はてなキーワード: 教育学部とは
NHKの近くで一度すれ違ったことがあるけど、感じのいい人だったよ
やっぱり第一印象がいい人間はすばらしい人間であることが多いな
1986年、東京大学教育学部を卒業し、アナウンサーとしてNHK入局。
「首都圏ニュース845」「生活ほっとモーニング」などを担当し、夕方のローカルニュース番組や生活情報番組に多く出演。
名古屋局時代には登山家の田部井淳子氏と夏の北アルプスを縦走する模様を描いた紀行番組が評判を呼ぶ。
最初に赴任した高松局では、若いアナウンサーが地元ボランティア協会の祭りの司会をすることが恒例だったことから、福祉との関わりが始まる。
東京局時代に自閉症の男性公務員のドキュメンタリーを制作したところ、その番組が反響を呼び福祉関係の人脈が拡大。
・首都圏と違って地方の私立高校は、公立高校に落ちた子供か、学習障害の子供が行くところ
・地方の場合、「進学実績ブランド」を形成できているのは旧藩校、旧制中学などの歴史がある公立高校か、国立大学の教育学部附属高校だけ
・地方の私立高校は「スポーツ強豪校ブランド」以外に何の価値もなく、スポーツ特待制度を設けるところが多い
・成績が悪くて実家が貧乏だと、中学の部活で抜きんでた活躍をし、スポーツ特待で私立推薦という限られた道に縋ることになる
・スポーツ特待生は、スポーツで成果をあげられない→詰み、顧問に嫌われる→詰みになる
スポーツでの成果や、顧問との関係が、スポーツ強豪の私立高校の運動部の子供にとっては、死活問題なんですよね。
偏差値の高い公立高校や、首都圏の偏差値の高い中高一貫私立で、軽いノリで運動部にいた人とは「必死さ」が違うんです。
メインが大学受験で運動部は息抜きみたいな立ち位置だった進学校と、スポーツ強豪校の特待生は、まったく違うものとして考えたほうが良いです。
スポーツ特待の子の大半は先天的に勉強が不得意で、有名大学一般入試に合格できる可能性なんて無いですから。彼らにはスポーツしかないです。
スポーツ特待で入学したのに部活で全く活躍できないと退学に追い込まれる場合もあるんですよ。
運動部で活躍して生き残ってプロスポーツ選手、大学のスポーツ推薦、大学のスポーツ推薦からOBのコネで「運動部枠」就職、みたいなルートからドロップアウトすると詰みます。
スポーツ特待の子供は、子供なのにほぼ「被雇用者」みたいな状態です。私立高校のお金に助けられている立場なので。
IthacaChasma 「被雇用者みたいな状態」だとしても、多くの企業(被雇用者がたくさんいる)で暴力が蔓延していないように、暴力が蔓延する理由にはなっていない。そこを加筆してほしい。
「クソブラックに当たっても転職の仕方が分からない」ですかね。
被雇用者のなかでも転職の意志と能力がある人間はさっさと他に行くから潰されてないじゃないですか。
転職する意志や能力がない被雇用者がクソブラックや職場いじめで潰されてますよね。
高校って流動性低いじゃないですか。「ブラックだった?じゃあ転職活動しないとね」みたいな発想が、高校では出て来ないんですよ。
ワイの地元では地元の国立教育大教員養成課程出身者が小学校教員業界では幅を利かせててそれ以外は肩身が狭いから
小学校の先生ってことは早稲田の教育ー教育ー初等教育だろうと思うけど
あそこって小学校の免許必須だし、「とりあえず免許取る」ってノリではないんじゃないのかと。
法学部の滑り止めで受けるなら、教育ー社会ー公共市民あたりではって感が。
それとも、教育学部生は選考を通った一部の学生だけ中高免許とは別に小学校を追加できるからそれをやったのだろうか。
3年生にも4年生にも教育実習にいかないといけなくてつらそうで、「とりあえず」の人たちではないように見えたが。
まあ大学からうざいぐらい小学校を検定で取れとメールくるし、とりあえず勢は資格の1つとして取るのだろうか。
追加でやったのなら高校の教育実習にも行ってるはずだし、あの先生が朝日高校の教育実習でどのようなことを思ったかとか考えると面白そう。
ごく一部でこんな話題があった
https://togetter.com/li/1861407
昔は「単位はいらないが勝手に授業を聴講している人」が大学に沢山いたが今や犯罪者みたいな扱いになってて悲しい
https://togetter.com/li/1863680
「学費と知は等価交換してはいけない」大学の講義に潜ることに関して、大学教授の意見→同じ教員や潜った経験など様々な感想が集まる
これについて、ちょっとだけ書いてみる。
これにはこんな事情があると思う。
他だと規制されてるところがあるんだね、って感じ。未登録受講者とか言われてた。
単位取得制限(CAP制)があって、この大学では年間42単位までしか履修登録が出来ないので、それ以上はそもそも登録できないんだよな。
そうなると、履修登録は、まず落とさない鉄板の講義をしっかり登録するってことになる。難しいという噂だけど受けたいとか、他の学部だから何かあると参加しづらい講義とかは履修登録せずに受ける、という事が結構当たり前にやってた。
卒業要件では、自分の専攻と、同一学部の必要単位数は決まってるけど、それ以外はなんでもいい枠がある。なんで、自分の学部以外の授業もとることは出来る制度はあるっぽいんだが、これをやってる人は俺の周りではいなかった。
