はてなキーワード: 標榜とは
男女論がしんどい
https://x.com/84gong/status/1810599606616772871/quotes
この場合は「全ての男が」と言った部分が、全く無関係の男性にまで非の追及を許しそれを称賛される場が決して道徳的ではないからこそ見てられない。10万いいね?馬鹿げている。
世の中には既にパートナーを抱えていたり愛情を注ぐ相手を見つけ終えた男性が無数にいる。そうでなくても誠実な男性はいるし、私もnofapを続けていて性欲のコントロールはできている。
https://x.com/kohyama_met/status/1802667804061266312
お茶の水大学講師の「男として享受してきたことに対する原罪」というような発言と同じく、ただ男であるだけで生まれながらにして罪であるような見方は正しくない。
この講師のセクハラの件で言うなら、加害者と被害者の関係は個人間のものであり特定集団に還元または共有されるべきでない、
私は男である以外に共通項のないような6000万人の責任まで負わされたくないし、何か被害を受けたからといって代弁してほしくはない。性別を集合体のように捉えているのが間違いである。
https://x.com/renho_sha/status/1810428708051918849
選挙の結果すらジェンダー論に落とし込まれ言及される、勝ったのは現職の女性都知事であるにも関わらずである。
x内だけでなくこれを他所のメディアで更に外の世界で当たり前に適用されちゃたまったもんじゃない。
個人ではなく性別に理由を求めるのは男女平等に逆行しているとすら感じる。
結局、政治家の話、発言というのはいくらでも切り取ったり捻じ曲げたりできるんだけど、
それをいちいちその政治家が注釈入れてくわけにもいかないわけだ。
で、そうなるとその政治家の言わんとしている事を解説する誰かが必要になる。
それが「誰か」ってのがどういう人なのかはわからんけど、本来なら新聞なりテレビなりのメディアの解説委員の役目のひとつではある。
ただどうしてもメディアというのは(中立を標榜してはいるけど)スタンスの偏りなんかがあるので、
あらゆる政治家のあらゆる発言を中立的に解説するというのは難しい。
となると、スポークスマン的な人を政治家側が用意する事が一番いいんだけど、
それにしたって発信力。ようするに発言したらそれが一気に世間に広まるような有名人やらカリスマ性のある人じゃないと難しい。
なかなか、なかなかね。
立野玄一郎のように精神科の医師を標榜する場合に、患者の精神状態を評価するのにどのような能力を鍛えておけばいいのか、聖マリアンナ大学がどのような見解を持っているかが問題である。
初等幾何学は2000年前から洞察によってその限りで終わる問題が多いと言われているだけでそれがどれだけの種類があるのか一回も見たことがない。また、2000年前からの研究で、
技術的に応用される完全無欠な定理がどれだけの数あるのかも全く公開されていない。という意味で、誰も初等幾何学を体系的に実施できるような状態ではないのである。
2012年を最後に世間に発売された数学のネタを集めた本には、パスカルの定理が最も派手に出て来る場合を図示したものなどがあるが、東京大学の石井志保子先生が、数年前に、
最近は、アマゾンにマニアックな本が売っているから最近はAmazonで数学の本を購入すると言っていたが、そのAmazonも大したことがないような状況となった。
最近「成熟」ということに考えさせられることが立て続けに起きたので自己整理の書き殴り
最近のスト6界隈をみるに、大分界隈として「成熟したなぁ」と感じることが増えた
元々荒れたゲーセン文化を引き継いでいたこともあって、プロ勢も昔はもっとみんなナイフのように尖っていたし、炎上も度々あった
はてなブックマークでも何度かネガティブな話題でホッテントリに上がってた記憶もある
しかし今や往年のプロたちはストリーマーやVTuberの師匠役のオモシロ格ゲーオジ&アニキとしてのポジションを築きつつあり、CRカップなどはまるで親子運動会さながらである。
オカンのように見守り、手取り足取りなコーチング。ラインを弁えつつエンタメを意識した話術、時には若気の至りな昔話を持ち出して笑いを誘い、しかしいざ試合となればビシッと決める。
まさかこんなに「綺麗であたたか〜いコンテンツ」になるとは…隔世の感がある
