はてなキーワード: 永劫回帰とは
すべての若者は、本当のことをわかっている。すべての若者は自分に世界を変える使命があり、すべてから学びたいと願っている。多くの若者が集い、淘汰圧をかけている場所では適正な競争原理が働き、生き残ったものは『本物』である。
私にとってそれは、週刊少年ジャンプと初音ミクだった。しかしそれらはそろそろ、自壊を始めるのかもしれない。その前兆はうろんミラージュとピノキオピーにあるし、あるいは前衛アートとハリウッド映画がその加速の最前線にある。
とびきりの雑語りを今から俺が見せてやる。俺が間違っていると思うなら具体的に反論してみろ!暇なら、全部回答してやっても構わないから。どっからでもかかってこいや、クソボケ共!
追記①基本的に西洋式のテキスト解釈による教理論争やら解釈バトル、批評といった行為は基本的に神学や哲学の伝統と地続きにあるものです。wikiや新書でシェイクスピアあたりを勉強してください。
三位一体について、短文においては【キリスト教において 父 子 霊 の三つが「一体」であるとする教え】と表すことができます。そして、これで十分なのです。これ以上、言葉で解明しようとする取り組みは不敬で、異端認定を受けるからです。異端認定はキリスト教が力を担っていた世界では莫大な力を持っていましたし、グノーシスやら異端認定は棄教・死・地獄での永劫の苦しみへと地続きの大罪でした。キリスト教神学では、三位一体として理解されます。「父と子と聖霊は、神の三つの様式でしかない」「神が三役をしている」といった考え(様態論)も初期に退けられていたので、別の言い方を捏ね上げる必要に人々は駆られていました。
【言い方を捏ね上げる】という作業に(神学者のみならず)知識人は夢中になっているのではないか?という大衆からの疑問がありますが、ある程度正しくてある程度間違いです。色んな人がいて現実は複雑だからですね。
インド神話には三神一体の思想がありました。ニーチェはこれらを連結して一つとし、永劫回帰という神話理論を作り上げました。マルクス経済学や進歩史観の、神話版みたいなものです。神話学者としてのニーチェは理想化で、神話はいつか現実として実現されるものであれ!という祈りによってこの理論が建築されたのです。神を殺した私達は、人間であることを超える、超人を目指すことを神を崇めるかわりの目標にしなければならない。
社会を人の生きる世界であり神だとみなす傾向のある政治的理想家は、常に『社会を最善の世界として完成しなければならない』というモチベーションに駆られています。この理想を打ち砕く現実には色々な視座を考えられます。【資源は有限】【時間と場所がある】【自分は人間で、いつか死ぬ】【子供を育てなければ社会は維持できない】【恋愛は家父長制が前提なのだから、誤った過去の遺物じゃないの?】あたりが自分の気にかかっているので、掘り下げる予定です。
追記②
特撮というか、仮面ライダーが現実に追いついたので大変みたいですね。エヴァを男の子の世界、ウテナを女の子の世界としてセカイ系が家族の絶対神聖視に繋がるまでの物語論をニーチェと混ぜながら一席ぶちたいと思っています。
ボクサーを撲殺したのは僕さ
これから満で数つけるわ
ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ
新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼し信管が作動する。
ケニアに行ったら生贄や
柑橘類の香りに歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。
塗装を落とそうか。
観光客がフイルムに感光させた写真を刊行することが慣行になった。
サボってサボタージュ
景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)
夫を成敗するオットセイ
つまらない妻の話
竹の丈は高ぇなー
餅を用いて持ち上げる
ロストしたローストビーフ
サボテンの植え替えサボってんな
過度な稼働は可動範囲を狭める
伯爵が博士の拍手に拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人を白紙にもどす。
紅葉を見て高揚する
甲子園で講師をする公私混同した孔子の実力行使には格子窓も耐えられない。
死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」
夜祭で野菜を食べる。
信玄餅を食べながら震源を特定するように進言する新元素を発見した人。
蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ
五反田で地団駄を踏む
ようやく要約が終わった
海溝で邂逅
豪華な業
甲板で甲板をかじる
甲板で乾パンをかじる
店頭で転倒
大枚をはたいてタイ米を買う
醤油をかける人「えっっ?」
神田でした噛んだ
少食な小職
牛の胆嚢の味を堪能する
あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。
キーンという高音の起因が掴めない。
こんな誤謬は秒でわかるだろ
壊疽した箇所が治るというのは絵空事だ
経口補酔液
痴的好奇心
セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ
軽微な警備
冬眠する島民
ベットは別途用意してください
The deserted desert in desert desert.
