はてなキーワード: 理系とは
30歳の弟が働ける職場探してる。
・普通に就職していた時期(2社、累計4年間)があるが、全て心を病んで退職。
・発達障害持ち。ただし、グレーすれすれの軽度なので医者からは作業所に行かせたくないと言われている(工夫でフォローできるレベルの苦手しかなく、普通に働けるレベルなので、変に作業所に入れて社会復帰しづらくしたくないと)。
・自分で考えさせると「こうなるべき」みたいなこだわりが発動しがちなので、考えないでいい仕事をさせたい。
・こだわりがすごすぎて生活に支障があるレベルではない。自分ルールに合わない指示されても対応はするが、カウンター喰らわせられると思った瞬間に過剰攻撃する場合がある(面倒なお局と思ってくれれば。そのせいで人間関係うまくいかなくて毎回病んでた)
・ヘルニア持ちのため重労働は厳しいが、トラック、フォークリフト、金属加工などの工場経験あり(処方されてる薬の都合で車とかの運転は止められてる)
・人間関係うまくできない自覚と、無職期間から自信喪失しており、人と関わらない仕事がしたいらしい
・本人も働かないといけないと思ってるけど、何をすればいいかわからない。
・体は健康。
以上。
できないことがあるのは言っても仕方がないので、急にどうにかして自立しろとは思ってないんだけど、弟本人が、働いてないことで自分を責めてどんどん暗くなっていくのが気になっている。趣味とかボランティアとかでもいいから気分転換がてら好きなこと探したら?って言ってみたけど、働いてないのにそんなことをするのはおかしいと言う。気になるなら仕方ない、弟のタイミングがあるからね〜と休ませとくと「俺は働いてない…」が始まってしまいどうにもならん。じゃあ働けって感じなんだけど、「苦手がわからないから何の仕事ができるかわからない」って言い出す。
ついつい大阪大学と京都大学の違いっていうブログをくりかえしみてしまう。そうこうしているうちにランチタイムだよ!!これってやらかしだよね。
京都大学は、1897年(明治30年)日本で2番目に創設された帝国大学です。一方、大阪大学は、1931(昭和6年)年に大阪帝国大学として設立された日本で6番目に創設された帝国大学です。
このため、昭和の始め頃は東北大や神戸商科大学の方が評価が高かったそうです。
京大は国が必要性を認めて創設した官立大学です。阪大の創設は財界の陳情に始またが、政府は、「近くに京大があるのに必要ない?」という冷淡なもので、寄付を募り理学部を国に寄付することで、元からあった大医大と統合し帝大を付与してもらいました。初代学長には長岡博士が就任しましたが、嫌がる博士を「週に一日でもいいから」と無理やり大阪まで引っ張ってきた。空から俯瞰すると、国が必要性を認めて設立された京大は学舎が美しく整然と配置されて(京大は重厚で格調高い雰囲気にあふれるキャンパスを持ち、花時計と前に聳える楠の木で有名)が、阪大がたこ足大学で建物の配置が規則性に乏しく、雑然としている。手狭な石橋キャンパスは合併で学生があふれ、さながらブロイラー養殖場のようです。校歌もありません。阪大は、「それって、私立なの?」「両方合格したら、当然早大だよね」と関東での知名度は0。大阪の大学というなら、関関同立の関大や、マグロや相撲で有名な近大の方がはるかに知られています。
公務員就職はさらに弱く、国家公務員総合職試験合格者数では10位にすら入らない弱小派閥です。地元でも幹部職員は京大卒が多く教員採用試験ですら補欠合格となり春先まで悩んでいる人も少なくありません。
理系の場合、京大の不人気学科と阪大の人気学科が重なる程度の差があります。最大幅で見ると、京大工情報と阪大理系の最下位学科の差は偏差値で7.5にも達します。
このように大差があるので、阪大合格者が浪人しても京大に合格するのは難しいです。
阪大の合格点は非常に低く、工学系の不人気学科では47%で合格。理学部で数理2教科入試という軽量入試をしていた時期もあります。
