はてなキーワード: 動物農場とは
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やりかったように生きた結果、それでも人生は辛かったってことらしいな。
せっかくだし人生を終える前にメンタルの病院にでも行ってみようかと思ったけど、よく考えたら仕事の予定が立て込んでるから予定が見えねえな。
やっぱさ、土日でもどこでもいいから『絶対に休めて業務上の関係者から絶対に電話がかかってこない日』を手に入れられる仕事に就けないなら負け組だったんだろうね。
いやでもこの理論でいうと働いてない資産家以外は全員負け組なのかな。
ニートだって親の機嫌が悪いときには突然家族会議タイムが始まるし、アルバイトだってシフトの穴を埋めろと突然相談を持ちかけられるし。
やっぱ働かずに生きていけるやつってずるいわ。
この国って勤労の義務があるはずなのに、なんか投資活動とかいうのやったり貯金を使い潰したりなんかの利子だけで生きていける連中がいるっていうの本当にどうにかならんのかね。
上級国民の前では憲法なんて引っ込むっていうのがどうしようもないよね。
現代日本に住んでいるっていうことを根拠に動物農場笑えるようになってから生まれ落ちたかったよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
他力本願もいいところだなあ。
でも俺に出来ることを必死に考えだしたらガソリン撒いて自爆するはめになるだけだし、もう考えるの辞めるか。
辞めた。
考えるの辞め。
なぜ行くのかが書かれてない。
多分学校も教えてない。
「老人たちの代表たる老人から主権を取り返せ!」「俺達だって国民だ!俺達の存在を消させるな!」「高齢化社会クソくらえ!老人共は足が悪いが俺たちは五体満足。寝込んでるだけの奴らから社会保障を取り返せ!」「若者はたしかにいる。働いてる税金を収めてる。国政に意見する権利がある」そんな言葉はどこにもない。
「てんてーの言うことを聞くいいこちゃんは選挙いくのらー(^q^)」しか書いてない。
絶望だ。
選挙に行くことで我田引水を繰り返す高齢者から未来と今を取り返す話なんて誰もしない。
洗脳だ。
ネトウヨと呼ばれる層は基本的に他の政党を頭から否定しているせいで、自分の嫌な情報を一切見ようとしない。パヨクと呼ばれる層も似たり寄ったり。
仮に彼らに「一つでも対抗勢力で素晴らしいと思った政策を挙げてみて」って聞いても、「野党(与党)が出す政策は全部最悪、論ずるまでもない」とか恥ずかしいことを大真面目に答えてくるので、こんな奴らにも選挙権が与えられているのは恐ろしい話だなと思う。
というわけで、今回はネトウヨ向けに、ネトウヨから見ても各種政党の評価出来るところを一つだけでも挙げていこうと思う。
共産党は罪作りな党だ。優秀な若い子たちの視野が狭いのを利用して政治活動に誘い込み、民青の名のもとに無償で街宣やアジ行為に使役し、結果共産党で出世するのは民青で上の立場にいた者たちである。まさに現代版動物農場だといえる。
共産党は、過去の歴史よりどうしても反社会的勢力の拠り所になる側面がある。共産党の勢力があまりに小さくなって地下に潜った場合、テロを含めた脅威度は跳ね上がる。なので自民なりが勝利することが明らかな選挙区の場合、支持をしていなくてもわざと共産党に投票する知識人もいる。政治の暗黒面をコントロールする政党であり、小さくなりすぎてはいけない。最近は大きくなりすぎているのでいらぬ心配だとは思うが。
なお政党助成金と企業献金を否定しており、活動資金は大部分を赤旗で賄っている。災害時に被災地へいち早く寄付したいと思った場合は、その地区の共産党に相談すると良い。野党なのでヒマであり、彼らも自身の活動になるので、大喜びで迅速に間を抜かず処理してくれる、という利用方法はある。
創価学会からの安定した票集めを武器にする党。与党。自民党に対して与党の立場から諌めることが出来る、自民の暴走をコントロール出来る重要な党。まあ真っ当な人間は自分から投票することはないが、それでも一部、自民が嫌いだが野党に投票するくらいならマシと公明党に投票する人はいる。もちろん公明党に投票するくらいなら野党に投票したほうがいいという判断で、選挙区では野党、比例では自民に投票する人もいる。
自民好き好き人間にとっては喉に刺さった骨というか鶏肋というかという感じだろうが、政党としては票集めの苦労もなく、彼らが考える正しい主張を遠慮なく主張出来る立場であり、かなり日本の安定に貢献しているので馬鹿にしたものではない。創価学会も基本クソでほとんどの信者が不幸になる宗教団体だが、彼らが果たしている役目についても今度どっかで書いておこう。
自民が大嫌いだという人の受け皿。自民や安倍がうんこではないと思いこんでいる層に、これらの政党の存在意義を説明するのは難しい。党内の思想もバラバラでまとまりがなく、二枚舌やブーメランを多発し、政党としてのスタンスは常にぼやけている。自民は絶対にイヤ、でも共産党や公明党はあり得ない、というような人が投票先に選ぶ。そういう意味で安定した票集めが出来ているのにも関わらず、日本の政治において果たしている役目があまりに小さい。公明党以下かもしれない。
政党としてはリベラルを自称しており、リベラルを自称する多くの知識人はこの党に肩入れしているが、実際の所彼らの自称するリベラルは反主流くらいの意味合いである。既存の支配体制からの自由とかそういうのは、あまり気にしていない。反主流と解釈されるリベラル旗を振っているので、自民に同調することは立場的にまずない。