九尾のキュービズム
罹災者へのリサイタル
画家の画架
不納が富農になるのは不能だ
理工がRICOHに利口な履行
I sensed tha it is in a sense sense.
私はそれをある面では扇子だと感じた。
鯖を食べている人と、それを見ている人の会話
鯖 ça va?
ça va 鯖
ça va
ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない
早漏で候
凪に難儀
東上線に搭乗した東條が登場
高校を後攻で煌々と口腔で孝行
蝉が転んでセミコロン
道徳をどう説く
写真はフォトんど撮りません
ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」
華美な花瓶のカビに過敏に反応
檻に入っておりいった話をする
夏のおサマー
夜は寝ナイト
渦中のカチューム
渦中のカチューシャ
リスボンでリスがborn
どうないはどないなってんねん
苫小牧でてんてこ舞い
市内を復旧しないと
石狩の石を借りる
おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」
砂がどしゃーw
東上線に登場した東條が登場
飽きない商い
おなか吹田市
観劇で感激する
側転に挑戦し即、転倒
別件を瞥見
凹地のお家
魚を初めてみた人「うぉー」
カラヤンの頭の空やーんw
豚をぶった仏陀
只見線をタダ見w
菊名でそんなこと聞くなよ
五秒で死んで御廟に埋葬
がらんとした伽藍
有給を使いすぎて悠久の時が流れた
長谷に想いを馳せる
Thinkerの真価
不具の河豚
暗記のanxious
半世紀にわたる半生での藩政を反省
タンチョウが単調増加
ショック死内親王w
カルカッタの石軽かった
天皇のこと知ってんのー
蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する
其方のソナタ
先王に洗脳される
防潮堤で膨張した傍聴人
砂漠で鯖食う鯖を裁く
筒に入った膵島
サイコロを使った心理テスト(psychological test)
カラシニコフが辛子個踏んだ
皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂
にようかで酔うか?
うるさい人が売るサイ
どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人
透徹した饕餮の眼球
チャカで茶菓を破壊
slimyなすり身
ゆうほど広くない遊歩道
いにしえのイニシエーション
コーランをご高覧ください
K殻の傾角を測定する計画
協賛した共産党員に強酸をかける
負けたのは聖者の静寂のせいじゃ
裏地見るウラジミール
カミオカンデの上に紙置かんでw
県大会がおわり倦怠感を感じる
夕暮れのユーグレナ
ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm(公務)」
エド・はるみの穢
祭壇を裁断
腐卵ダースの犬
全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」
四苦fuck
都バスが人を跳ね飛ばす
怒るカロテン「なにカロテンねん」
嫌がる慰安婦「いやんっ」
かえるがえる帰る蛙
沈厳な青梗菜
トリコロールの虜
布陣を組む夫人
栗けっとばすクリケット🦗
婉容と遠洋漁業
アマルガムで余るガム
ハラスメントの疑いを晴らす
滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない
他意はないタイ人の鯛の態度
鯛が蛇足
ダジャレではない↑
割と面白い
ハラッパーの原っぱ
紫に関して思案を巡らす
Huluが夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流)
下調べのムニエル
わからないので
意味ない諱
よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」
どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」
計算ができない人
着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」
enough、enoughは工夫がenough
負け負け山(カチカチ山)
薬師丸せま子
トーマス・マンの書いたふるさと「うさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」
その心は
焼結が猖獗を極める
これはstaleだから捨てるか
衒学的な弦楽を減額
完全な勧善懲悪
イボ人の疣痔
イブに慰撫
(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)
盲いるのに飯いるの?
