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2020-07-13

いやいや残業するひとを自分以外に見たことがない

働き始めて3年ほど経ったけど、リアル世界残業いやですオーラを出しながら働く人を1人も見たことがない。

残業してる先輩社員に「忙しそうですね」って聞くと「まぁ仕事から仕方ないね」みたいな大人な回答しか帰ってこないし(そんな嫌そうではないので反応に困る)。

1日8時間働くだけで無理無理左衛門限界太郎なんだが???

残業とか月に10時間限界。正直、1秒も残業したくない。

いったいどうしてそこまで働けるんだろうな。

ある意味羨ましい。

あー人生何もわからん

2020-02-23

[]anond:20200223192527

上月城主となっていた寺元生死之助は、陸路から進軍してきた松永軍を相手に防戦していたが、

そこに海から尼子勝久軍勢が到着したので、生死之助はさっと搦手の門を開いて迎え入れた。

生死之助は、鹿之助に対して何事か策を献じたあと、逃げ帰ったていで富田城に戻り、

松永弾正と尼子勝久とで一万余りに攻められては太刀打ちできず」と申せば、

九郎左衛門毛利を頼るしかあるまいと五千の援軍を借り受けた。

元気づいた九郎左衛門は手勢の八千人も連れて城外に陣を構え、そこに尼子勝久の軍が攻めかかった。

九郎左衛門の兵は、先鋒の鹿之助を取り囲んだが、あっというまに蹴散らされ、城門の内に退がるよりない。

城に籠もられると、さしもの鹿之助も攻めあぐねて、その日は退却となった。

翌朝、尼子勝久軍勢を率いて富田城に攻めかかり、

「悪逆無道の尼子九郎左衛門、はやく馬より下りて首を渡せい」と呼ばわると、

九郎左衛門も「小倅ごときに討たれる九郎左衛門にあらず」と前に出てきて采配を振るう

さらに鹿之助が「こののち三声と叫ばぬうちにその方の生命は寂滅する」と挑発すれば、

九郎左衛門さらに怒り「三声は愚か千声万声でも発してみせるわ、我を生け捕る者があるか」と叫んだ。

その声が終わらぬうち、傍に立っていた寺元生死之助が「汝を生け捕るものはこれにあり」と応えるや、

九郎左衛門を馬上より引きずり下ろしてあっというまに縛り上げてしまった。

鹿之助が下知をかけると、八勇士はいさんで敵陣に突進し、

その隙に生死之助は九郎左衛門を抱えて尼子勝久の陣中に転がり込む。

毛利家の河野四郎は薮中茨之助と戦って斬られ、同じく毛利家の来島太郎は荒波錨之助に首を引き抜かれた。

九郎左衛門配下赤星軍八は皐月早苗之助と、田原兵次は秋宅庵之助と戦っていたが、やがて討ち取られた。

その他の勇士たちも各々活躍し、ついに大勝利と相成ったのである

尼子勝久が城内に乗り込むと、生死之助が縛り上げた九郎左衛門を引っ立ててきた。

勝久は「いまぞ天罰の蒙る時節到来」と自らその首を打ち落とした。

兵たちは勝鬨を上げ、民百姓も多いに喜び、尼子家の再興を祝したのだった。

一方で、勝久の父・尼子義久は毛利領内に囚われていたが、

ちょうど正親町天皇即位があり、毛利元就も上洛して献納品を奉ったところ、

義輝公の母君から尼子と和睦して義久を返してやってくれ」と頼まれた。

やむなく元就は頷き、これで尼子毛利は和睦して、義久は丁重に送り返された。

義久と勝久はついに親子の再会となり、また忠臣義士らを集めて労い、

とりわけ功のあった十名、

山中鹿之助

大谷古猪之助

寺元生死之助

横道兵庫之助

早川鮎之助

皐月早苗之助

高橋渡之助

秋宅庵之助

薮中茨之助

荒波錨之助

ここに彼らは「尼子勇士」とされた。

その後、尼子家は万代に渡って栄え続け、尼子のために働いた者はみな立身出世を遂げて幸せ暮らしたのであった。

[]anond:20200223192328

一方、兵庫之助の死体を背負った浮舟は、同じく遊女をしている妹の浮橋のもとに身を寄せた。

浮橋にも愛人の薮中茨之助というものがおり、彼の世話で家を借りてそこで暮らしていた。

ある日、浮舟の夢のなかに不思議な老人が現れ、「白鰻を食べさせれば兵庫之助は治癒する」と言った。

