はてなキーワード: 様式とは
服にこだわったりするのは男女でそこまで違いがなくなってきた。
肌に気を使ったりするのも男性も積極的になったりしてこだわりの差が縮まってきてる。
だが「爪」へのこだわりは現状明らかに天地の差がある。
もちろん男でこだわってる人もいるけど傾向としては誤差の範囲。
「ネイルサロン」が経営として成り立つくらいだから金のかけ方もやはりすごい。
爪がちょっとツルっとするだけで何千円もする。
おしゃれというと異性へのアピールという側面や単純にみだしなみ、自分の個性の表現、自分の美の追求といろんな理由があるけど
どんだけ爪がすごかろうと男は正直1ミリもなんも思わないので(一般論)男受け狙いってわけでもなく純粋に自分の美の追求としてやってる感じがする。
これ男でいうと車へのこだわりみたいな感じ?
単純な車の価値の場合は女性にモテる要素もあるというか高級な外車に乗りたい女性はいそうだけど(正直周囲にはいない)
車を無駄に光らせたり車高を調節したりとかは「爪」の世界っぽい気がする。
(追記)
思いのほかトラバブクマ集まったな。みんなサンキュー爪カワイイ。
男性で言うなら腕時計に対する意識に近いのかなあと…感覚的に何となく。半分以上自己満足だけど他の人に「それ可愛い(かっこいい)ね」って言われると嬉しい、みたいな。
たしかに「爪カワイイ」って褒めあうような文化もそういえば究極に研ぎ澄まされたコミュニケーション様式だよな(爪だけに)
基本加算しかしないけど成立してるのがいい。
敵じゃないことの意思表明というか丸腰であることのアピールにもなってそう。
ビジネスの握手もそうだけど相手の「手」をとるというのは心理学的にも平和を分かち合いたい意思の表れ(出典:ワイがいま考えた)だし、ビジネス抜きにその最短ルートに迫れるのが「爪カワイイ」だよな。
腕時計の場合はなんかもうちょっとこう「序列」「ステータス」的ななにかを載せている人間のオーラをたまにピシピシ感じるのでワイ的にはちょっと解釈違いだな。ブランドのバッグ的なのに近くて「爪」ではないんだよな。
ワイ個人的にはゲーミングPCの光るやつとかが「爪」だなって思う。GPUのスペックが腕時計だな。そしてもちろんメモリが机でSSDは引き出しだ。
プロテイン飲み始めてから足の爪の年輪みたいな凹凸がなくなり滑らかな表面になった。タンパク質が安定供給されてるおかげ?爪には無頓着だったけど嬉しい副作用
へえーなんかそういうの聞くと気になってくるな!そういや爪にいいとかいって「けいそのお茶」飲んでる人いたわ。スギナ(つくしんぼの青いやつ)を煮出したらけいその茶になるらしい。
本で使ってる言葉ってことはある程度ちゃんとしてるはずで(読んでないけど)、つまり、Social Class(社会階級)の訳語の略したやつのことであるはず。
貴族と平民、ブルジョアと貧民の差を表していたClassから転じて、社会全体の層みたいなものを表す。
層が変わると行動や思考様式が変わる、というのがその分析の意味。
社会の状況が、人間の行動を左右しちゃうわけやね。犯罪率や自殺率の変化とか。
研究発表としては、「このような層が社会に形成されていますよ」と指摘することがテーマになり得るのであって
つまりこの本の著者は、どうやら、本人の所得差+夫の所得差で、女性の社会階級を考えることが出来る、女性の行動や思考を推定できると主張しているわけだ。
「何が真理であるかは人それぞれ」「何が真理であるかは社会が決める」といった思想。
この思想体系は相対主義や社会構築主義と呼ばれ、現代社会において特に顕著になっている。その主な理由は以下:
1. 情報化社会の進展:
さまざまな考え方や情報に容易にアクセスできる現代社会では、「絶対的な真理などない」という考えに陥りやすくなっている。多様な価値観や文化に触れることで、真理の相対性を感じやすくなっている。
2. 思考停止の誘因:
「人それぞれ」という考え方は、一見柔軟で視野の広い思考のように見えるが、実際には真理を追求する意欲を失わせ、思考停止に陥らせる。これにより、深く考えることを放棄し、安易に相対主義的な立場を取る傾向が強まっている。
多数決を重視する民主主義社会では、個々の価値観や信念が尊重される。しかし、これが行き過ぎると、絶対的な正しさを追求する姿勢が弱まり、相対主義的な考え方が広まりやすくなる。
近代の機械的な思考様式は、物事を単純化して捉える傾向がある。これにより、精神的・道徳的な価値の相対化が進み、真理の絶対性を疑問視する風潮が強まっている。
5. 娯楽文化の浸透:
現代社会では娯楽が生活の重要な一部となっている。これにより、単一の真理や価値観に縛られない多元的な生き方が受け入れられやすくなっている。
ヤスパースなどの哲学者が提唱した実存的真理の概念は、真理が個人の存在と不可分であるという考えを広めた。これにより、「私の真理」という個人主義的な真理観が強まっている]。
この相対主義的な考え方が堕落に繋がる具体的な例としては、以下のようなものが挙げられる:
「人それぞれだから」という考えが、深く考えることを放棄させ、適当な判断や行動を正当化してしまう。例えば、重要な社会問題に対して「考え方は人それぞれだから」と言って議論を避け、自分の責任を放棄してしまうケースがある。
民主主義社会では、多様な意見をぶつけ合って議論することが重要。しかし、「正しさは人それぞれ」という考えが強まると、建設的な議論が行われず、投票が単なる好き嫌いの表明になってしまう可能性がある。
「文化に善悪はない」という極端な文化相対主義は、人権侵害や差別的慣習を正当化する口実になりかねない。例えば、精神障害者の権利が制限されている社会で「それが文化だから」と言って批判を避けることは、弱者の立場を無視することにつながる。
「真理は相対的」という考えが極端になると、客観的な事実や科学的知見の重要性が軽視され、学問や科学の発展が妨げられる可能性がある。
5. 個人主義の行き過ぎ:
彼らの思考様式を理解するためには、そもそもの話として共産党員の世界観というものを理解する必要がある
彼ら(共産党員)にとって、今の日本社会は「間違っている(正しい形に修復されるべき)」社会なわけ
親米保守(とされる)自民党が長らく政権につき、日米同盟は今も健在どころか段々と強化されている
自衛隊は公然と米軍と連携しているし、さらに中国、ロシア、北朝鮮への圧力も隠そうともしない
彼らからしてみれば、そういう世界は「間違ってる」し、当然ながらそれを支持する国民も「間違ってる」わけ
基盤となる社会そのものが間違ってるから、それを土台に成り立つ法律や道徳観念といったものも守る必要はない、というのが彼らの基本的な思考様式
稲泉健一警部補が平成30年6月26日に殺害されたときの様子として、時間帯は午後3時で、増田では、警察の監察課と消防総務課の男による、めんどくせー、という腐った書き込みが
あった他、板橋区若木3丁目から練馬区青葉台の方を●●が、平成30年5月に運動して、練馬自衛隊駐屯地の方を散策していたので、この、若木3丁目付近に住んでいる腐った女性からの
何らかの通信はあった。この前後で●●について、平成30年6月11日に、富澤佳代子の親父が電話でブチ切れたことから、6月13日頃より赤羽ゴルフ場まで走るようになったことがあるが、
稲泉健一殺害がなぜその13日から、13日後になったかは疑問なしとしない。 平成30年7月4日に、飯沼病院の精神科杉浦真理子が診断してあったが、その後、日本年金機構から診断書
の様式が送付され、これを飯沼病院に送付したところ、先生は忙しいので即座には作成できず、作成してから自宅に郵送するという返事があった。診断書は、7月下旬に送付され、日本年金機構
が、8月1日に受け付けたという印鑑を押していることが認められる。平成30年8月21日に●●が上野駅に出た際に周辺の利用客から最悪な状況にあるという声がある。店側からは、あなたの
使っている言語は最近の女の子には通用しないしうちの店には来ないでください、という回答があったが、平成30年9月18日に、宮崎市のハートセラピーの波崎が、あんたしつこいな、うひょーさむさむ
今時お前みたいな男誰も相手にせんわ、という大声が存在した。平成30年9月20日に延岡市のサンタナで、ラブアンドピースのユメというキャストが出てきたがこれが以降問題となり、
もうこれも、ニュース見ないで長文見ないで○○に投票してドヤ顔したり、
本気でXXだと思ってないのに、コミュニティにXXだと思われたいからXXと言ってるのとなにも変わらない
トランスレイシャル(transracial)の方がよっぽど根拠があります
白人・黒人のルーツがなくたって明日から白人・黒人になれる世界
あるいはアメリカ人のルーツがなくても明日からアメリカ人になれる世界
例えば、祖先に白人を持たない夫・妻ともに黒人のカップルにアルビノではない、金髪碧眼白い肌の子どもが生まれたりする
3 African couples gave birth to a white child
https://afroculture.net/3-african-couples-gave-birth-to-a-white-child/
ぶっちゃけ何も驚く要素は無くて、人種も国籍同様に、宗教・文化・政治で勝手に人間が決めたものだから当然の結果なわけ
『今日から僕はおばあちゃんでーーーす』『17歳でーーーす』『アフリカ系アメリカ人でーーーーす』とか言われても社会は困っちゃうのよね
社会のロールで人を縛らない世の中にしていこうには賛同するけど、
戸籍法や厚生労働省履歴書様式例のテンプレートとの整合性はつけて欲しい
でもこれ国公立大学内でミスコンやってたり電通はやりたい放題するの許容してるのと根っこは同じだと思う
この時代にあえて「男らしさ」「女らしさ」
ほんとジャップランドはなるべくしてこうなったって感じですわ
143条以下を見ると様式については制限があるけど、内容については制限がない
すると公職選挙法は候補者間の公正なルールと方法による弊害(勝手に道路とか乱立させて貼ったりするとか)を防止するための規定なんじゃないかな
