はてなキーワード: 様式とは
元増田は本人は違うと言ってるものの結局イラストレーターと漫画家をごっちゃにしてるんだよな
二次元という文脈で語られるフィクトセクシャル的な漫画を是としてるだけ。漫画をルッキズムなり性の対象としてしか見てない。
だからイラストに求められるものと同じ価値観で考えちゃうんだろうね
むしろ二次元オタク向けの漫画自体手塚治虫を萌芽として後発的に創出されたものにすぎす漫画の本流じゃないといか、芸術でいうバロックとルネサンスの関係のようなもんにすぎないだろ
特定の様式ばっか主流になると、もとい、特定の様式のものばっか自分の身の周りにあるとそれらへのカウンターになるようなものに価値を置くようになるごくありがちな認識の変容過程の一途にいるだけではないか。元増田にとってはたまたま高年齢向けの漫画が目だって目についた。
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
ネタバレ注意
フラワー・オブ・ライフの感想って難しいな。
それでも語らせてもらうと、一般的な連載漫画って①序盤に何話かかけて世界観設定をして、②中盤は大きく設定は動かさず安定した世界観の中で1話完結とかの話をやって、③終盤もう一度設定自体を動かしてクライマックス、みたいな様式がよくあるじゃん。
この漫画も基本的にはこの様式に沿っているように見えるんだけど、実は②の部分がすべて①から③に向かう間の伏線(?)な上に、改めて俯瞰してみると②も含めた作品全体の流れの緩急が見事にコントロールされている。
で、それに加えて凄いのは、当然初見の読者はこの作品の完璧な構造の存在など知りもしないので、作品を読み進めて③にたどり着くまでこの作品を「一般的な様式の漫画」だと思い込まされて、完全に油断させられる仕掛けになっているところだと思う。
ふんふんふん、と普通に「いい話」や「人間関係のあれこれ」を追っていった先に「あの終盤」ですよ。
俺が今まで②の1話完結ものだと思って読んできたエピソードは一体何だったのかと愕然としたね。
ただ、この感想はあくまでもたまたまこういう読み方をした人間だけのものであって、初めて読んだときのコンディションとか読み方によってはまったく違う印象になることもある不安定なものだとは思う。
そういう意味では「個人的に」ショッキングだった唸らされた作者は天才だと感じた作品としては1位だけど、万人にとって1位かどうかは自分には何とも言えない。
丸山真男『日本の思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式や精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。
この本の書かれた年代は古いが、現在のSNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というものの精神性の核をとらえているように思える。
例えばこれ
(2)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直観的解釈を絶対化する結果となる)、
(3)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、
(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、
(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考、
1-5まで、スタンスの左右を問わず現代のtwitterやはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?
これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。
キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会や思想が発展した背景から、思想それ自体を神格化して同じ轍を踏まないために、思想の形式的不備を市民が監視する構造が浸透している。
一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想を適用すると何が便利なの?という発想である。思想それ自体の形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。
なお中国は儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。
日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。
引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性に価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価は一見矛盾するようで、そうでもない。
道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存の価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存の価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のものと解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化を自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。
一方で抽象化・一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。
日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈や意図的な誤訳によって、既存の価値観と同居させる形でイデオロギーを解体して取り込むのである。
個人主義やリベラリズムやフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンスが右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想の各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。
お前俺か?同じことを考えていた。
結論、
知能が高い場合、正確には、性行為=恥ずかしいという文化形成するだけの知能がある場合。
現代のヒトがそのような進化を遂げたとしたら、3になるだろうな。
ヒトの知能が低い頃、そのような様式に進化し、その後進化と共に知能が発達した場合、これは2だろうな。
そして文化や家族構成にもとてつもない変化をもたらしているだろう。
さながらレイプなのだが、オスが全力でメシを追いかけてブツをぶち込む。股間に性器があるからこうなる。
では顔に性器があるとしたら?
