はてなキーワード: 技量とは
だから飛行機事故が起こるとパイロットの過失ではなくて、そのシステムそのもの欠陥を追求する仕組みが形成されていくための素地があった。
しかし、これが普通の自動車事故となると千差万別の技量の人間が運転することになるのでその事故は運転者の過失が追求される傾向にある。
こういった要素も自動車の事故回避するための設計変更の圧力がかからない理由だ。
もちろんユニバーサルでその運転方法に互換性をもたせるということが最も重要な理由なのはわかる。
――斎藤さんの絵は構図も印象に残ります。僕が好きなのは『ラブライブ!スーパースター!!』の声優ユニット、Liella!の2ndライブツアーの絵で、傑作だと思います。
斎藤:もともと一枚絵を描くことに苦手意識があるのですが、いざ描き始めるときは時間軸を考えるようにしています。アニメーションの中では強制的に時間が流れますし、漫画もページが進むと時間が流れますよね。でも、イラストは1枚なのです。その中にも僕は前後の時間を盛り込んで、描かれたキャラクターがこれまでどんなやりとりをしてきたのか…… と、枠外を想像できるような内容を描くことが多いです。
[ラブライブ!、プリキュア手がけるアニメーター・斎藤敦史 キャラを魅力的にするデザイン論|Real Sound|リアルサウンド ブック](https://realsound.jp/book/2024/02/post-1581975.html)
あいつら絵が書けない上に審美眼が1ミリも無いことがミエミエで笑っちゃうんですよね
AI絵が既存のハイクオリティなイラスト全てを代替するだろうと勘違いしてやがる
実際はAI絵にコンテキスト(枠外)が無いのが最大にして覆せない欠点 一枚絵は最も総合的な技量が必要な分野だから
でも反AIには指摘できない
「関鍛冶伝承館×花の慶次~関鍛冶と戦国日本刀展~」を見てまいりましたわ
関の刀匠様がジャンプ漫画花の慶次に出てくる朱塗りの槍と秀吉殺しの短刀を再現したものが展示されていました
漫画的誇張表現をプロが全力で立体化するところが面白いですわね
ヒデヨシキラーの重量1.5kgが参考の脇差し1.0kgに比べて思ったほど重くないと感じたのですが
なんと!関の孫六様や和泉守兼定様の刀剣も常設展示されていましたわ
奈良太郎藤原兼永様の刀身に和歌や平安の絵を細かく彫った狂気の産物が
印象に残りましたわ
虫眼鏡で絵を確認ですわ 参考でし:https://twitter.com/sekikaji/status/1207936976789204992
あと「別人孫六」(まこ六)様は関の孫六様と技量は互角らしいのに「孫六じゃない方」で覚えられていて気の毒ですの
たくさんお客さんがいらしてましたわ
近くのフェザーミュージアムでは髭博士とフェザーちゃんの説明アニメをみて
二階でフランベルジュやヴァイキングソードを拝見してきましたわ
俺の論点ブレブレの感想文につき合わせて悪いが、一部誤解している部分もいくつか見受けられたので補足
まず前提として、「生成AIによるイラストを許容しないのに二次創作を許容することはダブルスタンダードだ」という話なのだけれど、私が二次創作に文字数使いすぎてしまい、誤解させてしまった。申し訳ない。
↑
繰り返しになって申し訳ない。AIイラスト批判者が二次創作を許容するのはダブスタだよね」ということ核においていたけど、これは二次創作周りに文字使いすぎた俺の完璧落ち度。
とはいえ、「二次創作への嫌儲」という文脈の読み解き方をばかりしすぎていて、俺の想定した読み取り方をしていない部分が多かったので、覚えて帰って欲しい。
あと、ガイドライン云々はyoster運営のソシャゲみたいに、二次創作をガイドライン上で許容してる作品を除きたかっただけね。
とはいえ、序論部分にその話は書いてあったはずなのに、それを無視して論を組み立ててしまえるような人が考える「俺の厳密な気持ち」なんてアホくさいと思うよ?
