はてなキーワード: 美的とは
しかし一向にできない。おかしいなとも思いつつどこかで機会や出会いがあるのだろうと思っていた。
そんなこんなでもう四年目。就活もそろそろあり、このまま社会人になったら自分は一生童貞でしかも孤独に死ぬ未来予想図がありありと見える。
夏休みになってマッチングアプリというものを始めてみた。結果的に現在はマッチングアプリを9個やっている。
自分は身長165cm、顔は下の下でないことを祈りたいくらいの塩顔。髪型は短髪で体型はいわゆる普通体型。大学もまあまあ名前が知れてるし、自己評価としては好物件ではないが悪くはないだろうくらいに思っていた。
男はマッチングアプリで課金をしないとメッセージもできないということを知り、4000円近くの金を突っ込んで始めた。
そしてマッチングアプリを始めて1ヶ月、誰一人としてマッチしない。世界から否定され、自分の無価値を世界が認めたような気分だ。最悪だ。
マッチングアプリには足跡という機能がある。これは誰が自分のプロフィールまできたかわかる機能だ。1ヶ月で100人くらいはプロフィールを見に来ているようだ。
つまりケーキ屋で言えば店内入ってきてショーケースまで見てそこで帰ってる客が100人いる。自分がパティシエだったらコック帽をおいているだろう。
何が辛いかというと足跡があってマッチしないことが辛い。つまりわざわざ中を見るまでされ、精査された上で「お前には価値がない。魅力がない」と突きつけられているのだ。
そしてまず考えたのはアプリが悪いのではないかということ。今振り返ると別にそんなことはなかった。ただそのときは自分の価値が自分の想定より断然低く見えており現実を見えていなかった。
ということで次のアプリを始めた。結論からいうと全くもって同じ結果であった。
つまりどういうことかというと自分は完全にこのマッチングアプリという市場において無価値であるというがサンプル数2で太鼓判を押されたのである。
しかし2個ではたまたま偶然同じようなアプリを選出した可能性があると自分を鼓舞した。なので3個目のアプリに手を出したのだが結果は裏付けるサンプルが増えただけなんだ。笑えるよな。
弱者男性というものに自分が属すのではないかと不安になり、そしてそれを受け入れ始めた。
自分が使ったアプリはいわゆる恋活アプリというものであり、恋愛を目的としてアピールされているマッチングアプリである。これに対し結婚をアピールする婚活のアプリも存在する。
そして傾向としてかわいい(一般的な美的感性の美人)は恋活の方が多い。考えれば当たり前で可愛い子は別に結婚など若いうちにする必要はなく、遊びでマッチングアプリでいい男を探せばいいのだ。
これに対し婚活アプリになった場合はかわいいの平均が著しく下がる。実際の顔の美醜ではなく、写真写りが露骨に悪い。自己プロデュースが下手な女性が多いのだ。
また婚活アプリのプロフィールは20~25歳くらいだと極端に精神疾患や障害などなんらかの追加情報を持っていることが書いてあることが多い。また必ずと言っていいほど「それを理解してくれる優しい男性」を希望しているのだ。
そして自分は恋活アプリでは全くもって箸にも棒にもかからないくらい相手にされなかったのだが、婚活アプリに関して言えばまあまあ健闘できた。
理由としては写真だろう。自分はオシャレなどとは程遠い人生を送り、理系の大学でびんぞこメガネをかけた陰キャを地で行く人間だ。悪くいうのなら垢抜けず、野暮ったく、ダサいのだ。
しかし婚活アプリの市場においては相手側はいわゆる恋愛強者が少なくなるので、それらの女性の非恋愛強者(恋愛強者と恋愛弱者が排反ではない)がオシャレな男とマッチするという自己評価をしておらず、一見誠実で遊んでなさそうに見える男性を同程度またはそれ以下の相手だと考えてマッチするのだと予想した。
マッチングアプリの難しさというものは自己改善の難しさである。
当然なのだが男性は女性のプロフィールしか見えない。もちろん女性であれば男性のプロフィールしか見えない。
マッチングアプリの基本的な形式だが、男は女に選ばれる側という明らかな上下関係にある。女は選り好みしなければ男なんて掃いて捨てるほどアプローチがくるが、男は1ヶ月しても1回もアプローチも来なければ自分のアプローチが実らないこともザラなのだ。
つまり男はマッチングアプリにおいて競争環境に置かれているのだが、レースで言えば横を走っている相手を知ることができないのだ。
受験だって普通は他の人の成績を見て自分は日本で何位で他の人より英文読解が弱いとか分析することができるのだが、マッチングアプリではそれができないのだ。
これが非常に辛かった。これでも理系のはしくれなので論理的に改善をできるなら前向きに生きることができるのだが、そのための比較ができず改善もできない中で完全な暗中模索。しかも結果は出ないのだから辛かった。
写真写りなのだが正直ここがよくないとマッチもしないので交際のスタートラインにも立てないのだということが分かった。
新宿のホストっぽい写真(なんかいかついスーツ)・スーツのビジネスマンみたいな写真・TDL背景のただの笑顔で服を女性に選んでもらったカジュアル3割フォーマル7割みたいな格好の写真・自分の普段のオタクみたいな写真の3つをそれぞれ1週間ごとで写真を変えた。
