はてなキーワード: 個体とは
お前の書いてること、めっちゃ筋通ってるよな。コントロールできない個体と経済を一体化って、完全にリスク分析のプロ視点だし、たぶん結婚相談所行ったら出禁になる系の名言だぞ。
これ、理不尽さの極み。地雷仲間増やすために押し付けてくるんだよなぁ。「楽しいよ」って言いながら片足義足の説得力よ。
タマキンどころか、プリン(浮気)がデザートみたいな世の中で、「幸せな家庭」を築けるとか言う奴は、たぶん異世界転生済みだな。お前の住む現実とは次元が違う。
結婚って、しないと生きられない奴らの自己弁護だったりするんだよ。
ほら、スプーン曲げるの得意な人が、「スプーン持たない人」見て「あいつおかしい」って言う感じ。結婚しろって言ってくる奴らは、スプーンに縛られてるだけなのに、「自由」にイラついてる。
稼ぐ男性と稼がない女性の夫婦は大量に成立しているのに、稼ぐ女性と稼がない男性の夫婦はなかなか成立しない。
この差が生まれる一番の理由は男性が出産できないせいです。しかし稼がない男性が子供を持つことをあきらめて、家事・介護全般を担うことができれば、要するに一昔前の専業主婦(出産育児を除く)みたいな無賃労働をこなすことができれば、こうした婚姻も成立するはずです。
しかし、稼げないし育児できないし家事も下手でレベルが低いし介護もしたくない、性格もよくない…という要するに、「家族に何ももたらさない個体」が、稼げない層ほど多いという残酷な傾向があります(女性であってもそうです)。
さらに、若くないと出産できないので、仮に男性が出産できて女性に下方婚してもらえる世界になったとしても、男性も若ければ若いほど良いという価値観でジャッジされることになるだろうと思います。
稼ぐ男性と稼がない女性の夫婦は、一見男性だけ損させられているようですが、男性が10歳年上の不細工×女性は若くて可愛い等、「カネとカオの価値交換」をしているケースも多く、要するに取引がうまいこと成立している、価値が釣り合っているんですね。
「女性は下方婚しない差別主義者だ」と主張している男性の大半は、若さもすでに失っており、容姿も良くないです。若いイケメンだったら低年収でも余裕で結婚しています…まず、推し活でイケメンに貢いでいる女性だっているわけですから、男性に金を払う女性って存在はしているんですよ。全員が男性に対してケチで、金をせびっているばかりなわけではありません。
それと、ハイスペ男性と結婚している専業主婦希望の女性は、若くて可愛いうちに婚活して決断できています。ボーッとしていて丸儲けというのは誤解で、彼女たちはゴールを決めて動いていて戦略的です。
多分、「女性は下方婚しない差別主義者だ」と主張している男性は、たとえ女性に生まれていたとしてもハイスペ男性とは結婚できておらず、売れ残っていると思います。
モタモタしているうちに嫁き遅れて、仕事が充実しているかというと全く充実しておらず、Xで男叩きを繰り返すモンスターツイフェミ・ミサンドリストになるでしょう。男だから大変なのではなく、駄目だから大変なんです。女に生まれていたとしても駄目な個体は駄目になっています。
稼ぐ男性と稼がない女性の夫婦は大量に成立しているのに、稼ぐ女性と稼がない男性の夫婦はなかなか成立しない。
この差が生まれる一番の理由は男性が出産できないせいです。しかし稼がない男性が子供を持つことをあきらめて、家事・介護全般を担うことができれば、要するに一昔前の専業主婦(出産育児を除く)みたいな無賃労働をこなすことができれば、こうした婚姻も成立するはずです。
しかし、稼げないし育児できないし家事も下手でレベルが低いし介護もしたくない、性格もよくない…という要するに、「家族に何ももたらさない個体」が、稼げない層ほど多いという残酷な傾向があります(女性であってもそうです)。
さらに、若くないと出産できないので、仮に男性が出産できて女性に下方婚してもらえる世界になったとしても、男性も若ければ若いほど良いという価値観でジャッジされることになるだろうと思います。
稼ぐ男性と稼がない女性の夫婦は、一見男性だけ損させられているようですが、男性が10歳年上の不細工×女性は若くて可愛い等、「カネとカオの価値交換」をしているケースも多く、要するに取引がうまいこと成立している、価値が釣り合っているんですね。
「女性は下方婚しない差別主義者だ」と主張している男性の大半は、若さもすでに失っており、容姿も良くないです。若いイケメンだったら低年収でも余裕で結婚しています…まず、推し活でイケメンに貢いでいる女性だっているわけですから、男性に金を払う女性って存在はしているんですよ。全員が男性に対してケチで、金をせびっているばかりなわけではありません。(ホス狂からの立ちんぼ・海外売春のような問題もありますよね。現実として若いイケメンの男性に何千万円も貢ぐために、全身全霊でリスクとって働く女性は存在します)