ごめん、意地悪言いすぎたね。次に行こう。
↑
ここは明確なツッコミポイントだね。実はアメコミとかは著作者はDCコミックスみたいな法人格が持ち主で、ライターが独立して描いてるわけじゃないから、日本みたいに作者が独立してるパターンと比較にはならないよ。
アメコミライターは作家かどうかはともかく、法的な著作者じゃないから今回の話の引き合いに出すのは間違いだね。
(エッチな二次創作は文脈や関係性などのフリーライドで、作家性がなくリスペクトもないといった意見に)
それはもう凄く頭が古いというか、才能が無いよね。
作家としても読者としても。
同じキャラにセックスさせるんでも出来なんてまるっきり変わる。
極端に言えば作者より良いセックスを描ける二次創作者だってきっといる。
失礼な話だけど例えば、
俺はヒロアカって原作あんま好きじゃないけど二次創作は結構好きなんだよな。
作者はざっくりしたキャラデザとかガワを作るのは上手いけど
会話の機微とかリアリティある青春描写とか全く才能ないからさ。
あのキャラの学生生活を見たいと思ったら二次創作の方がいいわけ。
俺はヒロアカ二次創作者のうち俺の好みで技量も高い人のことを創作者だと認めざるを得ないんだわ。
こういうことを理解できないのだとすれば
↑
ここが特に感情的で困った。「二次創作は一次創作のフリーライドだ」という意見に対して「私が創作者だと感じるから創作者だ。そう感じないのは貴方の落ち度だ」という意見はさすがに反論以前じゃない…?
別に貴方が創作者と考えるか否かは私の意見になんら寄与しないよ…?
まあ、明らかに「俺個人に言い返すこと」を目的としておいて「感想文」という逃げ道をつくっておいたり、
後半の「二次創作は一次創作のフリーライド」という論点は全部俺に対する人格攻撃でやり過ごしてたり、
そもそも生成AIから始まった話なのにそこを一切考慮しないで反論するのに含むところはあるけど、概ね俺の書き方が下手くそだった故の被害者なので、あんまこの人のこと責めないであげてくださいね。
色んな切り口があり議論が錯綜するので自身の整理のために考えたことをまとめます。
今回の件では、本来外野であるはずのネット民が攻撃をしかけて炎上させることがなければ、原作者が追い詰められて自死を選ぶことはなかったでしょう。
にも関わらず「日テレが悪い」「小学館が悪い」「プロデューサーが悪い」と主張しているのは、自信の罪を自覚しながら、それを認めたくがないために、罪を押し付ける先を探しているようにさえ見えます。彼らは自信の振る舞いを反省する気はないのか。
誰がなんと言おうが、一番悪いのはお前らだよ。
漫画が改悪されて実写化されると「原作レイプだ!」と騒ぐ方々が現れます。
実写化により、原作に改変が加えられるのであれば「原作レイプ」という主張も分かります。
でも、原作は、原作のままなんじゃないですか。原作と実写化された作品は別物なのでは。
「自分の愛しているものが陵辱されたら許せない」という気持ちは理解できます。
更に、原作をそこまでのレベルにしたのは、原作者および出版社の努力なのでは。あなたたちは、その創作活動に対して何をしたんでしょうか。
その方たちが「自分たちの異議には正当な根拠がある」というのは無理があるでしょう。
実写化にたいする違和感を表明する権利は侵害されないので、「原作レイプだ!」と述べるのは全く問題がありませんが、その主張に正当性はないです。
ネット民が攻撃を仕掛けるのも、原作ファンが「原作レイプだ!」と叫ぶのも、感情に起因するものなので、止めようはありません。
そこに対して、理屈でさとすのも愚かなことでしょう。
《海猿》《金色のジャッシュ》の問題について、長期にわたって主張をし続けた方がどれだけいるんでしょうか。
事態を改善したいなら、一時の感情で叫ぶのではなく、問題の真因はどこにあり、どのような再発防止を打つことができるのか考えるべきでしょう。
何がおきたかを明らかにするために第三者委員会を設置して経緯を明らかにして欲しいという声があります。
