はてなキーワード: 戯画とは
死刑云々は措くとして、例の「真相究明の会」やその賛同者のなかに「教団はあれだけの不可解な事件を起こした。教祖はその経緯について真相を語っているようには思えない。その内心にはきっと謎を解く手がかりがあるはずだ。それを知りたいのだ。これは倫理的な使命でもある」という興味や関心や感情があるとすれば、
それは、
超常現象を「体験」させられた(ある程度の知識と手段があれば主観的な超常現象を経験させることはできる)高学歴の人びとが、「何かとんでもないことが起こった」「この男は解脱しているようだ」「世界観が覆ってしまった」と感じて、教祖を圧倒的に不可解な存在(「すごい」)と感じるようになり、つまり教祖に関心をもち、「教祖の考えこそが世界の鍵なのだ」「教祖のようになって世界の真の姿を知りたい」「教祖に近づきたい」「そうすることだけが正しい生き方だ」と感じるのと似ている。戯画的なまでに。
その意味で、あの教祖はやはり(残念ながら最悪の意味において)稀有な宗教者として生き、死んでいっているように思える。
そして、
それは本来的な仏教のサンガ、つまり「釈迦は悟ったらしい」「わたしたちも悟りを開きたい、けれどどうすればいいか分からない」「釈迦の教えを実践して釈迦の内心に近づこう」「それは正しい生き方なのだ」という運動の発生とも似ている。
あるいは、
神の血を引いているとされる、何の力ももたない人間がすべての権勢を吸引する圧倒的な負圧としてふるまい、その伺い知れぬ「内心」に国民が平伏し生命を捧げてきた国の歴史にも似ている。
もっといえば、
飼い猫の目を覗きこんで、「何かを考えていそうな顔をしている」「きっとこの猫には内心がある」「こちらの思いも通じるはずだ」「心の通いあいこそが尊いのだ」と思う、猫好きな人間にも少し似ている。果たしてその小さな動物に魂や内面はあるのだろうか。
はてなブックマーク - 「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
この記事なんだけど、何だか全然ピンとこない。なので自分の経験を書いてみようと思った。
俺はこの人より10歳くらい上で、出身はもっと小さな市だ。人口5万人くらい。主な産業は当然のように農業。鉄道も通ってないし駅もない。
地元の普通の公立小学校から公立中学校、公立高校、そして東京じゃないけど大学に進学。
中学は荒れてた。中学の歴史上で一番荒れてた時期らしい。眉を剃ったり剃り込み入れたり短ランとかボンタンとかそういう昭和な不良がリアルにたくさんいた。
家から一番近かった高校は自転車で10分かからないくらいのところにある農業高校で、名前さえ書ければ入れると言われるヤンキー高校。
けどそんな中学でも進路指導では普通に大学まで見据えて話をしてた。大学進学を考えるなら公立だとこの高校、県外の私立に入るという選択肢もあるって感じで。
「田舎では大学進学なんて想像の埒外だった」とか言われると「はぁ?」と返さざるを得ない。
大学なんて近所にないし大学生なんて子ども時代には見たことなかったし著者よりも10年近く昔でさらに田舎でも、大学進学は選択肢として普通にそこにあった。
両親共に高卒、親族には大卒もいたけど、そういうのは関係なく荒れた中学校でも進路指導では大学進学も普通に未来の選択肢として考慮されてた。高校の倍率はどこも1.0倍で偏差値で自動的に振り分けるとか、それ本当?
当時の大学進学率を今ググってみたところ短大含めて40%ちょっと、四大に限れば30%ちょいくらいらしい。田舎の同級生を思い返してみると、やや少なめかもしれないけど有意に低いといえるかどうかは微妙という程度だ。
言っとくけど東京と田舎に格差がないなんて言ってない。経済的格差も文化的格差もインフラの格差もある。何しろこっちにゃ駅もない。地元の本屋はここ20年くらいで全部潰れて、残ってるのはブックオフと数年前にできたツタヤのみ。
「外形」とロジックにこだわる増田に質問だが、「優遇」と「不利益」というのは、「外形的に」は区別できないな?
例えば、「レディーファースト」は、「外形的」には女性優先だがもともとは女性に危険の露払いをさせるという「不利益」から生じている。「特別扱い」という意味では、優遇と不利益はまさに外形的には区別できない。従って、それは男性差別ともいえるが同じくらい女性差別であるともいえる。同様に、「女性専用車両」もまた「外形的に」女性優先に見えるが、安心を得るためには特定の車両に押し込められ晒し者にされることを女性に強いているともいえる。つまり、男性に対する差別であると同時に女性に対する差別であるともいえるわけだ。ここまではいいか?
私は「差別に気付いていない人に確認したい」という、まさに増田と同じ動機で増田に確認したいのだが、増田のロジックとまさに同じロジックで、「女性専用車両は女性に対する差別でもある」と認められるよな。社会、あるいは鉄道会社は、専用車両というやり方で差別を実施、または容認している。
私は、「差別」という言葉が、特にそれが社会的・政治的な文脈で用いられるときには、その定義に「不当な・是正すべき」という意味が入っていると思う。辞書を引いても、そういう狭義の意味合いではやはり「不当な」という種類の文言が入っているようだから(※)、これはそれほど不当な定義ではないだろう。よって、「専用車両は差別であり無くすべきだ」という主張に組する者だ(増田は「そこまで主張しない」との立場のようだが)。優先順位の差はあれ、原理的になくなるのが好ましいのが差別というものだと私は考える。
(※「2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。(デジタル大辞泉)」「② 偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。(大辞林)」など)
しかしながら、それが女性に対する差別を無くすという意味を含む施策である以上、当該の差別を被っている女性にとって利益となる方向の対策でなければ意味がない。現状で女性専用車両を無くすことは、多くの女性から「通行の安心」を奪うこととなり、現状で「男性の被るデメリット」がそこまでのものでない以上(※)、トータルで見て社会的に益が無い。従って、「すべての女性が原則安心して通行できる」という形態での「専用車両の撤廃」が目指すべき目標であると考える。すなわち具体的には「痴漢の事実上の撲滅」である。どのような方法によっても、最終的にこれが実現されることが譲れない理想である。その意味においてのみ「専用車両は差別である」という主張は正当であり社会的に有益であると考える。
(※女性専用車両があるせいで「安心して電車に乗れない」という男性が相当数に上るとは思われない。)
しかるに増田は、男性への差別性にのみ着目して、女性への差別性、その解消の必要性に全く言及していない。論理の中立性というのは、一切の政治性によらず、客観的公平に事象を分析することでしか担保できないはものだろう。公平な分析という部分が担保されず、片側にのみ着目する論理は、論理の皮をかぶってはいるものの政治的主張であることを免れ得ない。利益対立する一方を論理の名のもとに分析しながら、もう一方に対して全く言及しないのは、単なる無知不見識では済まされない、論理の誤用・悪用の類である。
さらに、「こうして論理的に分析するのは将来の差別を無くすためだ」と言いながら、一方で「やむを得ない差別もある」という立場を取っているのは、詭弁である。これは、増田自身が言う「将来的な差別」を呼び込む根拠になりかねない重要な、看過しがたい立場である。一体、増田の考える「許される差別と許されない差別の線引き」はどこにあり、その線を決めるのは誰なのか? 増田の恣意?そんなわけないよね。では?
つまり、増田が言っているのは戯画的に言えば「専用車両は差別だって認めようね? うん、でも差別だけど『許してあげるよ』」ということであり、この言葉は二重の意味で間違っていて危険だ。一つには論理の皮をかぶった政治性によって。もう一つは、現状肯定に見せかけた権力性と差別容認への道を開く行為として。
これを分かってやっているとすれば、相当念の入った悪質な主張だ。この件について増田がどのように見解を述べるか、いささか興味もなくはないが、私の個人的な興味よりも、このやり取りを見る方は、増田の応答によって(あるいは応答の「無さ」によって)、彼の主張の真意を見ていただければと願う。
思うに人間の理解能力ってのはあんまりにも小さくて、何かを受け止める事が本当にできない。
それは、いわゆる小説的なテキストを理解する能力が人間によってはびっくりするほど低いってことだけじゃなくて、現実世界で起きてる様々なことを咀嚼して取り込む理解力が根本的にかけているということこそが中心だ。
ごく一般的な人間は、何か事件が起きた場合、その理解をするために、相当に圧縮をかけて、派手な見出しをつけて、感情移入ポイントをマーキングして――もっと粗忽に言うのならば脚色して戯画化しないと、それを理解することができない。
たとえばマスコミのニュースだ。国の政策や予算という、基礎的な情報が全部オープンになっていて、それに対する研究論文が溢れていて、ほとんど正解といえる説が定まっていることでさえ、仕分けだとか節約だとか国民一人あたりの借金だとか、そういう次元に落とし込まないと理解が出来ない。そして当然戯画化されたその理解は、現実の理解としては粗悪品なので道案内としても役に立たない。人間の理解能力は、本当に限定的だ。びっくりするほど限られたテンプレートの、個人の感情ベースのことしか、人間は受け取ることが出来ない。
人間は様々なことを理解できないし、その最たるものが自分の人生だ。自分の気持ちは自分がいちばんよく分かるとか、自分の人生は自分自身で理解できるとか、まるで嘘っぱちだ。人間は五感で入力された情報を99%廃棄しないと理解できないし、それ以上に何か起きた物事をあるがままに受け止める精神的な強靭さにかけている。
ブッサイクに生まれた男がいたとして、その原因は遺伝子とか節制とかあるだろうが、「そう生まれなければならなかった理由」なんてものはない。他でもないその男がそのような顔に生まれつき、そのことで傷つき、劣等感を抱え込まなければいけない理由なんてものは(宗教的には前世の因縁とか解説されるが)存在しない。
人間社会で起きることの大半は、大きな意味で言えば偶然で、要するに運だ。俺が日本人として生まれてきたのは運だし、50年代ではなく70年代に生まれたのも運だ。そういう意味でいまスマホを持っているのも運だし、個人用の飛行車を持っていないのも運だ(もう50年もすれば所持できるかもしれない)。富裕層である場合もそうでない場合も運だ。もし俺が、まだ65歳なのに寝たきりになってしまった要介護の父親を抱えているとして、それもまた運でしかない。でも、ただそれだけのことが、多くの人間にとって正面から受け止められないほどの苦痛を伴う。
人間はそういう世界とか摂理とか人生とか運命の有り様を、本質的には受容できる能力がない。
だから、普通の人間は物語の中でしか、つまり物語という形に希釈した現実でしか、生きられない。納得できない何かを納得して生きていくためには物語が必要だし、そもそも物語がなければ人間の現実把握能力はおそらく犬猫レベルでしかない。脳という解釈機関を搭載している以上、すべての人間は物語の中を生きていくしかない。
そして他人を理解するためにも物語が必要だ。自分の人生ですらまともに飲み干せないのに、他人のそれなんてとてもじゃないが手に負えない。ダイジェストのダイジェストにして、初めて人間は他人の人生に触れることが出来る。あるいはそれはあんまりにも恣意的な抜粋で、もしかしたら相手の気持ちを無視したストーカーの妄想のようなものでしかないかもしれないけれど、人間はそういう形でしか他人の人生に共感することが出来ない。
そういう虚構に虚構を塗り重ねたような先で俺たちは社会を形作ってるのだけれど、その社会がないと現代において人間は人間として生きられない。
人生に物語は必要だ。「人生に物語は必要ないという物語」でさえ必要だ。
唯一の救いは、おそらく俺以外の全員も、つまり全人類がその程度のポンコツだということだ。同病相哀れむとお互い様の間で、よろめきながら存在できるというのは、多分最悪よりはかなりマシな状況だと言えると思う。
今年のキングオブコント、例年と比べても全体的に面白かったと思う。
ただ、かまいたちは優勝で文句ないと思うし、さらば青春の光も高評価に恥じないクオリティだったと思う。
かまいたちのコントのお約束を逆手にとったトリック、さらば青春の光の演技力、
そんなこんな盛り上がった大会だったが、ひとつ気になったのは、ゾフィーのネタが「プチ炎上」したという話だ。
ネタをざっくり説明するならば、母親が家出してしまい、息子と父親が「なんで出て行ったんだ!」とか、ありがちな言い合いをするのだが、
息子が「母さんがいなかったら誰がメシつくるんだよ!」「メシいつ帰ってくるんだよ!」とどうも様子がおかしく、
「母親=メシつくる人」としか思っていない発言を繰り返し、その異常さに父親がツッコむという構図だ。
順位は振るわなかったが、個人的にはもう「メシ」というワードだけで笑ってしまうくらい面白かった。
なぜプチ炎上したのかと言うと、「母親=メシつくる人」という設定が「不愉快」「笑えない」という声が挙がったかららしい。
まあ、「母親=メシつくる人」ってのは勿論ヤバい認識なわけだが、ヤバいからこそ、それを笑えるのではないのかね。
あのコントはあるあるネタではなく、「こんな奴いるわけねーだろガハハw」と笑うネタだ。
お笑いなんてのは大なり小なりマジョリティから外れた何がしかを、笑いという形で消化し楽しむものだ。
あのコントが「笑えない」ということで消化不良を起こしているのだとしたら、そんだけ「笑えない」普通のことになってしまってる、ってことかい?