まずこれまで通り後ろから捕まえてというわけにはいかない。後ろ髪を引っ張るのとは訳が違うのでな。
どうしてでも顔と顔を突き合わせる必要がある訳だ。
この状況下では、以下のような進化が挙げられる。
1. 腕力がとても発達する。男性器固定で、どうにか女性器をこちらに向かせるよう、腕の力が爆発的に進化する。両手で相手の頭を押さえてキスするあの構図だ。
2. 男性器が伸縮自在になる。↑の進化は追いかけてレイプに近いが、こちらの進化は待ち伏せて急にレイプする感じだ。擬態して獲物を待ち、近づいた途端長い舌を伸ばして食べるカメレオンに近い。
(↑この時点で、現在の進化ベースで予想してしまっているため、とても情けなく、恥ずかしく思う、すまん)
以降は妄想が膨らみ過ぎて頭が疲れてきたので寝る
すまん、新卒で入って一年しか経ってない奴の書き殴りだけど愚痴らせてほしい。
一応営業として入社したのに、謎の社内システムとか申請とかその為のエグいexcel様式との戦いとかに業務時間の半分以上使ってて死にたくなるんだがこういうもんなのか?
どうにか捻り出した対顧客の時間もほぼグループ他社の商材とかGやらMの商材に仲介手数料上乗せしましたみたいなのを半分騙して売り付けてるようにしか思えないパターンが8割くらいで、ふと冷静になると何をやってるのか分からなくなってくる。
日系の中では会社の余力あるほうだろうしある程度裁量持って面白いことできねーかな、とか思って入社した自分がリサーチ能力ない馬鹿で無能なのはその通りだと思う。
それにしたって業態とか売上からして余力はまだそれなりにあるだろうに、管理が糞なのか何なのか知らんが自分が配属された担当はなぜか全員常時稼働カツカツで、新入社員の自分が手助け求めるのを気遣うレベルって
(というか部内の誰も中身を把握してない異動引継案件が「わからないことあったらいつでも聞いて」の一言で丸々降ってくるのって普通なのか?)
上の年次見てても、マトモに個人として能力身に着けて生きてく方法が
「会社の業務を全力でサボって業務時間外を充実させるor転職(出来るか知らんが)」
しか無さそうに見えちゃうんだが、自分が無能だからそう見えるだけなのか?
他社員からの評価も高い有能な先輩が人事評価に裏切られまくってるの見てると、社外から見た昇進の差が大きくなる前にさっさとおさらば出来るような方向性で頑張るのが最適解としか思えなくなってくる。
別に自分はそんな能力無いし、どちらかというと会社にしがみついてる側の人間だと思うけど
最近仕事してるとほかの皆さんはどんな気の持ちようで仕事してきたんだろうと、罵倒でいいんで助言が欲しくなることばかりだから書いてしまった
まず前提知識として
簡単に書くとこんな感じ。もちろん他にもいろんな条件があるけれど重要なのは実際に契約をしたのがいつか、居住を開始したのがいつか、の2点。
この中で2020年12月末までに入居した人は今年は年末調整できるはずなので関係ない。
今年関係するのは
の2種類。
2020年10月以降に契約した人は確定申告サイトでポチポチすれば勝手にやってくれるから問題ない。
ところが2020年9月末までに契約した人はポチポチしただけだと10年となる。
ただ、これにチェックを付けると書類の提出が求められる。
「入居期限に関する申告書兼証明書」という書類なんだが、これは国土交通省のページとかでダウンロードできる。
この様式だけを見ると、住宅業者に入居が遅れたことを書かせて提出させるように見えるが、実は自己申告で良いと書いてある。
つまり
「2020年末までの入居を目指して住宅取得を考えていたんだけど、コロナのせいで外出を自粛したから遅れてしまった」
ということで、この「入居期限に関する申告書兼証明書」を自分で書いて確定申告に添付して送れば終わり。
ちなみに印鑑の場所があるけれど捺印は必要ないしe-Taxならネット提出で良い。
だとすると、これを提出させる意味があるのか?という疑問が出てくる。
なぜなら10月以降に13年が適用されるのは「経済対策」だからだ。
9月末までが特例的に適用されるのは「コロナの影響」だから実際にコロナの影響があったかどうかの証明書が必要という理屈。
さすがに20年は言い過ぎだけど
