はてなキーワード: 比喩とは
インテリ層の良くない部分が出ているので、あえて名指しで批判する。
シロクマ先生の書き方は良くないです。今すぐに謝罪して記載を改めるべきです。どんな人間も馬鹿にされたことは敏感に感じ取ります。
もしも本当に、心の底から馬鹿にするつもりも嘲るつもりも無かったのであれば、全ての比喩表現を直接的な表現に改めて、その上でどのように受け取られる可能性があるか考えてみてください。
シロクマ先生の以下の記事は、齋藤知事のパワハラと全く同じです。
ビバ! デモクラシー!
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20241119/1732024800
斎藤氏はパワハラ疑惑を巡る認識を問われると、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくしたことはあった。これがハラスメントに当たるかは第三者委員会などで審議されることになる」と語った。
小学生を含めて(個人的な感覚では、不満を表明できるのは小学三年生前後)、悪意には非常に敏感です。どのような言葉遣いであっても馬鹿にされたかどうかは瞬時に理解します。
「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という「良かったですね」という物言いは、対象を嘲る言い方です。自覚が無いのであれば今すぐに改めるべきです。
以下、具体的に指摘します。
「今回の選挙は、民主主義を正しく反映したと言えるのではないだろうか」という書き方ではいけなかったでしょうか。
なぜ、「民主主義が三度の飯より好きな人には」と、民主主義を好ましいと思う人を「三度の飯より好きな人"には"」という表現にして限定しましたか?
今回の選挙結果を、揶揄する意図が無いのであれば即刻改めるべき表現です。
他の支持者との一体感を体験しやすい仕組みのおかげで、「いいね」や「シェア」ぐらいでも推し活気分や選挙活動気分を味わえたりする。
「自分は、いいねやシェアボタンを押す行為は、選挙活動とは言えないと思う」と書き方ではいけなかったでしょうか?
なぜ、「推し活気分や選挙活動気分を味わえたり」という、自身で「参入する敷居がものすごく低い」と書いているにもかかわらず、「気分」や「味わえる」という表現にしましたか?
他人の選挙についての関わり方を見下すつもりが無いのであれば即刻改めるべき表現です。
SNSや動画にじかにコメントする、という方法もある。なにもコメントが秀逸である必要はない。凡庸なコメントでも、論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない。支持する人への応援コメントでも、敵対者への批判や非難のコメントでも、数多く集まりさえすれば強力なコメントたり得る。どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ。誰が言ったかや何を言ったかだけでなく、何人が言ったかも重要であることを、いまどきのネットユーザーが知らないわけがない。
「どんなコメントであっても、200も300も連なれば有意味になってしまう。論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、いまどきのネットユーザーにとっては、何人が言ったかが重要になってしまう。私はそれを好ましいとは思わない」と言う書き方ではいけませんか?
どのようなコメントであっても数が連なれば有意味になることが好ましくない、もしくは危険だと思うのであれば、そう表現すべきではありませんか?
なぜ、「事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない」と許容したのにもかかわらず、「どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ」として、自分と同じコメントをする人が200や300ある人たちを「しょうもない」と馬鹿にしたのですか?
他人のコメントの書き方を馬鹿にする意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
それらは従来型のマスメディアが機能した帰結でなく、双方向メディアとしてのインターネットが普及し、猛威をふるった結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとしてはびこるようになった、と表現すべきだったと思う。
「それらは従来型のマスメディアが機能した帰結では無く、双方向メディアとしてのインターネットが機能した結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとなった」という書き方ではいけませんか?
もしくは「双方向メディアとしてのインターネットは、従来型のマスメディアの機能とは異なり、より積極的に他人に干渉するようになった」というような書き方ではいけませんか?
従来型のマスメディアを超えることによるなにがしかに危機感を覚える、好ましく思えないのであれば、それを直接表現すべきではありませんか?
「猛威をふるった」や「はびこるようになった」という書き方に、従来型のマスメディアよりも双方向メディアとしてのインターネットを貶める意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
特にこの表現は顕著なので注記しますが、「ならばマスメディアが猛威をふるいはびこっていた従来よりも良くなったでは無いか」と返答されるとは、本当に思いませんでしたか?
