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2018-01-19

けんちん・F氏の文章面白い その2

続きです。

問題点3:自論に対して黙秘反論する人に対し「擁護するから黙秘反論している」とレッテル張りを行い間違いを認めない>

ある意味一番の問題点だと思う。(感想

反論、又は黙っているって言う事は同じ穴の狢だからだ!演劇界は腐ってる!ふじこふじこ」みたいなのが多いように見えます。(感想


例:ケ

文章①より引用

ついでに福岡演劇人の反応や如何、と久しぶりに彼らのTwitterを覗いてみたけれど、事件に触れているのはほんのわずか。自分たち業界事件としては、

日馬富士暴行事件並の大事だって言うのに、何なの、この他人事ってな態度は。 仲間意識で触れないようにしているのか、脛に何らかの傷を持ってるのか、

逆にパワハラセクハラ福岡演劇界蔓延してるんじゃないかと勘繰りたくなってくる。

<以上引用

推論のすり替えに、「知ってるヤツが黙ってる=福岡演劇界蔓延してる」の主語の拡大と、さらに「黙ってる=同じ穴の狢だ」というレッテル張りをしている。こちら、けんちん欲張りセットとなっております


例:コ

文章④より引用

として、FPAPの高崎大志の件をTwitterで取り上げた。これは被害者の近くにいた人物が、被害者本人の了承を取った上で告発したもので、公的に判明した稀有な例だ。だからこそ事例として引用したのであるが、

被害者の知人から名前を出すな」というクレームを頂いた。 本人の弁を聞いたわけではないのだが、どうも被害者は、過去名前出しをしたことを後悔しているらしいのである

(憶測しかモノを言えないのは、非難してきた人物が、詳しい事情を教えてほしい旨を伝えたのに、無視されたかである)。

こちらとしては、パワハラの明確な実例として挙げたかったのだが、これも結局は「被害者泣き寝入りしたがっている例」として扱わざるを得ないことになってしまった。

これでは福岡演劇界には、セクハラパワハラもない、と錯覚されてしま事態になりかねない。 そういう「平和演劇界」にしたい人間が、この界隈にはごまんといるのだろう。

彼らは躍起になってこちらを攻撃してくる。加害者がまるで被害者のように振る舞って、周りの同情を買おうとする。卑劣手段を取って、恥じるところがない。

<以上引用

FPAPの件を被害者の知人から名前を出すな」と頂いた

名前出ししている事を公開しているらしい

これでは「被害者泣き寝入りしたがっている例」になってしま

そういう「平和演劇界」にしたい人間ごまんといる

彼らは躍起になってこちらを攻撃してくる。加害者がまるで被害者のように振る舞って、周りの同情を買おうとする。卑劣手段を取って、恥じるところがない。

凄くない?コレ。もはやセカンドレイプだよね。「知り合いの名前を出すな」っていうしごくまっとうな指摘が(しか理由の想定までできているのに)

パワハラの明確な実例としてあげるな」っていう「攻撃」に彼の中で脳内変換されてさらに「卑劣」とまで言ってのけてる。

ちなみにこの後「ここで手を緩めるわけにはいかない。」って続きます。アンタ一体誰と戦ってるんだ?


その2に続きます

例:サ

文章⑤より引用

 むしろ、私を詐話師のように仕立て上げようとする野村行為の方が卑劣まりないものであって、ああ、やっぱりこいつも市原と同じ穴の貉だったのだなと感じざるを得ない。

<以上引用

これはちょっと説明が面倒になるのですが、順を追って見ていきましょう。

1:野村氏が2017年12月28日noteにて(https://note.mu/nomuramss/n/ncf6decc718eb

"翌日、市原くんから被害者の方への謝罪と、私に対して詫びるメッセージが届きました。どう返したらいいか正直わかりませんでしたが、とにかく被害者の方のことを思うと、私自身、

許せるものではない。一方でSNS上は罵声の大騒ぎになっている。「友人として、これからの誠意ある行動を期待する」という言い方で「死ぬな」という念を送るしかありませんでした。"

記述。(きちんと読めば「死んで被害者の人から逃げるようなことをするな」という意味合いときちんと読み取れます。私はそう受け取りました。)


2:けんちん氏が2017年12月31日mixiにて

"野村氏は、市原電話で「死ぬな」と言ったとか書いているが、はっきり言って芝居がかっていてかえって白ける。電話でどのような会話をしたのかを「公的な報告」として記すのなら、

本来は今後の対応をどうしていくかについて書くべきで、こんなプライベートな心情吐露を垂れ流してはいけない。まるで、泣きを誘って、市原の方が被害者的な立場に見えるように、

話を粉飾しているようにすら見える。 "さらに"野村氏もまた、人間として最低な部類に属するのである。 "と批判

ちなみに、この際、野村氏のブログのURLを貼り付けています

(この時点で、事実が誤認(作り話)されています野村氏は『市原に「死ぬな」と電話で言った』とは一切書いておりません。)


3:野村氏が2018年1月4日

"どこにも、電話で話した、とは書いていない。この時点で「死ぬな」という言葉さえ伝えていません。しかるべき捜査機関に調べてもらっても同じ結論になります

完全に、けんちん・F氏の作り話です。・・「話を粉飾」してるのはどっちだよ!"と反論

そりゃそうだ。書いてませんもの


4:けんちんくんが2018年1月9日

"確かに、「電話で」とは書いていない。「死ぬな」も「念を送」っただけで、そういう言葉を伝えているわけではない。 けれども私は、野村ブログリンクを貼った上で、

上記記述を書いているのである。粉飾する意志があるのなら、そんなことはするはずがない。常識的に考えれば、野村が「メッセージが届きました」と書いているのを

電話で会話したのだろう」と捉えたのだと分かるはずである。おそらく実際はメールか何かだったのだろうと推測するが、はっきり言って、そんな連絡の手段なんか、どうでもいいのね。

そして、「死ぬな」という直接の言葉を伝えていないという点も、私が問題としているのは、そういう心情を市原に対して持っていることをわざわざ文章化していることが

被害者の心情を全く理解していないではないかということなのであって、これまた「作り話」という批判は全く当たらない。 "

反論さらに、これ以下の文章野村氏を延々と罵倒侮辱する内容に。


いやけんちん君、間違いを認めようよ。

野村氏は「友人として、これからの誠意ある行動を期待する」って言葉で「死ぬな」って念を送るしかしなかったわけ。

それを「電話で「死ぬな」と言ったとか書いている」って書いたのは作り話でしょ?音声データとか証拠があるなら別だけど、あんの?

さらに、間違いを認めず「常識的に考えれば、野村が「メッセージが届きました」と書いているのを「電話で会話したのだろう」と捉えたのだと分かるはずである。」

と、見苦しい言い訳。わかんねーよ!(笑)どこをどう読んだらそう見えんだよ。


例えばね、君のその後の発言を汲み取って『市原氏に対して誠実な対応を望むにしても、「死ぬな」という被害者に見えかねない表現はいささか問題があるかと存じます

実際の被害者の心情を慮った表現をした方が良いかと存じます』って批判ならわかる。

だけど"「作り話」という批判は全く当たらない。"ってのは違うぜ。だって実際に「野村氏が電話で「死ぬな」って言った」っていう作り話してんだもんアンタ。


"野村ブログリンクを貼った上で、上記記述を書いているのである。粉飾する意志があるのなら、そんなことはするはずがない。"とか

"元日記のリンクは貼っているのだから不正確で誹謗中傷だとまで言われるものではないことは誰の目にも明らかだ。 "って書いてるけど

意思があろうがなかろうが、リンク貼ってようが貼ってまいが作り話はしたんだからさ、「記事を読み間違えましたごめんなさい」って部分はきちんと認めようぜ。


でもって、この野村氏の理論的な反論に対して色々あった結果(皆さんの目で見てください)"野村への「最低の人間」という評価も、これだけの条件が揃えば、

的外れとも言いすぎとも言えないと、確信をもって言い切れる。"と、こう結論付けている。

謝ったら死ぬ病気の方でしょうか。

唯一、けんちん君の肩を持つなら野村氏がこの後カッとなったのか「けんちん・F氏がウソを認め、ウソをついてもいいと主張。 」

と書いたのはマズいと思いますよ。そりゃ野村さん、あなた感想です。けんちん氏がいう通り事実じゃない。


大体以上です。


<終わりに>

再度の通達ですが、私は市原氏を知りません。人としては最低だと思います。それだけです。彼が演劇に携わって欲しくない、とは思いますがその権利は私にはありません。

九州・全国の演劇界は腐ってない」とは言い切れないけれど、「腐っている」とも思っていません。いい人も悪い人もいるのは演劇界に限った話ではありませんし、

一般社会よりはちょっと問題が起こりやす環境ではあると思います

私がけんちん氏をこのように批判するのは「破綻した理論レッテル張りを垂れ流し個人批判する」その語り口が気に食わないだけです。

市原氏、野村氏、泊氏、高崎氏、その他、全ての個人に対して擁護批判を行うためにこの記事を書いておりません。

そして、かなり批判的に書いてしまいましたが以前のあなたの論評が好きでした。本当に。願わくば、元のキレのいい文章に戻ってもらいますように。



と、ラブレターじみて終わったものの、どうしても書きたい事もあるので書いてしまます、ごめん。

これは個人の感想であり言いがかりなので、誹謗中傷じゃねえかって言われたら反論できません。

先に謝っておきます、ごめんなさい。


1.彼の文章って「●●と思われても仕方がない」「●●も同然じゃないか」っていう、自分意見世論であるかのような言い回し頻発するよね。

朝日新聞記事みたい。「政府」を「演劇界」に変えるとわかるよ!