7年ぐらい前からDigitalizationっていうのをやたら言うようになってた。
その辺からDigital Transformationっていう単語が出てきてAIの次はこれだ!みたいになった。
流れとしては
「ビッグデータ解析したら新しい営業ができるぞ!(Amazonのレコメンドが契機かな?)」
→「ビッグデータの解析無理・・・AIってのが使えるらしいぞ!(画像系を中心)」
→「そもそもデータになってないことが多いな・・・業務を全部デジタル化や!」
っていう感じ。
欧米だとデジタル化の意味がよく分かってるから「そもそも20年前からずっとやってた」っていうのが正しい。
その上で「Digitalization出来てない部分をDigitalにしよう」っていう感じなんだけど
日本はそもそも嘘っぱちのデジタル化しかしてないから世界について行けてない。
それをデジタル化するときにちゃんとシステム構築したのが欧米。
「これがデジタル化や!紙がいらんで!」
ってやっただけ。
そのせいでDXってなっても
とかやっててアホかと思うね。
──日本電産といえば、買収した五十数社すべてをほぼ1年以内に黒字化させてきた会社ですね。
再建に向かう際、永守重信社長から真っ先に言われるのが、意識改革、企業カルチャーを変えろ、です。再建メソッドに対する受容マインドをまず上げておく必要がありますから。そしてA3の紙を1枚ポンと渡される。日本電産芝浦の再建のときは「1年以内の売上高倍増」、そしてたった1行「営業マン1人当たり訪問件数月100件」と書いてあった。月20件だったのを100件に上げれば、引き合いは増え受注件数は増え、売上高は上がる。従業員全員をやる気にさせる、そこを徹底するカルチャーにするのです。
日本電産のスピード感覚はハンパなものじゃない。会社全体にスピード感が行き渡り浸透している。見積もり作成に1週間もかけるな、より早く、ライバルよりも断然早く。他社なら1カ月かかる試作品も1週間で仕上げろと。ライバルはついていけなくなり次々脱落していった。最終的には精密小型モーター世界シェア80%を達成するわけですが、競合が消えても手を抜くことがない。会社のDNAとしてしみ付いているわけです、スピード感覚が。
そして会社の機関車は営業、開発・工場は支援部署。市場にいちばん近い部門が会社を引っ張れと。
──本書でもその営業強化策に紙幅を割いていますが、中でもフォローの重要性を強調されていますね。
川勝宣昭(かわかつ のりあき)/1942年生まれ。早稲田大学商学部卒業後、日産自動車入社。中近東アフリカ事業本部部長、南ア・ヨハネスブルク事務所長など歴任。98年日本電産にスカウト移籍。取締役経営企画部長(M&A担当)を経て、日本電産芝浦専務、日本電産ネミコン社長歴任。2008年経営コンサルタントとして独立。(撮影:梅谷秀司)
トヨタ自動車がなぜあれほど強いか。トヨタは「カンバン方式」などメソッドの宝庫です。でもそれと同等以上にフォローの強さがある。未達に対して徹底的な再発防止策を講じる。日本電産にも未達を許さないカルチャーがある。未達しないための準備を重ねる。売上高計画達成が微妙なときに、未達は不可というカルチャーが浸透してると、どうしたらいいか必死で考えますよね。既存領域でまだ拡販余地はあっても、新規客の訪問をかけようとか。あるいはまったく違う提案をしてみようとか。営業マンがどんどん考える営業マンになります。それが大事で、それがフォローの重要性なんです。
強化策のひとつに、週次管理があります。1週ごとに月末着地見込みをにらんで、未達の可能性があれば挽回策を練る。着地をブレさせない。
私がいた頃の日産自動車の年度方針発表会は、業績未達の説明に精緻な図表を作成し、いかに納得させる他責要因ストーリーを組み立てるかに心血を注いでいました。ところが日本電産では、過年度説明は1欄、○△×のみ。簡潔クリアに説明して、大半は新年度目標に向かってどう戦うかの作戦説明に割かれていた。経営者の「未達をしない体質にする」という決意とマネジメントスタイル、組織の中にどれだけフォローの仕組みを組み込んでいるかの違いを見る思いでした。
