人には忌避されていたのです。おおっぴらに食べられるようになったのは、近代以降ではないでしょうか。

新鮮な馬肉

では、鶏肉に関してはどうだったのでしょうか。「鶏も『時を知らせる、占いをする』という性質が強いので、おおっぴらには食べられていなかったと思います。卵は食べたはずですが、それもあまり記録にのこっていません」(中澤先生)。闘鶏に使われた軍鶏などは「筋肉質で硬くて、現在の鶏ほど美味しくなかったでしょうね」と先生はいます。「牛も体脂肪が少なく、現在の『霜降り』のような食感とはほど遠かったのでは」とのこと。

なお、近代以前に肉を地方から京都江戸へ運ぶとき塩漬けにするか干し肉にする場合が多かったそうですが、キジの新巻や干し肉存在していたとか。案外さまざまな加工肉があったそうです。……鮭では見たことがありますが、鳥が新巻にされるなんて想像もつきませんでした。また、少し前にグルメ界を席巻していた熟成肉もあったそうです。遠くから生で運ばれた場合、その可能性が高いとか。よく食べられていたのはシカイノシシでしたが、貴族社会宴会ではメインディッシュとして鳥のキジが好まれたそうです。焼くだけでなく、刺身でも食べられたそうですが、味付けは摂関家であれば、ひしお現在味噌醤油の原点と考えられている調味料)や酢などが使われたと考えられています

殺生禁止と生贄とのあいだで揺れた「鷹狩り」

肉食を考えるうえで必ず登場するのが「鷹狩り」です。鷹狩りは、神々へのお供え物の調達手段としても大切で、仏教の殺生禁断の思想が広まってからも続けられました。古代には貴族の間で行われて、鷹狩りのための狩場もつくられ、鷹狩りに用いる鷹の繁殖のために狩猟や入山を禁じた巣山や巣鷹山と呼ばれる山もありました。その後、貴族から武家権力が移ると、キジだけでなく白鳥や雁もよく狩られるようになり、小型の鶴が狩られたこともあったようです。武家食事マナーでは、鷹狩りの獲物は箸ではなく指で食べることになっていました。食材としての価値が高く、食べ方にも特別作法があったようです。

江戸時代になると、徳川家康が好んだ鷹狩りを、代々の将軍が受け継ぎ行っていました。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が発した「生類憐みの令」のころまでは史料確認できますが、その後しばらく姿を消してしまます。復活するのは8代将軍・徳川吉宗のころ。吉宗徳川家康尊敬していたので、家康が好んでいた鷹狩りを復活させたようです。その後、大政奉還が行われ明治新政府が発足した後は、鷹狩りは大名特権ではなくなりました。明治天皇御料場で鷹狩りを行ったようです。在位中の天皇狩猟に出かけたのは、白河天皇が1073年に嵯峨野鷹狩りをして以来のことでした。天皇800年ものあい狩猟をしていなかったわけですが、この800年はそのまま武士時代と重なっているのが興味深いところです。

明治天皇1872年牛肉を食べましたが、近代以降もしばらくは肉食に対する忌避感がありました。しかし、食の欧米化や大規模な多頭養豚経営、乳用種雄の肥育牛の食用への転用などにより、1955(昭和30)年ごろからは急速に肉食が一般化していきます。結果、戦後まれ世代からは肉食があたりまえの世の中になって現代に至ります。食肉生産が進み、ブロイラーが出てきたからこそ「帰りに焼き鳥ちょっと一杯」ができるようになりました。そんな生活高度成長期にようやく成立したもので、まだ現在のような「お肉を食べたい」「お肉を食べよう」の歴史は50年ほどしかないのです。

ジンギスカン用のラム肉

一方で2030年ごろには、世界人口の増加が食肉生産を追い越してタンパク質が足りなくなる「プロテイン危機」が起こるという研究があり、昆虫食研究などが進んでいます。今のようにお肉を食べられる時代は、日本史のなかの、ほんのわずかな期間で終わるのかもしれません。