(以下朝日新聞コピペ

政府は何もやっていない」→自分たち好みの行動を取っていないという意味

議論が尽くされていない」→自分たち好みの結論が出ていないという意味

国民合意が得られていない」→自分たち意見採用されていないという意味

「内外に様々な波紋を呼んでいる」→自分たちとその仲間が騒いでいるという意味

「皆さんにはもっと真剣に考えてほしい」→アンケート自分達に不利な結果が出てしまいましたという意味

「心無い中傷」→自分たち反論できない批判という意味

「本当の解決策を求める」→何も具体策はないがとにかく政府等のやり方はダメだという意味

異論が噴出している」→自分たちが反対しているという意味

「各方面から批判を招きそうだ」→批判を開始してください

「~なのは間違いありません」→証拠が何も見つかりませんでした

両国対話を通じて~」→中韓に都合の悪い行動はやめて中韓の言うことを聞け

「問われているのは~」→次に中韓市民団体に騒いで欲しいのはここだ

表現の自由報道の自由」→捏造記事)の自由偏向報道)の自由

人権尊重」→(中韓に有利になるように)人権尊重しろ

右翼」→自分たちにとって都合の悪いことを言う人


2.一々例えに映画とか小説を使うあたりが「ザ・映画オタク(通ではない)」って感じで気持ち悪い。

吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の冒頭で提示された問題はそれである。とか

たとえ市原が消えても、第二、第三の市原が現れる。市原ゴジラだ。ただ倒せばいいというものではない。とか。

こんな駄文のダシに使われちゃ名作も浮かばれんわ。


3.聞いてもいない自分語りナルシシズム自意識過剰気持ち悪い

から「俺も昔あんたにセクハラされたって、#MeToo に書いてもいい♪」って言われたが、それこそ貴様ハニートラップじゃないか。とか

コメントの「もしもあなたのところに直接あいつらがコンタクト取ってくるようなことがあったら教えて。今度こそ、命に代えてでも守るから。」とか

「今回の件に絡んで被害者本人から説明を受けて、例えではなく、本当に嗚咽し、悔し泣きをした身だ」とかね。単純に気持ち悪い。


4.これ率直な疑問なんだけど、なんでそこまで九州演劇界を憎んでいるの?

単純に、九州演劇界はここがダメ、っていう根拠を、他の地域演劇界比較した形で

団体名と具体的事例で事実と推論を分けた形で読んでみたいです。ほんとに。

他の地域演劇界のいいところを教えて欲しいもんです。


現場からは以上です。  

2018-01-18

みなさんは現実土下座謝罪されたことがありますか?

わたしはありますドラマみたいだなと思いました。


みなさんはコップの水を目の前の人間にぶちまけたことがありますか?

わたしは一度だけあります土下座している人に向かって、そのとき持っていたコップの水を全部勢いよくぶちまけました。うわっ、ますますドラマみたいだなと思いました。

すなわち、わたしには「土下座して謝っている人に向かってコップの水をぶちまけた経験」があります稀有経験だと思いますが、リアルで話すと絶対に引かれるので、致し方なく匿名ダイアリーに書いています


どうしてそんなことをしたのか?

相手土下座という、およそ非現実的謝罪方法選択したときわたしは強い危機感を覚えました。彼の必死さが怖ろしく、一方で、ここで舐められたら終わりだと思いました。わたし相手絶対に赦さないことをはっきり示し、復縁を諦めさせる必要があると感じました。

伝統的には土下座をしている相手を踏みつける方法もありますが(ドラマとかで)、現実にそれをやると犯罪なので、とっさに手に持っていたコップの水をぶちまけました。水は弧を描いて、土下座をしている相手の後頭部と背中を濡らしました。

厳密に言えば、これも暴行罪に該当する可能性がありますが、場所が自宅のリビング相手パジャマ姿だったので、万が一、被害届を出されても警察は動かないだろうと考えました。

相手は、土下座して謝っている最中に水をかけられるという完全に異常な状況であるにもかかわらず、特に驚く様子もなく、か細い声で「ごめんなさい。本当に反省してる。許してほしい。」と言いました。

わたしはここが正念場だと思ったので、普段は出さない大きな声で「うるさい。早く出て行け。視界に入るだけで不愉快だ。」というようなことを言いました。その夜はさすがに眠れませんでした。


その日に至るまでの3カ月間、彼はほぼ一日おきに「とても反省している。愛しているのは君だけだ。君を失ったら生きていけない。なんでもするからやり直すチャンスをくれ。」といった内容のポエムメールを送ってきていたのですが、その夜を境にピタリと止み、2週間ほどで荷物をまとめて出て行きました。

彼が去ったあと、がらんとした部屋のテーブルの上に記入押印済の離婚届と一緒に四つ折りにされた便箋が置いてあり、確か「君と暮らし10年間、とてもしあわせだった。本当にありがとう。傷つけてごめんなさい。」というようなことが書いてありました。

わたしはそれを読んだあと、すぐに鋏で細く切って他のゴミと一緒にマンションゴミ捨て場に持って行きました。

部屋に戻って靴を脱いだ瞬間、ああ本当に一人になってしまったんだなという実感が湧いてきて、涙が溢れて止まらなくなり、床にうずくまって、文字通りわんわんと泣きました。

離婚たことについて後悔はなかったのに、それでも10年の歳月はあまりにも長く、喪失感は大きく、どうしようもなくてわんわん泣きました。


それから一年は、これまでの人生で最もつらい期間でした。一番つらかったのは、人を信用できなくなったことです。わたしはおろかだったので、10年も一緒にいた相手が病的な嘘つきであることを見抜けなかったのです。客観的証拠により相手が膨大な嘘をついていたことが分かった後は、誰も彼もが嘘つきに見えました。

周囲の人からは、なんであんなにいい人と離婚したのか、もったいないと責められたり、浮気は男の甲斐性だ、許せない女のほうが悪いと説教されたりしました。

離婚後も相手からは「元気にしてる?君のことをとても心配している。落ち着いたらまた会えないかな。」といった内容のメールときどき来ていたのですが、返信せずに削除していました。

最近連絡がないなと思った矢先に、「ご報告」という妙にかしこまった表題メールが届いて、開けてみると「結婚再婚)することになりました。相手妊娠しています。」といったことが神妙なトーンで書いてありました。彼が出て行ってから半年も経っていませんでした。


彼の再婚相手は、複数人いた浮気相手の誰でもなくて、わたしもよく知っている、ほんの数日前に一緒に食事をした女性でした。わたし彼女を友人だと思っていました。お酒がとても好きなはずなのに、その日はガス入りの水しか飲まなかったので、体調が悪いのかなと少し心配していたのです。ああ、なるほど、妊娠していたかアルコールを飲まなかったのかと妙にスッキリ腑に落ちました。

わたしは、「土下座して謝っている人に向かってコップの水をぶちまけた」瞬間が一連の出来事クライマックスだと思い込んでいたので、まだ続きがあるなんて想定外でした。事実小説より奇なりとはこのことかと思いました。

そして、ようやく治り始めた傷口に乱暴に塩をすり込むようなことをした彼らを強く憎みました。彼らを憎んでも自分を損なうだけだと頭では分かっているのに、感情コントロールできなくて、四六時中、彼らがしたことについて考え、彼らが不幸になるように願いました。そのときには、もうわんわん泣く余裕もありませんでした。


その後どうなったかというと、特に何もありません。

彼が出て行ってから一年くらい経ったある日、気が付くとすべては過去になっていました。時折、激しい憎しみの名残が発作のようにやってくるのですが、それも長くは続かなくなりました。ただ、不倫浮気を美化する内容のドラマ小説に強い嫌悪を感じるようになりました。

彼らが不幸になったかも知りません。子どもは無事に生まれたらしいと風のうわさに聞きました。それでよかったと思いますわたしの見ている前で、彼らが不幸にならなくて本当によかった。

さっき「離婚して、わんわん泣ける女になりたかった。」というタイトル記事を読んだら、一連の記憶フラッシュバックしてつらくなったので、気持ちを静めるためにこれを書きました。

自分経験に照らすと、記事中できれいごとを言っている元夫は嘘つきで、本当は慰謝料を払わず離婚して他の女性再婚したいだけなのではないかと感じましたが、そんな風にうがった考えを持つことは人を幸せしません。



なので、ここに書くことで忘れてしまうつもりです。

2018-01-16

新たな文章練習法について

 文章サボり過ぎている。頑張ろう。

 文章トレーニングのための新機軸練習方法を思いついた。まだ思いつきの域を出ていないとは思うが、それはどんなものかと言えば思いついた単語を片っ端から書くというものである。あるいは頭文字共通している単語を書きまくるというものである赤ちゃんあんこアンダンテアスキー、とかみたいにね。つまりそうやって適当単語を書きまくっている内に――つまり無秩序単語を書きまくっている内に――秩序のある文章を書きたいという純粋欲求が生まれてくることを狙った文章練習法なのである。訳分からんことを敢えて書きまくっていると勝手に訳の分かることを人間は書きたくなるのではないかと俺は思っているのである。どこかの作家が言っていたが「誰にでもできることから始めることで、より高度な行為可能になる」ということなのだ。思いついた単語を書き並べることは(殆ど)誰にだってできることである。だから、まずは誰にでもできることを行うのが肝要なのだ。俺はそう思う。


 例えば、今ここまで文章を書いたところで俺のモチベーションは随分と下がってきているのだけど、あんことかアンダンテとか有馬記念とかみたいな単語を並べることは当然できる。だからモチベーションアップを図ることができるのだ。多分。知らんけど。


 ここまで書いたところで更にモチベーションが低下してきた。それでもまだ例の文章練習法に頼る必要は無さそうである。このままとりあえず書き続けてみよう。それで、モチベーションが底をついたところで実際に例の文章練習法を試してみるのが良いかもしれない。とは言え一応文章を書き続けることが(今のところ)できているので、そう、今のところその文章練習法に頼る必要は無い。やったぜ。


