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2021-05-16

anond:20210514120527

ボールペン習字写経を丁寧に毎日やれ

文字はただの線じゃなくて絵だと思え

手本の字を目に焼き付けて何も見なくても思い出せるようになれ

絵の上手下手はバランスで決まるから正確な長さ、角度を手に覚えさせろ

2021-03-22

又三郎

風の又三郎

宮沢賢治


どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。

 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。

 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光運動場いっぱいでした。黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。というわけは、そのしんとした朝の教室なかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。

 もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から

「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。

「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて言いました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると、教室の中にあの赤毛おかしな子がすまして、しゃんとすわっているのが目につきました。

 みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも集まって来ましたが、だれもなんとも言えませんでした。

 赤毛の子どもはいっこうこわがるふうもなくやっぱりちゃんとすわって、じっと黒板を見ています。すると六年生の一郎いちろうが来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大またにやってきて、みんなを見て、

「何なにした。」とききました。

 みんなははじめてがやがや声をたててその教室の中の変な子を指さしました。一郎はしばらくそっちを見ていましたが、やがて鞄かばんをしっかりかかえて、さっさと窓の下へ行きました。

 みんなもすっかり元気になってついて行きました。

「だれだ、時間にならないに教室はいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して言いました。

「お天気のいい時教室はいってるづど先生にうんとしからえるぞ。」窓の下の耕助が言いました。

しからえでもおら知らないよ。」嘉助が言いました。

「早ぐ出はって来こ、出はって来。」一郎が言いました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室へやの中やみんなのほうを見るばかりで、やっぱりちゃんとひざに手をおいて腰掛けにすわっていました。

 ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革かわの半靴はんぐつをはいていたのです。

 それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。

あいづは外国人だな。」

学校はいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました。ところが五年生の嘉助がいきなり、

「ああ三年生さはいるのだ。」と叫びましたので、

「ああそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが、一郎はだまってくびをまげました。

 変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけ、きちんと腰掛けています

 そのとき風がどうと吹いて来て教室ガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱かやや栗くりの木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにやっとわらってすこしうごいたようでした。

 すると嘉助がすぐ叫びました。

「ああわかった。あいつは風の又三郎またさぶろうだぞ。」

 そうだっとみんなもおもったときにわかにうしろのほうで五郎が、

「わあ、痛いぢゃあ。」と叫びました。

 みんなそっちへ振り向きますと、五郎が耕助に足のゆびをふまれて、まるでおこって耕助をなぐりつけていたのです。すると耕助もおこって、

「わあ、われ悪くてでひと撲はだいだなあ。」と言ってまた五郎をなぐろうとしました。

 五郎はまるで顔じゅう涙だらけにして耕助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいました。

「わあい、けんかするなったら、先生ちゃん職員室に来てらぞ。」と一郎が言いながらまた教室のほうを見ましたら、一郎はにわかにまるでぽかんとしてしまいました。

 たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友だちになった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕とった山雀やまがらに逃げられたように思いました。

 風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた言わせ、うしろの山の萱かやをだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました。

「わあ、うなだけんかしたんだがら又三郎いなぐなったな。」嘉助がおこって言いました。

 みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申しわけないと思って、足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。

「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」

二百十日で来たのだな。」

「靴くつはいでだたぞ。」

「服も着でだたぞ。」

「髪赤くておかしやづだったな。」

「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いました。見るとその子の机の上にはきたない石かけが乗っていたのです。

「そうだ、ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」

「そだないでああいづあ休み前に嘉助石ぶっつけだのだな。」

「わあい。そだないであ。」と言っていたとき、これはまたなんというわけでしょう。先生玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼び子を右手にもって、もう集まれのしたくをしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現ごんげんさまの尾おっぱ持ちのようにすまし込んで、白いシャッポかぶって、先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。

 みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と言いましたのでみんなもついて、

先生お早うございます。」と言っただけでした。

「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼び子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向こうの山へひびいてまたビルルルと低く戻もどってきました。

 すっかりやすみの前のとおりだとみんなが思いながら六年生は一人、五年生は七人、四年生は六人、一二年生は十二人、組ごとに一列に縦にならびました。

 二年は八人、一年生は四人前へならえをしてならんだのです。

 するとその間あのおかしな子は、何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌をかむようにして、じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は、高田たかださんこっちへおはいりなさいと言いながら五年生の列のところへ連れて行って、丈たけを嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。

 みんなはふりかえってじっとそれを見ていました。

 先生はまた玄関の前に戻って、

「前へならえ。」と号令をかけました。

 みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたが、じつはあの変な子がどういうふうにしているのか見たくて、かわるがわるそっちをふりむいたり横目でにらんだりしたのでした。するとその子ちゃんと前へならえでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して、指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにしていたものですから、嘉助はなんだかせなかがかゆく、くすぐったいというふうにもじもじしていました。

