はてなキーワード: 高畑とは
忘れたくないのでつらつら。
●まひとさんは吾郎さん。
宮崎駿が幸せにしなきゃいけない人間だと思ってるのは吾朗さん。それは パンダコパンダから変わらない。
一方で 創作をしながら 築き上げてきた あれやこれやのご縁。その中で 高畑さんとの出会いや製作を助けてくれたおばあちゃんたち。動かしたらダメ、なるほど。守ってくれてる。
創作という魔力を持った大きな石の力を利用して世界を築き上げていく。宮崎駿はかつて世界を愛せるかどうか 鍵 という話をどこかでしていた、愛せる世界であってほしいと。
そのための創作 なんだと思う。これで1日は持つっていうセリフの意味はよくわかってないけど、これであと1日はこの世界を愛せるって意味なんじゃないかなと思う。あの石は宮崎駿の創作 なんだと思う。
世界を捉え直して綺麗に積んであげることで世界を1日だけ愛せる。そういう作品を送り出してきたんだと思う。
3日に1個積みなさいと言ってた。3日っていうのはそのままの3日って単位じゃない気がする。3年とかなんじゃないかな 適当だけど。
それぐらいのスパンで作品を送り出してあげることで世界が愛せる 手伝いをするっていうのがあの創作の石に見られた人たちの任務で、宮崎駿がずっと それをやってきたけどもう限界があるから 誰かにつぎたいと。
まろさんに失敗したこともあったけどそこには 言及してなかったような気がする。とにかく 真人さんに継ごうとしてた。まあつまりはごろうさんなんですけど。
だからこそ今までお世話になってきた人やあの人や この人もういなくなってしまった人に思いを伝えたいというのが、切実すぎるほどに伝わってきた。
ひというのが 何かの脅威を表すとしたら、創作の炎に焼かれていった高畑勲さんらふのことじゃないかと。
今まで戦ってきた数々の戦友たち、その人たちが次々となくなっていった。それでも背負うものがあるから足を止めることはできなかった 宮崎駿さん。その 宮崎駿さんの懺悔と逆にそれを肯定していかなきゃいけないという背景から生まれた作品 なんじゃないかなと思う。
そう考えると最初から最後まで本当に真人さんを中心に動いていて、
創作で今までお世話になった人たちへの感謝や気持ちが全部現れてるように思った。
残すべきものは残した。
さあ君たちはどう生きるか そう 投げかけられてるような気分になった 。これは個人の感想です。
さらに個人的な感想を述べていくと、宮崎駿 眞人さん好きすぎんだろ。作品 全部つぎ込んで 真人さんへのお手紙 じゃん こんなん。
スタッフも豪華。
まだ宮崎駿さんはご存命だけど、献花に近いような作品だと思った。
伝えられなかった思いの言語化と、
まるで遺書。
この話は難解という感想をよく見るが、その実は全く逆で、宮崎駿が監督作品として一貫して伝えたかった事を、教養のない愚かな大衆の為に限りなく簡潔で単純なストーリーに落とし込んだ結果、宮崎駿自身も「訳が分からなくなった」作品である。
この作品は宮崎駿の自叙伝であることは既によく知られているが、彼の内面やバックグラウンド、そしてこれまでの作品で彼が伝えたかったテーマの一貫性を保っている。
彼はそもそもこれまでの作品にも自分と周囲の環境とを幾度となく投影してきた。ただし、それは一部のマニアにしかわからないものであった。今回は、そのベースに加えて現実の宮崎駿自身の回想を複雑に絡ませて投影されているだけでなく、そのものずばりで作品のオマージュという形で追想しているのだ。
そしてここからが重要な点だが、当然それは単なる追想ではなく彼が監督作品で一貫して伝えたかった「生きるとはどういうことか」というテーマに対して「自分はこうしたがダメだった」のだというメッセージになっている。
戦闘機の風防を量産する軍需工場の経営をしていた父のもとで軍国少年として育ち、裕福ながらも厳しい家庭で母の愛を十分に受けることができなかった宮崎は、敗戦後左翼に傾倒して東映アニメーションで高畑功と出会い、強い影響を受けて監督作品にそれを秘めるメッセージをこめてきた。
これまでの監督作品で散りばめられていたオマージュや背景設定には、子ども向けの作品でありながら大人には「鑑賞者の教養」をもってして強烈な現代資本主義と衆愚政治に対するアンチテーゼが展開されてそれこそが深みとして楽しめるものになっていたのだ。