そこで茨之助が白鰻を探していると、川岸百姓たちが集まって騒いでいる。

話を聞けば、白鰻が取れたので売れば十両になるが、他の百姓らは白鰻は神様から逃がせと言うので争いになっているという。

しからばと茨之助は、集まった百姓には一両、白鰻をとった百姓には五両を渡し、半ば奪い取るように白鰻を持って帰った。

それを兵庫之助に食べさせると、すぐさま悪血を吐いて目を覚まし、ひと月もすればすっかり回復してしまった。

兵庫之助は、浮舟を茨之助に任せ、鹿之助を探すために中御門宗教をたずねて京へ上った。

宗教卿へと面会する前に身だしなみを整えねばと床屋へ入ったところ、なんとその床屋は秋宅庵之助であった。

再会を喜んでいる二人のもとへやってきた虚無僧は、何を隠そう高橋渡之助である

この二人は上月城を退去したあと、九郎左衛門暗殺しようと付け狙っていたが失敗し、京まで逃げてきたのだった。

また宗教卿と面会し、皐月早苗之助と会ったことで、鹿之助や古猪之助の消息も知り、兵庫助は大いに喜んだのだった。

さて尼子勝久も、そのころ義輝公の草履取りが鹿之助であることに気付き、

義輝公にそのことを話すと、義輝公・松永弾正はともに驚き、早速、鹿之助を呼び寄せた。

鹿之助は「松永弾正から将軍尼子再興の奏上をしてもらおうと仕えていたのだ」と述べ、涙ながらに尼子再興を訴えた。

松永弾正は感心して、あらんかぎりの軍兵をもって助力しようと約束し、義輝公も松永弾正に勝久の補佐を頼んだのであった。

そこで鹿之助は、兵庫之助に「浮船は京に呼び寄せたほうがいいだろう」と言ったので、

兵庫之助は、茨之助のもとに向かい、浮舟・浮橋を京へと送り、茨之助とともに再び鹿之助と合流した。

ここに尼子勝久山中鹿之助のもと、横道兵庫助や大谷古猪之助らも集い、

松永弾正の三千の兵は陸路から、鹿之助たちは将軍から借りた三千の兵を率いて海路から富田城を目指して出発したのである

ところが、御座船の錨が不思議と重くて持ち上がらないというので困っていたところ、

南蛮鉄の徳蔵」という大力無双の者が一人で引き上げてしまった。

なんという大力無双かと勝久や鹿之助が驚いていたところ、

そこに近づいてきた一艘の小舟から、男がひとり船に乗り込んできた。

怪しい奴とばかり徳蔵が、引き上げたばかりの錨を振り回すと、向こうの男もその錨を掴む。

互いに錨を引っ張り合うも、双方負けず劣らずで決着がつかない。

鹿之助が男の顔をよく見ると、まさしく海に身投げしたはずの早川鮎之助であった。

鮎之助は淡路の岩屋に流れ着き、そこで世話をされて回復したので漁師をしていたところ、

鹿之助の挙兵を聞いて駆けつけてきたということだった。

また鹿之助が、徳蔵の素性を聞いたところ、父は大友家に仕えていた武士だったが、その父が死んだあと浪人していたが、

海賊を退治したことで褒美として船を貰い、それで商売をしていて、このたび尼子の御座船となった次第と言う。

それならばと鹿之助は彼を召し抱え、「荒波錨之助」という名を与えたのだった。

[]anond:20200223191629

日の出の勢いの尼子家は、敵に奪われていた月山富田城まで取り返した。

尼子義久は富田城へ戻り、上月城は鹿之介へと与えられた。

さて、尼子一族には尼子九郎左衛門という邪智奸佞の輩がいた。

その性格のため、もともと義久からまれており、対して鹿之助が重用されているのが面白くない。

そのような心情につけこんだ毛利元就は、尼子裏切り鹿之助を暗殺するよう、九郎左衛門に吹き込んだ。

九郎左衛門は、毛利家の来島徳十郎という者を呼び込み、琵琶法師と偽って上月城に潜り込ませた。

酒宴のときに、徳十郎は毒を盛ったので、鹿之助たちはみな倒れ伏してしまった。

ただ一人、義久の近習の寺元半四郎という者だけが下戸だったので、徳十郎を取り押さえることができたが、

既に鹿之助と兵庫之助は息絶え、鮎之助は見苦しい死体晒したくないと海に身を投げてしまった。

半四郎は涙を流しながらも、急ぎ富田城に戻ったが、

すでに城は九郎左衛門によって乗っ取られ、尼子義久は捕らえられていた。