それして、どうするんでしょう。
経緯を明らかにしたいというよりは「どうせテレビの奴らは漫画を下にみて酷いことしたんだろう。それを認めて土下座しろよ」という主張が多いように見えます。
醜悪なテレビの奴らを土下座させて溜飲を下げたい以上の意味があるんでしょうか。
実は簡単な再発防止策があります。「お好きなように改変して下さい」と言わない原作者の作品は実写化しないことです。
「原作者の望まない実写化は公開しない」でもいいんですが、これだと、実写化作品が完成した後で原作者が「私はこの脚色は不満です」と述べると公開できなくなります。このリスクは流石に実写化サイドは呑めないでしょう。
どちらも極端だろうということであれば、
1.を約束しても醜悪なテレビの奴らは「これが我々の考えた漫画に忠実な脚本です」と全く忠実でない脚本を出してくることは考えられるので、2., 3., 4.などは有効な策といえるでしょう。
「お好きなように改変して下さい」と言わない原作者の作品は実写化しないというのが、実は、現実的であり有効な策だと考えています。
これで困る人がいるのかですが、原作者も、原作ファンも、困らないでしょう。
「テレビ局は困るんじゃないか?」は、困ると思います。ただテレビ局は、漫画原作に頼らず、オリジナルで魅力的な作品が書ける脚本家を育てるという道があります。
困るのは、出版社です。メディアミックス戦略が使えなくなります。
しかしここは、原作者を守るために、「お好きなように改変して下さい」と言わない漫画家の作品を実写化に提供してはダメです。
それにより、メディアミックス戦略が使えなくなり、出版社の収益は減るでしょう。いくつかの漫画雑誌も廃刊に追い込まれ、世の中に出ていたはずの作品が日の目を見ることがなくなるかも知れません。
でもそれが、漫画ファンが望んだことなんです。甘んじて引き受けましょうよ。
仮に原作者が脚色を担当したとしても「素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです」という状況に陥ることは充分にあり得ます。
「漫画に対するリスペクトがないから、こんな酷いことが起きるんだ」という主張がありますが、そうなんでしょうか。
実写化しようと思った時点で、原作に魅力があると感じているはずなのに、それでも原作を蔑ろにしてるんでしょうか。
尺が合わない等で原作のエピソードを取捨選択したり、逆に原作にエピソードを足さなきゃいけないこともあるでしょう。
このときに、原作のエッセンスを汲んで適切な取捨選択ができたり、原作のエッセンスを活かしてエピソードを足せる脚本家もいるでしょう。
野木亜紀子さんは、それがうまくできる一人です。「全ての漫画原作の実写化は、脚本を野木亜紀子が担当する」とすれば、今回のような事象は発生しないでしょう。
ただそれは非現実的です。野木亜紀子ほど技量が高くない脚本家も、実写化のための脚本を書きます。
そのとき、うまく捌けずに、余計な恋愛要素を入れてしまう脚本家もいるでしょう。
それは、リスペクトがないのではなく、技量の低さに起因しています。憎むべきは「リスペクトがない」といった心理的な要因ではなく、「脚本家の技量が低い」という問題なんじゃないでしょうか。
Twitterをぼーっと眺めていたら絵描きさんが "創作する過程を楽しめなくなった絵描きは終わり"だという旨の発言をしているのを見かけた。
別にその人のことは良く知らないし、その人がその発言をすること自体が悪いこととは思わない。思想は自由だし、その人なりにバックボーンやプライドというのがあるだろうから、そういったものは尊重したい。
でも私はこの言葉をひどく何度も反芻している。何度も反芻している。雪が降って鬱になってるだけなのかもしれないが作業中も何度も頭の中をよぎって止まない。
