はてなキーワード: 教祖とは
詐病だとしても、弁明というか、真相の供述を自ら拒否してるとも言えるわけで、
治療したところで、そこは揺らがないと思うんだよなぁ。
仮に松本に治療を施して、まともに喋れるようになったとしても、
多分、本当のことを喋らないだろうし、
今やってる京アニの青葉みたいな戯言を発言する機会を延長させるだけで…
というか、京アニ青葉に今発言させていることは十分意味があると思うんだけど。
一方、松本は司法としては問題なかったと思うし、いたずらに死刑執行を伸ばす意味がわからないというか
あくまで自分としてはだけど、オウム事件ってそんなに難しい話に思えないんだよね。
なんでエリートがあんな宗教や醜い教祖に騙されたんだ、みたいな話があるけど、
基本的に教団幹部も末端も実行犯も、みんなどこか「社会に不適応だった」というか、
社会を恨んでいたり、社会から爪弾きにされたりした人たちだったとしか思えないんだよね。
だって、本当に末端の人たちが、全財産をお布施して出家してたりしたわけだけど、
末端はサリンなんて関係ない、修行するぞ修行するぞ言ってたり、マハポーシャとか弁当屋でタダ働きさせられてたり、
でも、末端信者の中には、いわゆる夫のDVから逃げてきたみたいな人もいたと思うし、
一方でムーとかオカルトに傾倒したから、神秘体験がしたいから来た人もいるだろうし、
ただ、いずれにしても、みんな共通しているのは、社会から自分から抜けた人、自然と社会から排除された人、
社会の外の人たちなんだよな、
でも、それは他の宗教も同じ性質を持っているわけだけど、カルトというか違いがあるのは、
社会に対してのカウンターアタック、実力行使に出てしまったことに尽きると思う。
みんなで勝手に世捨て人やって、シン・エヴァンゲリオンの第三村みたいな自給自足の共同体でもやってれば問題なかった。
ただ、松本自身も中途半端な障害者というか「片目の人間は盲人の国では王様だ」を地でいった人生を送ってきたわけだし、
周囲の障害者を見下しつつ、健常者に対する過大なコンプレックスを感じさせる人物である。
上祐もJAXAのような比較的ホワイトな組織を蹴って入信しているし、
林だったか、あの医師も医者としては不適応なぐらいピュアというか、
医学部に入っても血を見ただけで卒倒してしまい現場で使い物にならない、というススキノ頭部切断の犯人の父親とも被る。
患者が死んでもベストエフォートを尽くす、というのが医者の仕事だということに納得できていない。
元々は松本自身がヨガに興味があった、その周辺のオカルティズムに傾倒していたというのもあるだろうが、
彼らは物理的な病気を抱えているより、寧ろ精神的な病、そこから生じる身体的な病に悩まされがちだったであろう。
ブラック企業に入社して、鬱になった、適応障害になった、そこから身体に症状が出るようになった、
そういった輩がヨガをやった途端、あら不思議、奇跡的に治ってしまった、となるのは不思議なことではない。
そこでヨガやマインドフルネスみたいなものが過大に持ち上げられ、ヨガ道場のトップ、教祖も持ち上げられていく。
なんら不思議なことではない。
悪い意味で奇跡的に需要と供給がマッチし、あまりにもマッチし過ぎて暴走した。
宮台氏の著書を読まないで書くが、氏は連合赤軍などとオウムは違うと書いているそうだが、
山本直樹氏が語っているように、互いに殺し合ったりするまでは、セクトのメンバーは文化祭の準備のように楽しかったはずである。
オウムも多分同じだったと思われる。
自分たちの理想のニッポンを実現するため、というか、個人個人の細かい思惑は異なってはいただろう、
社会に対する復讐みたいなものを感じながらやってた信者もいるかもしれない、
しかし、オウムも総じて信者たちは楽しかったから突き進んでいったんだと思っている。
その文化祭の前段階で、どれだけ教祖に取り入れるか、教団内で出世できるか、みたいな競争なり、プレッシャーはあっただろうが、
総じて、そういったストレスもひっくるめて、単にみんな楽しかっただけだと思う。
サリンだって、単に楽しかったから作った、というのが根底にあったと思う。
かわいいは正義、というコピーがあるが、楽しいはいつだって正義、なのである。
だから、なんでエリートがバカな教祖に騙されて、みたいに不思議がる人が今でもいるが、
あくまで自分の感想であるが、理由は簡単、単にエリートも末端も低学歴の実行犯も、単に楽しかったからとしか思えない。