そこで半四郎は「私はいから生死之助と名を変え、生まれ変わったつもりで貴公に仕えよう」と九郎左衛門に申し出た。

そのとき皐月早苗之助という豪傑が、尼子義久の嫡男・勝丸をさっと抱えて逃げ出した。

この男は、五十人あまりが引いても動かない大岩を、少年でありながら一人でどけてしまったという怪力の持ち主だった。

それを認めた義久が家臣として取り立て、村の名前から皐月早苗之助という名を与えたのだった。

早苗之助を追いかけてきた生死之助は、「私は奥方や若君を救うために偽って寝返ったのだ」と事情を話した。

そこに京の兆殿司和尚が現れたので、若君・勝丸を和尚に預けて、

生死之助は富田城へと戻り、早苗之助は上月城に行くことになった。

上月城に到着した早苗之助は、九重姫に事情説明し、京へ逃れるように言った。

九重姫が「夫の亡骸を捨て置くわけにはいかない」と言うので、

早苗之助は鹿之助の死骸を検分したが、どうも生きている感じがする。

兵庫之助の死体についても同様だったので、「養生すれば助かるかもしれない」と九重姫と浮舟に死体を持たせて逃した。

早苗之助はこれで大丈夫だと、自らは勝丸を追って京へと向かった。

一方で生死之助は、富田城に戻って上手く誤魔化し、九郎左衛門上月城攻めを注進した。

既に上月城にはほとんど人が残っていなかったが、ここに高橋渡之助と秋宅庵之助という二人の豪傑がおり、

生死之助を先鋒に九郎左衛門の軍が攻めてくるというので、城を枕に討ち死にしようと立てこもっていた。

二人の忠義に生死之助は感心し、事情説明した矢文を打ち込み、城を退去して京へ逃れるように言った。

あっというまに上月城を攻め落とした生死之助を、九郎左衛門ますます信用したのだった。

[]anond:20200223185852

ある時、森之助の伯父で、先年村上家を出奔して武田家に仕えていた、相木市兵衛という者が塩尻峠を通りかかった。

市兵衛はその山奥で、鹿の背に乗せられ、猿たちに取り囲まれ赤ん坊を見つける。

不思議に思った市兵衛は赤ん坊を拾って帰り、山の中で鹿に乗っていた子供ということで「山中鹿之介」と名付けた。

その赤ん坊こそ、長坂跡部の追手と戦ううちに更科姫とはぐれてしまった、彼女の息子であった。

その更科姫は、はぐれた息子を探すうちに山賊の砦に迷いこんでしまい、彼らを打ち倒して親分の座に収まっていた。

しかも、その山賊の一味だった烏勘左衛門という者が、実は武田家と対立する上杉謙信の家臣・蓑田五郎であった。

二人は協力して馬場美濃守を討たんと、手下を商人変装させて甲府へと送り込んだ。

ところが手下は早々に馬場美濃守に捕まり、一部始終を白状させられてしまった。

馬場美濃守は思案して、私の心底はこの中身を見れば分かると言って、その手下に「長持」を持たせて帰した。

手下から長持を受け取った更科姫がそれを開けてみると、その中から現れたのは死んだはずの森之助であった。

更科姫は、森之助との再会に驚くやら喜ぶやら。

実は、密かに馬場美濃守に助けられていた森之助は、それから馬場美濃守の影武者として活躍していたのだった。

すでに村上家は滅び、村上義清は越後へ逃れて、上杉謙信の家臣となっていた。

このまま武田に与して上杉と戦うつもりもなし、世を捨てて閑居しようと語り合い、

簑田五郎山賊たちを任せて、二人は武田家へ向かった。

馬場美濃守に暇乞いをしたところ、

上杉と戦う必要はないので、北条今川の押さえとなる諏訪原城を守ってくれないか

と頼まれしまい、恩人の言うことでもあるので、やむなくそれを引き受けた。

最後ということで伯父の市兵衛とも面会すると、そこにいた赤ん坊ははぐれた更科姫の息子であった。

夫婦は喜び、息子・鹿之助を引き取ると、諏訪ヶ原の城へと向かった。

2019-12-04

独立国 和歌山

anond:20191203002224

和歌山の特異性の根源は色々ある。

和歌山城を中心とする徳川信仰

今もなお市シンボルとしてそびえる和歌山城、また県庁脇の交差点には史実では徳川幕府を立て直し、ドラマでも「暴れん坊将軍」として名高い吉宗公の銅像とともかく徳川御三家のプライドを、特にその周辺住民意識に深く刻みこんでいる。