他人の写真を使うのは倫理的に憚られるのでPhotoShopで気合いでアイコラしてゴリゴリのフィルターで1枚目の写真を作成した。2枚目は大学の入学式あたりの写真を使った。
3番目はカメラマンの友達に金を払って「マジで仕事と思って頼む」といって相手が断る中で半ば無理やり金を握らせて撮ってもらった。
結果はとして受け取ったいいね(自分からいいねしていいねが返ってきてマッチしたいいねも加算してる)
0/1/2/1
1/0/4/0
これだけを見れば女性に服を選んで貰ってカメラマンに撮って貰えば改善するように見える。
ここで比較としてホストをやったこともあるイケメンの友人にお願いして同じアプリで同じようなことをしてもらった。(この友人の彼女には自分の方から謝罪と事情説明をしてOKをもらった)
ホスト風の写真/普段の写真(ファッションがわからない自分には女性に選んでもらったやつくらいオシャレ)/自分がチョイスしたださ目オタクファッション(自分の普段着)
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ここでわかるのだが結局顔なのである。身も蓋もなさすぎる気付きなのだが大きな気づきだった。
マッチングアプリは顔がよければどうにでもなる。
この結果は救われたような気すらした。所詮顔の差でしかなく、逆に言えばここがよければ改善も可能なのだ。自分は人間としてオワリなのではなく、ただ顔が良くないだけで人間的にオワリとは言い切れないということが収穫だった。
※上記実験は全て同じプロフィール、同じステータス(毎日ログイン)、同じ会員ステータス(課金)、同じ開始時期なので差は完全に写真だけなのである。またマッチングアプリには新規登録ユーザーの優遇が存在するため、自分と友人のアカウントはアカウント作成後1ヶ月放置し、そのあとに課金を始めている。
写真を以下の条件のもと、プロフの文章を長め(趣味嗜好・休日の過ごし方・恋愛遍歴などの長文)と基本的な自己紹介と挨拶だけの短めの文章(写真の実験で使用した文章)を用意した。
それぞれ1週間の実験期間であるが、この実験は写真の実験のあとに行っている。
長文 5 短文 2
長文 5 短文 4
長文 57 短文 43
長文 290 短文 238
ということで気持ち長文の方が増加傾向なのだが、写真以上のインパクトはない。しっかり書けばだいたい1.1~1.2倍程度いいねの向上が見られた。
記載の通り、この5週間で以下の成果を得られた。これはおおきな進歩だ。正直最初にいいねをもらった時は嘘じゃなく飛び上がるほど喜んだ。生きていていいんだと感じた。
驚くべき成果だ。自分は無価値だと思っていたが見せ方次第ではある程度改善が見込めるのだ。
しかも努力が反映され、これが即結果につながることが分かった。この時点で自分は完全にマッチングアプリを数値的なゲームの感覚で触れるようになった。
与えられた環境で最大点を出す努力をするのが快感になり始めた。自分はもともと資格勉強とかの結果が明白にすぐ出る努力が好きなのでこの環境で頑張ってみようと思った。
でも、ほんとの恋愛強者ってのは高校とかの時点で彼女を作って、別にマッチングアプリなんか始めずに大学生活を周囲の女子とかとディズニーとか行って惰性で付き合ったりしてるんだろうな。まあもう自分にはなれないからただただそんな人は羨むしかない。
ここから先はメッセージしてから実際に会える確率についての実験と9個のアプリに手を出す話が続くのだがこれはまた今度書きたい。
もう薄毛デブ40代オジサンに成り果てたのにスクールカースト上位に君臨していた栄光ある学生時代から自己イメージを一向にアップデートできていないとかのタイプが一番厄介
若いうちにひと通りの遊びは経験し、周囲からの承認欲求にも満たされ、大学卒業後5年そこらのあいだに結婚~子供を授かるという一連のイベントを済ませて……
それなのにロンドンハーツ的なノリや価値観を尊び、肉体が美的にも機能的にも滅びに近づく年になっても全然枯れてくれない謎の中年
ワイは今まさに20ほど歳が離れたその手の中年同僚に半年ほど何かにつけて絡まれてるのだが結構メンタルにきてる
限界が近いのでハラスメント事案として勝負かけたいんだが雑談中の「お前それドMやんけ(笑)」という言動なんかでは無罪放免になるんだろうか
ケツや胸触るとか性体験訊いてくるとかガップリヨツのセクハラはないけど本当に絶妙に気持ち悪いラインついてくるんだよ
ただ正直、その中年同僚に対する他の女性が抱いている評価や印象を観察する限り、どうも彼女らがイキらせる後押しをしているのではという気もしてくるのだ
「同じ時代を生きた者として、その男が若い頃イケていたかどうか」
「あの人はハゲてもないしデブでもない。異性としてイケてる人」
として扱っている嫌いがあるのだ(これは平均年齢が妙に高くて、離職率がクソ低い職場で割と観察できる怪奇現象に思える)
彼、彼女らが初体験を済ませたころ恐らくまだ生まれていなかったワイからしたら、件の中年同僚はハゲて太ったオジサンでしかないので甚だ迷惑だ
○ご飯
朝:お椀で食べるチキンラーメン。昼:カロリーメイト。玄米ブラン。夜:人参と大根のスープ。目玉焼き。ナポリタン。間食:チョコ。プリングルス。
○調子
○和階堂真の事件簿 TRILOGY DELUXE