「直れ。」先生がまた号令をかけました。

一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出し、まもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通って、右手下駄箱げたばこのある入り口はいって行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかえって見、あとの者もじっと見ていたのです。

 まもなくみんなははきもの下駄箱げたばこに入れて教室はいって、ちょうど外へならんだときのように組ごとに一列に机にすわりました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろにすわりました。ところがもう大さわぎです。

「わあ、おらの机さ石かけはいってるぞ。」

「わあ、おらの机代わってるぞ。」

「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れで来たぢゃあ。」

「わあい、さの、木ペン借せ、木ペン借せったら。」

「わあがない。ひとの雑記帳とってって。」

 そのとき先生はいって来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり、一郎がいちばんしろで、

「礼。」と言いました。

 みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたが、それからまたがやがやがやがや言いました。

「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が言いました。

「しっ、悦治えつじ、やがましったら、嘉助え、喜きっこう。わあい。」と一郎がいちばんしろからまりさわぐものを一人ずつしかりました。

 みんなはしんとなりました。

 先生が言いました。

「みなさん、長い夏のお休みおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の中で鷹たかにも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上うえの野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間にみなさんのお友だちが一人ふえました。それはそこにいる高田さんです。そのかたのおとうさんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高田さんはいままでは北海道学校におられたのですが、きょうからみなさんのお友だちになるのですから、みなさんは学校勉強ときも、また栗拾くりひろいや魚さかなとりに行くときも、高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」

 すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢いよく手をあげましたので、ちょっと先生はわらいましたが、すぐ、

「わかりましたね、ではよし。」と言いましたので、みんなは火の消えたように一ぺんに手をおろしました。

 ところが嘉助がすぐ、

先生。」といってまた手をあげました。

はい。」先生は嘉助を指さしました。

高田さん名はなんて言うべな。」

高田三郎さぶろうさんです。」

「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手をたたいて机の中で踊るようにしましたので、大きなほうの子どもらはどっと笑いましたが、下の子どもらは何かこわいというふうにしいんとして三郎のほうを見ていたのです。

 先生はまた言いました。

「きょうはみなさんは通信簿宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」

 みんなはばたばた鞄かばんをあけたりふろしきをといたりして、通信簿宿題を机の上に出しました。そして先生一年生のほうから順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。というわけはみんなのうしろのところにいつか一人の大人おとなが立っていたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇あおぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしいんとなって、まるで堅くなってしまいました。

 ところが先生別にその人を気にかけるふうもなく、順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと、三郎は通信簿宿題帳もないかわりに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇に戻りました。

「では宿題帳はこの次の土曜日に直して渡しまから、きょう持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治ゆうじさんと良作りょうさくさんとですね。ではきょうはここまでです。あしたかちゃんといつものとおりのしたくをしておいでなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除そうじをしましょう。ではここまで。」

 一郎が気をつけ、と言いみんなは一ぺんに立ちました。うしろ大人おとなも扇を下にさげて立ちました。

「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろ大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが、四年生の子どもらはまだもじもじしていました。

 すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇をおりてその人のところへ行きました。

「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。

「じきみんなとお友だちになりますから。」先生も礼を返しながら言いました。

「何ぶんどうかよろしくねがいいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。

 運動場を出るときの子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなのほうをにらむようにすると、またすたすた白服の大人おとなについて歩いて行きました。

先生、あの人は高田さんのとうさんですか。」一郎が箒ほうきをもちながら先生にききました。

「そうです。」

「なんの用で来たべ。」

「上の野原の入り口モリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」

「どこらあだりだべな。」

「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」

モリブデン何にするべな。」

「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」

「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が言いました。

又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」佐太郎が言いました。

又三郎又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤かにしてがん張りました。

「嘉助、うなも残ってらば掃除そうじしてすけろ。」一郎が言いました。

「わあい。やんたぢゃ。きょう四年生ど六年生だな。」

 嘉助は大急ぎで教室をはねだして逃げてしまいました。

 風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。

 次の日一郎はあのおかし子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がして、いつもより早く嘉助をさそいました。ところが嘉助のほうは一郎よりもっとそう考えていたと見えて、とうにごはんもたべ、ふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを話しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集まっていて、棒かくしをしていましたが、その子はまだ来ていませんでした。またきのうのように教室の中にいるのかと思って中をのぞいて見ましたが、教室の中はしいんとしてだれもいず、黒板の上にはきのう掃除ときぞうきんでふいた跡がかわいてぼんやり白い縞しまになっていました。