 そろそろモチベーションが再び尽きかけてきた。いや、まだだ。まだ何とかなりそうだ。独り言のように何とかなりそう何とかなりそうと呟ける内はまだ何とかなるのだ。しかしそろそろ難しくなって来た感がある。というのもさっきから同じことの繰り返ししか書けていないかである。「そろそろモチベーションが尽きかけてきた」→「何とかなる何とかなる」的な。しかし先程の論法に従って言い換えてみれば次のようになるのかもしれない。「同じことを繰り返し書くことは誰にでもできる。だから、そうやって誰にでもできることをやっている内に、再びモチベーションが生まれてくる」と。そういうことなのかもしれない。書くことに迷ったらあんことかアンダンテとかアルゼンチンとかそういうことを書かずに、今まで書いたことを書写していくのがいいのかもしれない。その方が文章推敲にも役立ちそうな気がする。今にして思えば。


 例えば、今からこの直前の段落を俺は複写しようと思う。「そろそろモチベーションが再び尽きかけてきた。いや、まだだ。まだ何とかなりそうだ。しかしそろそろ難しくなって来た感がある。というのもさっきから同じことの繰り返ししか書けていないかである。」

 やはり同じことの繰り返しとは言え、何かを書いている分には脳の方でも「こいつ何か書いてんな」と反応している感がある。つまり、脳は割と鈍感なのかもしれない。同じことの繰り返しであれ複写であれ何であれ、ともかく何かを書いていれば「こいつ何か書いてんな」と脳は認識し、結果的に「何かを書く練習」になるのかもしれない。つまり文章技術一般を鍛えるための練習になるのかもしれない。人間の脳なんて基本的に騙し騙されなのだ適当文章を何度も何度も複写していれば、まるで新たな文章を五千文字書いているかのように脳は錯覚してくれるのだ。多分。知らんけど。実際知らんけど。そもそも練習になっとるのかどうか知らんけど。結局は脳の判断云々よりも人間が如何に新しいものを書こうとするかに文章価値根本存在しているのだとすれば、今俺が「脳は結構鈍感で勘違いする」とか言ってる傍からオリジナル文章を書きまくっているその意味もはっきりしてくるのかもしれない。しれない。よく分からないけど、多分そうなのかもしれない。

 というか今これだけ色々と文章を書けているのはひょっとしたら昼間に飲んだコーヒーに含まれカフェイン効能なのかもしれない。それだけのことなのかもしれない。しれない。よく分からない。でもそうかもしれない。何か結局同じことを繰り返し繰り返し書いてるだけにはなっていやしませんかね自分

 あいうえおあんこアンダンテ、秋、憧れ、有馬記念阿久津主税八段(将棋棋士)。


 以上の文章文字数は千八百文字程度である。こんなに書いたのに、普段目標としている千文字文章を二つ分弱書き終えた程度の文字数しか稼げていないことに愕然としている。やはり繰り返すしか無いのかもしれない。あるいはあ行の単語やか行の単語を並べていくしかないのかもしれない。


 ところで自分が何故このような文章練習法を思いついたかと言えば、それは安眠法の記事を読んだからなのだ。その安眠法は「連想式安眠法」と言って、先程述べていたような頭文字限定した単語を幾つも幾つも思い浮かぶ限りで頭の中で唱えていくという安眠法なのだが、これが中々人の脳の中にあるざわめきを抑える効果を持っているようで、つまりは実際安眠に役立つのである。で、俺もその安眠法のファンになってしまったのだが、しかし何度も何度も頭文字共通する単語を頭の中で唱え続けていると、今度は秩序だった文章を頭の中で唱えたい欲求が生まれてきたのである。この文章練習法は以上の体験を元に考案されている。どうだろう。結構この文章練習法良くないだろうか。実際相当文字数を稼げていると思うのだけど、でもやっぱりこれも昼間飲んだコーヒー純粋作用しているだけなのかもしれない。だってそんな簡単文章を大量に生産できるわけがないと思うのだ。今まで俺は文章をたくさん生み出すことが中々できないから焦ったり悩んだりしていたわけであって、それがこんな簡単方法によって改善するとしたらおかしいではないか、と心の一方では思っているのである。だから、どちらかと言えば自分自身の考案した練習法が功を奏したのではなく、昼間飲んだカフェイン所為と言ってしまう方が安心するのである。変な話だけど。

 基本的に俺という人間人生において空回りばかりをしており、自分の考案した方法が功を奏したことなど数える程も存在していないのだ。あるいは一つとして存在していないのだ、実数分からんけど俺本人の印象としては一つも存在していないと言いたいくらなのだ。だから、実際物事が功を奏したとはどうしても思いにくい、そう、「自分の手柄とは思いにくい症候群」が現れているのである。難儀なもんですね全く。ところでキーボードを叩き過ぎて段々指先が痛くなってきた。キーボードを叩くという実にヤワ運動が指先の神経を破壊したりするものなのかどうか俺には分からない。もしそんな事実存在するのであれば全国の小説家廃業しなければならなくなってしまう。だって彼らは日常的に三千文字とか四千文字文章を書きまくっているわけだから、つまりもしそんなペンだことかと同じキーボードだこ的な職業病存在するのだとすれば全国の作家及びキーボード日常的に使用する全ての職種の人々は皆等しく指先の神経破損症候群的な持病を抱えることになってしまうのであり、しかし世の中で生きていてもそんな持病の存在について耳にすることは殆ど無いことから、あるいはそんな持病は存在しないんじゃないかと思ったりもする。とは言え、俺のキーボードタイプする力は常人よりもやや強いのかもしれない。若干指先がひりひりし、指の第二関節が少しばかり痛む程度には俺のタイプチカラは強いのかもしれない。そもそも俺は小指を使わずタイピングを行う自己流の要矯正タイピング法に慣れ親しみすぎており、つまり他の人々よりも指の負担がやや多くなっている可能性があるのである。小指が本来受け取るはずであった負担を四本の指に分配してしまっている可能性があるのである。そう考えると俺だけがこの指先神経破損症候群的な症状に罹患してしまうとしても強ち想像力の枠外とは言いにくいのではなかろうか。


 こんなところでようやく文字数が三千文字を超えていった。とは言えまだ三千文字しか書いていないのかという感覚存在している。あるいは俺の考えた文章練習法のお陰ではなくカフェイン所為なのではないかという疑惑も依然として根強く存在し続けている。

 しかし今ふと思ったのだけれど、やはり効果的な練習法の条件の一つには、人間心理的ハードル技術的なハードルを落とすことが含まれるのかもしれない。あるいは技術的なハードル心理的ハードルを下げることを含む必要があるのかもしれない。だって幾ら効果的な練習法が存在したところで、それが技術ハードルおよび心理的ハードルをゴインゴインと引き上げてしまったら元の木阿弥で誰も挑戦しなくなってしまうことになるではないか。俺今正しいことを言ってる感覚がある。そう、「誰にでもできることから始めよう」作戦は実に正しいのである。例えば、カメラに習熟したいならシャッターを押しまくれば良い。シャッターを押すだけなら大概の人間にはできるからだ。バカチョンカメラとも言うではないか。誰でもちょんと押しさえすればカメラは大抵風景を切り取ってくれるものである。多分。もっと専門的でテクニカルな要素を持ったカメラ撮影があるのかもしれないけれど。

 ホラ見ろそんな注釈自分で付け始めることないのに自分からハードル高くしにいってんじゃねーかと思う。「もっと専門的でテクニカルな要素を持ったカメラ撮影があるのかもしれない」とか言い出しちゃうタイプ人間なのだ俺は。つまり自分心理的技術的なハードルをゴインゴインと上げてしまタイプ人間なのだ。俺は。そう考えるとやはり誰にでもできることをやることは、全くもって善なる練習法なのではないだろうか。だって俺がこういう性格しちゃってるもんだから、尚更その「バカチョンカメラ」式練習法が輝かしいものに感じられるのだ。つまり自分が書いた文章最初から書写したりとか、あるいは頭文字が「あ」で始まる単語を書きまくるとか、そういう「誰でもできること」がやっぱり大切なんではなかろうか。そんな気がどんどんとしてきた。ホラ、だって文章が目茶苦茶量産体制に入ってるのは、さっき自分心理的技術ハードルを落としたからではなかろうか? そう考える傍から「いやいやカフェイン所為でしょそれ」的な思念が浮かんできてしまうのだが、これは良くないことなのかもしれない。しれない。分からない。小麦粉か何かだ。古いねこのネタ。正直昔このネタ聞いてもあんまり面白いとは思わなかった。恐らくこのネタ楽しいと思うにはそれまでラーメンズが演じてきた演目に対する知識必要になるのではなかろうか。なかろうか。俺、さっきから「なかろうか」とか「かもしれない」的なことを書きまくってるけど、それは俺の中にある自分が書くものに対する不安の念の現れなのかもしれない。現れなのではなかろうか。しれない。かもしれない。分からない。小麦粉か何かだ。


 ようやく四千五百文字を超えた。というか文章を書き始めてからこの辺りで既に四十分近くの時間が経過している。あっという間だ。今俺はライティングハイ的な状態になっているのだ。それがカフェイン所為なのか、あるいは俺の編み出した練習法により心理的技術的なハードルが下がった所為なのかは分からないが(その真偽は恐らく明日以降カフェイン摂取しない自分が自ずから証明してくれるであろう)、いや分からんね。そもそも自分が何を書こうとしてるのか分からんから必然的に「分からん」とか「知らない」とか「小麦粉か何かだ」的な記述が増えてきてしまうのです。