トップ校は北野ですが、校区内の阪大には目もくれず京大に大量合格します。阪大に入学するのは2番手の豊中以下が多い、他の地方旧帝大であれば、諸般の事情で地元に進学する人がいるでしょう。
「なんで阪大なん?」
京大に入れない者が入学する大学。眩しい京大の陰に隠れた日陰者。卒業間際になって京大との社会的評価の差に愕然とし、「あの時もう少し頑張っておけば良かった…」という声を聞いてま。
はてな村はインターネットという山塊の奥深くにあるひっそりとした集落であった。
ITバブルに業界が浮かれ、ユーザー数の数を誇るサービスが現れては消えていったが、そんな世間の喧騒に関わらず、また、関わることもできないまま、隠れ里のように存在する村だった。
新奇なインターネット・サービスを求める旅人が時折訪れることはあったが、彼らは一様に
という言葉を残して去っていった。旅人が終の棲家として村に定着することは稀であった。旅人たちは村で何を見たのであろうか。
彼らインターネットの旅人があの村を訪れ、そして去った後に必ず言うのは
「あの村は狂っている」
ということだった。
更に旅人たちは言う
「村人たちは常に何かを憎んでいるように見えた」
村人たちは常に怒りを抱えていた。
村の外、遥か遠くの首府で何事かが起こると、それが話題になり、そのことで右や左、内や外、貧者と富者、男と女、理系と文系、そのような勢力に別れて争っていた。彼らは手斧を投げあい、敵対する勢力を根こそぎこの世界から抹消するような勢いで殺し合いを続けていた。そして旅人たちが驚愕したのは、村人たちがその闘いを楽しんでいる姿だった。
そこでは様々な戦法、論法が試され、闘技の見本市のようであった。村人たちはそこでこの世にある、あらゆる攻撃と防御を身につけるはずで、神拳と呼べるほどの闘技術がそこでは熟成していたが、それらの奥義は決して村を出て伝わることはなく、村民たちはその神拳と奥義を駆使し村の中だけで闘いを楽しむのだった。
ある年老いた旅人が語ったことには、あの村での闘いも随分大人しくなった、ということだった。彼が言うにはIDコールという非常に野蛮な武器が村では使われていたが、あまりにも危険だと村長が判断し、その武器を使えなくしてしまったのだった。
「今でもじゅうぶん危険でしたよ」
そう語ってくれた。
ここまでの話を読んだ読者は、はてな村が殺伐とした危険な場所だと思われただろう。決してそのような異常な村には立ち寄りたくない、そう思われたのではないだろうか。しかし、はてな村の異常性をまだ語らなくてはならない。
はてな村のはずれには「増田」と呼ばれる一角があり、そこでは村の中央でも許されないような罵詈雑言と危険で低レベルな闘いが繰り広げられていた。しかし、その一角には時折美しい花が咲くのだった。
首府の政策に異を唱える真摯な発言、日々の生活で見つけた優しい心、そして少し笑って微笑ましい気持ちになるような人生の欠片、そんな小さな花が咲くと、はてな村の住民はこぞってその花を眺める為に集まって惜しみない賛辞を送るのだった。
普段は殺伐として闘いに明け暮れる住民たちが、そのような小さな花を愛でる姿を見て、旅人たちは混乱し、村民たちの異常性を垣間見る。そして旅支度を整えて村を出るのだった。
いまもはてな村は存在し、村人たちは村民同士で果てしない闘いを続けている。そして時折咲く美しい花を愛でて彼らは暮らしているのだった。
イケてないけど出世しそうな理系男子を捕まえてマトモ男子に育てる女性の男女逆転版やん
増田は年収一本超えてるとか実家が太いとかヤリチンを本気にさせるだけの魅力があるんやろな
完全に勝ち組やん
知能が高いかは知らんけど、俺は高校くらいまでの共感のみでのコミュニケーションが極端に苦手だったけど、理系の大学に進学して論理的なコミュニケーションが成り立つようになってからはそれなりにうまくやれるようになったな。