はてなキーワード: 排除運動とは
AI絵を嫌う反AI達は「AIを使った作品は心がこもっていないから禁止するべきだ」と繰り返し主張している
既に生成AIのクリーン化は実施されており、合法の学習において絵師たちが蛇蝎のごとくAIとAI活用者を嫌う政治的思想の根底にあるのは
「手描きでなければ心がこもっていない」「手抜きである」というオカルト的な手描き信仰に基づく
しかし少しでも冷静に考えてみれば分かるはずだ
イラスト界隈はそのような新しい技術が出る度に「これは絵ではない」「使う人間は邪道だ」と
排他的な姿勢を露わにし、活用者を徹底して差別してきた歴史がある。現在のAIイラストも全く同じ状況に置かれている
しかし上記のツールはいずれも浸透し、今AIを親の仇かのように憎悪している絵師達も日常的に使っているものだ
彼らも過去に幾度となく新しい物を否定する適応できない層から差別を受けていたわけだが、
過去の無知な老人達に学ぶ事なく差別と排除運動を繰り返しているのは愚かと言う他無い
僕が3DCGを始めた頃もCGが心がこもってないとか言われてたけど、今はAIが同じこと言われてる。CGは許されたのだろうか?— 奥 浩哉 (@hiroya_oku) November 29, 2023
奥 浩哉 @hiroya_oku
僕が3DCGを始めた頃もCGが心がこもってないとか言われてたけど、今はAIが同じこと言われてる。CGは許されたのだろうか?
プロであるクリエイターからもイラスト界隈の村ルールには辟易しているようで、
リプライでも奥氏に賛同する形で反AI達に多くの批判が殺到している
前回のコミケでは反AIと反AI絵師達はあらいずみるい氏への一方的なAI使用疑惑をかけ(そもそもAIを使っていたとしても何の問題も無いのだが)
犯罪者呼ばわりなどの誹謗中傷を集団で浴びせ、同氏から手描きの証拠を提示されるという事態に至った
その事件はYahooニュースなど大手ネットメディアでも取り上げられ、反AIの異常な攻撃性と非論理的なお気持ちが世に周知されたが
未だに反AI達はあらいずみ氏への誹謗中傷をしつこく続けている
このような振る舞いはもはや技術に適応できない老害どころではなく、一種のカルト信仰に近いものと言える
既にAdobe FireflyやDALL-E3により「イラストはAIを使って作る」という認識は一般化しており、
Windows搭載のペイントにもAIが導入される事が決定している
田舎は飲食店がないからみんな弁当で、会社の休憩室で食うんだけど
キモいオッサンは会社に居場所がないから、昼休みは外に出て車で食う
夏は暑くて死にそうなんよね
で、近くの図書館が駐車場が屋根になってて、そこで食うんだけど
いつも同じような車が5台くらいいて、どれもキモいオッサンがメシ食ったりスマホ弄ってる
シンパシーがありつつも、いつも混んでるから場所取りうライバル的存在だったんだけど
やっぱ、子供連れとか学生がメインだから、キモいオッサンは浮きまくってるしジャマださそキモいじゃん?
苦情があったんだろうね。よく使ってた屋根ありの駐車場への近道が閉鎖されたり、監視カメラ設置みたいなプレート設置されたり、職員さんが見回りしてナンバープレートメモしたり
割りと圧を感じるようになって、キモいオッサンたちも消えていった
涼しくなって屋根がいらなくなるのもあるんだけどね
来年の夏は、屋根付き部分は閉鎖されるか、声かけが始まって追い出されるか…
街のほうだと、図書館とか市役所も有料駐車場になってるしそうなるのかもね?