 ところでアレですよ、最近「なろう小説」というもの流行ってますよね。流行ってるんです。ええ。流行ってますとも。多分。知らんけど。

 この「なろう小説」の特徴としては、大体物語の冒頭で主人公が死んで転生するところから始まる。そして転生後の世界主人公稀有な才能を持った偉人として君臨することになる。そういう筋書きが殆どなのだ。この呼称はどのように生まれたかと言えば(アノニマスダイアリーに生息する御仁達には説明不要かもしれないが)この小説ジャンルは「小説家になろう」という小説系の投稿サイトで幅を利かせたジャンルなので、「なろう系小説」とか「なろう小説」といった呼称をされているのだ。説明すればするほど醜悪まりない作法によって書かれた小説ジャンルだと思うが、中には面白い作品もあって、個人的には「異世界料理道」なるタイトル作品推しておきたい。これはもう既に商業デビューを果たした作品であり、商業デビューするだけのことはあって世界観の組み立てやストーリーテリングが非常に上手い小説なのだ。二百話近くあるエピソードの半分以上を読んでしまったくらいだ。

 で、俺が言いたいのはそういう稀有面白さを持った小説に対する賛辞ではなくて、その「なろう系小説」を書いている人間文章生産能力に対する賛辞なのだ。俺はプロになる為には一日最低三千文字から四千文字文章生産する能力を持たなければならないと思っているが、いわゆる「なろう系」の小説を書く人間の中には一日に一万文字とか二万文字を平気で書き上げる人間ゴロゴロしていると言うのだから驚きである。一日二万文字と言えば、速筆で知られたか西尾維新氏が、それくらいの文章生産能力の持ち主だったかもしれない。しかし俺だってカフェインブースト心理的技術ハードルを下げる効果的な練習法さえあればそれぐらいの量の文章を書くことなんてお茶の子さいさいだぜと言いたくなってくる。実際そろそろ五千文字突破して六千文字に迫るか追い抜くかをしているところだと思うが、あ、そろそろキツくなってきたかもしれない。いやしかし「キツい」キツいと繰り返している内はまだ大丈夫だと先程言ったばかりである。これもまた繰り返している。繰り返し。繰り返し、リピートリピート。繰り返すことが人間心理的ハードル技術的なハードルを下げ、人間効果的な文章トレーニング提供することになるのだ。多分。でも一応今日はこの辺にしておこう。

2018-01-13

https://anond.hatelabo.jp/20180111185558

ぬくぬくと育ちすぎで社会の仕組みがわかってないからそんなに夢がみれるんだと思う

悪いことを悪いといって正義が履行される世界というのは「正義を履行する強者」がいるとこだけなんですよ

法律というのは公務員という国家団体威力として投入できる根拠をもって正義としてるんですよ

ひとりで間違いをノーといっても団体を動かす原因である適法」という範疇に押し込められたら

しかろうが間違いだろうかなんであれ国家集団をなした威力にひき潰されるんですよ

それが嫌でしょうから法律まもりましょうねというのが法治平和なんですよ

一人でなにかいいことをしたとしても正義をしたとしてもそれがデメリットだとは言いません

しかメリットという意味で期待しているそれもふってくるわけではないのです

正しいことを正しいというような形に履行させる前例をもってして法で勝てるという起動方法

つくろうというのがムーブメントというやつなわけでみんながそうしているということの積み重ねで

もってして起こりえる不利益回避策を考慮しているんです

ノーということで確実に不利益があり悪が履行されだれも助けがないという状況や状態などは

どこにでもあります 発生しつづけて止める方法などありません

助けてほしいと声をあげても助けられることも確実ではありません

なによりの根拠としてあなたはどれほどの困っているという声を拾い上げ何人を助けましたか

その数ほどに助けは稀有なのです

みんなそんな声をあげてないからそんな目にはあってないはずだと思い込むのもよいですが

そうでないことは声にあげない不満や不利益があることなどはご自身でもよく感じていることでは

ないのですか

結局集団をなして威力相手をつぶす以外に正義の履行方法はなくつぶされたほうが常に悪なのです

いまのムーブメントが正しいとしても正しくないとしても公益性にたけていても不利益が多くても

そういう転換がありそれはなんども覆されくりかえされていきます

人がやたらと安い命で死んでいく時代もありましたし弱者が働かなくても暮らしていける時代もあります

いやなことをいやだというと殺される時代もありますしいやだと個人が声をあげるだけで

無関係正義の履行集団相手を押さえつける時代もあるかもしれません


あなた正義不利益の不満は悪といっているそれはだれがどのように供給してくれるのかをまずゆっくり考えてください

その存在と使い方をいまいちど思い出して使えるのであればそれを使おうというムーブメントに乗れるとおもいます

密室ふたりきりで相手が無理を強要してきて身体能力的に回避することができず以降も社会的不利益

解消してくれる先が期待できない場合「ノー」という判断をしてそれを阻止することができるとお思いな

あまい考えは危険だということに気が付いてもらいたいです


もしその不利益などない正義はあるべき「ノーと言おう」で確実に正義が履行されるのだというのであれば


「世の被害者すべては自分選択して被害にあった至極当然の自己責任でそうなっている」


ノーを選択しなかった事が「自分も楽しんだんでしょ」と言われることの裏付けになってしまうということに気が付いてもらえれば幸いです。

2017-12-29

新幹線の中で子供がうるさくて許せん

可哀想に、暇つぶしの道具一つ持たずに親が子供だけ連れて移動しているのだろう。

なんで子連れで移動してるのに子供携帯ゲームの一つも持たせないのだろう。

殺人的な退屈に耐えかねた子供精神がみるみる磨り減っていくのが声で分かる。

無責任だ。

人の親になるは得てして無責任だ。

そりゃそうだ。

本当に責任感があったら人の親になどはなれまい。

極稀に、極めて責任感のある人の親にも会うが、相当の稀有である

子供とは実に憐れだ。

生殺与奪の権利を握られ、「仕方なく連れてきてやった」とあちこちを連れ回される。

犬や猫と何ら違いはなかろう

2017-12-25

ジャルジャルの本当の敗因

なぜジャルジャルが勝てなかったのか、ずっと考えていてようやく答えがわかりました。今さらでしつこいですけど。シュールだったとか、感心させてしまったとか、じゃないんですよ。

 それを説明する前に、この動画

https://gyao.yahoo.co.jp/player/11153/v00019/v0000000000000001448/?auto=1&rep=2

見てビックリした、というか逆に腑に落ちたんですけど、「面白いかはともかくとにかく練習量はすごい」みたいな評価ありましたよね。あれ完全に的外れで、実はあの漫才は半分アドリブらしいですね。(9:30あたり〜)

要するに本当にあのゲームをあの場で半分ガチでやってるそうです。もちろんオチとか大事なところは仕込んであるんでしょうけど。

本当に凄すぎる。でもそうなんやろな、とすごく納得します。そういう奴らなんですよね、彼らは。で、これが敗因とも関係しているわけです。

ジャルジャル漫才に何が足りないか、というと、ツッコミです。もっというとツッコミの深さ、というべきかもしれません。

どういうことかというと、この漫才面白さのキモは二人のアホさなんですよ。こいつらどんだけしょうもないことやってんねん、ほんまにアホやな、と見ている側が心の中でツッコんで、初めて本当の面白さが湧き上がる仕組みの漫才なんです。

から、初めにそれを共有できない人は大して面白さを感じられないわけです。

で、そこで必要なのがツッコミなんです。確かに形の上では、後藤ツッコミをしていますしかし、このツッコミ福徳のしょうもない遊びに乗っかった上でのツッコミになっています。こういう遊びを面白いと思う、というところはすでに二人で共有されてしまっている。そこに対するツッコミは省かれています。多少は最初にあるんですが足りない。まあ、足りないのは「わからない人にとっては」ということで私を含めて、多くの人はそこに共感できているわけで、だからその後のやり取りが全部めちゃくちゃ面白い、と感じられるわけです。しかし、わからない人には誘導してあげる必要がある。それが漫才におけるツッコミ役割です。

他の漫才で一番近い面白さの種類の漫才はおそらく笑い飯でしょう。笑い飯漫才も一つ一つのボケがどうこう以前に、この二人がアホすぎて面白いわけです。ボケを競い合う、ということも含めて、ボケの種類も全てくだらなくてしょうもなくてアホすぎる。うまい、とかではない。そこが面白いしかし、笑い飯漫才にはほとんど必ず一個一個しっかりとしたツッコミが入りますボケた後、きちんとツッコンでから、変われ、とボケが交代する。この間のツッコミで一旦、普通感覚に戻してくれる。だから次のボケでまたしっかり笑えるんですね。

一方、ジャルジャル場合は、ほとんどツッコミがない。あるとしても、アホな二人のやり取り上でのツッコミで、普通感覚にまで届いていない。もちろん、ついていけない人にとって、という意味です。ついていける人はツッコミ不要だし無い方が面白い。そう考えると、この場合漫才というよりはコントに近いとも言えるかもしれません。アホな二人の漫才のようなやり取り、というコント。そう考えると「面白いと思えない」ということは「コントの設定についていけなかった」と言い換えることもできるでしょう。そういう人にはシュールに見えたのかもしれません。