動物を殺す」肉食に対してはさまざまな意見もありますが、人間の食欲がそれを抑え込んでいるのが今の時代です。お肉はいつでも好きなだけ手に入りますし、食べることもできます。「中世には動物を殺すことやそれを食べることがタブーとされていましたが、実際に食べる人は少なくありませんでした。うしろめたさと食欲との葛藤があって、そこからさまざまな言説が生まれました。現在も肉をめぐってさまざまな問題があります。もう少し葛藤があっても良いのかもしれません」と中澤先生は言います。「お肉が食べたい」という気持ち自由に満たせる今だからこそ、食文化についてちょっとだけ考えてみませんか。

2022-03-07

anond:20220307190142

私も聞いた時は何それ? と思ったが、ググったら本当に昔はそういう風習があったらしい。ちなみに私は名古屋の出ではない。

うろ覚えだけど、江戸時代には公家武家でそれぞれ冠婚葬祭とかをどのように行うかというのが細かく決まっていたそうで、それらがやがて民間にも伝わって真似されるようになったとかなんとか。

2022-02-20

anond:20220220114943

武家由来の人間なんて奥まったところに住んでいて普段は外に出てこない

…狩られるしな(笑)

anond:20220219212152

とある小説に、鎌倉には武家の気風が戦後も残っていて人々の気位が高く、京都ほどではないにしろ人間関係が難しい的なことが書いてあった。(小説登場人物京都商家の入婿になるんだけど、生まれ育ちが鎌倉上流階級で鍛え上げられているので、京都に行っても義理家族に可愛がられて余裕のよっちゃん暮らしている、という話だった)

2022-02-12

anond:20220212090323

武家の子は祟る、と同じだよ。

子供だ、と捨て置いた頼朝平家はやられたやろ。

から容赦なく勇者の芽は摘んでおかねばならない。

家康とかはそれを徹底したから長らく江戸時代平穏に続いた。

2022-01-12

結婚するなら武家娘だけはやめておけ

あいつら気位ばかり高くて、何にでも文句をつけ、家事仕事もしない。

最低だぞ。

2022-01-08

anond:20220107185925

あんさんの言うてはる門松ゆうんは東国武家風の門松でっしゃろ? 江戸独自に発達した武家文化大仰な門松。あれは伝統文化やあらしまへんで。江戸文化ゆうたら最近のもんやし、伝統的な門松京都に来たはらんと見よ思ても見られまへんでぇ。