だがそれは一部のマニアだけが知るものとなり、実際に「大人」である大衆が想定以上に教養がなかったがためにジブリ作品のストーリーやアニメーションとしてのレベルの高さといった表面的なものばかりが「良い」とされ、宮崎駿や高畑功が伝えたかった事は伝わらなかったのである。
それでも宮崎駿は諦めず、本作のアオサギたる鈴木敏夫にそそのかされて愚かな大衆と私腹を肥やす連中のために作品を作り続けた。いつか伝わるだろうと鑑賞者を信じて。
いや、もう飛べないのに何度も何度も鈴木敏夫に首根っこをつかまれて。
そうして作った過去の作品たちだが、まるで伝わらなかった。そして彼は遂に「諦めた」のである。「諦観」にも近いだろう。戦後の日本人が当然に持っていた強く気高い教養は、戦後75年高まるどころか全く失われてしまった。
まさに劇中のインコのように、脳みそが小さく何も考えることができない、ただぴーちくぱーちくインターネットで喚き、特異なものを攻撃する。コンテンツをひたすら消費する愚かな大衆に対する、宮崎最後の強烈にシニカルな表現である。
そして現代日本人を代表するように庵野のような表現と個人主義的な自己実現による自己救済、新海のような風刺のない純潔な大衆作品、そして特に何もない残せていない息子が残った。中盤から終盤にかけて、継母のタッチが明らかにジブリのキャラではなく、庵野や新海といった顔の印象を残しているのは、「俺はこう生きた、お前らもあとは好きにやれ」という餞であろう。
こうした自身の溜まりにたまり、ある種の呪いに近しい諦観を、いよいよ吐き出し昇華せんと最後の力を振り絞って、教養が無くてもそれとわかるように単純かつオマージュもジブリ作品にし、走馬灯のように仕立てた。大叔父は死期を間近に控えた自分自身であり、13個の積み木と世界はスタジオジブリそのものである。自分自身が、自分自身に対してケジメをつけた作品なのだ。
「作家は経験したことしか書けない」は宮崎駿とて例外ではない。自己を総括するように、母性に対する渇望と周囲の女性達との思い出が上手く母・継母・見守るおばあちゃんたちといった具合に添えられている。
だが、この作品は紛れもなく宮崎駿の自伝かつ遺書であり、「君たちはどう生きるか」はこれまで一切メッセージが伝わっていなかった人間達に対する、まっすぐな問いかけである。
追記:
残念なことに、この作品を観て本当の意味で「あぁこれはねぇ~」と嬉々としてはしゃいで満足するのは岡田斗司夫ぐらいで、上記のような内容を今にYoutubeでレビューをするだろう。
ジブリがまさにこれだよな
過去のIPこすったジブリパークなんて作って何するんだって思ったけど、息子に仕事を提供してやるわけか。
こういう多角化戦略をスタッフがいるときは作らなかった。スタッフを食わせる気はなかった。
解散とかいう首切りやった後に残った身内食わせるために作った。
首切りを解散なんて言葉で濁すなよって話だよ、加齢による首切りを卒業とか言ってるアイドルグループかよ。
こざかしいにもほどがあるがツイッターじゃそのへんスルーで宮崎駿という巨匠を今日もほめたたえている
元スタッフも信者ばかり集めていたのでそのへんの不満が一切表に出ることはないのがすごい
統一教会みたいだ
そんでまたアニメ作りたくなっちゃった~とかいう教祖のために月15万円で再集結をする元スタッフたち。
しかも作ってるアニメのタイトルが君たちはどう生きるかだっていうから笑える。
高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている(結局、仲裁に入った鈴木敏夫の「宮崎は自分で絵が描けるから」という助言で、
それ以外のスタッフについては積極的勧誘をしなかったと記している[10]。米を茶碗に盛り付ける際、手首に付着した米粒を舐め食べる動作など、高畑アニメが追求するリアルな描写の実現は、近藤の強く鋭い感受性あって初めて可能なものだった。その後、再び高畑の元で『おもひでぽろぽろ』のキャラクターデザインと作画監督を担当する。
同作の製作中、近藤と宮崎の間では何度も衝突があり、時には宮崎が演出の変更を求めたり脅すようなこともあったという。