しかし、じゃあ、これは漫才ではないのか、シュールコントなのか、というとそれも全く違うわけです。上に書いたように、これは練りに練られたネタではなく半分アドリブなんです。つまり、これはコントというより、素の二人が単に人前で喋っている、という形に近い。言ってしまえば、本来漫才面白い二人が人前でただ面白いことを話す、という漫才のものとも言えます。では、何が距離感を感じさせるか、というと、この二人の元々のアホさ、なんですね。この二人はおそらく、学生の頃からこんなことばっかりやってたんでしょう。面白いことを思いついた。で、二人でやって二人で面白がっている。ほとんど他のお笑いの影響を受けることなく、ただただ自分たち面白いことだけをやっていた。いくつかのインタビューを見てもおそらくそうなんだと思います。そういう非常に独特な出自を持つ芸人なんですね。そのような芸人が、自分たち面白いと思うことを、あまり説明無しで人に見せる。そうすると、普通の人はついていけない。アホすぎるから。なんでそんなことをやりたいと思うのかわからない。これって、多分実際に学校とかでもそういう状況ありますよね。要するにそういうことがMー1の舞台で起こってしまったのだろう、というのが結論です。それは審査員も含めて。特に関西人以外には、文化的理解しがたいものがあるんじゃないか、というのは大吉先生ラジオでの解説なんかを聞くと思ってしまます

しかし、松本には大いに受けた。インタビューを見ていると、ジャルジャルは近年の芸人の中ではダウンタウンの影響をほとんど受けていない稀有芸人です。それが、逆にダウンタウン評価される、というのは不思議でもあり、むしろ当然とも言えますそもそもダウンタウンの笑いって身内の面白さを強引に世間に広めた、というものでもあり、根っこの感覚ほとんど同じものがあるのではないか、と想像します。

からと言って、ジャルジャルはどうしたらよかったのか、というと難しいですが、もう少し受け入れられる層を広げるとしたら、後藤が初めは福徳の発想についていけない、なんでそんなことせないかん、という部分をもう少し多くして、徐々に面白さを感じ取っていって最終的に一緒になってハマっていく、という構造をとってあげれば、かなり多くの人を巻き込めた可能性はあると思います。あるいは、もう一人、傍観者としての軽めのツッコミがあっても良いのかもしれません。お前ら一体何してんねん、という程度の。そうなると、構成として近いのはネプチューンかもしれません。ホリケンと泰造が好き勝手やっているのを離れてツッコム名倉。最終的には名倉も一緒に巻き込まれしまう、というようなネタが多かった気がします。そうなるとわかりやすいと言えばわかりやすいですけど、ジャルジャルの良さは半減してしまう気もします。

THE MANZAIネタもそんな感じでしたよね。お互い自己紹介で張り合うというアホさの上に、どんどんアホさが積み上がる形式の。

2年前のネタ笑い飯形式でわかりやすかった。ので、一位通過でしたね。2本目も同じパターンだったのでインパクトが少なくて負けてしまいましたけど。正直、あれがジャルジャル漫才の完成形だったと思います。程よいシュールさを漫才形式に作り上げる、という。それを一度捨てて、新たにより本来漫才に近い形で自分たちセンスをぶちまけるネタを作り上げた。本当に凄すぎる。しかし、残念ながら受け入れられなかった。一体どうしたら良いんでしょうかね。

まあ、もう勝たなくても自分たちの好きなことを思う存分やってくれるだけで良い気もします。どうせ世間には受け入れられないんですよ、こういう人たちは、と変な共感をしてしまます

2017-12-24

https://anond.hatelabo.jp/20171224154942

Arvo Partの鏡の中の鏡という曲を聴くと落ち着く

四分の六拍子で、シンプル音階を繰り返すだけの曲だが、

時々低音が入ったり、微妙音階が変わり、一本調子の繰り返しにはなっていない

淡々とした音楽でずっと流しておけるが、耳を澄ませて聞いても退屈しない稀有音楽

こういう音楽は中々見つけることができない

近いと思ったのはエリックサティぐらいだ

2017-12-14

永遠が成立する仕組み

永久に変化がない状態ってのは、変化が止滅した場合にの可能

アートマンプラクリティ干渉から離れて、独存に至った場合に変化をコントロールできる。時間は変化から生じている。変化が一切ない状態では時間の経過が発生しない。

日本人が真我独存を体得できないのは、その前にヴェーダ世界観を知らないから。とりあえずWikipedia勉強してみては?

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE

サーンキヤ学派は厳密な二元論を特徴とし、その徹底性は世界思想史上でも稀有のものである

 

世界はある一つのものから展開し、あるいはこれが変化して形成されるという考え方をパリナーマ・ヴェーダ(転変・開展説)といい、原因の中に結果が内在するという因中有果論であるが、ヴェーダウパニシャッド一元論や、プラクリティ根本原質)から世界展開を主張するサーンキヤ学派はこれにあたる。

精神原理であるプルシャは永遠に変化することのない実体である、とし、それに対し物質原理であるプラクリティ第一原因とも呼ぶ。

プラクリティには、サットヴァ(sattva、純質)、ラジャス(Rajas、激質)、タマスtamas、翳質・闇質)という相互に関わるトリ・グナ(tri-guṇa、3つの構成要素, 三特性三徳)があり、最初の段階では平衡しており、平衡状態にあるときプラクリティは変化しない、とする。

 

しかしプルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる。

プラクリティから知の働きの根源状態であるブッディ(Buddhi, 覚)またはマハット(mahat, 大)が展開され、さらに展開が進みアハンカーラ(Ahaṅkāra, 我慢または我執, 自我意識。アハンは「私」、カーラは「行為」を意味する)が生じる。

アハンカーラの中のトリ・グナの均衡がラジャスの活動によって崩れると、これからマナス(意, 心根、Manas、思考器官)、五感覚器官(Jñānendriya、五知根、目・耳・鼻・舌・皮膚)、五行動器官(Karmendriya、五作根、発声器官・把握器官(手)・歩行器官(足)・排泄器官・生殖器官)、パンチャ・タンマートラ(五唯または五唯量、Pañca Tanmātra、五微細要素, 五つの端的なるもの)が展開して生じる。

パンチャ・タンマートラは感覚器官によって捉えられる領域を指し、声唯(聴覚でとらえる音声)・触唯(皮膚でとらえる感覚)・色唯(視覚でとらえる色や形)・味唯(味覚でとらえる味)・香唯(嗅覚でとらえる香り匂いである

この五唯から五大(パンチャ・ブータまたはパンチャ・マハーブータ(Pañca Mahābhūta)、五粗大元素)が生じる。

五大は、土大(Pṛthivī, プリティヴィーもしくはBhūmi, ブーミ)・水大(Āpa, アーパもしくはJala, ジャラ)・火大(Agni, アグニもしくはTejas, テージャス)・風大(Vāyu, ヴァーユ)の4元素に、元素存在運動の場を与える空大(Ākāśa, アーカーシャ, 虚空)を加えた5つである

 

プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない。

この記述体験を通じて観察しない限り、理論だけでは理解できない仕組みになっている。

自分意志で変化をコントロールできない人間は、不変の状態永久)を得ることはできない。

 

※せっかちな人もいるだろうから警告。単純に死ぬだけでは真我独存の状態に至れないか勘違いしないように。自殺では変化をコントロールできるようになりません。

政府賃上げ要請という無理

無理な話

政府企業経営者賃上げ要請するのは下策。

・ただし税制改正を通じてインセンティブを与えようというのは良い方向への変化といえる。

・雇われる側が今のままで変わらず賃金だけ挙げて欲しいというのは無理な話。労働市場価値の低下の反映なのだ政権問題ではない。他国でも同様のことは起きているし、過去もこういうことは何度も起きてきた。

賃金を上げるには

・雇われる側が専門技能向上、専門知識習得に努めないことには賃金上昇など無理な話なのだ単純労働の代わりはいくらでもいる。

・専門技能向上、専門知識習得の補助を通じて所得アップというのが無理のない流れであろう。分かっている人はそういう努力を重ねている。

一般大衆は愚かなものという前提で考えなければならないのが統治者というものなのだろう。怠惰で愚かな人々を守るのが政治家というものならば因果商売である。よくやるものだ。本来聖人でなければ務まらない職業である

大人は変えられない

・既に高齢な人々は変えられない。大人は変えられない。よほどのことがなければ己を変えようなどとは思わないものだ。自身を磨き鍛える意欲が旺盛な成人など、万人に一人もいないと考えた方が良い。とはいえ、そういう稀有な人々のための専門技能習得、専門知識習得の機会を補助するのは有意義である

可処分所得を上げたいのなら

可処分所得を増やそうというのなら無理な賃上げ要請ではなく減税である

官僚機構肥大化していないか採用人数多過ぎないか

国家百年の計

・一番重要なのは子供教育だ。大人に期待してはならない。未成年者、特に幼児小学生教育国家百年の計の根幹となる。すれば百年待たずとも数十年、早ければ十数年で効果が出て来るはずだ。

結論

教育お金人材を振り向けるのが王道。そういう意味で、授業料無償化は正しい方向といえる。

2017-12-11

安室奈美恵さんについて

安室奈美恵さんが引退するってなったときに、なんていうか彼女人格っていうものはないよなあとぼんやり思っていて、でそんな感じの女はいつの時代もどこにでもいたなって思った。

安室奈美恵さんは絶頂期にできちゃった結婚をしたり、母親殺害されたりなどとてもドラマチックな人生を送っている。でも彼女言葉っていうものはどこにもない。

あるのかな、あるのかもしれないけれど、それは楽曲だとかからはにじみ出ない。

あくまでも彼女はただの「安室奈美恵」であって、その中の人が何を思ってどう感じたかはそのパフォーマンスには影響しない、そこに安定感がある。

同様な立場吉永小百合さんがいる。

いや、サユリストと呼ばれる人々にとって彼女が何を思ってどう感じてどうパフォーマンスに影響したかは言えるんだろうけど一般人にとっては吉永小百合さんは人生において何かがあったとしてもそれによって目の前の何かが変わることはない、安定感があり間違っても手首を切ったりはしないあくまでも理想の見るものの手のひらとても狭い想像の中で動いてくれる稀有存在だ。

