はてなキーワード: 歴史修正主義とは
左翼の歴史修正主義は、ハーバード(ユニテリアン)と金子堅太郎の関係を隠すからなあ
ハーバードは、英国鉄鋼王のダドリー男爵がマサチューセッツ知事のときの公立大学なんだよな
義理の息子の産業弁護士を使って、アジア人で人形遊びをする白人もいるもんだ
バカバカしい
異論があるなら言ってみろ
大抵韓国と中国が嫌いで自民党支持か田母神や桜井誠などのビジウヨ界隈の支持をしてる
オタク、弱者男性、統一教会信者、自民党支持者との親和性が高く同一視される
自称普通の日本人だの日本が好きで何が悪いだのはリベラルじゃなくても聞いたことある増田は多いはず
スポーツなどで日本代表が試合をしてる時は大抵相手国を応援し日本負けろと思いがち(リベラル系の議員や活動家、コミュニティでも実際多い)
ポリコレに則り女性差別はしないがポリコレ的にマジョリティと男性差別は許されてるのでセーフ
学歴、知能、地方、収入、職業、容姿などの差別が盛んでイラスト、コピペ、AAなどを用いたキャンペーンが流行ったり
リベラル系の議員や学者、活動家も対立相手や自分らを支持しない人らの事をよく衆愚扱いしたり様々なステータスで差別をしてきた
https://x.com/lautream/status/987667478028300288?t=8LEO9S3FoROPxrXT2jlrAQ&s=19
昔は障害者差別とかもよくしてたがいつの間にか無かったことにするなど歴史修正が非常に得意
これで良識派とか気取るとか笑わせるが、今も昔もそういうの本当に変わんないよねえリベラルって
あれのリベラル版で言ってるメンツを見ると案の定立憲共産党系の人たち(旧民主党でも党内のリベラル寄りの人達の自称が中道で、保守よりだと保守派と自称しがち)
追記をはじめに書くべきとのブコメがありましたので修正しました。
○増補新版にしか弥助の記載がないってコメントあるけどそうなの?そもそもロックリーの本の方が先にでているらしいし、頑張ってこんな微妙なウソつくのはどうなんだ。/そもそも記載は本当でも南蛮人から買うしかない
○弥助の事書かれて無い2017年版大航海時代の日本人奴隷持ってるけど、2021年発行増補新版の間で何かに目覚めたんかな?17年版は序章の改宗ユダヤ人が異端狩りを逃れて日本へ逃げ込む所なんか凄い面白い本なんだけど
そしたらロックリー先生初出、岡・ソウザ先生がそれを取り入れた可能性もあるのか
そしてそれを取り込んでしまったせいで目茶苦茶な記載になったのかも
(肥後に弥助の妻子がいたと読み取れる件について)
○その部分は、校正の最終段階で、段落を丸ごと削除した際に残ってしまったミスです。2021年の再版刊行時にすでに修正済みです。アカデミアの方であれば、そういったことが生じることはご存知ではないでしょうか?それに、弥介の話は前段落で終わっているのは、文章を読めば理解できるところです。
○なおkindleは初版以降の修正は反映されないことが確認されたため、本日中央公論新社と協議の上、Amazonに修正依頼しました。来週には修正される予定です。本日大規模重版かかりましたので、同じ頁の数字の誤字も修正されます。ご指摘、どうもありがとうございました。
(後掲岡先生のXより)
アカデミアでは段落丸々削除する程度のミスは当然に生じうるから問題なし、またこれを弥助の話と取るのは読解力の問題、とのようだ。
弥助の話をしている流れで肥後の妻子の話を続けているのだから、普通の読解力だと弥助の話と受け取ると思うのだが。アカデミアの方々の高度な読解力は凄いね。