「きのうのやつまだ来てないな。」一郎が言いました。

「うん。」嘉助も言ってそこらを見まわしました。

 一郎はそこで鉄棒の下へ行って、じゃみ上がりというやり方で、無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くと、そこへ腰掛けてきのう三郎の行ったほうをじっと見おろして待っていました。谷川はそっちのほうへきらきら光ってながれて行き、その下の山の上のほうでは風も吹いているらしく、ときどき萱かやが白く波立っていました。

 嘉助もやっぱりその柱の下でじっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに長く待つこともありませんでした。それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの鞄かばんを右手にかかえて走るようにして出て来たのです。

「来たぞ。」と一郎が思わず下にいる嘉助へ叫ぼうとしていますと、早くも三郎はどてをぐるっとまわって、どんどん正門をはいって来ると、

お早う。」とはっきり言いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが、一人も返事をしたものがありませんでした。

 それは返事をしないのではなくて、みんなは先生はいつでも「お早うございます。」というように習っていたのですが、お互いに「お早う。」なんて言ったことがなかったのに三郎にそう言われても、一郎や嘉助はあんまりにわかで、また勢いがいいのでとうとう臆おくしてしまって一郎も嘉助も口の中でお早うというかわりに、もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。

 ところが三郎のほうはべつだんそれを苦にするふうもなく、二三歩また前へ進むとじっと立って、そのまっ黒な目でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらくだれか遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきょろきょろ三郎のほうはみていても、やはり忙しそうに棒かくしをしたり三郎のほうへ行くものがありませんでした。三郎はちょっと具合が悪いようにそこにつっ立っていましたが、また運動場をもう一度見まわしました。

 それからぜんたいこの運動場は何間なんげんあるかというように、正門から玄関まで大またに歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねおりて嘉助とならんで、息をこらしてそれを見ていました。

 そのうち三郎は向こうの玄関の前まで行ってしまうと、こっちへ向いてしばらく暗算をするように少し首をまげて立っていました。

 みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと向こう側の土手のほうへ職員室の前を通って歩きだしました。

 その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵ちりがあがり、それが玄関の前まで行くと、きりきりとまわって小さなつむじ風になって、黄いろな塵は瓶びんをさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。

 すると嘉助が突然高く言いました。

「そうだ。やっぱりあい又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」

「うん。」一郎はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。三郎はそんなことにはかまわず土手のほうへやはりすたすた歩いて行きます

 そのとき先生がいつものように呼び子をもって玄関を出て来たのです。

お早うございます。」小さな子どもらはみんな集まりました。

お早う。」先生はちらっと運動場を見まわしてから、「ではならんで。」と言いながらビルルッと笛を吹きました。

 みんなは集まってきてきのうのとおりきちんとならびました。三郎もきのう言われた所へちゃんと立っています

 先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけて、とうとうみんなは昇降口から教室はいりました。そして礼がすむと先生は、

「ではみなさんきょうから勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生(と二年生)の人はお習字のお手本と硯すずりと紙を出して、二年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して、五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」

 さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎が、いきなり手をのばして二年生のかよの鉛筆ひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは、

「うわあ、兄あいな、木ペン取とてわかんないな。」と言いながら取り返そうとしますと佐太郎が、

「わあ、こいつおれのだなあ。」と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとはシナ人がおじぎするときのように両手を袖そでへ入れて、机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、

「兄あいな、兄なの木ペンはきのう小屋でなくしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながら一生けん命とり返そうとしましたが、どうしてももう佐太郎は机にくっついた大きな蟹かに化石みたいになっているので、とうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。

 すると三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたが、かよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると、だまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の目の前の机に置きました。

 すると佐太郎はにわかに元気になって、むっくり起き上がりました。そして、

「くれる?」と三郎にききました。三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように、「うん。」と言いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。

 先生は向こうで一年の子の硯すずりに水をついでやったりしていましたし、嘉助は三郎の前ですから知りませんでしたが、一郎はこれをいちばんしろちゃんと見ていました。そしてまるでなんと言ったらいいかからない、変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。

「では二年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に25-12=の数式と書きました。二年生のこどもらはみんな一生

2021-03-19

anond:20210319224825

習字は?大人になってやってて良かった/やってれば良かったってよく聞く。自分後者

anond:20210319080552

日本原爆が投下されたとき、実は日本人の識字率は低く、ほとんど本は読めなかった。

まともに読めていたのは上方江戸に近い人間だけで、あとはほとんどダメ

なぜ原子爆弾が投下されたか、という疑問にストレートに答えない日本人がいるのはこのため。

教育程度が低いから、いなくなってもいっしょでしょ、という判断が当時のアメリカ人一般常識だったのである

日本識字率が高いとか言ってるのは、全部右翼デマで、調べてみるとわかる。


さて、日本識字率が99%とかいう驚異の数字をたたき出したのはいなのだろうか?