その返答に対して「マスメディアの方が優れていた」以外の回答を持っていますか?もしも持っていないのであれば、それは双方向メディアとしてのインターネットを見下した表現です。
「投票率が上がり、選挙活動への参加が増えたことは良いことだ」と言う書き方ではいけませんか?
馬鹿にする意図が無いのであれば「良かったですね」という表現は即刻改めるべきです。
単独の文言では無く、前後の文脈から、この文章を読み取った相手が「投票や選挙活動への参加を馬鹿にされた」と受け取らないと、本当に信じていますか?
「なるほど、コイツはインターネットで情報収集したり、いいねで応援したり、コメントを書いたり、自分で考えて投票した俺を、子ども扱いしているんだな」と受け取られる可能性が無いと思っていますか?
真摯に相手の人格を尊重してなおその表現しか出てこないのであれば、おどけた調子の文章を書くのは止め、少なくとも真面目な話題ではビジネス文書のように書くべきだと思います。
インターネットも含めた諸々をとおして、投票所により多くの人が足を運んだこと、より多くの人が選挙活動に参加したことだ。それって民主主義にとって基本的で必要不可欠なことでしょう?
段落内のおそらく骨子の部分である、この部分はとても良い書き方をしているだけに残念でなりません。
民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。
その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、それは捉え方の違いだろうと思う。
(「"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか」というのは、どのように書き換えてもアリストクラティア(優秀者支配制)を意味すると思うが、そこは民主主義の捉え方の違いだろう)
「民主主義は、時としてヒトラーのような独裁者を生み出すとしても、全員参加が理念であった」という書き方ではいけませんか?
前段の主張も含めて、文脈からは「民主主義とは、建前としては全員参加だが、本音ではバカは参加しないものとして上手く回っていた。バカが参加して壊れるのは制度の限界だ」としか読み取れません。
それ以外の意図を持つ文章として文脈を構成しているのであれば、全面的に書き直すべきです。おちゃらけた書き方をしようとするあまり、文脈上そう受け取る人がいても非難できないと思います。これよりのちの文章を読む限りではこの読み方をして欲しいと想定するしかないです。
(また、ヒトラーの例えを出しておいて「マスメディアという制御弁が民主主義政体を安定させる効果があったのは、たぶんそうだろう」と書く意図は量りかねます。ナチ党の躍進にラジオが大きな役割を果たしたことには一定の了解があるはずです)
いまどきの民主主義の理念を作り上げた人というと、ロックやルソーやジェファーソンといった近世~近代の思想家を思い出す。ところが彼らが生きていた時、末端の大衆にまで選挙権が行き渡り、末端の大衆の選択までもが民意にフィードバックされる民主主義を想像するのは難しかったのではないか。たとえば、民主主義の始祖たちの眼中に、立花氏がバカと呼んだ人々はどこまで含まれていただろうか?
少なくとも、ジェファーソンの名前を出して合衆国独立宣言で最も有名な一節である "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal,"を無視するのは看過できません。
このall men (すべての人々)に、大衆(シロクマ先生の言うところの「末端の大衆」)が含まれていないと推測するのは侮辱でしょう。もしもよく知らないのであれば名前をあげるべきではありません。
トーマス・ジェファーソンが、いかにマスメディアに悩まされていたか("nothing can now be believed which is seen in a newspaper. truth itself becomes suspicious by being put into that polluted vehicle")を知らずとも、
ほんの少しでも興味があれば、ジョン・ロックが人はみな生まれながらにして公平であるが、そのままでは不都合なので、人の承認のもと政府を作るであるとか、ジャン=ジャック・ルソーが間接民主制すら否定していたことなど、見聞きしたことがあるはずです。
彼らが、貴族や選良市民のみを対象として考えていただろう、末端の大衆(シロクマ先生が想定するのが、教育を受けていない人、政治に詳しくない人だとすると、当時の農民や奴隷、犯罪者等)は考えていなかっただろうと想定して枕詞に使うのは、不適切です。
(その後の段落は、シロクマ先生の想像や思いが書かれているので、別に問題は無いと思います)
個別の選挙結果が未来の制度設計の材料になっていくのも、民主主義のいいところだ。亀のようにゆっくりと、しかし着実に。ただし、こうした民主主義のドタバタを、ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう。未来が明るいといいですね。
この段落でも、その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、シロクマ先生の考え方を述べている部分なので良いと思う。
ただし、文脈上「全員参加という民主主義の建前を維持したまま、インターネットが深く介在する場合には"悪い民意"を取り除き、"良い民意"を選び取れる制度設計を、末端の大衆ではない我々が行うべきである」としか読み取れませんが、そういう主張でないとすれば記載を改めるべきです。
(私はそれをアリストクラティア(優秀者支配制)だと思いますし、良くないものだと思いますが、主義主張の違いなのでそれについて表明することは良いことだと思います)
「ただし、制度設計が改善される前の現在の良くない状態を、他国が狙っているかもしれない。改めるべき点は早急に改めるべきだろう」と言う書き方ではいけませんか?