私は7年くらい前からあるプロの絵に一目ぼれしてそんな絵が描けたらいいなと思って絵を描いてきたのだが、同時にその時くらいから絵を描くことがあまり楽しくなくなったように思う。
たまたま精神や思想、ある程度の技量が成熟する時期と被っただけなのかもしれないが、時期的には、その時のはずだ。
これに因果関係があるのかはさておいて、現状も私は絵を描くことがあまり楽しくない。
一時創作と二次創作の違いだとかいった意見が発生しそうなので一応言及するが、私はここ最近一時創作しかしてない。でも絵を描いてるときは楽しくない。キツい。辛い。
設定を考えたり、ストーリーを考えたりしているときは楽しいが、キャラクターデザインをしているときとか、構図を作っているときとか、本当に楽しくない。
こればかりは断定するが、この感覚の原因は私の不勉強と努力不足でしかない。アイデアが湧かないのは観察力を鍛えることを怠ってるからだし、構図が出ないのも人体デッサン頑張ってないからだ。
創作する過程を楽しめなくなった絵描きは終わり。改めて、この言葉を反芻する。
私は終わっているのだろうか。
いいなぁ、キラキラしてて、フォロワー多くて、絵上手くて、いろいろな人から認められて。
私は全然だ、淀んでいるし、フォロワーいないし、全然魅力的な絵が描けない。
でもこれまで描いてきた。他の人より努力するのが下手で質も量も悪いから他の全てを投げ捨てて描いてきた。
楽しくない程度でやめてたまるか。
楽しくない程度でやめるのか?それは、お前、冒涜じゃないか。いったい何人の絵描きが苦しみながら芸術を生み出してると思ってるんだ。
創作的な活動をする人間を美化するから、絵を描く人が減るんじゃないのか?超えちゃいけない倫理を踏み越えるんじゃないのか?
苦しむのも楽しいんだなんて意見があるかもしれないが、それは言葉遊びに過ぎないだろ。
勿論絵を楽しむことは否定しない、好きにやればいい、勝手にして、その素晴らしい表現を続けてほしい。
どうか頼む、私に絵をやめろと言わないでほしい。
あなたよりも能力の低い人が必死に頑張って泣きべそかいてそうやって描いた絵にもきっとその人なりに価値がある。
楽しくないことを頑張ってる人を否定しないでほしい。
ネトゲで平気な顔でチートを使う奴の心理について気が付いたこと(ジャンルはFPS)
チートなんか使って何が面白いんだ、何の意味があるんだよ と思ってたんだけど
おそらく多くの人は、フェアな条件で勝つからこそ「勝利」だと考えてるとおもう、俺もそう思う
10歳の子供と殴り合いの喧嘩をしても勝っても、そんなもの勝利ではない。
勝つか負けるかわからない状態で、自分の技量や判断を競って勝つから気持ちいいし、達成感を得られるのだ。
でもチートを使う奴らは違う
あいつらは最終的にゲーム画面上に「VICTORY」と表示されることを「勝利」と定義している
奴らはそれで達成感を得られてしまうのだ、だからフェアとかそんなのはどうでもよくて
中国人とかこのメンタリティの人マジで多い、しかしだからこそ競争に強い、一切悩まずに勝つための最善手を取れるから
それがよいのかわるいのかは、わからない
○ご飯
朝:袋ラーメン。昼:カレーパン。唐揚げ。夜:豚肉、白菜、にんじん、しめじの鍋。たまごおじや。沢庵。間食:チョコ。柿の種。アイス。
○調子
腹ペコな上に眠くて眠くて仕方ない。
○幽限御界堂探偵社 1章
ロケットスタジオが開発したコマンド選択式アドベンチャーゲームで、死相を見ることが出来る御界堂守丸が同級生の巫女神桜子が取り憑かれていることを知り、彼女を助けるために調査を始めるあらすじ。
幽霊や怪異が実在する設定で、主人公の守丸は高校生ながらそれら専門の怪異探偵として活躍しているので、話はかなりスムーズに進む。
相棒のフェレットの大善も元人間で、それなりに優秀な怪異探偵であるため、事件捜査も怪異との対峙パートもお手のものだ。
オカルト的な導入だが、怪異と立ち向かうために図書館で資料を読んだり、街の人に聞き込みをして情報を収集する流れはオーソドックスな探偵が登場するアドベンチャーでお馴染みの流れ。