それと、ハイスペ男性と結婚している専業主婦希望の女性は、若くて可愛いうちに婚活して決断できています。ボーッとしていて丸儲けというのは誤解で、彼女たちはゴールを決めて動いていて戦略的です。
多分、「女性は下方婚しない差別主義者だ」と主張している男性は、たとえ女性に生まれていたとしてもハイスペ男性とは結婚できておらず、売れ残っていると思います。
モタモタしているうちに嫁き遅れて、仕事が充実しているかというと全く充実しておらず、Xで男叩きを繰り返すモンスターツイフェミ・ミサンドリストになるでしょう。男だから大変なのではなく、駄目だから大変なんです。女に生まれていたとしても、頭と容姿が悪くて上から目線の個体は、駄目になっています。
正しい人でありなさい。
それが、僕に課せられた唯一にして最大の教条だった。
幼い頃から、僕は常に「先生の家の子」であることを意識させられてきた。両親は僕を品行方正な模範少年に仕立て上げることに腐心していたし、周りの人(大人も子どももだ)は皆、僕の素行や成績の優秀さを褒めそやした。
今思えば、僕は他人の眼差しに見張られ、他人の期待に縛られて暮らしていた。だが、当時の僕は、それに不満や苦痛を感じることは(少なくとも意識の上では)全くなかった。むしろ、どんな時も「正しい人」として振る舞うことに、ある種の誇りすら感じていたように思う。
友達をえり好みするのは「正しくない」ことだ、という両親の教えに従って、僕は誰にでも人当たり良く接していた。その甲斐もあってか、ほとんどの級友は僕に好意的だった。先生たちも僕を気に入っていたようで、贔屓と言われるような特別扱いを受けることも少なくなかったが、誰も文句を言わなかった。僕は何の迷いもなく、己に与えられた特権を享受していた。それが自分の「正しさ」に支払われた報酬だと受け止めていたからだ。
そんな僕が、一人だけ「友達」と呼べない少年がいた。隣の小さな家に住んでいた彼は、見た目も成績もパッとせず、不器用でどんくさい、いわゆる劣等生だった。当時の僕にとって「優れていること」と「正しいこと」はほとんど同じ意味だったから、僕は「正しくない」彼のことをうっすらと見下していた(そしてそれを「正当な評価」だと信じていた!)。
だが、もし彼がただの冴えない少年だったら、僕は彼とも親しくしようとしただろう。僕に「誰かを嫌う」という悪徳を犯させた(当時は本気でそう思っていたのだ)のは、彼の蝶に対する異常な情熱だった。
あの頃の僕たちにとって、蝶の収集は最大級の関心事だった。少年たちは蝶を捕まえては標本を作り、互いに自慢し合っていた。
はじめのうち、僕はあまり熱心な収集家ではなかった。捕らえた蝶を完璧な標本に仕上げる作業は楽しかったけれど、蝶を捕まえること自体にはさして魅力を感じていなかったのだ。
だが、彼は違った。彼は「蝶狂い」としか言いようがないほど、生活のすべてを蝶捕りに捧げていた。「蝶を探していた」という理由で遅刻して先生に怒られるのは日常茶飯事で、彼の母親が夜に戸口の前で息子が戻ってくるのを待っているのを見たのも一度や二度ではなかった。
それほど蝶に入れあげているにもかかわらず、彼は自分の標本を他人に見せようとしなかった。標本を級友たちとの「社交」の手段と捉えていた僕は、そんな彼に不気味さすら感じていた。こいつは一体何のために蝶を集めているんだ? 遅刻の罰として教室の前に立たされている彼の、何を考えているかわからない顔を見るたび、僕は疑問に思わずにはいられなかった。
ある日、僕は虫取り網を片手に近所の森に出かけた。新しい標本を作るために蝶を仕入れに行ったのだ。あらかじめ目星をつけていた場所で狙い通りの蝶を捕まえ、さっそく家で標本にしようと帰りかけた時、近くでガサガサと物音がした。音の方を見ると、一人の少年が森の奥へ向かっていた。彼だ。彼は僕に気づくこともなく、上の方を見ながら歩みを進めていく。僕はほんの少し迷ったあと、彼の後を追いはじめた。誰かのあとをつけるなんて全く「正しくない」ことだと思いながらも、なぜかそうせずにはいられなかったのだ。
十分以上歩いただろうか。少し開けた川べりで、彼はようやく足を止めた。僕は木の陰に隠れて、彼の様子をうかがった。彼は静かに網を構え、宙の一点を凝視している。彼の視線を追った先には、一匹のコムラサキがいた。生きたコムラサキを見るのは、これが初めてだった。
彼はじっと、コムラサキの隙を狙っている。爛々とぎらついた瞳には、きっと蝶の姿しか映っていない。こんなにも獰猛な空気を纏った人間を、僕は見たことがなかった。