勿論、こうなるまでには燃えまくった過去とか、限界集落化して滅びかけて危機感もったとか、プロとして企業スポンサーがつくようになったからとか、コロナ禍はmildomで糊口凌いで配信経験積んだとか、色々あったから故であり。皆、大人になったよね。成熟したなぁーと思うわけなのだ。
ただ、そうであるが故に逆に昔のゲーセンさながらのバチバチ感とかギラギラ感が無くなった寂しさもある。そういう意味で鉄拳などはまだそういう昔ながらの文化を幾分残してる界隈だ。(Pが死体蹴りを文化扱いしてるのは象徴的)
これはどっちが良い悪いではなく、自分たちが何を選択したかということの結果でしかない。
そしてニコニコも過去の文化をアイデンティティとしたがゆえに成熟を選択しなかった界隈であるだろう。
コンテンツモデレートの欠如(淫夢などヘイトの放置)、コンプライアンスの反復横跳び、それによって得られる自由。
ただこれは理解できる面も多い。ニコニコは常に「未熟な」人たちの居場所だった。それこそ「若気の至り」を現在進行系で実行できる場所。そこを変えてしまってはニコニコがニコニコでなくなってしまう…と中の人が思うのは想像に難くない。過去の経営陣の言動をみてもその点をアイデンティティとして重視していたのは読み取れる。
しかし、そうであるがゆえに今回のランサムウェア騒動はカオスといっていいほど、「企業として域に達していない」事態となってしまった。
あまりに登場人物達が「若気」すぎる。本当に若者ならともかく、いい年のオジさんたちがこれだけいるのに「成熟」していない…
でも、それがニコニコの、ドワンゴの在り方というなら致し方ない。その結果は粛々と私達の前に提示されるだろう。それとも、今度こそ彼らは変わること、成熟することを標榜するのだろうか。かつてスト界隈がそうだったように。
NVIDIAみたいに売れてれば間違いなく勝てた。売れる物を作らない、作った物を売らないから負けた。当時の日本の常として外部要因や部外者、つまり売上と顧客を効率的に排除したから滅んだ。
当初はGPUとして開発され、事実上開発の失敗からオマケ程度までスケールダウンされたPS3のSPEは今のNVIDIA製GPUの原始的な形そのものだし、「ベクトル型とスカラー型のハイブリッド」とはGPUを複数機搭載したサーバーそのもの。つまりきわめて大ざっぱに言えば基本設計は十年以上先のトレンドを正しく捉えている。が、どちらも実際の開発や予算の都合に失敗しているし、NECのベクトル型スパコンなど需要はゼロだった。
いま「時価総額世界ナンバーワン」を標榜しているNVIDIAのスパコンと、NECが当時作っていたスパコンはまったく同じものなのに、00年代末期の日本が作ればそれは「失敗の象徴」にしかならない。そしてそのことを誰も知らない、理解しない。つまり日本の問題はそこにあって、その差について反省ができていない所にある。
イーロンマスクですら今でも割と支持者がいるので、コロンブスMVが許容されるのはそんなに不思議じゃないよなと
理系の人はマスク支持者多いので、コロンブスで文系理系煽りをしてくる理系が湧いてくるのも当然といえば当然
「テスラのEVはマスクにとって宇宙移民という壮大な目標のための単なる金儲けの手段でしかない」
というもので、まあ、実際、そうなんだろうなと思うんだけど
つまり、まだ見ぬフロンティアへと人類を導く稀有壮大な目標のためにEV詐欺(環境性能について曖昧にはぐらかす態度や、自動運転を標榜するだけ標榜しといて人をバンバンひき殺す態度)をかましても構わないって思ってるんだろうな、この人たちっていう
マスクもマスク支持者も、バカじゃないので、現実にEVや自動運転技術が目先どのぐらいの見込みのものなのかなんて百も承知なわけでさ。だから支持者は「EVなんてのは単なる金策」とポロっと漏らしちゃうし、マスク自身もテスラの株価が異常に高くなると持ってる株を売ることを考えるわけで
Twitter買収にしても、高騰したテスラ株を現金化するための方便を探してて、ポロっとやらかしたんだろうなと疑ってるけど
宇宙開発大好きマスク支持者ってさ、マスク自身の倫理から大きく外れた発言や行動も見ないふりして沈黙するし、EV販売に絡む詐欺的なプロモーションに対しても沈黙するし、自動運転の夢想のために実際に発生している交通事故被害者についても沈黙するわけじゃない?