その現状を笑いに変えることもできないくらい気力も体力も残ってないくらい疲弊してるってことかい?
ちなみにお笑い畑での炎上といえば、保毛尾田保毛男が復活し、炎上した件がある。
むしろこっちの方が大炎上なのだが、あいにく放送を見てなかったうえに世代じゃないこともあってか、ゾフィーの件のほうが先に耳に入ってしまった。
何を笑うのか、何なら笑っていいのか、ということに関して、両方とも根っこは同じ問題なのかなぁ、と思っている。
保毛尾田は性的マイノリティを徹底的に戯画化しているが、時代的にはもはやマイノリティがいることは当たり前、偏見を抱くほうがおかしいというのが潮流だ。
「ホモ=青髭で気持ち悪い喋り方」という設定が、すでに時代遅れである今、むしろこんなもの笑い飛ばしてしまっても良かったのではないか。
ゾフィーは今回のネタで、いわば専業主婦幻想やら女性蔑視といったものを笑っていたように思う。
これも同じく共働きなんぞ当たり前のこのご時勢でいまさら何を言っているんだと笑い飛ばしていいのではないか。
両者がこうして炎上してしまう現状を見るに、どちらも思っているほど解決してない、ってことなんだろうか。
トレンディエンジェルがそれなりに人気を得てきたように、ハゲは笑いになる。
タイムマシーン3号が賞レースに名乗りをあげてきているように、デブは笑いになる。
でも、これらも程度の問題でしかなくて、何か潮目が変わった途端に笑ってはいけないものになるのかもしれない。
何なら笑っていい、ということが時代の流れで変わっていくのだとしたら、お笑いというものは本当に難しくなってきているんだなと改めて思った。
もしハゲもデブも笑ってはいけないとされる時代が来たとき、僕は何を見て笑っているんだろう。
なんかひょんなことから月蝕歌劇団の公演を観てきた。
『怪人二十面相 黒蜥蜴復活篇-ガス人間第二号とフランケンシュタイン-』
『ピーターパン 月蝕版』
自分にとっては初めての月蝕歌劇団。
忘れてしまわないうちに記憶を記録に変えるため、レビューを残しておくことにする。
(月蝕歌劇団を知らない人は目の前の箱でググってほしい)
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■全体として
これ、過去の演目を見る限り、そう間違ってはいないはず。
自分のボキャブラリでいうと、ボルヘス、池澤夏樹、イタロ・カルヴィーノ、筒井康隆、このあたり(マルケスは積ん読状態なので知らん)。
『怪人二十面相』やら『ピーターパン』やら、もとからマジカルな舞台設定の既存作品をさらに2つも3つもカットアップ、マッシュアップして、"魔法世界の中で、さらに有りえねぇ超現実が起きる"ある意味なんでもありの“ごった煮”的な世界設定を作って、舞台の制約が許すかぎり絢爛豪華なスペクタクルに仕立てる。
で、そこに昭和風俗をまぜ込んで(たとえば突然、山口百恵のワンフレーズが出てきたり、吉本新喜劇的なシークエンスが乱入してきたり)、さらに'60年代新宿のアングラシーンの楽屋オチ、「唐十郎と李麗仙が~」みたいなネタをチクリ、チクリと混ぜ込めば月蝕歌劇団になる。
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あと、これはどうかな……はずれてるかもしれないけど。
60年安保、70年安保的な新左翼の臭いと、その文化の“祭りの終わり”みたいな寂寥感が通底しているような気がする。
自分が当時のアングラシーンの空気と政治的な空気を混同しているだけかもしれないけど。
でも、“岸信介”とか、“ロシア革命”とか、そういうワードはちらほら出てくる。
2演目とも、終盤クライマックスにマシンガンの乱射をきっかけに急速に話が収束するところも、かならず流血をみるところも、まあ、ほら、いろいろと。
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ともかく自分にとっての月蝕歌劇団はそんな感じ。
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あと、演目の間に『詩劇ライブ』というのがあって、基本は歌唱ショー。短い芝居と群舞。
キャストの紹介も兼ねている、のかな?
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良かったかって? うん、良かった。
ただね。
大正末期(1910年代)の冒険小説、明智小五郎シリーズが戦後(1945年~)に伝奇ロマン化したものをアングラ時代(1960年代)の空気感で舞台化しようとして、当時の若手(高取英、1985年)が古豪となって2017年に上演した作品世界に、どの時代の気分で接すればいいのか、混乱するところはあった。
寺山修司とかが登場する楽屋オチに、どの時代の気分で笑えばいいのやら。
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良かったところは……、
舞台は超現実的なんだけどプロット自体は、なんというか、それぞれの人物群が自分たちの課題の解決を目指して動くような、破綻も不条理も無いオーソドックスな作り。
ときどき舞台袖で狐舞が始まったりとか、解釈に困るような隠喩的な演出が入るほかには、ストーリーを楽しむのに支障はない。
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くわえて、これは自分が舞台観劇の初心者だからだろうけど、衣装と舞台と演技と、つまり色々と作りこんだ箱庭を見ているような感覚。
これが新鮮。
そりゃ、どんな超現実もCGでリアルに作ってしまうハリウッド映画はすごいけど、いっぽうで、いろいろと“作りもの感”のある世界を、19世紀の見世物小屋のパノラマのぞき窓みたいに見ている感覚が良い。
(どうしても想像できない人は、映画でいうと
あたりを思い浮かべてください)
同じビジュアルスペクタクルでも、モデリングとレンダリングが古びてしまったら一気に観る価値がなくなってしまうVFXではなくて、どんなに古びても観ていたくなる、吊り操演とミニチュアと火薬の特撮みたいな。
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で、そこに少女歌劇団(厳密には若手女性主体の歌劇団)の、なんというか、キャッキャウフフ感がのっかってくる。
実際、終演後にはチェキの時間があったりと、アイドル公演的な。
(昨年だか一昨年だかに『アリスインデッドリースクール』を観たときにはチェキと握手会があったけど、そういうのって少女演劇のスタンダードなのか?)
というわけで、全体として
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1)呪術的なストーリーテリング
2)箱庭的な幻想感
3)若い娘さんたちが頑張ってる感
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が、それぞれX軸、Y軸、Z軸に広がって立体的にホンワカした気分になってくる。
これで役満。いい気分。
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■岬花音菜
歌、ダンス、芝居、3枚そろって超人。
もともと彼女がアンテナに引っかかったから舞台を観に行ったわけで。
行く前は「ひょっとしたら芝居が弱いかなー」と思ってたけど、そんなことはなかった。
純朴ショタ(少年探偵団の小林少年)からガラッパチ女子高生まで演じ分けていた。
いま確認したら、全体の振り付けもやってる。スゲェよこの人。
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■白永歩美
上に書いた岬花音菜嬢がトップか一枚看板かと思ったら、すごい人がいた。
白永歩美。
OG客演なのか、現役トップなのか、よくわからん。(そもそも一般的な意味でのトップと、月蝕歌劇団の“ヒロイン”とか“トップ”の意味が違うのかもわからんが)
動いて良し、喋って良し、歌って良し。加えて舞台向きの強力な眼と唇、長い手足その他ビジュアル。
ピーターパンになって最後は飛ぶ(榊原郁恵ばりとは行かないけど)。
普段は何やってる人だ? 専属か?