また、私なら、まずミスしてしまった本を読んでしまった読者に謝罪するけどアカデミアの流儀は分かんないね
なお、「廿」については修正されていそうだが、「器量すくやか」の誤読(?)についてはコメントされていなかった。
「戦国大名は黒人奴隷を求めた」説、ロックリーさんの捏造ではない
かもしれない。
アサクリの弥助問題から派生して、日本大学准教授のロックリー先生が、「戦国大名は黒人奴隷を欲していた」とデマを流している、との言説がある。
しかし、これはロックリー先生のデマではないのではないか、との意見がX上で交わされているので、ロックリー先生の名誉のためにまとめておこうと思う。(リンクが多くなりすぎるのでリンクは省略)
東京大学史料編纂所の准教授の岡美穂子先生と、その配偶者であり東京外国語大学特任教授のルシオ・デ・ソウザ先生の共著である「大航海時代の日本人奴隷 増補新版」(中公選書)という学術書がある。
屈強で珍しいカフル人を従者にすることは、日本人にとっては「富貴」や「威風」の象徴で、交易に関係する大名たちはこぞってその所有を望んだと思われる(215ページ)
また、ロックリー先生の著作の「信長と弥助」(太田出版)にはこうある。
ロックリー先生の著作が2019年出版、岡・ソウザ先生の著作が2017年であることから、ロックリー先生は岡・ソウザ先生の著作を参考に書かれた可能性がある。
つまり、岡・ソウザ先生は従者と記載しているのを、ロックリー先生が奴隷と言い換えてしまったようなのだ。母国語ではないせいで細かいニュアンスが変わってしまったのか、意図的なのかは不明だが。
ちなみに岡先生・ソウザ先生の著作に「「富貴」や「威風」の象徴…こぞってその所有を望んだと思われる」とあるが、その根拠は示されておらず、不明である。岡先生・ソウザ先生の博識にてらすと論ずるまでもないことなのかもしれない。
ただ、ロックリー先生の著作は英語版では内容が異なるという話もある。そこまで追えていないが。
商売上手の中央公論新社が、話題になったこの機会を捉えて「大航海時代の日本人奴隷 増補新版」を増刷してくださるそうだ。(https://x.com/chukoshinsho/status/1815737944243573035)
せっかくの機会なので皆様も是非お読みいただきたい。
注目すべきページがある。(https://i.imgur.com/aQlemYT.jpeg)
書籍内では「16、7歳」(4行目)とあるが、実は信長公記では「廿六、七」と書いてある。もちろんこれは26、27歳のことであり、①単純なミスが発見できなかったか、②「廿」という文字が読めなかったか、ということになる。ケアレスミスだろうか。
書籍内では「穏やかな気性」(5行目)とある。これも信長公記にあたってみると、「器量すくやか(健やか)」とあるが、現代文に訳すのならば「立派な」や「頑丈な」、「才気にあふれた」といった意味となる。これもケアレスミスだろうか。
書籍内では肥後に妻子がいたとされている(後ろから2行目)。文脈上これは弥助のことだと思われるが、史料中で弥助に妻子がいたことを示すものはまったくない。何を根拠にしているのだろうか。
ルシオ・デ・ソウザ先生は、ロックリー先生の最新作「A Gentleman from Japan」の推薦を書いており、関係は良好だと思われる。
岡美穂子先生によると次の通りだ。
「ゲンダイ」系の媒体、上からの圧力にも曲げず、頑張ってらっしゃいます。どうせ競馬と女性の裸の写真しか載っていないんだろうから読者の質など知れていると、オカミはタカをくくっておられるのかもしれませんが、なかなかどうして、左翼系知識人から、かなり支持されておりますのですよ。私は左翼でも、知識人でもありませんけど。でも右翼は絶対嫌だ。