内容について規制しないのは政策の主張が選挙の根幹であるし、これを制限すべきでないって考慮もあるのかも
その辺は全体の構造や立法過程、事例判断とか観てないからなんともいえないけど
ただその場合はやっぱり選挙ポスターについては内容が大事で規制すべきでないって元の話と整合的な気がする
その上で猥褻物陳列罪は内容についての規制だけど選挙ポスターの内容とは無関係で、いわゆる間接的付随的制約として及びうるとは思う
ただその場合も選挙ポスターだと猥褻な政策を訴える候補者はけしからんだとかの可能性もあるし、表現の価値も高いと考えると合憲化のハードルは低くないと思う
あと確かに地方の選挙で碌でもない手法のようにも思えるけど、性道徳による規制っていう刑法でも疑問視される行為についてカウンターとして過激な表現によらなきゃいけないのも事実なんじゃないかな
公民権運動では過激な表現が用いられてて、それと同視するわけではないけど、多数派が少数派の表現について見るときには簡単に考えずに規制を行う側は慎重さが求められるんじゃないかな
あくまで個人的な考えではあるが、二つのポイントがあると思っている。1つ目が「自分の目的のためだけに相手を扱わない」、2つ目が「相手が独立した他人であることに焦点を置く」ということである。
一つ目について、例えば、あなたが誰か女性に話しかけるとする。女性がその会話に応じてもいいかな、と思う場合には、そこには大抵、明確な目的意識はない。例えばちょっと時間を潰すとか、クラスメイトと仲良くしておこうとか、その程度のゆるい意識がある程度だろう(つまり、会話するという手段そのものが同時に目的でもある)。その結果としてお互いのことを知り、親密性が上がることはあるかもしれない。けれども、もしあなたが、その女性と交際する、というステータスを得るという自分自身の目的のためだけに手段として会話をしている、というのであれば、お互いの意図は噛み合わないことになる。あなたが自分の目的だけを強く推し進めるのであれば、その女性は、自分の意思は無視された、と感じるかもしれない。あなたが極端にも「交際というステータスを得られないのであれば、会話など意味がない」という態度を取るのであれば、彼女は、あなたの一方的な目的のためにコミュニケーションリソースを利用された、と感じるかもしれない。
あなたがもし自分が「非モテ」側だという自覚があるならば、まだ一度も話したことのない異性が、あなたを恋人候補として意識しているという可能性は極めて低い。だから、明らかにお互いが恋愛を目的としている、という確実なコンテクスト(例:婚活・マチアプ)がない限りは、まずは「特に目的もない会話をできるようになり、すること」というのが人間関係の第一歩になるはずだ。
もう少し関係性が深くなり、交際を意識するようになったら、今度は2つ目のポイントが重要だろう。これは要は「一般論的な、あるいは自分自身の願望を、ノータイムで相手に投影しない」ということだ。
例えば、女性は割り勘を嫌うから、という一般論を踏まえて、今日の食事は奢るよ、という態度をあなたが取ったとする。ところが、相手の女性は、自分とあなたはただの友達だし、奢られる理由はないから割り勘にしよう、と返してきた。ここで、意地でも奢りを貫こうとするならば、相手の女性は「わたし」ではなく「女性一般」を見ていると感じるだろう。あるいは、あなたは贈り物をもらうのが好きで、だから相手に贈り物をあげたら喜ぶだろうと考えて、何かを渡してあげる。しかし、相手の女性は人からものをもらうことを、「借りを作る」と考えて苦手に思う人間で、それを拒否してくるかもしれない。こういうときに、おかしい、ものをもらったら僕は喜ぶのだから、あなたも喜ぶはずだ、とあなたが突き通すなら、それは相手の個人としての人格・思考を無視していることになる。
いや、じゃあなんで奢り奢られ論争なんてもんがあるんだ、と思うかもしれない。そりゃまあ、例えば、多数派の異性がそう考えているであろう信念を一手目の根拠にする、というのは楽な戦略だろう。楽な戦略だから、多くの人がそれを推奨する。とはいえ、もしそこで相手が「私はNoだ」と言ってきたら、相手の主張を一旦真剣に受け入れる必要があるよ、というのがここで言わんとすることだ。
それから、相手の考えは「常識的に、察すべき」だと女性は言うじゃないか、という反論もあるかもしれないが、個人的にはお勧めしない。というのも、互いの欲望の言語化ではなく、察し能力のみに依拠するコミュニケーションは、早晩破綻しがちだ。結婚まで至ろうものなら、必要なのはすり合わせの連続である。セックスレスで揉める夫婦を見てほしい。「一般的な夫婦は経常的にセックスすべきだだし、自分もそう思っていた」「一般的な夫婦は出産を機にセックスは必要でなくなるし、自分もそう思っていた」両方、一般論としてどこかで聞いたことないだろうか。どちらも、「はっきり確認させていなかったけれど、相手も同じ信念を持っているだろう」と思い込んでそういうことを言ってしまう。けれども、どちらの信念を持つか、その違いがわかるのは、できれば早い方がいいに決まっている。