抽象化されたドット絵で謎解きの雰囲気を演出する短編ミステリアドベンチャーゲーム。
スマートフォンで展開していたエピソード3作に加えて新作エピソードを追加した移植版を遊んだ。
昭和の世界観なレトロな雰囲気を演出するためだけでなく、この作品独自の演出やストーリー展開のためにもドット絵の表現が生かされているのが面白かった。
タバコの煙が醸し出す昭和の空気感に、キャラクタの顔がわからない程度のドットなど、なるほどこの作品はこのビジュアルじゃないと成り立たないなと腑に落ちるのが心地よかった。
システム面はオーソドックスな探偵もののADVらしく、人への聞き込み、証拠品や現場の調査を繰り返してキーワードを集めていき、それらから正しい選択肢として選んでいくお馴染みのそれ。
かなりサクサク進み、とんとん拍子に証拠品証言が集まっていくので、いっさいだれずに捜査を進めることができた。
ほとんどミスリードや捜査が空振りする展開がないため、悪く言うと遊びがないとも捉えれるが、僕は無駄なく綺麗にまとまっていると感じた。
とはいえ文量のボリュームは少な目なので、ある程度は、そういうものとして前提を飲み込まないといけない部分もあった。
それが欠点ではなく、物語に良い意味で余白を残していたからだと思う。
表情がわからないほどに荒いドット絵ながら演技の表現が入るため、そこに見入るような熱があったのが余白を感じれた理由の一つ。
そして何より、今作最大の魅力である捜査終了後のサプライズ要素。
4作品全てでこのサプライズ展開が徹底しているのはお見事だった。
短編だからこそ“お約束”として触れないと思っている部分に容赦なく触れていく、どんでん返し系の構図は驚かされた。
流石に3作目や4作目になると身構えるので、ネタ自体は予測できたものの、魅せ方の工夫が効いていて面白かった。
どのエピソードも良かったけど、あえて一番を選ぶと、2作目の「隠し神の森」。
狭い村の人間関係を調査するパートが楽しいし、恒例のサプライズ展開もそこをズラすかあ、と感服した。
あと孫がいる年齢の男女が老いて尚お盛んな描写がエッチなんだけど、ビジュアル面がドット絵なのでイヤラしくないのも抑え目な表現がいい味。
勿論他のエピソードも面白く、1作目ながらシリーズの魅力が詰まっている自己紹介的な「処刑人の楔」、虚構と真実の境目で迷う主人公を俯瞰する楽しみがある変格っぽさもある「影法師の足」、オーソドックスな館物ながらシリーズを通して遊んだ後のご褒美的な側面も嬉しい「指切館の殺人」と、どれも楽しかった。
どのエピソードも、短編ながら捜査の楽しみと、謎解きからのサプライズ展開と、文量という意味ではなく、体験という意味でのボリュームはしっかりあるので、プレイ時間(4時間ほど)の割には満足度は高い。
ただ、謎解き部分はかなり真っ直ぐな構成であり、謎らしい謎が少ないところは、少し僕の好みではなかった。
道中の捜査の楽しみも、勘所は抑えられているとはいえ、流石にボリューム的に遊びの文章が少ないのも惜しかった。
京都弁や京都人の、皮肉や迂遠な悪口を言う存在というイメージがインターネットでネタにされることは多い。
大体の人間にとっては感覚的に自明だろうが、ネットで行われる京都弁ネタ、皮肉がうまい、婉曲的な言い回しを好むというステロタイプイメージの扱いはは、基本的に誉め言葉である。
インターネットというのは――もしくはオタクというのは――或いは日本人というのは――もしかしたら人類の多くが――皮肉や口の上手さ、風刺、アイロニー、ウィット、気の利いた言い回しといったユーモアを好むものだ。
たとえば、現実のイギリスのアイロニカルなジョークは人気だ。フィクションでは、ジョジョのプッチ神父のツバメの話やニンジャスレイヤーなどの捻った挑発も人気だ。
誉め言葉方面でも、漱石がI LOVE YOUを月が綺麗ですねと訳したというエピソードも人気だ(これは創作実話らしいが、人々がこのような婉曲表現がステキと感じるからこそ、創作実話なのに広まってしまったのだろう)。
意味が分かると怖い話、落語の考えオチ、なんかの楽しさも、遠回しだからこそ面白みが増す事例だろう。
しかしそれも素直に京都の高い言語文化を褒めるのでは面白みがないから、まるで京都人が意地が悪いから複雑な言い回しをしているかのようなひねりを入れた誉め方をしているわけだ。
少し蛇足になるが、最近はインターネットやSNSが一般化したことで、皮肉や逆説、反語表現などが誤読されることが増えたという話題をよく目にする。だからアイロニカルな表現は止めよう、と。
だが、私はSNS時代でも、アイロニーや皮肉や捻った言い回しを捨てるべきではないと思う。
言語表現・言語文化の洗練というのは、「誰にでも齟齬なく伝わり便利である」という実務的方向だけではなく、「美しい、おもしろい、何かが掛けてある」のような美的方向もあるだろう。
過去の歴史で、言語文化が発達したとされる場所や時代は、大勢の人間が言葉で交流ができる環境と余暇があって、面白みやひねりのある言い回しが沢山生まれたことで言語文化が花開いたとされることが多い。
まさにインターネットは人類史でもっとも広く日常的につながった言語環境だ。
そこで芽生えてきた、そして今後も花開くであろう、華美で、ひねっていて、アイロニカルで、美しくて、遠回しで、おもしろい言語表現を諦めるなんて、あまりにもったいないのではないか?
