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はてなキーワード: 集合体とは

2024-03-19

私の言うこと聞いていないっていう人は大体の場合話ができていない

ハゲマンガなんてのが今あるらしいんだけど、大体の場合は「私の話を聞く=旦那が変わる」という大前提のもとに話が書かれているが、言いたいことは「私の話を聞いていない=旦那は私をなめている、バカにしている、差別している」という方向の話になっている。

この根底にあるのは「私は正義から言い方や会話のスタイル、内容に関わらず旦那は私がどんなつもりでいるかをきちんと読み取って言うことを聞いて反省して自分を変えるべき」という思想だ。

要はラディカル・フェミニズムだし、白ハゲマンガがひた隠しにしているポイントでもある。

多くの女性はこの根底にある思想に気づかないで話をするので旦那が硬直して言うことを聞くことができなくなっていることに全く気が付かない。

なめてて言うことを聞いてないんじゃなくて、場が攻撃的になりすぎて以下にダメージ少なくその場を乗り切るかに注力するのだから本来話したいことなんか聞いている場合じゃないっていうことに気づかない。

ハゲマンガを見ていると大体の場合女性攻撃的だ。

いくら言っても聞いてくれないんだから攻撃的になるのは仕方ないという人もいるが、ちっとも仕方無くないし、こういうときのっけから攻撃的に話が始まっている。

これまでの蓄積があるというが、蓄積なんかないふりをしてひたすらに鬱憤を溜め込んでいるからある日いきなり攻撃的になったように見えている。

余計に夫婦仲を悪くしたいならどうぞ、という話でしかない。

聞いてくれないなら聞いてくれるように工夫するというのが大事だ。

本人たちは工夫していると思いこんでいるかもしれないが、攻撃的になるのは工夫ではないし、男性を叩いてしつけるタイプ動物かなんかと思っているからそっちに行くのだ。

ハゲマンガの中の男性女性をなめていない、ということは言わないが、余計にそう見えるような演出がなされていることは明白だ。

全体的な構図はいくら訴えても聞いてもらえない被害者主婦自分をなめて馬鹿にしているからちっとも聞き入れてくれない加害者旦那、で固定されており、コミュニケーション問題がある、問題は妻の側に解決責任があるという視点はまったくない。

かに旦那の言うように「俺のものはそのまま洗うか別にしてくれりゃいいよ」が実は解決策だ。

吐いていく靴下がなくなろうがワイシャツがなくなろうがそんなことで嫁を責める人はいないだろうが、想像の中の色んな人に責められているのでもうどうしようもない。

あの手の漫画に出てくる男性は、いろんな女性が持ち寄ったクズエピソード集合体なので、どうあがいても悪者しかならない。

こうやってラディカル・フェミニズムはその正体を隠したまま広まっていき女性生活はどんどんと辛くなっていくことだろう。

2024-03-16

まじでG〇〇gle終わるかもしんない

ChatGPTをはじめとするAIの「サービス一貫性」「誠実性」は、孫さんも言うように人類の第5波のイノベーションになりうる。

G〇〇gleはいわば「個人不動産大家さん」という感じであり、AIAirBNB?とかウーバーとかの「集合知」であり多数の集合体である点が違う。

個人サービスなら、次のようなことが許されるわけだ。

「あ、今日からルール変えました。理由はとくにないっす」

「あ、デザインいじりました。気分が変わったからっす」

「あ、情報ぶっこぬいときました。金のためっす」

「あ、アクセスできないようにしときました。都合が悪いからっす」

どっちが永続するか。あとはわかるね?

2024-03-12

文科省統計のせいで地元があらぬ誤解を受けている

文部科学省統計によると、私の地元大学進学率は近隣市の1/4〜1/2程度で10%台半ば。県下でも最低水準とのことで、それをもって子育てに向かないやら教育行政問題があるやらと語る人がいる。

しかしながら、私の地元や近隣市は、人口面でも面積面でも小規模〜中規模程度だ。市境を一つや二つまたいだ程度でそこまで学力に差がつくわけがない。肌感覚的な面でも、中学同級生大学に進んだのが5人に1人未満とは思いづらい。

ということでSNS等で貼られていた画像をもとに、ソースと思われる文部科学省学校基本調査卒業後の状況調査票(高等学校 全日制・定時制市町村別状況別卒業者数」(以下「件の統計」)を確認した。数字は件の画像と一致しており、確かに私の地元大学進学率は低い数字であった。

ところが、よく見ると分母に当たる高校卒業者の数が、市内の中学3年生の人数の1/3程度しかない。年によって学年の人数に違いはあるが、丙午でもない限り1/3にまで減ることはまずないだろう。また、大体の人は高校に進学する上、中退がいても数が知れている。

そこでさら調査方法確認したところ、各学校が回答し、それを学校所在地市町村が取りまとめる方式と判明した。

ところで私の地元人口面でも面積面でも小規模で、高校は1校、名前を書けば受かると言われているようなものしかない。その高校の生徒数、進路実績を見たところ、件の統計数字が一致した。

まり、各市町村の括りで出る数字は、正確には各市町村に立地する学校数字集合体であるようだ。件の統計において、高校が立地していない市町村に全く数字記載されていないことも傍証となろう。

