はてなキーワード: 比喩とは
その後、離婚した。
離婚を言い出したのは元夫で、私はそれでも大好きな人と結婚したつもりでいたので何とかしたかった。夫の言い分はいろいろあって、夫も間違っていないというか、夫は夫で理想とは違うつらい結婚生活だったと思う。
夫には申し訳なかったとも思う。彼もそうするしかなかったんだと思う、が、離婚するまでの様々な一連は本当に信じられなかったし恐ろしかった。今でも思い出すと冷や汗が出て歩けなくなる瞬間がある。
元夫とは2年半?3年?くらい付き合って結婚したが、その大半がうっすらとレスだった。
夫は物理的な充填に2週間かかったし、精神的な充填にはもっと要した、というか、性欲がおそらく薄い人だった。その上結婚生活で私への愛を失ったのだからする気が起きるわけはなくて、ただわたしはスキンシップが好きだし、セックスも好きだったし、何より夫が好きだったので、ずっと悲しかった。夫は私を女性として見れないんだと悲しむ時間も、見られないと言われたあとも、ずっと悲しかった。
たまにある、夫が酔ったゆえに行われるセックスは、わたしが従事し、私が上になり、最後の最後だけ夫が上になり、で終わるものだった。抱かれている気も抱いている気もしなかった。
私は小さなプライドを満たし、霞みたいな少しの愛情を感じるための時間で、後から虚しく悲しくなった。夫はおそらくだが、本当に一人でしたりもしていなかった。
もっと愛に溢れたセックスをしていた時期も、最初の方とか、時々とか、はしていたはずだけど、もう何も思い出せないことに今、驚いている。
彼氏は経験が豊富でなく、女性に従事(比喩)されたのが初めてという彼だった(それも安心できた。)
これまで、彼はあまり性欲が強いという自覚はなかったらしい。が……学生時代から元夫と交際し、主に夫しか知らないわたしには驚くことばかりが起きていた。
巷に聞く男性の性欲のうんちゃら〜は全部神話だと思っていたのでめちゃくちゃ驚いている。
驚いたことを少しだけ書く。
我慢できなくなっちゃった、お願いご飯の前にしたい、とか本当にある。我慢できなくなっちゃったって言う人本当にいるんだ、と思った。
1回泊まると、夜に2回、朝に1回、がデフォルト。泊まって夕方まで一緒にいる日は嘘じゃなく6回くらいしている。
前述したが、元夫は充填にきっかり2週間かかる人だったので、今の彼と所謂2回戦があったときは本当にびっくりした。
男の人は1度出した後、またしたくなるまで(精神的にも身体的にも)2週間かかるものなんだと長い間思っていた、もちろん個人差があるのは知っていたけど、ほんとにそうじゃない人がいるんだ、ってかんじ。
夫との1ヶ月の回数を1泊で余裕で超えてくるやん???
というわけで回数問題には本当に本当にずっとびっくりしている。付き合ってまだ3ヶ月と少しくらいなのでハネムーン期間というやつなのかもしれないけど。
正直ここまでで夫との結婚生活3年半の総回数を超えてると思う。
あとは今の彼はめちゃくちゃ体や顔を褒めてくれる。元夫はコスプレセックスや着衣が好きだった、というか、何とか興奮を維持するために私にそれを着させてセックスを執り行っていた。(今思えば夫は服とセックスしていて、着ているのが私でなくてもよかったんだと思う)
着ている服や下着を褒めてくれることはあったけど、体や顔を褒めてもらったことはなかったので、それがこんなに嬉しいと思わなかった。
事実可愛いのかというと、顔は確かに平均より1点上くらいの顔かもしれないと思うけど、体は本当に特に自信はなく下半身デブで貧乳。でも、かわいい綺麗エロいって言ってくれるのはうれしい。言語化が苦手な彼が口に出してくれるっていうのも嬉しいのかも。
受け止められる私もすごいと思うけど、なんていうか痛いとか、辛いとか、そういうのが全然なくて、ずっとわーーっっと愛情を浴びせられてる感じがして、なんだかちゃんと応えられる。
夫といた時は、人間は好きな人とセックスしなくても平気になっていくものなんだ、と思っていたのに。
わたしは、体にベタベタ触ったり、抱きついたり、キスしたりするほうなのだが、これまで夫との関係でそれが何かのトリガーになったりすることはなかった。なのでとても驚いたのだが、それは彼にとっては次へのトリガーになってしまうらしい。だから2回目、3回目、、と重なってしまう、というのが彼の主張。
自分が何回もできるタイプだって知らなかったのは、体にみずから触ったら近づいたりする人がいなかったからだと主張していた。ほんとか?