ハライチ岩井をキモいって言ってる人、煽りとかではなく本当に嫉妬ではないのか?
自分がマジで理解できない感情なので気になる。マクロンがどうこうとか関係なく本当に好きにすればいいと思ってるので
嫉妬だとしたら、加齢とともに日々劣化していく若さという自分の美的価値の劣化を直視できずに、若さという基準で選んだ男の方を叩くってロジックなのか?
だとしたら日本で美的価値の評価が相対的に高い女性特有の感情なのか?
どうにもグルーミングとか言ってる人が感情の後付けで理論をくっつけてるようにしか見えんわ
少なくとも今岩井でツイート検索して出てくるようなキモいって言ってる毒吐き垢とかはグルーミングとかソーシャルジャスティスを考えてるようには思えない
10点: 顔立ちに顕著な非対称性や特異性があり、一般的な美的基準から大きく外れている。20点: 非対称性がやや目立つか、一般的な美的基準に少し欠ける特徴がある。
30点: 平均的な顔立ちで、特筆すべき美しさや特異性はないが、大きな欠点もない。
40点: 平均以上の顔立ちで、いくつかの魅力的な特徴がある。
50点: 全体的にバランスが取れた、魅力的な顔立ち。
60点: いくつかの特徴が特に美しく、魅力的な外見。
70点: 顕著な美しさを持ち、多くの人にとって魅力的。
10点: 顔立ちに顕著な非対称性や特異性があり、一般的な美的基準から大きく外れている。20点: 非対称性がやや目立つか、一般的な美的基準に少し欠ける特徴がある。
30点: 平均的な顔立ちで、特筆すべき美しさや特異性はないが、大きな欠点もない。
40点: 平均以上の顔立ちで、いくつかの魅力的な特徴がある。
50点: 全体的にバランスが取れた、魅力的な顔立ち。
60点: いくつかの特徴が特に美しく、魅力的な外見。
70点: 顕著な美しさを持ち、多くの人にとって魅力的。
アンドレヴェイユが、 x^p+y^p=z^p はエベレストのようなもので誰も登れないといった理由は何か? ど素人は、 x^p+2y^p=4z^pの場合は、3行で構成できる証明法が
理学部数学科の書籍の中に存在するので、x^p+2y^p=4z^pであると、できるが、2,4という係数をなくしたものは、最高峰になる。直線という美的形象からすると、2,4という
cofficientは削除したものがまだあるので、x^p+y^p=z^pのように、係数が全部、1になっているもので、更に、簡潔になる。定理の趣旨は、存在しないという過激なことをいい、その完全は
全部のnで存在しないということである。しかし、pが、増えていくごとにやたら難しくなるのではなく、3,4のときが証明できると、全部のうち、33%は証明できるので、nが大きくなるとどんどん
難しくなるという構造はしていない。3で割って余りが1,2の場合が証明できない。または、4の余りが1,2,3のときができない。なんでできないのか?
むかしはその実質的な難しさを指摘し、自分で解いたという猛者がいた時代もあったが、最近の2ちゃんねるでは、のきなみ、とくるわけねーだろ、という書き込みしかない。
数学という学問は、警察官が拳銃の撃鉄を引いて発射するにも等しい学問なので時代遅れだから平成時代はやってはいけないということだったが、正方形に関する2個の事実を指摘すると、
正方形の中に正方形が出現するという特殊な補題が得られる。正方形の中に正方形を作るとたいていの場合、循環論法になって結論に到達しないので、 けどもが、似たようなことをすると
失敗しがちだが、的確な見地からやると不思議な図形が登場する。なぜ的確な見地からすると不思議な図形が出て来るかも、よく分からない。
Symmety&Cancelという技術は非常に有名ですが、それがどこから伝来しているかというと、正方形の中にはなめらかに正方形が存在するという事実からである。
証明は簡単で、 x 1-xとして Symmetircに作ると、 一辺の長さが √2x^2-2x+1 の正方形が得られる。これが定義域 0≦x≦1で、 常に正方形である。
しかしこれは幾何の補題なので、面積を要件を外したら何が残るか?というと多分、Symmety&Cancelなのですね。
それができるというわけです。っていうか 数学では、 Symmetryに配置すると必ずcancelができるようになっているっていうんですか、そういう極限的な条件の下に極限的なものが
成立するっていう技術的美的原則があって、面積の要件を外すと、これは多分至る所で使うことになる。
しかし、 Symmetry&Cancelというのは、青チャートにも赤チャートにも黒チャートにも、Z会の教材でも、北予備のテキストにも掲載されていないため誰も知らない。
それで平成9年頃には、地方の中学校の技術家庭科の先生とかですね、そういう昭和のガラクタみたいな人は知っていたかもしれないし、教えていたかも知れないが、誰も聞いていなかったか
聞いていたとしても次第に忘れたというか、仮に、延岡市の中学校の生徒がそれを聞いていたとしても誰も東京大学に受かっていないので
また、東京大や京都大に受かるのに、この、Symmetricテンサーと取りましたが、内積で、カップリングをでやると、知っている必要がないのですね
我々数学者はどのような定理ないしは問題に対しても、驚愕的な証明にあこがれるのであるけれども、ひとくちに、驚愕的な証明といっても、その意味内容はよく分からないのである。
三平方の定理は、righted-angleという三角形といっても様々な形態がある中の極限的なときに、a^2+b^2=c^2が成立するという定理であるので、結局、美的に極限的な場合に