注意点としては、ここに書いてあることすら必ずしも「万人の正解」ではないということだ。これを書いている人間自身、基本的には「ある程度コミュニケーションが取れてから相手を恋愛対象として考える(一目惚れをしない)」という信念に基づいていて、その分のバイアスがある。世の中には、「感情的なつながりがない時だけ性的好意を持つ(フレイセクシャル)」という人種もいるらしい。そうしたら、人間関係を徐々に構築する戦略はうまくいかないかもしれない。要は、誰にでも100%うまくいく方法なんてない、ということである。ここまで長文を読ませておいて、と思われるかもしれないが、2つ目のポイントの本質はそこにある。すると必然的に試行錯誤が必要になるし、失敗にめげない胆力がカギになってくる。
相手はあなたと同じ、思考する人間である。しかし、その思考の様式、前提、ひとりひとり大きく異なっている。今、目の前の相手がどういう人間なのかをどれだけの解像度として知ろうと思えるか、そこで人間個人としてのコミュニケーションの深さが測られる。もちろん当然、それはあなただけが頑張るべきことではなくて、お互いが意識すべきこともである。あなたがもし、相手に蔑ろにされたと思う時には、怒っていい。自分を大切にすることもまた、相手を大切にするための一歩であるのだから。
一問一答タイムショックやってんじゃねぇぞと思うが持ち前の善性で答えていく
ただ1分毎に繰り返される質問を受ける側は完全に口頭で中途の課題を作っている状態でこちらの作業が一向に進まない
プロの将棋指しは盤がなくても空で将棋が打てるというが俺もまさにその境地に至ったわけである
てゆうかなんで目の前にパソコンがあって単語の意味や仕組みについて俺に聞くんだろうな
それは俺が丁寧に教えすぎてそう仕向けてしまったんだろうと猛省
今日やんわりと指摘をした
仕事をしている上で他の人も作業をしており無言で手が止まっていても思考を巡らせているわけで
いきなり話しかけて主語もなくあれは何ですか?と質問しても思考の切り替えが出来ないから即答出来ないよ
もし質問があるのならいつ質問してもいいか時間を尋ねてから質問した方がいいです
前職の職場環境がどうだったか分からないけれどそうした方が円滑に進められると思うより、と
たじろいでいたが何とかわかってくれたと思いたい
こちらの状況顧みず自己主体で質問してくるのは本人の認知能力の限界であると思うからどう質問するかを示しておいた方がいいだろうという判断での指摘
その後は様子を伺うような感じになって質問する頻度が減って切り替えたので効果があったと思う
ただそれでもいきなり質問してくるのでこちらの思考を断絶してくるので勘弁してほしいものだ
質問したい相談したい時は30分後に質問してもいいですかとかで予め言ってくれれば教える相談する時間を確保するのに急にくるから頭がしんどい
いくつか口頭で回答して時には席で紙に書いて図示したりし説明していった
課題の終わり間際に次の課題のデータをメールで依頼しておいて終わりましたと報告きたら次の説明をしようとしていたら失敗があったので手戻りが起きていた
手戻りの説明をして中途にやっててもらってる内にさっきの指示しようとしてた課題はこっちで10分ぐらいで終わらせて客に送り付けて本来の業務をしてた
課題は項目毎に順序良くすれば前提条件も推論も流れるように行けるはずだがどうにも進んでいなかった
成果物をざっとみて説明通りにはしていないのでもう一度手順の意味を説明した
どうも指示から外れたり違うことをし始めるので要注意かも
俺の予測よりは遅れ目なので今週続けて来週も継続でその内容を教えるかなと教育方針を修正
仕事をしながらステップアップしていくような教材を考える俺は給料を2倍貰った方がいいかもしれんな
そんなこんなで中途に作業を教えつつ自分のタスクも終えて定時になったら即帰宅
中途はまだ課題が終わってないから残業するようだが作業ボリューム的には朝やれば終わるだろうから残業しなくてもいいのにと思いつつそんじゃーなって言って帰っておいた
家帰って振り返りをしていたが中途から何かと質問が生じるのは書式の様式が悪いような気がするから様式の修正を上司に相談してみるか、と修正案とマニュアル草案を作りかけていた
結婚の見込みがない29歳正常独身青年が、ご先祖様に申し訳ないという気持ちから先祖の戸籍を請求した。6市町から31通の戸籍謄本を取り寄せ、Excelにまとめた。戸籍制度の変遷や行政区画の歴史を知ることができ、何故か海外移民の歴史にも繋がり、祖父母との会話のきっかけにもなった。独身の暇つぶしにはもちろん、子供の自由研究にもおすすめである。かわいいあの子と新戸籍編製したい。助けて。
俺が末代だ(誤用)→ ご先祖様に申し訳ないにゃあ → そもそも先祖って具体的に誰やねん → そうだ、戸籍、取ろう