という訳で、学内でのモグリ行為は完全に黙認されてると思う。たとえば
学外の人がモグリで来てるのは見た事が無いかも。たぶんいるとしてもしっかり隠れてると思う。
講義室は基本的に鍵がかからないし、出入り口も自由。門扉には警備の人がいるけど、キッチリ止められるのは車だけ。だからいたかもしれない、が、学習支援システムを使って講義資料なんかが配付されるんんだが、これは公式のIDがないと入れないので本当に聞くだけになっちゃうんじゃないかと思う。
あと、正規の地域の大学全部が相互単位認定制度があるのも関係しているかも。
地元の大学の中で、それぞれ特色のある講義は相互に履修できる制度があって、申請すると受講が出来るようになってる。有料だけど。利用してる人知らないけど。
それから、聴講生制度があって、殆どの講義が対象になってた。1講義8000円とかで受けられる仕組みがある。一部は高校生も受けられる。
こう言う正規ルートがあるので、かえって学外の人はモグリやりにくいんじゃ無いかと思う。
オンライン講義。これ、学習支援システムで動画へのリンクがついたり、MeetやTeamsの参加アドレスが配付されるようになったんで、学外の人は完全にモグリできなくなったと思う。
一方、学内の場合はアーカイブされた講義が受け放題になったんで、とってない講義も定額見放題になったからモグリはやりやすくなったと思う。
国立大教育学部の小学校社会科の先生になる専攻で入学したけど、
高校ではマンガ家めざして同人誌も出してて、フィギュアのフルスクラッチもやりたいなと思ってたので
卒業には全く必要のない美術の先生を養成するコースの塑像(人体を粘土で作る)の授業を受けてた。
最初の課題(学生同士でペア組んでお互いの顔を作る)で自分には立体の才能が全く無いと思い知らされて、ペアの顔を完成させた段階でフェードアウトして単位は得られなかったが。
思い返せば、教育学部って専攻(教科)ごとに多種多様な研究室の教授・講師の授業があって、もっといろんな授業を無駄に受けとけばよかったなと、社会人になった今更思う。
サークルもいろんなことをやってみたいと、漫研以外にスカイダイビング部・スキューバダイビング部の新勧説明会に参加したけど、遠征や装備に金かかるので貧乏学生の俺には無理だった。
あ、先生にはなってません。
・大学側が示した正解
1点の上下で合否に影響が及ぶ入試において、こんな解釈に幅があるにも関わらず、
「入試問題への問合せについては,個別にお答えはしていませんので回答は差し控えさせていただきます.」
と逃げに徹しているところが、解釈の違いで延々と逃げる卑怯な文系らしくて素晴らしい。
ブクマには『現代文は「文章から何が(論理的に)読み取れるか」の試験』とか分かった風な意見が出ているが、
だったら何で問一は三通りにも分かれてるんだよ?
導入はセックスとジェンダー、性自認と性的指向についての解説から。そしてLGBTQは1クラスに1人以上いるので他人事ではないという話。ここまでは良かった。実際そこで初めて明確に性自認や性的指向という単語を認識した覚えがある。
次に性自認と性的指向の様々な組み合わせについて話は移っていった。
性自認が女性で性的指向が男性な人・性自認が男性で性的指向が女性な人:異性愛者・ヘテロセクシャル
講師「ではクイズ! 性自認が男性で性的指向が男性な人は何と言うでしょうか?」
異性愛者、ゲイ、レズビアン、バイの選択肢が出され、「ゲイ」で一斉に手を挙げる学生達。当然自分もゲイで手を挙げた。勿論正解はゲイ。そこからレズビアンやバイ、異性愛者、トランスジェンダーへと問題は進み、見た所学生達の正答率は100%だった。
講師「では次の問題!身体的には男性だが、性自認は女性で、性的指向も女性な人は何と言うでしょうか?」
少しざわつく教室。選択肢はいくつかあったが、「異性愛者」を選ぶ学生が最も多かった。
「『異性愛者』が一番多かったですが……みなさん不正解! 正解は『レズビアン』です!」
教室中に「???????」の空気が流れたと思うのは自分の気のせいだろうか。
少なくとも自分は全く納得できなかった。頭の中は(まぁ性別適合手術をして性器や胸部が女性のようになった元男性ならレズビアンとも言えなくもないか?しかし未手術でただ心で女だと思ってるだけの人までレズビアンと呼べるのか?というかレズビアンの人はこういう人をレズビアンと認めてるの?)と疑問で一杯になった。しかし講師は「性自認が女性で性的指向が女性な人は、身体の性に関わらずレズビアンと言うんですよ〜。タメになりましたね!」くらいのあっさりとした説明で次の問題に移ってしまう。
講師「じゃあこれはどうかな〜。身体的には女性だが、性自認は男性で、性的指向も男性な人は何と言うでしょうか?異性愛者だと思う人?」
学生「…………」
学生(全員が手を挙げる)
講師「正解〜!いや〜、やっと分かってきたね」
満足げに笑う講師を見て、「これは学問ではない。洗脳だ」と感じた。
要はこのクイズは「講師の顔色窺いクイズ」であり、授業自体が「講師が正しいと思ったことが正しく、正しくないと思ったことは正しくない」という論理に従って構成された、ただの政治演説・洗脳装置だったんだと感じた。そして心からガッカリした。教育学部の授業だったので「こんなんだから教師の質が上がんねーんだよ」という悪態も心の中でついてしまった。