アーヘンで阿片を吸った人「あー変」
毒吐く独白
明借りるアスカリ(車)
丁寧な砂浜「Could you九里浜」
ゴーンと奉公
その心は
サンクチュアリに山窟あり
熟れたウレタンは売れたんか?
清澄な声調を静聴し成長
プエルトリコで増える虜
象さんを増産
兄弟が今die
Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす
ソフィカルのソロカル
美人局に筒持たせる
十把一絡あげ
篤信な特進が涜神を得心
これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。
クートゥを食うとぅいいよ
マイソールで昧爽に埋葬
ドクサは毒さ
暗殺で朝死んだ
クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」
凛々しいリリシズム
衛生的な俳人
御髪も亂とはオクシモロンだ
コロナ後の世界を分析する学問→postcoronialism
影響が色濃いイロコイ諸族
あてのあてないアテナイ
ツァラトゥストラの説話の中で精神の三段の変化が述べられる。重荷を背負って砂漠をあゆむ駱駝に始まり、獅子、そして幼児という変化ある。キューブックの2001年宇宙の旅でも、冒頭でツァラトゥストラが流れ、宇宙船の船長が幼児になって終わるので、ニーチェの作品を意識していることは間違いない。では駱駝は類人猿に、獅子は人間に代表されることになる。ではあのモノリスは?三段の変化の章で「だが、この上もなく孤独な砂漠で、今や第二の変化が起こる。精神はここで獅子となる。」と述べられ駱駝が獅子に変化するのだが、特にモノリスのような重要なきっかけは登場しない。キューブリックはシャイニングでも永劫回帰を示唆するなどニーチェの思想を取り入れているように思えるが、この映画自体はサイエンス・フィクションなので、厳密にニーチェの議論を反映しているわけではなさそうだ。ニーチェの思想が示唆されいる作品には、存在の耐えられない軽さやサタン・タンゴがあるが、どれもその思想を取り入れたはいいものの、よくわからない作品になっている。謎を孕んだ哲学書を題材にすることで、作品に深みを出そうとしているのかもしれない。
私は自分の方が少しでも優れている部分があると、自分より少しでも優れていないものへの怒りがおさえられなくなり、攻撃したくなってしまう。
それは、私が過去にいじめられたのを自分が底辺の劣った人間だからだ、という理由で納得させていたからだ。
しかし、劣った人間ではない、と思い込もうとすると世界の理不尽に耐えきれなくなるのでどうすればよいのか長年わからなかった。
同じような、世の中の理不尽を受け入れられない状況にいる人達のヒントになるといいなーと思ってこの文章を書く。
たぶん多くの人はこれに気付いているし、わざわざいうこともないから誰も言わないのだと思うが、私のような馬鹿は一生これに気づかず苦しみながら人生を終えることもあるかもしれないので、わざわざ言語化してみる。
いやたぶん人間は多かれ少なかれみなそうだと思う。
災害とかが起こって人が死んだり、飢えで苦しんだりするたびに、そのことを運が悪かったのだと自分を納得させることができなくて、神への崇拝が足りないんだ、とかって納得させるために宗教とか生まれたんじゃないかなあと思うし。
でも、今日読んだ本に書いてあったのだけど、世界って人間には操れないカオスなんだって。
いや薄々気づいてはいたけど、気づかないようにしてた。