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■白川沙夜
コメディ、アクション、ストーリーテリング、怪盗紅あざみのパートはほとんど彼女一人で回していた。
アンサンブルも彼女が周囲をブン回している感じ。(いや、周りが抑制しているのか? そこまでの鑑賞眼は俺にはない)
イヤそりゃ紅あさみ役なんだから当然といえば当然なんだけど、そういう長時間の高負荷に耐えられるキャストなんだから、信頼性の高い人なんだろう。
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■新大久保鷹
で、この人。
発声から演技まで、一人レベルが違った。
いや、レベルというのとは違うな。
キャラクターの性格と感情と現在の意図がわかりやすい、演劇らしい演劇をしていた。
キャリアの違いか。
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■河合瑞恵
この人というか、この人を見て思ったことを書く。
河合瑞恵さん、男役として帝国軍人とラスプーチンを好演。なんだけど、それとは別に幕間のライブで『夢は夜ひらく』(藤圭子)を歌っていて、これが実に良かった。
そこで気が付いた。
いや、大人の女性のキャラクターは出てくるのよ。でも、『二十面相』の誘拐少女の母親にしても、『ピーターパン』のアレクサンドラ皇后にしても、設定上の年齢よりは10歳か20歳は若いキャストが演じてる。黒蜥蜴も紅アザミも、おそらく。
少女とショタと男役とサポートの男優だけで構成されていて、大人の女性の存在がすっぽり抜け落ちてる、この劇団。
いつもそうなのか? そういうコンセプトなんだろうな。暗黒タカラヅカだし。
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■嘴音杏
上手い、凄い、空気も変わる。専業で本業なんだから当然か。
ただ、ほかのキャストが黒を基調にした演出で、おそらく劇団のストック音源をバックにJ・A・シーザーの幻想世界や女心とかを切々と歌ってるところに、パーソナルカラーの赤コルセットと赤ドレスで生バンドの高音質2MIXをバックにブルースをゴリゴリ歌って月蝕歌劇団を3分間だけ痴人倶楽部にしてしまった感じがする。
良いか悪いかは別として。
芝居は。んー、良しあしが言えるようなキャラクターじゃなかった。
政治的に正しくない、だけど、ある意味では由緒正しい戯画化された“インディアン”だったので。
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明智小五郎+α役。オフの顔を見たら、アラかわいいお嬢さん。ベテラン主体の劇団だったら、小林少年をやっててもおかしくない。
客演らしい。
「美丈夫ですか? やりますよー」といってこなせる彼女みたいな人が、実は隠れた高能力者なのかもしれない。
だってあれよ? 明智小五郎と黒蜥蜴といったら、つまり天地茂と丸山明宏よ? そういうダークで苦みのあるキャラを演じて象徴的にせよベッドシーンまでこなす。役者ってすごい。
そういえば高畑亜美さん。一緒に観劇した元同僚が「あの黒ボンデージの人は役者魂を感じる」と言っていた。
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■北條華生
緊縛師をエキストラで連れてきたのかと思ったら、そのままシレっと芝居を初めて、V・フランケンシュタイン博士を演じきってしまった。しかもうまい。
調べたら緊縛師ではなくて緊縛もこなす役者さんだった。みんな多芸なのね。
吊るしのとき、役者の影で見えなかったけど、1/2なり1/3なりのプルアップ・システム(滑車みたいに距離2倍、荷重1/2にするロープワーク)をやってるはずで、一瞬、芝居が停滞したように見えたけど、あれでも相当手際が良かったんだなと後から思った。
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■はるのうらこ
北條さんのロープワークもさることながら、吊るしというのは吊るされる方にも技量がいるわけで、ハーネスをガッチリつかんだまま気絶するという難しいことをやっていた。
男役。
悩める青年将校をきっちり演じきっていたけれど、華奢なのはいかんともしがたい。女性役であらためて見てみたいと思った。
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■中村ナツ子
な!に!も!の!だ!? こ!の!ひ!と!
Web/エディトリアルデザイナー、ライター、イラストレーター、Photoshopper。
チャラっと調べてみたけれど、原稿(というか体当たりルポ)もロゴデザインも依頼主のテイストに合わせて手堅くこなす。
役者で声優。前説もこなす。となりの知乃さんにも目配りしながら観客席と当意即妙のやり取り。
舞台にも立つ。しかも端役じゃなくてしっかりスポットのあたる役どころ。
これでJavescriptとSQLが書けたらホンマモンの超人や。
こういう人が一番まぶしい、そして怖い。
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足りぬ足りぬは工夫が足りぬ。いやそうなんだけど、せめて南部十四年式拳銃は用意してほしかった。ポスターにもあるんだし。
ネバーランドの崩落シーン。大道具の意地と苦労がしのばれる。というか、そのための柱だったのね。
周囲の柱といい、中央の小部屋といい、随所に設けられたピットといい、演目に合わせて必要十分な空間の設計がなされていることに、いまさら感心する。
意地と苦労といえば、ピーターパンの飛行シーンも、無くても成立するだけに、「これをいれねば!」とウィンチを仕込んだ意地と心意気がうかがえるよなぁ。
ところで、いま調べたら、中央の小部屋は常設みたい。
なるほど、上手と下手のほかに中手があると、バーン! と登場するシーンとかに便利だよね。
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『絶対運命黙示録』『私の中の古生代』(←だったっけ?)しか知らなかったんだけど、「ほかにどんな曲があるんだろ」と思ってたところ、つまりはこれこそがシーザー節だった。
主旋律の音域を広く取ってロングトーン多用おまけに変拍子の幻惑的なスタイル。
これがそのまま歌手泣かせの難易度となって跳ね返ってくるわけで。ノリで合わせていたら絶対にロストする、ブレスで死ぬ、超絶覚えゲーみたいな世界。
こりゃ役者さんが大変だろうと思った。
あと音でいえば、既成の歌謡曲のダビングもの、J・A・シーザー氏の打ち込み音源、ボーカル無しで舞台で歌うもの、ボーカルありの既成曲で舞台でも歌うもの、マイクあり、マイク無し、古いローファイ音源と新しいハイファイ音源、とバラバラのチグハグだったのが気になった。
歴史の長い劇団だから地層のように多種多様な音源が混ざってるんだろうと想像するけど、どこかで専門家がDAWで新録して整理しないと、大変なことになると思う。
あとマシンガン銃声のポン出し、キャストにトリガーを渡せるような仕組みはないものか?
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……んー、こんなところか。
機会があったら、一度は観てみても良いと思います。そこでハマるかハマらないかは、あなた次第。
自分? チャンスがあったら、もう何回か行こうと思ってる。
https://togetter.com/li/1141490
コイツ何を言ってるんだYO!と思ってブコメを開いたら、全然違う角度から反論されてて、更にみんな何を言ってるんだYO!と思った。
ミソジニーだ何だと言って反論してる人たちは、この話を次のように読んだんだろう。
「男の性欲が無ければいいのに…」と女が思うことがあるかも知れないが、それは間違っている(経済が回らないから)。
確かにそうとも読めるが、あくまで作者は「性欲がない世界」を戯画化しているつもりらしいので、これは男とか女とか一方の性欲についての話ではない。だからこの読み方は間違っている。(こう読めてしまうから拙いという批判は十分に成り立つ)
改めて言うが、恐らくこの漫画が目指したのは「性欲がない世界」。だからこれは「性欲一般がなかったら(例えば)経済が成り立たない」という話だ。(恐らく)
人間が色んな活動をする上では、意識していようがいまいが、実は性欲が大きな役割を果たしている、という考え方がある。人には生まれながら性欲があるが、性欲を性欲として満たすことができないときはその欲求が抑圧され、別の形の欲求として様々な活動の原動力になる。勉強とかスポーツとか芸術とか……ていうか人間の活動殆ど全部それじゃね??という考え方だ。((もちろん、性欲という言葉で普通考えられてる現象には幅があり過ぎるので、よくよく考えると、ちゃんと定義しないといけないけど、まあいいだろ))
これは、恋愛と性欲を結びつけることにすら抵抗を感じる人には、全く受け入れられない考え方だろう。だから、そのように性欲をナイーブに扱いたい人たちは冒頭のように「誤読」してしまったのだろう。
とにかく、この漫画を描いた人はこうした考え方をもとに描いているようだ。しかし、だからといってこの漫画に問題がないわけではない。だって、みんな性欲ドリブンなのが前提なのであれば、経済がどうこうどころか、性欲なしには殆どの人間活動を想定できないから。
まあ、たぶん男の性欲が高級バーやブランドやその他諸々を支えているというのは性欲がない世界のある種の比喩として書いたんだろう。だが、比喩としても不適切だし、比喩が比喩として伝わらないのも不適切だったといえよう。
結論。誰に何を噛み砕いて伝えようとしているのかが不明なまま噛み砕くと、結局何だかよくわからない唾液まみれのものが出来上がる。
このところ永劫回帰のようにエロ表現における争いが繰り返され、オタクとフェミニストのラグナロクは永遠につづくかのようにおもえる。
これだけやりあっていれば普通はたしょうなりとも相互理解というものが生まれるものであるけれども、それはリアルな論戦の話なのであって、不特定多数が不特定多数に対してやたらめっぽうに機関銃を撃ちまくるインターネット塹壕戦ではただ人が死ぬだけであり、平和条約は結ばれず、ただ人が死ぬだけであり、憎しみは連鎖し、ただ人が死ぬだけである。
毎日がソンムの戦いだ。
オタクとフェミニストはそもそも互いに互いを認識しているのだろうか?