ワイ、29歳素人童貞。自分は子孫を残せないかもしれないというぼんやりした不安がいよいよ現実味を帯びてきた今日この頃。親にも祖父母にもご先祖様にも顔向けができぬと思った時、はて自分の先祖ってどんな人たちだったんだらうという疑問が湧いてきた。祖父母に聞いてみても、こんな先祖がいたという話は出てくるがそれが自分にとって何にあたる人なのか(曾祖父?曾祖母?高祖父?)が分からない。墓石や位牌を見てみても名前と戒名と行年が分かるだけ。家系図なんて高尚なものもなし。というわけで、先祖の戸籍、取り寄せてみました。
僕は埼玉生まれ埼玉育ち、岐阜県在住29歳素人童貞工場勤務現場労働限界サラリーマン。父親は次男で地元は山口県、母親は次女で地元は栃木県、そんな2人が地元を捨てて東京の大学で出会い、埼玉で僕が爆誕したってわけ。親の背中を見てすくすく育った僕は当然のように親元を離れ、縁もゆかりもなかった岐阜で働き、親に会うのも年1回、これが因果ってやつです。
さて、いざ戸籍を請求しようと思っても、やり方もようわからん。こういう時はとりあえずググる。ふむふむ、直系尊属の戸籍なら請求できる、と。まずは自分とか親の戸籍を取って、そこに親の名前と前の戸籍の本籍地が書いてあるから、親、その親、そのまた親って遡っていけばいいわけか。同じ市町村内なら先祖の戸籍をある分だけまとめて請求も出来るんだな。自分の本籍地が父親の実家にあることは以前に住民票取った時にわかってたから、山口県の役所まで行かなきゃいけないのかなと思ってたけど、どうやら郵送でも請求できるらしい。これはありがたいね。で、必要なものは、と……、まず請求書か、これはあとでコンビニでプリントだな(プリンターなんて持っていない限界独身青年)。本人確認書類は免許証でいいな、これも後でコンビニでコピー。返信用封筒と切手は買ってこなきゃ。あとは手数料を、定額小為替?、何だこれ、ていがくしょうかわせって読むのか?郵便局でしか入手できないし、貯金窓口って平日16時までしか空いてないのか、これは面倒だな……。
実際の手続きは市区町村のサイトにやり方書いてあるんで、それを見れば誰でもできます。面倒だったり時間がなかったりする人は司法書士とか行政書士とかに依頼したらやってくれるらしいよ。僕はコミュ障だからそっちの方が面倒なので1人でやった。手続き関連で意味わからんのは定額小為替。読み方もわからんくて、僕は最初郵便局の窓口で「ていがくしょうかわせください」って言って小恥かいた(ていがくこがわせ)。これは要するに戸籍の発行代を、現金は郵送できないから代わりに為替で送るってことなんだけど、小為替の額面にかかわらず1枚の発行に200円の手数料がかかる(2022年までは100円だったらしい)。200円の定額小為替1枚にも200円かかるし、750円の定額小為替5枚で1,000円の手数料だよ⁉ 平日の昼間になんとか時間作ってるのにこんな手数料取られるの、ほんとアホらしい。オンライン決済に対応してくれ。社会人の時間と金を返せー。北方領土も返せー。
まあそんなことは置いといて、戸籍の請求の時に用意しとくと便利なもの挙げときます。①プリンター: これがないと請求書の印刷とか本人確認書類のコピーとかでいちいちコンビニに行かなければいけなくなる。行った。必要項目さえ書いてあれば手書きの書面でもいいらしいんだけど、今時そんな人なかなかいないよね。②角形2号封筒: 請求書発送と返信用として同封する分で結構使う。③A4クリアファイル: 封筒に入れる書類はクリアファイルに入れる、これ社会人の常識ね。え?ギリギリ働けているだけの無能が社会人面してんじゃねえ?いいいいイキってすみません…
戸籍には、3つ種類がありまして、戸籍に除籍に改製原戸籍、この3つなんですが、まあ大雑把に言ってしまえば生きている戸籍と死んだ戸籍と旧版の戸籍って感じです。先祖のことを知りたいのなら、とりあえず全部1通ずつ請求すればオケ。現存している先祖の戸籍は全部手に入れてやるくらいの気持ちでいきましょう。請求理由に家系図作成のためって書いておけば、まとめて請求もできます。
戸籍はこれまで法改正によって6種類の様式が作られていて(明治5年式・明治19年式・明治31年式・大正4年式・昭和23年式・平成6年式)、現在入手可能で最古のものは明治19年式。ここまで遡れれば、だいたい江戸後期生まれの先祖がわかります。そして、さらに遡りたくなります、なるんです。ところが、明治5年式はいわゆる壬申戸籍ってやつで、新平民とか元穢多とかの表記があるらしく、昔の差別ガーって五月蠅かった奴らのせいで見ることができない。これ、完全に国民の知る権利の侵害じゃね?今の法律だと直系尊属の戸籍しか請求できないんだし、見せてくれたって何の問題もないよね。まあそもそも、部落差別がどうとかいう話がまず胡散臭すぎるし(職業差別なんか?地域差別なんか?血統差別なんか?)、そんなもん現代に存在しないやろ。解放同盟とか、差別反対って叫んでる連中が日本を歪めてるって、こんなとこでもわかんだね。みんなも部落探訪、もとい曲輪クエスト(©鳥取ループ)してこ♪ 楽しいよ!