2022-01-03

anond:20220102202413

武家女の子供に対する教育がそうだった。

儒教のせい。

武家でもない日本人までみんなに武家教育をした結果。

これは寺子屋倫理学校教育に導入したせい。

2021-12-03

「ヒノカミ」「太陽」「陰陽」がわからないキッズ祖父母

「ヒノカミ」の漫画アニメ祖父母と孫がつながる、一見いいことだ。

中国はここ50年ほど「太陽の気は有毒で鬼や妖怪の源」という『論衡(1世紀)』が人気。

これは現代中国、『三国志』の董卓に関わる陰陽観や天地観なので、漫画レベルお話

・「天狗」は「日食月食を起こす狗(犬)」とは現代中国一般常識文学

・「天狗」が「太陽を食らう犬」なのは日本書紀タイインド北欧神話でも共通だ。

・ヒロアカの「天喰環(太陽すら食らう者)」はもちろんこれ。

呪術廻戦の「カゲの王でカエルウサギに関わる呪術」も同じ「太陽を喰らう犬」。

藤本タツキの『チェンソーマン』や読切は太陽が一切描かれない。

・真女神転生Ⅴで日本代表エジプト代表月神太陽神が出席しない。 

・真女神転生Ⅴは「マガツヒ(禍つ日)」なヒノカミを直す「ナホビノ(直日)」。

巨人ユミルオーディンやソーやロキが出る北欧神話太陽は神ですらない。 

エルフダークエルフドワーフ北欧神話太陽は神ですらない。

・『逃げ上手の若君』の時代、ヒノカミは武家から除外されてる。

太陽・月を喰らうアシュラ神(天狗)」は聖書コーラン「天使」として取り込んだ。

それはアジア中東西洋知識人シェアするところ。

天使がヒノカミを喰らうアシュラ神と知らない】なんて日本だけ。

エルフドワーフにはヒノカミなしと知らない】なんて日本だけ。

日本知識人(笑)日本史や人気マンガすら理解できない老害だらけ。

「ヒノカミ」「太陽」がわからないキッズが「陽キャラ」と言うのは大人責任だ。

「ヒノカミ」「太陽」「陰陽」がわからないキッズ祖父母

「ヒノカミ」の漫画アニメ祖父母と孫がつながる、一見いいことだ。

中国はここ50年ほど「太陽の気は有毒で鬼や妖怪の源」という『論衡(1世紀)』が人気。

これは現代中国、『三国志』の董卓に関わる陰陽観や天地観なので、漫画レベルお話

・「天狗」は「日食月食を起こす狗(犬)」とは現代中国一般常識文学

・「天狗」が「太陽を食らう犬」なのは日本書紀タイインド北欧神話でも共通だ。

・ヒロアカの「天喰環(太陽すら食らう者)」はもちろんこれ。

呪術廻戦の「カゲの王でカエルウサギに関わる呪術」も同じ「太陽を喰らう犬」。

藤本タツキの『チェンソーマン』や読切は太陽が一切描かれない。

・真女神転生Ⅴで日本代表エジプト代表月神太陽神が出席しない。 

・真女神転生Ⅴは「マガツヒ(禍つ日)」なヒノカミを直す「ナホビノ(直日)」。

巨人ユミルオーディンやソーやロキが出る北欧神話太陽は神ですらない。 

エルフダークエルフドワーフ北欧神話太陽は神ですらない。

・『逃げ上手の若君』の時代、ヒノカミは武家から除外されてる。

太陽・月を喰らうアシュラ神(天狗)」は聖書コーラン「天使」として取り込んだ。

それはアジア中東西洋知識人シェアするところ。

天使がヒノカミを喰らうアシュラ神と知らない】なんて日本だけ。

エルフドワーフにはヒノカミなしと知らない】なんて日本だけ。

日本知識人(笑)日本史や人気マンガすら理解できない老害だらけ。

「ヒノカミ」「太陽」がわからないキッズが「陽キャラ」と言うのは大人責任だ。

2021-11-18

何で見聞きしたのか出典が思い出せない話があるんだが知ってる人いたら教えてくれ

とある武家?だかの子供がいて、配下達と手合わせしても配下圧勝してしまう。

の子供は「配下が手加減をしてるのでは?」と疑心暗鬼になり、真剣配下達と斬りあうが配下を皆殺しにしてしまう。

結局配下最後まで武家の子供だから斬る事が出来なかったのか、それとも本当に武家の子供が強かったのかわからなかった。

みたいなそんな話をどっかで聞いたことがあんだけど何の話だったっけ?司馬遼太郎?ぐぐってもでねえ

そもそも武家だったのかすらあやしい

2021-11-04

江戸時代武家だった家よりも江戸時代に庄屋だった家の方が

現在田舎で大きな勢力を持っているような気がする。

武家屋敷とかあったところは地方都市になったからだろうか。

2021-11-03

江戸末期のイギリス駐日大使が、日本天皇芸事ばかりして政治武家まかせで何もしていない、アホかと思ったそうだが

その天皇こそ日本人そのもので、戦争をヤレと言われれば、ハイリマスみたいな風だから利用されたんだろうね

今も皇族の娘が、弁護士の卵を標榜する元学生に食われてるし、まったく成長していない

渡来人の親切はありがたいが、そんなんで日本バカにしない人とかいる?

2021-10-05

anond:20211005152241

道三「武家以外の生まれでも下剋上できるって話じゃないんか」

2021-09-18

昔の武家貴族名字を与えるというのが習慣としてあった。

豊臣とかは姓も与えてるし。

ほんで公式文書なんかも松平なんたら守とかって書いてる。

名前も気分でしょっちゅう変えたりしてるし。

そういうのって楽しいのにな。

なんか名前ってものに束縛性があるすぎるのだよ、現社会は。

戸籍管理と連動しているというか個人証明書としての名前

実質的には管理番号と化している名前

そんな名前まらないな。

2021-09-06

明治維新以降、武家系譜乗っ取りがあったことが伺える

乗っ取りたい氏族の跡継ぎ息子を死なせ娘と結婚する

どうもよくあった話らしい

新聞紙条例(噂の拡散防止)

祭政一致官製の噂による誘導

司法機関による政策推進

家史の武勇談や財産を乗っ取って物真似

武家面白いものだとテレビドラマで刷り込まれ日本人

日本軍やら自衛隊警察活動たかもしれない

教育調査力も欲しいぞください

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