かくして私の地元名前を書けば受かる高校の進路状況をもって、大学進学率が低く教育水準が低いと世の人に判断される状況になっているわけだ。

なお、先述の事情から、私の地元中学生は大学進学意思がある人はもちろん、そうでない人も大体市外の高校に進学する。


小中学生であれば、私立等を除き基本的居住する市町村学校に通うため、市町村単位での集計はそれなりに参考になるかもしれない。

しかし、高校生にもなると通学範囲はぐんと広がり、通う市町村と住む市町村が一致しないことも増える。この状況下で、立地する高校数字をもって市町村数字かのように公表するのはいささか問題があるのではなかろうか。政令市中核市施行時特例市くらいの規模ならいざしらず、相互に人が行き来する中小規模の市町村においてその影響は大きい。

世間一般では学力水準は居住選択において重要ファクターのようで、住宅関係生活ガイド的なメディアでも指標として用いられているようだ。

だが、先述のとおり、こと高卒生の進路に関してはその公表の仕方に疑義がある。文科省も件の統計世間でどう使用されているか考慮の上、表現に気を遣って欲しいものだ。

それはそうと、大学進学率を気にする教育熱心であろう層が、件の統計について違和感を持たず鵜呑みにしてしまうことを考えると、何か皮肉めいたものは感じる。

anond:20240309162142

論文でも指摘されてた

フォークナーエコロジーアナクロニズム

そして少女表象 https://core.ac.uk/download/pdf/267829539.pdf

彼の描く女性成熟堕落を軸に展開してい る点だ。 これらの女性達は南部人種階級及びジェンダー観に則っており、 その意味彼女達はリアリスティック再現 (前) された南部女性像というよりは、 寧ろ特定イデオロギー偏向のものとして表象される。 従って彼女達は一般的意味で「リ アル」な存在としては描かれない。 その身体性はしばしば捨象され、 イメージ感覚形容集合体として提示されるか、 或いは逆に過剰で耐え難いまでに強調されて前景化 される。 その意味では、 フォークナー世界に登場する女性とは、 殆ど常にこうしたイ デオロギー的歪曲の対象であると同時にその効果である。 換言すれば、 それはフォーク ナーの幻視するアナクロニスティックな南部という、 客観的には存在しない不在の「欲 望の対象である。 それ故彼女達は所謂リアリズム小説」 の規範に則って、 キャラク ターとして十全に表象されることはなく、 寧ろある種の象徴記号として存在する。 そ の意味で、 フォークナー女性/他者表象は常に失敗を運命づけられているとも言える。

本論はそのような 「表象の失敗」 としてのフォークナー女性像に焦点を絞って、 作 家のアメリカ南部創出と喪失レトリックについて、 特に彼が創造した少女像を採り上 げて議論する。 フォークナーが描く少女達は、 作中の男性キャラクターにとっては永遠 に手の届かない存在として崇拝され或いは憧憬対象とされるが、 一方でしばしば彼女 達は、 南部社会的規範に照らして不適切な形でその処女性を、 しかもしばしば不用意 な形で喪失する。 彼女達を取り巻くこの皮肉矛盾に満ちた状況に、 女性のセクシュア リティに対する作家一種強迫観念を見ることが出来る

2024-03-08

何者にもなれない私達が何者かになるために文章を書こう

長くなくていいから、文章を書こう。

私の妻は「自分には消費する趣味しかない。何も生み出していない。」とよく口にする。

子供生んでるんだから十分じゃねぇか?とは思うけど、妻は「子供自分人間になってきた」と言っているし、

何か形のある作品を創り、残していく人に憧れるのだろう。

何も残していない、誰かの役に立っていない気がする、役に立っていない自分でありたくない。

そういう気持ちがあるのかな。(もちろん今のままでもそんなことはないが)