そして、その自分の作った法則は実際には世界に法則なんかなくてカオスなので、歪みがうまれて自分のことをがんじがらめにしていたから上に書いた問題やそれ以外の諸問題をひきおこしていたんじゃないか?と思った。また、それって多くの人がそうなんじゃないか?とも思った。
例えば、どこの国か忘れたんだけど、黒人差別のひどい国では、白人が黒人の愛人との子供を可愛がる一方で、それとよく似た姿をした黒人奴隷は自分の大便を食わせたり、鞭で容赦なく叩いたりする、という理不尽があった。その理不尽を運が悪かったのだ、ということだけでは納得できず、いつしか黒人自身に少しでも肌が白いものは優れていて、少しでも肌が黒い劣った者を差別していい、という価値観をうみだし、黒人自身がそれより少しでも肌の黒い黒人を差別するようになったそうだ。
ネットの弱者叩きもそうじゃないかな、と思う。公正世界仮説と呼ばれているけど、世界はカオスだということを受け入れられず、世界は罪を犯したものにそれに値する罰を与えるという法則がある、と自分に言い聞かせているので、実際には世界はカオスで弱者には何の罪もないのにも関わらず、その法則にしたがって弱者を攻撃してしまう。
つまり、世界がカオスであるということを受け入れなければ、人間は幸福にはなれないのではなかろうか。
しかし、世界がカオスであるということを受け入れるだけでは、人間は生きる意味を見失ってしまう。
世の中は理不尽なんだから、何かをやってもすぐに失ってしまう。だから、なにもせず、世界のカオスに押し流されるまま生きて、死ぬのをひたすら待とう、しかしそれって生きる意味なんかあるんだろうか、と考えてしまう者たちがいる。たぶん、多くの人はそれに気づかないように適度に麻薬を与えマヒさせながら生きているのではないだろうか。そしてそれがうまくできない人が生きる意味を見失ってしまうんじゃないだろうか。
だから、人生を肯定するということは世界がカオスであるということを受け入れた上で、それでも自分の人生をコントロールすることを試み続けるという矛盾を繰り返すことなんじゃないだろうか。
頭が悪いので全然違うかもしれないけど、ニーチェの永劫回帰とか超人とかいう考え方もこれに通じるのではないかな~と個人的には思っている。
自分は何事にも理由や法則を求めてしまう愚かな人間なので、自分を世の中が提案するマヒの方法でマヒさせながら生きることができない。上記のような考察をしないと生きられない。
この文章は同じようなマヒさせながら生きることもできずどうすればよいのかわからなくなっているバカに、
まあとりあえず私は、世界がカオスな大海原であるということを受け入れた上で、なんとか自分の持っている船をこいで、何度も押し戻されてひどい目にあいながら、それでも行きたい場所を目指したいと思っている。そういう風に生を解釈してみてはどうだろうか、というマヒのさせ方を提案するものである。
少しでも私のような馬鹿が生きるのが楽になることを願う。
このところ永劫回帰のようにエロ表現における争いが繰り返され、オタクとフェミニストのラグナロクは永遠につづくかのようにおもえる。
これだけやりあっていれば普通はたしょうなりとも相互理解というものが生まれるものであるけれども、それはリアルな論戦の話なのであって、不特定多数が不特定多数に対してやたらめっぽうに機関銃を撃ちまくるインターネット塹壕戦ではただ人が死ぬだけであり、平和条約は結ばれず、ただ人が死ぬだけであり、憎しみは連鎖し、ただ人が死ぬだけである。
毎日がソンムの戦いだ。
オタクとフェミニストはそもそも互いに互いを認識しているのだろうか?