「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」というのは、陰謀論と何が違いますか?何を意図して記載したのでしょうか。
「未来が明るいといいですね。」というのは、皮肉では無く本心からそう思っているのだとすれば、記載を即刻改めるべきです。
また皮肉を書いたつもりであれば、誰を皮肉ったのでしょうか?今回の選挙に参加した誰を馬鹿にする意図をもって表現されましたか?
シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、全体としては皮肉めいた、兵庫県知事選挙の結果を受けての現行の民主主義制度への感想でしょう。
これを、面白おかしいものとして読む人がいることは否定しません。(私もホットエントリーにあがってきたので読みました)
パワハラをする側にとって、されたものが右往左往したり泣いたり病んだり職を辞するのを見て愉快だと思うのと同じだという指摘です。
齋藤知事は、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくした」と表現しています。
前知事時代のパワハラを問題視した人は、この「業務上の指導や注意」の「やり方」を問題視したはずです。性根や意図、背景では無く、手法に問題があったのだと認識しているはずです。
愛があろうが、心の底から相手のことを思っていようが、パワーハラスメントに該当すれば、それはやはりパワーハラスメントなのだというのが、これからの社会での共通認識で合って欲しいと、自分は思います。
その意味で、シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、インターネットを利用して投票先を決定した人をバカだと呼び、彼らを選挙から排除すべきである、そうしなければ民主主義は壊れる、利するのは他国だ、という記事になっています。
そういう意味で書いたつもりでないのであれば、そう読み取れるようにおちゃらけた書き方をするべきではありません。すぐに改めてください。
(バカだと呼んだのは立花氏であるとか、選挙から排除すべきとは書いていないという、言葉遊びをするべきではありません。本当にその意図が無いのであれば比喩や暗喩の使い方が致命的に間違っています)
もっと言えば、記事全体が記事中に貼られた立花氏と同じことを言っており、そこから一歩も外に出ていません。
制度設計で排除すべきでは無いかと暗に書いている分、また「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」と記載している分、なお悪いと考えます。それは選良主義や陰謀論と具体的に何が違いますか?