高野山

言わずと知れた日本仏教聖地空海平安時代に開いたその地は世界遺産にも登録され、より一層存在価値を増し観光地としても世界的に注目されている。参拝者数日本一の寺院成田山新勝寺高野山真言宗の一流派根来寺(和歌山岩出市)の下部組織に過ぎない。

熊野古道

神武天皇にも由来する日本サッカー協会のシンボル八咫烏、落差日本一の那智の滝などの熊野三山平安時代から信仰対象として貴族朝廷でも人気があり、その参詣道としての熊野古道世界遺産になったことで、県で最も経済的価値の無かった山間部でも経済効果を生み出している。


住友金属和歌山製鉄所。

かつては同社の主力工場でもあったため、和歌山市には企業城下町文化が今なお根付いている。ノーリツ鋼機や島精機をはじめとする様々な企業の発展もその恩恵に預かったと言っても過言では無い。

野球

現在の県立桐蔭高校前身和歌山中学が今で言う甲子園選手権第一大会から出場し第7回8回の大会で優勝した。それで野球文化が広がり住金野球部の活躍からかつての箕島高校現在智弁和歌山などが活躍すると同時にそれら以外の学校からも今なお多くのプロ選手が輩出され続いている。

トルコとの友好。

明治時代トルコエルトゥールル号難破を潮岬周辺住民が救助活動したことにより日本との友好関係現在も深く繋がっている。

松下幸之助

Panasonic創業者の生誕地。

明石家さんま

生誕地。

がんばれ前畑の前畑秀子

生誕地。

華岡青洲

世界初の全身麻酔による手術。

紀伊國屋左衛門

豪商。生誕地。

パンダ

白浜アドベンチャーワールド

梅。

紀州南高梅

みかん。

有田みかん

醤油

発祥の地。

L'Arc-en-Ciel

hyde生誕地。

コブクロ

事務所所在地

ドレスコーズ

志磨遼平生誕地。

小林稔侍

生誕地。

ガンダムSEEDbelieve

玉置成実生誕地。

このように、和歌山県は自慢ポイント県内各地にあり、多岐に渡るため特異な県民性があると思う。本州南端山間部に囲まれ大阪奈良から隔離された地理的要因もあるのだろう。

そういった点では指摘された「独立国」というのもあながち的外れではないし逆に個性として主張すれば発展する要因になるかも知れない。

書き初め自虐的だったが書いている途中で自慢になるという不思議

2019-11-02

anond:20191101232510

「とぼとぼ」は江戸時代初期から使われはじめた近世語のようだ。

https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/ko_tame114.html

大言海

とぼ‐とぼ〔副〕老人などの、よろぼひ歩む状、又、歩みのはかどらぬ状に云ふ語。よぼよぼ。よろよろ。よぢよぢ。よたよた。

博多女郎波枕(享保近松作)中「姥が出れば惣左衛門、こりゃ姥、何をとぼとぼする、今の銀(かね)は隣の道具賣ッた銀(かね)」〔三-576-2〕

https://kotobank.jp/word/%E3%81%A8%E3%81%BC%E3%81%A8%E3%81%BC-584747

精選版 日本国語大辞典

[1] 〘副〙 (「と」を伴って用いることもある)

ぼんやりしているさま、元気なく、疲れたさまなどを表わす語。しょぼしょぼ。〔続無名抄(1680)〕

浄瑠璃・鑓の権三重帷子(1717)下「ろくに寝ぬ夜の目もとぼとぼとほこりまぶれの髪かたち」

② (「とぽとぽ」とも) 力なく緩慢に行なう動作特に歩くさまを表わす語。

たけくらべ(1895‐96)〈樋口一葉〉一一「少しうつむいて居るらしくとぼとぼと歩む信如の後かげ」

[2] 〘名〙 (形動) ぼんやり、うす暗くおぼつかないこと。また、そのさま。

浮世草子好色産毛(1695頃)五「ある夕暮のとぼとぼより、誰やら我につき添て目にありありとみゆる」

ちなみに「よぼよぼ」も近世語で、1628年の「醒睡笑」に出ているらしい。

その元になったのが「よろばう」で、これは「あちらに寄ったりこちらに寄ったりする」=「よろよろする」という古語

https://kobun.weblio.jp/content/%E3%82%88%E3%82%8D%E3%81%BC%E3%81%B5

「しょぼしょぼ」は15世紀には見られた言葉で、その語源古語の「そぼつ」らしい。

https://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%9D%E3%81%BC%E3%81%A4