フェミニストが「えっちなのは子どもによくない」と言い、オタクを宮崎勤と池田小のやつとエド・ゲインを足してニで割ったような怪物として罵る。
オタクは「表現規制をするな」と言い、フェミニストを権力によって表現の自由を、人間の尊厳を奪うヒトラーの再来として恐懼する。
彼らにはそれぞれ「何」が見えているのだろうか。
1950年代にPTAが中心となって展開されたマンガに対するバッシング運動だ。
暴力的な表現、子どもの情操に悪そうな表現はこどもに見せるべきでない、というスローガンのもとに当時芽吹きつつあった劇画や手塚治虫などを中心として爛熟しつつあったマンガ文化に打撃を与えた。
これによってオタクたちはDNAレベルで、「(残酷だったり過激だったりする)マンガを『わるいもの』として非難するのは保守派のファシストのおばさんたち」という了解が植え付けられたのだ。
なぜ戦争を二十年で忘れることのできた民族が六十年前の、教科書にも載っていない出来事を記憶しているのかといえば、それは語り部が優秀だったからだ。
悪書追放のやり玉にあがった漫画家たちはのちに大御所となって「漫画文化の立役者」として官民両方から賞賛される身分を獲得しても、悲惨な迫害を忘れなかった。
彼らはそのときの体験をエッセイ漫画にしたり、ことあるごとにマンガのネタに織り込んだ。
そういうものを読んだ後進の世代は「今は平和にマンガを享受できている国なのに、過去にはこんな悲惨なできごとがあったんだ!」とショックを受け、苦難の記憶を継承し、そのうち漫画家となった人々は「マンガや表現を悪と呼ぶわからずやな大人」たちを戯画化して描き続けた。先人たちを見舞った悲劇を繰り返してはならない。そう彼らは叫び続けた。
悪書追放運動の記憶の継承は、歴史上のあらゆるトラウマ継承運動のなかでも最も成功した部類に入る。それはオタクが長らく被差別民だった(と少なくとも自分たちでは認識していた)せいもあるだろう。
そういうわけで、マンガの守護者たちの末裔たちは今でも各所に見ることができる。ちょっと前にもあったよね。ほら、『マンホール』描いた人の……なんだっけ、なんとか都市ってやつ。
さて、戦争から七十年も経てば、各国家における仮想敵も大きく変わるものだ。アメリカがWWIIでは影の薄かった中東を主戦場とするようになって久しいし、そのアメリカとかつて世界を二分したソ連は国ごと崩壊してしまった。
だがオタクたちはずっと敵は「既存の道徳にしばりつけられた保守的で道徳的なガミガミおばさん」のままだと思い込んでいる。自分たちの敵はヒトラーであると叫び続けている。
「反表現規制」の旗のもとに団結しているオタクたちに比べて、そもそも男性と男性社会そのものを憎悪してやまないミサンドリストからオタクとの対話を求める層までほとんど分裂状態の様相を呈していて、
そうなったときにクローズアップされがちなのはラディカルな発言だ。
しかしオタク側が言い募るように彼女たちは「こどもたちを歪ませる」表現を憎んでいるのではない。
日本にかぎった話でもないかもしれないが、マスメディアやサブカルチャーにおける性的(エロという意味に限定されない)表現や言説は男性中心的な傾向が強い。
ふた昔前はテレビで女性がおっぱいをエロティックに晒すなんてのはゴールデンタイムにすらみかけられたし、
そこまで過激なものでなくとも、女性に対するセクハラめいた言動が「ジョーク」として受容される環境があった。
それはジャンプなどの漫画メディアにあっても同様で、男性読者からは「問題ない」描写、ジョークとしてスルーされる描写であっても、そこに女性に対する男性的な欲望、ひいては暴力を読み取る多感な少女は数多い。
そういうものがある種の社会に対する不信となって根強く彼女たちの底に残る。
男は言う。いや、あの程度の表現で傷つくのはあまりにか弱すぎるだろう。自意識が過剰すぎるのでは? たんなる一過性のメンヘラでは?
少女たちはテレビやマンガを消費するには、あまりにもセンシティブすぎるのだろうか?
一面にはそれもあるかもしれない。しかし、傷つきやすすぎることとの何が問題なのか?
刃のついた表現が現実に存在し、それで傷つけられる肌が現実にある。
何も知らない無垢な肌が刃に触れたときに血が出るのだとして、たしかに近づいてきたのは肌のほうかもしれないが、刃の危険性も知らないものにあらかじめ避けておけばと非難するほうもどうかしている、根本的に事故を防ぐためには刃のほうを鈍らせておけばいいのでは? 自動車会社などはそうやって事故を軽減しようとつとめているだろう?