世の中に同じような考えを持つ人はたくさんいるだろうから、そんな人たちに提案がある。

何者かになるために文章を書こう。

文章を書くのはい趣味だ。

自分が考えていることを言語化してまとめることができたり、書いてるうちに「おかしくない?」と立ち止まれたり、

文字を書いたりキーボードを叩くとき自然と集中している。

形が残るのもいい。私は自分の書き物を読み返すのが好きだ。

稚拙文章だったとしても、未熟な考えだったとしても、そのときに生きていた自分に会える気がする。

がんばってた自分を見るのはなんか嬉しい。

何者にならなくとも、誰かの何者かになれる可能性があるのもいい。

今はネットが普及していて、誰が書いてるかわからん文章を誰かわからん人が読んでる。

それがいい。みんなが無理に反応しないからいい。刺さった人は反応してくれるし、どうでも良かった人は放っておいてくれる。

これは何者でもない人の持つ数少ないメリットだ。

感動させたり、感心させたり、新しい知識を与えたり、笑いを与えたりできるかもしれない。

そもそも何者でもない人の経験や覚え書きや挑戦の記録などを集めた集合体が、インターネット構成する重要ファクターだと思っている。

その一部になれるなら、それはとても社会的クリエイティブ趣味だろう。

書く内容はまぁなんでもいい。

例えば「家を買った話」と「家を買わなかった話」はそのどちらも「家を買った人」「家を買わなかった人」それぞれが読む理由がある。

自分の考えの後押しになったり、「こうはなりたくない」と思われるかもしれない。

でもそれでいい。どんな小さなことでも誰かに影響を与えた瞬間に、何者かになれた気がする。

アドバイス感想文、知識妄想、なんでもいい。人間の数はめちゃくちゃ多いからいつか誰かに刺さる。

まぁでもせっかく人に影響を与えるなら、人生を良い方向にしてあげたいから、悪口とかは多すぎないほうがいいかな。

幸い、日本に生まれていれば文章を書く方法をある程度は知っている。

文章は上手くなくていい。自分が読みやすければいい。売れるために書くわけではないから、今の自分過去に残すために書けばいい。

何回か書いてれば上手くなってくるかもしれないし、別に楽しければ上手くならなくてもいい。

幸い、日本に生まれていれば多少読みにくい文章でも読み取ってくれる能力者が人がたくさんいる。

Twitterでもまぁいいけど、実は140文字に考えをまとめるほうが難しいんじゃないかと思う。

どっちにしろ思っていることを正確に文字にして書き出すのは、どんな人でも無理。

下手に要約するより、思いついたことを全部かいちゃったほうが今の自分の考えに近いことが書ける。

要約は読む人に丸投げしちゃおう。世の中広いから、要約するのが趣味の人もいるだろう、多分。

はてな匿名ダイアリーみたいに思うままが自由文章かいて、不特定多数の目に触れさせてもらえるサービスがあるのは素晴らしいことだね。

大体書きたいことは書き終わったけど、私は誰かの何者かになれたかな?

この文章で誰に何も与えられなかったとしても、

私達はもともと必ず誰かの何者かではあるから、「消費するだけ」と言われる趣味だけ楽しんでも十分だけどな。

「楽しければやれば良い」「楽しくないことをなるべく減らそう」で生きていこう、私は。

はてなログインして右上に「日記を書く」ってボタンがあるんすよ。

それポチって押してみて、なんか書いてみたら良いよ。

この文章感想とかアンサーとか。

私がそれを消費します。

2024-02-27

anond:20240227163040

ちなみにマルチバース界隈では存在可能なすべてのバース集合体をオムニバースって呼んだりするのでクソややこしい

2024-02-17

エッタラジェンダの会社について思うこと色々

まず私は株式会社エッタラジェンダについて特に支持する立場でも反対する立場でもない。今回の件について自分の頭の整理をするための文章なのでもし目に止まった方がいたらこんなことを考える人もいるんだー、ふーん程度で流してほしい。

2月9日株式会社エッタラジェンダが設立された。

この知らせはさほど広いとは言えないインド界隈にゆっくりと知れ渡る。

社名が映画RRRのエンディングテーマ曲名であったこから社名に対する賛否両論が巻き起こり、特に否定的な反応が目立った。

私自身、率直な感想としては「私はなんでもいいけど大丈夫かいな」だった。

「旗を上げろ!」という意味の「エッタラジェンダ」という言葉はRRRの象徴的なシーンやメッセージを思い起こさせるもので、ファンにとって思い入れの強い言葉になるのは自然なことだと思う。

個人的にはこれは線引きの問題だと思っていて、会社という団体を立ち上がることで「エッタラジェンダ」の「内側」がファンの中で生まれしまたことが大きかったのでは、と思っている。

多くの人が強い思い入れを共有する集団の中にエッタラジェンダという具体的な集団がつくられ、突然エッタラジェンダの外側に出されたように感じ戸惑う人がいてもそんなに不自然なことではないような気がする。

これがもし「合言葉を共有する集団」のど真ん中で行われたことじゃなければこんなことにはならなかったのでは。

長い妄想だけど、喫茶エッタラジェンダにはRRR大好きなマスターがいて、一般的カフェメニューの他に結構本格的なインドカレーが食べられたり赤と青のシロップがじわりと混ざり合うイメージドリンクがある、とかだったらむしろファンとして一度は行ってみたいお店になれた世界線もあったんじゃないかなあ。そしてたまに貸切でインド映画イベント期間限定イメージメニューとか出てくるとか(そういうお店行きたい)

もし株式会社エッタラジェンダシステム開発(長い)だったとしても名刺交換の時に「へえ、インド映画?そんなに好きなんですかあ」で済みそうな気がする。そもそもこの場合映画ファンに向けて大々的に会社設立の報告をする必要もあまりないが。

他にも「ん…?」と思われてしまう原因、いろいろあったんじゃないかな。

・「エッタラジェンダ」という言葉日本での意味合いが限定的すぎる。例えば株式会社ビームだったら同じことにはならなかったのでは(炎上の気配が見えても違う意味を強調して若干逃げ場もある)

・RRRのヒットで界隈が急に大きくなり、強まった商業色や乗っかり的なものに対するファン疲労。これをぶつけられたのは気の毒である

設立者の方のこれまでのファン活動を鑑みて、権利関係に関して深く理解された上でとは考えにくい部分がある

などなど。

ただ、上記のいずれも反対する気持ち理解できるという話で、法律的または権利的に直ちにアウトではなくあくま道義的可能性)または気持ち的な問題がメインだ。

上記の線引きがどうの話も個々の感受性思い入れベクトルや強さの問題で、コンテンツに対する愛情の強さとは必ずしも比例しないし、辛いと思うこともどうでもいいと思うことも間違っていないと思う。

今回否定的気持ちツイートしたほとんどの方も気持ち的な問題というところは理解されている印象を受けた。悲しみや怒りを感じる投稿は多くあったものの、社名変更希望通り越して強要だったり、口汚く罵倒する言葉ほとんど見えなかった(見えるところにないだけでDMではわんさか届いてたりするのかもだけど)

新たな挑戦をする人を寄ってたかっていじめているような見方をされている方もいたけど、(もちろん強い言葉で詰め寄るのは論外として)嫌だと思うものを嫌だと言うまでの権利は誰にでもあっていいはずだ。今回、新たな挑戦「そのもの」を叩く人って言うほど多かったか…?