その日1日はこの授業への疑問が頭を離れなかった。以来、性的マイノリティについて関心を持ち能動的に記事や当事者の発言をチェックしているが、今でもあの授業に対しての疑問は消えていない。
トランスジェンダー女性をレズビアンと呼んだり、トランスジェンダー男性をゲイと呼んだりする、その主義主張は全面的には支持出来ないが、そういう捉え方をする人間もいるということは理解出来る。
しかし、大学で授業をするのに、常識から逸脱したことを根拠も示さず「これが正解だから」だけで真実かのように取り扱い、学生に考え方を強制するのは、異常と言うほかない。
柞刈湯葉(いすかり・ゆば)@yubais
学部三大誤解
3. 経済学部は儲かる
https://twitter.com/yubais/status/1493145912666771457
このツイートに対して、
小説家になることを目指して文学部に行って小説家になってベストセラー連発しているヤツは確実にいるし、
東大京大一橋阪大レベルの法学部だと、1年生の前半は、みんな司法試験を意識しているよね。
お前は私大文系だから、早慶やMARCHの学部をかたっぱしから受けて、合格したところに進学して、
文系の勉強は将来の仕事とは関係ないとか言い訳して、大学での学習もあんまりせずに、
世の中には、将来の職業を見据えて、学部選びをしている高校生は大勢いるし、
大学で学んだことを活かした専門職に就いている人間も大勢いるわけ。
で、お前みたいな学習性無気力の私大文系営業マンよりも、遥かに高所得で社会的も高いわけよ。
お前らは大学で勉強してきた人間をTwitterでバカにするかしかない私大文系営業マン脳なわけ。
かわいそ~~~
島根大学教育学部に入学。陸上部に所属し、長距離選手だった。しかし、大学は3年で中退した[8]。
中退の理由は、父と同じように教員免許を取っておけば仕事に困らないだろうという考えはあったが、周りの学生たちのように頑張りたい目標が無かった。
2019年3月6日、初の単独ライブ『ブルゾンちえみ本能ライブ~記憶のこたえあわせ~』(東京・赤坂 草月ホール)を開催。この単独ライブが、達成感を得た一方で、こういうエンターテインメントをやりたい、こんな私を見てもらいたいと思って、自分でお金をかけて用意してライブをやったのに、実際にはテレビの仕事中心でお金を稼いでいるので、これじゃ仕事ではなく趣味じゃないか、このままでいいのだろうかと違和感を覚えた
4/15 行列のできる法律相談所に出演
久能整くんは教育学部の2年生で、まだ19歳ですよ。
同級生のなかでは「ぼっちえのき」「空気」とあだ名をつけられるような状態で、
理解を示してくれる先生などの上位者(親代わり)にだけ懐いてきた、幼いパーソナリティの持ち主です。
理由としては久能くんは父親から身体的な虐待を受けており、父方の祖母も非常に攻撃的な人格異常者であり、
久能くんの母親は自分がDVを受けている辛さで手一杯だったので、息子に構う余裕がありませんでした。
なので久能くんは母親に放置されながら、父親から虐待を受けて育っています。
家庭が破綻していたため、家庭外の優しい大人に懐いてきたという、典型的なアダルトチルドレンです。
人間心理についてのうんちくを垂れるのも、家庭が破綻していたから心理学への関心が強いんですね。
そして教育学部に進んでいるのも、家庭が破綻しているのに対して「まともな大人」が学校にいたから「先生」のイメージが良く、先生を目指しているんです。
また、久能くんの理解者である指導教官は、本やネットの聞きかじりで知ったような口をきく久能くんを諫めてます。
諫められてもまったく無視してうんちく垂れてますけどね久能くんは。
久能くんはオッサンやアンチフェミを殴るために製造された一流の棍棒ではなく、「俺TSUEEEEEE」コンセプトで完成されているキャラでもないので、
いつか「このままだと無責任かつ被害者意識ばかり強い、口だけのオッサンになってしまうこと」に向き合わされる展開が来ると思いますけどね。
◆藤本宗将 Copywriter/Creative Director@fujimotors
12月末で電通を退職します。約25年にわたり社内外のみなさまには大変お世話になりありがとうございました。1月からは独立し、UltraBlackという会社をつくってやっていきます。電通との専属契約などはありませんので、これまで以上に多くの方々とお仕事できれば幸いです。よろしくお願いいたします。
https://twitter.com/fujimotors/status/1473887352691236865
この社名も気持ち悪いが、それに対する電通社員(元電通社員)の反応がまた気持ち悪い
◆藤本宗将
https://twitter.com/keitatata/status/1473887571629719556
◆栗田雅俊@kurita_ma
◆藤本宗将
https://twitter.com/kurita_ma/status/1473893208283582465
◆藤本宗将
https://twitter.com/setsukooo/status/1473921538856722433
悪い解釈をされていいことがあるのか?