極限的な定理が成立するのが一般である。そしていわゆるエレガントな証明というのも、これと同じことで、極限的な事実がその問題の中にあるときに極限的な既存の法則を用いるという
のがエレガントな証明の実質である。しかし数学界には様々な定理があるので5次方程式以上の多項式には解の公式が存在しないという代数学の基本定理があるけれども、これの場合は
ポリノミアルという非常に有名なものを基礎として、4次までは解の公式が存在するが5次以上では存在しない、証明は巡回置換群という非常に難しい理論によってなされる。
ここで当然、有理係数多項式の解の公式が5次以上では存在しないことは発表時は驚愕されるわけだけども、その後常に驚愕されるわけではない。一般人は誤った認識をしているが、有名な
フェルマー予想は、 a^n+b^n=c^n は n≧3で解を持たないことは発表時に驚愕されてもそれ自体が驚愕されることではない。実際に驚愕され続けているのはスキームの圏等を用いた
構成の方である。ところで代数の世界では、それだけでは説明がつかないような技術、すなわち、シンメトリーキャンセルなどの、より原初的な初等的な処理方法などもみられて、必ずしも、
『刑務所の中』か何とかという本でですね、 平成7年頃の受刑者が刑務所のテレビをみていたら、何が、SPEEDの島袋寛子とかが出る直前の時代だったので、SPEEDほどではないが
何かそれまでに存在しなかったような女の子が、コマーシャルに出て、受刑者の男性が、「ぐわあああああああああ、おい、あんなのってあるかい?」っていう場面があったんですね
その男性受刑者は、その女の子が紹介していた菓子について言っているように描写されていますが、なんか違うような気がする。 ただもんじゃねえっていうのは誰でも感じたことがあると思いますが
あの、島袋寛子が最初に出てきたときの美しさの感想というのがね、 ここもこうなっちょるし、そんだけで驚くに、そん中もけ、みたいなね、それを多分哲学的美形象として驚愕というと思うんですが
GLAYのTERUの時は、なんか、あんげなイケメンがおるけ!という感じでしたが、そうでなく、BELOVED、REVIEWのときは、なんけあん光るような普遍性は、普通すぎるが!
っていうかね、そういうのもあったんですが今はそういうのもないと。だからそういう数学的美的形象っていうか、もう出てるんですけど、そういうのは、小泉純一郎首相より前の中央官庁の1つの
目標っちゅうんですが、あったんですが、今はそうではないと。
そういう風に昔はさんざん盛り上がっていたんですが、佐藤の映像でですね、 美的輝彦とかそんな感じの支持者対策ばかりで、やる気なんかないんですよ。
8月に入ったばかりですが、あえていいます。 批評家は最終的にバービーが2023年の映画であると宣言し、2023年はバービーの年として記憶されるでしょう。 この映画が偉大な芸術的成果であるからでも、そのメッセージが歴史の流れを変えるからでもなく(実際、このメッセージは一般に受け入れられているフェミニストの知恵を逆流しているだけである)、女性、特にアメリカ人女性が密かに切望しているものを届けたからである。
人類の滅亡からインド・ヨーロッパ人のヨーロッパ侵略に至るまで、この映画からすべてを読み取ることは完全に可能ですが、バービー人形はイデオロギー的に動かされた混乱しています。 世界中で興行収入が驚異的な成功を収め続けていることは、映画の質だけでは説明できません。 また、ほとんどの女性が幼少期にバービー人形で遊んでいたという事実だけに起因するわけでもありません。 (少年の子供時代の執着を特集するメディアが増えている理由は、女性がノスタルジーを抱く傾向がはるかに低いためです。)それは実に単純です。観客がピンクのドレスアップをするバービー映画は、すぐにカルト現象になりました。
カルト的なセンセーションを巻き起こすために、映画が優れている必要はありません。 実際、そうでない方が良いです。 ロッキーホラーショーはせいぜい二流の映画ですが、十代の若者たちは何十年もの間、週末ごとにそれを再演してきました。 実際、アマチュアパフォーマーが優れた映画制作に気を取られることがなかったのは本当に助かります。 同様に、バービー人形は主に人類学的および歴史的理由から興味深いものです。
今日、劇場で映画を見るために派手な衣装を購入した同じ女性たちが、映画がストリーミングプラットフォームに配信されると、キャンディー色のバービーパーティーを開くでしょう。 私は、ナプキンの上に置かれたピンクのキャデラックマルガリータの写真と、ライアンゴズリングの似顔絵がInstagramに投稿される競合写真を予想します。
これは、グレタ・ガーウィグ監督が綿密に作成したガールボスのメッセージとはほとんど関係がありません。 不当な扱いを受けたためにミサンドリーに反応する女性もいることは間違いありません。 抑圧的な家父長制についてのアジトプロップをずっと聞いてきた多くの女の子は、彼らのイデオロギーが大作映画で強化されるのを見ると、すぐに自信を感じるようになります。 どれも、フクシアの服を着たいという明らかに抑えられない衝動を説明するものではありません。
私たちの歴史のこの瞬間がそうです。 2020年初頭に課されたコロナウイルスによるロックダウンは、アメリカの都市や郊外の外観と雰囲気を変えました。 その多くは、特にニューヨークやサンフランシスコなどの真っ青な地域では回復していません。