1週ごとに全社で行うフォロー管理の仕組みが、社員の日常業務管理力を向上させ、後戻りしない体質を作っていたんです。まさに日本電産の看板である「すぐやる、必ずやる、できるまでやる」を体現している。言い換えれば、スピードの文化、必達の文化、フォローと徹底の文化が浸透していた。
組織体質を変える一番の早道は
その第一歩が、まず訪問件数を100件に上げろ、なわけです。整理・整頓・清掃・清潔・しつけの「5S」もしかり。まず実践の場で形、行動から入らせる。それを繰り返して固め、思考様式を変えていくことが、組織体質とカルチャーを変える一番の早道です。会社の改革は人の改革ですから、着慣れた服を脱いで新しい服に着替えてもらわなきゃいけない。それは着づらいし着たくないかもしれない。でもそれじゃ変化はない。韓国・中国のような、コピーも速い一点突破・集中型ガムシャラ経営が台頭するレッドオーシャン時代には、スピードと徹底を身につけないと蹂躙(じゅうりん)されてしまう。
そうです。本を書くに当たっていちばん思いを込めたのが企業カルチャーの変革についてでした。なぜ皆がこぞってトヨタをまねてもトヨタになれないのか。問題は企業カルチャーなんです。トヨタ流の「なぜ?」を5回繰り返すフォローの文化なしに、いくらカンバン方式を入れても定着しない。かつて日産も研究し尽くして導入したけどダメでした。GMもダメだった。どちらも苗が生き生きと育つための土壌改良をしていなかったから。それと同じことです。
どの会社にも必ず問題意識が高く改革に前向きな少数派の“火種社員”がいるものです。経営者は彼らをまず自陣に引き込みタッグを組んで、彼らを改革のモデルとすることでその他大勢のヒラメ社員に新しいカルチャーを浸透させていく。私の経験上この方法がベスト。社長がいくらガナリ立てても変わらない。
──明日から実践できる作戦満載の本ですが、特に重視した点は?
『日本電産流「V字回復経営」の教科書』(東洋経済新報社/318ページ)上の書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
課題を図表で「見える化」し実践メソッドを紹介すること。日本電産時代に、病巣はどこなのか、どうメスを入れるべきか、レントゲン写真が欲しくて、多様なパターンの図表や見える化マップを独自に創作し用いてきました。見える化することで、改善への切り口がわかります。自社の現実を図表化して見せるとみんな乗ってくる。たとえば市場構造に対し当社の顧客構造はズレている、というのが1枚の図表で明らかになる。
最初は中小企業の経営者を念頭に置いていましたが、だんだんとマネジメントの進化を求める管理職にも伝わる本がいいと思うようになった。それで改革メソッドを提案する章は、オリジナルの2面パレート図などを駆使し厚みを持たせました。営業に回るべき100件をどう選ぶかもきちんと分析・抽出できるようにした。自分で言うのも何ですが、見えていなかった部分の見える化をハンパなく提案したつもりです。
「ここまでやれば必ず変えられる!」がこの本の宣伝文句。日本電産時代の買収先の再建、独立してからのコンサル活動を通して、会社は変えられるという変なクソ自信がついちゃいましたね。独立する際に永守さんに書いた「たった7年在籍しただけの日本電産で学んだものは、三十数年いた日産の数百倍以上だった」というのは本当の気持ちです。
余談だがメーカー本体の社員が配属前研修で来てるのを見たことがある。中国有名大の修士にスゴいことさせるね
いわゆるドコモ、au、ソフトバンク、楽天モバイル、UQモバイルのMNO+1、その他インターネット回線を売ってる人たち
みんなが思ってる斜め上でヤバいので共有する
物が無くなるとかの不祥事が滅茶苦茶多い
絶対に社員しか入れないような場所に保管してある物が普通に無くなる
紛失届出して警察入れてちゃんと事件化しましょう、と言っても誰もやらない
やったって誰も得しないし会社も得しない
結果、泣き寝入り・・・というか泣いてないからただただ寝て放置してる
それを知ってる奴が多いのか知らないけど物が無くなることが多すぎる
例えば職場にコーヒーメーカーを置きましょうとかいう話があったとすると
実際に置かれるまでは何も言わないくせに設置されると
とか言い出す