まあ自民が大嫌いなら彼らに投票せざるを得ないので仕方ない。安倍首相もうんこみたいなもんなので、どちらのうんこがマシか、というレベル。今までの生活にそんなに不満がないからいいや、という人は安倍を、そうはいっても限度があるだろうという人がこれらの党を選ぶ。なので「立憲民主党(なり民進党なり)に投票しているとか馬鹿じゃね?公約もうんこだし、政治家の経歴もうんこだし、お前の頭もうんこなんじゃね?」というような批判をして、万が一彼らが納得したとしても、彼らは最初から強く「安倍もうんこ」と思っているので意味がない。お互いに意味も収益もない討論をふっかけるのはやめよう。
すごくぶっちゃけると、政治家個人には基盤がないことがほとんどで票集めは常に大変のようで、組織票をちらつかせながらお願いをするとかなりホイホイお願いを聞いてくれる。まあ野党なので出来ることには限度があるが、都市圏で政治家という肩書を利用したいならば便利な党ではある。
新保守主義・改革保守、みたいなお題目で新しく生まれた政党。どっちがどっちとは言わないけれど、この2つの党を一緒に扱うのはもう片方に失礼かなという気もするが、まあ両方重要な党ではないのでいいか。
自民は本格的にクソだと思っているが、かといってリベラル()に投票するのも沽券に関わる、とか考えている層を上手く取り込んで拡大した。両党とも地方選挙からスタートしているが、自民の大御所市議会議員とか信じられないくらい横柄なベスト・オブ・うんこみたいな人間がものすごい権力を持っていることが多く、地方でその不満を抱えている層を見事に狙い撃ちした大変良い発想の政党である。しかしやはり地方を超えて共感を得るのは難しいみたいだ。
ネトウヨもこの層にはあまり反発していないようなので、自民だいすき、安倍だいすき、という層も「これはどうなの」というような政治家が自民内にいることは理解している場面があるようで、ここらへん傍から見ていて面白い。
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
書名 | 著者 |
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SEALDs 民主主義ってこれだ! | SEALDs |
時代の正体 | 神奈川新聞「時代の正体」取材班 |
右傾化する日本政治 | 中野晃一 |
社会を変えるには | 小熊英二 |
デモいこ! | TwitNoNukes |
私達は"99%"だ | 「オキュパイ!ガゼット」編集部 |
革命のつくり方 | 港千尋 |
デモ!オキュパイ!未来のための直接行動 | 三一書房編集部 |
希望の政治学 | 布施哲 |
日本人は民主主義を捨てたがっているのか? | 想田和弘 |
立憲主義について | 佐藤幸治 |
ぼくらの瀕死のデモクラシー | 枝川公一 |
政治はなぜ嫌われるのか | コリン・ヘイ |
日本国憲法新装版 | 学術文庫編集部 |
法とは何か | 長谷部恭男 |
憲法とは何か | 長谷部恭男 |
読むための日本国憲法 | 東京新聞政治部 |
タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか | 小林節 |
憲法は、政府に対する命令である。 | C.ダグラス・ラミス |
国家の暴走 | 古賀茂明 |
検証・法治国家崩壊 | 吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司 |
ソフトパワー | ジョセフ・S・ナイ |
リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください | 井上達夫 |
キング牧師 | 辻内鏡人、中條献 |
I Have A Dream! | マーティン・ルーサー・キング・ジュニア |
隷属への道 | F.A.ハイエク |
世界を動かした21の演説 | クリス・アボット |
戦争プロパガンダ10の法則 | アンヌ・モレリ |
精読アレント「全体主義の起源」 | 牧野雅彦 |
ヒトラー演説 | 高田博行 |
劇画ヒットラー 復刻版 | 水木しげる |
悪あがきのすすめ | 辛淑玉 |
独裁者のためのハンドブック | ブルース・ブエノ・デ・メスキータ、アラスター・スミス |
輿論と世論 | 佐藤卓己 |
永遠平和のために 啓蒙とは何か 他3篇 | カント |
アメリカのデモクラシー(1上下・2上下) | トクヴィル |
国家(上下) | プラトン |
自由論 | ミル |
一九八四年[新訳版] | ジョージ・オーウェル |
動物農場 | ジョージ・オーウェル |
イェルサレムのアイヒマン | ハンナ・アーレント |
人間の条件 | ハンナ・アレント |
ソース:
http://pbs.twimg.com/media/CSmpHEIUwAAOfO2.jpg
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=10696
インターネットの発達で、紙の本や雑誌は滅びる――そういわれてから何年たつだろう。そしてそろそろ事態が動きはじめたかと思われる節がある。まずグーグルが世界的にすさまじい量の書籍の電子化に乗り出した。コンテンツはこれでかなりの蓄積ができた。またリーダー機器の面では、日本では未発売だがアマゾン・コムがキンドルという電子ブックリーダーを発表し、一定の成功を収めている。流通も、アマゾンの電子ブック販売や、アップルのiTunesストアなどが手法をほぼ確立しつつある。
だがその過程で、電子メディア特有の問題も次第にあらわになりつつあるようだ。それを示す事件が最近立て続けに起きている。
アマゾン・コムのキンドル用に、オーウェル『1984年』『動物農場』の電子ブックを買った人は、6月に驚愕した。版元に問題があったから、としてこれらの本が手元のキンドルから勝手に消し去られていたのだった。いったん買った本や雑誌やソフトが、自分の本棚やパソコンから勝手に消し去られるなんて、これまでは物理的にもありえない!