一時的な屋内退避命令で一般のアメリカ人が自宅に閉じ込められたとき、ホームレスのキャンプは路上生活の唯一の残骸になりました。 次に、Black Lives Matterが街頭を占拠し、全国の警察の削減を確実にしました。 すでに侵食されていた法の支配は、その後の犯罪の波によってさらに後退しました。 脅威の精神障害者がダウンタウンに群がり、暴力犯罪が増加する中、都市中心部は多くの住民、特に女性、子供、高齢者にとって事実上の立ち入り禁止区域となった。
たとえば、サンフランシスコのマーケットストリートは、かつてはエキサイティングなショッピングと観光の目的地でしたが、麻薬と犯罪が蔓延していました。 観光客が写真を撮った通りでは、現在、店舗の閉店が相次いでいます。 この虫に怯えたゲストがいたため、市内のカフェやレストランは閉店しました。 雰囲気を楽しむ女性が利用するようなトレンディな店は、持ち帰り用の食べ物を販売して存続することはできませんでした。
閉鎖前の傾向を引き継ぎ、社会生活はメディアチャネルに移行しました。 私たちはより社会的に適応しているため、この種の通常の日常的な交流の排除は女性に重くのしかかります。
もちろん、その多くは自分自身が招いたものです。私たちは、他の人間に近づきすぎたことで見知らぬ人を叱責する悪名高きカレン族でした。 ここサンフランシスコのベイエリアでは、かなりの数の人々が、私の観察によるとそのほとんどが女性であり、依然として公共の場でマスクを着用しています。 私たちは好きなように責任を負わせることができますが、人々が満たされていない感情的なニーズを抱えており、それらのニーズが私たちの文化の中で何らかの形で表現されるという事実は変わりません。
新型コロナウイルス感染症恐怖の社会政治体制の主な特徴は、社会正義の課題順守のために地域社会を非公式に取り締まる白人女性の採用だった。 ソーシャルメディアのインフルエンサーであるサイラ・ラオさんは、ディナーパーティーで一皿数千ドルを請求し、裕福な母親たちの「白人の特権」を非難しながら、国中を飛び回る好景気のビジネスを始めた。
編注:WBPCとか弁護士がそう。反貧困とかシングルマザーとか言って自分たちが一番儲けている。という連中です。
政治的プロジェクトに加えて、覚醒は美の基準の侵食をもたらしました。 その中で、肥満の主流化と女性ブランドのマーケティングへの男性の参加が最も顕著な特徴でした。 さまざまな体型や顔の特徴に繰り返しさらされることで、すべての女性が同様に魅力的になれるという前提に基づいて、嫉妬深い心は美しさを再分配しようとしました。 それもまた、女性の活動主義とメディア企業の役員室におけるフェミニストの権力の獲得の結果、部分的には自ら招いたものである。
私はフェミニストの美容プロジェクトが成功する可能性について常に懐疑的でした。 美の理想を採用するには、それに応えない女性を排除する必要があります。 それは傷つき、不公平ですが、その「10」がどのように定義されるかに関係なく、すべての女性が「10」になれるわけではありません。 さらに、私たちの美的好みは、不可解にもデブ恥辱に熱心なマスメディア複合企業の陰謀の結果ではありません。 それらは私たちの社会に現れた傾向を反映しています。 痩せた女性が望ましいのは、資本主義の現代において好ましい特質である自制心が表れているからである。(編注:10とは10点満点の完璧な女の子。映画はボー・デレク主演)
2020年に全国を席巻したマーケティング慣行の変化は、私たちの精神に影響を与えることはありませんでしたが、私たちの生活から喜びを吸い取ることに成功しました。 スリーパーと形の崩れたガウンが小売スペースを占領しました。 サージカルマスクの義務化により、買い物は社会活動から雑用に変わりました。 ファッションの広がりにより、憧れの美しさは、せいぜい普通の、しかししばしばグロテスクなものに置き換えられました。 それはアメリカ女性の歴史の中で悲惨な時代でした。
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それは実に単純です。観客がピンクのドレスアップをするバービー映画は、すぐにカルト現象になりました。
リベラルな青い州は殺人も無罪にして、フェンニタルが蔓延したのでこうなっている>ホームレスのキャンプは路上生活の唯一の残骸になりました。 次に、Black Lives Matterが街頭を占拠し、全国の警察の削減を確実にしました。 すでに侵食されていた法の支配は、その後の犯罪の波によってさらに後退しました。 脅威の精神障害者がダウンタウンに群がり、暴力犯罪が増加する中、都市中心部は多くの住民、特に女性、子供、高齢者にとって事実上の立ち入り禁止区域となった。
わたくしの興味関心分野は初等的な数学にあり、その分野で、特に、無限降下法とか、教科書の有名定理であるパスカルの定理がいわば最終奥義として発動されるくらいの
技術的着想に関する美的評価は知っていますが、6月21日付、小池百合子がした裁決の中に含まれている、地方自治法245条9号の局長通知と書いてある部分とか、
自立更生免除というものが、なんなのか分からないし調べようもないので、数学の技術はひとえに天を衝くようなものばかりではなくて、要点だけをしぼっていって結論に到達するものもあるし
ひとつ簡潔なことを思い付けばそれで問題が終了するものもありますので、ことに、法律自体の制定の技術とか、制定された法律の解釈の技術など全然分からないし読む価値もないすね