安室奈美恵さんの反対側にいるのが宇多田ヒカルさんだ。彼女母親の死をモロにうけていてそれを自分の中でどうしても消化しなくてはならなくて歌う。音程不安定言動も不確かなときが多い。彼女にとっては母親の死というものは歌にのせて消化しなくてはならないものでその消化活動においてそれを聴いて癒される人も多いのだろう。でもとても不安定だ。そこに救いを求めてもいいものかどうなのか身内の死という誰にでもありうる現象において心が作品がこんなにも左右されるような人の作るものに対して、自分の心をゆだねてもいいものだろうか、的な。ここともに母親ある意味殺された歌姫ってことで対比させてドキュメンタリー作っても面白そうだし対談させたいとこですけど誰かそれやってほしいな。

浅田真央さんにも同様のことを感じます

2017-11-26

チャットモンチー解散してしま

チャットモンチー来年7月で解散する。本人たちとしては完結って言葉を使って発表された。

最近はめっきり聴かなくなってたけど、彼女らが売れ始めた当時音チャンネルではシャングリラが繰り返し繰り返し流れてて自然に耳に残って、それからハマって当時はかなりの頻度で彼女らの曲を聴いてた。

それまでにも女性がやって売れたロックはあったけど、女性のものというよりは「男勝りに強い女」が「女だてら」に「男の」ロックをやって、その中で女性なりの気持ち機微や弱さを変化だったり要素として表現するのが常だった。

古くは白井貴子とか、SHOW-YAとか、それなりに新しいところではプリプリとか、すでにそこそこ自立してる女性たちが活動場所としてロックやってます的な。

それに対してチャットモンチーボーカル橋本キャラクターや声、歌詞センスによる、女性の弱さや狂気といった「女性性」を前提としてそれをロック表現していくというところが軸で、それは新しく、気持ちよかった。

チャットモンチーは確実に一つのジャンル開拓したバンドだと思う。それまでガールロックとかガールズポップと呼ばれたものとはやや趣を異にした、少しメンヘラじみた女子ロックとでも言うべき枠は彼女らによって確実なものとなった気がする。

今それなりに名前を聞く女子ロックバンド、例えばねごととか、SHISHAMOとかyonigeとか諸々の、女子であることにある程度のウェイトを置いたバンドたちは間違いなくチャットモンチーという先駆者がいて、地ならししてくれたことで今存在できているバンドなんじゃないかと思ってる。

解散はとても残念なんだけど、橋本という存在はやっぱり稀有ものだと思うので、やや薄れてしまったカリスマ性をバンドを離れることでもう一度磨き直して、またなにか生み出して貰えるといいなあと思う。

2017-11-18

anond:20171118180141

相手増田にきついアドバイスしてもらってありがたいと思うほどの信頼は置いてないんだよ。

信頼関係がない人に「気持ちも大切だが」レベル対応をされたら(仕事上の付き合いならまだしも)踏み込んだ関係になろうって人は少ないでしょう。というか「なんだこいつ?」って思うでしょう。

増田の中ではしっかりした信頼関係があったかもしれないけども。

逆に増田の信念をぶつけてまともに受け止めてくれた人は、増田不器用さにも関わらず幸運にも信頼関係を築けた稀有な人たちだよ。

その人たちを大事にして、なんなら増田の悩みも打ち明けてみたらいいよ。きっとここに書くより親身に意見してくれる。

2017-11-15

anond:20171115205027

1話の最大の美点はサーバルの優しさに決まってんだろ

なにもできないかばんを手助けすることしか頭に無い

弱い奴はすぐに見捨てるお前には無理な芸当だよ

でもまあこの点だけなら他のアニメでも特に珍しくない要素

たつき作家性の中で他と代えがたいのはミスリード、話の引きにある

本来普通に描写するような場面でも、視聴者を軽くはらはらさせるような騙しを入れてくる

騙しの後のフォローも巧いので、「なんだまたミスリードかよ」とならない

しろたつき監督ありがとう」になる

これをさら一般化するなら、視聴者に与える情報(≒それによって動く視聴者感情)のコントロールが抜群に巧い、となる

このへんはさすがに後まで見ないと1話だけではわからん

あと付け加えるなら同人やるくらいなだけあって普通にマニアック

陳腐ものは嫌ってるぽい

アニメありがちなテンプレ描写はほぼ無い

そして最近大衆受けするのってとにかく親切描写で一から十までなんでも説明ちゃうのが普通だが、これそういう意味では真逆スタンス

説明は最低限

ストーリー関係無い設定説明はガンガン削るし、キャラ感情説明などもってのほか

野暮なことは一切しない

こっちをまとめると話自体は優しい世界を描いているのに、描き方は玄人好みな粋なものある意味不親切設計

こういうのは稀有なんだよ

2017-11-06

anond:20171105192545

世間口唇口蓋裂認識なんてこんなもん。

街歩いてても一度も目にした事がない。そのくらい稀有がられる。

で、そういう障害児を産んだら産んだで、親に問題があるんじゃないかと責められる。

んな訳あるか。

どうせ責めるなら、どんなリスクがあってもおかしくないのに性交して産む事を決めた事だとか

出産前に診断出来なかったのかだとかそういう事を責めるべきであって

幸福自分の状況を既に存在しない奴に当てはめて勝手に「手術すべきだった、そうすれば幸せに生きられたかも」はちゃんちゃら可笑しい

http://prehyou2015.hatenablog.com/entry/nhkhousou2017

これだけは書きたいので増田で書く。伝わるといいな。


うちには5歳の娘がいる。推しマーメイドマジカル→マカロン/パルフェと推移している。

彼女リアルタイムで観ることもあるし、録画視聴することもある。

その録画視聴について、大人のそれとは大きく異なる点がある。


彼女CMを飛ばさない。

アラモードのオープニングはあまり好きではないらしく、大体飛ばしているのだけど、

そのあとにあるおもちゃCD/DVD映画CMを飛ばすことはない。

しろ見たがる。マックCMまで含めて観たがる。


コンテンツ的に、YouTube動画って子供向けCMに近いものがあると思っていて、

そういう意味では、娘がCMを飛ばさずに見るのとYouTube動画を見るのって似ているように思う。

リアルタイム視聴率そのものは下がっているけど、映画やグッズの認知度、(CM的なものの)リーチ度は

全く減っていないのではないかな、というのが実際に娘を見て思うところ。

映画の動員やグッズの売上がいいのも実感を伴う。


ということで、プリキュアって視聴率が低くても成り立つ稀有コンテンツだと思うので、

どうかニチアサからプリキュアをなくすという流れになりませんように・・・!(テレ朝に思いを込めて

2017-11-02

出会い系サイトで弄ばれた童貞の末路

少し前に出会い系サイトを漁っているという報告をしていた俺こと21歳童貞だが、今日はなんと弄ばれてしまった。

その人は同じアプリ登録している24歳の女性で、多くの人が自分自撮り写真プロフ画像にしている中、彼女は某アニメ画像を使っていた。

俺はそのアニメファンだったので、彼女とは話題が途切れることなトントン拍子で会話が続いた。

気がつけば2週間以上やり取りが続いている稀有な人になりつつあった。俺は張り切って童貞テクニックを駆使しなんとか会おうと試みた。

その結果LINEを入手するまでの仲には至ったが、会うことを提案するとのらりくらりと躱されてしまう。

そして俺は数カ月磨いた出会い系テクニックを使いなんとか会う約束こじつけた。

他ならぬ今日だ。

指定したのは駅の近くの居酒屋で、彼女はもう先にいるという。

俺は新品のパンツを開け、着て、るんるん気分で待ち合わせの場所に向かった。

俺は目を疑った。なんと、待ち合わせ場所には男が4人、女が2人いたのだ。

事情を聞いてみると彼らは某地元大学サークル仲間で、このアプリを使って誰が一番早く男や女を呼びつけられるか競争していたというのだ。

「そんなの、そんな漫画みたいないたずらありかよ……」

俺は思わずそう呟いてしまった。

それが彼らには予想外に受けたようで、普通に飲んで連絡先も交換してしまった。

だが、全員彼氏彼女持ちだというので2人の女性アプローチをかけることは不可能だった。

今、涙をのんで連絡先を消去した。さあ、また出会い系の海に飛び込もう。俺の身が錆びてしまう前に……。

2017-10-27

https://anond.hatelabo.jp/20171027095454

○○だからやめました、やりました、というのを外的要因のせいにするのはもうおわりにしない?

だって、外的要因だといえばその外側にあわせて自分を変化させないとどうやってもはみ出すし行きも詰まるし出ていく羽目になるでしょう?

現に他人の形に合わせられないからやめたんじゃないの?

○○したら××しろよ、って言ってくるのは勝手だけど「○○なら△△するんです。私、そう決めてるんです」と自分ルール自分で従うようにしてみたらどうなの?

「おまえが勝手ルールつくってんじゃねえ」と言われるかもしれないけど、それは相手も同じだったのでは?

相手はよくて、あなたがだめなら、あなたは「どこまでも尽くせる相手」がみつかるまで永遠にババ抜きをすることになるかもよ。

あなた自分ルールにだけ正直であれば、いずれは「それが一言もいえなくなる極地」か「自由」にたどりつくんじゃない?

前者はあくまでまもってくれるガイドライン人権として日本にはあるから心配する必要がないと思うんだけど。踏み出さな理由にはならないと思うんだけど。

「だーれもお前のことを」とかいわれても完全に声をかける人が0人になって孤独になることは、ないといえるくらいに稀有だと思うよ。

他人ルールはいいから、あなたルールは何なのかな。

他人のお願いをきいて無理でしたと答えて無能さをアピールしたいドMさんなのかな。

あなたのしたいことは何なのかな。あなたのしたいことを言える人はいないの?0人なの?増田があるんじゃないの?