不意に、彼が動いた。突き出された虫取り網がひらりと宙を舞い、すぐに地面に伏せられる。彼はかがみこんで網の中を確認した。僕からは蝶の姿は見えなかったが、狩りの結果はすぐに分かった。彼が、長い安堵の息とともに、うっとりと微笑んだからだ。
彼が立ち上がる前に、僕は踵を返した。早足はいつの間にか駆け足になり、何度も転びかけながら、それでも走り続けた。「逃げなければ」という言葉が、身体の中に繰り返し響いた。何が怖いのか、そもそも全身に満ちたこの感情が恐怖なのか、何もわからないまま、僕は家まで走り通した。捕まえた蝶がいなくなっていたことに気づいたのは、自分の部屋に戻ってからだった。
それから二ヶ月ほど経った頃、紙箱を手にした彼が僕の家を訪ねてきた。彼が何か言う前から、僕には箱の中身が分かっていた。彼はあの日のコムラサキを見せに来たのだ。僕は彼に気づかれないよう息を整えてから、紙箱の蓋を開けた。
箱の中のコムラサキは、お世辞にも良い状態とは言えなかった。展翅には粗が多く、足も欠けている。褒められたものじゃないな、と思いながら顔を上げると、彼は得意げな笑みを浮かべていた。驚嘆と賞賛を欲しがっている顔だ。それに気づいた途端、胸の中にどす黒い感情が湧き上がった。
せっかくのコムラサキがこんな不完全な標本になってしまったことへの落胆、その粗雑さに全く無頓着で恥じる素振りもないことへの呆れ、そして何よりこんなやつに一時でもおそれめいた感情を抱いてしまった自分への怒り。そういったものが渾然一体となった感情だったと、今にして思う。だが、子どもだった僕は、それらを「不快なもの」として一括りにすることしかできなかった。そして、その不快感を、標本への批判という形で吐き出したのだ。
僕は、彼のコムラサキの欠点を、ことさら辛辣な言い方で並べ立てた。彼の顔はみるみるうちに曇っていき、最後にはすっかり不機嫌な表情になった。
紙箱をひったくって部屋を出ていった彼の後ろ姿を見て、僕はかすかな罪悪感を覚えた。人を傷つけるのは、明らかに「正しくない」ことだ。
違う。僕は彼を傷つけたわけじゃない。僕はただ事実を述べただけなのに、彼が勝手に傷ついたのだ。直すべきことを指摘するのは「正しい」ことだから、僕は何も恥じる必要はない――
僕は自分にそう言い聞かせた。都合の良い言い訳だと、心のどこかでは分かっていたけれど、気づかないふりをした。僕はただ、「正しい人」でいたかったのだ。
彼のコムラサキの標本を見てから、僕は本格的に蝶の収集に取り組み始めた。少数の個体を完璧に仕上げることで満足していたのが、より多くの種類の蝶を捕まえたいと思うようになったのだ。
勉強や友達付き合いに割く時間を限界まで減らし、僕は蝶の採集に出かけた。珍しい蝶も、そうでもない蝶も、とにかく片っ端から捕まえた。両親は泥だらけの服で帰ってくる僕を見て顔をしかめ、級友たちは僕と遊べないことに不満げだった。採集自体も、楽しさより苦痛のほうが大きかったが、やめようとは思わなかった。
僕の目的は、彼よりも優れた収集家になることだった。彼が捕まえるよりも多くの種類の蝶を、彼が作るよりも美しい標本にする。それは僕にとって、ほとんど初めての私的な欲望だった。誰に求められたわけでもないのに、「正しい」ことでもないのに、せずにはいられない。自分でも理由のわからないまま、僕は取り憑かれたように標本作りを続けた。
時折、蝶を探しに行った先で、彼の姿を見かけることがあった。彼はいつでも心底楽しそうに野山を駆け回っていて、その姿を見るたびに嫌な気持ちになった。僕が彼に声をかけることはなかったが、彼が僕に気づくこともなかった。彼はいつも蝶しか見ていなかった。その事実もまた僕を苛立たせていたのだが、あの頃はそんなことは思いもよらなかった。
季節がいくつか過ぎる頃、僕は蛹の採集にも手を出していた。森に分け入って成虫を捕まえるよりも、自分の部屋でじっくりと蛹や繭を羽化させる方が性に合っていると気づいたのだ。時には予想外の成虫が出てくることもあったが、それもまた楽しみの一つだった。
そんななか、とんでもないことが起こった。偶然手に入れた繭から、クジャクヤママユが羽化したのだ。クジャクヤママユといえば、僕たちの間では秘宝のような扱いの、まさに幻の存在だった。ゆったり広げられた翅に浮かぶ特徴的な斑点を確認した時には、全身の震えが止まらなかった。
何も考えられない興奮状態の後に、真っ先に頭に浮かんだのは彼の顔だった。彼が教室の片隅で、級友のクジャクヤママユの話に目を輝かせていたのを見たことがある。あの様子だと、きっと彼はまだクジャクヤママユを見たことがない、ましてや持っているはずがない。
千載一遇の好機だと、僕は思った。このクジャクヤママユを完璧な標本にして、彼に見せるのだ。何が「正しい」標本なのか、誰が「正しい」収集家なのか、彼に見せつけてやるのだ。この思いつきは、僕をひどく高揚させた。