100ワニやオリンピック問題で悪い解釈されていいことあったのか?
◆岡部将彦 Que / Quest/Creative Director/CM Planner@okavader
最高の社名ですねw
◆藤本宗将
https://twitter.com/okavader/status/1473900728414765059
どんな名前にしようと人が死んだら叩かれるのが当たり前だと思うが
遺族の人が見たらどう思うか?
こういう奴らがいろんな人たちが見る広告を作っていると思うと複雑になる
「人が死んでんのに自虐か知らんが、面白いと思ってるこういう馬鹿がおるからブラックなんだよな。」
誰でも見れるツイッターでこんな人格を疑われることを書くのは普通じゃない
dentsu zero コピーライター/クリエーティブディレクター。1997年、電通入社。コピーライターとして多くの企業のメッセージ開発に携わる。主な仕事は、ベルリッツ「ちゃんとした英語を。仕事ですから。」、本田技研工業「負けるもんか。」、からだすこやか茶W「おいしいものは、脂肪と糖でできている。」、トヨタ「トヨタイムズ」など。TCC最高新人賞・TCC賞・ADCグランプリ・ACCグランプリ・毎日広告デザイン賞最高賞など受賞。
電通 マーケティング・クリエーティブセンター コピーライター
1976年大阪生まれ。チベット、カシミール、アフガニスタンなど世界中を旅をして電通に入社。コピーライターとして勤務する傍ら、写真家、セルフ祭実行委員、UFOを呼ぶバンド「エンバーン」のリーダーとして活動している。『商店街ポスター展』を仕掛け、佐治敬三賞を受賞。他、東京コピーライターズクラブ最高新人賞、ゆきのまち幻想文学賞など受賞多数。また、都築響一氏編集「ROADSIDERS' weekly」でも写真家として執筆中。ツッコミたくなる風景ばかりを集めた『隙ある風景』日々更新中。
栗田雅俊(くりた・まさとし)
電通zeroクリエーティブディレクター/コピーライター/CMプランナー
1981年岐阜県生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、電通入社。最近の主な仕事に、サントリー「話そう」「デカビタC・元気すぎるご当地キャラ」、宝くじビンゴ5、KINTO、Netflix「リラックマとカオルさん」、パートナーエージェント「ドロンジョとブラックジャック」、カシワバラ「大規模修繕な人々」など。
2010年電通入社。2016年度東京コピーライターズクラブ最高新人賞を受賞した長崎自動車/長崎バスのシリーズ広告は、TCC賞とのダブル受賞となった。他、毎日広告デザイン賞優秀賞、日本民間放送連盟賞ラジオCM部門最優秀賞、FCC賞、CCN賞、CCN最高賞、OCC賞、FCC最高賞、広告電通賞OOH部門最優秀賞など。山梨県出身。
岡部将彦(おかべ・まさひこ)
1978年、大阪生まれ。関西大学卒業後、2000年電通入社。 以降17年間、CMプランナー、コピーライターとして数多くの広告を手がける。 2005年東京コピーライターズクラブ最高新人賞をはじめ、広告賞を多数受賞。 東京コピーライターズクラブ賞審査員、ACCラジオ部門審査員。 主な仕事に、トヨタ自動車「AQUA」「MIRAI」「PRIUS PHV」「C-HR」のテレビ、ラジオCM。「ほっともっと」のリブランディング「やっぱり、お弁当屋さんのおべんとうはおいしい。」プレイステーション発売20周年特別映像「みんなのゲーム愛にありがとう。」「決断を迫る山田」「山田、全力のモンハンワールドごっこ」他、各種ゲームタイトルのテレビCMを多数手がける。 近年は広告に限らず、ロックバンド マキシマム ザ ホルモン映像作品集(DVD)「Deka Vs Deka」の制作&コミュニケーションなど、コンテンツ領域でも活動。
記憶がある最初っから実母から暴力を受けていた。殴る蹴るは日常で、たまに髪の毛引っぱって引きずり回したりとか、暴力じゃなくて「バカ」「カス」「こんなんもできねえのか」みたいな暴言とか。三歳児がひらがなすらすらかけるわけねえだろと思うけど、まあそれが日常だった。泣くまで殴るし泣いたら泣いたで「うるせえ」って殴るの。でもうまいもんで腹とか足の付け根とか、そういうところには痣を残すけど腕とか足とか頬とかには残さないのね。もうしっかりしてんのよ。
こっちはもう嫌われたくないから「ごめんなさい」「もうしません」「ゆるしてください」のオンパレード。でもなにかしたってわけじゃないの。母親の気まぐれとか、仕事のストレスとかで殴られるから、もう顔色窺いながら生きるしかないのね。祖母も一緒に住んでたんだけど無視よ。かばってくれたことは一度もないし、なんか知らねえ気味の悪い宗教信じてるしで、家庭の中身はめちゃくちゃだった。