そんなこんなんで、お友達がいるわけでもない日刊ゲンダイで、本が紹介されました。とても嬉しいです。
https://web.archive.org/web/20201101144221/https://mdesousa.exblog.jp/m2017-06-01/
岡先生のブログによると、左翼系知識人は日刊ゲンダイをかなり支持しているとのこと、また、御本人は左翼でも知識人でもないけど、右翼は絶対嫌とのことだ。
ちなみにこのブログは、2024年5月16日まではウェブアーカイブにて確認できるが、岡先生が今回の弥助・黒人奴隷議論に御参加されるころには既に削除されてしまっている。
弥助・黒人奴隷議論に際し、岡先生のなされた御発言をまとめておこうと思う。
○これだけ「歴史修正主義」って叫ぶ人が出てきてるのに(笑)、右系論壇が沈黙しているのは、さすがにこの問題に関わったら、常識を疑われると認識できているのだろう。
○将来を嘱望されていた呉座さんがあんなことになってしまったのは、あなたたちのような人と不用意に繋がってしまったからでしょうね。
○「権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」という文章を否定しろ、という意見が多いようですね。ここで迂闊に発言すれば揚げ足をとられそうです。外務省から正式な要請があれば、史料付きでやっても良いですよ。外務省がこの問題を本当に「国際的な国益問題」と判断すればですが。
○私はロックリーさんの著作は、日本語も英語も「歴史読みもの」であり、学術研究であるとは考えておりません。しかしそれが書かれるにあたって、彼が様々な文献にあたり、想像を超える努力をしたことは存じております。
○彼等にとって、ロックリーさんの著作が、歴史や日本への関心を形成するバイブルであるのだとしたら、それを否定するのは、彼等をとても傷つけることであり、それに対する防衛として、ネットの中で「歴史戦」が展開されているのでしょう。
○に「裏で」繋がっていませんが。私が海外で出版した本のレビューを権威あるジャーナルで紹介してくれたのは彼ですし。面識のない人を「あんた」と呼ぶのは、いかがなものでしょう。おそらく、現在表に出ている人間で、彼を表舞台に連れてこれるのは私だけですが、こんな人のためにはできませんね。
ここから、①右翼・右派に対する敵対心がある、②ロックリー先生の著作は読み物だが、ロックリー先生の努力やそれを信じる人のためにも否定しない。(ロックリー先生は史実と主張しているが)、③政府から言われれば自身の著作を修正しても良い、④ロックリー先生とは夫婦揃ってかなり深いつながりがある、という御意見をお持ち・事実関係であるいうことが読み取れそうだ。
著名な学者であり、岡先生の同僚でもある隠岐さや香先生まで、岡先生擁護の論陣を張っていた。
日本史研究者への歴史観にまつわる誹謗中傷、オンラインハラスメントは「アジアにおける学問の自由への脅威」の一例として報告されるレベルでして、まさに言論弾圧の一種として国際的にも認識されています
https://www.asianstudies.org/publications/new-threats-to-academic-freedom/
ちなみにオンラインハラスメントの日本での事例として、隠岐先生御紹介のページでは望月衣塑子さんの新聞記者が挙げられている。あれってフィクションじゃなかったっけ…?