なんか自分が近づくだけで自分に対して欲求を抱いてくれる人がいるのかと思って本当に本当に驚いていて、しかも週に2回くらい会っているけど、私と会っていない日には自分でしたりしてるらしい。すごい。初めて聞いたときは本当に驚いてしまった。
月に2回くらい遠出したり、週半ばで会って外でデートしたりもしてるし、とても大切にしてくれていると普段から感じられるので、今はそれなりにとても幸せ。
何が言いたいかというと、私は男性にとって女性的価値がないんだなと信じていた時間、年齢でそういうのは衰えるものなんだよって言葉を信じていた時間、私のせいでできないって言うのを信じていた時間、男の人はとてもデリケートな生き物なんだ、だからセックスレスを気にしてる素振りなんかしちゃダメなんだ、って悩んだり信じたり悲しんでたりした時間は全く無駄だったんだなって、幻想から解放されてよかったって、彼に愛されて今は心の底から思っている。
※9/30 追記
みなさんブコメや反応でコメントありがとうございます。はてな匿名ダイアリーでこんなに「幸せそうで良かった」という類いの言葉をかけてもらえるとはあまり想像していなかったのでとても嬉しかったです。みんなの幸せを私も祈ってます。
結婚したり付き合いが長くなっていったりすると性欲も性格も考え方も変わってしまうことは重々分かっているし経験もしたつもりだけれど、忠告してくださった皆様も、ありがとう。
元夫だけが酷かったわけはもちろんないしそうも思ってはいなくて、私も酷いことをしたから離婚しました。元夫は元来きっととても優しい人でした。元夫には、私が今後一切与り知らないところで、健康でいて幸せになって欲しいと思っています。
G&Wは、私有財産は宗教と不可分であるため、根源的なものだと主張する。その例として、先住民の伝統的な儀式で使われるトランペットやその他の道具を挙げている:
このような神聖なものは、多くの場合、存在する唯一の重要かつ排他的な財産形態である......神聖な文脈に厳密に限定されるのは、命令関係だけではない......絶対的な、つまり今日でいうところの『私的』財産も同様である。このような社会では、私有財産の概念と聖なるものの概念には、形式的に深い類似性があることが判明する。どちらも本質的には排除の構造なのである。(p. 159)
ここで「絶対的なもの」が「私的なもの」と訳されていることに注目してほしい。祭祀財産が「絶対的」な程度に神聖であるならば、それは定義上「私有財産」として適格である、という主張のようだ。
この混同は、著者が宗教と私有財産の関連付けに権威を求めているときに強化される。この時点でG&W(p.159)は、エミール・デュルケムの「聖なるもの」という古典的な定義を持ち出している:
デュルケムは、聖なるものの最も明確な表現は、ポリネシア語で「触れてはならない」を意味するタブーであると主張した。しかし、私たちが絶対的な私有財産について語るとき、その根底にある論理と社会的効果において、非常によく似たもの、実際にはほとんど同じものについて語っているのではないだろうか。
そして著者は、アマゾンの原住民と仕事をする民族学者たちが、「湖や山から栽培種、リアーナ林、動物に至るまで、彼らの周りにあるほとんどすべてのものには所有者がいる、あるいは潜在的に所有できる可能性がある」(p.161)ことを発見したと述べている。ある種や資源に対する霊的存在の神聖な所有権は、その種や資源を他の世界とは一線を画すものである。同じような理屈が、西洋の私有財産の概念を支えているとG&Wは書いている。もしあなたが車を所有しているならば、あなたは全世界の誰であろうと、そこに立ち入ったり使用したりすることを妨げる権利がある」(p.159)と彼らは説明する。
G&Wが、精神的な「所有権」についての伝統的な概念と、自分の車を所有することについての考えを混同しているのを見つけるのは、非常に息を呑むようなことである。現代の私的所有権を、超自然的存在による天然資源の「所有権」と、その「根底にある論理と社会的効果」において「ほとんど同じ」とみなす彼らは、いったいどこの世界にいるのだろうか?