で、戸籍請求して特に不備がなければ、1週間程度で返送されてくる。僕は最初に戸籍をまとめて請求した時、想定よりも枚数が多かったので小為替が足りず、追加で小為替を送ることになった。小為替は多めに用意しとくのがヨシ。
ここからは自分の先祖の戸籍の話。父方の実家は山口県の田舎で、江戸時代からそこに住んでいたと聞いていたので、1回の請求で割と簡単に明治19年式戸籍まで入手することができた。しかし、よく見ると本籍地の表記が現在のものと違っている。もちろん市町村合併が何度かあって〇〇郡〇〇村とかが今と違うのはわかるんだけど、番地が全然違うのだ。今の番地が「〇〇番地」なのに対し、明治19年式では「第△□番屋敷」になっていて数字も違う。調べてみると、現在の本籍地は地番を記載しているが、明治19年式の段階では地番とは別の壬申戸籍編製時に家ごとにつけた屋敷番号というものを載せているらしい、ということが分かった。そしてややこしいのが、地番と屋敷番号は全く対応していないようなのだ。その辺は地域差もあるみたいで、近代化の過渡期って感じのカオスが面白いですね。まあ現代でも住所表記は複雑で統一されてないし、そんなもんか。もしこの明治19年式の期間に先祖が転籍していたら、以前の本籍地が現在でいうどの場所にあったのか、地番と対応していないのでちょっとやそっとじゃわからないらしい。僕も詳しくはないから、知りたい方はググってみてくれ。そう思うと、父方の家が江戸時代からずっとそこにあるというのは、運がよかったのかもしれん。
他にも、高祖母の家系の明治19年式戸籍で、「〇〇郡〇〇浦」という、「町」でも「村」でもない表記のものがあった。町村制は明治22年施行だから、それ以前の藩政時代の表記が残っていたのだろう。これまた過渡期って感じでたまらぬ。こうなると郡制とか府県制とか市制町村制とか、行政区画の歴史についても、わたし、気になります!状態。心の中のえるたそが犬みたいに瞳を輝かせて迫ってくる。やれやれ、僕の頭脳はほうたるだからね、手短にね、やっちゃいましょうかね(Wikiを読む)。
そんなこんなで、クソ労働により病みそうで病まない少し病んでいる状態になりつつも請求を粛々と進め、とりあえず6市町から31通の戸籍を入手した。ある程度集めたところでExcelにまとめる作業に入り、そちらの作業の方に時間がかかってしまってまだ先祖の戸籍すべては請求できていない。単純に高祖父母の代まででも2^4=16家系あるからね、というのは言い訳ですごめんなさい。今のところ、一番遡れた人が高祖母の祖母にあたる人で文政3年(1820)生まれ、さらにその1代前の両親まで生年月日は不明ながらも名前は判明した。やろうと思えば200年くらい遡れるんやな。
戸籍には生年月日や出生地、婚姻などによる入籍・除籍日、死亡日、死亡地などが載っているので、ひとまずExcelでまとめてみた。眺めてみると、子供が早くに亡くなっていたり、夫と死別して出戻りしていたり、養子を迎えたり、韓国京城で死んでたり樺太真岡で死んでたりアメリカで死んでたり、戸籍から見えてくるものなんてその人の人生のごくごくわずかな部分にすぎないけれど、だからこそいろんな人生があったんだなと想像しちゃう。それに対して僕の人生……。もうずっと静止期、Stationary phase。Log phaseが一瞬すぎたんよ。いや、まだ長すぎるLag phaseの途中って可能性もないことも……ないか。
戸籍で父方の方を辿っていくと、長男がずっと(途中養子を挟んでいたが)家を継いでいて、一方母方の方を辿ると四男の四男の長男みたいな感じで家を継ぐという感じではなく、そこは対照的だなという感想をまず持った。自分のアイデンティティはやっぱり父方の方にあるけれど、自分自身の境遇(次男の長男です)を思うと、母方の方にも親近感が湧く。故郷を離れる、離れざるをえない人生というものに。特に母方の方は、一度栃木県を離れて北海道に渡ってからまた栃木に戻ってきており、中には樺太に渡って真岡で死んでいる親族もいて、これはおそらく長男の家系じゃなかったから移住したのだろうと思う。真岡なんて真岡郵便電信局事件でしか知らなかった地名だよ。こんなところで樺太と繋がるとは思わなかった。戸籍だと直系しか辿れないから、祖父母の兄弟とか曾祖父母の兄弟とかの傍系がその後どうなっていったのかまではわからないんだけど、自分自身が親元を離れていて昔の次男三男みたいな生き方をしているので、そっちの方も気になってしまう。それでも、おそらく当時の人たちには生まれ故郷という感覚はあったんだろうなと思ってて、自分なんかはもはや故郷が存在しなくていつか故郷に戻るみたいな感覚が全くないので、故郷が欲しい帰る場所が欲しいと思ってしまうんだけど、これはないものねだりだよね……。強く生きていくしか、ないね……。
父方の方は父方の方で、明治末から大正時代にアメリカに渡ってアメリカで死んだ親族が2人もいた。で、調べてみると山口県は全国でも5指に入る移民送出県らしい。有名なのは周防大島(屋代島)からのハワイ移民で、島には日本ハワイ移民資料館もあるよ。行ってみたいね。海外移民の歴史については、詳しくはググればWikiとかも出てくるし(Wikiの「広島県人の移民」の項目は読み応えあった)、興味ある方は調べてみてほしい。実際、父方の実家からは瀬戸内海を挟んで周防大島がよく見える。でかい。一時期周防大島出身の民俗学者・宮本常一の本を読んでいたことがあって、そこに宮本常一の父親が明治27年にフィジーに出稼ぎに行く話が出ていたので、まあ島と本土の違いはあるとは言え、あの辺一帯に外に出ていく気風みたいなものがあったのかなと想像してる。こんな感じで、家系っていう私的なものから歴史に繋がるのも面白いですな。