2021年1月、はてなブックマークで以下の記事が多少話題になった。
日本語版ウィキペディアで「歴史修正主義」が広がる理由と解決策 - 佐藤由美子の音楽療法日記
佐藤氏が気にかけていたのは、あくまでも日本語版Wikipediaの日本の歴史認識問題についてのみだったようだが、私は当時から、いわゆるホロコーストに関しても、歴史修正主義者のWikipedia上での活発な活動を知っていた。奴らは、ちょこちょこちょこちょこ、関連記事を編集していたのを目撃していた(実際にはネットで知り合った人から教えてもらったw)。その時から、私の奴らとの孤独な戦いが始まった。本当に孤独で、誰か他におらんのか?と思うほどである。
そんな戦いをしているのは私(と他に何人かはいるかもしれんがよく知らない)くらいかもしれないが、とにかく日本語版でのホロコースト否定派に属するであろう歴史修正主義者はWikipediaで暗躍し続けている。
例えば、ニュルンベルク裁判の記事では、「被告に対する暴行や弁護団への不法行為」という項目で、ヴェルナー・マーザーというドイツ人歴史学者による著書『ニュルンベルク裁判 ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』だけを使って、ニュルンベルク裁判で被告らが暴行・拷問を受けるなど不当な行為が行われたと書かれている。少し調べると、ヴェルナー・マーザーは歴史修正主義者と見做されており、ドイツ語版のWikipediaにあるヴェルナー・マーザーの解説には次のように書かれている。
しかし1977年以降、マーザーは歴史修正主義者に分類されるようになった。特に『ニュルンベルク:勝者の法廷』(1977年)、『言葉の破れ』(1994年)、『ヒトラーとスターリンに関する改竄、虚構、そして真実』(2004年)といった著作のせいである。ヒトラーと国家社会主義に関する彼の全体的なテーゼは、ナチスの研究によって否定された[4]。
残念ながら、マーザーの著述を批判するほどの知見は私にはないので、Wikipediaの記述を修正することは今の所無理だが、同ドイツ語版ページには上の引用の直前にこうも書かれている。
メーザーの文書館での作業、資料や二次文献の知識、同時代の証人や専門家との接触、調査方法は、初期の著作では歴史学的基準を満たしていたため、ナチスの歴史に関するこれまで知られていなかった詳細を文書で発見したことは、研究衝動として認められた。例えば、マーティン・ニッセンは、事実をつなぎ合わせることに関しては、メーザーが多くの専門的な歴史家よりもはるかに優れていると見ていた。
しかし、多くの専門家たちは、彼のこうした事実の扱いを批判した:例えば、カール・ディートリッヒ・ブラッハー、ロバート・G・L・ウェイト、ジークフリート・シュヴァルツは、ナチス時代に関する著書の中で、彼が他の著作からバラバラの詳細を集め、歪曲したやり方でそれらをつなぎ合わせ、本質的な事実とそうでない事実の区別をつけなかったと非難した。
ドイツの歴史研究界隈で物議を醸す歴史家だったことは確かなようではあるが、マーザー自身はホロコーストを否定していないようではあるが、ニュルンベルク裁判で被告に拷問をしていたと記述していた点は、どうも日本人の歴史修正主義者にはかなりのお気に入りのようではある。
そして、「被告に対する暴行や弁護団への不法行為」より下の項目を読んでいくと、もはや修正主義者の独演会になっている。例えば「不起訴になったカティンの森事件」という項目があるが、カティンの森事件は修正主義者・ホロコースト否定派の大のお気に入りで、何故かといえば、ソ連のゴルバチョフ書記長時代に実施された情報公開政策「グラスノスチ」により、カティンの森事件がソ連の犯行であることが、ソ連自身によって文書証拠付きで示され、ソ連がそれまでナチスドイツの仕業だ!と言っていた、そのソ連の主張が嘘であることが確定したからである。
ホロコーストに関しては、ユダヤ人絶滅のほとんどが、ソ連地域や第二次大戦で結果的に終戦まてにソ連が占領した地域で起きたとされていることから、否定派はホロコーストはソ連の捏造だ!と主張してきたので、カティンの森事件がソ連による嘘だと確定したことには大喜びなのだ。つまり、修正主義者たちは「ほらみろ!ソ連は嘘つきだと判明したじゃないか!ホロコーストだってソ連の嘘に違いない」と言いたいのである。