先住民の活動家たちが、湖や山は強力な精霊にとって神聖なものだと語るとき、彼らは「私有財産」に等しいものを支持しているわけではない。もし「偉大なる精霊」が森を所有しているのであれば、その森は売り物ではなく、私有化されるものでもなく、伐採会社に所有権を主張されるものでもないという明確な含意がある。
デュルケムの洞察の中で最も強力なもののひとつは、人々が神性を呼び起こすとき、そのコミュニティ全体の道徳的な力を想定しているということである。つまり、ある山が神のものであるならば、それは私有化できないと宣言していることになる。G&Wがそれを逆手に取り、「私有財産」という概念は、あるものが神聖であるという考え方そのものと不可分に生まれたものだと主張するとき、これがいかに粗雑な間違った表現であるかがわかるだろう。
デュルケム(1965年)にとって、「分離」は私的流用のアンチテーゼであった。近親相姦に対する世界的な文化的タブーの起源を説明するために、彼は「ある種の隔離的な力、つまり男性的な集団を遠ざける力を女性に持たせている」(1965: 72)という伝統的な信仰を当惑させた。デュルケムは、このような信念体系において、女性の隔離する力は血の力であり、聖なるものの概念と密接に結びついていると書いている。女性が血を流すと神性が目に見えるようになるとすれば、それは女性の血そのものが神であるからである。血が尽きるとき、神はこぼれ落ちる」(Durkheim 1965: 89)。
デュルケムにとって、「分離」という原初的な概念は、私有財産とは何の関係もなかった。問題は、成人した若い女性に何が起こるかということだった(1965: 68-96)。月経が始まると、彼女の親族は、彼女の所有権を主張するために、つまり彼女を「入門」させるために、体として集まり、彼女を男性との付き合いからも世間からも隔離した。彼女の隔離は、特別な儀式である成人式によって達成された。これにより、彼女の身体は神聖なものであり、それに関する彼女の選択は、姉妹や他の親族に対して説明責任があることが確立された。デュルケムにとって、このような集団的行為と関連して、人間の意識、言語、文化の出現は、共同体という新しい種類の権威が初めて誕生した時点であった。
もしG&Wが現代の進化科学に関心を示していたなら、こうしたデュルケーム的洞察が、血のように赤い黄土色が、男性に女性の肉体が神聖なものであることを新たに認識させるために、女性によって化粧用の「戦化粧品」として使用されたという考えに基づく、人類の進化における黄土色の記録に関する最も新しく権威ある現代の考古学的説明を、いかに先取りしていたかを認識できただろう(Watts 2014, Power 2019, Power et al.)
さて、『万物の黎明』の中心的なアイデアにたどり着いた。それは、私たちはかつて皆自由であり、生き方を選ぶことができたからである。
人類学を学んだことのある人なら、エスキモーのアザラシ猟師たちが伝統的に冬の間は性的共産主義を実践し、夏の間は家父長制的な家族生活に切り替わる。G&Wは、この振り子あるいは振動モデルをヨーロッパ後期旧石器時代の氷河期文化に適用し、これらの複雑な狩猟採集民は、エリート特権と権力の垂直階層を意図的に築き上げ、古い季節が新しい季節に移り変わるときに、それらをすべて取り壊す喜びを享受していたと論じている。
この革命を大いに楽しんだからこそ、氷河期の天才政治家たちは、革命で得たものに永久にしがみついていてはいけないことに気づいたのだ。彼らは、連続する革命を楽しみ続けるためには、その間を一過性の反革命で埋めなければならないことを理解していた。次の革命的高揚のための格好の標的を提示するために、「特別な」個人が支配力を確立するのを許すことによって、そうするのである。
私はこの考えが大好きだ。偶然にも、30年前に『血の関係』が出版されて以来(ナイト1991年)、私たち急進人類学グループが狩猟採集民の平等主義の奥義として分析してきた振動原理と酷似している。一方、私の振動モデルはまったく同じではなかった。というのも、私たちは亜北極圏ではなくアフリカで進化したのだから、季節的なリズムよりも月ごとの周期性が優先されるべき十分な生態学的理由があったのだ。つまり、G&Wが想像したような方法で権力が掌握され、明け渡されたのであれば、社会生活は月の満ち欠けと連動する月周期でひっくり返されたことになる(Knight 1991: 327-373)。
G&Wの歴史は、狩猟採集民の対立と交替に満ちているが、その周期性は一方的な季節性である。狩猟採集民は太陽だけでなく月にも従うことを彼らは知らないのだろうか?彼らの最も重要な儀式は、女性の月経の満ち欠けと結びついており、月によって予定されている。
コンゴの熱帯雨林では、女性たちは男性に勇気と潜在的な支配力を示すよう意図的に促すが、ンゴクと呼ばれる女性だけの儀式では、男女間の「権力の振り子」で遊び半分に降伏する前に男性に反抗する。G&W (pp. 114-15)はこのことに言及しているが、その後に次のように主張している:
単一のパターンはない。唯一の一貫した現象は、交代という事実そのものと、その結果としてのさまざまな社会的可能性の認識である。このことから確認できるのは、「社会的不平等の起源」を探すことは、本当に間違った問いを立てているということである。
もし人類が、その歴史の大半を通じて、異なる社会的配置の間を流動的に行き来し、定期的に階層を組み立てては解体してきたのだとしたら、本当の疑問は「なぜ行き詰まったのか」ということかもしれない。
この最後の質問は実に深いものである。しかし、この問いに答えるには、以前はどのような状況であったのか、ある程度現実的な認識を深めてからでなければならない。私たちの先史時代の祖先が、本当に自由で、本当に「身動きがとれなかった」時代があっただろうか?