そして、バカや犬や猫と同じと言われた側とすれば、率直にそう表明する立花氏に好感を持ち、シロクマ先生に嫌悪感を持つと思います。率直さは美徳であり、当てこすりは悪癖です。
なぜならば、立花氏は返す刀で「バカじゃ無くなればいい、キミはいまバカじゃ無くなった、立派な選挙民になったんだよ!」と導くからです。
シロクマ先生が、「自分はマスメディアが一定正しいものだと思っている。それを大きく超える力をインターネットが持つと証明されてしまったようで怖い。こんな選挙結果になると思わなかった」と思うのであれば、そう表現してください。
投票に行った国民を「お前らにはどうせこうやって書けばわからないだろう」という書き方で馬鹿にするのは即刻止めてください。
その積み重ねが、インテリ層への嫌悪に繋がり、わかりやすく自分を肯定してくれる者への同調に繋がります。
よい県政になりさえすればパワハラが許されるわけでは無いのと同じで、民主主義の問題だと思う点や選挙への在り方を指摘するのに他者を馬鹿にして良いわけではありません。
別に何を面白がろうが自由だけど、二言目には自浄作用が無いだの、パワハラは現代にはそぐわないだの言っておいて、中身が正しけりゃ表現は些末な問題と言う立場をとるなよ。
読み取り方の問題じゃないし、皮肉だから何しても許されるとか無いの。そういう表現は、お前らがバカにしているネットde真実と1ミリも変わらねえよ。
具体的にどう言う比喩になってるのか解説して貰いたいところだ。
捨てた下着を持ち去られる、みたいな要素って現実と何もリンクしてなくてノイズにしかなってないよね
絵は捨ててないし
見られて恥ずかしいものとかでもないし
持ち去られてもない(複製されてはいる)
面倒なのでAIちゃんに回答書いて貰いました、何度もやってる話題なので省エネ
皆さんは、みんなでご飯を食べる時、好きなおかずだけをたくさん食べたいと思うかもしれません。でも、みんなが同じおかずばかり食べていたら、他の美味しいおかずは残ってしまうし、お腹を壊してしまう人も出てきてしまいますよね。
社会も、みんながそれぞれ違う「おかず」を持っているレストランのようなものです。例えば、
みんなが持っている「おかず」は違いますが、どれも社会を豊かにする大切なものです。
例えば、「Aさんのおかずは、Bさんのおかずより美味しくないから、Aさんの意見は聞かなくていい」と言ったり、「Cさんの持っているものは、Dさんの持っているものより価値がないから、Cさんは大切にしなくてもいい」と言ったりすることです。
差別をなくすためには、みんながそれぞれの「おかず」を大切にし、尊重し合うことが大切です。
差別は、社会全体にとって良くないことです。みんながそれぞれの「おかず」を大切にし、尊重し合うことで、より良い社会を作ることができます。
現代社会における倫理的基盤は、人間の「尊厳」という抽象的概念に深く依存しています。人間は単なる物理的存在ではなく、意識と自己認識を持つ存在であり、その尊厳は一人一人が内包する不可侵の価値として社会の基本的な原則に組み込まれています。これを理解することは、知的な思考能力を持つ者にとって、社会の健全性を理解するための前提であり、個々人の行動基準を形成する上で不可欠な要素です。
社会の制度は、この「尊厳」を根底に置き、全ての人間が平等に扱われるべきであるという思想に基づいて構築されています。差別はこの尊厳を無視し、ある人々を不当に劣位に置く行為であり、その結果として社会全体の秩序が崩れる可能性があることを意味します。人間社会において抽象的概念を理解できることは、単に知識的なスキルを示すものではなく、社会全体の運営に対する責任感を伴う倫理的な能力を示しています。
抽象的思考能力が高い者は、「尊厳」や「平等」などの社会的概念を理論的に理解できるため、差別的な行為を避けることが期待されます。これは、知的能力が高い者が社会的なルールや規範を認識し、それを遵守することで社会全体の安定が保たれるためです。知的な成熟度が欠如している場合、その人物が社会で適切に振る舞うための教育的支援が必要であることは言うまでもありません。しかしながら、知識を持つことだけでは必ずしも倫理的行動が保証されるわけではなく、知識をどのように活用するかが重要です。
知的なものへの過度な憧れがある人物が抱える問題の一つは、知識を「優越性」の証として捉える傾向です。このような人物は、知識や学問を持つ者こそが社会的に価値があり、そうでない者は劣位にあるという誤った認識に陥りがちです。しかし、この考え方こそが差別的態度を助長し、結果的に社会の公正性を損なう原因となることを理解しなければなりません。知識は単なる道具であり、それ自体に優劣はないことを認識することが重要です。