「そぼつ」は「濡れる」という意味で、今だと「濡れそぼつ」とか「雨がそぼ降る」とかに残っている。

「大雨でずぶ濡れ」というよりは「小雨がずっと降り続く」ようなイメージで、そこから「雨がそぼそぼと降る」→「しょぼしょぼ」になっていったわけだ。

「とぼとぼ」は単純に「よぼよぼ」や「しょぼしょぼ」から転訛という可能性もあるけど。

この二つには「よぼける」「よぼくれる」「しょぼつく」「しょぼくれる」みたいな動詞形があるので

そうすると「とぼとぼ」も「とぼける」「とぼつく」「とぼくれる」などと結びつけたくなるよな。

日本国語大辞典の「ぼんやりしている」という説明からすると「惚(とぼ)ける」と関係なくもないのかな。

ところで「とぼける」は「惚(ぼ)ける」に語調を整える「と」がついた形らしいけど(遠惚る・言惚るなどの異説あり)この変化が起きたのはいつなんだろう。

「そらとぼける」の用例が1420年にあったなら大丈夫か、というかもしかして「とぼける」より「そらとぼける」のほうが古いのか。

https://kotobank.jp/word/%E7%A9%BA%E6%83%9A-2057783

2019-10-30

呼び方のやめ時が分からない

もうすぐ6ヶ月になる息子の名前太郎(仮)だからたろちゃん(仮)って呼んでる。まだ赤ちゃんからちゃん付けで呼んでもかわいいで済むけどいつかは太郎って呼ばなきゃなとは思う。っていうか大きくなっても母親にたろちゃんって呼ばれてたらマザコン真っしぐらで、なんだったら子離れ出来てない親真っしぐらで怖い。

私は花子(仮)だけど親から花子って呼ばれてるから参考にならない。旦那は一郎(仮)なんだけど親から未だにいちくん(仮)って呼ばれてる。いちちゃんよりマシだけど正直ちょっと嫌。だから私はあんまりいちくんって呼びたくない。子が生まれからパパとかお父さんって呼べるようになって実は嬉しい。

みんな一体どのタイミング太郎呼びになるんだろう。

あと太郎とは全然関係ないあだ名で呼ぶときもあるからそれは早々に辞めないといけないとは思う。太郎左衛門ってなったらカッコいいね!太郎左衛門いね→えもんって面白いね→「えもん〜」的な。夫婦で定着しちゃって離れがたいあだ名

2019-06-18

レモン

一時期レモンを洗剤使って良く洗ってから丸ごと凍らして家庭用のかき氷マッシーンでゴリゴリやってシャーベット風に食ってた。

レモンシトラスって近代あたりまで区別されて無かったみたいなのをどこかで見たけど、クエン酸としてもしられてるシトラス漢名の枸櫞は大航海時代健康にいいみたいなうわさを聞いてオランダ経由で入手した紀伊國屋左衛門がとりよせてはみたもののやたら酸っぱくてとてもじゃにいけど食えん、ってところからきた当て字なんだ)ね

まあ嘘なんだけど

2018-11-29

NTT創業して46年が経ちました

 継ぎ足し継ぎ足し続けた秘伝のタレがついになくなってしまいました。恐れていたことがついに現実になり、主文を後回しにされ死刑判決を待つ死刑囚がどんな気持ちなのか、わずかばかりにも理解できた気がしました。

 ご存知の方は少ないかもしれませんが、秘伝のタレはNTTの基盤を支える大事ものです。NTTの基盤とはなにか。それを知りたがる方は多いです。これを読んでいる皆さんも知りたいでしょう。老婆心ながらに忠告しておきましょう。今から私が教える以上のことを知ろうとしてはいけない。それは命にかかわることです。どうか好奇心を鎮めてください。

 NTTの基本構想が練られていたのは戦後間もなくのこと。戦争で荒れ果てた国を見て、農家の三男坊である宗田門左衛門は嘆きました。このままじゃいけない。必ず日本を立て直すと。こうして宗田は小学校を落第した頭で一生懸命考えて、日本再生計画を練っていったのです。

 8年後、宗田は日光の山奥にいました。猿を捕まえるためです。日本再生計画挫折しましたが、猿は今後絶対必要になります。猿がいなければ天狗に負けてしまます勢力を拡大し続ける天狗軍を止めるべく宗田はここから10年間野山を駆け回りました。

 宗田は天狗との戦いの最中に死にましたが、宗田が捕まえた猿の活躍によって日本天狗軍団から侵略戦争勝利することができました。戦後、猿は殺処分されました。宗田は活躍が讃えられ西郷どんの隣に宗田どんとして銅像が建てられました。