結局好きなものを共有するだけで、それ以外は異なる価値観の人の集まりでみんなが同じ意見であることは不可能だし、その状態を目指す必要もない。どの意見も間違っていない。間違えがちなのはいつだって伝え方のほうだ。

そもそもファン向けビジネスをしようと思った時、お気持ち蔑ろにできるものなのだろうか。ファンというもの自体お気持ち集合体だと思う。お気持ち論は根拠にならないという意見もあったが、結構割合の人が同じように感じている気持ち無視して進むことは事業としてリスクがあったのでは。

つらつら書いてみたけど、会社は結局一番残念な形で終わってしまった。お会いしたことはないが、設立された方はオフ会の仲間の皆さんからとても慕われているようだ。ホームページ(すでに消えたが)を見ても「良い奴」なんだろうなあと思う。

動力が並外れに高くてあっという間にリーダーになってしまタイプなのかな、と。それだけに今回これだけあっさり全部取りやめてファン活動のものから撤退されるのは惜しいと思う。

何度も開催した大規模オフ会の中心的な人物(だよね?)として多くの人から慕われていたのが、いざ会社を立ち上げた時にぶつけられた想定外否定的意見の数々に戸惑い打ちのめされたのは想像に難くない。ご本人から詳細を説明されたツイートも状況を好転させることはできなかった。一個人にそれをすべて耐えろと押し付けるつもりはないが、もう少しいい形で共存できる方法はなかったのかと考えてしまう。元々は同じファンなのだから

実務的に頼れる(それこそ法務とか、今回の対応含め)人物はいなかったのか、長いことインド映画を盛り上げてきた方々の力を借りつつ一緒に進めることはできなかったのか、勢いよく進む傍らで大局を把握する軍師表現)的な方がいるだけでも随分違ってたのではなどと、今回のことが起こらなかったもしくはうまく乗り切れたシナリオを思い描いている。

また、この新しい団体によるイベントはどんなものだったのか、いつか私も何かの上映会に参加していたのだろうかともはや叶わないたらればに思いを馳せる。

追記

今回の騒動を異なる価値観気持ちのぶつかり合いではなく、単なる「集団いじめ加害者」と「新しいことをしようとして潰された被害者」の物語としてとらえる人の多さに少し驚いてしまった。

人の感性って思いのほか色々あって、絶対に分かり合えない価値観の人も少なくない。

自分理解共感できる痛みは尊重すべきもので、自分理解、納得できない痛みは非難していいなんていう善悪の考え方は社会で生きていくにはあまりに危うい。だいたい他人気持ちは誰かを納得させるために存在しているものではない。

その気持ちに至った土台の中に明らかな事実誤認が含まれているのならそれを教えるのはアリだと思うが、気持ちのもの否定は争いしか生まない。

もう一つ、設立者の全面撤退により、今回の会社に対する議論ではなく結局クレームつけて潰したという構図だけがクローズアップされてしまい分断が加速しそうだなと思っていた。

設立者さんの人柄やコンテンツ愛で補われている部分も多々あったが、会社設立までのプロセス問題提起されてから設立者さんの対応はいずれも思うところがある。これが全て有耶無耶になって批判勢がただ悪者になるのも違うのでは。

しかし、設立者さんは撤退の際問題提起をされていた方にDM捨て台詞暴言を送りつけていたとのことで。相手の言い分を理不尽と思うなら公に反論してもっと議論を重ねればよかった。批判を押し切る選択肢も、少し主義を曲げて社名を変える、スピーディーユニット名を全面に出す(そういやこの話どうなったん)などやりようがないようには思えない。

これまでの対応でもあまり良い手を打たれているとは思えず歯痒い思いをしていたが、これは本当に悪手だったと思う。そもそもネット上での騒動なんだから裏で仕返ししようとバラされるに決まってるじゃないか。本文スクショを貼られなかっただけ良かったと思う。こんなことをしたら「愛と勢いに溢れたちょっと不器用だけど応援したい人」のイメージまでも失ってしまう。

サークル内の兄貴分としてはとても頼りになる人、けれどいざ法人化となったとき批判する勢力を納得させるだけの力量もなく、かといって一度全て飲み込んで突き進み結果で語るだけの推進力もなく(社名を絶対に譲歩できないのであればこれが一番現実的選択肢だった)、多くの人が寄り添った「優しすぎた被害者」の立場までも本人が手放しかけている。

もしくは人一人の力なんて結局はこんなもんなのかな。

応援してます!」だけではなく現実的な助言や手助けをくれるパートナー存在が見えなかったことが個人的には一番残念。

anond:20240217182658

「この蛇の長さは35センチだ」も多数決なのか?

>「客観」とはつまり主観」の集合体ですか?

