はてなキーワード: 野木亜紀子とは
まあファンタジーとしては面白かったけど、ヤクザに無駄に親しみ持たせちゃうのは罪だよ。ヤクザをメジャー作品に出す罪。確かに彼らも人間だけど、間違っても「いい人」ではない。視聴後にウシジマくん的な作品を読ませないとバランスが取れないだろう。
原作は女性作家によるマンガなんだっけ? 女性クリエイターがこの手の過ちをやってしまいがちなのは、やはり暴力があんまり身近じゃないんだろうかなと推察する。これを書いてる私はアラフォー男性で、中学校あたりはまあまあ荒れてた。世代的なものであって、現在は平和なのかもしれないが......でも男性作家はあんまりほのぼのヤクザを描かない気がする。そういう作品あるかな、あんまり思いつかない。
凄むだけで決してカタギには手を出さず、薬物や女衒といった属性を排除したヤクザなんてファンタジーの中の存在だろうし、ヤクザ相手に油断させるのは良くないことだと思う。
野木亜紀子、アンナチュラルやMIU404は天才的だったけど、映画作品はそこまでではないんだよなぁ。彼女の才能が生きるのは1クール連ドラなんだろうか。三谷幸喜は映画も巧かったが。いやいきなり比較に出して悪いけど、脚本家の名前で作品見ることなんてあんまりないんだよ。三谷幸喜以来でちゃんと名前を覚えた作家ではある。そのうち大河ドラマとかもやるんだろうかな。長いほうが面白いものになりそうな気はする。
色んな切り口があり議論が錯綜するので自身の整理のために考えたことをまとめます。
今回の件では、本来外野であるはずのネット民が攻撃をしかけて炎上させることがなければ、原作者が追い詰められて自死を選ぶことはなかったでしょう。
にも関わらず「日テレが悪い」「小学館が悪い」「プロデューサーが悪い」と主張しているのは、自信の罪を自覚しながら、それを認めたくがないために、罪を押し付ける先を探しているようにさえ見えます。彼らは自信の振る舞いを反省する気はないのか。
誰がなんと言おうが、一番悪いのはお前らだよ。
漫画が改悪されて実写化されると「原作レイプだ!」と騒ぐ方々が現れます。
実写化により、原作に改変が加えられるのであれば「原作レイプ」という主張も分かります。
でも、原作は、原作のままなんじゃないですか。原作と実写化された作品は別物なのでは。
「自分の愛しているものが陵辱されたら許せない」という気持ちは理解できます。
更に、原作をそこまでのレベルにしたのは、原作者および出版社の努力なのでは。あなたたちは、その創作活動に対して何をしたんでしょうか。
その方たちが「自分たちの異議には正当な根拠がある」というのは無理があるでしょう。
実写化にたいする違和感を表明する権利は侵害されないので、「原作レイプだ!」と述べるのは全く問題がありませんが、その主張に正当性はないです。
ネット民が攻撃を仕掛けるのも、原作ファンが「原作レイプだ!」と叫ぶのも、感情に起因するものなので、止めようはありません。
そこに対して、理屈でさとすのも愚かなことでしょう。
《海猿》《金色のジャッシュ》の問題について、長期にわたって主張をし続けた方がどれだけいるんでしょうか。
事態を改善したいなら、一時の感情で叫ぶのではなく、問題の真因はどこにあり、どのような再発防止を打つことができるのか考えるべきでしょう。
何がおきたかを明らかにするために第三者委員会を設置して経緯を明らかにして欲しいという声があります。
それして、どうするんでしょう。
経緯を明らかにしたいというよりは「どうせテレビの奴らは漫画を下にみて酷いことしたんだろう。それを認めて土下座しろよ」という主張が多いように見えます。
醜悪なテレビの奴らを土下座させて溜飲を下げたい以上の意味があるんでしょうか。
実は簡単な再発防止策があります。「お好きなように改変して下さい」と言わない原作者の作品は実写化しないことです。
「原作者の望まない実写化は公開しない」でもいいんですが、これだと、実写化作品が完成した後で原作者が「私はこの脚色は不満です」と述べると公開できなくなります。このリスクは流石に実写化サイドは呑めないでしょう。
どちらも極端だろうということであれば、
1.を約束しても醜悪なテレビの奴らは「これが我々の考えた漫画に忠実な脚本です」と全く忠実でない脚本を出してくることは考えられるので、2., 3., 4.などは有効な策といえるでしょう。
「お好きなように改変して下さい」と言わない原作者の作品は実写化しないというのが、実は、現実的であり有効な策だと考えています。
これで困る人がいるのかですが、原作者も、原作ファンも、困らないでしょう。
「テレビ局は困るんじゃないか?」は、困ると思います。ただテレビ局は、漫画原作に頼らず、オリジナルで魅力的な作品が書ける脚本家を育てるという道があります。
困るのは、出版社です。メディアミックス戦略が使えなくなります。
しかしここは、原作者を守るために、「お好きなように改変して下さい」と言わない漫画家の作品を実写化に提供してはダメです。
それにより、メディアミックス戦略が使えなくなり、出版社の収益は減るでしょう。いくつかの漫画雑誌も廃刊に追い込まれ、世の中に出ていたはずの作品が日の目を見ることがなくなるかも知れません。
でもそれが、漫画ファンが望んだことなんです。甘んじて引き受けましょうよ。
仮に原作者が脚色を担当したとしても「素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです」という状況に陥ることは充分にあり得ます。
「漫画に対するリスペクトがないから、こんな酷いことが起きるんだ」という主張がありますが、そうなんでしょうか。
実写化しようと思った時点で、原作に魅力があると感じているはずなのに、それでも原作を蔑ろにしてるんでしょうか。
尺が合わない等で原作のエピソードを取捨選択したり、逆に原作にエピソードを足さなきゃいけないこともあるでしょう。
このときに、原作のエッセンスを汲んで適切な取捨選択ができたり、原作のエッセンスを活かしてエピソードを足せる脚本家もいるでしょう。
野木亜紀子さんは、それがうまくできる一人です。「全ての漫画原作の実写化は、脚本を野木亜紀子が担当する」とすれば、今回のような事象は発生しないでしょう。
ただそれは非現実的です。野木亜紀子ほど技量が高くない脚本家も、実写化のための脚本を書きます。
そのとき、うまく捌けずに、余計な恋愛要素を入れてしまう脚本家もいるでしょう。
それは、リスペクトがないのではなく、技量の低さに起因しています。憎むべきは「リスペクトがない」といった心理的な要因ではなく、「脚本家の技量が低い」という問題なんじゃないでしょうか。
たしかに邦ドラマはクソ作品の割合が多いですが、大病院占拠のようなクソドラマのせいで、元増田さんに邦ドラマを嫌いになってほしくないので、個人的にオススメのクオリティの高い邦ドラマを紹介します。(元増田さんの好みもあるので、あくまで “個人的に” です) 趣旨ズレしてすみません。
・アンナチュラル
・MIU404
・Nのために
・最愛
〈追記〉
・俺の話は長い
・大豆田とわ子と三人の元夫
・俺の家の話
既に見ていたら申し訳ありません。NetflixやWOWOWのオリジナルドラマは金がかかってるので、民放ドラマほど安っぽい演出もなかったり、攻めた題材を扱いやすかったりして、ある程度クソ脚本でも楽しめるものが多いです。ただ民放ドラマは低予算・コンプラ配慮・大衆向けの大味な作品が多いので、クソになりやすいです。よく「映画は監督のもの、ドラマは脚本家のもの、舞台は役者のもの」と言いますが、間違いないです。野木亜紀子、古沢良太、坂元裕二あたりは安定して面白いことが多いと思います。(作品によりけりですが、政治色が強くてポリコレ臭がしたり、会話劇がしつこかったりするので、人を選ぶかもしれません)
あとはどのテレビ局にも名プロデューサー的な人がいるので、上記のドラマに携わってる人が作るドラマは結構面白いです。
普段あまり邦ドラマを見ない人が、たまたまテレビに映ったドラマを見て「クソつまんねえな。邦ドラマはクソ!」となってしまうケースをよく見かけますが、邦ドラマオタクとしては少し悲しいです。多くの人が良作に触れることで、「邦ドラマはつまらん」というクソデカ主語の批判が減るといいな。
野木氏の書いている主人公(または主人公サイド)はいわば「持っている人」しかいない。
全作品目を通したわけではないが、「持ってない人」が主人公サイドに組み込まれたことはあっただろうか。
逃げ恥は原作ありなので多少違うかもしれないが、主人公のみくりははかつての彼氏に「小賢しい」と言われるほど頭がキレる女性だった。
その小賢しいが呪いだのなんだの言われているが、地頭がいいということである。これは「能力」といっていいだろう。
夫婦になる平匡もである。拗らせた童貞という一種の劣等感は持っていたが、正規で働き、家政婦を雇える収入を得ていた。
そして二人とも性格がまともな両親に恵まれ、お金の心配せずおそらく大学まで通わせてもらっている。もうここである意味勝ち組である。
そんな勝ち組二人が子供が出来き、夫婦となり問題を乗り越えていくSPはこれでもかというぐらいキラキラしていた。
金銭的に余裕があり、話が通じるパートナー、そして助けてくれる両親と友人と親族。
百合ちゃんは子宮体がんで病院に付き添っ杖くれる人がいないといいつつ高校生時代の友人に助けてもらえ、
嫌な役と感じていた上司は実は頼れるいいやつだったというオチ。
何故ならば自分には、助けてくれる、友人も家族もお金もないからである。
だから自分は羨ましい。野木作品にでてくる「持っている人間」達が。
アンナチュラルでは法医学者という手に職をつけ、くいっぱぐれない女性が主人公だった。
MIU404では警察官二人が主役である。よほどのことがない限り定年まで勤めあげられる職業であった。
両者とも「持っている人」である。
「持ってない人」は舞台からいなかったものとして排除されるか、被害者か加害者になるしかない。
それが自分は一番苦しい。
野木作品では「持ってない人間」は加害か被害されないと問題提訴できないのである。
そして「持ってない人」は概ね、主人公たちが試練を乗り越え、ますますキラキラするための舞台装置でしかない。
よく社会問題を扱っているともてはやされているが、本当の底辺の問題は全く取り扱ってもらえないのだ。
それがものすごく辛くてしんどかった。