と述べている[11]。また、鈴木によると近藤の葬儀の際、火葬場で関係者が待つ間、あるベテランアニメーターが「近ちゃんを殺したのは、パクさん(高畑の愛称)よね」というつぶやきを漏らすと、間を置いて高畑は無言でうなずいたという[
・MejaBersihBanget
誰もが期待する前に、この記事では、本当に有名な監督とAnime映画の狭い領域からの例のみを使用しています。
細田監督、新海監督、今監督、高畑監督。最後の例は、原恵一監督の「百日紅」であり、おそらくここにいるほとんどの人々でさえも知らないだろう。
上記に対する返信
・Warm-Enthusiasm-9534
それは残念なことです。複雑な女性キャラクターが登場するハリウッドの名作をピックアップしてみましょう。ハリウッドとAnimeの違いが最も顕著に表れるのは、パルプショーの場合です。
普通のアニメ番組でも、複雑なキャラクターライティング(すべてのキャラクターにそのキャラクターを照らし出すバックストーリーがある)をしているので、千尋や三葉は基本的に典型的なものだと思います。
ハリウッドが10年で制作するよりも、Animeでは毎シーズン10人以上の印象的な女性キャラクターが登場するのではないでしょうか。
男性が主人公の番組でも、一番か二番目に生き生きと描かれているのは女性キャラでしょう。
今年10番目に人気のある番組の3番目のキャラクターが、キャプテン・マーベルのように複雑なキャラクター性を持っていることになる。
日米両国の経験者が「日本はアメリカより性差別が少ない」と言うのを聞いたことがないのは、ちょっと不思議な感じです。
その理由のひとつは、Animeは女性のキャラクターに欠点があっても、あるいは嫌われ者であっても、それを許容する傾向が強いからです。
明らかにろくでなしのキャラクターを登場させ、ストーリーの中で、なぜそのキャラクターがろくでなしなのかを説明し、とにかく好きにさせるのである。
男性キャラクターと同じように、人間の状態を代弁してくれるんです。Animeは毎年ワンダビジョンのような番組を制作しています。(この点では、アメリカのシットコムはドラマより優れている。コミカルなキャラクターには欠点があるからだ)。
もう一つの理由は、Animeの番組には女性のキャラクターがたくさん出てくるからです。
ティーンエイジャーの男の子をターゲットにした番組が、主人公以外のすべてのキャラクターを女の子にすることが大きな理由ですが、これは、キャラクターを区別するために番組がより努力しなければならないことを意味します。
Anime界では、ある番組で、あるいはそのシーズンで、あるいは歴代で、誰が「ベストガール」なのかを議論することが、ひとつのジョークになっている。
(アメリカのテレビ番組や映画で、誰が "ベストガール "なのかを議論できるものがどれほどあるだろうか。スター・ウォーズでは誰が「ベスト・ガール」でしょうか?キャプテン・アメリカ ファースト・アベンジャーでは誰が 「ベストガール」?議論になるほどの女性の登場人物はいません。)
逆説的ですが、ハリウッドは女性キャラクターをうまく扱わなければならないと考えていて、その方法がわからず、あきらめてしまうことが違いの一因だと思います。
だから、『ワンダーウーマン』よりも先に70年代のテレビ番組が映画化されたのです。日本では、それほど関心がないだけです。
例を挙げましょう。Re:ゼロに登場するテレシアというキャラクターは、5分ほどしか登場しませんが、11番目に重要なキャラクターです。
彼女は花が好きで、剣が嫌いで、剣に執着する男と出会うという設定です。
残念なことに、彼女はその年齢で最も偉大な剣の達人なので、義務によって剣聖(国を代表する剣の達人)として奉仕することを余儀なくされています。
彼と恋に落ちた彼女は、彼が剣聖になれるよう、決闘で自分を負かす。しかし、国に怪物が現れ、夫では太刀打ちできなくなり、最後に剣を取ることになり、そこで悲劇的な死を遂げるのです。
この物語をハリウッドのエグゼクティブに聞かせたら、脳みそがクラッシュしそうです。
この物語は、女性らしさについて何を言おうとしているのか。どんなメッセージを送ろうとしているのか?Animeの文脈では、何も言おうとはしていないんです。