 私は宗田とともに日光の山奥を駆け回った戦友の一人です。戦後、私は毎日のように宗田の銅像の元へ通いました。それほど私は彼のことを尊敬していたのです。

 ある日、私は宗田の銅像の尻の部分からとろとろした茶色の液体が流れ出ていることに気づきました。それはチョコレートのようでしたが甘い香りはなく、むしろ刺激的なにおいが漂っていました。私は思い切ってぺろりぺろりとなめてみました。全身を突き抜ける稲妻。痺れる舌。まさに革命的な味でした。

 これこそがNTT前身である日本うんうん公社の基盤となった秘伝のタレなのです。

 だが、それも枯れてしまった。もうNTTも長くないことでしょう。

 では、老害はさることにします。

2018-09-04

anond:20180112232604

そんなことより短い単語はどれでもハンドルネームかぶりがひどい。

長くしてくれ。高橋白子太郎左衛門ならゆるす。

2018-08-06

anond:20180806225249

たとえ今は知らない人は多くとも、創業からは発展段階の間は

紀伊國屋左衛門の名をただ乗りしてたフリーライダーともいえるわけで。

あと、今でもインテリ層を自認している層は紀伊國屋左衛門知ってる人が多いと思うが

anond:20180806224932

紀伊国屋は使うけど

紀伊国屋左衛門なんて初耳だし「想起」する人間いるのかよって話

anond:20180806223142

紀伊國屋左衛門」を想起させる名前で、関係ない人がやっているのが気に食わないんでしょう。

アジア人アメリカでsushi店やってるような感覚かな。あれはかなり多いね

2018-05-31

anond:20180531165434

落陽の賦(1954年処女作1961年に「落陽」と改題)

地唄1956年本来長編『断弦』の一部)

処女連祷 三笠書房 1957 のち集英社文庫

まつしろけのけ 文藝春秋社 1957

断弦 大日本雄弁会講談社 1957 のち文春文庫

花のいのち 小説林芙美子 中央公論社 1958

ずいひつ 新制社 1958

美っつい庵主さん 新潮社 1958 のち文庫

げいしゃわるつ・いたりあの 中央公論社 1959

江口の里 中央公論社 1959 のち文庫

紀ノ川 中央公論社 1959 のち文庫角川文庫新潮文庫

こぶとりじいさん 伊東万燿絵 講談社 1959 (講談社絵本)

私は忘れない 中央公論社 1960 のち新潮文庫

祈祷 講談社 1960

新女大学 中央公論社 1960

有吉佐和子筑摩書房 1961 (新鋭文学叢書)

三婆 新潮社 1961 のち文庫、「地唄三婆講談社文芸文庫

ほむら 講談社 1961

弟子 中央公論社 1961

更紗夫人 集英社 1962 のち文庫

閉店時間 講談社 1962

雛の日記 文藝春秋新社 1962

脚光 講談社 1962

香華 中央公論社 1962 のち新潮文庫

若草の歌 集英社 1963

連舞 集英社 1963 のち文庫

左衛門四代記 文藝春秋新社 1963 のち新潮文庫

有田講談社 1963 のち角川文庫

仮縫 集英社 1963 のち文庫

つるの恩返し 講談社 1964 (講談社マザー絵本)

非色 中央公論社 1964 のち角川文庫

ぷえるとりこ日記 文藝春秋新社 1964 のち角川文庫岩波文庫

女館 講談社 1965

一の糸 新潮社 1965 のち文庫

日高川 文藝春秋新社 1966

ライオンめがね 熊田千佳慕講談社 1966 (講談社絵本)

乱舞 集英社 1967 のち文庫

華岡青洲の妻 新潮社 1967 のち文庫

地唄 新潮文庫 1967

不信のとき 新潮社 1968 のち文庫

海暗 文藝春秋 1968 のち新潮文庫

新潮日本文学 有吉佐和子新潮社 1968

かみながひめ 秋野不矩ポプラ社 1969 (むかしむかし絵本)