中央アフリカの森の民バヤカでは、月は「女性の最大の夫」と言われている(Lewis 2008)。どの男性の立場から見ても、妻は血を流すたびに、事実上、天国の夫のために彼を捨てることになる。この古代の比喩(Knight and Lewis 2017)の背後にある現実は、女性が月のある期間、遊び半分で「権力を掌握」した後、自分の主張が通れば進んで男性に譲るという伝統であり、Finnegan(2008)が「動く共産主義」と呼ぶものが確立している。このような社会における親族関係と居住のパターンは、月経と排卵、兄弟と恋人、親族関係と結婚、共同体の連帯とセックスの親密さの間で揺れ動く振り子を設定する。
このようなパターンが古代から存在した可能性が高いことを考えれば、G&Wが政治的な揺れに対するある種のブロックを、歴史の過程で実際に起こったこととみなすのは正しい。しかし、そのブロックを説明するには、G&Wが触れようとしないトピックを扱う必要がある。それは、月経をめぐる先住民の慣習に敬意を持ってアプローチすることを意味する(Knight 1991.)また、親族関係のパターンや結婚後の住居の多様性を理解することも重要である--これも決定的に重要なトピックだが、G&Wは著書でほとんど触れていない。
非貯蔵型狩猟採集民の間では、女性は一般的に、少なくとも子どもが2、3人生まれるまでは実の母親と暮らすことにこだわる(Marlowe 2004)。遺伝学的研究によれば、私たちの種が進化したアフリカでは、このパターンははるか過去にまでさかのぼる(Destro-Bisol et al.)終生結婚の代わりに「花嫁サービス」が一般的で、アフリカの狩猟採集民の女性は、母親のキャンプに住み続けながら、選んだ恋人を受け入れる。一時的な夫は、狩猟した肉を花嫁とその家庭に持ち帰ることで、自分の役に立たなければならない。それができなければ、彼は出て行く!このような取り決めのもとで、誰もが親族関係と結婚生活の間を交互に行き来する。
母親と同居するのは弾力的なパターンだが、夫からの圧力で住居を変え、夫とその親族と永住せざるを得なくなることもある。このような場合、子供連れの若い母親は逃げ出すことが難しくなる。かつての自由を失うと、夫の世話は強制的な支配へと変貌する。エンゲルス(1972[1884])が「女性性の世界史的敗北」と雄弁に表現したのは、この悲惨な結果だった。世界の多くの地域で、結婚を固定的な絆に変えた家父長制的な力は、それに応じて社会生活全体にも固定性を押し付けた。
これは、「なぜ私たちは行き詰まったのか」という問いに対する有望な答えのように見える。では、G&Wはこの問いにどんな答えを出すのか?彼らの最終章は非常に蛇行していて、それを知るのは難しい。彼らは、人へのケアが強制的なコントロールへとシームレスに変化する可能性について言及しているが、なぜかこれを結婚後の住居や家族生活の変化とは結びつけていない。最も身近なところでは、17世紀のヨーロッパと北米のウェンダットにおける処刑と拷問の光景を描写している。国王が臣民を罰する権利は、妻子を躾ける家長の義務をモデルにしていたことを思い起こさせる。このような政治的支配は、公に王の注意義務として表現された。これとは対照的に、ウェンダットが囚人に長時間の拷問を加えるのは、支配と統制を愛情によるケアから公的に区別するという、正反対の点を強調するためであった。囚人は家庭の一員ではないので、拷問される必要があったのであって、愛される必要はなかったのだ。
そうしてG&Wは、ケアと支配の区別の中に、私たちがなぜ行き詰まったのかについての待望の説明を見出したのである:
私たちは、ケアと支配の間のこの関連性、あるいは混乱が、互いの関係を再創造することによって自分自身を自由に再創造する能力を私たちがいかにして失ったかという、より大きな問題にとって極めて重要であると考える。つまり、私たちがいかにして立ち往生してしまったのかを理解する上で、極めて重要なことなのだ...。
狩猟採集民の研究やジェンダー研究を探求する代わりに、G&Wは視野を先住アメリカ人の軍事指導者、拷問者、ヨーロッパの君主の経験に限定し、これらの人々の心理的葛藤を想像することで、私たちがどのように「行き詰まった」のかを探っている。上に引用した当惑させるような言葉に意味があるとすれば、私たちが行き詰まったのは、特定の権力欲の強い人物が、人々を思いやることと暴力的に支配することを混同してしまったからだと示唆しているようだ。
これはまともな説明だろうか?人々は本当にこのように混乱してしまったのだろうか?答えの代わりに、G&W自身が行き詰まったようだ。私たちは、同じ質問を少し違った言葉で提示されているだけなのだ:
外的な暴力と内的なケア、つまり最も非人間的な人間関係と最も親密な人間関係との間に新たに確立された結びつきは、すべてが混乱し始めるポイントを示しているのだろうか?かつては柔軟で交渉可能だった関係が、結局はその場に固定されてしまった例、言い換えれば、私たちが事実上立ち往生してしまった例なのだろうか?