女性キャラクターがたくさんいるので、さまざまなキャラクター設定をするスペースがあるのです。
第1期で一番人気のある女性キャラクターはメイスで人を殴りまくりますが、この作品にある唯一のメッセージは「彼女が生き残って、もっとメイスで人を殴りまくれるようになればいいじゃないですか」ということなんです。
出典
以下の内容でGoogle検索
For the Most Complex Heroines in Animation, Look to Japan reddit
satoviviさんに恨みはない。件のブコメに関しても「あーまた弱者男性に『生活が不健康』『慢性的セルフネグレクト』みたいなスティグマがくっつくのかー」くらいで流してた。しかし、せっかくご本人が丁寧に意図を解説していたので、じゃあまずそのスティグマをべちゃべちゃくっつけるの、せーので辞めようぜ、っていう話をしたい。
もう一回言うが、satoviviさんに恨みはないし、苦言を呈したいわけでもない。会話泥棒と呼びたきゃ呼べ。増田に何期待してんだ馬鹿め。
・筆者の立場について
どうやってもポジショントークのポジションを排除することができないと思ってるので、まず筆者のポジションから。32歳糞田舎毒親育ち彼女いない歴=年齢完全童貞大学院卒奨学金返済残高600万。自認は「いじめ被害者」「非モテ童貞」「典型的ホモソどっぷりの理系」「オタク趣味のない顔だけオタク」。
性犯罪者共の犯罪に対して「非モテに女がよってくるようになると性犯罪を犯す、非モテはクズ」みたいなコメント、見たことないか?私は渡部でも新井でも高畑でも見たぞ。非モテであるだけで性犯罪者予備軍のレッテルを貼られ、実際の性犯罪者を「非モテ」と扱うことで、「モテ」の価値を一切下げずに「非モテ」にスティグマを押し付ける。
まず前提として「○○はクズ」があって、それに汚名をべちゃべちゃとくっつけていく奴、見たことないか?「日本にはアンチフェミ罪が必要だ、根拠はフェミニストに反発する男が多すぎるからだ」ってマジで言ったポル・ポトレベルの素朴(婉曲表現)な男を見て、たとえその男がフェミニストを名乗ってたとしても「フェミは差別主義者で反知性主義(誤用)」って言っちゃいけないのと同じくらい、「男はフェミニズムを理解できるだけの知能がない」って言っちゃいけない。
同様に、「弱者男性は強者男性と戦わない男女差別を温存したい差別主義者」とか、どれだけブコメにあった?「フェミニストは強者男性と戦わずに弱者男性ばかり叩くマッチョイズム」とか、どれだけあった?
まず、全ての弱者属性にスティグマを押し付けるべきじゃないし、いわんや「弱者男性」にもスティグマを押し付けるべきじゃない。上の例示のとおり、スティグマの押し付けは「加害性の押し付け」になることが結構多いのだ。その「お前が自認してる属性、加害属性やぞ」で生まれるのは、加害上等の過激派と、それを名乗らないだけの卑怯または素朴な人と、それを名乗れなくなった人。「弱者男性は定義こそ曖昧だが存在する」という意見の人が(観測上)多いと思われるし私もそう考えているが、「弱者男性」を名乗りにくくなったら残るのは誰か。白いのとか青いのとか手とかが浮かんだら、多分私と考えてることは一緒。で、「弱者男性は加害属性」ってなったら、「定義こそ曖昧だが存在」していた人たちはどうなるか。「加害者」ってレッテル貼られて終わりなんだよ。弱者男性のところをフェミニズムって変えてもいいぞ。変えたら浮かんでくるのは誰だ?任せた。
今すぐスティグマの押し付けは辞めよう。所詮社会的影響力の少ない、ネットの海に漂うただの文字列、藻屑だ。藻屑ができるのは、草の根からの反差別だ。せめてもずくになっていこうな。嫌か?嫌ならそれでもいいんだ、草の根から差別主義の片棒かついでろバカめ。わかめにでもなってろ、お前も所詮草の根だ。
ただ、あんまり重く考えるな、所詮ひじきがのたくった結果奇跡的にできた文字列くらいに思ってていい。ブコメやツイッター見てればわかるだろ?このあまりにも素朴(婉曲)な文字列の向こうに、意志のある人間が居ると思いたくないだろ?あれはめかぶなんだよ、生殖能力があるだけの海藻。偉そうなめかぶ。めかぶ食べて寝よ。