まぁそれぐらいならいいとして、そいつの席から遠くに移動させても
とか言い出して病院行って診断書取ってきてコーヒーメーカー撤去させる奴がいる
異動させようにも何を言われるか分からないのでずっと同じ職場にいる
仕事は全く出来ない
不祥事があって処分したとしても下手したら直属の部下ですらその事実を知らない
当然ながら周りの人達は全く知らないし知りようが無い
インターネットでバズるようなちゃんとした考え方をしている人が上層部にほぼ居ない
そして何も考えずに仕事している人が本当に多い
何か申請をするときに印刷した様式に捺印して持ってくるように言われたので
「なぜ捺印がいるのですか?」
と聞いても答えられない人ばかり
「捺印がないと監査で指摘される」
「でもこっちの申請書は捺印要らないし監査でも要らないと言われていますよ?」
とかそういうのばっかりで捺印することに抵抗がないし考えてもいない
捺印した書類を綺麗にパンチで穴を空けてファイルすることを頑張ってたりするし
別に普段は監査も滅多に入らないし、入っても電子ファイルしか見ないのに
本当に不祥事が多い
新聞沙汰になるような大きな不祥事があっても上司は処分されないし
異動になったから処分で降格なのかな?と思ったら普通に昇進だったりする
まぁ本当にその上司が不祥事に関わっていたわけじゃないから分からなくは無いんだけれど
以前よりおんぼろ弊社の建屋にも立替の話が上がっており、さも当然のように和式便所はなくなるらしい。
極めて現実的な理由(不潔そうとかそういうのではなく)により和式便所を利用する者としては寂しい限りである。というか率直に言って実に困る。
かといって下の話を堂々として反対運動を展開するにも外聞が悪いので、まあ和式がなくなること自体はあきらめている。
とは言え、困ることは困るのでこの遣りようのない気持ちを、うんこの話なら増田が適当だろうということで、せめて増田に放流して供養することとしたい。
様式便所推進派の皆様におかれては、和式便所に救われ、そして切実に必要としていた人間がいることをどうか覚えていていただきたい。
※ちなみに、以下の話はすべて出先の話である。私の住居はもちろん様式である。
さて、本題である。
本題といいつつもう一度前置きをさせてほしい。当方痩せの大食い男性の便秘持ちである。
痩せはあまり関係ないが、大食いの便秘もちがどのようなうんこをするかご存知だろうか。
4日間×3食分(大食い成人男性)圧縮されたうんこが一般常識により設計された便器を通るか?否、詰まるのだ。
さて、本題である。(2回目)
和式便所に落とされたクソデカかちかちうんこ、このままでは絶対に流れない。
流れるかも知れないが流した後に詰まって、やっぱり流れませんでした☆するわけにはいかない。
ではどうするか?割るのである。手にトイレットペーパーをぐるんぐるんに巻き、上から親指で押してやる。
すると、かちかちうんこは水分が失われ団粒状の小うんこが結合しているだけなので、比較的簡単にころころ割れる。
小うんこになってしまえば、比較的古く水流の強い和式便所の敵ではない。クソ雑魚である。クソだけに。
後は手をよく確認しうんこの付着がないことを確かめた上で、よく手を洗って何食わぬ顔で自席に戻ればミッションコンプリートである。
基本うんこがかちかちなので、トイレットペーパーで防御すれば手が汚れることはほとんどない。
このようにして私はこれまで職場のトイレを(ほとんど)詰まらせることなく乗り切ってきた。
これは様式では絶対にできない。さしもの私も水で浸ったうんこに手を突っ込んで割ることはできない。
和式にはただただ感謝してもしきれない。私に排便の自由を与えてくれてありがとう。
そう遠くない将来様式のみとなった職場で、どうやって乗り切るのかは憂鬱な課題の一つである。
以下、聞かれてもない自分語り
家(様式)ではどうしてるのか?
→家では割り箸でうんこを細かく割っている。使った割り箸はポリ袋に入れポイ。
中学の頃、3回連続で詰まらせて以降、必ず大便のときは割り箸と袋を用意している。
職場でもロッカーに割り箸と袋を用意すんの?どこに捨てんの?と考えると今から憂鬱。
なので家に帰ってからうんこすることもできるし、基本和式の使えないところでは我慢する。