この本全体で最も重要な問いに答えようとする努力は、これ以上なされていない。
(続く……)
「アリスとテレスのまぼろし工場」だけど、本作は言うに及ばず、過去作もフェミニズム、女性の政治的権利にはつながらない人だよねと、いつも見てる人には当たり前の感想を思った。
それもあり、当然ながらヒロイズム喝采な盛り上がり方もできないし、一方でポリティカルテンプレの誉め方で持ち上げようがないし、日本的な意味でも海外的な意味でも売れ筋から背を向けてて、正しく古いオタク向けの人ですよね岡田監督。この人を女性監督という取り上げ方をするのも大概バカみたいだけど、そういう戦略性も含めてオジサンにウケる人。
「少年少女」じゃない。おそらく10年以上なんなら20年近く「中学生として振る舞い続けること」をやってきた、周囲の監視の目もあって童貞処女のままの30代半ば。キモイ。似てる設定というと「スカイ・クロラ」だけど、あちらほど精神状態が終わってないのがまた煮え切らなくてキモイ。
ここで既に物語テンプレのロールや社会的ロールに沿った理解を当てはめようとする人が全員振り落とされる。「十代のドラマなら十代のドラマらしい話にしろよ」も「30代の擦れた男女のドラマならもっとそれっぽく作れよ」も適用されない。イラついて「設定がちゃんとしてないんだよ」と毒づく。
まあね、でも実際そんなだったじゃん90年前半バブル崩壊で取り残された団塊ジュニアども。
保守的な伝統社会はぶっ壊されてたし、理念先行の社会主義なんて信じてないし、経済成長に従ってれば会社が人生のレールを敷いてくれるって幻想も一瞬で消え、2、3学年上の先輩たちの話はまるで参考にならない。稼ぎがないので結婚しないし、景気が悪い上に自分たちの世代が一番人口が多いせいもあって職場に後輩も少ないなんなら後輩いない、なんなら終身雇用と派遣の狭間で企業側もフラフラと方針定まらないまま。いつまで経ってもマンガアニメから卒業しない「子供のまま」だったのが、気が付けば世間の方がマンガアニメに迎合しだしちゃって。
設定らしい設定がないので、子どもなのか親なのか、先輩なのか後輩なのか、若者なのか中年なのか、どういうロールが正しいのかわからん連中が日本の人口のマス層として取り残された。
こういう停滞感、今までも色々と表現されてきたけど、比喩としては一番ダイレクトで何のひねりもなく、分かりやすい。現実に設定がしっかりしてないから、設定ではっきりするほうが噓でしょ、って明け透けな見せ方。これが今回いちばん岡田麿里らしいとこじゃないですかね。
いわゆる岡田監督らしさについては、本人が自覚的に自分の過去作を振り返って他人から言われる評価を参照しつつ作ったってパンフで言ってるし、そこまで評価するとこでも突っかかるとこでもない気がした。上手いですけどね。女と母親とどちらでもある自己っていう振れ幅を一つの台詞に同時に込めるとか、うわーえぐーい。オジサンはこういうのやられると負けるわ。
ただまあ、今回は前よりかすっきり整理してて分かりやすいし、監督そのもの、監督らしさ、岡田マリー節炸裂、とは思わなかった。70%マリーぐらい。200%って言ってる残りの130%は作画スタッフとか役者とか視聴者の思い込みとかだと思う。
ただ、その70%で、ファンタジー世界を作り上げた神たる老人の「俺はこう生きた、君たちはどう生きるか」に対し、ファンタジー世界に囚われた住人の立場から「中年のあたしたち俺たちはこう生きてきたし、こう生きていきますが、それで、何かご質問が?」と打ち返してるのが、マリー持ってんなと。このタイミングでこのカウンターを見逃すのはホント勿体ないので見たほうがいいと思う。
その他。
なんか「あの花」とか最近作しか出てこないので、老害的に付け足し。
この人はファンタジー作家です。現実世界のリアリズムとかの人じゃない。のでリアリズムは求めないほうがいい。
ファンタジー作家としての気質は「砂沙美魔法少女クラブ」で100%発揮されてる。以降もだいたいこんな感じ。
「スカイ・クロラ」を引き合いに出したので繋がりでいうと「シムーン」の後半。シムーンは押井守と仲良しな西村純二監督が「スカイ・クロラ」とほぼ同時期にやった「モラトリアムな人たちの出てくる戦闘機乗りの話」で、シムーンの企画原作やってた人たちの手を離れて後半はマリー西村コンビへ。このコンビの流れで「true tears」に繋がり、そこから「花咲くいろは」へと。
煮詰まって先に進まない男女関係だと「とらドラ!」。原作あるけど、まったく前に進まなくてどうすんだこれ、って澱みっぷりは岡田脚本の本領発揮だと思う。秩父三部作だと長井龍雲監督の調整がけっこう入って長井節になってるので、あんま澱まない。
個人的にマリー100%だと思ってるのは「ブラックロックシューター」。ファンタジーで少女バトルでバイオレンス。別に下ネタじゃなくても100%だと思う。気に入ってしまって円盤買って家族に強制的に見せたのは、ちょっと反省している。