フェミニストが「えっちなのは子どもによくない」と言い、オタクを宮崎勤と池田小のやつとエド・ゲインを足してニで割ったような怪物として罵る。
オタクは「表現規制をするな」と言い、フェミニストを権力によって表現の自由を、人間の尊厳を奪うヒトラーの再来として恐懼する。
彼らにはそれぞれ「何」が見えているのだろうか。
1950年代にPTAが中心となって展開されたマンガに対するバッシング運動だ。
暴力的な表現、子どもの情操に悪そうな表現はこどもに見せるべきでない、というスローガンのもとに当時芽吹きつつあった劇画や手塚治虫などを中心として爛熟しつつあったマンガ文化に打撃を与えた。
これによってオタクたちはDNAレベルで、「(残酷だったり過激だったりする)マンガを『わるいもの』として非難するのは保守派のファシストのおばさんたち」という了解が植え付けられたのだ。
なぜ戦争を二十年で忘れることのできた民族が六十年前の、教科書にも載っていない出来事を記憶しているのかといえば、それは語り部が優秀だったからだ。
悪書追放のやり玉にあがった漫画家たちはのちに大御所となって「漫画文化の立役者」として官民両方から賞賛される身分を獲得しても、悲惨な迫害を忘れなかった。
彼らはそのときの体験をエッセイ漫画にしたり、ことあるごとにマンガのネタに織り込んだ。
そういうものを読んだ後進の世代は「今は平和にマンガを享受できている国なのに、過去にはこんな悲惨なできごとがあったんだ!」とショックを受け、苦難の記憶を継承し、そのうち漫画家となった人々は「マンガや表現を悪と呼ぶわからずやな大人」たちを戯画化して描き続けた。先人たちを見舞った悲劇を繰り返してはならない。そう彼らは叫び続けた。
悪書追放運動の記憶の継承は、歴史上のあらゆるトラウマ継承運動のなかでも最も成功した部類に入る。それはオタクが長らく被差別民だった(と少なくとも自分たちでは認識していた)せいもあるだろう。
そういうわけで、マンガの守護者たちの末裔たちは今でも各所に見ることができる。ちょっと前にもあったよね。ほら、『マンホール』描いた人の……なんだっけ、なんとか都市ってやつ。
さて、戦争から七十年も経てば、各国家における仮想敵も大きく変わるものだ。アメリカがWWIIでは影の薄かった中東を主戦場とするようになって久しいし、そのアメリカとかつて世界を二分したソ連は国ごと崩壊してしまった。
だがオタクたちはずっと敵は「既存の道徳にしばりつけられた保守的で道徳的なガミガミおばさん」のままだと思い込んでいる。自分たちの敵はヒトラーであると叫び続けている。
「反表現規制」の旗のもとに団結しているオタクたちに比べて、そもそも男性と男性社会そのものを憎悪してやまないミサンドリストからオタクとの対話を求める層までほとんど分裂状態の様相を呈していて、
そうなったときにクローズアップされがちなのはラディカルな発言だ。
しかしオタク側が言い募るように彼女たちは「こどもたちを歪ませる」表現を憎んでいるのではない。
日本にかぎった話でもないかもしれないが、マスメディアやサブカルチャーにおける性的(エロという意味に限定されない)表現や言説は男性中心的な傾向が強い。
ふた昔前はテレビで女性がおっぱいをエロティックに晒すなんてのはゴールデンタイムにすらみかけられたし、
そこまで過激なものでなくとも、女性に対するセクハラめいた言動が「ジョーク」として受容される環境があった。
それはジャンプなどの漫画メディアにあっても同様で、男性読者からは「問題ない」描写、ジョークとしてスルーされる描写であっても、そこに女性に対する男性的な欲望、ひいては暴力を読み取る多感な少女は数多い。
そういうものがある種の社会に対する不信となって根強く彼女たちの底に残る。
男は言う。いや、あの程度の表現で傷つくのはあまりにか弱すぎるだろう。自意識が過剰すぎるのでは? たんなる一過性のメンヘラでは?
少女たちはテレビやマンガを消費するには、あまりにもセンシティブすぎるのだろうか?
一面にはそれもあるかもしれない。しかし、傷つきやすすぎることとの何が問題なのか?
刃のついた表現が現実に存在し、それで傷つけられる肌が現実にある。
何も知らない無垢な肌が刃に触れたときに血が出るのだとして、たしかに近づいてきたのは肌のほうかもしれないが、刃の危険性も知らないものにあらかじめ避けておけばと非難するほうもどうかしている、根本的に事故を防ぐためには刃のほうを鈍らせておけばいいのでは? 自動車会社などはそうやって事故を軽減しようとつとめているだろう?
私たちは次の世代を「正しく」育てようとは思わない、ただ、不慮の事故から守りたいだけだ。
傷つきたくないこと。傷つきたくないこと。
そういう意味では、オタクが表現規制運動の歴史を語りつぐことと少し似ている。
フェミニストの場合はあまりに内部で混乱しすぎていて、個別の問題の何が問題であるのか、その問題をどう解決していくべきなのかで定義の統一がはかれていないことだ。
これは攻める側の弱さでもある。
守る方は現状を維持しさえすればよく、つまりは「表現規制反対」に各員の意志を集約させればよい。
だが、フェミニスト側は具体的に個別の問題のどこをどういった理由でどう修正していけばよいのかまでを提示しなければならず、これに関する意見を調整出来ない場合、もっとも極端な意見ーーすなわちオタクたちが最も恐れる「全面的な表現規制」が対立を煽る人々によってショーアップされてしまう。
そうなってしまえば、あとは殺し合うだけだ。
彼らはお互いに敵を「保守派」として捉えている。
オタクの眼に映るフェミニストは「道徳を重んじて表現を認めないファシストガミガミおばさん」
フェミニストの眼に映るオタクは「男性社会の無思慮な暴力を肯定しつづけるレイピストクソ野郎」
ここでは、もはや誰が敵か味方かもわからない。
もしかしたら、敵も味方もいないのかもしれない。
みんなが盛り上がっていたので、ファインディングドリー以来、久しぶりに劇場に足を運んだ。以下ネタバレ含む感想。
・くっついた
新海誠は、恋愛映画は最後に二人をくっつけた方がいいとようやく気づいたらしい。
・人以外の絵が綺麗
彗星とか。ご神体の盆地の外縁からの景色みたいな壮大な絵を無理矢理シナリオに盛り込むのも良い。
上映開始前に下らない話を大声でひたすらに続けてくれたお陰でテンション最悪。おっさん本人は片割れに対するひょうきんな俺アピールのつもりだったのかもしれないが、あれは公害以外の何物でもなかったし、おっさんじゃない方は保護者としておっさんを即刻つまみ出すべきだった。上映中もうるせーし何だったんだあの豚。
・手の動き
・主題歌
前前前世がどこで流れてたのかわからなかった。寝てないのに不思議。
実態に即しているかは不明だがリアリティを感じた。各人物の無能有能度合いも極端でなく、戯画化の度合いがちょうど良い。このパートがあんまりにも面白かったので、特別な事件が起きない架空内閣の成立から解散までをだらだらやってくれるだけの映画を見たい。誰か撮って欲しい、もしくは既存の作品を教えて欲しい。
各シーンを地理的に把握することが容易で、感情移入も楽だった。蒲田が吹っ飛んだ時は、蒲田在住の姉に心の中で感謝した。
・ゴジラが怖い
今までに見たのはビオランテ~デストロイアまでの作品だけで、その実内容を殆ど覚えていない。ただゴジラを怖いと思ったことは1度もなかったし、戦隊のロボ戦と区別していなかったと思う。翻って今回、ゴジラが動き、道路や家屋が吹き飛ばされ、都心が赤く染まる光景は心底恐ろしかった。多分それまでの過程で作品のリアリティのレベルを上げるよう苦心した結果だと思うんだけど、これが本当に新鮮で驚いたところ。ジュウオウジャーも週一くらいのペースで大惨事が起きてるんだけど、あれはリアリティを低く保ってるからストレスにならないんだなと改めて気づいた。
石原さとみは別に悪くない。通勤中東京メトロの看板で顔を見かける度にストレスが和らぐし、総監督もそういう狙いがあったんだと思う。
・OP
冒頭は石田がカレンダーでカウントダウンを始める下りから。その後は軽快な音楽にのせて石田と島田と島田じゃないやつの関係性をモンタージュで表現しながら右から左にジャンプしてる例の構図でタイトル。最高。
・永束
一番最初に×が剥がれる人物。登場時点で石田に十分感情移入していたため、終始好感の持てるキャラ。永束も石田によって救われているはずなんだけどそれをあまり意識させない。いわゆる天使。
・結絃
みんな誉めてるけど気にせず誉める。完璧な仕事をした。君の名は。ではどうでもいい仕事をしていたけど差し引きでも大幅にプラス。
・取捨選択
この映画は石田が主人公で自他との関わりがテーマになっている。元々原作者は恋愛ジャンルを標榜していないが、映画はさらにその手の描写をオミットしている。例えば植野の石田に対する感情は原作と変わりないのだが露骨な表現をほぼ削り落としている。寝込みも襲わない。それはラストの違いにも象徴されるように石田西宮間でも同様であり、結果として上手くテーマにフォーカスすることに成功していると思う。恋愛はコミュニケーションの一形態ではあるけれど、一形態にしか過ぎないので。石田や西宮の行動についても、原作では読者が意図を解釈しづらかった部分がスムーズに把握できるつくりになっている。シナリオ各所でなるべく台詞での説明を廃して絵と音で観客に理解させようという姿勢が見てとれて、全7巻の原作を2時間に落とし込む上での問題を上手く解消している。キャラの細かい仕草に気を使って意味を持たせているので何周しても損はしないタイプの映画。川井は描写が減った結果存在が若干マイルドになり、西宮への叱咤を観客が受け入れやすくなった。植野も同様。真柴は少しかわいそうだが本領を発揮されても困る。原作自体が優れた作品だったが、それを2時間の映像作品として昇華した結果一回りも二回りも質が上がった。意義のある映画化だったと思う。
・鯉
パンを食べさせ過ぎて怒られそう。
「休眠」という概念(そして、一定時間後に活動再開するということ)が、確定的に言われたのはお話のどの時点だったか、もう一度確認してから書いてください。増田の話は全て「休眠してる」ことを前提に成り立っているけど、それはストーリー上どの時点で「確定」していたか? せめてパンフレットが手元にあればそれを読み返してから返事してみてください(こちらはそうしてます)。群体化、有翼化の危険が指摘されたのがどの時点かも含めてね。
群体化、有翼化の意味、本当に分かっていますか? 細胞レベルで増殖していく生き物が、翼をもって世界中に拡散する、それはもう人類滅亡に近い危機なわけですよ。それに対して政治的にどうとか考えている余裕がありますか?「まとまってるうちに一撃で全部焼く」のは、少なくとも一つの見識です。ミサイル攻撃には意味がないと何度も繰り返し言ってるのは、今はゴジラという個体の「破壊」が目的じゃないからですよ。どんな物質であろうがバラバラに気化せざるを得ないような圧倒的な高温で一気に全てを「焼く」。水爆は、最初に実験された10メガトンの爆弾で、島一つを文字通り「蒸発」させたそうですが、細胞レベルで増殖し進化する生き物に対しては「破壊」ではなくそういう「圧倒的な熱による攻撃」しか対処方法がないという判断です。巡航ミサイルの「力」とは、そもそも質的に違うのです。
ちなみに
については、「大陸間弾道ミサイル」は基本核弾頭なので、それをいうならトマホークとかの巡航ミサイルとかかな、と勝手に解釈して変えていますよ。
この世界は未知の存在や事象に対してもまるで抵抗なくスポンジのように受け入れているのも違和感丸出し。
リアルさの欠片も無い、ゴジラみたいなのが現実に現れて、そこにいたとしても存在を容認できずにパニックになる人間が出てこない。
それはさすがに官僚・政治家という人種を知らなすぎると思いますね。作品冒頭にも一種コミカルなほどリアルに描かれていましたが、仮にゴジラが登場しても「防衛出動だろうか、有害鳥獣の駆除でいけるだろうか」と真面目に議論するのが官僚・政治家という人種なんですよ。現実を徹底的に書類の束の中に落とし込んで「会議室の中で全てを片付ける」存在が彼ら。それを「ナチュラルに狂っている」と言うのは別に間違っていませんが、そういうナチュラルに狂った人間じゃないと国家なんて巨大組織の運営に関わることはできないんですよ。あなたはたぶん実際の中央官僚・政治家を見てもバリバリの「違和感」を感じるのでしょう。
それならあのデモの描写はどう見たのでしょう? ただのお休みシーンだと思いましたか? あそこで「多数の人々は右往左往して訳わからなくなってる」ってことは十分示されていましたよ。ここにもまた増田の見落としポイントがあったのですね…。