中身はぐちゃぐちゃの癖して、外は良いわけよ。父親は離婚でいなかったんだけど、母親は公務員の保健師でバリバリ働いてたのね。だから周りも家から泣き声聞こえても「まあ大丈夫でしょう」みたいな。外に行けば「○さんちの娘さん? いいお母さんね~」って言われんの。家の中では殴られて蹴られて顔色窺いながら生きてま~す♡ なんて言えないから適当なこと言ってたけど、もうめちゃくちゃね。
家族全員で食事をしたことなんて片手で数えられるくらいしかない。髪型も洋服もすべて祖母と母親の言いなりで、大学生になるまで祖母と同じ宗教を信仰している田舎の床屋みたいなところで髪の毛(母指定の短いやつ)にされつつ、宗教勧誘をずっと受けてた。
まあそんなんで狂わないはずがなくて、ずっとイマジナリーフレンドはいたんだけど、小学校三年生の時についに「イマジナリーお母さん」をつくりだしたのよ。テストでいい点とったら褒めてくれるし、いっしょに遊んでくれるし、一緒にご飯も食べてくれんの。最高だったね。現実はそのすべてがなかったからね。中学あがるか上がらないかくらいでリストカットが始まったんだけど、現場を見られても無視。大学あがってもリストカットしてたから、手首と二の腕と太ももはザクザクの傷まみれ。プールにもいけねえ。でもイマジナリーお母さんはいつも切ったところに傷薬塗ってくれて絆創膏貼ってくれて「痛かったね、がんばったね」って言ってくれてた。実際は水で血を流してティッシュ重ねてセロハンテープでとめてた。たぶん学校でもかなり浮いてた。手首やばいし。やばいくらいガリガリだったし。でもなんにも言われないわけよ。先生たちも関わりたくないし、なによりうちのお母さんは「バリバリ仕事ができる」で地元ですごい有名なの。だから娘がおかしいってことにされてたのね。まあおかしいんだけどね。
大学は行かされたけど、ずっと行きたかった専門的なところじゃなくて「教育学部」だった。「学校の先生くらいにならないとだめ」というのが母の主張で、そんなのに逆らえるわけもなく底辺大学の教育学部に進学した。
教育学部って子どものことを学ぶんだけど、愛着だとか家族だとかそういうことも学ぶの。それらすべてが新鮮すぎてびっくりするわけ。一緒にご飯食べてる写真とか、もう「ありえないこと」だからね。そこでだんだん狂ってって、でも資格はちゃんと取ってその資格で学童に務めたけど四か月で精神病んでやめた。幸せ家族を見るたびに精神がすり減って、20キロ痩せてなんにも食べれないくせに吐き気がすごいという典型的な精神疾患だった。
で、その過去を50万円でなかったことにしてほしいんだと言われた。
過去と言うのは幼少期から今までのすべてだ。でも家族の縁を切る予定はないらしく、家族のままで「過去」だけをなくしてほしいんだと。だから50万渡した後は過去のことを母の前では一切言わないという約束をしなくちゃいけない。精神科では言ってもいいらしいけれど、殴る蹴るの暴力と暴言と悪口にまみれた過去が50万。
正直こっちはもう働けないので50万もらえるならもらいたいわけ。でも母がこの前ディ○ニーの株が安くなった! 優待券がもらえるぞ! って250万くらい突っ込んでんの知ってんの。ディ○ニーに250万出せてわたしは50万か。
まあでもそのほかにも学費とか食費とか出してもらってたわけだし、50万でゆるすしかないのか、と思ったんだけど、どうしても精神面が拒否すんのよ。お前、ディ○ニー以下だぞ。みたいな。
もうお金の価値がわかんないのよね。まともに働いたことがないから。だからもうわけわかんなくなって、安定剤がぶ飲みして死にそうになった。いっそ殺せ。
※はじめて利用させていただくので不手際などありましたらすみません。
「人生楽そうでいいな~」と言われることがよくある。それも、本物の人生楽そうに生きてる人間からよく言われる。
最近だと久しぶりにごはんに行った昔の同級生に言われた。「そっちは人生楽でいいよね~わたしなんてさ~」から始まる同級生の自虐風自慢。昔はそんなこと言わなかったじゃん、というのを飲み込んで笑うしかない。下手に「そんなことないよ~」と返すと「そんなことあるじゃん! だってさ~」と言い返される。
人生楽そうなんて、そんなことはない。「人生楽そうに生きている」とみられるように、わたしがふるまっているだけだ。だから「人生楽そうでいいな~」と言われるのはまあ自業自得なんだけど、実際のわたしの人生はゴミみたいなものだ。
わたしが生まれてすぐ、両親は離婚した。理由は知らない。わたしは母親に引き取られ、母の実家で母と祖母と暮らし始めた。母は平日仕事だったため、ちいさいわたしの世話は祖母と保育園の職員がやっていた。
記憶がある幼少期のわたしは、いつもぞんざいに扱われていた。保育園から帰ってきたらひとりで庭で遊ぶか、家の中でひとりで絵を描いたり本を読んで過ごす。祖母は趣味のガーデニングをしたり、信仰している宗教をしたりしていて、たまに友だちの家に行く以外、兄弟もいないわたしはほぼひとりで過ごしていた。
母の帰りはいつも遅かった。気まぐれに休みの日にわたしを遊園地やら観光地やら旅行やらに連れていくこともあったが、言葉通り「連れていく」だけだ。一緒に遊ぶという概念が母にはないらしい。いつもひとりで放り出されていた。