ここまで調べたことを表にまとめて、父方の祖父母に見せてみた。よお調べたのおって言われました。
「この人はアメリカに渡って、稼いだから家を建てちゃるけぇって言っちょったけど、向こうで喧嘩を止めに入って死んじゃったんよ」
「このおばあさんは酒造の娘でのぉ、気位が高い人じゃった」
「このおじいさんは働かん人だったみたいでねぇ、田んぼを売っちゃって大変じゃったんを○○さん(息子)が頑張って立て直したんよ」
あとは祖父が実は山口ではなく東京で生まれて幼少期は東京で暮らしていたり(当時は東京府東京市)、祖母が京都で生まれていてそれが実は自分が大学時代に下宿していた場所の近くだったり、なんてことも初めて知って、いろいろと話せて楽しかったです。
① 引き続き戸籍を請求:多分まだ結構取り寄せられる戸籍が残っているので、続けていこうと思う。古い戸籍は廃棄している自治体もあって(実際にもう無いですって3件ほど言われた・昔は除籍後80年経過したら廃棄してもよかったらしい・今は150年)、あれはとても悲しい。1回広島市に請求した時に無いですって言われたので、もしや原爆のせいか⁉と思って調べてみたんだけど、戸籍は疎開させていて無事で、単純に大正3年以前に除籍された戸籍を廃棄してだけでした。貴重な資料なんだし、廃棄せずに何とか残せんかったんかな。
② 昔の住宅地図を見る:せっかく先祖の本籍地を集めたので、古い住宅地図で本籍地がどういうところだったのかを見てみたい。複写したい。でも住宅地図は図書館でも禁帯出で、地域の図書館とか国会図書館とかの現地に行かないと見ることができないからな……。やるか――住宅地図複写旅――。
③ 菩提寺に過去帳を見せてもらう:これもいつかやってみたいね。
実際にやってみて思ったけど、これ、中学生の自由研究とかにいいんじゃないかな。役所で手続きして、資料集めて、整理して、発表用にまとめる。広げようと思えば家制度とか行政区画とかの歴史にまで広げてレポートにもできる。祖父母との会話のきっかけにもなる。お子さんがいる方、おすすめですよ!もちろん子供をもつ見込みのない独身の暇つぶしとしてもかなり面白いと思う。まあ、休日に何してるの?って職場で聞かれたときに先祖の戸籍集めてまとめてますって答えたらちょっと引かれたけどね。そもそも休日が少なすぎて疲弊して遊びにも行けんのじゃこのクソ会社がコラ。でも一人、この話に食いついてくれた女の子もいたので、あわよくばお近づきになりたいよ。一緒に新戸籍編製しませんか?住宅地図複写デートとかどうですか?もちろんオシャレなカフェとか映画館とか夢の国とかにも行きますから。高いご飯も奢りますから。自分、やれます、やらせてください。使うあてもないのにNISAで順調に積み立てられていく資産、何も積み上らない人生、虚しい。寂しい。一発やるまで死ねるか!!!
わびとは、新鮮で素朴なもの。
シンプルさと静けさを表し、素朴な美しさも取り入れている。
自然によって作られたものと人間によって作られたものの両方が含まれる。
また陶磁器に流れる釉薬によって作られる模様のように、全体に優雅さと独自性を与える偶然の要素 (あるいは小さな傷さえも) を意味することもある。
経年変化のことを指し、使い込むことで変化していく概念が、物をより美しく、より価値あるものにしてくれるかもしれない。
これには、人生のサイクルを正しく理解することと、損傷を注意深く巧みに修復することも含まれる。
「わびとは、素朴でありながら洗練された孤独な美の性質です。さびとは、青銅の緑色の腐食であれ、木や石の苔や地衣類の模様であれ、風化と経年変化によって生じるその特質です。」- 精神の反映:アメリカの日本庭園、マギー・オスター
「もともと、日本語のわびとさびはまったく異なる意味を持っていました。さびはもともと「寒い」「痩せた」「枯れた」という意味でした。さびは本来、社会から離れて自然の中で孤独に生きる悲惨さを意味していました...14世紀頃両方の言葉の意味は、よりポジティブな美的価値観の方向に進化し始めました...その後何世紀にもわたって、わびとさびの意味は大きく交差し、今日ではそれらを分ける境界線は実際に非常に曖昧になっています。」- 「アーティスト、デザイナー、詩人、哲学者のためのわびさび」、レナード・コーレン
「わびという言葉は、翻訳には向きません。孤独、寂寞、素朴な素朴さ、静かな風情、骨董品に対する優しい愛情、気取らない、そしてむしろ憂鬱な洗練など、さまざまな意味を持ちます。」- 「日本建築の古典的伝統:現代版」数寄屋の流儀』 伊藤貞二、二川幸雄
「...小堀遠州、桂離宮の設計者として広く知られている男。建築や庭園に適用された遠州の様式は、宮廷の伝統の優雅さと優雅さと、千利休が好んだ厳格な素朴さを統合したものでした。この組み合わせは、思っているほど突飛なものではなかった。なぜなら、利休のさび(人里離れ、静けさ、牧歌的な簡素さ、自然への近さを暗示する美的理想)は、長い間伝統的な日本人の顕著な特徴であったある種の現実逃避的な要素に似ていたからである。」- 「桂 王子の隠れ家」内藤彰、西川丈志
「わびさびとは、不完全、無常、不完全なものの美しさです。控えめで謙虚なものの美しさです。型にはまらないものの美しさです。...わびさびに最も近い英語はおそらく「rustic」でしょう。 ……わびさびなものは、研究されておらず、気取らないものである……彼らの職人技は、見分けるのが不可能かもしれない。- 「アーティスト、デザイナー、詩人、哲学者のためのわびさび」、レナード・コーレン
「侘び寂びは、謙虚さ、抑制、単純さ、自然主義、奥深さ、不完全さ、非対称性を特徴とし、シンプルで飾り気のない物体や建築空間を[強調]し、時間と手入れが素材に与える穏やかな美しさを[称賛]します。」-「はじめに:茶の湯」、裏千家シアトルホームページ