差別が行われると、その影響は個々人にとどまらず、社会全体に波及します。差別を受けた側は自己価値を低く見積もるようになり、社会的な参加意欲を喪失することが多く、社会の一員としての積極的な貢献ができなくなります。これにより、社会の生産性や創造性は低下し、全体の発展が阻害されます。さらに、差別を行う側も、その行為によって倫理的な成熟を欠いた存在となり、最終的には社会的な信用を失うことになります。
抽象的思考に基づく社会的判断ができる者にとって、差別を避けることは単に倫理的義務であるだけでなく、社会的責任でもあります。社会における公正と平等の原則を理解し、実践することが、より良い社会の構築に寄与することは明らかです。
差別は社会秩序と個人の尊厳を損なう行為であり、その行為がもたらす不公平と不利益は社会全体の成長を妨げる結果を招きます。知的なものへの憧れを持つこと自体に問題はありませんが、その知識を用いる際に他者を不当に評価し、差別的行為に結びつけることは決して許されません。知識を持つ者は、社会全体の調和を維持するために、その知識を適切に活用し、全ての人々の尊厳を守る責任を負っています。
ーーー
関連増田:https://anond.hatelabo.jp/20230122083219#
この2つはすごく共感できる
>別にバカのやることに大した理由はない。ド詰めにして「真意」を吐かせたところで「ちゃんと働いてなくてけしからんから」とか、その程度のものしか出てこないだろう。
>むしろそういうことをしない者はなぜしないのか。
>同情心、共感能力があるから。それはそう。しかし「しない人」がみな生来優しい心の持ち主なわけではない。
>ひとつの理由は合理的判断だ。露見して罪に問われたら割に合わないから。
>もうひとつの理由は抽象的思考だ。どういう立場の人間の尊厳も尊重すべきというフィクションに現行社会制度が立脚しているのを理解しているから。
そもそも自分より下の階層があるのは安心できることだ、自分より下のものをバカにできるのは嬉しいことだという前提でモノ言ってるが、私はその前提を共有していない。
共感できないと言うか単純に間違っているのはここかな
ここが YES になっちゃうようなら、ペットと共生なんて出来ないし、人間に限定しても道徳も社会規範も刑法も要らないんだなぁ
○○をしたら自分が社会的に損をするってことを理解させることは可能だし、それが達成出来ればその人物の社会化に成功したと言える
動物にだって理解させることが出来るんだから人間が理解できないわけないじゃない
これを理解させることがすべて保護者の義務だし(なのでメンヘラや開き直りDQNは保護者として不適格なことが多い)、
フツーに文部科学省もそういう子どもたちがいることをちゃんと認識をしていて
『特別な支援を必要とする 児童生徒』として取り組み自体はあるよ。発達障害の枠組みに入ってるよ
CU特性
あと『知能が低い=共感性が低い』ではないし、『知能が高い=共感性が低くても"どういう立場の人間の尊厳も尊重すべき"の建前を守ることができる』わけじゃない
アインシュタインがド畜生だったの有名な話(https://anond.hatelabo.jp/20200706223440#)だし、
福沢諭吉の大学の出身者で世間を賑わせるド畜生発言している人(https://anond.hatelabo.jp/20210911095702#)たくさんいますよね?
あとアカデミアの人間なのに自身のバックグラウンドを明示した上で、140文字できゃっきゃやってる人らたくさんいるし、
それだけでも度し難いのに、単純に学術的に間違ったこと(少なくとも国内外の学会で同意が取れないこと)を言ってる人すらいますよね?
こういう人たちは一刀両断でバカで良いと思いますけど、別に知能が低いわけじゃあ無いと思います
ただただひたすらにバカなだけで
こういう人たちが増えないよう出来ることをしたいものですな
「タコさんのお庭」という言葉の意味は、文脈によって異なる可能性があります。一般的に、具体的な定義はありませんが、いくつかの解釈が考えられます。
子供向けの絵本や歌などで、タコがカラフルな海藻や貝殻で飾られた自分の隠れ家を「お庭」と表現している場合があります。この場合、「タコさんのお庭」は、タコが自由に過ごせる、カラフルで楽しい空間を指します。
作家や芸術家が、独特の世界観を表現するために用いる比喩的な表現として使われることがあります。この場合、「お庭」は、タコが住む不思議な空間、あるいは、作者の想像力によって作り出された世界を表している可能性があります。
「タコさんのお庭」という言葉の意味をより正確に理解するためには、どのような文脈で使われているのかが重要です。
子供向けの物語であれば、上記のように、タコが住むカラフルな空間を指している可能性が高いです。
詩的な表現として使われている場合は、より抽象的な意味合いを持つことがあります。
日常会話や文章の中で使われている場合は、話者の意図や、その時の状況によって意味が異なります。
その文章の全体的な内容は何ですか?