その金もなさそうだけど
萌え絵がらみの社会問題が他ジャンルの社会問題に比べて並外れてるとは全く思わないんだが、とにかくそれがかつての鉄道オタクよろしくこれでもかと言わんばかりに厳しく叩かれるの、単純にキモいからなんだろうな。
反社がらみの社会問題とか、持つ側の非礼な行為とか、○心教がらみのいじめ行為とかの方が明らかに社会通念上糞なことしてると思うけど、一昔前の撮り鉄みたいに滅多に叩かれないし。
萌え絵愛好家を気持ちよくバカにしながら「共感格差」みたいなこと言ってる人がいるのは個人的にはモニョるけど、まぁそれが人間なのかもしれねえな。
萌え絵排除に似たような話で、一昔前に韓国で日本の軍旗を社会から排除しようとした人々がヒーローみたいになってたけど、俺の目には全国のネットで繰り広げられているいじめの亜種にしか見えなくて、SNSに常駐するような底辺でもああいうのに喝采送るんだなぁとしみじみ思ったんだよね。やっぱみんないじめ好きなのかな?
撮り鉄狩り紛いの犬も食わないレベルの喧嘩みたいな騒ぎに日本では政治の世界ですら乗っかる時代なんだし恐ろしい時代になったもんだよ。
・絵の転載サイトが海外で、転載する人が海外在住の場合はどうするのか?
・転載先のサイトと転載元が1:1で全てリンクしていれば、該当データを消せばいいが、転載サイトにオリジナルをアップロードしている人がいる場合、サイト自体をクローズすることはいいのか
・日本国内ではネットで拾ってきたデータをAIの学習データに食わせることはいいが、では海外在住の人が、日本の絵のデータを勝手に拾ってAIの学習データに使うのに、日本の法律を適用できるのか
・danbooruがやり玉にあがっているが、pinterestはどうなのか。絵描きが絵を描くときに参照する画像は転載された画像かどうか確認しているのか?(絵だけでなく写真も含む)
仮に厳格に排除していった場合、絵を描くための参考データがなくなって描けなくならないか?Google検索で出てくる画像も厳格に排除していくのか?
・danbooruがそもそも海外でどういう扱いなのか。学会でも使われている。学会に対して禁止を訴えるのか?
・出典元へのリンクをつけておけば転載は問題ないとする海外ニキの扱いはどうするのか。
・英語だから反論しないのか、というのを超え、DiscordやRedditにクレームをつけて回るのか?
・日本からの排除運動への対応として、日本からのアクセス禁止された場合、海外での転載・AI技術の発達を止められるのか?
・日本の法律ではこうなっていると海外に向けて発信し教育していくのか?
・Pixivにいる海外在住絵描きに対してどうするのか(Pixivの規約は適用できるだろうが)
・Pixivがオリジナルだけという保証は?個々のイラストレータはわかるだろうが。ネットで一番最初に出た絵であることを証明するようなことはできるのか?オフラインでの発表が最初で、その後ネットで発表、オフラインの時点で写真撮られてアップロードされた場合はどうするのか。
・絵描きは新しいアニメが出た場合、二次創作でそのアニメの絵を描くが、AIが先に描いた画像に似てしまった場合はどうするのか。
流石に呆れたので一通り晒すか
つまるところ共産党がやりたいのは「一度ある程度固まったはずの言葉の定義をひっくり返し、曖昧で自分たちが都合のいいタイミングで好きなだけ伸び縮みさせられるものにし、その設定をその場その場で好きにいじれる権利共産党が握った状態にしたい」ということだぞ?