私たちは次の世代を「正しく」育てようとは思わない、ただ、不慮の事故から守りたいだけだ。
傷つきたくないこと。傷つきたくないこと。
そういう意味では、オタクが表現規制運動の歴史を語りつぐことと少し似ている。
フェミニストの場合はあまりに内部で混乱しすぎていて、個別の問題の何が問題であるのか、その問題をどう解決していくべきなのかで定義の統一がはかれていないことだ。
これは攻める側の弱さでもある。
守る方は現状を維持しさえすればよく、つまりは「表現規制反対」に各員の意志を集約させればよい。
だが、フェミニスト側は具体的に個別の問題のどこをどういった理由でどう修正していけばよいのかまでを提示しなければならず、これに関する意見を調整出来ない場合、もっとも極端な意見ーーすなわちオタクたちが最も恐れる「全面的な表現規制」が対立を煽る人々によってショーアップされてしまう。
そうなってしまえば、あとは殺し合うだけだ。
彼らはお互いに敵を「保守派」として捉えている。
オタクの眼に映るフェミニストは「道徳を重んじて表現を認めないファシストガミガミおばさん」
フェミニストの眼に映るオタクは「男性社会の無思慮な暴力を肯定しつづけるレイピストクソ野郎」
ここでは、もはや誰が敵か味方かもわからない。
もしかしたら、敵も味方もいないのかもしれない。
無限の時間があれば無限の道を通ることができる。それは自明のことであり、そこから言えることはなにか、それは世界のバランスの理由であり、生命の誕生であり、永劫回帰の証明である。
時間に始まりがあれば終わりがある。そして始まりと終わりの間がある。始まりと終わりの間が「時間」でないのであれば、始まりと終わりは時間的に接続される。
時間が発生した理由があるなら、時間が終わった瞬間に、かならず次の時間が発生する理由が生まれ、また次の時間が始まる。
いま、時間があるのであれば、時間が始まった理由は必ず存在し、時間は始まりと終わりを繰り返す。もしくは時間は終わることなく永遠に続く。
生命が生まれる確率は10の230乗分の1であり、宇宙の生まれた時間から考えるに生命は(神の存在なしに)生まれえないとの説がある。
しかし、無限の時間があれば無限の可能性がある。確率はもう意味をなさない。
進化について理由を求める人々がいる。原子生物が猿になり人間になるには進化論では説明がつかない。地球の生まれた時間から考えるに進化は(神の存在なしに)考えられない。
しかし、無限の時間があれば無限の可能性がある。世界を認識する「人間」が存在するまで無限の時間が繰り返され、無限の宇宙が生まれ、無限の生命が誕生したのだ。
無限の時間があるのであれば、無限の道を通り、無限に宇宙を繰り返す。
「私」の想像する、そして想像しない、あらゆる世界が繰り返される。
私の人生とほぼ同じ人生。ただ一度、一言だけ発する言葉が違う人生。
実現しなかったあらゆる「もしも」。それらは無限の宇宙で実現される。
人生におけるあらゆる選択は無意味であり、あらゆる道はすべて通っている。そして無限に繰り返し通ることになる。
→ワックなはてなーのdisに神さんマジ激おこ「まだ死んでねえっつの!!」
→ニーチェにバトルをふっかける
ニーチェ「いやー負ける気? がしないっスね。もう終わりでしょ正直神とか。前世紀が全盛期だったでしょ。今日は調子いいですわ。全身が口になったみたいな、断崖の高みから落ちる渓流の轟みたいな感じ。はやく俺のフロウを谷へ向かって流し落としてえ気分でーす」
神 a.k.a. Shit する God「人類? 最近頑張ってじゃないんですか(笑)。でも、まだちょっと、ちょっとまだねえ。譲れないでしょ。チャンピオンの座は」
M.C. Leo PP. XIII「さあ、Big. G.G ことガリレオ・ガリレイやマルティン・”シスマ”・ルター以来のビッグなマッチアップがやってきたぜ! ニーチェ vs 神! 果たして神は死んだのか!? それとも死なないのか!? さっそくはじめるぜ、DJ Shit-ダールダ! ギミアビーーーーッ!」
(チェケチェケチェケバウ♪)
どうみてもおまえ Wimp なバットマン
勝てるわけねえじゃん おれはクリプトン
負けるわけねえじゃん おれのスクプリト
かつて神をdisった俺たち
死んでくれて良かったな思うし
全力つくして行くぜ善悪の彼岸!」
神
「そう僻むなよ スーパー メーン!