違います

・「主観」は各個人意見

・「客観」は意見ではなく事実

と言えます

「この蛇は長い」は主観です。

これぐらいは短いよと思う人もいれば、

怖がりの人だと、うわー長いと思う人もいるでしょう。

「この蛇の長さは35センチだ」は客観です。

怖がりの人もそうでない人も変わりませんし、

意見ではないですよね。

2024-02-14

婚活サービス登録する直前で逃げ帰って、結果的結婚できた

30代後半で出会いもなくてもうどうしようもなくて、老舗の婚活サービス登録しようと銀座センターに出かけて行った。

そこでアンケートに延々答えて、その結果からカウンセラーの診断みたいなのを受けて、お値段とか期間とかセックスしちゃダメとか色々交際ルール説明をしてもらって、「では最後にもう一度規約をご確認いただき、ここにサインをお願いします」というところまできて、いや、やっぱりやめますと席を蹴って帰ってきた。

理由は、自分が単なるデータフローになってしまうように感じたから。

自分仕事で、市場データセールスフォース取引データなんかを見て、この商材はどんなターゲットに売れるか、だとか、案件の成約率を増すにはどうすべきか、だとか、そんなことばかりやっていた。いまこの場でアンケートに答えて分析された自分というのは、まさにそのデータひとつだった。個人ですらない。様々な属性集合体。この属性とあの属性マッチ率が高く、別の属性情報を加えるとスコアがこうなって……という感じで、自動的プロセスされていくだけの存在

そして会場の隣の部屋では、まさにそのプロセス実体化みたいな「婚活パーティ」が繰り広げられていた。男女が5分間隔ぐらいで顔を合わせて、話をして評価する、そんな仕組み。

「寂しさ」、「人恋しさ」、「誰かを好きになりたい」みたいな動機根本にあってここに来たのに、なんでバラバラデータとして処理されるんだ。

40手間になってすごく青臭い感じだが、怒りが湧いてきた。これはちがう、人間として人間を好きになろう。次に会った人を好きになろう、ダメならそういう人生だ。そんな風に思い込んでその場を離れた。そして、その後これは本当にラッキーなことに、自分と同い年の女性たまたま、少し会話する機会があった。呪文のように「この人を好きになろう」と思い込んで、えいやでLINEを聞いて、「今度上野美術館で絵を見てみようと思うんですけど、興味ありますか?」と声をかけてみた。

で、半年後に結婚した。

彼女は、正直自分の好み(だと思っていた)のルックスとは対極だったし、稼ぎがあるわけでもないし、性格も色々難ありだと思えるところもあった。でも、不思議なことに「好きになろう」と思い込んでると、その人の良い面の方が常に上回って感じられるようになった(と、振り返って思う)。同時に、自分にも難があるのが次々にわかった。マンスプしがちだし、気が付くと洗濯掃除やらせちゃうところがあったし、喧嘩して泣かせるようなこともあった。そういう自分が凄く嫌で、次は変えよう、好かれようと思った。そう思ってる自分不思議なぐらいだった。

で、結婚して5年経って、いまでも朝出かけるときキスするぐらいの仲の良さではいさせてもらっている。

出会いラッキーだったが、結婚まで持ってくことができたのは、婚活サービスへの怒りが原動力だったのかなと今でも思う。それに、お互い40手前で後が無かったし。

2024-02-11

結局セックスが1番手っ取り早い幸福である功罪

異論は大いにあると思う。

そしてこれは決してセックスできない君たちを否定する内容ではない。

はてぶ自体セックスマーケットにおいては無価値インディビジュアル集合体によって支えられている貴重なカルチャーであり、知能と自由意志を持った我々人類が辿り着いた一つのオアシスだ。

しかしながら、世の中の苦しみの多くが金で解決できるように、セックス解決される事柄も山ほどある。

ごめん、ツラツラと書こうと思ったけど、文学ジェンダームーブメントベースとなっている鬱憤不安なんかはセックスで満たされていたら生まれなかったよな、って事。

2024-02-08

anond:20240208130504

ここで言うリベラルは我こそはリベラルネット活動家たちの声がデカイ連中の集合体だよ

から必然と鼻持ちならねえフェミリベラル共産活動家が増える

2024-02-03

anond:20240203160825

人間集合体である社会は、物理的に可能とか効率的だということとはまた別の力学支配されている。

道路啓開とか緊急の物資配布のような作業にはリスク管理リソース配分といった調整作業応分費用がかかる。誰がそれを担保するのか。

ボランティア問題解決型の思考をする。ゴールから具体的に必要施策を逆算して「それなら自分たち有志でやれる」「じゃあやろう」となる。

ヒマなお人好しをとりあえず呼び集めて命ずればそのとおりやるだろうというトップダウン型では何も動かない。

現場ニーズから逆算して自分の手持ちカードにつながった時にボランティアという選択肢が生まれるのだ。

ダメ元で呼びかければ誰か奇特な人がやってくれるんじゃねえの?というような夢想はどこにも繋がってない。

被災当事者にとっては、そういうコタツうつらうつらしながらの夢想タネにされること自体が、どこにも吐き出せない毒を少しずつ胸にためることにもなる。

2024-02-02

俺の人生なんてたいしたことないよ

そう、たいしたことないんだよ

俺が半年必死になってどでかいストレス抱えてやってる仕事なんて、本当はたいしたことないんだよ

自分がつらいって思うからつらいだけで、落ち着いて考えてみればたいしたことない仕事集合体なだけなんだよ

他の会社では他の人が同じようなことを易々とやっているんだよ

から俺も易々とやればいいんだ

こんな仕事はなんてことなことなのさ、と

そういう気持ちでやれば、それはなんてことないことになるのだろう

 