quick_past 普段からゼロイチ排他の詭弁弄してる連中が都合いいところだけ切り抜いて、エロがなくなるぞ!と喚いてるだけなんだよなあ。表現と社会の間のすり合わせ、共存よりも、何から何まで「サヨ叩き」の自称オタども
ponzo1981 このように定義しているのであれば許容範囲かなとは思う
el-condor 妥当では。共産党は児ポ法の保護法益を、自民とは違って一貫して公序良俗ではなく人権侵害の抑止に置いていて信頼に値する。
daruyanagi 割と真っ当だと思うけど、それで商売したい人にとっては脅威やろうな ( ˘ω˘ )
snobbishinsomniac ゾーニングの問題。映画だっていつの間にかR18だけでなくてR15とかPG10とか増えているけど規制だと騒がないだろうに。AVをスーパーで買えないのを規制だと言わないだろうに。
hiroshe はてブ民は何でそんなに小児性愛が好きなんだ。
asumi2021 かなり真摯な答えだと思う。保護法益を確認し、従来のわいせつ物排除運動を否定。例えば、違法ダウンロードを規制して正規ルートのゾーニングを守る、など方法論が伴えば支持も増えるのでは。
rundyh 入れたくないような政策をしてる党に投票しなきゃいいんだよ、政策掲げるのは自由だ。キレて喚いて修正させるのか?
sin4xe1 AVの影響で手マン激しくしちゃうとか普通にあるのに絵だから大丈夫はカマトト過ぎる
blueboy きみたち、そんなに児童ポルノが好きなのかな? 私は見ても「気持ち悪い」としか思えないけどね。ソフトなのはともかく、ハードなのは規制してもいい、と私は思うけどね。欧米で規制されているレベルなら。
getcha これはもう国際的な潮流。CGも進化したので2次元と3次元の境界を区別する意味はもはや無いだろう。個人的には慎重過ぎないか?と思うレベル。難しい定義ではあるが、露骨過ぎる幼児ものは規制して良いと思う。
kori3110 吹きあがってる方々よりは温度低そうな感じではあるし、どうしたって議論が継続される話だとは思うが、うん、よくわからんな、というモヤモヤは残る感じだなあ
tweakk 妥当と思う。「非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります」
kakaku01 まず迅速に回答する姿勢は認めるが、先に自分たちが掲げた主張と明らかに相反していて、その矛盾が解消されていない。信用してしまいたいが、まだ信用しない。
y-wood 評価する、立民党にも聞きたい。フェミ議連にはこの通達に関して意見を聞きたい、別に党と見解が異なってもいいのだが、政党の議員という立場を利用したことは熟慮が必要だろう。
vjdvnf43vd 相変わらずネトウヨのフェイクに騙されたアホたちがわんさか。Dappiの扇動が明らかになっても、まだ自分は釣られてないと思ってるんだろうな。普通に考えて、表現の自由を守る従来の立場を変えるわけないだろ。
worris 元の文章にも非実在児童ポルノを規制の対象にするとは書いていないもんね。反共洗脳された表現の自由戦士は書いていないことを妄想で読み取って過剰反応し、現実の性虐待被害を無くすことには1ミリも関心がない。
lisagasu 「外圧と国内事情の落としどころを慎重に図っていきます。法規制はしません」てことなのでは?つか共産党の真意より選挙戦前後から野党のネガ記事を悉く取り上げて投票と結びつけるブコメ増えてるのがこわいわ
sabumon34 ゾーニング徹底ということかな。まあ、社会的合意はいらないから、とにかく児童を性的対象にした表現を好きに消費させろで闘うなら、無能な味方でしかないから退場してほしい
takahiro665 どんな理屈をこねようが児童ポルノだけは規制すべきだわ。ここだけは明確に表現の自由の範囲外とすべき箇所。
esbee 大賛成。まず守るべきは実際に被害にあっている児童であるべきで、「児童ポルノ」という言葉はミスリードがひどすぎる『被害実態をより適切に表す「児童性虐待描写物」などに改めることを提起してきました。』
hi_kmd 元の政策を読めば普通にそう解すであろう内容が噛み砕いて説明されている。
niagado 勢いよく拳を振り上げた人等が、はいそうですかと下ろすわけはないか