多くの霞が関の中関係者から、あの映画が、戯画のように見える点も含めて可笑しいほどにリアルだという評のあることを知っておくべきです。増田が何歳でどういう立場の人間かは知りませんが、官僚・政治家と日常的に付き合わなくて済む立場の人なのでしょう(それはそれで幸せなことではありますが)。ですが世の中にはああいう世界が実際にあって、そしてそれぞれの立場で妙に純粋だったり真剣だったりしたノリで「国」を背負って仕事をしている、そういう人らが実際にいるということは、後学のために知っておいた方がいいと思います。まさにまずその認識からすり合わせて欲しい点ですね。
ご都合主義を排するというのは確かに名作の条件。だが同時にシン・ゴジラが名作である条件として「行動できちんとキャラが立つ」という点も指摘しておきたい。たとえばゴジラへの攻撃を例にとって言えば、
避難する一般人(ばーちゃんを背負うじーちゃん…)を見て攻撃タイミングを逸する「日本政府」
これはもうやむを得ない。この国は戦後ずっとそういう建前でやってきてその頂点にいる人があそこで人命軽視の判断したらリアリティがない。パシフィックリムの1作目で「怪獣の近くに漁船が…」→「構わん、やれ」みたいなやり取りしてるのを見ると、「ああ、アメリカさんね」と思うあの感じ。ここは"ニッポン"で、prime ministerだからね。仕方ないわね。というカヨコさんの声が聞こえてきそう。
これも、「一発も外さない」という「本質ではない部分の質を高めること」に終始して、「成果をあげる」という本質をついた発想から逸脱している軍隊を戯画的に描いている。ぶっちゃけ、手りゅう弾の外郭に瀬戸焼の上物を使ったり、小銃をピカピカに磨き上げることに必死になってた旧軍と、いまだに大して変わらない日本人の悪癖をよく描いている。そのせいで引き際を見間違えて無駄な犠牲を兵に強いるところまで、旧軍から変わってないなと思わせるシーン。現場の一人一人が少し呑気だとか、「訓練通りにやれば大丈夫だ」とかの無意味な楽観主義とか、でも一人一人は仕事にあたってはホントに真面目だとか(でも報われないとか)、まあいろいろな実態を踏まえて、よくまとめて描かれているなという印象。
それに対してB2(だっけか?)つかってバンカーバスターぶっこむ米軍の「兵の安全優先」「容赦なく物理重視」的攻撃は実に米軍らしい。結果論とはいえその『後始末の悪さ』も含めて、実に米軍らしい。そもそも、バンカーバスター用意している時点で「通常兵器はたぶん効かない」という予測があっただろうに、自衛隊になんのアドバイス・情報提供がなさそうなところといい、自衛隊のことをぶっちゃけ『自分らが使い捨てできるコマ』かおとり部隊だと思ってるよね、みたいな。日米安保下の日米関係に対する皮肉を込めて、リアル?あるいは巧みに戯画的に描いているなという印象。結局「9条砲(=「日本は戦争しません」アピール)」ってほかの何よりもまずアメリカに向かってるんだよねーっと思う。
生物として、ある方向に進むという動機不明な「意図」をもつだけで、積極的な意志をもった攻撃姿勢を見せないゴジラの「生物としての在り様」がまことにゴジラらしい。それが人間の作り上げた都市にとって壊滅的な打撃であることも含めて。「腕をふるってビルを壊す」とかそんなシーンもない(そもそもふるえるほど手が大きくない)。ビルは歩いていてただぶつかるだけのしかかるだけで壊れる。見ようによっては、あまり大きく物をつぶさないように歩いているとさえ見える。巨大なしっぽも、地面を薙ぎ払うでなく、躾の良い健康なワンコのように宙に浮かせてる。中盤の大破壊だって、背中にバンカーバスター撃ち込まれてびっくりしたからだし、ビームだって飛んでるハエを払う程度の反射的行動として描かれている。つまり「生まれたての、ただの無邪気な生き物」としてキャラ立てされつつも、その一方で振る舞い自体はさながら破壊神か悪魔そのものにしか見えない…という高難度な演出をしているところは高く評価したい。『あくまで受身だが、こちらから手を出せば出すほど災厄そのもの』。だからこそ、ゴジラが「世界が手を取り合って解決すべき課題そのもの」として立ち現れてくるという仕組み。すげーな。
…と、たとえばゴジラの攻撃シーンだけをとっても、皆のキャラが立ちまくってる! こういうところも、やはり名作の条件なんだと思った次第。
http://anond.hatelabo.jp/20160813162338
ついでながら、こういう風にあの映画を見た自分から見ると、キープレフトな方々の一部から出ている批判に「ああやっぱり『政治』の世界に『表現』の味方などいないんだよな」という感想を抱いた。結局、作品や作家そのものに寄り添うということが全然できないで、自分らの立てた運動綱領とかが全て。でも、それはもう直しようがないんだろうね。「『人間』を信じましょう」という、あの一言が彼らからは出てこない。それがなければ、たとえば新興宗教と比べて、その主張に何の違いもないというのにさ。ダメだよほんと。
まずはじめに、(対価のない)残業とか長時間労働は、悪であるっていうのは異論がない。
じゃなんでこんなドラマ作ってるんだよ、糞野郎死ね、と言われれば反論のしようがないんだけれど視点の補足として2点ほど足したい。
ひとつめは、僕等としては残業を戦いたいわけじゃなくて苦闘みたいなものを描きたいんだよ。物語上の要請として、成功や勝利の全段階として、苦戦や熱戦の描写が必要だ。これは物語設計上の問題なので、もう、どうにもならん。エンタメとして人間が楽しめるパターンは限られてる。難問の提示→工夫や挑戦→解決(勝利)という構造は、壊せない(壊してもいいけれど、エンタメとしては大衆に訴求できなくなるだけだ)。
もちろん、「苦闘」という抽象的な設計要請を「長時間労働やブラック労働描写」にする必要はない。感情導線を作中のどういうエピソードとして描くかは、作者(この場合脚本家か)の腕の見せ所だ。他の苦闘描写にすればいいじゃねえか、と言われれば、Yesだ。それが視聴者や読者に不快しか与えないのは、作者側の技量不足、というほかない。という原則論を先ずは掲げておき、次には「じゃあ、現代日本の作者の平均的技量はどうか?」という視点で見てみると、例示されたテレビドラマの脚本家が著しく能力に劣るとは思えない。「家を売るための工夫」みたいな部分で、じゃあ他にどんな描写が出来たか、新素材開発の技術者敵苦悩? 銀行の根回しの政治闘争? どれも尺的な問題や、他のドラマ部分との整合性で難易度が高そうだ。もちろんそういった変わったエピソードを迫真性を持って描ける有能な作者もいるがそれは平均レベルではない。
(すべての作者や脚本家は有能であれ! という意見は一理あるが、それが現実の社会で実践できるかは、増田全員が自社や自分の身の回りを見回せば納得してくれると思う。創作者の世界だって、有能な人間の割合は変わらないのだ)
二点目の問題として、「このシーンは苦戦、苦闘のシーンなのだ」というのを視聴者に伝えるエピソードとして、ブラックな労働というのは、視聴者からみて「理解可能」なのだ。作家(脚本側)は、この「理解可能」という制限範囲内でしかものを作れない。その範囲を超えてしまうのは、芸術としてはありかもしれないけれど、大衆エンタメとしてはNGだ。増田がそのブラック的な業務(っていうか、子守って業務なのかどうかわからないが)をみて「これはひどい」と思ったのなら、それは「ヒドいシーンを描こう」という目論見が成功した結果だ。
たとえば、プログラマなどはその業務において、本当にクリエイティブなのは頭のなかで実装アイデアを考えている瞬間だ。そこに快楽とブレイクスルーの高揚があるとは思う。しかし、その瞬間は、他人から見れば散歩中であったりモニターの前で空中を見つめているだけだったりする。それを「熱戦」であったり「苦闘」だと、圧倒的多数の視聴者は理解できない。同じオフィスで働いているOLだって理解できないくらいだ。理解できるようにドラマ的な補助線を引いてやるなり、読者視聴者に分かる程度に戯画化してやるしかない。「ムカつく糞ガキの子守」というのは、この戯画化の結果だ。
つまり、件の展開は作家・脚本家の工夫の結果だといえるだろう。
第三に、ドラマなるもの、エンタメ創作は「特別なもの」を描くものだ。これは、もうすこし常識として言語化されていいものだと思う。なんでコナンではあんなに殺人がバンバン起きて密室が出てくるのか? それはそれが「特別なもの」で「常とは異なるもの」だからだ。「だからこそあえてそれを描いて世に表す価値がある」という考えのもと、エンタメとして成立している。青春時代の初恋や、大正時代なハイカラ女性の自立や、銀行員の造反もそうだ。日常系の物語でさえ「日常の中のちょっとした特別」という意味で特別を描く。描くという行為そのものが、その描いたシーンを描かずに省略したシーンに比較して特別にするという創作的な処理なのだ。
その「描かれた特別なもの」を「一般社会常識に反している」という視点で糾弾してしまうと、エンタメ作品の多くは枯れ果ててしまう。件のドラマは、逆に言えば「一般社会ではあっという間に糾弾されてしまうような『特別な』ブラック労働なので、あえてそれを描いたのだ」といえるだろう。
もちろん(対価のない)残業とか長時間労働は悪である。それを礼賛するような「描き」になってしまったのは、前述したように作家・脚本家側の技量不足である。しかしながら、以上3点の視点補足が、この種の問題に対する考察の糧となってほしい。
最近、多少揶揄的なニュアンスと予防線を込めて政治的正しさ、あるいはPCについて言及されるケースをいくつか目にした。
なるほど、確かに過度な政治的正しさへの配慮は自由闊達な表現を陰に陽に萎縮させるものであろうし、形骸化された政治的正しさは単にナンセンスだ。
しかし他方で、「それとは全く別の問題として」、多くのことがらがある種の正しさをめぐって回っているように僕には見える。
たとえば(誇張した表現になるが)経済原理主義者は最適化・あるいは効率化こそが正しさを担保すると考えているフシがあるように思えるし、
過度にアニメの制作者サイドに寄り添い「楽しんでる!」と必死なタイプの消費者はあたかも楽しむことこそが正しさを調達するとでもいいたげなように感じられる。
(注意:僕はここで経済原理主義者や全肯定的アニメ消費者を批判したいわけではない。正しさの調達パターンをいささか戯画的に書き出してみたいのだ。
また、前者であれば最適化・後者であれば肯定的なスタンスが無意味であると断じたいわけでもない。
むろんそれぞれの立場から有益な結果・知見が引き出せることはあるだろう。
ただ僕は、あるタイプの信念・行動からある正しさへの意志をピックアップすることは「権利上」可能であるだろうという前提の上で思考実験してみたいのだ。)
さて、人がある物事に大して価値判断を下す際、無数の観点をとることができるように思えるが、ここでは大きく「正しさ」「効率性」「面白さ」の三つに分けられるとしよう。
たとえば学問では正しさが重視されるし、通常の社会では効率性が重視されるし、共同体では面白さが重視されるだろう。
(注意:学問的な「正しさ」と政治的「正しさ」とでは「正しさ」の意味するものが異なるのでは?というのは正当な指摘だ。
ここでは政治的正しさというフレーズに引きずられてこう命名したが、「真理」とラベルを貼れば言語ゲームの癒着は多少解消されると僕は考えている。
とはいえ、これでもまだ混同が起きているという疑問はあるだろう。しかしここはこれで議論を進めるのでご容赦いただきたい。)
しかし、学問で正しさを追求することが「楽しさ」を帯びることは多くの人が多かれ少なかれ知っていることであるし、
ある種の「面白さ」が正しさを担うことも趣味に熱中したことがある人なら知っていることだろう。
するとつまり「経済原理主義者」は「効率性」を追求することによって「正しさ」を調達するように見えるし、
「全肯定的アニメ消費者」は「楽しさ」を追求することによって「正しさ」を調達しているように思える。
(注意:ここで「そんな深いこと考えていないよ」というのは一旦はそうだ。
とはいえ、現に「そう見える」しこれはある種の無意識の考察だと考えてもらって差し支えない。)
ここで僕が言いたいのは「なぜ素直になれない!」ということだ。(もちろん僕がこの指摘をまぬがれているというつもりはない)
正しさを追求したいのであれば正しさを追求すればよいし、それ以外の効率性や面白さがウエイトを占めるケースであれば全力でそれに没入すればよいではないか。
いそいで付け加えておくと、僕はこのような「正しさ」の追求が悪であると言いたいわけではない。
しかしながらそこに、ある種のねじ曲がった欲望を見て取ってしまうのだ。
なぜ、ストレートに正しさや効率性や面白さを追い求めることができないのだろうか?