思い返せば最初はそうやってできてたじゃないか

初めてこの仕事に向かい合ったときは新鮮な気持ちで楽しく速やかに手を動かせていたよね

でもだんだん同じことの繰り返しな毎日に飽き飽きし、また、他者怠惰仕事っぷりにうんざり

いつしか重たい気持ちを背負いながら仕事をするようになり、仕事効率が下がり消化しきれない仕事が積み上がり

それがまた俺の気持ちを重くしていったんだよなぁ

 

俺に必要なのは仕事の見えるかとかToDoリストなんかではなく

俺がやってる仕事なんてたいしたこといから、ぽぽいのぽいで簡単に終わるはずなんだよと信じる心かなぁ

今日も新鮮な気持ちで頑張っていきまっしょい

2024-01-30

加害者が一番守られるのはどうなのか

犯人を決めつけて誹謗中傷するのは良くない、わかる。

でも原作を改変され約束反故にされ、当人に訴えても聞き入れられなかった被害者世間に「約束反故にされた。原作者であり自分作品ではあるが本意の形ではない」と声を上げ

ファン視聴者TVを見る潜在顧客番組を成り立たせるテレビCMを打つスポンサーの潜在顧客)が「それはおかしい」「いじめを見ているようで不快である」「弱いものが守られる社会であるべき」と意思表明することは自由ではないか

大きな騒ぎにしたのは外野、騒ぎすぎ、というが、TVが成り立っているのはスポンサーがあるからであり、スポンサーCMを打ってテレビの前の顧客商品を買わせることで益を得ているわけだ。

ならば出資者問題視するように「弱いものが守られる作品でなければCM番組も見ない」「弱いものいじめするキャスト作家を使わないで欲しい」と表明するのは正しい抗議ではないか

原作者さんは誰にも守られなかったからもう声すら上げられないのに、追い詰めた発端を作った人々は守られて「環境から変えるべき、誰かを非難すべきではない」と言われるのか?

環境ってなんだ?個々の認識集合体こそが環境ではないのか?

その集合体の中で強い権力を持つ個体認識が偏って、誤っていればこのような事態が起きるのは必然ではないか

誹謗中傷(「殺人鬼」と呼んでみたり「お前が殺した」と責めること)は良くないが、過ちを過ちだと問題にすること(本人に向けてではなく本件の問題点をつぶやくことやSNSトレンドにして社会問題にすること、スポンサー業界に伝わるように抗議すること)は過ちではないのではないか

誰をも責めてはならないと言う話になってしまえば、力の弱いものは抗議する力を持てない。

ストだって誰かの不便を強いたり、誰かを傷つける。交通のストのせいで死に目に会えず人生が変わる人もいるかもしれない。でも誰かを傷つけるならやらないべきだと言うのか?そうじゃないと思う。

難しい境界線だが過ちに口をつぐんで、定義もできてない「環境」のせいだ「業界」のせいだと、対象をふんわり濁してしまうのは良くないのではないか

2024-01-23

anond:20240123130651

大体このパターン集合体増田だけどw

自然消滅なんて普通だし、むしろそれを目指すもんだぞ

はっきり切らなければ原則に反する!とかアスペの奴らが刺したり刺されたりする

2024-01-19

可哀想な家庭環境について

凶悪事件を起こした犯人の家庭環境が悪いときに、こんなに可哀想なんだからしょうがないだろうという論調がある。

これが適用されるのは犯人が親を殺したとき場合のみだと思う。

何年か前に祖母と母に虐待されていた子どもが二人を殺害したときに周囲から減刑嘆願書を出されていたと思う。(記憶曖昧なので詳細は違うかも)

自分を壊した直接的な人間を殺したときは同情の余地があるけれど、全く無関係人間被害に遭ったとき厳罰を受けるべきだろう。

社会が悪いというが、社会集合体社会が間接的にあなたを傷つけても、ネームドの個人が傷つけたわけではない。

ただこれを曲解する人もいるかもしれない。例えば特定少年のような考えの持ち主は、あの女が自分を傷つけたか厳罰を与えてやるというようになる。

個人が罰するのではなく法が罰する理由がここにある。しか最近司法も信用できなくなるようなこともあり難しい。

2024-01-18

anond:20240118125852

売って金に換えんと意味がない

ここに理解の誤りがある。株式投資信託を前提にすれば組み込まれ株式集合体であって、その企業が稼いで配当した金は投資信託に組み込まれる。いまは非分配型が主流なので隠れてしまいがちだが、分配型であれば分配金として持っているだけで受け取れる(非分配型は受け取らずに株の所有持ち分を増やす)。投資である企業収益を上げ続ける限りは価値は増大する(その収益が怪しくなるのが「不景気」。ただし波があれど長期的には成長する方向にベットしている)。