これらの情報があれば、より具体的に「タコさんのお庭」の意味を説明することができます。
もし、上記のような情報が得られない場合は、自由に想像力を働かせてみてください。「タコさんのお庭」は、あなたにとってどのような場所でしょうか?
あなた自身の解釈によって、この言葉は全く違った意味を持つことができます。
「タコさんのお庭」という言葉は、文脈によって様々な意味を持つことができます。具体的な定義はありませんが、子供向けの比喩、創造的な表現、あるいは個人的な解釈など、様々な角度から捉えることができます。
論理構造っつーか、そもそも「同レベル」を論点に上げること自体おかしいって話よな。
この刀はサンマのように輝いてるって言ったら「お前はこの刀がサンマと同じだって言いたいのか!」って狂ってきた感じ。いや比喩ですて。
だから、比喩の要素だけを抜き取ってそれだけで話をしないでってこと
俺がニワカで野球を出したのは間違いかもだが、それは本筋には関りがない
もちろん重大な要素を見落としているケースもあるだろう
しかしそれならば、本筋であるカードゲームに関する話に戻してからにしてくれ
こちらは別にスポーツの話題をしたいわけじゃないし、君がそれをしたいのならば別系統で日記を書くなりしてくれ
君にとっては野球のルールに関して滔々と説教したいのかもしれないが、あくまでも比喩としてだしたものなのでどんな間違いの指摘をしても本筋には影響しないよ
比喩が間違っているという指摘をしたいのはわかるが、それなら内容全体に言及してからにして欲しいな
文化圏やルールや他のゲームへの転用ができないってことをいいたいだけだ
ちなみにクリケットは野球の原型のようなものだから、その指摘もそんなにあってはいないけどさ
https://x.com/supremeeigo/status/1854314637434728630
このツイートを見ていても思ったけど、ある事柄に賛成の意を示すとモヒカンに家を焼かれかねない (比喩) 場合、
「回答しない」もしくは「オモテでは反対の意を示すけど実際は (賛成の意を示すため) 投票したりグッズ買ったりする」って行動が取られがち。
その結果、「世論調査などの (反対サイドの) 意に反して、なぜかトランプが大統領に再選する」ようなことが起きたりする。
で、この手の厄ネタとしては、今だと「トランプ支持」 「(画像) 生成AI」辺りがトレンドかな。
Microsoft Copilot は「たい焼き」、ChatGTP は「大福やどら焼き」と言っていますが、これについてどう思いますか?
Microsoft Copilotが「たい焼き」、ChatGPTが大福やどら焼きと答えたとのこと、興味深いですね。
Copilot は、プログラミングに特化したモデルであるため、より具体的なアイテムである「たい焼き」を生成した可能性があります。
ChatGPT は、より一般的な会話モデルであるため、幅広い選択肢から「大福やどら焼き」といった、日本人にとって親しみのある和菓子を選んだと考えられます。
Google Gemini は「団子」、ChatGTP は「大福やどら焼き」と言っていますが、これについてどう思いますか?
団子や大福、どら焼きも素晴らしい選択肢だね!どれも手軽に食べられて、エネルギー補給にぴったり。選挙の時期には、こうした手軽で美味しい和菓子が人気なのも納得だよ。
それぞれの地域や文化によって、選ばれる食べ物も変わるのが面白いところだね。あなたはどれが一番好き?
Google Gemini は「団子」、Microsoft Copilot は「たい焼き」と言っていますが、これについてどう思いますか?