「てめえの言ってる事、俺にまったくつたわってこねえwww俺にわかるように言語しろwww」でも、いいと思うんだよ。

増田のある生活には、それくらい必要だと思うよ。

2017-10-04

anond:20171004205317

見たけど屑だった。

1話が屑だったアニメが復活するなんて稀有ことなんだよ。(←けものフレンズのせいで言い切れなくなった)

2017-10-03

子どもがほしくならない

同級生がどんどん結婚して子ども産んでる。わたしはまだ、結婚とか子どもとかピンとこない。

子育てってお金いるから、高いレストランとか、旅行とか、ほしい服とか本とか買えなくなるんだよね。

しか子どもって理屈通じないからほんと育てるの大変らしい。一回道理説明してわかってもらえないとキレてしまいそう。

なんというか、人生主人公自分じゃなくなる感じが嫌だし、配偶者とともにそんなことするよりも、配偶者にかわいがってもらったりお世話してもらったりしたい。未だに彼氏と一緒にいると赤ちゃんレベルに甘えるし…。(自分が親から愛情に満足してなくてそうなったんじゃないかとは思っている。)

私にない教養とか都会的なセンスとか国際感覚とかを子どもが身につけて、広い世界を見せてくれるんならいいなぁーと思うし、そのための教育なら私も勉強になるし、やってみたいけど、子どもがそれを望むかわからないし、自分が達成できなかったもの子どもに背負わせるのって重荷すぎるよなぁって考えてしまう。

母性って、子どもできたら湧いてきて、無条件に愛せるのだろうか。それとも私にはハナから向いてないから諦めたほうがいいのだろうか。鎹となる子どもなしで、子どもじみた私の面倒を死ぬまで見てくれる人など稀有だろうから後者なら一人で生きていく覚悟もセットにせねばならないなぁ。

あんまり身の回り子どもなく一生を送った女性を見たことがなく、諦めるのもこわい。20代も最終戦になって、人生の次のステージを決めかねている。

2017-10-02

[]望月ミネタロウ漫画), 山本五郎原作)「ちいさこべえ

火事親分をなくした大工の若棟梁

火事で行き場を失ったみなしごたちと若棟梁のおさななじみの女

同居することになっていろいろある話


じわっと涙が出たなあ最後らへんは

それにしてもすごく読みやす

原作っぽいモノローグもありながらも絵と間で読ませる部分もあって、漫画ならではの表現できててすごいと思う

女の子がこれまたかわいいんだ

生意気でかわいくないガキのデザインうまい

もう結構年いってるのに、萌えではなく昔よりもめちゃくちゃかわいくてエロイ線がかける、稀有作家のひとりだと思う

シンプルな線でトーンを使ってるわけじゃないのに、なぜか肉感的に感じてしまう絵ってほんとすごいと思う

2017-09-28

男性も家庭に進出すべきキリッってバカバカしいよねー

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/feature/757

トップブコメ

男性だって家族との時間尊重したいって生き方が選べなきゃいけないと思うのだよね。

で、それを選びたがる男性どんだけいるの?

そりゃゼロとは言わないが、ほぼいないでしょ。

女性ですらそんなの皆やりたくなくて、やれ少子化保育園不足だだのとなっているのに、

別にそんな事やらなくていい歴史が長かった男性で、そんなのやりたがる稀有な人がどんだけいると?

この手の人が「そういう(女に都合が良い)男性が多数いるはずなのに」って前提なのが不思議

家事子育ても皆やりたくないんだよ。仕事してた方がずっと楽で楽しいの。

やったってタダ働きかつ何の評価もされず、それをやってる間労働市場自分価値は下がる一方となる「仕事」なんて誰がやりたがる?

ブラック企業だって一応給料は貰えるよ?それ以下だよ??

から女も子供産みたくないし産んでも保育園に預けて自分育児したがらないし家事もなるべく手抜きしたがるし、保育士も不足してるの。

海外だって家政婦やシッター移民とかの仕事選べない立場の人の仕事だろうに。

仕事選べる立場なら誰もやりたくないんだよ、そんなこと。

ポリコレだか何だか知らないが、最近架空物語漫画でもアニメでもドラマでもいいわ)でも妻バリキャリ・夫主夫、なんて設定の話をちらほら見かけて

そういう設定だと何故か夫は主夫で満足してるけど、ああいうの見ると鼻白むわ。

それ、一昔前の基本だった「面倒な事はぜーんぶ専業主婦の妻に押し付けてるけど妻はそれで幸せ」って作品と何が違う?

男女逆転してるだけじゃん。

まあずっと男がそういう物語作って来たんだから女が同じ事やって何が悪い!って気持ちもわかるけどね。

でも現実逃避してるだけだよね。

2017-09-04

セブンステマにはうんざりしてるし、どっちかっていうとセブン食べ物って微妙もの多いじゃんって思ってる人間だけど

サクサク食感のシュガーコーンだけは、本家ヨーロピアンシュガーコーンよりもおいしかった

ヨーロピアンシュガーコーンが種類別ラクトアイスなのに対してサクサク食感のシュガーコーンは種類別アイスミルク

ヨーロピアン〜のほうは、コーンがフニャっててサクサク感に欠けていた。中のアイスも安っぽい味

サクサク食感の〜のほうは、コーンザクザクで食感が良く、チョココーンの底のほうまでぎっしり詰まっていた

ヨーロピアンシュガーコーン西友で税込216円なのに対して、サクサク食感のシュガーコーンセブンで税込246円ではあるが、30円差でここまでクオリティが違うなら今後はセブンを選ぶだろう

これはジェネリックのほうが先発品を凌駕してしまった稀有な例ではないだろうか

あーいままで正直ナメてたわ、セブンイレブン

すまん

【追記】

アイコンの人、今までは「大病を患ったのに生還して、今では飲食業を営んで元気に働いてる苦労人」くらいのイメージだったのが、ブコメ読んで一気に嫌いになった。性格悪すぎでしょ。