私はこれは、1990年代の半ばくらいではないかとみている。

1980年代には、なんと、塾ではなく習字屋さんがはやったのである

こんなものがはやるということは、その地域は当然高卒だらけだ。

まだまだ1980年代は、低学歴国家だったのである。当然のことだが、誰も第二外国語の話なんぞするやつはいない。


よく日本大学進学率の低さを指摘するバカリベラルは多いが、これはバカリベラル中退率を考慮していないことに起因している。

日本人は中退を恥だと思うので、なかなか中退しない。

しかし、ラテン系になるといっきに跳ね上がり、気が付いたらいなくなってました、つまんないからやめました、というケースはざら。

こういう国々も識字率日本と一緒で、1980年代まではさほどではなかったとみてよいだろう。

2021-03-12

祖母介護ネグレクト

祖母の死から4年くらい経つ。

社会人になってから父宅から母宅へ移動したが、

半年で逃げ出して一人暮らしを始めた。やっぱり母はおかしい。

ちょうどその頃から祖母ボケ始めた。休日祖母の家に来てくれと電話が鳴り、母が出ないので私が取り、仕事で疲れているから無理だと断っていた。

社会人1年目の冬、知らない番号から着信があったので出てみたら、祖母のかかつりけ医らしい。

母と連絡が取れないので、祖母宅にメモがあった私の番号にかけたらしい。

祖母の病状が悪く、一度見に来てほしいとのことだったので休みを取って行った。仕事が佳境だったので恐る恐るだった。

祖母はがんにかかっていたらしい。顔が酷く腫れ上がって明らかに弱っていた。

小学生の時は私をネグレクトした母の代わりにご飯を作ってくれ、父宅に住んでいた時も、私を呼びだして会う度にご飯を奢ってくれ、お小遣いもくれた祖母だった。酷い状態に涙が止まらなかった。医師の話も聞いた。

何回か通ううちに、私のことを祖母の妹の名前で呼ぶようになった。それがつらくて行くのをやめた。

祖母親族と母に連絡するだけで自分の役目を終えたような顔をして、また仕事に行って休みは寝たり遊んだりする日々に戻った。

12月の夜、祖母危篤だと母より連絡があった。

仕事が終わって自宅の最寄り駅に着いたばかりの私は、「疲れているので行けない」と返した。

祖母はそのまま亡くなった。連絡が来てからやっと自分のししまたことに気づき、熱を出して寝込んだ。熱が下がらないまま遺品整理の手伝いに行ったがまるで役に立たなかった。

葬儀喪主は母だったが、やはり様子はおかしかった。親戚や父も含めて会食をしようとしたらしいが、場所を押さえてないので無理だった。八つ当たりされたので逃げ帰った。

小学生時代祖母に育ててもらったようなものなのに、大学生にもなってお小遣いを貰っていたのに、なんで仕事疲れたくらいであんなに簡単に切り捨てられたんだろう。自分はまともな人間だとばかり思っていた。おばあちゃんごめんなさい。

骨壷は母が持っていたが、どうも墓に入れるのを面倒がっていたので、私が行っている墓には祖母がいないかもしれない。墓越しに謝ることすらできない。

墓参りには線香しか持っていかなかった。あとは掃除だけして帰った。

祖母は私の着物姿を見て喜んでくれた。習字で金賞が取れなかった時だけ怒られたけど、私がもらった賞状トロフィーをたくさん並べていた。

次は花を持っていった方がいいだろうか。祖母の好きな花も知らない。仏花は菊だったっけ?

私が死んだら祖母に会って謝れるんだろうか。

比較的楽しく過ごしているけど、ふと祖母のことを思い出す度に罪悪感で苦しくて涙が止まらなくなる。本当にごめんなさい。父と母に振り回されていた私をかわいがってくれたのに、報いるどころかネグレクトで返した。

言い訳しようと思えばいくらでもできる。そう思う度に自分外道さに反吐が出る。仕方なくなんかない。疲れていたとか関係ない。祖母に比べれば大変なんかじゃなかった。休みには遊ぶ余裕があったのになんで行かなかったんだ。きっと私がそういう人間からだ。屑だ。生きていていいのだろうか。父と母が死ぬ時も私はこうなんだろうか。私が代わりに死ねばよかったのにな。ごめんなさい。ごめんなさいと伝えられない。ごめんなさい。おばあちゃんは許してくれるだろう。こんな屑に優しくしてくれたんだから

天罰を与えてくれ。

2021-03-07

文章書くのが嫌いな話。

文章を書く時、頭の中で浮かんでいる支離滅裂言葉の束が上手く繋がらない。だからいつまでたっても文字数が増えない。小さい頃から、空白の埋まらない日記帳や作文用紙が大嫌い。