一旦社会に出るということはモラトリアムを卒業することを意味するわけだが、
オウムの教祖松本もその他大勢の信者も、社会を蹴ってモラトリアムに戻ってきたりしていて、
そんな温いモラトリアムの中で、いつまでも文化祭前の準備の高揚感のようなものを持っていたのだと思う。
もちろん、その楽園は永遠ではなかったわけだ。それだけである。
もちろん、宗教学者とかインテリの人たちは、過剰に裏読みしすぎて、オウムの宗教としての意味を勝手に自分で見出し、
宗教としてのオウムを褒め称えたりもしていたわけだが、そういったインテリが信者になったのは少数派なのではないだろうか。
圧倒的に多い末端信者は、みんなどいつもこいつも社会から逃げたがっていた連中だった。
そんな困窮者の全財産なんてたかが知れているわけだが、それさえもオウムは受け入れていた節がある。
もちろん、入信させたらまともな飯は出さないし、無償で働かされるし、ただそれでも生きていけわする。
オウムを深く読みすぎる人たちは、どこかエヴァンゲリオンの読解本を出したりとか、解釈で討論する人たちに似ている。
庵野氏がすでに完全否定しているように、エヴァはわざと穴だらけの話や設定を作っている。
しかし、オウムを過大評価する宗教学者とかインテリは、エヴァにも何か奥深い謎があるのではないか、
と解明したがるのではないだろうか。
自分はリアルタイムと再放送でエヴァの最終回を観たとき、たしかに呆気に取られたものの、
これもアリだろ、だってガイナックスだから…、と思って不満は特になかった。
しかし、自分はよく知らないが、ネットでは荒れてたらしいし、庵野氏ねみたいな暴言が飛び交っていたようである。
まあ、こうなるのは庵野氏というか、表現者側の意図通りではある。
ツイン・ピークスなり、伏線を回収せず、謎は謎のまま、というオチであるからこそ、
無責任で無軌道でさえあるような伏線を設けることができ、それが視聴者を吸引する力になる。
意図したものではなかったかもしれないが、そういう点でオウムもエヴァも似ている気がしている。
バイト先のオフィスのゴミ捨て場に置いてあるのをちょっと立ち読みした覚えはある。
様々な宗教のいいとこ取りなのかな、と思ったし、そういうところがエヴァというか、
ただ、そこに深い意味があるとは思えなかった。
おまえの考えが浅いだけだ、オウム真理教の教義はもっと奥深いところにある、と思っている人もいるだろうが、
エヴァのように、人はまったく意味のないものにも勝手に深く考えて意味を見出してしまう生き物なのだ。
理系はそのへんがはっきりしていて、意味がないと思えるものも、思考を積み重ねていけば必ず納得できる地点に到達する。
ゴミのような表記のコードであれ、論理的に破綻しているものは計算機では正しく動かない。
結局は理系だって人間だから感情があるし、寧ろ論理的思考や数式では埋まらないことが社会には多くある。
自分としては、そこで「諦める」ことが大切なのだと思っている。
例えば「人と人とは分かり合えない」という諦めがある。
そこで理系というか論理的思考ガチガチの人間は「いや、こうしたら人と人は分かり合えるのではないか?」と試みる、
試みるのはコミュニケーションとして正しいが、そこで人と人が完全に分かり合えるまで探求してしまう。
その過剰な探究心が、エヴァのわざと開けられている穴を埋めようとしたりする方向に向かってしまう。
低学歴は頭が悪すぎてオカルトに傾倒したり、そのまま受け入れてしまう。
しかし、どちらも共通するのは社会に対する憎しみだったり、結局は「救われたい」という誰しも根源的に持っている願いである。
詐欺と同じで、誰しもが騙される、騙されないと思っている人ほど騙されたりするのと同じである。
自分だって、社会から阻害され、どこかでそんな阻害された人たちが集まり、そこでモラトリアムが形成され、
文化祭の前の高揚感のようなものがずっと続くとしたら、自分ものめり込んでしまうかもしれない。
ただ、圧倒的に自分がそういった人たちと異なる点があるとしたら、私は究極のぼっちだということである。
そんな自分が最近になって自損事故を起こし、重症を負って入院し、その後も日頃の不摂生が祟って病気が連発し、
家から一歩でも外へ出るのさえ辛くなり、今でも一日一日生きるのが限界の日々を送っていて、
こうなって初めて結婚してないこと、独身であること、当然子供もいないし、家族もいない一人暮らしであること、
なんだかんだ行政はそこまでは助けてくれないこと、