まあ脚本家のキャリア長いし、原作ものも当然のように多いし、普通に現場の調整の中で仕事してる人なので、なんもかんもマリーってこたない。
セダンに憧れがある。
カクカクの、凸型の、ザ・セダンって感じのやつ。車と言えばセダンだと思っていた。
おれのガキの頃に道ではどんな車が走っていたか覚えてない。当時から既にあんまり走っていなかったかもしれない。それでも車の絵を描くといったら迷わず凸型のやつだったと思う。
ファミリーカーはずっとワゴンかSUVだった。こんなもんは車じゃねえだろと思ってた。老害が口にするような比喩じゃなくて、自分のイメージする「車」像と合っていなくて本当にそう思ってた。
街乗りでの運転のしやすさがどうのとか、積載がどうのとか、そういうのは大人や親の理屈であって子供の理屈じゃない。
実際にセダンに乗った人たちは、その経験の上で不便さを知って、いわゆるファミリーカーの素晴らしさに納得しているのかもしれない。でもそれはその人達の納得であっておれの納得ではない。
おれは自分ちの車に全く魅力に感じなかった。スライドドアをなんとなくダサく感じた。座席部分とトランクが独立してるのがかっこよく思えた。
最近じゃセダンといったって曲線形のシュッたしたやつで、ハッチバックと似たような感じだったりもする。カクカクのセダンなんてタクシーくらいしか見かけない。タクシーすらミニバンが増えてる。
滅びゆく車なんだろうけど、だからこそ、一度くらい乗ってみたいなあって思う。
一生「ああアレ乗ってみたかったな」という思いを引きずるのは嫌だ。よしんば乗ってみてこれは違うなと思っても、それはそれで自分なりの納得を得られる。
最近、仕事から帰ってくると自分のちんこから美少女を作るのに嵌ってる。
作り方は簡単で、誰でもできる。
それをクラウドのストレージに保存して、PCの方へデータを移す。
それから、Stable Diffusion UIを起動しよう!
この Stable Diffusion UIには"img2img"というものがある。
そこに屹立ちんぽ画像を突っ込み、プロンプトに"bisyoujo"と書く。
あとはDenoising strengthを0.91ぐらいに設定して出力すればいい。
すると、どうだ。
俺のちんぽこが美少女になる。
俺のちんこから出来た美少女にはきわどくセクシーなポーズのものもあって、結構人気があったりする。
当然シコシコしている奴もいるだろう。
そう思うと、なんだか妙に感慨深くなる。
不思議な達成感というか充実感…この感情に名前を付けるのには、自分はまだ未熟過ぎるのかもしれない。
しかしそんなことを繰り返していると、自分の内である疑念がふつふつと湧き上がった。
もしかして他のAI美少女も誰かのちんぽから出来ているのではないか?
そう思うとStable Diffusionの美少女を以前のようには見れなくなっていた。
「お前が書いてる内容は的外れ」や「お前の理解がおかしい」等の、相手の理解力をぼんやりと批判する
「書いてる内容がわからない」や「比喩が意味不明」等の、相手の文章をぼんやりと批判する
「顔真っ赤」や「これだから〇〇は」のような薄っぺらいレッテル貼り
「何言ってるか分からない」「日本語で書け」とか言ってる奴がほんと限界知能みまである。
「この言葉はどういう意味で使ってるの」とか「このくだりからどうしてその結論が出てくるの」とか文章から不明な箇所を具体的に指摘してるなら書き直しようがあるけど、ただ分からないと言われたって、多分その相手自身同じことを言われた場合書き直すことなんてできないはずなのに、こんなことを正当な反論のつもりで言ってしまうのがやばい。
「俺は日本語で書いてるよ。逆に何語だと思うの?」とでも返すと、「比喩も知らんのかアスペか?」と都合よく理解力上がって今度は会話が成立した答えを返してくる。
特別な意図でもなければ同じ人間が同じやり取りの中で書いたものについてその個別の文章ごとに理解に必要な読解力が変わってるなんてことはないとは思わないのかねと。
自分の中で本当に大切に思っているものが相手に刺さらない、ましてや受け入れてもらえなかった時に、自分を裂かれたような気持ちになり、それを克服しきれないまましっかり大人になってしまった。
のちに自分の好きなものは確かに万人受けするものではないが、極限られた人のみの嗜好傾向という訳でもない事を知った。私のプレゼンが下手なだけだったのだ。それが分かったところで、自分の心を開示する恐怖はさほど和らがなかった。
高校生の頃から好きなアーティストがいる。知ったきっかけは忘れたが、HMVのサイトで30秒ほどの視聴を擦り切れるほど繰り返し、意を決して地元のタワレコに買いに行った事を思い出せる。