見下げたやつだぜ ルサンチ メーン!
殺されるわけない オレの神学
降伏するならいまのうちだぜ
勝手に使うなヨソのザラシュトラ
ゾロアスター に頼ったところで
返却なんかしないぜ今夜かぎりで負債は
あれかこれかで悩むならよしな
身過ぎ世過ぎで死屍累々のこの世で
いつか掴むぜ獅子の声を Mein に
カインの末裔なら上等なんだ だったら
神
欠けたブルース・ウィリスだな
それに引き換えオレはダイ・ハード
ぜったい死なねえマジハートフルに
祝うんだ毎年のクリスマス of my child
俺たちいつでも Homie 三位一体だ
だけど おまえ次第だ 忘れんな
してやってんだ Say So Still God’s not Dead!」
という思想がある。
宇宙の物質が有限なら、宇宙の物質は超長期では、同じ物質の位置を同じ物質が占める。 ということが起こるだろう。
そうすると、私たちが、今死んだとして、また超長い年月を経たあと、私たちはまたこの物質構成をやりなおす。 つまり、宇宙は延々繰り返されているのだ。
という思想です。
これ、ニーチェはどのくらいガチで言っていたでしょうか? ガチで言っていました。
ニーチェは物理にまったく造詣が無く、完全に勘違いしていた。 というのは現在示されています。
ニーチェはこの思想に震えたのですが、これを受け入れる方がいいなと感じました。
宇宙が循環するように、また人間の理性も循環すると捕えました。
「生きるために働く」→「働くことでお金を得る」→「お金を得ることで生きられる」→「生きるために働く」→。。。。
というように、ループせざるを得ないわけです。
もちろん、これにもループ脱出の答えがちゃんとあって、それが、「神」です。 神を原点に置けば、人間の理性を循環なしに理由つけられます。
花が美しいのは、神がそうしているから。 人間が働くのは神がそうしているから。
ととらえる発想です。
これを否定したいとニーチェは思いました。
なぜ神を否定できるのか、「宇宙は循環しているから」とニーチェは考えました。
ガチで信じていました。
ただ、本の中では、「う~ん、、、でも本当かなあ」とも書いています。
書いていますが、上記のようにニーチェの思想は完全にこのことをもとにしないと、「神は死んだ」とならないわけです。
ならないのですし、彼自身物理に詳しくなかったので、あいまいなまま、ガチで狂信していました。
というのは、ジル・ドゥルーズの論争からはっきりしているのですが。
このあたりのあいまいさと狂信を理解できない人が多くてびっくりする。
不可能だと思います。
特に哲学においては、著者が創造的なほど、学問的に整備がなされるまでは理解できません。
何らかの数学的証明がなされたとして。その近縁の諸事象が証明されて学問的にはっきりとした一分野として成立するまでは、意味が確定できないからです。
その人の言っていることの、だいたいは正しいとわかりますが、細部や例外など、様々な整備がなされないうちは、学問の1つとはとらえられません。
そして、ニーチェの永劫回帰は、物理的な意味は否定されますが、思想は正当だと現在とらえられています。
ニーチェ自身の主著の中での、永劫回帰の蓋然性の取り扱い自体は、ニーチェが書いていたとしても、近縁の研究が否定しています。
これが理解できずに、「ニーチェの主著を読んだから俺はニーチェをわかる」というのはおかしく、「ニーチェの研究まで含めて理解している」という状態で、はじめてニーチェを語れるわけです。
<追記>
自分も間違っていることもあるかもしれません。
遠慮なくたたいてもらっていいです。