女二人のニューギニア 朝日新聞社 1969 のち文庫

出雲の阿国 中央公論社 1969-72 のち文庫

ふるあめりかに袖はぬらさじ 中央公論社 1970 のち文庫

芝桜 新潮社 1970 のち文庫

夕陽ヵ丘三号館 新潮社 1971 のち文春文庫

針女 新潮社 1971 のち文庫

恍惚の人 新潮社 1972 のち文庫

日本文学 阿川弘之庄野潤三有吉佐和子 中央公論社 1973

孟姜女考 新潮社 1973

木瓜の花 新潮社 1973 のち文庫

真砂屋お峰 中央公論社 1974 のち文庫

母子変容 講談社 1974 のち文庫

複合汚染 新潮社 1975 のち文庫

鬼怒川 新潮社 1975 のち文庫

筑摩現代文学大系 芝木好子有吉佐和子筑摩書房 1976

青い壷 文藝春秋 1977 のち文庫

複合汚染その後 潮出版社 1977

和宮様御留 講談社 1978 のち文庫

悪女について 新潮社 1978 のち文庫

有吉佐和子中国レポート 新潮社 1979 のち文庫

日本の島々、昔と今 集英社 1981 のち文庫中公文庫岩波文庫

開幕ベルは華やかに 新潮社 1982 のち文庫

すごい・・

2018-05-20

鮨に最も合う酒は日本酒馬鹿言うな。

好きな食べ物に好きなお酒を合わせて飲めばいいんだが、鮨と日本酒の組み合わせが至高と語る食通が跋扈しており、その薄っぺらさに対して筆を取る次第。

もともと日本酒主菜主食と合わせる食中酒ではなく、塩辛干物など強目の肴と合わせる食前酒位置けが一般的であったと記憶している。バブルの頃ワインブームワインブームでなく通を気取るブーム)があり、鮨に高いワインを合わせる成金趣味へのアンチテーゼとして、鮨には日本酒という主張が強くなった。その代表例は美味しんぼ4巻である(と思っていたが今回読み返したら誤解だった。後述。)。

しかし、日本酒は鮨には合わない。少なくとも多くのネタでお互いを高め合う組み合わせではないと思う。日本酒は甘いし、コクがありすぎる。食事の風味を活かすよりも消してしまう。貝類カツオなど風味の強いネタつまみで食うなら良いと思う。スーパーで売れ残って半額になった刺身にも日本酒は良いと思う。

鮨も日本酒日本代表するものから合うか?同じ日本から合うとはかぎらない。酷いのになるとシャリも酢もコメ由来だから合うなどと言う。素材が共通だと合うというのは根拠なき思い込みだ。日本酒コメの飯が合いますか?(個人の好みとして合うと感じる人はいるのだろうが)

鮨には日本酒だと言われる結果何が起きているか?猫も杓子も「辛口である。いつの間にか通は辛口のようになっている。好みを聞かれて辛口以外を言う人がほとんどいない。辛口が美味いんじゃない。日本酒そもそもお酒の中では甘くてコクが強いので辛口でないと食事に合わないのだ。しかし、どんなに辛口でも日本酒は甘い。だから味の淡いネタ、例えば白身には合わない。光ものにも合わない。日本酒のうち一部である辛口だけに偏り、その辛口ですら鮨の味を活かせるわけじゃない。見てられん。

もう一つの流れが味のクリア化を追求する超高級酒の流れである銀座ミシュラン星つきはこういう酒を置くところが多い。一昔前の高級酒といえば久保田万寿代表的で、これでも随分風味を減らしてクリアにしたなと思っていたが、最近はそういうレベルではない。獺祭の磨きその先へや、黒龍の二左衛門しずくなど、ほとんど雑味のしないクリアさだ。4合瓶で定価1万円とか、もっとする。ここまでやれば鮨と合うと感じるが、寿司屋では1合3千円以上する。普及価格帯の酒が合わないと、ジャンルとして合うとは言えまい。

今回これを書くにあたり、美味しんぼ4巻をを読み返してみると、日本酒一般的和食に合うとは言っていなかった。ワイン辛口の白以外魚介類に合わないと言っているだけで、日本酒は最も辛口でもワインより遥かに甘いと述べ、合うものは限られることを示唆していた。日本酒の力を発揮するとして例に上げたのはカラスミとかクチコだった。ショックである。当時の美味しんぼはかくもまともだったのだ。

鮨や和食レベルの高さは世界評価されている。そこに日本の酒を合わせたい、最高のマッチングであるべきだ。分かるよ。ウイスキー世界レベルになったし、日本固有の日本酒の良さを鮨や和食とともに世界に知らしめたい。すごく分かるよ。でも。

では何が合うか?私は水とお茶だと思う。味の余韻を味わうには水。口をリセットするにはお茶。最強。

そもそもアルコールは味覚を鈍らせる。素材や調理に微細なウンチクを語る人やそれで付加価値をつける店はたくさんあるが、味を最も繊細に味わうにはノンアルコールだという主張は聞いたことがない。その程度の味覚なのだ、実は。ストイックであれと言っているわけではない。ウンチク語るならそっちにも拘れよと言いたくなるだけだ。酒も食事の楽しみだ、酒飲んだ方が食事が美味しく感じる(微細な味の差が分からなくなったとしても)と思うよ、俺も。お店もアルコール売れないと困るしね。