さんざん繰り返した視聴の先を聴いた瞬間の感動は忘れない。予想しなかった方向に転調して度肝を抜かれた。
そのアーティストが、引退からまさかの復活をすることを知った。そのCDが今日届いた。CDをパソコンに取り込むのはいつぶりだろうと思いながら、データの取り込み時間を記憶よりも長く感じていた。
ようやく視聴の段取りができ、家事も済ませ、さあ心して聞こうとイヤホンをセットすると、さっきまで遊びに熱中していたはずの子どもがめちゃくちゃ喋りかけてくる。イヤホンでシャットアウトしていると子どもが何を言っているか分からない。泣く泣くスピーカーに切り替え、「ね〜ママー?ね〜〜ママーー??」のコーラス付きで聴き始めた。
引退から時間は経ったはずなのに聴き馴染みのある変わらない歌声、新しいエッセンスを取り入れたアレンジの曲が響き、比喩でなく痺れて力が入らなくなり椅子にもたれ掛かる。
やっと手に入れたCDを聴いて震えた高校時代の遠い記憶と今とがリンクした感覚があり、言葉にもできない深い感動に浸ってじーんと痺れていた。
この瞬間、私の人生の別レイヤーだったものが重なり合った感じがした。高校の頃からずっと好きで心の支えだったヨエコさんが今新しい音源を出している。それを、めちゃかわいくて大好きな私の子どもが、好きだと言っている。
私はこれまでの人生で、自分の好きなものは人には刺さらない、だから言わない、というのが凝り固まりすぎて、無意識に疑いようのない事実となっていた。
好きな人が好きと言ってくれる、受容してくれる感覚を久々に味わったように思って、それからしばらくフワフワとした多幸感に包まれていた。
そうこうしていたら「おどろ!」と言い出した。キレのないもちゃもちゃした動きで、しばらく親子2人で踊っていた。
発達障害者は職場から家庭まで全てにおいて害悪で、上司を鬱にし、配偶者をカサンドラのような精神疾患に追い込むカスであるから
他の感染症同様、有病者を隔離し、場合によっては⚫︎⚫︎⚫︎すべきであろうし
無論有病者には不妊手術を行い生殖能力を剥奪することが、(おそらく育児など到底できない障害者である)父母自身のため、(障害者に育てられる障害者という二重苦を負う)子のためである
というのは、健常なるマジョリティ様の慈悲に満ちた十全に正しいお考えであられるでしょうし
わたくしめ障害者におきましても、健常者様のお考えを追認したいところでありますが
このクソのようにくだらない虫けら以下の命を持って問いたいのは
社会から隔離し、断種すべき存在なのではないかということでございます
IQ105にも満たないであろう彼等ーーーー高卒、専門卒、Fラン大卒の馬鹿どもも
やはり重度の学習障害を持つのではないかと、わたくしは思うのです
幸いにも発達に障害を持たずに生まれてきたものの、貧困というには恵まれた生まれであるものの
特別荒れているわけでもない中学校に在籍していたにもかかわらず、定期テストレベルの高校受験でカスのような点数を取り
これと言った目標も目的もなく、パティシエ科だかイラストレーション科だかに進学してみたりだとか
何故だか大学進学を目指して、そのくせ進学実績もろくにない普通科に進学したりするような
彼らの行動は非合理で、彼らの頭は絶望的に悪く
彼らに国民主権など持たせましても、ポピュリズムに絡め取られるばかりで
しまいには暴露系YouTuberとやらを当選させたりするのでしょうし
彼等の知的レベルに合わせたものーーー自己啓発本やらくだらないTV番組やら馬鹿馬鹿しいソシャゲやらーーーが巷に溢れることが
世の中のーーー健常者の皆様のためになっているのかは
物知らずのわたくしには、どこで線を引くべきかわかりかねますが
ここで敢えて進言させていただきますには
まず隗より始めよ、に倣いまして
ひとまずは愚かなわたくしめ
偏差値60IQ110
を含めこれより下のものどもは皆⚫︎⚫︎しにすべきだろうと思うのです
わたくしの実感としましても
わたくしの知能レベルでは大学の専門の授業の半分は理解できませんし、高校もセンター6割だかでやはり高校の授業も6割しか理解できていないということで
こうした愚かな人間の存在は健常者様にとっては驚くべきことでありましょうが
わたくしのほうにおきましても、
発達の障害を持たずして県内一の馬鹿高のパティシエ科にいき、現在はスーパーのレジ打ちをしておりますKさんには驚かされるばかりで
やはり私が⚫︎ぬべき人間であると同様、Kさんも⚫︎ぬべきではないのか
そう問いたいのでございます
対向車も自分の車線においては右によってるのに、わざわざ左に戻させるの笑える。
私も約ほぼ1年ぶりぐらいに「アレ」を。
そう!
秋の大地に刺さった美味しい剣の舞と読み秋刀魚と書く漢字でお馴染みの秋の味覚まくりまくりすてぃーの美味しい秋刀魚を祭初日にキメてきたの!
細長い魚でお馴染みでもあるタチウオは何の刀の魚なのかしらね?