僕はこれまでにないほど慎重かつ丁寧に、クジャクヤママユの展翅に取り組んだ。その出来栄えは、今までのどんな蝶よりも素晴らしいと自負できるものだった。もうしばらくすれば、非の打ち所がない美しい標本が仕上がるはずだ。僕はすっかり舞い上がっていた。
常に地に足をつけていることこそ「正しい」。そう知っていながら、浮かれきった僕は級友にクジャクヤママユのことを話してしまった。噂はあっという間に広まり、大勢の少年たちがクジャクヤママユを見せてくれと押しかけてきた。
僕は彼らの頼みを「完璧な状態で見せたいから」と全て断った。それも嘘ではなかったが、一番の理由でもなかった。最初に見せる相手は彼だと、最初から決めていた。
僕は実のところ、彼がどうしてもと乞うならば、未完成の状態でも見せてやってもいいとさえ思っていた。にもかかわらず、彼は何も言ってこなかった。コムラサキの一件以来、彼が僕を避けているのは分かっていたが、彼の僕への嫌悪感がクジャクヤママユへの興味を凌駕していると考えると、妙に胸がモヤモヤした。
その日は、何ということのない平凡な一日になるはずだった。少なくとも、蝶の採集を終えて帰宅し、自室に入るまではそうだった。だが、そこで僕を待っていたのは、変わり果てた姿のクジャクヤママユだった。
翅がもげていた。触角も片方取れていた。展翅板の上には、粉々になった翅の残骸が散らばっていた。
どうして。何で。誰が。どうすれば。
絶望的な言葉の断片が、次々と頭の中に浮かんではぼろぼろと崩れていく。早く直さなければ、と震える手で修復道具に手を伸ばす。今までの経験は「これは無理だ」と告げていたけれど、その声さえ聞こえなかった。
日が落ちかけた頃、僕はとうとうクジャクヤママユの修復を諦めた。僕は絶望的な気持ちのまま寝台に倒れこみ、腕で目を覆った。このまま何も考えずに眠ってしまいたかった。そして朝になって、すべてが夢だったと気づきたかった。
そんな幼稚な空想を打ち砕くように、女中さんが僕の部屋の戸を叩いた。彼が来ていると言うのだ。僕はのろのろと起き上がり、玄関に向かった。
僕の酷い顔を見て驚いたのだろうか、彼は何も言わずにこちらを見ていた。僕は半ば操り人形のような心地で、クジャクヤママユが台無しになったことを告げた。すると彼は、それを見せてくれと言った。僕は頷き、彼と共に重い足取りで階段を上っていった。
僕はクジャクヤママユの残骸を彼に示した。ろうそくの明かりでも、彼の顔に全く血の気がないのがわかった。彼はしばらくクジャクヤママユを凝視していたが、ゆっくりと僕の方を向いて、言った。「ぼくが、やったんだ」と。
僕が凍りついていることに気づかず、彼は堰を切ったように喋り始めた。どうしてもクジャクヤママユが見たくて、僕がいない間に部屋に入ったこと。見ているうちに魔が差して、クジャクヤママユを盗んだこと。返そうとした時には、クジャクヤママユがつぶれてしまっていたこと。
彼の話を聞くにつれ、僕は胸がどんどん冷たくなっていくのを感じた。同時に頭に浮かんだのは「彼は裏切ったのだ」という言葉だった。何を裏切ったのかはわからない、ただ彼が裏切り者だという考えだけが、強く強く繰り返された。
「そうか、そうか、つまり君はそんな奴なんだな」
そう告げた声は、自分でも驚くほど平板だった。こんなに誰かを軽蔑するのも、こんなに誰かに失望するのも、初めてだった。
彼は必死に許しを乞うてきたが、僕はありったけの皮肉を添えて彼の謝罪を切り捨てた。彼は一瞬、殺さんばかりの形相で僕を睨みつけた。そんな表情を誰かから向けられたのは初めてだったので、僕はほんの少したじろいだ。だが、彼はそれに気づくことなく、何も言わないまま、僕の部屋から出ていった。
僕はろうそくを吹き消し、再び寝台に横たわった。毛布に繭のようにくるまると、両目から涙があふれだした。
僕はどうして泣いているんだろう。当然、大事なクジャクヤママユを失ったからだ。でも、本当にそれだけだろうか。僕は、何を失ったんだろう――嗚咽の合間にそんなことを考えながら、僕の意識はゆっくりと沈んでいった。
次の日、僕は級友たちに、不手際でクジャクヤママユが駄目になってしまったと話した。彼らは、ぜひとも見たかったのにと嘆き、僕らしからぬ失態に戸惑った様子だった。だがそれも一時のことで、しばらくすると彼らの興味は別のものへ移っていった。
そして、その日以来、彼を野山で見かけることはなくなった。遅刻することもなくなり、真面目に授業を受けるようになった。ほどなくして、彼が蝶の収集を一切やめて、標本もすべて捨ててしまったらしいという噂が聞こえてきた。級友たちが、あいつとうとう正気に返ったのかとか逆におかしくなってしまったのだとか好き勝手を言っているのを聞き流しながら、僕は教室の隅でぼんやり座っている彼を盗み見た。