怪異と対峙するくだりが容疑者に証拠や矛盾を叩きつけるパートと対応しているのも、特殊な設定のミステリ系ADVらしい展開。
低価格かつボリュームも短いが、勘所は抑えられており、特殊な設定を利用した“サプライズ”的な展開もあって小さいながらもシッカリなくまとまっている。
資料探しや、怪異の正体にアタリをつけるのが早いのは怪異探偵としての実力の高さを表現していて、工数の兼ね合いを感じさせない良い展開だった。
謎解きパートも読んでいれば大体の想像は付くが、怪異探偵らしくオカルトの知識を踏まえた補足が入るのが、この作品らしさがある興味深い部分。
ただ、流石に道中の捜査パートのテンポが良すぎる上に、そのテンポの良さに探偵としての技量があまり関係ないシーンもあるのが気になるところ。
アタリを付けた後の捜査では、たまたま近くに落ちていたとか、たまたま遊び道具にしていた子供に聞き込みを行えたとか、流石に話が早すぎた。
キーアイテムの一つが実は開幕から言及されているくだりなどは“伏線”として無理のない範囲かつ、テンポの良さが面白味に繋がるから良かったので、ボリュームに工数をかけれないなりの工夫をしたい気持ちは伝わってくる部分もあった。
それだけに、工夫が薄い箇所は投げやりな偶然を強く感じてしまった。
また、ヒロインと主人公のボーイミーツガールな描写も、例えば主人公の方が背が低いところや、ヒロインは友達が多い陽キャだけど主人公は友達がいるシーンがないところなど、掘り下げると味がしそうな部分は多そうだが全部あっさり目。
シリーズ1作目をうたっているので、この辺は後にとっているのかもしれない。
技量はあってもコミュニケーション能力がアレなんだろうな
多分東北の震災以降だと思うけど大きな地震や災害が起きてアナウンサーが必死に避難を呼びかけるのを見聞きすると胸がキュッと締め付けられるような感覚があって涙が出そうになる。
あの地震で自分自身が大きな被害を受けたとか、知り合いが大変な目にあったということはない。
確かにあの頃は首都圏で仕事をしていて震災当日はすごく不安だった。周りのビルはグニャングニャンに揺れ、自分がいたビルもなかなか揺れが収まることはなかった。電車もほぼ全て停まったし、かなりの距離を歩いて帰った人もいた。私はたまたま動いてる電車に乗ることができたので難を逃れることができ、被害は周りの人と比べても少なかったと思う。
そう。自身には大したダメージは無かったのだ。それなのに何故だろう、涙が出てきそうになる。自分の気持ちがよくわからない。
しかも、地震で揺れたからといって涙が出るわけではなく、あの避難を呼びかけるアナウンサーの声を聞くと涙が出そうになる。
もしかしたらただ歳をとっただけなのかもしれない。もしくはアナウンサーの技量により心が揺さぶられているのかもしれない。
でも、何か自分の中で消化不良のようなシコリが残っていて、地震の避難の呼びかけのようなものを見るととても揺さぶられているように感じるのだ。
こんな事で実際に被災した時に上手く対処できるのだろうか。とても不安に思う。
この気持ちを上手く言語化できなくてモヤモヤしている。誰か共感する方や腑に落ちるような言語化できる方いらっしゃいませんか?
ヘルシングが美麗で緻密な絵なのに比べて、よつばとに対してそれと「相当画力が高い」と同等の評価をする根拠ってなんなんだろうかとは思った。より手間がかかり技量的にも難しいのは(端的にたとえるならトレスで再現することすら大変なのは)前者な気がどうしてもしてしまう。
たとえばこれがたるルート君の作者とヘルシングならどっちがうまいという問いなら江川達也は作品ごとに絵柄がかなり違うので、たるルート君で見て取れる画力でもってあれが彼の画力の全力だと推定するのは到底妥当ではないので、一概に言えなくなるが。
あずまきよひこってセーラームーン同人描いてたときからあの絵柄のベース変わってないから、あれで精いっぱいなんじゃないかと推測してしまうんだ。