まあそんなことより、
私は張り切って張り切らざるを得ない
いやむしろ張り切りすぎていると言っても言いすぎや過言ではないぐらい
隠しきれない勢いで
夜にルービーと一緒に秋刀魚をそれこそ文字通りの秋の祭典スペシャル!って決めようと思っていたけど、
もう言うならば
ケロッグコンボを彷彿させるような秋の装いをまとい秋の秋刀魚秋の祭典スペシャル!に挑んだの!
夜売り切れちゃったら悲しいじゃない。
私の秋の祭典がつまり始まったってわけ!
天ぷらの小鉢なんか要らなくてお値段据え置きでもいいからその小鉢に欠ける集中力を全て秋刀魚に注いで欲しい充分にジューシーで美味しい焼き加減は
年中食べられるであろう
塩干もののサンマではないみずみずしさが今味わえる瞬間の醍醐味の味の味覚よね。
この時期秋刀魚が秋の味覚として登場してスタメン入りしているんだけど、
フレッシュさには書けるフレッシュでちょっと残念な仕上がりなのよね。
だからこの秋の秋刀魚秋の祭典スペシャルでいただく美味しい秋刀魚は今だけの瞬間この一時にかける勢いなのよ。
私は大根おろしのよこに添えてあるレモンが米津玄師さんのあの曲のレモンの合いの手で小さい声でイエイ!って言ってると当時に私もイエイ!って言ってしまいそうなほど
そのレモンが本来すだちじゃなきゃだめ!って思うのも忘れるぐらい、
そのぐらいまっしぐらと言うかモンプチ級に秋刀魚に夢中だったわ。
これでお前を許したわけではないからな!ってな顔して一生懸命ちゅーるを食べる様とにているわ。
もうその時はどちらでもいい柑橘系との関係を築いていたことに気付いたの。
私はあんまりお醤油とか今回は特に今シーズン初めての「アレ」だったので、
レモンとか思いっ切りかけないんだけど、
そう思うピュアオーディオ界の重鎮が凄いいい音ですね!って言わんばかりの
もちろん秋刀魚が鳴いているって言う意味での奏でているって意味じゃなくて、
比喩としての私の舌の上で秋刀魚の熱い魚の脂が旨味と増して四重奏として奏でられているって例えなの。
とにかく
秋刀魚の美味しさの自信は100パーセント!いや勇気を持ってお伝えしたいのよね。
そのぐらい私は秋刀魚定食秋の祭典スペシャル味に舌鼓を打ちながら
お店を後にしたの。
秋の秋刀魚秋の祭典スペシャル定食のクオリティーオブライフは高すぎるわ!
大満足でニッコリよ!
食べられるときは食べておかないと秋刀魚ならない事態なので見逃さないようにしなくちゃね!
秋刀魚と食べた後、
唇がテカテカになるのはリップグロスを塗ったわけではないことは内緒にしておくわ!
うふふ。
朝はしっとりと巻いた納豆巻きがちょうど良い季節でもあるわね。
そういった小さい青い柑橘系が売っていたので、
しゅわしゅわでごくごくすすむわ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
殺し合いしてるもんね、比喩じゃなくて本当に
比喩とかじゃなくて凹んでるんだよ薄ーく
猿も木から落ちる、みたいな、たしかにそういう現象あるよね、そこから教訓が導き出せるかもね、ってタイプの根拠のあることわざはまあわかるんだが。
可愛い子には旅をさせよ、みたいななんの根拠もないことわざが好きなんだよな。
根拠が無いのにことわざのフォーマットを利用してるから説得力だけはあってバグっちゃってる感じが好きなんだわ。
可愛い子を旅に出しても実際は殺されるかもしれないし、家でていねいな教育を施したほうが出世するかもしれないわけじゃん。
チンパンタラコの言い方を借りれば「なんかそういうデータあるんですか」って話だよな。
実際、「可愛い子には旅をさせよ」って思わない人も多いから警句としてそういうことわざがあるわけでしょ?
だったらデータで話をすべきであって、ことわざに頼るべきじゃないよな。
これがことわざなのかはわからないけど「天網恢恢疎にして漏らさず」も好きだなあ。
天の網は抜け穴があるように見えるけど実際は通すべきでないものを通さないようにできている、つまり悪人にはかならず報いがある、みたいな意味だな。
なのに見てきたかのように「疎にして漏らさず」とか言ってるわけでしょ。空想の二段重ねじゃん。
めっちゃ好きだわ。
まあ天網ってのが比喩なのはわかるんだけど、それにしたって極悪人が大往生する例なんていくらでもあるわけで、根拠もなければ事実でもないわけじゃん。
「天網恢恢疎にして漏らさず」みたいな思考って公正世界仮説って名前が付いていて、歪んだ思考の典型だよな。
老子とかいう中国の謎のオッサンの言葉らしいけど俺からすればワンパンだろwって思うわ。
「二度あることは三度ある」とかな。普通に二度で終わるパターンもあるだろ。
繰り返しになるけど、なんの根拠も無いのにことわざのフォーマットを使ってるから説得力だけあってバグっちゃってる感じが好きなんだよな。
そういうのあったらおしえて。