彼は罪を犯した、言い逃れできないほど「正しくない」人間だ。彼の罪を糾弾し、正当な罰を与えることこそが「正しい」行いだ。そう考えながら、僕はそうしなかった。彼をかばうためでも、ましてや許すためでもない。僕はただ、逃げたかったのだ。
あの夜、僕はまぎれもない被害者で、彼は明らかな加害者だった。誰もが、僕が彼を非難するのは「正しい」ことだと思うだろう。けれども僕はあの時、「正しい」ことをしようと思ったわけではなかった。正しいとか正しくないとかいう基準から外れた場所にあるむきだしの感情――「彼に裏切られた」という気持ちにまかせて、僕は彼を言葉で刺したのだ。
思えば、彼に関わる時の僕は、いつも「正しい人」から遠ざかっていた。標本箱の中の蝶のように完璧な優等生ではいられなくなり、破れた翅で不格好に飛び回る、身も心も薄汚れた自分になってしまうのだ。そして、その先にはいつも彼がいた。僕よりはるかに劣っているはずの彼は、森の中では僕よりはるかに美しく羽ばたいていた。にもかかわらず、彼は自ら泥の中に墜ちていった。それらすべてが許せなくて、耐え難くて、そう感じる自分自身を認めたくなかった。だから、僕は彼との関わりを絶ち、自分が「正しい人」でいられる場所へと逃げ出したのだった。
結局、僕は逃げ切れなかった。「正しい」ままで生きることなど不可能だということを悟り、自分の中の「正しくない」ものを受け入れて飼いならすことを覚えた。世間ではそれを「大人になる」と呼ぶのかもしれない。
彼とは、学校を卒業してから顔を合わせていない。今では蝶への興味もすっかりなくなって、作りためた標本はほとんど全て人に譲ってしまった。
それでも、一つだけ手元に残したものがある。翅のもげたクジャクヤママユだ。痛々しくて不完全で、なのになぜかひきつけられる。そんなクジャクヤママユこそ、僕にとっての少年の日の思い出なのだ。
友人と口論になった。
その友人と私はともに童貞であり、以下の口論はあくまで推論に過ぎない。
もちろん私は「していない」の立場である。女に性欲があったとしたら、男にとって都合が良すぎるからである。
そう、私は女に性欲がないものとして論を展開していく。
女に性欲があった方が男にとって都合が良い、とはどういうことか。
これの意味するところは、すなわち、セックスを正当化できるということである。
男と女には互いに同じ程度の性欲があり、それを解消するために性行為が行われている。これは両性にとって利益のあるものである。
決して男が無理やり行っているものではない―――という論調ならばセックスはかなり正当なものに思える。
しかし実際のところ、性欲に関して言えば大半のセックスは男のために行われている。性欲は非対称であり、男にかなりの優越が認められる。
人間社会は古来より男権的であり、歴史上のかなりを男性が支配してきた。なぜなら、男の方が力が強く、それによって社会的な権力も強くなるからである。
男に有利な物語が信じられるようになり、それに基づいて社会が形成され、それが事実になる。
それらの一つに「女にも性欲がある」が含まれる。
この社会は男のセックスを肯定するためにさまざまな嘘が信じられているのだ。
ではなぜ、女はセックスに応じるのか。
したがって、男に認められた方が生存しやすい。男に認められる手段のかなり大きな一つとして、セックスがある。
女はセックスを経て承認を獲得している。決して性欲のためではない。
そのため、私は「女はオナニーをしない」と主張する。
彼は日夜Twitterにて、女らしきアカウントの「オナニーをした」という趣旨のツイートを検索してはそれでオナニーをしている。
友人はかなりの年月をかけて、あるTwitterのアカウントが本当に女によるものかをほぼ100%見抜けるようになっていた。
ツイートの細々とした筆致、文体、内容、それらを総合してネカマか否かを判別できるのだ。
実際にそのプロセスを見たが、確かにそれは説得力のあるものだった。
それゆえ、彼は「女はオナニーをしている」と確信して疑わない。
その根拠は「女の偽性欲」だ。
先ほども述べたように、男性社会においては、男性に認められた方が生きていきやすい。
その手段として、男の主張を肯定するというものがあり得る。名誉男性的なふるまいをすることで承認を得ることができるのだ。
つまり、男による「女にも性欲がある」という主張を肯定しそれを実践することで、この社会を有利に生きていこうとする個体が発生することは想像に難くない。
それを私は「偽性欲」と名付けた。
ことインターネットにおいてはそういった分野に関して妄想と現実の区別がつかない男が大勢おり、彼らに幻想を見せることで生存を図っている女がいることは有り得る話だろう。