まさにコロンブスの正当な後継者、アメリカン・フロンティアスピリットの信奉者の現在進行形だよなあと感心するし、そらまあ、コロンブスの何が悪いの?百歩譲って非人道的行為はあったかもしれないけど、そんなの大きく取り上げる必要ある?人類が宇宙に飛躍するのに比べたら些細な犠牲でしょ、ってなるよね
コロンブスなんて割とすぐイーロンマスクを連想して誰かネタにするだろうと思ってたんだけど、意外と誰も言わないなと思ったので書いときました
料理クラスタの「料理は科学(化学)だ」とか言い張りたがる風潮がすげーいや。
頭悪くて料理くらいしかできないバカが、カガクサマ信仰で我は神託を受けた者なり~!ってやってるのがマジでむかつく。
科学ってのはお前らの足りないオツムを隠すための魔法のお札じゃねーの。
こちとら日々科学ってやつと必死こいて戦ってるのに、バカが利己的に使うせいで邪魔な雑音ばっかだ。
パスタをゆでる湯に塩を入れると浸透圧がどうのこうの、純度の高い塩素ナトリウムがどうのこうの、
純粋なグルタミン酸の摂取がどうのこうの、鉄フライパンの油膜成分がどうのこうのと、クソくだらない妄言ばっか。
お前の目の前で起きたできごとを、おとくい()のさんすうでせつめいできたらカガクだ!ってそれなんて似非科学~~。
おカガクサマの信徒はせいぜいそう名乗れや。「科学」を標榜すんな。
女性は「人間として親切にされてると思ってる」んだけど、普通に性欲で近づいてきて性欲を隠して優しくされてることに気づいてなくて、イージーモードやれてることに気付けなくて
弱者男性からみたら、本当に「驕り高ぶってる」ようにしか見えなかったりする
女性は女性で、この事も含めて「可愛くいたほうが良い」と刷り込まれているし、
実際に、喪女の多くは女性らしさや可愛らしさを持っておらず、また男性にも優しくされていなかったりする
「普通に人間として好意的に接せられること」の恵まれていることに(あるいは自ら可愛さを標榜することでそれを得ようとしていることに)麻痺してしまっている
https://note.com/yonahajun/n/n5f920bd34136
これ読んでぶったまげたわ。
「ゼレンスキー政権の全体を「ネオナチ」と呼ぶロシアのプロパガンダの歪みは明らかだが、独ソ戦下にドイツの側につくことでソ連からの独立を策した、ステパン・バンデラを標榜する勢力がウクライナに存在することは事実だ。
少なくとも彼らの視点では、ナチスは「良いこと」もしたのである。そう主張する、私たちにとって十分にはクリーンでない人々とも手を組まなければ、プーチンの侵略という「悪いこと」に対抗できない。世界はそこまで、追いつめられている。 」
バンデラを英雄視するウクライナ人が、「ナチスは「良いこと」もした」とは言わんだろ。
確かにバンデラは反ソの立場からナチ・ドイツに協力しようとしたが、それは同床異夢でしかなく、独ソ戦開始直後の1941年7月にナチ・ドイツから捕らえられて、強制収容所に入れられてるんだから。
また今の情勢で「ナチスは「良いこと」もした」なんて言おうもんなら、国際世論からも非難されるうえ、ロシア・プロパガンダに塩送ることになるわけで、ウクライナ・ナショナリストもそこまでバカではないよ。
しかも、「私たちにとって十分にはクリーンでない人々」って誰を指してんの? その直後に「プーチンの侵略という「悪いこと」に対抗できない」とあるから、もちろんナチではないよな?
直前の「そう主張する」とあわせて考えると、「ナチスは「良いこと」もした、と主張するウクライナのステパン・バンデラを標榜する勢力」ということなのかもしれんが、繰り返すように、別にバンデラを英雄視するウクライナ人が「ナチスは「良いこと」もした」と主張しているわけではないからな。
とにかく日本語としてわかりにくいうえ、ウクライナの歴史ならびに歴史認識の複雑さをまったく無視した暴論としか言いようがないよ。
『日本』はsageずにはいられないけど、『東京』sageには物申さずにいられない『リベラル』を標榜する人達。これかなり面白い現象だよな。
『愛国心』は唾棄すべきものだが『愛郷心』は無条件に尊ばれるもの、と意識的か無意識か知らないが彼等彼女等はそう定義しているということになる。以前ネトウヨの間で「ナショナリズムはダメだけどパトリオティズムなら良い(=愛国主義は正しい)」的な言説が広まってたことがあったけど、それは「言葉遊びに過ぎない」と誰かが喝破していた覚えがある。個人的にはそのことを思い出した。
東京にリベラルの首長がいるとかならまだわかるんだけど、実際はテロサポ発言したウヨ知事が再選されるような感じだしなあ。『愛郷心』の場合は誰が政治の舵取りを担っているかは考慮されないのだろうか。
でもまあ東京は色々な意味で中心地だし、総合的に見れば日本で1番マシなところではあるだろう。ただしそれは東京だけで成り立つものでもないんだよな。顕著なのが出生率で、地方から人材を吸い上げては繁殖しないということを繰り返しているし、電力確保に必要な原発や関連施設は地方の僻地にしかない。