2024-01-13

anond:20240113213100

未婚男性の1.6%、既婚男性の5.9%が年収千万以上なんですと言われてもな

1.6%の方は低身長ホビッツの集合体だろうなという感想しかない

逆に既婚男性年収100万以下男性の既婚者1.2%は人権のある身長で、未婚者5.0%はホビなのは一目瞭然よな

2024-01-12

anond:20240112164604

そもそも都市部田舎を出てきた人たちの集合体

故郷を離れることでしか生きられなかった人たちだ

そんな言葉が響くわけがなかろう

2024-01-06

東京の悪い面は全て地方のせい

冷たい東京人は大体北関東東北田舎モン出身者だから気にすんな

anond:20240101030604

田舎者の、つまり余所者集合体から

大阪人余所者にも良くも悪くも構うけど

東京人のもの余所者からどうしようもない

anond:20240101080245

zonke まぁな。 ただ、東京の奴って結局地方から集まってきた人達なのよね。生粋東京人なんてそんなおらんのよね

https://b.hatena.ne.jp/entry/4747158238831247887/comment/zonke

2023-12-14

池内さんめっちゃ先見の明があったんやな

ネトウヨとは誰なのか?【池内恵】【鈴木一人】【遠藤乾】

https://koken-publication.com/archives/335

池内 私もかなりの危機感があるんですね。うっかりしていると、ネトウヨ的な意見社会を覆うことになりかねない。今は一つの大きな敵やターゲットがないから、そうはなっていないだけの話なのかもしれません。そういう対象にされることを誰もが恐れていて、「自分はその対象にはなりたくない」という行動を取るわけですね。

池内 誰かがやらなければ、結果としてネトウヨネトサヨ諸君おかし意見が通ってしまうかもしれない。だから、しっかり正しておかなければ、うっかり間違えてヘンなことになりかねないところがある。ネット上では、「まともな人が手を出せないから、ここは黙っていよう」とみんなが知らないフリをしていると、まともじゃない人ばかりが湧いてきます。そうなると、そちらがマジョリティであるかのように一瞬錯覚して、社会の頭がおかしくなって、ヘンな判断をしてしまうということが十分あり得ると思うんです。

池内 政界から大学まで、そこで敵にされたくないというネガティブ自己保身が、結果的制度を潰してしまうという結果につながりかねない。

池内 果敢に立ち向かうことをせずにみんなで逃げた結果、主体が誰もいなくなってしまったという状況が一番怖いと思いますね。悪口言っている人たちの主体なんて、誰にもわからないわけです。アカウント自体実態のないものだったりしまからね。すべて匿名なわけですから主体性やアイデンティティが伴っているわけではないことが多い。そもそも悪口を言っている人も実際は、ただ単に構ってほしいだけではないかと思える人がいっぱいいます。口汚い言葉を使っているけど、この言い方をすると相手が反応してくれるのではないかと思って挑発していたりする。むしろ、多少意に反したことを言ってでも目立ちたいと思っていたり、ただ相手にして欲しいという寂しい人だったりする。

 だから、そんな無責任発言を参考にして、結果的おかし世論形成されてしまうのは危険なことです。マイクロソフトが開発したAI人工知能チャットロボットTayに、WEB上に溢れるビッグデータから学習して自動的ツイートさせる実験を行ったところ、「ヒトラーは間違っていない」とナチス賛美を言い出したので、1日余りでスイッチを切って実験を中止しなければならなくなったという話がありました。この場合スイッチを切ることができたので良かったのですが、「AI判断は正しい」とか「AIに嫌われたくない」からAIが決めたとおり実行しますということにもなりかねない。いつかはそういう過ちをどこかで犯すような気がしますね。

池内 「雑兵」と呼ばれた瞬間にピタリと止まる。ハタと気が付くわけです。「オレもしかしたら雑兵になりかけている? しかも、狩られちゃうの?」と。そうするとそれまで他人をいじって遊んでいた人たちが逆に「笑われる立場なの?」ということに気が付くと、クリックピタリと止まる瞬間がありましたね。そういう時に、第三者合いの手を入れるとシューッと減るんですよね。そういうふうに実名で何人か懲らしめると、サーっといなくなるんですよね。まずは、個性実態のあるアカウントと、粗製乱造アカウントや全く考えなしに煽動された人たちを見極めます。形の上では大規模に増幅しているように見えますが、その中でコアになっているアカウントは限られていますから、そこを叩く。逆に、考えなしに付和雷同してうっかり口を挟んで来た哀れなアカウントをいくつかサンプリングして批判して晒すこともあります


池内 その不満は、政治的解決することが原理的にできない内容のものであることが多いんですよね。だから、単に「オレを認めろ」と言っているだけになっている。しかも、その時にポジティブに認められるような要素がほとんどない。よく言われているように、日本人であること以外は誇りに持てることがなくなっているんでしょうね。だから日本を蔑むような対象には敵意を剥き出しにして罵る。ネタが尽きたように、朝日新聞だったり左派系の政治家名前だったり、そういう限られたアイコンに対して罵倒する。こういう集合体は、煽っている人に触発されてそこに加担していく人も一定数いるのだと思います。彼らが何でまとまるのかと言えば、非常にネガティブな「何らかの敵」です。それも実態のある敵とも言えないような想像上の敵ですね。「味方」「自分たち」は何かというと、「日本人である」というだけしかない。

40歳過ぎて視力が落ちてきたのでメガネ検討してるが、メガネに少々失望している

メガネかけたらなんかこうバーっとメガネ視界全体のピントが合って超クリアになるんじゃないのか…

距離によって対応が違う虫メガネ集合体みたいな使い方しかないのか…


いや、人間の脳はそれで補正してよく見えるようにしてくれる

視力が落ちてないときの視界も本当は周りはボケている、オリジナル水晶体もそこまで完璧ではない)