そういったツイートの中にはフォロワーが一桁のアカウントも多く、承認を得ることが目的とは考えづらい。むしろ、そうした性欲を隠すためのものであり、私の主張と真逆の行動ではないだろうか。
友人はとりわけそういったアカウントのツイートを選んでは自慰に励んでいるらしい。磨きがかかっている。
友人は矢継ぎ早に続ける。
「そもそも、自分の股間に知らない部位がある、なんだこれは、排泄をするでもない、クリトリスというらしい―――触ってみるだろ、普通。
それに触らないような知的好奇心の欠如した女は、魅力的ではないだろう。オナニーしていない奴なんか、無視していい」
私は負けを認めた。
>おしゃれな人はそこまで目立たず景色に溶け込むんだけど、ダサい人は一撃で「ダサい」という印象を周囲に振りまいてる。
自分の生活圏内でダサい人を見かけても何とも思わないし、他人がダサいかどうかについても関心が無い。
べつに人間に興味が無い無い訳ではないよ。
人の振る舞いとか人間性には興味あるけど、服にアンテナがピクリとも反応しないんだろうな。「あっあの人ダサい!」とか思った事が無い。
まぁ自分も夜のドラッグストアにジュース買いに行く時とか、部屋着にジャケット、スリッポンでで行く事あるし「さすがにこの服やべぇな」とか思う事あるけど、服の感度や解像度については女性と雲泥の差があるんだろうなとは思ってる。
そんな自分も大学生〜20代の時代は今より服装に気を遣ってたけど、あれは今思い返せば「同調圧力に怯えてファッションに気を遣ってた」だけなんだよなーと感じる。
そういう変な呪いから解放されてオッサンになった今は、周囲の目があまり気にならなくなって、良くも悪くも自然体で暮らすようになった(美意識が低くなったとも言える)。
今は妻が服から髪型までファッションチェックというかプロデュースしてくれて、妻好みの見た目で過ごす事を義務付けられてるけど、そこに自分の拘りとか一切無い。
以前会社員やってた時、会社の同僚の男の人でも服への意識が高い人は本当に高かった。
シャツにシワが無いか、革靴は磨かれているか、ネクタイの柄は背広と合っているか、めちゃくちゃ細かかったし、(車移動がデフォな土地柄)乗っている車がきちんと洗車されているか、新人の癖にイキった車種に乗っていないか、シートは清潔か、なんて事にも厳しい男の人が多かった。
>おしゃれな人はそこまで目立たず景色に溶け込むんだけど、ダサい人は一撃で「ダサい」という印象を周囲に振りまいてる。
自分の生活圏内でダサい人を見かけても何とも思わないし、他人がダサいかどうかについても関心が無い。
べつに人間に興味が無い無い訳ではないよ。
人の振る舞いとか人間性には興味あるけど、服にアンテナがピクリとも反応しないんだろうな。「あっあの人ダサい!」とか思った事が無い。
まぁ自分も夜のドラッグストアにジュース買いに行く時とか、部屋着にジャケット、スリッポンでで行く事あるし「さすがにこの服やべぇな」とか思う事あるけど、服の感度や解像度については女性と雲泥の差があるんだろうなとは思ってる。
そんな自分も大学生〜20代の時代は今より服装に気を遣ってたけど、あれは今思い返せば「同調圧力に怯えてファッションに気を遣ってた」だけなんだよなーと感じる。
そういう変な呪いから解放されてオッサンになった今は、周囲の目があまり気にならなくなって、良くも悪くも自然体で暮らすようになった(美意識が低くなったとも言える)。
今は妻が服から髪型までファッションチェックというかプロデュースしてくれて、妻好みの見た目で過ごす事を義務付けられてるけど、そこに自分の拘りとか一切無い。
以前会社員やってた時、会社の同僚の男の人でも服への意識が高い人は本当に高かった。
シャツにシワが無いか、革靴は磨かれているか、ネクタイの柄は背広と合っているか、めちゃくちゃ細かかったし、(車移動がデフォな土地柄)乗っている車がきちんと洗車されているか、新人の癖にイキった車種に乗っていないか、シートは清潔か、なんて事にも厳しい男の人が多かった。
稼ぐ男性と稼がない女性の夫婦は大量に成立しているのに、稼ぐ女性と稼がない男性の夫婦はなかなか成立しない。
この差が生まれる一番の理由は男性が出産できないせいです。しかし稼がない男性が子供を持つことをあきらめて、家事・介護全般を担うことができれば、要するに一昔前の専業主婦(出産育児を除く)みたいな無賃労働をこなすことができれば、こうした婚姻も成立するはずです。
しかし、稼げないし育児できないし家事も下手でレベルが低いし介護もしたくない、性格もよくない…という要するに、「家族に何ももたらさない個体」が、稼げない層ほど多いという残酷な傾向があります(女性であってもそうです)。