小学一年生の時、「休みの日にあった事を書きましょう」と言われた。私は兄と遊んだ時の事を書いた。家の向かいに住んでいた兄の友達も一緒だった。だから作文に「お向かい亀山(仮)くんも一緒に遊びました。」と書いた。お向かい亀山(仮)くんって誰だよって笑われた。誰って、お向かいに住んでる亀山(仮)くんだよ。なんで笑われたのか20歳を過ぎた今でも分からない。勿論(仮)なんて作文には付けてない。

文章を書く事も苦手だか、文字を書くのもあまり好きではない。

幼稚園の頃、幼稚園の授業(?)が終わった後に幼稚園習字教室があった。見本を見ながら文字を書くだけだった。今は字を書くことが難しいとは思わないが、当時園児の私には地獄時間だった。私は『の』という字がどうしても書けなかった。でも書いて先生に見せないといけなかった。そこで私は友達『の』が書ける友達に頼んで書いてもらった。その後普通にバレて怒られた。怖かった。先生に怒られることではなく、ただ1人だけ『の』が書けない事が。

次の習字教室がある日、字が書けない事が怖かった私は幼稚園行きたくない母親駄々をこねた。だが、母親は「行きなさい」と取り尽くしまもなかった。絶対に行きたくなかった私は泣き叫び習字道具を道路にぶちまけた。母親は私の事を引きずって幼稚園に連れていった。習字教室には結局それっきり行った記憶はない。

お題が与えられ、それについて文章を書きなさいと言われた時、全く書く事が無い時はどうすれば良かったんだろうか。全く無いなんて有り得ない、何かある筈だから、なんて言われても本当に何もなかったかのに。作文に嘘を書いたって、分からなければそれで解決するなんてその時は知らなかった。

もし、過去に戻れるなら、『の』が書けなかった私と一緒に『の』を書く練習をしたい、「お向かい亀山(仮)くん」を笑われた私の作文は笑わず私が聞いてあげる、何も書けない私は私が代わりにテキトーな事書いてやるよ…なんてね…書ける気がせんわ、すまん。

2021-03-05

新潟油揚げ

この前どこで買ったか忘れた

習字セットみたいな油揚げ

2021-03-04

字が汚すぎて辛い

ペン習字でも始めれば劇的に改善するんだろうか

おすすめがあったら知りたい

お金はない

2021-02-28

絵が描けない

子供の頃から絵が下手で、中学三年間は課題が完成しないとか、テストの配点の半分が実技だったりとかで、他の科目は五段階でいつも4〜5取れてるのに美術だけ常に2みたいな感じだった

特にクロッキーとかデッサンとか風景画とか、立体を絵にするタイプの絵は何から手をつけたら良いのかわからなくて目印の十字とかを描いたとこで手が止まる感じ

アニメ漫画の平面的な絵をそっくりそのまま写して描くとか、写真に撮られた動植物を同じように紙に写して描くとかはできるから2Dから2Dは多少できるんだと思うけど、アレンジしたりとかは一切できない

大袈裟に例えると、正面向いてにっこり眉毛黒豆の目のアンパンマンは見本があれば描けるけど、それを少し変えて目もにっこりにしようとするとバランスおかしくてアンパンマンじゃなくなる、みたいな感じ

これも、風景写真になってくると目で見てる時と同じように、何をどうしたら絵にできるのかわからない

レタリングカリグラフィ?の単元だけはすごい楽しかったし、美術以外だと習字も苦手だったんだけど、明朝体というフォント知ってからは多少見られる字が書けるようになった気がする

図録に載ってた植物わ元にしたスクラッチアートとか、独自パターン模様を作るっていう課題も一応完成した記憶あるし、後者のやつはしばらくハマって家でもやってたから、デザインとかそういうのは好きなんだと思う

今の仕事上でデザイン能力必要になることはないし、せいぜいか資料の配色や配置バランスくらいだけどそこは苦手意識もない

それでも絵が描けないのがこの歳になっても地味にコンプレックスで時々思い出してはなんて私は絵が下手なんだろうって思う

絵が下手、って検索すると出てくる「発達障害の特徴の一つとして空間把握能力が低い」とか「発達性協調運動障害」とか、なるほど当てはまる…と思う部分もなくは無いけど、美術の授業のある学生時代ならまだしも、今のところ生活上で困ってるわけじゃないし、飲んだら絵が上手くなる薬が貰えるわけでもないしな

から習って直るもんなのかこれ

習うとして何をどこで習えば良いんだろ

2021-02-27

anond:20210227022501

習字そろばんができたら気楽なサラリーマンになれた時代の定年は50才で平均寿命は60代

大卒は2割台、高卒だって7割以下

電気冷蔵庫炊飯器コンビニもなかったから、専業主婦が家庭に1人はいないと毎日ご飯が食べられなかった

事務職サラリーマンになる奴が少なかったか終身雇用年功序列ができたんだよ

高卒ほぼ100%大卒5割以上の時代には物理的に無理

anond:20210227022124

から人材の柔軟な活用

教育によるワークシェアリング

 

むかしは習字そろばんができたら採用されたの

今はエクセルワードがあればどちらもいらないし派遣が10分でこなすの

でもおまえらちょっとしたらえっティックトックもできないの?ユーチューブ実況も無理なの?っていわれるの

2021-02-24

ADHDの友人と接してみて分かったこ

ADHD発達障害という診断が下っており、なんとかとかいう薬を飲んでる友達と一緒にいてわかったことを書く。


行間が読めない、空気が読めない。

というより、何かあるっぽいけどわからいから困っていると言うのが正解っぽい。いやこれくらいわかってよ、みたいなことがことごとく全部ダメっぽい。それは他者と接していれば当たり前にわかることだったりするけど全部ダメ。まじで全部ダメ。もしかしたら後から気づいたりはするのかもだけど。

言葉のまま受け取るし、それ以上がない。

でも本当は、そんなもんでいいのかもしれない。

全部説明して含ませたりはしない、ということで落ち着いた。


自分が話したことがその人の全てになってしまうのでSNSでは距離を置いた。

私が言う何気ないことや雑談が友人の全てになってしまうし、何気ない悪態などがものすごい憎悪の塊になってしまっていたので驚いた。

これは前述した、「言葉のまま受け取る」という特性のせいなんだろうな。強めの言葉冗談なんかは一切通じない。だからそういうのを見せちゃダメだし言ってもダメ。お互いに悲しく辛いことになるし、そもそもこっちの言ったことや生活そいつの根になることは、かなりキモい。なんで穏やかな人なのに友達いねーのかなと思ってたけどなるほどなと感じる。




ゼロから何も作れない。

他人言葉やどこかで見たものをひたすらトレースしている。友人だけじゃなくこの世のすべての人間もまあそうなんだけど、友人は極端にそうだということ。だから硬筆とか習字とか向いてるんだと思う。お手本があってその通りにやること。私たちハンドメイド手芸趣味で知り合っているので、なかなか厳しいものがあると思った。



1番の問題は、そんな奴と一緒にいて楽しいのか? ということ。

友人は技術があり技術の話はたいそう弾むのでそこは楽しい。多分自分特性のせいで人間関係で相当苦労していて、だからさらっとした雑談なども可能。人当たりもよく、だからこそ深く付き合うと「なぜ?」と混乱してくる。

人間として好きな部分が多いからこれからも付かず離れずでいると思うけど、余裕がないときに接するのが厳しい。でも人間関係なんてそんなもんだよね。

結論:ADHDからどうと言うことはない。

2021-02-15

昨日はバレンタインなので近くにある小さなたこ焼き屋たこ焼きを買いに行った

午後2時だった。

ポケモンGOラティアスをゲットするために午前10から徘徊を開始した俺はクタクタだった。

午後13時30分に公園のベンチに腰を下ろして素煎りのナッツを齧ろうしたら、公園が親子連れでいっぱいだったので立ち尽くしてポケモンGOをした後、スマホ電池も残り20%となったため帰宅することにした。

車1台がやっと通れる細い道にたこ焼き屋はある。

昼飯のナッツを食いそびれた俺は家でナッツ齧るのも味気ないと思い、たこ焼きを食べることにした。

それが午後2時だった。

窓口にいくと呼び鈴が置いてあるのでそれを押す。

リーン…となったベルは静寂にかき消された。人はきそうにない。

仕方がないので「すみませーん」と声をかけるも人は来ず、諦めかかけたその時に窓口の机に「右奥の出入り口よりお入りください」と表記があった。

窓口で頼むと店舗に入るのはハードルが違いすぎる。しかお腹の中は完全に粉ものを求めていた。

入り口は本当にただの民家に「出入り口」と書いてあるだけだった。意を決して入ると「ピロピロピロ…」と電子音が奥から響く。

すると50代~60代のおじさんが一人「いらっしゃい」と出てくる。

たこ焼きできますか」と聞くと「なんにしましょう」と聞いてくる。

看板には

たこ焼き 8個入り450円 6個入り380円

 素焼きもできます

ボール焼き(肉入り) 8個入り500円 6個入380円

ミックス (たこ4・肉4)490円

とあったのを思い出し「たこ焼きの8個入りで」と頼む。

から焼き始めるような雰囲気がしたので「座らせてもらいますよ」と声をかけて座る。

そういや昔母親によく連れてきてもらったたこ焼き屋もこんな民家を改装したようなところだった。たこ焼き屋というか粉もの屋で焼きそばとかお好み焼きもしていたが。

そこは12はいったたこ焼きが400円だったかで、習字塾の近くだったため習字が終わったらお昼ごはんはいつもそこだった。1粒のたこ焼きを口の中いっぱいに頬張りやけどをする。それが土曜日の当たり前だった。

高校生になった自分部活がない日はそこでたこ焼きを買って家に帰っていた。

よく考えたら12個で400円は破格だ。そこのおばちゃんは俺がいつも紅生姜多めマヨネーズ抜きを頼むので紅生姜生地に混ぜ込む量もあり、思い出が蘇る。

5年前ぐらいに倒れてからお店は畳んでしまったのが悔やまれる。

そんな事を思いながらたこ焼きができるのを待つ。

「おまたせしました」

おじさんがワンパックのたこ焼きレジ袋にいれて渡してくれる。

500円を渡し50円を受け取る。

「美味しかったらまたこよう」

そう思って家についた。

 

たこ焼きものすごく1粒が大きかった。

銀だこやその他たこ焼きチェーンでもそうだが、最近流行りは大粒のたこ焼きなのだろう。

小さかった自分ならまず一口では食えない。やけどしないように冷ましてから頬張る。

紅生姜は中々多め、マヨネーズもかかっているが今の自分は食べられるようになったか問題なし。

ただ思ったが、大粒なのはお店の都合なのかとおもった。

昔たべたたこ焼きは確かに一粒が小さかったがその分たこを楽しめた。小さい分主役のタコが主張をしてきた。

いや、この大粒のたこ焼きの中にあるタコ自分なのだ

体だけ大きくなって、自分だと主張できる部分は子供の頃から大きくなっていない。

ある人が考えれば大粒のたこ焼きは原価の安い粉もの部分で満足させられる企業努力だというだろう。

俺もそうなのだ。体が大きくなったのはただただ人間として労働力を高めた結果にままならない。

だが悪い言い方をすれば、中身が伴ってないたこ焼きと人間食べログレビューで3.0なのだ

そのたこ焼き屋レビュー数3件で平均3.08だった。これが自分なのだ

俺はおばちゃんたこ焼きがもう食べられないことを悔しく思っていたが、実のところは俺がおばちゃんたこ焼きを食べる資格を失っただけなのだ

今の自分には流行りの大粒のたこ焼きしか食う資格はない。

俺はそんな事を思いながら「でもいいじゃねーか、大きいだけでも」と思いながらその店の食べログレビューに4をつけたのだった。

2021-01-08

女子格差をつけられて、どんなときでも負かされる。私はダメ男子でした。

40年ほど前、男女同権なんてものは何もなく、男子女子に勝って当たり前という時代だったので、負けたら恥で、勝てて当たり前という思想が幅を利かしていた。

今だから言えるが、小学3年からは、女子に負かされることが増えて行った。

小学2年の時に習字で負かされたのが最初だったのかもしれない。

ことごとく負けが込むようになりだすのはその翌年である

とにかく、算数だろうが、作曲だろうが、ピアノだろうが、エレクトーンだろうが、すべての局面で負け。体育ですら、負け。

極めつけは、学校と住所は全く違う1学年上の女子に、自作自演ですら負かされたこである

もし同じクラスだったら、泣いて止めてしまったのかもしれない。違ったクラスだったので衝撃は少なかったが、その女子作曲した楽譜を眺めながら、何が自分に足りないのかもわかっていなかった。

その負けっぷりを救ったのが、小学4年の時に現れた初恋の人だった。

初恋の人からアルファベットの使い方を教わり、英語の検定があることを知ったのではないかと思うが、正確な時系列はわからなくなっている。

小学5年のときアルファベットが読めるようになったので、輸入楽譜の棚に何が書いてあるのかもわかっていた。

けたたましい足音を立てて階段上り、大きな都市にあった本屋楽譜の棚にたどり着いた。当時私は本屋図書館もない街に住んでいたので、この機会を外すともう読めない。私は焦っていた。

「たしかシェーンベルクってのはSから始まる」と言って、探し当てた曲が、シェーンベルクピアノ協奏曲の2台ピアノ版だった。

全部の音符に臨時記号がついてあったのを見たときには興奮したのを思い出す。その楽譜は買ってもらえなかった。6000円くらいしたはずだ。楽譜はまだまだ値を下げてくれなかった。

女子に負けないようにするには、こうやって、楽譜を読めばいいんだ、と気が付いた瞬間だった。

すべての局面で負かされることがなくなったのは18歳を過ぎてからだ。

それまでは常に何らかの敗北感を女子に対して抱えていて、ロマンティシズムや強い感情表現を嫌って生きていた。敗北感がなければ、どんな音楽を作っていたのだろうか?

2020-12-29

椎名林檎習字

まだデビューしてばっかりで可愛かった頃(今も可愛いけど)、本人が書いた習字毛筆で書いたのがアルバムだかギタースコアかどっかにのってて、えっ? こんなカワイイ子がこの字? ってめっちゃ萎え記憶がある。

しばらくして、東京西荻窪という町でとあるラーメン屋に入ったところ、のれんに書かれていた店名の習字?が椎名林檎が書いたのにめっちゃそっくりで、またある意味萎えしまったのだが、なんか妙に気になってしまって、他の場所に引っ越すまでの間、そのラーメン屋には結局かなり頻繁に行って時々椎名林檎のことを考えていたと思う。

確かタイラーメンの店だったはずだ。まだあるか知らんけど。

2020-12-23

anond:20201222135019

ん〜ね、こだわりと言っちゃそうだよね

うちの弟もちょっとでもピンク系の持ち物は頑なに持とうとしない(習字道具とか使い回してるんだよね)

周りにどう思われるかってのも気にしてるのかな

意外とみんな他人無関心だと思うんだけどな

2020-12-19

anond:20201219235149

削除逃れできないように書き込みを保存しといてあげるわ。

イライラ落ち着いた後また見返してみてね!

なんかおかし努力してるように読める、年少さんだよね?

ちゃんと言い聞かせてる?もし発達がゆっくりさんだったらごめんね。

うちの子は別件で唾液サンプル採ったけど話ちゃんと聞いてくれたから楽だったよ?

舌の下にツバが出るところあるから、溜めてそこからベロでとって入れて、また溜めて線まで入れようね!って伝えた?

スポイト見せて説明しても注射器勘違いしてるの?お料理とかお習字とかお化粧品の詰め替えとか、他の生活面で一度もスポイト見た事ないのかな?ちょっとびっくり。

今はコロナから仕方ないけど、今後はもっと色んな生きた体験させないとね。これから時代経験積ませるのが愛情から

あとうちの子達は注射器怖がらないよ。予防接種も体を守ってくれるお注射するねって言ってるから泣いた事ないし、注射で泣くって漫画みたい笑

陰性だといいね、お大事に!

anond:20201216230223

なんかおかし努力してるように読める、年少さんだよね?

ちゃんと言い聞かせてる?もし発達がゆっくりさんだったらごめんね。

うちの子は別件で唾液サンプル採ったけど話ちゃんと聞いてくれたから楽だったよ?

舌の下にツバが出るところあるから、溜めてそこからベロでとって入れて、また溜めて線まで入れようね!って伝えた?

スポイト見せて説明しても注射器勘違いしてるの?お料理とかお習字とかお化粧品の詰め替えとか、他の生活面で一度もスポイト見た事ないのかな?ちょっとびっくり。

今はコロナから仕方ないけど、今後はもっと色んな生きた体験させないとね。これから時代経験積ませるのが愛情から

あとうちの子達は注射器怖がらないよ。予防接種も体を守ってくれるお注射するねって言ってるから泣いた事ないし、注射で泣くって漫画みたい笑

陰性だといいね、お大事に!

2020-11-25

anond:20201125091359

でも「書」って言ったら掛け軸とか、半紙に書いたお習字を思い出すよね

2020-11-20

anond:20201120183828

それを学校で長い時間かけて習ってたんやで

平方根筆算習ってたし三角関数計算尺とかあったんやで

今も小学校そろばんとか30分くらい習うけど社会に出て絶対使わんじゃろ

ホワイトカラーになれるほうほうを教わって脱落せず大学までいけたら確実にホワイトカラーだった

習字ペン習字まで段もってたら秘書採用

いい時代だった

2020-11-17

anond:20201117200659

そろばん習うのはタダか?習字習うのはタダか?

そんなわけがない。

タダで他人自分スキルを教えるわけがない。

教えて欲しかったら金払えよ

2020-10-07

薬の名前だけに使われる独特の書体ってなんなの

あの、カタカナめっちゃ太い習字みたいなやつ。

めっちゃこわいんだけど💦

2020-08-26

字が綺麗になりたい

冠婚葬祭の筆ペンもそうだし、書類の字とかも綺麗な方が良い。

綺麗な字でメモつけて渡したりしたら絶対気持ちいいだろうな~

職場にめちゃめちゃ綺麗な字を書く人がいて、彼女が在職中に聞けばよかった。

小学生ときはそれでも綺麗だったと思うのに、いつのまにかものすごい癖字に。

硬筆かペン習字かお習字教室かどれに通えばええんや

私の目的だったらペン習字とかかなあ

100均ひらがなドリル買ってきて毎日なぞる方がうまくいくのか…

でも漢字はどうしたらいいのだろ

癖字の矯正ってできるんかしら

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