それに母は「しつけ」と言ってわたしのことを殴っていた。泣いても謝っても母の気が済むまで続いた。それは「してはいけないこと」をしたときの罰だったので、ちいさいわたしは「してはいけないことをしたら殴る」ということを学び、それを保育園で実践した。相手の子を泣かせた。職員に怒られた。家に帰ったら母に殴られた。祖母は無視していた。
それでも優しい時もあった。絵本を買ってくれたり、母の気に入るものという条件はあるがおもちゃも買ってもらえる。服もちゃんとしている。ご飯も食べている。外から見れば、わたしは「若干行動に問題があるがまあ大丈夫だろう子」だった。そのときは母に殴られることにも疑問を持たなかったので、自分から発信することもなかった。
わたしが小学生になっても母からの暴力はずっとへばりついていた。謝っても泣いても殴られ続ける。しまいには何度謝っても無視される。かと思えば次の日には元に戻っている。母の機嫌はよくわからなかった。
ついでにいじめも始まった。社会で生きていく中で「普通」からすこしでも外れると標的にされることを知った。
それに、小学生に上がって生活をしていると、嫌でも保育園や幼稚園では知ることのなかった「外の世界」を知ることになる。
どうやらお風呂の水を追い炊きで三日間も使わないらしい。どうやら宗教にのめりこんでいる家はあまりないらしい。どうやら世の中のお母さんとお父さんは出かけたときにいっしょに遊んでくれるらしい。どうやらしつけで殴ることはないらしい。どうやらけがをしたら手当をしてくれるらしい。どうやら絵を描いていて「紙の無駄だ」と怒られることもないらしい。どうやらテストでいい点数を取ると褒められるらしい。どうやら熱がありフラフラの状態で学校に行かせることはないらしい。それで早退させられ病院に行ったら「即入院です」と言われたのに点滴だけを打たせて持ち帰ると言うことをしないらしい。
それらを知ったときはびっくりした。いやわたしの家「普通」じゃないやんけ。薄々「そうなんだろうな~」と思っていたことが本当になってしまった。
でも知ったからってどうすることもできなかった。なにせ逆らうと母に殴られる。時々蹴られる。小学生に上がると、それらに加えて悪口も増えた。わたしに直接言うこともあるし、わざとわたしに聞こえるように祖母と母でわたしの悪口を言い合っているときもある。それに対してなにかを言うと殴られる。
家も地獄だし、学校もいじめやら担任のえこひいきがひどすぎるだとかで地獄だった。一週間ずっと休める日がない。
そんな中で普通に生きていけるわけもなく、高学年になってからは自傷が始まった。最初は髪の毛を抜くだけのかわいいものだったのが、当時流行っていたいじめやら援助交際やらリスカやらの漫画の影響でカッターで手の甲を切り出した。最初は薄くて傷も残らずすぐ治るようなものだったのがエスカレートして、切る場所が手首になるまではそんなに時間がかからなかった。
よくリスカしてる人が「切ってるときが落ち着くんです」って言うけど、あれは本当だと思う。切ってるときは落ち着く。なので家では、母に殴られる→手首を切る、がセットになった。最初は恐る恐る、うっすらだったものも、いつのまにかより深く傷が残るものになっていった。手当だって自分でするしかなく、適当にティッシュを重ねたものをセロハンテープで止めた。
中学生になってもその連鎖は続いた。その頃になると学校でのいじめはなくなり、勉強もできなければ授業態度も悪いために教員に目をつけられている以外は普通だった。学校にいれば殴られないしいじめもない。誰も手首にたくさんの傷があり、時々ティッシュを巻いている人間のことも気にしない。嫌いな人間とも友だちをしないといけないのは面倒だったけど、小学校よりはまだましだった。
でもさすがにわたしも耐えきれなくなったみたいで、一度だけ担任に「お母さんに殴られてるんで助けてください」と言ったことがある。結果は無視。わたしが嘘を言ったのだと思ったのだろうか。手首に数えきれないくらいの傷跡があっても信じてもらえないのか。家に帰ったら殴られた。母の機嫌が悪かったらしい。次の日、学校を休もうとしたら怒られた。学校も地獄になった。どこも地獄。
高校は中学よりもましだった。わたしの学生時代で唯一平和だったのは高校の三年間だった。リストカットは続いていたけれど。技術系の高校だったので、他の人とのレベル差に泣きそうになったけれど、それでもいじめもえこひいきもなかった。友だちもわたしのことを見下すことなく、対等に接してくれた。
このまま技術系の大学に進学したいな。そう思っていた。その頃になると勉強やら実技やらの言い訳をつけて帰宅時間を遅くして、母に殴られることは減っていた。母は他人の目を気にする人だから、大学には行かせるだろう。一、二年生の三者面談では、わたしの希望する技術系の大学に行ってもいいと言っていた。
それが変わったのは三年生で、急に「教育系の大学以外は行かせない」と言ってきた。嫌だと言ったら殴られた。今までだんまりだった祖母もそうするように言ってきて、挙句の果てに近所の人にまで「技術系の大学に行ってどうするの」とまで言ってきた。他人を巻き込むな。