だからこそ、ニュルンベルク裁判の内容にはほとんど関係のない、カティンの森事件についてまで記述されているとしか考えようがない、だいいち記事中に書かれている通り、ニュルンベルク裁判では審議の対象にすらなっていないのだから、ほとんど書くべき内容はないはずである。事実、英語版ウィキペディアのニュルンベルク裁判の記事では、たった一文「西側の検事たちは、審理全体に疑念を投げかけることを恐れてカティンの罪を公に否定することはなかったものの、懐疑的であった[160]」と書いてあるだけで、日本語版のように項目にすらなっていない。
続く項目は、カティンの森事件以上にホロコースト否定派が大好きな「発見されなかったヒトラーのユダヤ人絶滅命令や計画書」だ。ホロコースト否定派はヒトラーのユダヤ人絶滅の命令書は存在しない!というテーゼを抱えて絶対に離さない。個人的には、もしホロコーストが連合国やユダヤ人による捏造なら、それこそヒトラーの命令書が捏造されていないことは、極めて不自然(ペラ一枚捏造するくらい造作もないだろw実際、文書資料として残されているT4作戦のヒトラーの命令書(承認書)は簡素なものだった)だと思うのだけど、ホロコースト否定派はそんなコマケェ話は気にも留めない。命令書が存在していないのだから、ナチスドイツのユダヤ人絶滅など作り話に違いない!、という鬼の首なのである。
しかし、そこには書いてないが(何故それを書かないのかわからないが)、歴史家のほとんどは「ヒトラーによる命令は口頭でなされたのであろう」と考えている。詳しくはここでは書かないが、それなりに間接的な証拠がいくつか存在するからだ。ヒトラー自身が強烈な反ユダヤ主義者だったことを否定する研究者は存在しない。それは修正主義者ですら認めている(アホなネット否定派の中には認めない人もいるが)。ナチ党自身が反ユダヤ主義者の集まりであった。「ユダヤ人を殺す」とする趣旨の記述を持つ当時のドイツ文書は腐るほどあるのである。例えば、リトアニアでユダヤ人を殺しまくっていた親衛隊将校によるイェーガー報告書という文書を読んでみるといい。そこには「ユダヤ人を全員殺したかった」とさえ書いてある(全員はその地域の労働力の保存の意味で殺せなかったから不満を言っているのである)。それら諸々の記録などを調べていたら、ヒトラーの命令がなかったことは非常に考え難いのだ。
ともかく、日本語Wikipediaのニュルンベルク裁判に関する以降の記述項目もほぼ全て、ホロコースト否定派・修正主義者による記述だと断定していいだろう。ニュルンベルク裁判についての解説として、まともなのは記事の前半くらいなのだ。それが、履歴を多少確認する限り、かなり以前から放置されてきたようなのだ。日本人はニュルンベルク裁判などほとんど関心がないからだろうか?
私自身は、このニュルンベルク裁判を大幅に書き換えるほどの知見はまだ持ってない(細かいことなら可能ではあるが…)し、他のホロコースト関連記事で多少活動している程度である。それらの他の記事でも、実際のところホロコースト否定派と思しき奴らの記述は散見されるし、しかも奴らの記述をあまりにも大幅に書き換えたり、あるいは削除したりすると「削除しないでください!」と履歴欄でクレームをくらうことは頻繁だし、最悪な時は編集合戦と認められて、保護状態にされてしまったことすらある。Wikipediaは厄介で、敵対する相手とも共同編集せざるを得ないため、とんでもなく面倒なのである。しかも、ホロコースト否定に対抗する場合、「要出典」とならないように、可能な限り出典を明示するべきなのだけれど、日本語圏では壊滅的にホロコースト文献を得るのは至難の業なのである。どうにかこうにか、若干の日本語文献と、ネット上の文献を駆使してはいるが、とにかく図書館に行っても、適切な文献を見つけることは困難なのである。稀に洋書を見つけることはあるけれど、そもそもすらすらとは読めない…。
ところが、否定派の連中ときたら、平然とその出典部分を修正主義者のサイトから持ってくるのである。有名なのは、歴史修正主義研究会で、こちらには大量の欧米の修正主義者による論文の日本語訳が公開されていて便利なのだ。そして、もう少し知恵の働く修正主義者はこの歴史修正主義研究会のサイトを経由して、欧米の修正主義者サイトにある資料を典拠としたりする。あるいは酷い人になると、どこの誰が作ったのかもよくわからない怪しげな歴史修正主義者のサイトにある記述を出典とする人もいて、Wikipediaのガイドラインなんざガン無視していることすらある。