IkaMaru 回答としては誠実だと思うけど、「機が訪れたら法規制に鞍替えするつもりだろう」と疑う向きは納得するまい。ならば日本共産党に直接訴えりゃいい。「議員」でなく「政党」を説得するハードルは一番低い党だ
hunglysheep1 創作物は含まない、という事やね。「描写物」というワーディングは誤解を招きやすく危ういと思うけど、日本共産党観点では「写真ないし実在の未成年をモデルにした物」という意味で使っているのだろうか。
n-styles 元々7では法的規制の話はしてなくて、60で明確に法的規制に反対してるから、この回答は納得。7だけ読んで叩いてた人たちには手のひら返したように見えるだろうけど。
警察署もテレビ局も満員電車もあらゆるショッピングセンターも危ない。
そして飯塚幸三テロのような自動車暴走テロを防ぐためにもノルウェーの首都オスロがやっているようなマイカー排除運動にも学びたい。
「燃えている車から『あついー!助けて!』という叫び声を何度か聞いた。怖くて見ていられなかった」とショックを隠せない様子で語った。
https://i.imgur.com/TZ4DLvL.jpg
https://i.imgur.com/oaoBlJ1.jpg
あちこちで模倣犯が出ないようにガソリン規制強化するべきだな。
警察署もテレビ局も満員電車もあらゆるショッピングセンターも危ない。
そして飯塚幸三テロのような自動車暴走テロを防ぐためにもノルウェーの首都オスロがやっているようなマイカー排除運動にも学びたい。
「燃えている車から『あついー!助けて!』という叫び声を何度か聞いた。怖くて見ていられなかった」とショックを隠せない様子で語った。
https://i.imgur.com/TZ4DLvL.jpg
https://i.imgur.com/oaoBlJ1.jpg
特定のカテゴリに実害を与える言動が差別とか大雑把なくくりでテキトーな事言うな
その定義じゃ障碍者が「城にエレベーターを付けろ」と言ったら景観や予算増という実害与えてるから障碍者が差別者になるだろ
実害を被る『行動』や『仕組み』の事
女性専用車両やレディース割引、女性のみ入店が許されていることから、他の実害を避けるために設けられた行動や仕組みは『例外的に』ここに含まれない
差別を引き起こす目的かどうかの判断が難しい事と、表現の自由の兼ね合いで、法律で禁止されている国も禁止されていない国もある
発言者や創作者の差別的感情が表に出しているまたは出てしまう事
表現の自由のため、他の実害が生じる根拠が無ければ法規制はあり得ない
ただし企業や著名人が行った場合は過激な批判・非難も仕方ないという世論となっている
法規制が難しいのでポリティカル・コレクトネスという概念で排除運動が起こっている
内心の自由によって当然認められている
ただし、それが差別的であることを自覚し、恥ずべきことだと感じることが社会的に求められている
表に出すと差別的表現・差別的言動となり、同調する者同士が集まれば差別扇動に発展する恐れがある
経済の悪化や、あるいは好調であっても貧富の格差が拡大していたりするとき、足元の低賃金労働者や失業者、一部の若者は社会の未来に希望が持てなくなる。生活の厳しさから、彼らは自分たちの生きる理由を保つために誰でも例外なく所有している「民族」や「国家」というプロパティを大事にする。また、それらがより強力であることを政治に要求するし、歓迎する。ナチの勝利とかがいい例すな。彼らにとっては国家が強くなることこそが大事で、税金が必要ならとっていけばいいとも思ってる。つまり、経済的な保守主義とは別のもの。区別して、国家社会主義や民族主義と呼ばれるものだろうと思う。
彼らはいつでも「隣国の〇〇や〇〇を利する売国の左翼どもに投票などできるわけがない!」と言って必ず右寄りの政党に投票する。つまり税金のことは深く考えてないと思う。右傾化した若者にとっては増税って多分些細なことなんじゃないかな。そんで生活に苦しんで、「俺がこんな生活してるのも左翼のせいだ!」って言う。一方、日本はこんなに保守の多い国なのに極右の受け皿ってないよね。外国人排除運動とかいつかの都知事選でみた限りだわ。
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。