あとは誰もがするわけじゃないんだろうけど地方蔑視なあ。九州とかひどいけど、そもそもあらゆる面で東京並とはいかないのに、現代的な価値観とかは東京基準を求めてくるのおかしいと思うの。
でも興味深いことなのでこれはずっと考えていくべきだよ。
「俺を虐げるな」=「無条件で俺を世話して性処理をする女をあてがえ」
そもそも、誰かがそう主張すること自体は自由です。その主張を議論の俎上に載せて対話するのが民主主義です。もちろん、こんな主張を議論に乗せれば、それが通らないことは自明です(1人の人権を保障するために1人の人権を犠牲にするのでは社会にとって問題は何も解決しないからです。一般的に言って、無辜な何者かの生活を犠牲にすることによる解決は、少数意見を尊重する真っ当な民主主義においては認められる主張ではありません)が、それはそれとしてその「主張をすること」は自由であり権利です。逆に、その意見を封殺することは非民主的な行いです。
従って、
という態度は望ましくありません。意見が荒唐無稽だとしても、両者の意見のすりあわせと妥協点を探る(女性を奴隷にせずに、「俺」さんが「虐げられていない」と考える道は本当に無いのか?など)態度が民主主義です。このように、民主主義を標榜するなら「俺を虐げるな」などと言う人と対話しようとする姿勢が必要です。もちろん、相手がマサカリで武装しているなら、対抗言論上多少きつい言葉を使うことも許容されるべきでしょう。しかし、少なくとも人権と民主主義を尊重する近代人のふりがしたいなら、対話すべき相手を人間以前の生き物のようにレッテル貼りして言論を封殺しようとするべきではありません。そういう( 「弱者」男性に対する )マッチョな振る舞いが一部界隈では人気を博すのかもしれませんが、それは人権に名を借りたただの差別主義です。
差別主義とは何か。それは、社会に、本来は存在しない見えない線を区切ることです。そのような見えない分断は多くの人にとってはただ不都合でしかありませんし、特に、その区切りによって不利益を被る側には耐えがたいマイナスですが、その分断を強く主張し主導する人々にとってはそれが権力の源泉となります。たとえばエセマナー講師は、わかりやすいその一例です。奇妙なマナーを提唱して、社会を「"マナー"を知ってその通りに振る舞う人/"マナー"知らずで無礼な人」に区分けする、多くの人にとってはただ面倒が増えるだけですが、マナー講師にとってはその「社会全体の不利益」がそのまま「飯の種」になります。「流行・ファッション」などというのも、多くの場合これです。しかし、流行・ファッションを飯の種にする人は多くいて、そうなるともうこの「流行」なるものは実態のように振る舞い始め、被搾取者だけでなく受益者まで巻き込んで様々な悲喜劇を引き起こします。「文化・伝統」「宗教・信仰」もその類いであることは言うまでもありません(本来は信仰の守り手として受益者であるはずの行為の宗教家が、狂信者となることでどんな悲喜劇を引き起こすことか)。
ここで、しっかりと区別しておきたいことは、私はこのように振る舞うのが「好きだ」、私はこのような服装が「好きだ」、私はこのような文化が「好きだ」、私は神様を「信じている」……それは差別主義ではありません。しかし、人はこのように振る舞う「べきだ」、このような服装をする「べきだ」、このような文化を守る「べきだ」、誰もが私の神を信じる「べきだ」……となると、それはもう差別主義に足を踏み入れています。なぜならそれらは、そうする人としない人を区分けする考え方であり、しばしばまさに「区分けするため」になされる主張だからです。敵と味方にわけて闘うための思考が差別主義です。差別主義は戦いからこそ利益を得るのです。
同じく、私は人権を「大事だと思う」、人権は「大切だと思う」、はただの選好ですが、誰もが人権を「尊重するべきだ」、人権を守る「べきだ」、人権を信じる「べきだ」、人権に則って振る舞う「べきだ」……は、ここで言う差別主義に当たることになります。一見人権を大切にする結構な主張に似て見えますが、それらは社会に分断をもたらすことで結局は全体に不利益を与え、見えない壁を作り、そしてそう主張する者だけがそこから部分的な利益や権力を得る、そんな行いだからです。人権も民主主義も、この社会の構成員全てを等しく扱う考え方であり、「敵/味方」という思考法から最も遠いはずのものですから、「彼らは民主主義の敵だ」とか「我々は人権派だ(あいつらはそうではない)」といった主張は、本来存在するはずがないのです。
私たち一人一人は、弱く愚かです。間違いも犯す。だからこそ、いろいろと問題のある中で民主主義が選ばれ、尊重されているのです。たとえ自分が民主的で人権を尊重する人間であると自負していたとしても、私たちは不断に自らが本当にその名にふさわしい振る舞いをしているか、再確認する必要があるでしょう。人権や民主主義はありがたく飾っておけばすむ錦の御旗などではなく、常に実用の最前線にあり、限りない問いかけと異議申し立ての中で磨きぬかれてきた存在なのです。