多分、語圏の広い英語版だと、修正主義者よりはるかにそれに反対する人たちが多いからなのだと思うけど、英語版のホロコースト関連記事ではほぼそんなことにはなってない。英語版で修正主義者の記述を見つけることはほぼ全くないと言っていい。しかし、日本では以上の有様なのだ。私はここ増田で何度も「日本にもホロコースト否定派は多い」と言ってきたと思うのだけれど、それを問題に思う人も少ないのかもしれない。実際、ホロコースト否定の日本のネット上での存在を知って、ホロコースト否定論への反論がほぼ日本語では存在していないことを知ったから、数年前から、主に海外の記事を翻訳してnoteを通じて公開してきた。
勝手に翻訳公開するのは著作権がどうのと言われたこともあるが、人力でAI翻訳しているだけとでも思って欲しい。私の翻訳がしばしばハルシネーションを起こしているのは私が生身のAIである証拠だ(笑)
誰か手伝って欲しいという気持ちは正直なところだし、ここ数年、大量のネット上の海外記事を翻訳し続けてきたし、それら記事に辿り着く人もそこそこ増えてはいるようだし、最近はもういいかなとも思い始めてはいる。結局、多数の賛同を得られないのであれば、それはそれでしょうがないかなという気もしている。ネット上の否定派たちは、私からみる限り、どこからでも湧いてくるように増殖する、ように見える。正直、キリがない。一応趣味でもあるから、完全に辞めることはないとは思うけど、ともかく、どうしてこんなにデマに弱い人が多いのか、よくわからない。
「オマエモナー」と言われるかもしれないが。
https://anond.hatelabo.jp/20240619014605
本文)
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
(追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。
tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。
すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれた修正主義はその後、ソ連や中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点や政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。
つまり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態だからな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。
(/追記2)
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質は正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
コカ・コーラがそれを通してどんな主張をしたかったのかは分からないけどさ、歴史を変えることは一切不可能だってことは気づいてる?
白人共がズカズカとアメリカ大陸を侵略し、病気を持ち込んでインカ帝国を滅ぼしたり、大量の黒人を奴隷にしたり、インディアンの土地を奪ったり、自分たちの文化侵略を聖戦の如く美化したり、黒人奴隷を持つ権利を主張したり、そういった歴史は1ミリも変わらないだろ?
もう一度言うけど、起こってしまった歴史は変えられないんだから、それを描写することに何の問題もないと思うけど?
同時に、「これは歴史の正確な再現です」と語っているわけでもないなら、侵略されたインディアンも最高に幸せそうだったぜヒャッホー!!!みたいな描写をしたってそれは別に否定されるようなことじゃないんじゃなの?
そもそも、インディアンを類人猿の如く描いている時点でこれはアメリカの話ではないのでは?
たとえばセンチネル島のような何処かにまだ類人猿が住んでいる島があったとして、そこに人類史の偉人が降り立ちコカ・コーラを広めたのだ!みたいな空想の物語なのでは?
そういった空想でさえ駄目ならあらゆる文化を広める行為が侵略であり悪となるのでは?
何度でも言うが、起こった事実は変えられないし、あの映像が「これが歴史の真実である」と語ってなんていない。
既に起きてしまった歴史を材料として、コカ・コーラの素晴らしい文化で人類社会を侵略してやろうというコーラみたいに真っ黒い情熱を描き出したPVであって、それを利用して何らかの政治的主張をしようって意図は一切ないでしょ?