というのは理屈ではわかるのだが

2023-12-09

きおくのかけらは、いのちのかけら

その村は、実に奇妙な村だった。

おおよそ布と呼べぬようなボロきれを最低限、身にまとう格好で生活し、浅黒な肌は古来の原住民を思わせ、ぱちりとした大きな目と背の高い鼻は相手を威嚇するようであった。

こうした彼らアングロサクソン系に属さぬ種族の暮らす集落は、全体の人数はおおよそで百人前後

森林に囲まれ場所集落を築き、たいして大きな村とも言えず、互いの顔を知り合い、共存して暮らしている。

まさに一個の家族、巨大な集合体のようなもので、かれらは時計時間に暮らさず、出来事時間によって生活をする。

まり村のF氏と午前11時に会う約束をするならば、「11時に会おう」と言うのではなく「子牛を散歩に連れ出す時間に会おう」という必要があった。

尤も、11時ならば彼は散歩に行くので会えないことにはなるだろう。

然しこうした出来事時間を持つ社会的集団は少なくなく、それはむしろ、急激に進歩を遂げた我々とて同じ。

以前、といっても数百年ほども前だが、とにかくそのころは我々先進国であろうと正確な時計は持たず、正確な時刻を知らずに暮らしていた。

故に、時間、というもの絶対的ものに成り得ず相対的であり、さらには個人的

各町、各村によって時間は異なり、時計がずれている事さえも常識であった。

からこの町が奇妙だと、

そう評するのは何も、こうした出来事時間に添って暮らすためではない。

彼らは我々との認識が、著しく異なっていたのだ。

そう、”死”に対する認識が。

彼らは”死”を恐れない。

いいや、そうではなく、むしろ彼らは”死”を喜んで受け入れるのだ。

まるでそれが大層めでたい事のように。

その事に気付いたのは、滞在三日目の朝だった。

日の高さが頂点付近にまで登り詰めた頃に起床すると、いつもと違う雰囲気に戸惑い、太鼓の音などが聞こえ、辺りには明るい民謡のような、陽気な歌声が響いて回った。

それからテントのような簡易的な宿を出ると、村の人々はみな笑顔で、子供などは小躍りしている。

「なにごとかね?」

私は腹に贅肉を垂れ下げる彫り深い顔の中年男性に訊ねた。

するとその男は「ああ、あの家あるだろ」といって軒先の一軒を指差し、あそこの爺さんが、雄鶏の鳴く頃に死んだんだ、と私に言った。

満面の笑みでだ!

私は奇妙に思い、「どうしてみな笑い、騒いでいるのだ?」と訊ねた。

すると男は不審者を見るような視線を私に向け、「めでたいからに決まってるだろう!」と言った。

私はますますからなくなって困惑したが、同時に彼らの習慣にえらく興味が沸いては、滞在予定の一週間を変更し、長期に渡って居続けよう、という気になった。

私は此処で一年を過ごし、教えられ、そして理解した。

彼らが何故 ”死” を祝福し、そして恐れないのか。

そもそも、私が間違っていたのだ。

”死”は恐れるものではなかった。


私は彼らに訊いた。

「どうして”死”がめでたいのか?」と。

すると彼らの一人は笑顔でこう言った。

「ようやく、完全な一人の人間になるからさ!」

私は人間だ。

そして、私は既に死んでいたのだ。

それだけに過ぎない。

割れの私は既に死んでいて。その死んだ片割れこそが ”死” だったのだ。

もしこれまでの私と今の私とに違いがあるのだとすれば、それはその事に気付いているかどうかの違いに過ぎない。

私は教わった。

誰もが、いや、どの生物も、不完全で生きてるのだということを。

それは半身が欠けているからであり、人間なる生き物は、そうしてかけた半身に

”死”

という名前をつけたのだ。

誰もが死を恐れながら、死に惹かれ、死に関して興味を示すのは無理もないこと。

理由が分ければ明白で、それは自分を求めていての行動だったのだ。

誰もが自分のかけらを求める。

しかし同時に、自分を知ることを恐れる。

それはそうだ。

キミは死ぬ、いや、キミがキミの半身を得たとき

キミは知ってしまうのだから

すべてのことを。

私の半身、それが持つ、きおくのかけらは、いのちのかけらなのだ


今の私は好意的に ”死” を向い入れよう。

いいや、これでは言い方が適切でない。

自分

を受け入れる。

ただそれだけのことだ。


私は枝木のように細まった腕を床で十分に見つめた後、ゆっくり目を閉じる。

すると彷徨い続けていたであろう、”自分”を見つけては。

やあ、こんにちわ

そんなふうに声をかけて、

そんなふうに思いながら、

私は安らかな表情をして、意識を失った。

2023-12-05

anond:20231204214217

人の五感のうち、データ客観的言葉を用いて表現することが難しいのは味覚と嗅覚なんだよねって偉いお爺さんが言っていました。

味と香りというもの化学的に見ればさまざまな成分が複雑に絡み合った集合体でありそれをただしく知覚して言葉に起こすことは極めて難しいうえ、その感じ方と感覚表現する言葉の使い方についても各人がこれまで生きてきた中で得た経験知識によって異なるものから共通認識を持つだけでもたいへんなんだよねって。

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