程よく住み分けることはできないのだろうか?
これは裏を返していえば、あらゆる価値判断のメタレベルには正しさをめぐる判断があり、結局全て(これはレトリックです)は政治であるということなのだろうか?
しかし、全てが政治であるとして、その裏側には欲望が張り付いているのだとしたら、それを上手く調節したり整流することも可能ではないのだろうか?
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
この業界はブランド至上主義であり、クソゲーを作ってもそこがクソゲーメーカーなら許容される。
クソゲーオブザイヤーに出てくるような作品は手を出す奴が悪い。
アーベルとシールに手を出す奴はクソゲーが好きなだけのドMであって被害者ではない。
エロゲー業界の恐ろしさを語るなら地雷ゲーこそが語られるべきである。
30 figurehead (システムが
28 ほしフル (惑くんwww
26 あるすあぐな!(体験版よりひどい本編
25 ねーPON らいPON! (Limeのゲームは買ったらダメっす)
22 ヴァルキリーコンプレックス(戦闘バランスクソすぎた。曲はめっちゃよかった)
21 紅蓮 (どこが悪いと言われると難しいが全部悪い。エンカウント率地獄)
20 ぷちチェリー (戯画マイン1。主人公とヒロインが最悪)
19 シオン (ゲームの目的を完全に間違えている。 なぜこんな終わり方にした)
18 桃華月憚 (犠牲者多数。アニメ化もした。200時間以上プレイして未完成。絶対に許さない絶対にだ)
14 AQUA BLUE(戯画マイン2。マインであることは一目見ればわかるが、どういう爆発をするかが読みきれなかったため犠牲が拡大)
13 萌えろダウンヒルナイト(地雷確率高かったがOPが良かったので釣られて死んだ人間数名)
12 すくーる・らぶっ! (ブランド名が違うがアーベル地雷)
10 Summer Days(戯画パッチ。そしてグロ)
7 Always (戯画マイン3。バグ以外にもなぜか信頼の戯画システムが崩壊)
5 ☓☓な彼女のつくりかた (ハルヒで釣って遊べないシステム)
4 魔法少女アイ惨 (平均点0。ゲー無)
3 なないろ恋の天気予報 (そもそもプレイできない上HDDクリーナー。制作スタッフが夜逃げ)
2 やきたてクロワッサン (戯画マイン。絵がひどすぎてある意味笑える)
1 AngelEgg (システムが)
んー。なんというか。わかりやすくしようというのはわかるんだけど、それゆえにどうしてもすきになれない。描かれているすべてが既知すぎる。ワクワクしない。
「わかってること」を繰り返し説明してるだけのように思うし、単純戯画化がすぎる気がする。
実際の日本と違って直接民主選挙やってたり中抜き構造になってるから単純比較するのは間違いなのもわかってるけどそれにしても、国家というものを描くにしてはチープすぎる印象がある。ネットの、しかもかなりレベルの低い層の描写を国家全体として描いているような気がしてどうも気分が良くない。 いろんな要素入れようとしてすべての描写がどれもスッカスカになってる感じがする。
5話の感想で「郵政選挙の頃まで時代が逆行しちゃってるけど、ここから新しい話作れるの?」と書いた。あまりにも郵政選挙まんま過ぎて、こいつら新しい何かを提示するつもりがあるのか?ってげんなりした。今何年だとおもってんの。この作品を作ってる人たちは、あのあたりに元凶があると思ってたりとか、今もあの頃も全然変わってなくて、あの事件が象徴だと思ってるのか、そのあたりも未だによくわからない。
クラウズの問題点もさ、こんなにリスクでかすぎるものをいきなり国家のシステムとして取り入れるとか菅山首相はアホかという話は1期が終わった時に散々文句言った。そのリスクの顕在化というか、当然のように起きると予測された反動を延々と9話まで描いてきてるわけだけど、それって話が全く先に進んでる感じがしないじゃないですか。
1期っていろんな問題を踏まえつつ、それでも信頼や情報公開を武器とするとして前に進もう、未来の可能性を考えようという信念が感じられたからワクワクしてたのに2期になって話はひたすらに後退していってる。1期終了時点から当然のように想定できたことが想定通りに起きてるだけ。 こんな既知の問題の説明だけ丁寧にやられても、それだけなら教科書読んでる方がよっぽど情報量多いし、正確だしで楽しいよ。 これは教育アニメじゃないんだから、アニメにしか描けないことをやってほしい。エンタメとして、何かワクワクさせてくれる要素がほしい。未知のなにかが欲しい。
俺は同性愛の存在は肯定するし、そんな人たちを差別しようなんて気はないし、同性愛は罪だの欠陥だの異常だの認めないだのと差別されてるならそれは批判するけども、個人的にそっちの気はないし、見るのも苦手だ。
これは差別か?違うだろう。
同性愛じゃなくても猟奇的描写が苦手、18禁描写自体が苦手、3次元が苦手、2次元が苦手。
性に関しては特に生理的に無理なものって人それぞれあるもので、それを避けるためにも、ただマーケティングとしてだけではなく見る人への配慮としてもゾーニングと言うものがあると思う。
同性愛を差別するなはわかるけど、同性愛が排除された!差別だ!と言う文句は何にでも同性愛表現をねじ込めてしまう。
それは個人的に、生理的に苦手だと言う人にとってただの暴力にしかなり得ないだろう。
差別と戦うのは良いことだと思うが、そうした配慮を忘れないことも肝心なことだと思う。
zazu0311 嫌いなら読まないか、間違って読んでしまったら途中で読むのをやめればいいと思うけどな。生理的に苦手というのは個人の主観だから、各々の主観に全部配慮していたら何も表現できなくない?
何も表現出来なくなると言うのは程度問題の極論だと思います。今現在でも普通に区分けされてるじゃないですか。少年誌もBL雑誌もあるのに、わざわざジャンプに男同士のキスシーンをねじ込む必要はないですよね。
zhy 「個人的にそっちの気はないし、見るのも苦手だ。いわゆる生理的に受け付けない。と言うものだ。」と、異性愛表現に対して感じる人が少なからずいる訳だけど、その人への配慮は無視されているんですよね。
では恋愛表現のない雑誌を求めれば良いのでは?同性恋愛が好きなのであればBLも百合も専門誌がありますよね。既存の媒体をなんでもねじ曲げて行こうとするよりは、需要があると言うならそう言う新たな媒体を作るなりした方が前向きでいい解決策だと思います。
alloreverything あらゆることに言えることだけど、「俺の視界に入れないようにしている」はオッケーだけど、「俺の視界に入るな」はNG。
それは極論であり綺麗事、理想論でしょう。こちらはゾーニングとして具体的な話をしているわけで。仮にその論を具体的に当てはめるとネットのセーフティさえいらないと言うことでエロもグロも好きなだけ氾濫した世界になって、偶然でも見た方が悪いとなりますよね。
権利ではなくゾーニングの話です。誰も「見せられない」ことの強要はしていません。
むしろ、同意先にありますが“潜在的にwebでBL漫画を発表したい層が可視化されたわけで、ビジネスチャンスでもある。”と言うことも含めた肯定意見ですよ。
gryphon 【応用問題】「ムハンマドを戯画化する表現を俺は受け付けない」という人がいたら、全表現がそれを抑制すべきか?
ゾーニングの話です。
政治的、宗教的、国際的要因を孕んだ答えてたら脱線しそうな生々しくめんどくさい問題は別件でお願いします。
更新分
zhy 異性愛表現に対して嫌悪感を覚える人が少なからずいる訳だけど、その人への配慮は無視されているんですよね。//【あなたが】恋愛表現のない雑誌を求めず、同性愛を排除する理由になりませんよね?