特に生活保護法63条の問題になると判例六法でその部分をみるこつになるわけですが、みたところで、生活保護法63条がなんなのか分からないし、また、生活保護法の体系上に
おいて、個々の条文が技術的着想としてどれくらいなものか、分からないし、誰も教えるものもいないし、東京都の職員も教えないから、これほど悪質でつまらないものはないと思ってるのですね
そもそも生活保護法を制定するときにそこの条文の中に書いてあることがどれくらいな価値を有するものであるのか、現在の腐り果てた判例六法では理解できない。この判例六法なり
裁判官の鈴木秀行とか小池勝雅とか、山田朋美とか土屋大気とか、なんにしても極めて悪質であると指摘した志村署の3年前の警察官についてはその言動は一部評価に値する面もあるが
さりだからといって警察もまた悪質なので、特に公文書公開において公開される公文書にも何が書いているのか分からないし、東京都の審査員とか、裁判官や検事も相当に悪質であるが
警察官もそれに劣らず悪質なのでね
神社は割と人通りの多い小道に面しているため、静謐、といった雰囲気はないが、左右に砂利が敷かれた短い参道を抜けて、背の高い木々に囲まれた昼でも暗い拝殿の前に来ると、「ほぼ現世、少しだけ異界」ぐらいの空気はある。
境内に一本、御神木なのか、ひときわ大きい樹が立っている。木には人の胸ぐらいの高さに縄が巻かれていて、汚れ一つない純白の紙がそこから垂れている。
…
夏になると、境内の地中から蝉が出てきて、この木に登る。羽化するために現れて木を登っていく。
蝉、しめ縄をよじ登って越えていくか、反対に縄の下であきらめて羽化すればいいのに、わざわざ縄に下げられた白い紙を羽化のポイントに定めるやつが何匹かいる。真っ白な紙の上に点々と、透明で茶色い抜け殻が残る。
しめ縄というのは、どっしりとした円柱の大木に風雪で少しささくれた縄が巻かれ、そこから新しくぱりっとした純白の紙が垂れている、そういう宗教的かつ美的な意匠なんだと思うが、まあ蝉には関係ないもんな、と思う。蝉にとっては、ちょうどいい高さにあるちょうどいい場所でしかない。
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神社を出て100mほど、道なりにいって曲がると、今度はだいぶ由緒あるらしい寺が建っている。高名な僧が数百年前に開いた名刹らしい。
俺が住んでいるのはある有名な地方都市で、住民も多いし、観光客も大勢行き来している。しかし、この寺のお堂へと向かう広葉樹と苔だけの道を1分ほど歩いて境内に入ると、まったく何の音も気配もしなくなる。聴こえるのは、それこそ蝉の声ぐらいだ。
俺はときどき、お堂の廊下に座って、物を考えないで風景を見る。廊下は南側と北側があって、南だと境内に植えられた木、北だと目の前にそびえる岩壁を清水が伝うのが見えて、両方飽きない。
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この前、南側に座っていたときのこと、でかい羽音を立てて蜂が一匹飛んできた。
虫が好きな人間の固有スキルの一つに、蜂が刺すやつか刺さないやつか瞬時に判断できる、というものがある。そのときも、クマバチ=刺さない、とすぐにわかったので、むしろ観察するぐらいのつもりで様子を見ていた。
蜂はぶんぶん言いながら、お堂の庇に近づいていった。
お堂の庇は木を組んだ複雑なアミアミになっている。蜂は庇のどこかの一点が気になるらしく、決まった範囲をホバリングしていたが、急にふっといなくなってしまった。
「?」と思ったが、少し観察を続けてみて、さらに驚いた。
庇に直径1cm強ぐらいの穴が空いている。ある種の蜂は木に穴を開けてそこに住むが、どうも、クマバチが巣を作るためにお堂に穴を開けてしまったらしいのである。
美しい建築も、あるいは宗教的に洗練された意匠も、生き物としてあるがままにやっている存在には太刀打ちできない。物体であることの限界というか、この場合、お堂<蜂、もしくはご神木<蝉、そういう力関係と言える。
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風情的には少しあれかもしれないが、寺社建築をよく見ると火災報知器がついていることがある。安全面もそうだが、文化的にも重要なものだから、火には注意しているのだろう(法律的に必須なのかは知らない)。
同じことが蜂に穴を開けられた場合にも言えるはずで、歴史ある建物としては損なわれない方がいいに決まっている。
俺は寺務所に言いに行こうかと思ったが、少し考えてよした。
主な理由は「お堂に蜂が穴を開けてますよ」というところから会話を始めるのが我ながら気色悪く、億劫だったからだが、もう一つ挙げると、そもそも仏教的に、「かたちあるものが虫によって損なわれようとそれがなんだろうか」というノリなのでは、とも思ったためである。
皮相な理解だが、一切皆空の世界だし、悉有仏性の世界である(と聞く。宗派的に色々あるのかもしれないけど)。
人がつくったお堂に蜂が穴を開けようが、それでお堂が朽ちようが、お堂につくった巣で蜂が栄え、その蜂もいつか滅びようが、すべてが等価というか、はじめからそういう、かたちを結んで消えていくのを織り込んでいる世界観が仏教なんだっけ、と思った。