家族がいないと入院とか、手術とか、退院してからも日々の生活、買い物さえもつらいとか、
やっぱり、周囲に人がいないことによる気楽さというのはある。
退院したり、病気が一段落すると、生活は辛いものの、周囲に迷惑をかけていない、気負いしないという気楽さはある。
宗教的救いなら聖書を読むとか、ふらっと受け入れてくれる教会に行くだけで十分だと思ってるし、
オウムじゃなくても、自分をありのまま受け入れてくれる組織、そんな都合のいいものが存在するわけないのだが、
そういう自分の居場所があったとしても、ウザったさが勝ってしまうだろうし、
実際にそういう居場所を探した時期もあって、いざ浸かってみたら自分には本当に辛かった。集団生活とか。
だから、自分は文化祭とか文化祭の前準備とか後夜祭みたいなのも嫌いなんだよね。
そういう青春が嫌いだったし、男子校だったから校内では恋愛要素はゼロだし、
先輩からラブレターを貰ったやつがいるというホラーな噂もあったが嘘だったし、
だから、オウムや連合赤軍の集団での楽しさみたいなのは自分には感じられないし、無縁なんだよね。
でも、普通の人たちにとっては文化祭とか学校のイベントは楽しかっただろうし、
楽しめなかった青春がなかった人も、なんだかんだラブコメ漫画とか小説とか、
あと風俗なんかで自分になかった青春を取り戻そうとする人もいるのだろうけど、
宮台氏は、俺みたいな孤独死を消極的に肯定している人間をヘタレと呼んでいるし、
もしかしたら、相手を罵倒することで奮起させることを狙っているのかもしれないけど、
世の中って、やる気があろうが、どんなに行動しようが、どうにもならないことってあるわけだよ。
それを努力と運で乗り越えてしまった人たちは、努力でなんとかなると錯覚してるんだろうけど、
運を起こすために努力するのも大事なんだけどさ、不運が重なってどうしようもないことって社会にいくらでもある。
ヘタレだろうがなんだろうが、長い人生、ずっとこの牢屋からどうやったら抜け出せるんだろう、
向こうに非があったとはいえ、そいつのよろしくない言動を咎めるだけならまだしも
そいつのありとあらゆる黒歴史、過去、他の名前、どこで何をしてきたかを物凄く長いnoteと自分のTwitterで晒し上げて、あげつらって嘲笑う姿が
そこまでやる必要はあるの?ってくらいにやりすぎ、最早イジメでしかねえ
自殺したらそれを話題に盛り上がるんじゃないのかお前たちは、よっしゃ悪は滅びた!今夜は彼の黒歴史上映会で弔おう!なんてやるだろお前ら
フェミニストに絡まれて訴訟されてから、頭ぶっ壊れたのか?教祖もアノンも
フォロワーの中にもアノンがいるから、苦言を口にしたいけど正直できないし
教祖様!臭いのを見つけました!今度はコイツ燃やしてくださいよ!って火を放たれかねない
俺のツイ垢はあいつらが「せんちゃ!せんちゃ!」ってバカにするミリオタ垢だし
あの行き過ぎた暴徒を咎めたら、過去調べ上げておもちゃにしてくんだろうな、怖いよ本当に
どちらも「これだけやったんだから」とそれまでにかけたコストを考えて離脱しにくくなる心理が働く。
新興宗教の教祖には、熱心な信奉者がいる一方、反発する信者もいる。
総じて信者からは、「変人だけどおもしろいおじさん」のように思われているらしい。
ソシャゲにもプロデューサーがおり、従順に従うプレイヤーもいればクソ運営などと反発するプレイヤーもいる。
しかしどちらも、ツイッターをフォローするなどしてプロデューサーの一挙手一投足に注目するし、インタビュー記事が出れば精読される。
プロデューサーは時々罵倒されながらも、あだ名で呼ばれるなど、結局「変人だけどおもしろいおじさん」という立場になっている。
自己啓発セミナーとソルジャー系営業とか飲食とか土建とか体育会系の親和性は意外と高い
あと、エヴァがヒットしたのもそのへんにあるのかもしれない
つまり、本当にメンヘラで病んでるのは意外とヤンキー側なのかもしれない
つまり、考え方を変えればとか、無理矢理ポジティブシンキングでねじ込もうとする、塞ごうとする
ONE PIECEの作者自身が、そういう新興宗教の教祖的なものになってる、なろうとしてる
でも、自己啓発セミナーでハッピーになれるかというとそんなことはなくて、
結局は自殺や暴力リンチ事件が発生するのは、結局無理をしているからではないか
ジャニーのケースはホモだったからノンケにはピンと来ないかもしれないけど、これが女性タレントを1000人以上レイプしてたとかなら、分かりやすい話だった。