先の答えでは不服でしたでしょうか。正直何を求められてるのかわかりません。
その文面でただ私を否定したいだけですか?同性愛と言う価値観を生理的にも受け入れろと強要してるんですか?
magicalboy これ系で納得いかないのは何故マイノリティ側にだけ配慮が押し付けられるのかってこと。
saigami 「お前らの居場所はここには無いからどこか新しい居場所を見つけなよ、自分たちで」とひたすら言われ続けるのがマイノリティのしんどさであるわけでね。
どんなマイノリティに属しているかわかりませんが、そこら辺はどうしようもなく同情しかできませんすみません。
もしかしたら何かしらの活動があるのかもしれないけどあまり無責任なことも言えないので。
まあ、BLに関しては既にマイノリティと言えず結構な需要があるだろうし、BL版comicoでもどっか企画したらいいのではと思いますが。
rag_en それはゾーニングじゃなくてカテゴライズです。ちな、『「同性キス」を「猥褻だから禁止」扱いされて憤る』のは、彼らこそゾーニング論者だからよね、と。だからhttp://b.hatena.ne.jp/entry/244484108/comment/rag_enと述べている。
ではカテゴライズと言い換えましょう。
そして、確かにそこはcomicoの書き方に問題があった部分かと思います。
gimonfu_usr (http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13121123198 異性愛・同性愛関係なく成人向けは制限してるんでないか。)
キスだけで成人向けと言うのは苦しく、変な言い訳になるでしょうね。
hisa_ino ん?心の中で同性愛を気持悪いと嫌悪するのは全然かまわないよ、どうぞご自由に。それを外に向けて垂れ流すなよ、ってだけで。
今回の件はその真逆のベクトルを持つことに関して危惧してるわけで。
ちゃんと読んでたらそんなコメントはないですよね。
arlu “comico”の事例は男性同士のキスシーンがNGということで燃えていた気がしたが・・・ テレビでも男性同士のキスくらいあるだろうにと思ったりしたが、
そうですね。同性のキスはNGと書かれてたにもかかわらず、掲載した漫画が削除されて差別だ!の流れです。
つまり同性のキスを載せろと言うことになると思いますが、同じ文句はどんな表現媒体にも言えてしまいますよね。
載せなければ差別と言われる。その流れが来ることを危惧しています。
各々の裁量はあるでしょうけどテレビでも時間帯を選ばずなんでもフリーダムにやってるわけじゃないでしょう。
低俗な例えですね。
別に隣人が同性愛者とかそう言うのは構わないし、普通に言葉も交わすし親しくもなるでしょう。
対象としてはごめんなさいですが。
houjiT 「載せなてないから差別」なんて話だっけ。「後から消した」問題では/同性愛は同性愛らしくしろというのに、異性愛はジャンルを問わずにぶちこまれてる。同じ恋愛でも異性愛の拒否は恋愛要素自体の拒否なのか
実際に恋愛ものしか興味がない人、恋愛要素はいらないって人、そう言う需要は一定数あるんじゃないでしょうか。
“同じ恋愛でも異性愛の拒否は恋愛要素自体の拒否”のくだりはzhyさんへの返事からのコメントだと思いますが、その後ろに同性愛の恋愛ものについてもちゃんと書いてます。
同性愛の媒体はちゃんとある上で異性愛も配慮して欲しいような要望だったので、それは恋愛要素の否定かなと受けました。
※追記
レスも追いつかなくなってきたし仕事もあるので今一度まとめますが
じゃあ逆に何でもかんでも全ての媒体に同性愛表現を取り入れた世界ってどうなりますかね
そのパワーバランスを無視してマイノリティを供給過多にした世界です
私はおそらく多くの人が不幸になるだけかと思います
今までも様々なジャンルがカテゴライズされて共存してきて、需要に沿って存在したり消えて行ったりしたわけですが
これからもそれでいいじゃないかって言うのが私の主張です
※再追記
単にマイノリティマジョリティの問題として片付けてしまったのが悪い気がしたのでもう一言
無数のジャンルに答えを出して持っていて、その一つ一つにマイノリティマジョリティがついてくる
つまりある要素ではマイノリティだけどある要素ではマジョリティってものを持ってるでしょう
だから決してマイノリティかマジョリティかを他人事として言ったわけではありません
じゃあ私は例えばNTRとか好きですけど、マジョリティかって言うとイマイチそうでもない
なんでそんなジャンルあるの?って人や最低と言う人多くが存在してることも知ってるしそうなるのもわかります
NTR禁止のエロ本が出たならそれも差別だなんて思うことはありません
ああ、嫌な人は嫌だもんなと思うだけです
そう言う自分の中のマイノリティマジョリティで置き換えて色々と考えてみて欲しいと思いました
同じ同性愛についての問題でも性的嗜好であるBLと同性愛者は別問題は確かに。
生理的に受けつけないと言うくだりが混乱を招きましたね。
一応、その文の時点ではBLであれ同性愛者であれ営みの描写が苦手ですってことで、そこに区別はありませんでした。
今回のcomicoの件に移ってからはBL表現側にシフトしてます。
つまり申し訳ないですが今回同性愛者の方がどうこうという主張ではないです。
そして同性愛者を区分けしろとか差別に準ずるような馬鹿げた思想もありません。
決して同性愛者そのものが生理的に無理とか言ってるわけではありません。
あとcomicoが同性間のキスを線引きとしていること、私にとっては絶妙な線引きと思えました。
理解出来ない人には理解出来ない線引きですが、生々しい感じがしたらダメなんです。
※謝辞
私の文が拙いばかりに、フォローくださった方々ありがとうございます。
言い出した奴が頭おかしくて怖いからというのを差し引いても「ダサピンク」という言葉は嫌いで、あの言葉にはもはやただただ相手を侮辱するだけの機能しか残ってないんだよね。「放射脳」とか「太宰メソッド」とかと同じ。いや、心情自体はわかる気もするのよ。先に足踏まれたのはこっちなんですけどみたいなさ。それはわかるんだけど、でもそれを「ダサピンク」みたいに戯画化して攻撃しちゃったらもう相互理解の可能性ってなくなっちゃうじゃない。「ポリティカルコレクトネス」っていう言葉も急速にそうなりつつあるよね。すくなくとも日本のネットではPCって単語は他人を攻撃する文脈でしか出てこなくなりつつあるように感じる。
いや別にいいんですよ。「女性に読んで欲しい本」というアングルがムカつくと。客を舐めとんのかと。その「足を踏まれた」という情動それ自体はかくれもせぬ真っ当なものだと思うんですよ。でも、それをポリティカルコレクトネスとかジェンダーみたいな単語で括っちゃうのってすごく、なんというか、雑、だと思うんですよね。だって、そもそも書店のポップなんて基本ひどいでしょう。手書きポップはとくにひどいですよね。でもそれは仕方ない面もありますよ。だってあれ書いてるのバイトですよ。いやまあ正社員かも知れないけど、どっちにしろどんな名コピー書いたところで一円のボーナスももらえないわけですよ。下手したら残業代も出ないですよ。そんな状況に書店員を追いやっておいて「ポップが糞」って、そりゃいくらなんでもご無体ってもんですよ。二十文字でこの本を売れ、って、書けないですよ実際。
「ゲイルズバーグの春を愛す」なんてふつう読まないじゃないですか。特にメジャーでもないし、格別に傑作というわけでもないし、ガジェットも出てこないし。でもフェアのチョイスとしてはまったく正しいと思うんですよ。古道具屋で買ったアンティークの机に古い手紙が入ってて、気まぐれに返事を出してみたらなんとそれに返事が返ってきて、とか、誰だって「面白そう」と思うでしょう。僕だったらこんなもん読むくらいならO・ヘンリーでも読むわって思いますけども、でもフェアっていうのは「万人」に向けるものであって「僕」に向けるものではないわけで、だからあれはあれで正しいんですよ。だってフェアって興行ってことでしょう。僕個人としてはあれはSFじゃないと思うけれども、「女子に勧めるSF」という括りで「ゲイルズバーグの春を愛す」を持ってきた書店員は正しい仕事をしてるんですよ。
だから「女子に読んで欲しい本」に対して「女を舐めるな」って反撃は不毛というか、主語がデカすぎると思うんですよね。ナメられた、という憤り自体は尊重したいし共感しないでもないんですが。
なんか何書いてるのかよくわからなくなってきたので最近読んだ本とかマンガとか映画とかを挙げて終わりにします。
http://www.amazon.co.jp/ebook/dp/B009DEDDW6/
Kindleで100円だったから暇潰しに買ってみたら面白かった。旅行記とも薀蓄話ともつかないエッセイのような文章がダラダラ書いてあるだけの本だけど、題材がソ連だからなのか、読んでるうちになぜか郷愁めいたものを感じてしまった。こういう人が友達にいたら面白いだろうなーって感じ。
http://www.amazon.co.jp/ebook/dp/B00K2MEOLW/
制服なんかぬぎすてて/夏本満
最近は百合マンガがいくらでも読めるので良い時代になったなあと思います。数が多ければ多様性も生まれますしね。僕の好みでいうと百合は好きだけど他人の恋愛にはあんま興味ないので、百合百合してない百合マンガがいいんです。という話をしたらこれを勧められました。最高でした。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00HD061EE/
グレッグのダメ日記/Diary Of A Wimpy Kid
アメリカではものすごい売れたらしくて、知り合いに洋書を貰ったんだけどまあ読めるわけもなく。これは映画版。PS Storeで400円だったかな。青春・・・というにはちょっと幼いんだけど、まあ青春って上手くいかないもんだよね、って話。その上手くいかなさには割と共感したんだけど、クロエ・モレッツが異常にかわいくて台無しでした。
増田でこんなブクマついたの初めてかもしれん・・・有難い有難い・・・
>id:whiteskunk 「僕だったらこんなもん読むくらいならO・ヘンリーでも読むわって思いますけども」この一文で台無し
いや、O・ヘンリー好きなんですよ僕。
>id:u-account そう、これこれ。「ポリティカルコレクトネス」とかが自分の「気に入らない」を客観的に見せるための武装になってしまっているわけだ。
攻撃の文脈でしか使わないもんね。バリアフリーとどうして差がついてしまったのか
>id:poipoichang ”そもそも書店のポップなんて基本ひどいでしょう。手書きポップはとくにひどいですよね。”あれ要るの?
まあでもポップがないと絶対手に取らなかった本とかもあるから・・・
>id:chintaro3 PCがパソコンの意味じゃない方で普通に通じているというパソコン終わってる感に時代を感じる。
>id:masudamasurao ”言い出した奴が頭おかしくて怖い”と初っ端に書きつつ相互理解の話をされても…/「まあまあ、そんな怒らなくても」って言うよりはお互い攻撃しあった方がまだ建設的なのでは
怖い人とは関わりたくないけど、pokonanさんは最後にちゃんと自分のおすすめ本を挙げてる点が素晴らしいと思ったので。
>id:osushi-daisuki 元記事は読んでて腹立った。炎上させるための記事で、自分は焚きつけてぬくぬくアフィリエイト。クソだろ
僕もアフィは嫌いですけども、「アフィカス死ね」も最近は誤爆多すぎてよう言えん
>id:gui1 またセレッソ大阪の悪口かよ(´・ω・`) J2 増田 大阪
すまんわからん。JAPANESE ONLYみたいなやつだっけ?