それで考えると、神道もいわゆる「八百万」の世界観であって、序列はあるのかもしれないが、蝉にも蝉の神…というか、「土中で数年暮らしたあと地上に出てきて飛んだり鳴いたり(オスだけ)したあとあっけなく死ぬ」神性? みたいなものがあるのかもしれない。
どういう神性だよ、という気もするが、ヨモツヒラサカに生えた桃の木とか岩とかを神と見なすのだから、蝉の神がいてもおかしくはない(おかしくはないのだけど、実際のところ、虫の神を日本神話で見た覚えはなくて気になっている。アゲハの幼虫を信仰していた宗教が大昔にあったみたいだけど)。
そういう意味では、自然界の営みによってシンボルが物質的に損なわれたり、上手く機能しなくなったりしても、一部の宗教はシステムとしてあらかじめ、そういう破壊や変質をうまく組み入れているのかもしれない。これは生命よりも宗教の法理の方が、包括的という意味で上位ということで、生命<法理であると言える。
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で、最後にどこに着地するかというと、信仰もただの理念や言葉、ロジックだけでは生き延びたり広がったりしていくのは相当難しい、やっぱりモノ・カタチにする必要がありますな、というところに着地する。
心を寄せるためのシンボルや、目で見て手で触れられるオブジェクトがあった方がいいし、大衆の政として考えても、建築やでっけえ像とかがあった方が広めやすい。
仏像でもピラミッドでも教会でも、最低限、紙の聖典でも、とにかく、教えとして生き残り広まっていくためにはブツが必要だ。水を汲んで運むのに器がいるように、信仰にはどうしても、ブツが要る。その点では信仰<モノである。
ただ、モノはいずれ、壊れるか変形するかするわけで、俺なんかはもう、「物質を伴わなければ存立・拡大できない宗教は、戦略として物質化を伴うがゆえに、滅んだり変化することも許容し、あきらめることをどこかに織り込まないと理屈が破綻してしまう宿命でもあり、拡大と必滅の板挟み」なのでは? とさえ思う。まあ考えすぎかもしれない。
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いずれにしても、これでお堂<蜂<信仰<お堂の三すくみが完成した。ありがたいことである。
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正しいかは知らない。
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何年か前に泊まった旅館は山寺のふもとにあって、せっかくだから登っていったら、と宿の人に言われ、お遍路でつくような杖をわたされた。
要らねえけどなあ、と思って登り始めたら、山道というレベルを超えて文字通りのマジ崖であり、むしろ杖あっても登れねえよ、と思ったが、どうも引っ込みがつかなくなり、気合いで登り続けた。
道がどんどん狭くなって、「落ちたら普通に死ぬなこれ」と思っていると、やがて、ほとんど空中にかかったような、ひと回りするのに10秒かからないほど小さいお堂にたどりついた。
当たり前だが、誰もいなかった。辺りは静寂に支配されていて、青い空が近くて、山の中が一望できた。
厳密に言うと誰もいなかったわけではなく、小さめのスイカぐらいあるスズメバチの巣が完全に完成してお堂の庇からぶら下がっており、スズメバチが「竣工式でーす」と言って飛び回っていた。
俺はふもとに降りてから、「蜂です」と宿の人に言った。さすがにスズメバチは言う。
ただ、蜂には当然、あれがお堂かどうかは関係のない話である。また、お堂サイドも、まあ仏教の法理に人格のようなものがあるとして、「こういう世界だからしょーがねえな」と言って苦笑する感じというか、空の近くにある静かな山中のちんまりした古刹で蜂が生命を躍動させているのに、なんかすげえ調和としか言いようのないものを感じたのを覚えているので、書いておく。🦑
要約
数学の証明には、美しい証明方法が求められる一方で、平凡な解き方でも結論を得られることがあります。
三平方の定理には100通りの証明が存在し、その中には相似を用いた平凡な解法も含まれます。
数学者の生産活動は驚愕の美へ向かって進んでいますが、三平方の定理は規模は小さいものの数学の世界で重要な位置を占めており、100通りの証明の中には美的着想による超エレガントなものも存在します。
数学では、証明をするときに、その証明の仕方がいかにキレイであるかが力量として問われるわけのものであるが、他方で、わざわざ最高に知能のいるようなきれいな証明を選択
しなくても、非常に平凡な解き方で結論が得られるものも大量にあり、一概には言えない。たとえば、三平方の定理に関しては100通りもの証明が存在しており、相似を用いて
連立するだけで答えが出てくるという平凡かつそれで充分というものもある。なぜ神が、三平方の定理に対してこれだけのものを与えたかは疑問なしとしない。一般に数学者の生産活動
においては、生成の銀河が存在し、驚愕の美への最高次元へ向かって発見と構築とを邁進していくものであるが、三平方の定理の場合、非常に規模が小さいわりには数学の世界の中
で重要なものであり、100通りの証明の中に、いわゆる超エレガントと言われるものも存在する。この超エレガントといわれるものは、相似のような連立の関係ではなく、美的着想によって
一気に撃ち抜くといったような感じのものである。数学のあまたある問題の中で、このような手立てを選択しなければ解けない超難問もあるが、三平方の定理では、そのような解法は、