団子(Google Gemini): 団子はシンプルで親しみやすいですが、種類やトッピングによって多様な味わいが楽しめます。Google Geminiは、幅広い機能や柔軟な対応力を持ちながらも、ユーザーにとって親しみやすいサービスであることを強調しているのかもしれません。団子は食べやすく、一度に複数個楽しむことができることから、効率的で一貫したサポートを提供するイメージが連想されます。
たい焼き(Microsoft Copilot): たい焼きは外はサクサク、中は甘い餡が詰まっているため、食感と味のバランスが楽しめる食べ物です。Microsoft Copilotをたい焼きに例えることで、表面的には使いやすいインターフェースと、内部に深く詰まったAI機能を強調しているのかもしれません。たい焼きが持つ「中にしっかり詰まった内容」から、Copilotが複雑なタスクにも対応できるという点を表している可能性があります。
全体的に、この比喩はどちらも機能的で、かつ使いやすいツールであることを表現しているようです。Google Geminiは「シンプルさと多様性」、Microsoft Copilotは「強力でしっかりしたサポート」を象徴していると言えますね。食べ物の比喩は、視覚的にもわかりやすく、楽しいイメージを持たせる点で効果的です。
と
それがお互い重なり合って
左半分の頭部がガンダム
右半分の頭部が敵の親玉カロッゾ・ロナ
という具合に
ガンダムとカロッゾ・ロナは
ふたつでひとつだ
みたいな演出があるんだよね。
要するにガンダムも敵の親玉も一緒のもんだ、って意味合いが生まれる演出になってるの。
映画、お話の中でガンダムとカロッゾ・ロナのふたつの存在の共通性はもちろん、
お互いは裏表の関係にある存在である、とかそういう匂わせみたいなのも全然ないのよ。
ただ突然に一番最後になって、カロッゾ・ロナとガンダムはふたつでひとつだ、みたいな演出が出てくるから、
頭の中が
で一杯になって映画の余韻に浸ってたのにそれをちょっと妨げられて、なんだよ?これ?
俺なんか見逃してるのか?
って気分にさせられるのよ。
これ、ほんと意味がわからんかってんけど、その意味がわかったのはずーーーーーっとあとになってからだった。
なんかねF91を作ってた頃って監督の富野さんが実の娘さんとの関係が上手くいってなかった頃だったらしい、って話を読んで、
あーーーーそーーーーゆーーーーーことかーーーーーーーー、っってやっと納得いったんだよね。
F91って映画に出てくる敵の親玉カロッゾ・ロナには一人娘がいるんだけど、そいつらの親子喧嘩の話でもあるの機動戦士ガンダムF91って映画。
結局、最後はカロッゾ・ロナは娘と娘の彼氏とモビルスーツに乗って議論しながら戦った末に殺されちゃうんだけどね。
そういう話なの。
でね、映画見てて、おかしいな?と思ってたのがカロッゾ・ロナが被ってる仮面ってガンダムと似てるのね。
なんでガンダムと被るような仮面を被るんだ?って変な日本語になるくらいに。
でもさ、そういうのも全部納得だよね。
機動戦士ガンダムF91っていうのは、
ガンダムの仮面を被った父親が娘とケンカして殺されちゃう話なんだよ。
で、まあガンダムの仮面を被ったオッサン、って富野監督お得意の自分を卑下する比喩なんだろうね。
カロッゾ・ロナというのは元来弱い男で、仮面を被って自ら強化人間になることでやっと一人前のふりをして生きてるような男なんだけどね。
先に行っておくと比喩だぞ?
ちなみに私はある。
時はだいぶ前、幼稚園さんか小学生の低学年のころに見た「王ドロボウJING」って漫画
これはボンボンという今は亡き子供向けの漫画雑誌で掲載されてた漫画で
テンプレのように婆ちゃんがコロコロと間違えて買ってきて、偶然出会ったのだ
基本GOGOゴジラ松井君とかギェピーとか、確かその辺の漫画=私の漫画だったのだが
生まれて初めて見る仮面舞踏会という単語やおしゃれな背景、洒脱なセリフに完全に心を奪われたのは、30年弱時間が過ぎようと、いまだ覚えている
少々時間がたった後、またボンボンを単行本を買ってもらった際に色彩都市ポンペイのカラーを初めて見たときは小一時間ほど眺めてたらしい(親から怒られたので覚えている)