死刑云々は措くとして、例の「真相究明の会」やその賛同者のなかに「教団はあれだけの不可解な事件を起こした。教祖はその経緯について真相を語っているようには思えない。その内心にはきっと謎を解く手がかりがあるはずだ。それを知りたいのだ。これは倫理的な使命でもある」という興味や関心や感情があるとすれば、
それは、
超常現象を「体験」させられた(ある程度の知識と手段があれば主観的な超常現象を経験させることはできる)高学歴の人びとが、「何かとんでもないことが起こった」「この男は解脱しているようだ」「世界観が覆ってしまった」と感じて、教祖を圧倒的に不可解な存在(「すごい」)と感じるようになり、つまり教祖に関心をもち、「教祖の考えこそが世界の鍵なのだ」「教祖のようになって世界の真の姿を知りたい」「教祖に近づきたい」「そうすることだけが正しい生き方だ」と感じるのと似ている。戯画的なまでに。
その意味で、あの教祖はやはり(残念ながら最悪の意味において)稀有な宗教者として生き、死んでいっているように思える。
そして、
それは本来的な仏教のサンガ、つまり「釈迦は悟ったらしい」「わたしたちも悟りを開きたい、けれどどうすればいいか分からない」「釈迦の教えを実践して釈迦の内心に近づこう」「それは正しい生き方なのだ」という運動の発生とも似ている。
あるいは、
神の血を引いているとされる、何の力ももたない人間がすべての権勢を吸引する圧倒的な負圧としてふるまい、その伺い知れぬ「内心」に国民が平伏し生命を捧げてきた国の歴史にも似ている。
もっといえば、
飼い猫の目を覗きこんで、「何かを考えていそうな顔をしている」「きっとこの猫には内心がある」「こちらの思いも通じるはずだ」「心の通いあいこそが尊いのだ」と思う、猫好きな人間にも少し似ている。果たしてその小さな動物に魂や内面はあるのだろうか。
ネコは人間の3歳くらいの知能はあるらしいぞ。
うちのはもっと賢いと思う
5歳児くらい?
長年の修行の結果、瞑想中に光を見る体験ができるようになったんだが、 どうも視神経周辺の血流が一時的に増えているだけのような気がしてならない…。
まあ、そうなんだろうね。 超自然的存在なんてのは単に人間がわからん物を理解するための方便。ただ、方便だからといってそれが無意味というわけではない。 たとえば、山の木を切り...
釈迦に興味があって知りたいと思ったら日本人は漢文の素養があるので、経典読むところから始めればいいのにな。
んなのひつようないよ。 ただ単にいっぱい多読すればいいだけ。それに加えて、特定の誰かを絶対視しないことが求められる。 昔と違って今は本が多いのだから、数を読めば誤りも正せ...
釈迦はインド系なので、漢文を書いたりはしないやろ・・・。 サンスクリット語だっけ?