アマゾンは、この対応について平身低頭し、二度とやらないと宣言した。が、そもそもそんなことができるということ自体に多くの人が戦慄した。そしてその舞台がまさにそうした情報統制社会の恐怖を描いた『1984年』だったとは、なんたる運命の皮肉か。
一方アップルは、オンラインのiTunesストアで販売されるiPhone/iPod用のソフトの健全性に、たいへん神経を使っている。わいせつ語が入っているソフトは、軒並みアダルト指定を受ける。先日、なんと普通の英語辞書がこれを理由に改変を要求され、ストアへの出店を拒否された。アップルは対応のまずさを認めたものの、方針にはいまのところ変化はない。
わが国では動画投稿サイト、ニコニコ動画が同様の問題を示した。酒井ノリピーの昨今の騒動を受けて、彼女の替え歌を歌唱ソフト『初音ミク』に歌わせた動画が投稿された。ところがなんとその歌唱ソフトのメーカーであるクリプトン・フューチャー・メディアが、そんなことに使われたら自社ソフトのイメージダウンだ、と称して削除を要求したのだ。
当然ながら彼らはそのコンテンツについて何の権利ももっていない。が、信じられないことに、ニコニコ動画を運営しているニワンゴは、この無根拠な抗議にあっさり応じて、問題の動画を削除してしまった!
ニワンゴの経営陣でもある西村博之がこの対応に疑問を述べ、その後同社は、問題の動画を復活させた――投稿者に対する自主検閲を促すコメントつきで。
ネットは著作権無視の違法コピーが横行する面ばかり取りざたされることが多い。でもじつはデジタルコンテンツの真の問題は、コントロールができすぎてしまうことなのだ。今回取り上げたケースが如実に示しているように。
これはネット法学の第1人者ローレンス・レッシグの10年前からの主張だが、それが急激に現実味を持ち始めている。紙媒体では物理的にできなかったことが、デジタル媒体では平気でできてしまう。そのとき、いま当然と思われている権利や自由があっさり破壊されかねないのだ。
いま多くの日本のコンテンツ運営業者は、抗議があればそれが正当なものだろうと不当なものだろうと、人に不快感を与えてはいけません、といった低級なお題目の下に問題のコンテンツをとりあえず消して、ほとぼりが冷めるのを待つ、というのがありがちな対応だ。ニワンゴの対応はその好例だろう。ブログの罵倒合戦くらいならそれでもいい。
だがデジタルメディアが紙媒体を置き換えるなら、紙媒体で建前にしても重視されている規範をどう維持するのかも考えるべきだ。目先の個人的な快・不快なんかより重要なことが世の中にはあるんだから。デジタルコンテンツも、それを考えざるをえなくなりつつあるのではないか。そしてそれを私企業の倫理だけに任せられないとしたら、どんな規制がありうるだろうか?
じつは今年、そのヒントになりそうな出来事がもう1つあった。脳科学者の肩書で各種メディアに頻出している茂木健一郎が、ネット上のボランティア執筆による百科事典ウィキペディアでの自分に関する記述に文句をつけ、それをかなり我田引水なかたちで大幅に書き直した。それに対して項目執筆者たちはひるむことなく、ウィキペディアの執筆ルールに基づいて茂木の苦情に形式的には対応しつつ、ほぼ従前の記述を復活させて、誠実な対応とメディアとしての中立性を見事に両立させたのだ。
こうしたネット上の自主的な倫理や規範も多少の可能性があるのでは? むろん、それがどこまで公的な権利保護の規制を補完代替できるかとなると、まだまだ考える必要はあるのだが。