この投稿ステマだと思ったんだー。

まあそう思い込むのは勝手だけど特大ブーメランぶっ刺さってますよとか言われる筋合いは流石にねえよ。

増田書いてるとたまに、この人ってこんなに意地が悪かったんだってビックリするくらいのコメント付けてきてイメージが一変する人がいるよね。

2017-08-31

https://anond.hatelabo.jp/20170830184848

将棋瀬川晶司なんかは、奨励会活躍できず退会後にアマを経てプロになったわけで、

稀有な道であってもプロを目指す可能性を否定するのはどうかと思うがね。

2017-08-16

アイマスについて考えた

はじめに

自分にとっては、これから生きていく上で大事存在だとも言えるのが765プロアイドルである

先日にライブを終えた346プロの面々も、さわりくらいなら知ってはいるが、どうにも馴染めないクチである

キャラの魅力としては、より最近風でバリエーションにも富んでいて、知らない人が見比べれば「765プロアイドルは地味」という人もいるかもしれない。

しかしながら、自分にとっては何よりも765プロアイドルが一番であり、たぶんそういう人が他にもいると思う。

お盆に休暇を取ったもののヒマなので、いろいろ観たり聞いたりしながら、こうなったらと幅を広げて「アイマス」について考えた。


スター」について

今年の高校野球は、清宮というスーパースター選手がいた。彼はのちのちプロになり、輝かしい成績を残すのだと思う。

野球に限らず、あらゆる人気スポーツには「スター」と呼べる一握りのプレーヤーが必ず存在する。

競技のことをよく知らない人間を、まるでまんがかドラマかのような力で惹きつけ、人間を呼び集めることができる人間である

彼らは自然とそのような状態を作り、本人はただ勝っているだけなのだが、それはひとつ経済圏を生み出す。

渦巻くファン層に商売人が目をつけて、そこに広告をブチ込んでさらに大きな渦を作る。そしてカネを飛び交わせる。

いわゆるひとつバブル現象であり、今年の清宮などはこれの好例であったと言えよう(主に商売人側で盛り上がっていた気がするが)。


彼らのようなスター選手の中にも、2種類のタイプがいると思う。純粋暴力的な力でドラマを作る者と、あともうひとつである

前者は若い選手に多い。藤井四段も現在のところはこれである。彼らはただそこに在り、勝負に勝つだけで人を惹きつける。

ただ、それは得てして一過性のものである。何かのきっかけで敗北を喫すれば、ドラマはそこで終わってしまうからだ。

競技自体に興味のない、バブル層のなかで最も分厚い層を作る「競技を知らない」人々は、確実にここで去っていく。

藤井四段も、清宮も、あるいは自分が知らない間に大活躍したスター選手も、きっとみんな「あ~あの子ね」と言うと思う。

夏でもあるし、ここでは「花火型」とでも呼ぼうと思う。


後者で伏せていたもうひとつタイプは、自分自身生き様ドラマを作る者だ。

必然的に、これは歳を重ねた選手の方が多くなる。羽生善治王位も、たとえばイチロー、EVOで優勝したときどはこれにあてはまる。

彼らは自らの人生ドラマチックに生きてきた。ウメハラはたくさんの自著を持っていて、その大半が「人生観」についてである

瞬間最大風速は前者に劣るかもしれないが、継続性は後者が圧倒的に上だろう。

彼らが自分の信念に基づいて生き、たとえ負けが込んだとしても、いつか諦めずに優勝すれば前者よりも強く輝くはずだ。

イチローときどに魅入られたファンたちは、自分人生のお手本として信じ続け、彼らのことをずっと忘れない。

一見地味であっても、より強く歴史にその名前を刻むことになるのは後者人間である

こちらは「劇場型」とでも呼ぼうと思う。


765プロアイドルは「劇場スター

そろそろ765プロに話を戻そうと思う。

つまるところ、自分にとって天海春香如月千早は「後者」、「生き様で語る」アイドルなのだ

彼女らは空想上に作られた存在かもしれないが、物語というのは、事実でなくとも真実であるということに変わりはない。

物語が持つ真実の力を、現実のものと遜色ない力強さで手にしている、自分にとっては稀有存在だ。


天海春香のように、まっすぐキラキラ自分目標に向かって生きることは、どこか気恥ずかしいことだと思っていた。

如月千早のように、周囲に与することなく孤高の存在であり、自らが持つ力だけを持って世の中と戦うのはカッコいいことだと思っていた。

星井美希のように、自分にできることを程々にやり、何かひとつのことに一生懸命になることなどせずに生きるのは賢いことと思っていた。

けど現実はだいたい違っていて、自分の夢にアツい人は全員すげーと思うし、一人では限界がすぐに来てしまうし、飽きっぽい性格では何も面白くない。

765プロアイドル出会っていなければ、こういった当たり前のことに気づくのが遅かったかもしれないし、下手したら死んでいたかもしれない。


アイドルというのは「偶像」であって、それは「非現実的可愛い」だとか「彼女らが頑張るのを自分が支える(崇拝)」対象では決してない。

偶像=神の教えと言葉に従い、崇め奉るだけでは単なる「信仰」だけで完結してしまい、それはいつか「狂信」となるか「飽き」を迎えてしまう。

彼女らがファンに向けて送っているメッセージは、「私も頑張っているから、あなたも頑張って!」である自分は思っている。

ライブ課金ゲーム時間を使うという行為は、そのエネルギーや「言葉にしにくい真実」を交換しあう行為だと考える。

神というのはそもそも人間が生み出した概念であり、アイドルも同じで、決して向こう側から「与えてくれる」だけの存在ではない。

理想ドラマチックな生き方」をアイドルという「偶像」に依拠して、それを体現する者に自分から価値あるもの」を供出する。

そうしたプロセスを踏んでこそ、アイドルという存在がこの世に、人々にとって魅力的な存在であり続けることができる。


日本神様はどこにでもいて、誰からも忘れられたときにひっそりと消えるという。そのためにお祈りやお供え必要なのだ

昔の人にとっては、自分たちの食料となるもの、貴重なものを神に奉納するという行為があった。それくらい大事なことだからだ。

純粋に「異界の神」の存在を信じた人々もいたかもしれないが、それは「狂信」だと言ってよく、たびたび「非人道的な間違い」を起こす。

本質は、「自分たちを見守る存在」=「理想的生き方を守る存在」に「価値あるもの」を奉納し、その価値を高めるということにある。

自分たちの願い(神様偶像)がそこに結実していると確かめるための行為なのだ


10年代の「ソーシャル型」アイドル

要は、自分にとって理想アイドルは「劇場型」であり、「花火型」ではアイドルたりえないという話をしたかったのである

765プロアイドル以外は認めないのか」と問われれば、イエスと答える気がする。346プロも、ミリオンアイドルも今のところではそうだ。

自分としては、彼女らのように息が長く、大勢プロデューサー必要とされ、様々な歴史を与えられた彼女らに勝るアイドルはいないと言い切れる。

他のプロデューサー自分とでは、彼女らに求めているものが違うという実感はある。こういう話をして納得してもらえた経験がまったくないゆえだ。

自分自身羽海野チカ先生が言うように、「大事なことは全部、漫画アニメ(=フィクション)に教わったんだ!」という感じが近いからというのもある。


老害いたことを言うが、最近の新しいコンテンツキャラクターの薄利多売ぶりがすさまじいと思う。

これはデレマスミリマス、空前の大ブームであるソシャゲ全般を主として言えることで、あまりにもキャラが多い。

そして、全員が全員似たようなことを言う。誰も彼も個性などあまりあったものでなく、先に挙げた765プロアイドルのように、強い物語性と動機などはない。

つまるところ、彼らのようなキャラクターに「劇場型」のようなドラマは生まれないのであるキャラクター自体存在は極めて薄いものなのだ

自分にとっては大変味気ないものであるキャラクターが大量にいるという前提もあり、どうにも(言葉は酷いが)「粗製乱造」といった印象が拭えない。


しかし、そこを補完しているのが「ソーシャル性・社会性」である。「大量のユーザー集合的無意識を共有している」という前提があるからこそ成立するキャラなのだ

ツイッターでの同好の士との、友人間でのグッズのための遠征ライブツアー同人作家の持ち上げなど、これらはすべて「社会性のもたらす快楽」が下支えしている活動だ。

如月千早のところで言ったように、人というのは一人では何もかもにすぐ限度が来てしまう。何かを面白がるにも、一人では見える範囲のことしかからず、すぐ飽きてしまう。

だが、誰かと共有することで可能領域は倍増し、それはたまらなく面白いことだと気づく。リア充だろうがオタクだろうが、誰かと会って話すのが人間は一番楽しいことなのだ。

ゆえに、キャラクターは「浅く広く」の方が都合はいいのだ。オタク的に深い造詣と知識がなければ弾かれるのなら、新規はやってこないしヘタなことは言い出せない。

大きなコミュニティを作り出し、まるで文化祭前夜がずっと続いているかのような熱狂の渦を保つには、共有対象簡素かつ魅力的であればあるほど好都合なのだ


自分は、彼女らのようなアイドルを「ソーシャルアイドル」とこっそり呼んでいた。

765プロアイドルのような「劇場アイドル」も初期は「ソーシャル型」だったのかもしれない。

ただ、いくらなんでも数が多すぎやしないだろうかという風に自分は捉えがちである

結果的にどれにも入れ込むことができない、自分のようなぼっちが前提のオタクにはつらいなぁという印象だ。


劇場型」と「ソーシャル型」

時代の移り変わりとともに、アイマスも形を変えたのだなというところに思考が落ち着いた。

掲示板にでも出入りしなければ「お一人様」性が強かったネットからスマホによるネット人口爆発や、ツイッターが台頭した環境変化に対応したと。

アイドルとの距離もより身近になり、春香の「後ろの席までみんな見えてるからね!」にありがたみを感じにくいご時世になったこともある。

自分にとってソシャゲアイドルはとっつきにくいものだが、彼女らについて(上辺だけでも)深く考えることができ、より765アイドルが好きになれた。


AV女優云々で騒いでいたのは、決して職業差別宣伝への嫌悪とかでなく、純粋に「社会」が乱されることへの強い拒絶反応であることもなんとなくわかる。

ソーシャル型」アイドル世代は、決してアイドルの一存ですべてが成立しないのだろう。自分たちで「デレマス社会」を守っていこうという意識が強いのだなと思える。

デレステ運営公式アカウントへの過度な許容もその現れだし、ライブが頻繁に行われていたり、声優さんが大量に現実いるからこそというのもあるはずだ。

旧型ぼっち重視オタクである自分には、深く考えるまでは「奇妙」の二文字で片付けていたが、しっかり考えるとなんとなく頷くことができる(自分とは違うのだなーと)。


自分はここまでで、「劇場型」と「ソーシャル型」を分けて考え、前者が自分には合っていてそれは765アイドルであるとしていた。

ただ、「花火型」とほぼイコールであるソーシャル型」アイドルも、中心にいる人々からすれば「劇場型」と捉えているのかもしれないとも思う。

自分が望むような「二次元でほぼすべてが完結できる」劇場型ではなく、「リアルツイッターゲームライブ声優」、それぞれをすべて同列に考えられる基準を持っているのだろう。

自分にとってそのような考え方は無理があることだし、それができるのは正直うらやましいことだ。きっと違う楽しみがあるに違いない。


おわりに

文字数文章としてのまとまり、書く時間制限をつけなかったので、たいそうバラバラ文章になったと思う。

自分としては、モヤモヤと考えていて喉元でつっかかっていたことがスッキリしたのでよかった。これぞ匿名ダイアリーパワー。


何かとレジェンド扱いされる天海春香さんだが、単に新しい展開が少なくなってしまったというだけである

基本的運営を信頼しているので、天海春香らしい新しいエピソード新曲、展開があるといいなといつも期待してはいる。

ミリシタは…………………………ログインボーナス継続中ですが………………音ゲー無理で……。据え置きで新作出いかなーと希望を。


上にも書いたように、自分には正直なところソシャゲアイマス系列にはどうしても馴染めないところがある。

大量のキャラを常に見回したり(自分にとっては全員が全員魅力的なのですよ)、リアル体験との併用が前提とされているような構造はすこしキツい。

しかしながら、アイマス全体を支えているのは間違いなく彼女らであり、そういった意味では応援している。アニメは観たし、CDもとりあえず買っている。

いまやソシャゲアイマスあってこその765プロアイドルである。いつか揺り戻しがあり、強いアイドル必要になったとき、また765のようなアイドルが観られればそれでいい。


いわゆるデレマス界隈は、人を多く集めまくったリスクとしていろんなトラブルがあったりするんだろうなと思う。

けど、大した問題にもなっていないようなので、すごいと思う(ぼっちゆえコミュニティの仕組みはわからない)。

自分にとってパリピめいて盛り上がるリア充なんだかオタクなんだかわからないPたちは正直無理である

が、デレマスアイマスを好きだという気持ちはたぶん同じなので、遠いところから同士よ! と応援している。


なんかすげー長く書けた。自分用のメモにしてもよかったんだけど、経験則的に、誰かに見てもらうって前提で文章を書いた方がわかりやすくなるのだ。

ということで投稿しつつ、ローカルに保存しつつ。よかったらなんかコメントとかくれると楽しいです。てーかここまで読む人おらなんだ。

読んでくださった方、ありがとうございます


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