>id:aceraceae 仲良くしようよと言いつつ喧嘩売るパターンかな。
ちゃうねん
>id:misaochang 本屋に色々求め過ぎな面もあるよな。他の商売と変わらないよね。
ですよね。本屋大賞(書店員がいちばん売りたい本)もなんかよくわかんない感じになっちゃったし。
>id:qouroquis 「女子に読んで欲しい本」に「足を踏まれた」感を覚えるのは、自分自身をその「女子」に帰属させる心理が働いているからで、大きな主語に自ら嵌りたがるのではないかと。
うーん・・・よくわからん。女はよく「女が書けてない」「女はこうじゃない」みたいなこと言う(男はあんま言わない)けど、あれはそれだけ女性が日頃からナメられてる反動なんじゃないかと思う
>id:teebeetee 足を踏まれたときに「足を踏まれました」とだけ言えるのって実はかなり高等なスキルで、特にネット上で足を踏まれたことを言おうとすると、どうしてもまず「マシンガンでヒャッハー」的な告発になりがちなんだよね。
ヒャッハーで炎上したやつしか目に入ってこない、って観測範囲の問題もある
>id:seamlesssingles いややっぱり女子と一括りにされて不快感を覚えるのと、それを表明するのは、なんもおかしくないと思う。たまに「自分もその『女子』に入ってる自覚があるからそうなるんだ」とか抜かすアホもいるけど。、
おかしくないです! おかしくないけど、ちょっと苛烈すぎやしませんかとは思う
>id:nisatta 私は差別とポリティカルコレクトネスが嫌いだ。
そうね
>id:htb48 わかるなあ つーか寛容さのないポリティカルコレクトネスって差別そのものよな
うーん・・・
>id:gkotori イラついた時にイラつきかたの表現にまで気使わないといかんのか いちいち枕詞に「わたくし個人としてイラつきました」って書いときゃいいのかね 殴り合いの作法とかめんどくさいなあもう
>id:watapoco ??私もあのエントリ自体は怒りすぎ自分を基準にし過ぎで半分以上同意できないけど、言わなきゃ嫌な人がいるって伝わらないでしょ。何で他人に我慢を強いるのか。
>id:youco45 「女子に読んでほしい本」ならいいと思う。「SFに理解のある女子は100%モテ」「東野圭吾と村上春樹しか読んでない」は、ジェンダー以前に、客をあなどってる。
後者はあんま擁護できないんだけど、「SFに理解のある女子は100%モテる」ってそんなおかしいですかね?
>id:btoy 反ジェンダー故の書店員擁護なのかな。そういうスタンスって説得力に欠けるよ。
>id:xuggbo 「女性が生きにくい社会」だのほざいてるけど町中の広告にあんなに激怒してたらそら生きにくいわな。
うーん・・・
>id:rosechild 『言い出した奴が頭おかしくて怖いから』で相互理解が深まるのか。批判されているのはお前らこういうの読んでないだろという前提、選んでやるよという押し付けがましさであって単なるお勧めではない。
いやでも読んでないでしょ実際。俺はたぶん年に50冊くらいのペースで本読んでるけど、カズオイシグロもダンブラウンも池井戸潤も読んだことないよ。
>id:whichi 「右翼」「左翼」のように、とかく人は何らかのカテゴリーに区分したがる。その入れ方が雑であるほど、当人にとっては不服ないし不快なのは当然ではあるが、カテゴリジャンルによって問題の大きさは違うようだ。
ぬう
>id:nectaris ネットは相互理解を弱める機能があるよなあ。嫌になったら逃げればいいっという世界なので。
逆じゃないかなー。ふだんから近しい人ばっかり集まってる分「味方」と「敵」の線引きが苛烈になっちゃう気がする
>id:kaoc_kaoc 自分もツイートには反感を覚えたけど、謝罪してフェアも中止するって言ってるのに、延々批判して仲間うちでRTしあって…っていうのに毎度のことながらうんざりした。炎上ネタに安易に乗っからないで丁寧に考えたい。
>id:zazu0311 文庫女子の女性像には当てはまらない女性が沢山いるんだという事を主張するのは自由だと思う。ただ、どっちも主語が大きくて、ダサピンクと思うかどうかみたいなのは女性云々ではなく個人の主観だろうとも思う。
ふむ
>id:smoothtooth 「東野圭吾や村上春樹しか知らない無知なおなごに、僕たちが教えてあげるのだ!」←いや、イラつくでしょ。なに女客見下してんのって。しかも紀伊國屋でだよ。単に「面白いからお勧め!」なら誰も怒りゃしねえよ。
オビに印刷されてる推薦文ってほとんど「面白い」「天才」(プラス推薦者の名前)みたいなことしか書いてないよね。まあ誰も怒りはしないだろうけど、あれはあれで寂しいとも思うわけです。
>id:Shabondama 店員さんの手書きPOPは好きよ~。的外れって感じるときもあるけど、本当に気に入って勧めるのがうれしくてたまらないようなのみると楽しいよ~^^
^^
>id:katin みんなひどいので女どももちっとは我慢しろよという滅茶苦茶な文章。ゲイルズバーグは普通に女子受けの良いSFなので普通に勧めれば誰も文句は言わなかったんじゃないかな
あれのどこがサイエンスやねん
Physics の青色ダイオードの中村・赤崎・天野の受賞や私戦予備陰謀疑いのほうがさわがしいかもしれませんが,ノーベル生理学・医学賞に関して.
John O' Keefe, May-Britt Moser, Edvard Moser の三名が 2014 年のノーベル生理学・医学賞を受賞した.受賞理由は脳の位置定位系を構成する細胞の発見に対してである.“for their discoveries of cells that constitute a positioning system in the brain”. 視覚や聴覚,触覚で得た物理的な環境のあるいは自己の位置に関する情報は脳内でどのように処理されているだろうか.力学的に考えると,質点と空間座標と時間の成分がありそうなものである.マウス生体での神経科学的な実験で,位置特異的に神経の活動(活動電位の頻度)が上昇する細胞が海馬でみつかった.最近の in vivo の実験で place cell の特性や grid cell の特性,視覚系・運動系との place cell 回路の連絡等がさらに解明され始めている.少し古い神経生理学に関連する著名な科学者では,James Gibson や David Marr が有名かもしれない.聴覚系での位相差からの音源位置推定,視覚系での網膜および外側膝状体 LGN,一次視覚野,高次視覚野の回路等感覚の認知の神経科学はよく調べられてきたが,受賞対象の位置定位系は脳内の感覚と運動を統合する上で重要な具体的な情報表現と情報処理にせまった分野になっている.
ごくごく戯画化した,脳の作動機構は,神経細胞は他の細胞と同様に細胞膜をもちその内外のイオン組成をポンプとチャネルとよばれる細胞膜にタンパク質で糖を燃焼してえたエネルギーを元に維持する.神経細胞が同士が突起を多数のばし接触点を多数つくりそこで,膜のイオンを電位差をより正にする化学分子を放出したり,より負にする化学分子を放出したりする.電位差が十分小さくなると多くの神経細胞では電位依存的なナトリウムイオンチャネルが活発に作動し突起を一次元的に減衰せずに伝わっていく活動電位をおこす.多くの神経系での通信と計算の実体は,この化学伝達と電気伝導の組合せで,静的な記憶は細胞の結合(シナプス synapses)が構成する回路に,シナプスの化学伝達特性や回路水準の論理演算やより高度な情報処理の結果であると作業仮説がたっており,具体的な情報処理の神経回路の機構を解明することは重要である.
位置定位系の回路を構成する要素の place cell は,脳の大脳の海馬とよばれる短期記憶や長期記憶化に重要な部位にあるアンモン角 (Cornu Ammonis)の錐体(神経)細胞 pyramidal neuronである.特定の場所で活動が上昇することが証明されている.脳内の空間情報処理で他の細胞とともにどのような回路をなしているか調べるには,place cell への入力と出力,place cell 間の直接的な結合をさらに調べることになる.O'Keefe, Moser 以後も熱心に研究されている神経科学の重要な問題である.海馬に出力する嗅内皮質 entorhinal cortex の格子細胞 grid cell(環境のスケールに応じた格子を表現するようなユークリッド空間中の格子のような役割を担う細胞),各所の頭方位細胞 head direction cell,時間細胞 time cell も発見されている.物理学的な情報の表現と計算に必要な神経回路の構成要素がわかりその作動機構がわかってきそうな気がしてくる.21 世紀は,人体生理学のおそらく最大で最後の問題である脳の作動機構の同定にかなりせまってきており,先のことはよくわからないが脳のことは今世紀中にはだいたいのことがわかり,計算機でもっとよい知能が実装できそうな勢いである.
ノーベル賞は「物理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済(ただし経済分野はスウェーデン国立銀行賞)」の分野で重要な業績を残した個人に贈られる.Physiology or Medicine の分野ではカロリンスカ研究所が選考にあたる.ノーベル賞は,ダイナマイトの開発生産でノーベルが残した遺産を基金としはじまった.現代では,数学の Fields Medal や計算機の Turing Award とならびたつような権威ある賞として,世界中で科学の営みに参加する人々・興味ある人々が注目する伝統儀式を続けるお祭りになっている.医学生理学の分野では生理学的に重要な機構の解明や臨床応用で人類の医学的な福利向上につながる発見などにおくられる.なかなか毎年趣味がよいとおもわれる.繰り返しであるが,選考委員会が示した,今回の授賞は,脳での空間認識の回路で重要な働きをする place cell 場所細胞の発見が理由である.
匿名ダイアリーにこんな言い訳も不要かと思うのだけれど,ノーベル賞委員会の公式アナウンスメントとFundamental Neuroscience か Principles of Neural Science や関連論文や日本語の教科書・一般書等を読めばよい.高校生物に毛が生えた教養程度の神経科学の知識しかない劣等の学部生ながら,今回受賞の対象になった O’ Keefe と Moser 夫妻の神経系における自己位置の表現の神経回路の重要な細胞というテーマに興味があるので駄文を書いた.
脳科学辞典 場所細胞 http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%A0%B4%E6%89%80%E7%B4%B0%E8%83%9E