さらに、若くないと出産できないので、仮に男性が出産できて女性に下方婚してもらえる世界になったとしても、男性も若ければ若いほど良いという価値観でジャッジされることになるだろうと思います。
稼ぐ男性と稼がない女性の夫婦は、一見男性だけ損させられているようですが、男性が10歳年上の不細工×女性は若くて可愛い等、「カネとカオの価値交換」をしているケースも多く、要するに取引がうまいこと成立している、価値が釣り合っているんですね。
「女性は下方婚しない差別主義者だ」と主張している男性の大半は、若さもすでに失っており、容姿も良くないです。若いイケメンだったら低年収でも余裕で結婚しています…まず、推し活でイケメンに貢いでいる女性だっているわけですから、男性に金を払う女性って存在はしているんですよ。全員が男性に対してケチで、金をせびっているばかりなわけではありません。
それと、ハイスペ男性と結婚している専業主婦希望の女性は、若くて可愛いうちに婚活して決断できています。ボーッとしていて丸儲けというのは誤解で、彼女たちはゴールを決めて動いていて戦略的です。
多分、「女性は下方婚しない差別主義者だ」と主張している男性は、たとえ女性に生まれていたとしてもハイスペ男性とは結婚できておらず、売れ残っていると思います。
モタモタしているうちに嫁き遅れて、仕事が充実しているかというと全く充実しておらず、Xで男叩きを繰り返すモンスターツイフェミ・ミサンドリストになるでしょう。男だから大変なのではなく、駄目だから大変なんです。女に生まれていたとしても駄目な個体は駄目になっています。
稼ぐ男性と稼がない女性の夫婦は大量に成立しているのに、稼ぐ女性と稼がない男性の夫婦はなかなか成立しない。
この差が生まれる理由は男性が出産できないせいです。稼がない男性が出産・育児・家事・介護全般を担うことができれば、要するに一昔前の専業主婦みたいな無賃労働をこなすことができれば、こうした婚姻も成立するはずです。
しかし、稼げないし育児できないし家事も下手でレベルが低いし介護もしたくない、性格もよくない…という要するに、「家族に何ももたらさない個体」が、稼げない層ほど多いという残酷な傾向があります。
さらに、若くないと出産できないので、仮に男性が出産できて女性に下方婚してもらえる世界になったとしても、男性も若ければ若いほど良いという価値観でジャッジされることにはなるだろうと思います。
稼ぐ男性と稼がない女性の夫婦は、一見男性だけ損させられているようですが、男性が10歳年上の不細工×女性は若くて可愛い等、「カネとカオの価値交換」をしているケースも多く、要するに取引がうまいこと成立している、価値が釣り合っているんですね。
「女性は下方婚しない差別主義者だ」と主張している男性の大半は、若さもすでに失っており、容姿も良くないです。イケメンだったら低年収でも余裕で結婚しています…まず、女性が推し活でイケメンに貢いでいるわけですから、男性に金を払う女性って存在はしているんですよ。全員がケチなわけではありません。
それと、ハイスペ男性と結婚している専業主婦希望の女性は、若くて可愛いうちに婚活して決断できています。ボーッとしていて丸儲け、というのは誤解で、彼女たちは戦略的だし活発です。
多分、「女性は下方婚しない差別主義者だ」と主張している男性は、女性に生まれていたとしてもハイスペ男性とは結婚できておらず、売れ残っていると思います。
モタモタしているうちに嫁き遅れて、仕事が充実しているかというと全く充実しておらず、Xで男叩きを繰り返すモンスター、ツイフェミ、ミサンドリストになるでしょう。
あとはどう書き出すかだよなぁ🤔
いつも通り、思いつくまま適当に書いとくか、出来る範囲で読みやすくしとくか、うーーーん
とりあえず、忘れないうちにメモ書きしとく
ワイは以前、『差別』というものは、生死に関わる問題や経済的な困窮、戦争といった深刻な問題に直結するケースのみに限定されると考えていた
なので、無礼な態度や高圧的な態度は、単にその人の問題であり、べつにどうでもいいと考えていた
そもそも、一般的に高所得と言われる立場にある人間にとって、気持ちを鈍感に保ち、何か言われても気にせずスルーするのは、持っていて当たり前のスキルだ
もちろん、ハラスメントや名誉毀損・侮辱罪として取り上げられるレベルの罵倒や侮辱は除くが、それに至らない範囲の言動にいちいち反応しているのを見ると、
『稼ぐ気がないんだな』『働く必要がない裕福なご家庭の人なんだな』『生まれつき過敏なんだな。生きづらそう』と感じずにはいられなかった
だが、他者を『バカだな』とか『ボンクラだな』と感じるとき、よくよく考えるまでもなく、"自分の方が上だ" という考え、頭にあるよね?