そこから高校生活も変わった。進路希望は「教育学部」にした。もう疲れたのだ。殴られるのも蹴られるのも悪口を言われるのも全部疲れた。人生で一度くらいは母に褒められてみたい。そんな感情で受験して、教育学部のある県内の底辺大学に受かった。祖母は合格通知を見て泣いていた。母はなにも言わなかった。殴られも蹴られもしなかったけれど、褒められなかった。
わたしの人生ってなんだろうな~! 母親に褒められたことはなく、かわりに暴力と悪口と宗教がある。家はいつも物であふれかえっているけれど、そこにわたしの物はすこししかない。手首や腕や足には数えきれないくらいの傷跡があって、それは年々増えている。ここで逃げればよかったんだけど、わたしは母に褒められたかった。それだけで大学に行って、母に言われた通りの資格を取って、勧められたままに子どもと接する職場に就職した。そこまでしても母に褒められなかった。仕事で子どもたちとその保護者に関わるうちに、いつのまにか精神が削られていたのだろう。仕事で接する「家族」を見せられるたびねむれなくなり、食べ物が一切食べれなくなり、手首の傷はどんどん深くなり、切る回数も増え、仕事に行けなくなった。体重も三か月で20キロ落ちた。仕事に行くかわりに精神科に通いだし、薬をもらってなんとかねむる。それでも悪夢を見て目が覚める。「普通」でいなくちゃ殴られるのに「普通」でいられない。薬を飲んで手首を切っているときが唯一「普通」でいられた。
もう死んじゃおっかな。そう思い始めて準備をしていると、はじめて母が今までわたしにしてきたことを謝ってきた。「悪いことをした」というだけで、「ごめん」とは言われなかった。母によると「母(わたしの祖母)に殴られて育ってきたからそう育てた」らしい。手首を切っていたのも最初から全部知っていて、知っていながら無視していたらしい。死までもう少しのところまで追い詰めたあとにそんなことを言うな。楽に死なせてくれ。安定剤がなければ生きていけない人間にそんなことを言うな。なによりも、それだけで母のことを許してしまう自分が情けなかった。
わたしに「人生楽そうでいいな~」と言ってきた同級生は、そんなわたしのことを知らない。たぶんわたしのことを「好きな大学まで行かせてもらったのに社会に出てだめになったクズだけど親に守られてる」と思っているんだろうな。実際外から見ればそうなんだろう。母は外からの目を気にする人で、隠すのがうまかった。殴るのだって顔を狙ったことはない。わたしから周りの人間に「母親に殴られたり蹴られたり悪口言われたりしててさ~褒められたこと一度もないんだよね」なんて言ったことはない。わたしから見れば両親が仲良く、いじめられたこともなく、手首がきれいで精神も異常じゃない同級生のほうが十分「人生楽そうでいいな~」と思う。今はもう楽に死ねたらそれでいいです。
沢山書いたやで
・実名主義
80年代末まで偽名でも銀行口座が開けた。だから複数の社会的人格を持って経済活動する事ができた。
職場で旧姓を使い続けても問題無かった。1986年に米国でマネロン規制法、その後1990年までに国際的取決め、日本もそれに倣い口座の実名証明必須になり社会でも実名主義が当然になった。
MDMAが非合法化されたのは1991年頃(うろおぼえ)。クラブシーンやレイブパーティでは当たり前に使用されていた。
心臓発作を惹起する為に規制。m.o.v.e.のmotsuが所属していたMORE DEEPの曲には「エクスタシーをキメていた頃」というフレーズがある。
90年代のクラブではマリファナは普通に喫われており、自分は使わなくても中に居ると副流煙で景色がとろけてくる、肉体遊離感が起きるというのは当たり前だった。また自衛隊員も米兵経由で入手する者がおり、除隊後に北海道野生パカロロツアーとかアムステルダム飛びツアーなどを企てる人もいた。
・式場での結婚式
1970年代からブライダル産業が隆盛し一般化した。これ以前は神前式、キリスト教教会一般的。
団塊世代のロマンチックラブイデオロギーのため。この以前、地方では婚姻の自由は憲法上の絵に描いた餅であり、親が決めた相手と結婚して神前式を挙げるのが当たり前で共同体から排除されないための義務だった。
団塊世代はそこからの逃避の為にフォークソング等でキリスト教式を称揚し、そのニーズに答える産業が発展して定着した。
古い評論を読むと戦中派、戦前派が式場での披露宴に憤っている文章がよく出てくる。
1990年頃まで日本人の公共空間でのマナーは先進国ぶっちぎりで最低であり、酔って吐く、道にゴミや噛んだガムを捨てる、タンを吐くなど当たり前であった。終点近くの長距離列車車内はぶん投げたゴミだらけだった。
・外国で旅の恥をかき捨てない
かつて旅の恥はかき捨てで、特に海外での不行跡が酷く日本人旅行者(特に団体)は眉を顰められる存在だった。