「コーラを飲んだことがまだないだって!?それは君、類人猿と変わらないよ?何世紀も止まっていた時間の針を盛大に動かそうじゃないか、Mr.ミラクル・ワールド ブッシュマン!!!」
陸自「沖縄戦は善戦した」 幹部候補の教育方針に 住民被害に触れず識者が批判 市民団体の開示請求で判明
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1373064
この記事について。アホみたいなブコメが並んでるので、元陸上自衛官の増田が、沖縄戦を善戦と考える陸上自衛隊の考え方を説明するね。
なお、増田は元陸上自衛官だけど、政治的にはリベラル寄りで歴史修正主義や戦前の美化には反対の立場だよ。
軍隊というのは、一つ前の戦争に備えるという習性があるって言われているし、まあ、どんな仕事でも普通にやってるとそうなる。
陸上自衛隊で言えば、太平洋戦争(島嶼戦)と日中戦争。で、日中戦争はゲリラ狩りの治安戦と、弱い中国軍閥相手の無双みたいな感じで、(侵略戦争しない限りは)あんまり参考にならない。
太平洋戦争の島嶼戦はというと、陸軍は敵上陸直後の脆弱な状態を狙っての水際撃破を狙ってたんだけど、これは艦砲射撃や戦車揚陸艦艇などの存在でさっぱり上手くいかなかったもんですな。あと、(クソ役立たずの海軍のせいで)海上交通路が絶たれて餓死というのが多かったけど、まあ論外。
で、逆に、うまくいったパティーンが、ペリリュー、硫黄島、沖縄で、これは堅固な築城による陣地を構築し、艦砲射撃や爆撃を無効化、寄せてくる敵は緊密に連携した陣地で削り倒して遅退するってやつなんですが、めちゃくちゃ上手くいった。例えば、圧倒的に優勢な敵に対して、嘉数高地とかで善戦しまくったわけです。あ、湾岸戦争の73イースティングの戦いでイラク軍が似たような反斜面陣地やろうとしたけど、うまくいかなかったみたいです。まあ、準備不足だったし砂漠だからムズいよね。
ただまあ、これは、戦略的に見れば防衛、時間稼ぎにしかならんかったわけですが。
で、戦後。
わーくには、専守防衛という政策を取るようにしました。その結果、軍事的には本土決戦しかないということになりました。
海上自衛隊と航空自衛隊がいるじゃないかという向きもあろうかと思いますが、空自さんは開戦初期に無力化されます。だって、空港もレーダーサイトもバレバレなんだもん。ミサイルなどのスタンドオフ攻撃やゲリコマで臨終です。で、海自は航空優勢が無い場所で動けないので役に立ちません。だから、陸上自衛隊は、空自さんが空港を復旧させて、移動警戒隊を展開して、敵の航空戦力が疲弊するまでの間、あるいは米軍が助けに来てくれるまでの間、航空優勢が無く、兵力に劣る中で、本土決戦の地の利を生かして、なんとか粘れってことになります。
そんなわけで、陸上自衛隊は冷戦期において、沖縄戦を範にとるドクトリンを考え、そのための準備を営々と積み上げてきたわけでありんす。音威子府で2師団は壊滅する予定でしたが、師団長自決予定地が決まってるという冗談があったぐらいです。
そんで、国民の皆々様におかれては、専守防衛という政策を取り、かつノーガード戦法ではなく自衛隊を設置している以上、当然に本土決戦を覚悟しているはずで、屍山血河でキルレシオ100対1でも徹底抗戦してくれるはずなんですよね。
それは嫌だっていうなら、ノーガード戦法でどっかの国の庇護下(なお、侵略者は平和主義byクラウゼヴィッツなのでなんでも言うことを聞く必要があり)に入るしかないっすね。ワシはリベラルだから独裁中共はいやだけどね。
だーかーらー、国民にはノーガード戦法でも対外侵略でも「専守防衛=本土決戦」以外のオプションは自由にあるの。主権者サマなんだからさぁ。
公のしもべは、プロフェッショナルとして与えられた条件で最適解を求めるだけなの。というか、それ以外を考えてはいけないの。ましてや、政治的決断について実力組織が考えるなんてもっての外なの。だから、大モルトケの言う「いいえ、ただ私は軍事上の問題のみ気にかけているのです」って回答しかできないよーん。嫌なら防衛省設置法を廃止すりゃいいんですよ。