そもそも醸造酒は風味が強いのが魅力なので、鮨や懐石のようにチョコチョコいろんなものが出てくる食事に合わせること自体難しい。フレンチだと、ワインペアリングは皿ごとに行われる。日本フレンチ懐石的に種類多くて嬉しいけど、ワインペアリングには向かない。

アルコールで合うと思うのは、ハイボール、甘みをいれないレモンサワー辛口淡麗の極みである(笑)。あとは、よく冷えたビール。昔のビールは太めの味で、その流れが変わったのはスーパードライからだが、開発コンセプトは「和食に合うビール」だったと言えば何か伝わるだろうか。

まあ食通的にはそんなものを頼むのは沽券にかかわるだろうし、そもそもハイボールサワー銀座鮨屋に置いてない。だから1合3千円以上払って野趣をゼロにした日本酒を飲んでくれればいいんだけど。実際それはそれですごく美味しいと思うしね。

冒頭にも書いたが、好きな食事に好きな酒を合わせるのが一番だ。そこは誤解しないでほしい。

2018-02-06

ドを略すのはやめよう

ド級、その略称である接頭辞「ド」は、20世紀初頭の英国軍艦ドレッドノート匹敵する戦力を意味する「ドレッドノート級」から来ている。

第一次大戦後の日英米海軍軍縮交渉から人口膾炙するようになった言葉だ。

しかし今やそのことを知る人もほとんどおらず、ただ言葉の響きがなんかすごいからド、ド級超ド級と呼ばれるようになって久しい。


嘆かわしい。

言葉の乱れとはこのことだ。

言葉の乱れは文化の乱れ、ちゃんと由来のわかる言葉を使おうではないか

ドはちゃんとドレッドノート級と言おうではないか

例)

田舎ドレッドノート辺鄙

ドすけべ→ドレッドノート級スキモ

ドMドレッドノート被虐趣味

左衛門ドレッドノート水死体

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

田代 陣基(たしろ つらもと、延宝6年(1678年) - 寛延元年(1748年))は、江戸時代武士佐賀藩士。通称左衛門。『葉隠』の筆記者口述山本常朝、その師であった湛然和尚石田一鼎等と共に「葉隠の四哲」の一人に数えられている。

略歴[編集]

延宝6年(1678年)、田代左衛門宗澄の子として生まれた。 元禄9年(1696年)19歳の時より鍋島藩3代藩主鍋島綱茂、4代吉茂のもとで祐筆役として仕えたが、宝永6年(1709年)に御役御免となった。

宝永7年(1710年)、山本常朝の庵を訪れ、同じく失意の中にあった常朝と語らい合う内に常朝の言葉口述筆記を始め、7年後の享保元年(1716年)に『葉隠』として完成させた。

5代藩主宗茂時代の享保16年(1731年)54歳で再び祐筆役となる。 寛延元年(1748年)71歳で没し、佐賀市田代の瑞龍庵に葬られた。

墓所[編集]

瑞龍庵で葬られた際の墓碑には「松盟軒期酔之墓」と刻まれていたが、後、墓所存在は忘れ去られた。(その法名から浪花節語りの墓と考えられていた。) 昭和13年に再発見され、昭和19年に有志により瑞龍庵に顕彰碑が建立された。その碑文には「田代陳基先生葉隠纂述記念之碑」と刻まれている。「陣」は「陳」の俗字で戦乱の際などに使われるものであるため、田代陣基への思いを込め本来の字を使用した。

山本常朝

山本常朝

山本常朝の墓(佐賀市

山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日1719年11月21日)は、江戸時代武士佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。

目次 [非表示]

1 略歴

2 隠居晩年

3 史料

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

略歴[編集]

万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路現在佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田左衛門女。

常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。

11歳で父に死別し、14歳とき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。

この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚仏道を学び、21歳のとき仏法血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。

葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田現在佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。

天和2年(1682年)24歳のとき6月山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月御書物役を拝命。28歳のとき江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。

5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。

隠居晩年[編集]

同年5月16日藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した。5月19日藩主菩提寺たる曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒、剃髮して名を旭山常朝と改めた。7月初旬に佐賀城下の北10キロ山地来迎寺村(現在佐賀市金立町)黒土原に朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る法のりの道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲した。

田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。

のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方11キロの大小隈(現在佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。

享保元年(1716年)9月10日田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所八戸龍雲寺。

辞世の歌:

重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵

虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしもの

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