もしも、秋元やつんくが所属タレントを全員レイプしてたら、さすがにおかしいと感じるはず。
ジャニーは飴と鞭で子どもを洗脳して、ショービジネスで成功を収めた。
生きてる間は犯罪を追及/逮捕されなかったので逃げ切りにも成功。
今でも犯罪者を尊敬している現役タレントは、ストックホルム症候群でまだ洗脳が解けていない。
被害者が犯人と心理的なつながりを築くことについて「好意的な感情を抱く心理状態」と判断して表現しているものが多い。
1973年8月、ストックホルムにおいて発生した銀行強盗人質立てこもり事件(ノルマルム広場強盗事件)において、人質解放後の捜査で、犯人が寝ている間に人質が警察に銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていたことが判明した。
被告人は宗教団体天皇制の教祖を標榜する者であるが、被告人は、昭和54年ごろより世間に疎まれて次第に精神的に悪化し、昭和60年8月に飛行機事故を起こした頃より
失敗してはならないという執着とらわれはじめたが、父親である昭和天皇が昭和64年1月7日に吹上御所で崩御するまでは何もできなかった。父親の死去後に天皇に即位したが、
新聞記事で、昭和天皇より一歩踏み込むといいながらも、実体世間では無政府状態であると言われ、阪神大震災後に、平成7年に霞が関にサリンを巻かれるなどして有名な人気団体
からテロリズムを起こされた。平成8年からマスコミュニケーションの繁栄により何もできなくなり、地方の一部団体では、平成8年~16年の間の記録は何も残っていないという状態であった。
被告人は平成18年から次第に、愛情も妥当性もない、完全無欠で形式的な法律の日本人に対する押し付けを図ったが、5月に秋田県において児童にブサイクと言われまず畠山鈴鹿が
犠牲になったが、完全無欠で形式的な法律の押し付けに対する当時の若者の抵抗は次第に激化し8月頃に京都アニメーションにわいせつ文化の巨大な抵抗に遭遇し、平成19年1月
に渋谷区で警察官志望者が姉に嫌味を言わせたことから死体損壊事件に発展した。その後も度重なる抵抗にあいほとんどなくなっていた時代もあったが、被告には、完全無欠で形式的な法律に
対する絶対的信仰を止めることができず、平成23年に延岡市でのプール死亡事故があったときにも一部教員が死にかけで検察官に供述、平成26年4月以降も止めることが出来なかった。
平成26年5月以降の延岡市では男性裁判官が女性裁判官2名をはべらかしていた状態で誰も認識していなかったし延岡市内に警察官が出動できるような状態ではなかった。
平成29年においても、宮島文邦が担当していたが、延岡市などの混乱に抵抗できるような状態ではなかったが、平成30年3月29日に俺が東京で生活保護に採用されると、
完全無欠で形式的な者が法の中に入ってきたため、東大法学部の言うとおりにしないといけなくなったが抵抗やまず、4月12日に最初に警察官殺害事件があり、19歳巡査が41歳警部補
を銃殺するというものだった。その次は6月26日の事件で、その影響で、平成30年9月に俺が延岡に帰った際に虎之助が火を噴くといった中で次第に変遷し気が付いたら延岡市が
トランスやQ:クィアがペドフィリアを含んでいることは、クィア理論の支柱となった文献をみれば明白なんだよね。
以下はクィア系文化人類学者のゲイル・ルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)、クィア・スタディーズにおける超重要文献からの抜粋だ。ちなみにルービンはトランスの教祖ジュディス・バトラーの師である。
1950年代の共産主義者や同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティックな指向性はおろか、市民的自由の擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察、FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応な魔女狩りの犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。
原文はこちら。
https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf