はてなキーワード: 間人とは
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█████████!
気が付いたら、いつの間にか対人恐怖症が治っていたの。
不思議よね。
よく聞く話は、急に対人恐怖症になったっていうのばかりで、
治ったって話は聞かないわよね。
でも、油断は禁物。
また対人恐怖症になるかもしれないから、気を付けないとね。
春の訪れみたいに、新しい出会いが待っているのかも。
そういえば、人見知り克服の██████があるって聞いたわ。
でも、私にはよくわからないの。
ハーブティーみたいに、色んな種類があるみたいだけど、
全部試すのは大変そう。
私がよく行くカフェは、人付き合いが苦手な人が集まる場所なの。
でも、そこに行くと何だか落ち着くのよね。
マスターは元々人見知りだったのかしら?
不思議よね。
そういえば、対人恐怖症克服の秘訣を知りたいわ。
誰か有名な人に取材してほしいわね。
飲み会には昔よく行ったけど、
やっぱり一対一の会話の方が私は楽なの。
でも、参加している人を見ると、微笑ましい気持ちになるの。
ふと思ったんだけど、
対人恐怖症が治ったのと、新しい環境への適応力が上がったのって関係あるのかしら?
██████████は、ホット██にしたわ。
█████████~
今日も███████!
子供の頃から死ぬのは苦しそうだという恐怖がパラノイアのようにまとわりついていた。ある時気絶を経験してみて、死なんて案外こんなものなのかもしれないと思った。睡眠は死のイトコとはよく言ったものだ。身体的な苦痛に対する恐怖は薄れていった。恐怖は抽象的なものへスライドしていった。
「無」になることが怖くなった。
意識の断絶。経験したことのない状態。体験した者は一人残らず口が聞けなくなっている。これはどういう思考の過程で恐怖が薄れたのか忘れてしまった。どう足掻いた所で避けようもない。火の鳥や吸血鬼はきっと存在しない。ならば不安になったって仕方がない。考えるのをやめることでいつしか怖くなくなっていたのかもしれない。
存在を忘れられることが怖くなった。
無になっても、他人を介して自分に存在を繋ぐことが出来るのではないかと考えるようになった。それが成し遂げられないことへの不安だった。
大抵の人がそうであるように、自分という存在もまた忘れられれば初めから無かったかのようになってしまう。結婚して子供を残せば自分の存在を残せるかもしれない。でも4代5代も先になれば、誰も読みやしない墓石に刻まれた文字だけの存在になるだけだ。遺伝子を残した所で、それが自分のアイデンティティを為すものだとはどうしても思えなかった。それはただのモノだ。いつか朽ち果てる墓の中の骨と変わらない。そこに自分の考えや言葉や性格は何もない。そもそも血が途中で絶えない保証なんてどこにもない。
思春期の自己実現への焦燥感や全能感と合流して、偉大な存在になれば望みは果たされるだろうと思うようになった。教科書に乗るような存在になれば永遠になれる。誰も自分を忘れない。
しかし自分が大それた存在ではない事を薄々受け入れていく内に、この望みも薄れていった。ビートルズだって数百年先も人々の記憶に残っている保証はない。バッハだってカエサルだって仏陀だって、いつかは忘れられるかもしれない。
生きている間だけ存在し続けるのも、死後せいぜい数十年、数百年、数千年の間人々の記憶に留まるのも、永遠に比べたら誤差のようなものだ。それに身も蓋もない話をすれば地球だってどうせいつかは爆発するらしい。他人を介した方法でも、永遠の存在になろうとすることは諦めた。今思えば、地球がなくなっても宇宙へ住処を広げない可能性がないとも言い切れないけれど。
これらはすべて理屈の問題というよりは納得、受容の問題だった。
後悔を抱いて死ぬことが怖くなった。今に至るまでこれだけが怖い。
死は避けようもないが、しかしたった一度きりの生があるのもまた事実だ。
生きる意味などどこまで考えても見つからなかった。理詰めで問うていけばどれもこれも絶対的な地盤などなく、あやふやなものの上に成り立っていた。宗教というものの意義が肌感覚で理解できた。しかし自分なりに意義を見出す事は出来るはずだ。ならば心からの納得が欲しい。
死ぬ間際に人生こんなんで良かったのかという思いが頭を過る事に対して、強迫的な焦燥感を抱くようになった。
映画を見漁っても、友達付き合いをしていても、方々を歩き回ってみても、楽器を弾いてみても、曲を書いてみても、心からの納得は得られない。
それを振り切れるほどの情熱もないままに、存在の不条理なんていう目を向けてはいけないものを凝視し続けて頭がおかしくなってしまった。
情熱を持って生きるか、それが出来ないならせめて日々の気晴らしにかまけて人間存在の不条理など忘れ去ってしまった方がいい。
くだらない考えもほどほどに目の前の生活を淡々と送る。それが地に足のついた人生であり、そういうバランス感を模索していく事が人生の中で生き甲斐を見逃さないための誠実な生き方というものなのかもしれない。
そう頭で思っていても、情熱の燃料にもならない湿った焦燥感がどうしても捨てられず、後生大事に抱えている。これを捨てたら比喩ではなく石ころと同じ存在になってしまうように思えてならない。石ころと同じ存在になってしまうのはとても恐ろしい。仏教はそれを肯定しているらしいが、何をやっても納得してくれない心がそれだけは強く否定している。
思えば初めからそうだったのかもしれない。子供の頃から、普通に楽しく生きていれば、生きている実感を見逃さなければ死になんて目も向かなかったかもしれない。鬱病の素質があっただけかもしれない。
世の中の人間は意識的にでも無意識にでもこんな事は踏まえた上で、バランスよく自分なりの賢い生き方をしているのだろうか。まあ他人のことはどうだっていい。
といったような考えに10代の大半と20代の少しを費やしたが、同じような内容が大学の哲学系の講義でサラッと語られていた。
読書をしていればこんな考えに時間を浪費する事もなかった。車輪の再発明だ。無学の悲劇だ、と笑われそうだが、自分はそう思わない。そこには単に理屈だけではない実感が乗っている。価値観のDIYのようなものだ。拙くとも自分で辿り着いた事に意義がある。今更のポジショントークなのかもしれないし、それのせいでバカみたいに勝手に苦しんでるんですけど。
ウェルベックを「終わってる村上春樹」と例えてるのを見て村上春樹にちょっと興味持った。
中学の頃1Q84読んでみたけど、何がなんやらさっぱりだった。スノッブでやたらセックスをするくらいの前印象しかなくて、確かにくらいに思った。途中で読むのやめた。
空豆みたいな名前で美人だけど顔がアシメントリーな殺し屋がセックスしたりなんか線路だか高架だかに靴を脱いでなんかやってるシーンしか覚えてない。
あとあと現文で村上春樹が翻訳したって小説も読んだけど、そっちはマジで手榴弾(手投げ弾って表現についてなんか解説を受けたような気がする)が出てくる事しか覚えてない。
この間ドライブ・マイ・カー観て、喪失と再生がテーマだ、的な受け売りをコンパスに何となく言わんとしてる事は読み取ったような気分になった。
演劇は自分の心の声を聞くことだなんて語ってみるけど、もっと地に足のついた悩みは抑圧してしまっている事にも気がつけない。理屈を超えて悲しむべき時は悲しんで、どうにかこうにか生きていくしかない。的な。チェーホフの劇中劇がかなり内容と密接に絡んでるっぽかったから、ちゃんとそのメタファー(直喩か?)を意識しながら観てたらちょっと疲れた。
10代の頃読んだスノッブセックスデカダンス小説も今読めばまた違った感想になるかもしれない。
この間人間失格を読んでみた時も、多分中学の時に読んでたら違う感想になってただろうなって思ったし。当時なら「これは自分だ……自分だけが本当の意味で彼を理解できる……」って思ってた気がする。今読んだ限りでは総じて自意識の肥大したナルシストの自己弁護じゃん。社会性として、エクスキューズとして自罰的な風を装ってるだけで、自分大好き人間じゃん。ケッ、って感じだった。ただ所々人間の普遍的な悩みを明確な輪郭で描いたパンチラインがあって、そこは自意識を突っつかれたけど。
でもおれが興味あるのは人間存在の不条理とか実存主義みたいなテーマだし、村上春樹よりはカミュとか読んだほうがいいのかもしれない。
風呂に入るのが辛い。顔を洗うのも、歯磨きをするのも、酷い時は水を飲むことすらも辛い。
「お風呂がめんどくさい」とカジュアルに言ってはいるが、まわりの言う「お風呂がめんどくさい」感覚より、多分私の「風呂が辛い」はもっと不衛生な気がする。ので、人には言えない。
風呂に入ることの何が「辛い」のか。言語化してみると、私の場合「濡れる」事が辛いのだと思う。
頭や体を濡らすのが辛い。本当に、とてつもなく疲れる。入ってしまえばサッパリする事は理解していても、そこに至るまでの工程が「辛い」。
清潔であることは最低限の社会性であり、勤め人である以上は外に出なければならない。どうにかして風呂に入り、人前に出ても最低限問題のない状態にしなければならない。
以前、もっと酷い時は一週間以上風呂に入れなかった。当然、その間人に会う事は出来ないし、外にも出られない。不衛生な自分の事も許せない。
肌が荒れ、髪が脂でベタベタになり、体が蒸れて痒くなった頃にようやく風呂に入ってヘトヘトになりながら「不衛生な自分」をリセットする。思春期の頃、誰にも会えなかった時はそうしていた。
今は曲がりなりにも社会に出ており、否が応でも他者と関わらなければならない。外に出ない、誰にも会わない、という訳にはいかない。
「清潔であること」は最低限の社会性だ。人間性の担保だ。あの頃の私には人間性がなかった。多分、今もない。入らなくても良いのなら入りたくない。
それでもどうしても入れない時、シャンプードレッサーがあるとないとでは、かなり変わってくると思う。
服を脱ぐのも辛い時、とりあえず洗面台で髪を洗ってみる。使うのはリンスインシャンプーでいいし、シャンプーだけでもいい。さらに余裕があればコンディショナーも使うと髪が綺麗にまとまる。
髪を洗った流れで、そのまま洗顔をする。泡で出るタイプの洗顔料だと、ポンプを押してそのまま顔を洗えるので便利だ。
ここまで来れれば、「体をシャワーで流す」「体は蒸しタオルで済ませる」「下着だけ取り替える」等、状況に応じて選択が取れるようになる。
髪が清潔だと、外に出るまでのハードルが下がる気がする。「入浴」だと頭を洗うこと、顔を洗うこと、体を洗うことの全てがワンセットになり、どうしても工程が多くて、考えるだけで疲れてしまう。
工程をわけると、髪を洗ってみよう、顔を洗おう、体についてはその後に考えよう、と一つ一つ別にして考えられる。髪が濡れてしまえば勢いもつく。諦めがつく、とも言える。
髪を洗った後、顔を洗うのが難しければ蒸しタオルで顔も体も拭いてしまえばいいし、洗顔シートや汗ふきシートで済ませたっていい。
ドライシャンプーなんかもあるけれど、私の場合は髪や頭皮の油分が多いせいで使っても見た目の不潔さがあまり変わらなかった。人によっては、選択肢としてありだと思う。
スキンケアも、とりあえずオールインワンを塗って、髪には何かしらミルクなりをつけて、乾かさずに終わらせる。洗えただけ御の字だ。
最低限の人間性を保証してくれるから、多少家賃が高くなってもシャンプードレッサーのある物件からは離れられない。
これがなかったら、一週間のうち三日も外に出られないと思う。夏ならもっと出られない。
初めに結論:この声明は、善用すれば「産・育休を経ても同期とおよそ同じ出世」を可能にする風穴を開けられる。悪用すれば皆の懸念することが現実になる。良いも悪いもリモコン次第。
さて、n=1の話をする。
彼女は結構仕事バリバリ系らしく(友人ではあるが直接仕事はしたことないので伝聞、ただ信憑性は高いと思う)、リーダーとかも率先してやるしバリキャリというほどではないにしても出世に対して意識も高いような人だった。
「自分が悪いわけではないのに、評価が止まってキャリアに差がでるのが納得いかない」
そこには人事をやっている友人もいたのだが、その友人はこういった。
「ただその間ほかの人は頑張っているわけだから、そこはしょうがないじゃない。。。」
私は双方の言い分は分かる。どちらかと言えば人事友人寄りの意見だが、セミバリキャリ同僚のいう意見も分かる。(ちなみに夫は知らないので夫との育児区分云々は聞いていない)
特にリーダー業務とかもしていたセミバリキャリ同僚がこれから役付くぞくらいのときなので、一層気になるだろうなと思う。
こんな場合「学びなおし」という文化があれば、キャリアが止まらない可能性がある。(つまり復帰直後なんなら育休中に昇格という目も出てくる)
つまり休業中ではあったが、学び直しとして資格取得などを推進し、その間人材価値を高めていたという論法である。
大企業は政府の声明が大好きだ。政府がそういえばそういう「学び直し制度」なんてものを作ってパワポと一緒に説明会を開いたりするものである。
そういう制度を利用し、上司諸氏と面談のうえ取得スキルを決めてその間の評価を可能にする、ということができるのである。
「育児中は育児に集中させろ!」というのはもっともなのだが、「育児中は育児に集中しろ!」というのは押し付け以外のなにものでもない。
政府の先の声明は、善用すればそのような新しいキャリアのあり方に風穴を開けられる「よい声明」と捉えることができる。
あと岸田ははよ辞めろ
https://anond.hatelabo.jp/20221216140934
同じ教員として他人事とは思えなかったので書くことにした。長くなるかもだけど、参考になれば。
私は育休はとったことがないけど、近い知り合いの教員は複数とってます。
地方とはかなり事情が違うだろうから、当てはまらないことも多いとは思うけど、自分の視点から書いてみます。
①本気で育休をとりたいか、決める
②本気でとりたいと思ったなら、12月中に、校長に本気で誠心誠意話をしてみる
③できる限りで、信頼できる知り合いの教員に多く相談し、人事の決まり方などについて情報を集める
大前提として、望んで望んでやっとできた子のようだから、とりたいなら育休はとるべきだと思います。
そしてとるなら、絶対に3年担任は外してもらわないといけない。育休をとることが分かっているのに3年担任を持って、年度が始まってから途中でいなくなるのはやってはいけない。
まず私の府県の状況から説明しておくと、採用1校目、2校目の教員を除けば、人事は基本的に校長間人事です。校長同士が連絡をとって、1対1とか三角トレードとかで異動希望者を交換する。それでも決まらない場合は教育委員会が動かします。でもそれだと、みんなが行きたがらない学校には人がなかなか来てくれなくなる。だから採用1校目、2校目の教員については基本的に教育委員会が動かして、そういう学校に若い教員を入れることになります。
元増田は年齢的に、おそらく初任校か2校目ではないでしょうか。
まず、自分の県で人事がどのようにまわっているか先輩の教員に聞いて把握してみてはどうでしょう。
おそらく上記のようなシステムの都道府県が多いのではないかと思います。現実的に、教育委員会が全ての異動希望者を把握して動かすなんてことは難しいからです。校長同士で、情報を交換してうまく駒がはまるように、いい人材をやりとりしあうというのが基本的に実態ではないかと思います。
「県内の人事では管理職の評価が露骨に影響する」と書いていますが、これは単に、校長がこいつはいいよと言う人は、他の校長も欲しがるから人事が決まりやすく、またいわゆる進学校みたいなところにいる校長は基本的に力のある校長なので、コネや力を使って、どこかにいい人がいると聞けばその人をとってくるケースが多くなる。管理職の評価が露骨に影響するというのは、そういう構造でしょう。
ここで元増田が考えなければならないのは、次の異動は校長が決めるのか、教育委員会が決めるのかということです。また、現校長は育休明けにもいるのか、そしてその何年後かは知りませんが元増田が移動するタイミングになったときにも、現校長がいるのかを勘定に入れることでしょう。
そもそも、元増田の次の異動が教育委員会人事なのだとしたら、育休によって現校長に低い評価をつけられたとしても、そんなに心配しすぎる必要はないと思います。なぜなら、ここまでいろいろな活動をして評価されてきているのだとしたら、いきなり現校長にだけ今回低い評価をつけられても、おそらく県教委はそれまでの歴代の評価もちょっとはみて異動を決めるでしょうから。それに教育委員会人事だとしたら、そもそも2校目とかは教育困難校とか人気のないところに人をあてがう人事をすることがよくあるでしょうから、評価にかかわらずそういう可能性がそもそもあるからです。心配しすぎても仕方がない。
そして元増田の次の異動が校長人事なのだとしたら、それは、そのときの校長に評価されていればいいのです。校長は、新しく赴任したときにもちろん前の校長から引き継ぎをしますが、そんなに詳細に引き継ぎをできるわけではありません。仲の良い校長同士ならともかく、そうでもない場合は、赴任して直接引き継ぎをするのは1、2日みたいなもので、膨大な引き継ぎのなかで、教員の評価をそれほど綿密に共有するわけではない。評価資料をうけついで、特に優秀で力のある教員と、特にやばいやつを共有して終わり、というくらいです。そして基本的には、その校長と面と向かって話したり、きちんと仕事を見せてコミュニケーションすれば、たとえ前の校長から悪い話をふきこまれていたとしても、大丈夫です。校長というのはプライドが高い連中です。他の校長に言われた通りにやりたがらない場合もよくあります。前の校長からこいつはだめだと聞かされていても、実際話して関係を作ってみたらこいつやるじゃないか、となれば、気に入った、となります。元増田がいろんな活動をしてきて、それだけじゃなく同僚や管理職との対話力や関係構築力にもある程度自信があるなら、そのあたりはあまり心配しすぎなくてもいいと思います。
まして、研究発表や勉強会をしてきているわけでしょう。育休に入ったりして1、2年そういうところから離れても、またそういうところに顔を出すコネや繋がりくらいあるでしょう。それを使ってまたやればいいのです。育休明けや、数年後異動のときに新しい校長になっていたら、たぶんその校長は、元増田が今までやってきた発表や勉強会のことなんか知らないと思います。いちいちそんなことまで引き継いでませんから。もしどこかで見聞きしてくれていたら、しめたものですが。でもそうじゃないとしても、またもう一度研究発表や勉強会に顔をだして、その時の校長にこういうことをしてますよ、というのを見せればいいだけの話です。一度そういうところとコネや繋がりがあれば、そういうことをするのは比較的容易ですから、今までやってきたことは無駄にはなりませんよ。
ともかく、元増田は上記のような、次の異動はどう決まりそうなのかという情報を集めることでしょう。
そして一番手っ取り早いのは、今の校長に腹を割って、本気で、かつ誠心誠意、話をすることだと思いますよ。本当にこういう思いを持って育休をとろうと思っているが、このように迷惑をかけることが心配だとか、今後こうなるのではないかということが正直心配だとか、全部含めて、一度誠心誠意話してみることだと思います。
12月といえば、人事異動の話がもう本格化している真っ只中です。元増田は、育休をとるなら来年4月からは3年担任を外してもらっておかなければならない。校内人事にもかなり関わります。こういう話を遅くされて、人事で苦労するのが校長としては一番嫌でしょう。できるだけ早めに本気で話してもらった方が助かるし、そうじゃないと味方をしてもらえない可能性が高くなりますよ。なんだよ今更めんどくせぇな、育休なんかとるなよ、という方向になりかねません。今ならまだぎりぎり間に合うと思います。
心ある校長、力のある校長、そこまでいかなくても、クソみたいなやつや嫌なやつでなければ、誠心誠意話せば、その校長なりの見通しをフィードバックしてくれると思いますよ。元増田が担任を外れて育休をとれるように、来年4月からの人事をまとめられる力や見通しのある校長なら、そういう話を返してくれるでしょうし、そうじゃないしょぼい校長なら、残念ながらそれまでです。穏便に育休を取ることは難しいでしょうから、諦めるか、波風をたててでも突破して権利としてとるか、という選択肢を考える段階に進みます。いずれにせよ、校長次第ということはもう避けては通れないのですから、とにかく早めに、本気で相談してみることですよ。
とにかく、やっぱり3年担任が年度途中でいなくなるっていうのは、もうわかると思うけどあらゆる意味でやめたほうがいいからさ。それさえなければ、やっぱりとれる道はあると思うよ。そのあとのキャリアも、キャリアっていったってさ、教員の世界なんか、基本的に管理職コースに乗らない限り給料も年齢以外では変わらないわけじゃん。管理職希望者なんか年々減っているわけで、もしそっちにいきたかったら希望すれば別に育休とった過去があろうがいけると思うし。管理職とか関係なく、確かに次の異動、その先の異動は気になるだろうけど、だからこそ上記のような、どういう異動の可能性があるかっていうところの情報を集めるべきだと思います。
でも、クリシェですが人生は一度きり。目の前の高校生は、確かに大事だけどいくらでもまた新入生としてめぐっては出ていきます。
自分の子供はオンリーワンでしょう。後悔しないように納得して決められるところまで動いて、それで決めてほしいと思います。
がんばってお父さん!
ぶっちゃけ仕事忙しいし今後の目標もあるし全然恋愛どころじゃない
こないだ3日間人を家に呼んだだけで結構疲れたというか、3日間のプライベート時間でできた仕事の事を考えてしまった…
仕事以外の時間はリラックスタイムか寝る時間か勉強か調べものに充てたい
平日の本当にわずかな時間と実質週休1日の貴重な休日しかないのに、これ以上プライベートの時間を使うのはきついっす
とは言え、仕事成功して実質労働時間を減らした後のことを考えると恋愛しておかないとまずいんだよなあ
仕事が忙しくて婚活する時間ないっていうのは婚活アドバイサーからすると言い訳らしいし
でも本当に時間ないんだよ…既に付き合ってる人がいて、その人と維持するくらいならできるだろうけど新しくは…