「荒々しさに対するある種の愛が関係しており、その背後には隠された美しさが潜んでいて、私たちはそれを独特の形容詞で渋い、侘び、寂びと呼んでいます。...この内に秘められた美しさを渋いと呼んでいます。創造者によって鑑賞者の前に提示される美。鑑賞者が自分自身で美を引き出すことができる作品。 世界には、それぞれの性質や環境に応じて、美のさまざまな側面が溢れています。しかし、その味わいがさらに洗練されていくと、必然的に渋い美しさにたどり着くのです。」- 「知られざる職人:美への日本の洞察」、柳宗悦、バーナード・リーチ
「日本滞在中、渋いという言葉を頻繁に聞いたことがあるはずです。この言葉を英語に正確に翻訳することは不可能です。「厳格」、「抑制された」、「抑制された」、「陰気」、これらの言葉は許容される代替品に最も近いものです。語源的には「渋い」という意味で、奥深く、控えめで、静かな感覚を表すのに使われます...この単純な形容詞が最高の美しさの最終基準です。」- 「日本の民芸」柳宗悦
弊社システム、基本的にずーっと昔から同じシステムを使っているのと
リニューアルしても使い方とかシステムの役割は変わらないのでめちゃくちゃ使いにくい
受けられなかった人は自分でどこかの病院を予約して受けるしかない(会社負担)
健康診断はまだ全てWebになってるからマシで例えば昇格審査系のものは
ってなってて一つでもミスするとその年の昇格審査は受けられない
問題はこの手の手順がどこかに丁寧にまとまっているかというとそんなことはないし
なんなら「今年は手順変わったんだよ」と後から言われることもある
年配の社員は「使いにくいよね〜」みたいな軽い文句を言ってるんだけど漏れなく実施してて
そのせいで
どう考えてもシステム側が悪いんだけど
巷のITシステムは手取り足取りいろいろやってくれて確定申告ですら簡単にできてしまう
それに慣れてしまうとこの手の複雑なシステムは使えないんだと思うし
JTCが嫌われる原因ってこういうところにあるんだろうな
私達が十進法を使うのは指が両手で十本あるからで、
三本指だったら6進法になるだろう。
指という器官がなければ2進法、あるいは両手両足使って4進法だったかもしれない。
もし手も足もない生き物だったらどうだろう。
周囲の環境にも数える対象が存在しないまま進化し、十分な知性が発達したら?
その生物は記号を使わない思考、記号に依らない数学を獲得するんじゃないか。
で、このニュース
https://www.sankei.com/article/20240326-6APXS6ZHPVPATPAJXGG4BKXGXA/
羽を動かす動作そのものは記号ではないのに、記号脳の私達に解釈された結果記号と化してしまった。
このことは複数の異なる思考様式は併存できず、どれか一つに統合されてしまう事を意味する。
と思うんだけど、みんなはどう思う?
宗教を良い悪いの問題で語れると思ってる時点でお前らみんなバカで黙った方が良い。
ちゃんと歴史と社会を学んでれば、宗教は「社会規範を作る」ことそのものに意味があるとわかる。
規範となる様式を「良い」とか「悪い」と評価する以前に、そもそも「規範を作って守らせること」自体、宗教がなければ難しいという想像力がない奴は常識がない。
歴史を学べばわかる話だが、宗教がなければそもそも0から国は作れない。国家から宗教色が薄れるのは国自体が長い年月を経て既成事実化した結果だ。
宗教が「戒律」を持つというのはそういうこと。規範を作ってコミュニティを均一化すること自体が宗教の機能なんだ。
それくらいわかれ。
日常的に英語から直訳された日本語の文章に触れている人々は、そのような文章の持つ特徴的な様式を真似ることができるかもしれません。私は英語話者ではありませんが、それらの様式を用いて書かれた文章をどこか奇妙に感じると同時に、魅力的にも感じます。しかしながら、不運にも、どのようにすればそのような文章を書くことができるのかについて語る人を私は見たことがありません。そこで、私はこれまでの経験から英語から直訳された日本語の文章が持つ特徴を思い出し、それらを箇条書きにしました(それらの特徴は絶対的なものではないことに注意してください:ソフトウェアによる翻訳の精度やあなたが普段話すコミュニティなどによって左右されるでしょう)。
(1)文頭の副詞。驚くべきことに、普段用いられる日本語では文頭に副詞が挿入されることは多くありません。
(2)指示語の多用。「そのような」、「これらの」、などこれらの指示語はあまり使用されません。特に「これらの」など複数のものを指示する語は日常的には殆どお目にかかることはないでしょう。
(3)コロンおよびセミコロンの使用。日本語の文でこれらの記号が使われることはまずありません;私もこれらの意味を正確に理解していません。
(4)長い主語。膨大な修飾句を伴う名詞を主語として用いた文章を日本語の日常会話で用いることは稀です。
(5)体言止め。大きな、しかし細いゴシック体で表示された簡潔なキャッチコピー。
(6)主語の非省略。あなたは「あなた」と頻繁に書かれた文章を日本ではあまり見ないでしょう。
(7)主語の過剰な省略。(6)と合わせてダブル-バインドされます。
私がしたいことは翻訳の精度の低さをあざ笑うことや「奇妙でない」日本語を称揚することではありません。むしろ、他愛もない話の種の共有、そして裏を返せば日本語を他の言語に翻訳する時も同様の奇妙さと魅力が生じているかもしれないこと、しかしいかなる重要な問題も生じていないことの示唆が私の目的です。上述の7点を覚えていても(覚えていなかったとしても)、あなたの言語活動が楽しいものになることを願っています。