人の価値はお金で測れるものではないにもかかわらず、経済力という一点で優位に立っているという理由だけでーーー・・・とか、いろいろグダグダとやるまでもなく、
『自分の方が価値が上だ』ってやった時点で、<ハイ、差別そのもの>で話は終わりだと、ふと気付いた
『差別』とは、特定の属性(例えば経済力やさまざまな社会的地位)に基づいて、自分を他者より上位に置き、他者を不当に扱う態度のことだからね
自分と同等以上の能力がない人や、自分と異なる興味や能力を持つ人に対して、『やる気が足りないのでは?』と傲慢な態度を取っていたかもしれない
※ 年収に影響する要素で1番大きいのは『運』、ついで『社会制度』、それらに比べたら『能力』の影響は小さいことも、他人の能力を見誤る要因になっている
※ それ以前の問題として、『自分と他人は違うを理解する機能』がそもそも未搭載なので、何度学習しても、つい他人の能力を見誤ってしまう
例えば、女性を『おばさん』と綴り、男性を『男』と呼称しインタビューに応える某皇族は、自分のことを『ガチ貴族』と思ってるし、実際に貴族なんだけど、
(あれがなんでウケてるのかマジでわからん。中世か? 本当、膝を折って各地を訪問した平成天皇だけが皇族の例外でしたわ)、
政財界の人間は、皇族と違って、いちおう一般人の"ハズ"なのに、日本以外の国でかましたら、
失脚、株価暴落、活動家に永久粘着される or 永久に身の危険を覚えることになるような暴言を マスコミにすっぱ抜かれたとかではなく、
公の場で自ら積極的に発信してるのマジでなんなんだろ?って思ったわけです(ナチス発言ほかキリがない)
『オメー、平等絶対の日本のどこでそんな教育を受けてそうなったの?』、『オメー、ガチ貴族ではなくね?』みたいな
だけど、べつにガチ貴族や上級国民でなくても、無限に無礼な人/上からな人いますよね?
せいぜいあっても年収2000万程度で、なんならワイ以下の年収でも無限にいます
つまり、これは生まれや社会的な立場の問題じゃ無さそうだな・・・ってなったわけです
単純にその人の態度(attitude)、人間性の問題なのでは?ってね
なお、アリストテレスは『ニコマコス徳倫理学』で、徳(美徳)は習慣(ēthos)化によって形成されるとって言ってるし、
人間の行動が繰り返されることで習慣となり、それが最終的に性格や人格を形成するって言っているので、
※下記は、マザーテレサでもウィリアム・ジェームズでも無いらしいです
自己責任論って突き詰めたら、森羅万象あらゆる事象は自己責任を主張している本人のせいに全部転嫁できるはずなんだけど、いまだかつてこの主張が自己責任論者に聞き入れられたことがないので、自己責任論者は自己中心論者だと思っている
これは 1000000000%、それはそう
森羅万象ではなく、もっと単純な日常的な視点で言っても、それはそう
例えば、通貨が弱く教育や医療システムが整っていない国からやってきた人々や、スラム街から成り上がった人々にとって、先進国での一般的な悩みは『甘え』のように映るだろう
同じ先進国に住んでいても、呼吸や歩行、食事など、日常生活の基本的なことすら困難な人々からすれば、健康に恵まれた人々の日常的な悩みなんぞ『甘え』に感じられるだろう
でも、先進国で自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ立場に身を置いたことがないどころか、
居所不明児童 の悲劇、 川口高齢夫婦殺害事件(2013年) の当事者に近い環境に身を置く人は今日もいるだろうし、
殴る蹴る性加害など緊急性の高い虐待ではなくても、電気ガス水道が止まるのが日常な環境で暮らす児童は今日もいるだろうし(貧困ではなくて親が生活能力がない)、
ネグレクト・機能不全家庭でなくても、教育DVや暴言が日常とか過干渉とか条件付き愛情とか、基盤を壊すものは無数にあってひとつひとつ挙げたらキリがない
そして、自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ環境に身を置いたことがないどころか、
人類は自然に完全に打ち勝ったわけでも、自然から独立した存在でもない
だが、他の動物と異なり、『優れた貯金力(資源を蓄積する能力)』と『高度な想像力』を持っている。そのため、先進国では、福祉制度や社会保障が充実しており、動物のように弱者を切り捨てたりしない。
また、見て見ぬふりをしてしまうこともあっても、自ら手を下して積極的に弱者を切り捨てたいという輩は異常者とされるし、自分自身が社会から切り捨てられたいとも思うのも異常者だ
したがって、裕福な立場や恵まれた環境にあるすべての人は、たとえエリートでなくても社会的責任(ノブレス・オブリージュ)を意識する必要がある
持てる者が傲慢な態度であることは、エクイティ(公平性)や共通善の観点から見ても、批判されるべきだ
批判的ではありつつも、バーカ、バーカ、と言うのは控えたいと思います