遺跡に名前を彫ったり、腹巻で目抜き通りを歩いたり、コンダクターに痴漢行為をしたり、名跡で立ち小便したり、売春ツアーをしたり、現地女性に「ハウマッチ」と聞いたりもの凄かった。
これを西洋は宗教倫理の文化で日本は恥の文化、共同体の外では恥の羈束力は働かないからだ、と説明されていた。
電話には加入権というものがあり、契約時に設備負担金を払う必要があった。金額は7万円と高い。
この為に電話加入権を売買したり、質に入れるという商売があった。2003年頃から段階的に廃止された。
森内閣の「IT革命」まで自治体や省庁のホームページは夜には繋がらなかった。これは庁舎内のドメインコントローラWindowsNTサーバのIIS(インターネットインフォメーションサーバー)サービスでHPを提供していたため。
終業時間になるとサーバとルータの電源を落として帰っていた。サイトの作成は役人の趣味みたいな感じで作っていた。
1998年ごろまでLANを構築していないオフィスというのが結構あった。プリンタはパラレルポートで繋がれていたので、このパラレルケーブルを切り替える「プリンター切り替え器」というKVMのような装置が使われていた。
駅のトイレにはトイレットペーパーが無く、入口に100円の紙販売機があるのでそれを買っていた。
民営化したJRが紙の常置を始め、1990年代前半に他社も倣った。
90年代中頃まで路上駐車は当たり前に見逃されており、国道などの最左端は駐車車両で埋まっていた。駅近くでは駐車車両とタクシーの客待ちで二重駐車になっていた。
2000年頃から増える。警察が路上駐車取締強化してから10年ほど、駐車場が無いのに路上にとめると必ず検挙という無茶な状態が続いていた。
和室は必ず設定されており、末期には3畳の納戸だけが和室なんてケースもみられた。1990年代前半に無くなった風習。
家電量販店が増えて競合で出来るようになると消耗品以外の商品価格は隠され、店員と交渉で決めるという風になった。この為に店員は電卓を持ち歩き、電卓を叩いて値段を表示した。
客足が減る悪習なので1990年代頃に取りやめられた。
バブル後の都の財政難の打破を喧伝して都知事になった石原慎太郎(1999年~)は増収策として無断で道路にはみ出し設置されていた自販機と建物袖看板の道路使用料徴収を持ち出した。これまで自販機は当たり前に道路にはみ出して置かれていた。
これに対応して既存機の撤去とスリムタイプへの交換が進み、他県でもはみ出し設置にならないスリムタイプが標準となった。
以前は富士通系の親指シフト配列を好む人が居たり、電源のオンオフ、リセットなどの余計なキーが付いている配列があった(誤爆シャットダウン頻出)。
2006年ころに一世を風靡したネットブックでSSDが一般化したが、最初の数年の製品は数秒に一度ごと動作が止まるなど酷いものだった。
嘗ては電気電話水道など公共料金というのは各社の窓口か郵便局、銀行で「公共料金振込用紙」に書いて振り込むものだった。
当然平日3時までしかやっていない銀行に会社員が行けるわけがない。
そこで振り込みの為に仕事を中抜けするというのが黙認されていた。自動引落設定、コンビニ払いが一般化した1990年代後半頃に消滅。
18才は未成年で飲酒できないはずだが、大学生は成人したものと見做され飲酒は黙認されていた。
ゼミの飲み会で普通に教授も参加して飲んでいた。警察も何も言わなかった。
・線路を歩かない
都電やローカル線などでは近道の為に線路を歩いていく人が普通にいた。電車進来時に警笛を鳴らされるが線路わきに避けていればそれ以上の事は何も言われない。トンネルや鉄橋で出くわすと流石に怒鳴られるがそれだけ。ストの時は皆線路を歩いて行く。家の玄関が線路に向いている家も普通にあった。引っ越し作業は大変。
90年代中頃に写真撮影する鉄オタの事故が連続し、その後厳しくなっていった。
初代のスーパーカブの取扱説明書などには「ビールコップ一杯程度なら良いが、ウイスキーは酩酊するからダメ」と書かれている。
・小銭を所持しないで外出
1000円札の読み取り装置が一般化したのは1980年代中頃。それまでは鉄道の券売機でもバスでも小銭しか使えなかった。
この為、小銭の所持数が足りないとお金が払えないというのが当たり前だった。売店でガムなどを買って両替するのが必要だった。万券を両替する為に少額商品を買うのは喧嘩を売るのに等しく勇気が居る行為だった。常に所持している券種と小銭額の把握は必要だった。
1989年の消費税導入まで物の価格は全て10円刻みになっていて1円玉は公共料金以外殆ど使われていなかった。
・個室
和風の家の部屋割りは個室という概念が無い為、都会を除いて1960年代までの日本人はプライバシー空間というものが無い生活をしていた。個人あての手紙は親が勝手に開けて読んでいた。
・個人
家にプライバシーが無く、また会社もイエが準用される社会だった為に「社員のプライバシーに踏み込む」という感覚が余りなかった。
「会社以外の自分」も大事だと言い始めた団塊世代は「個人主義」と罵倒され、80年代世代は「新人類」と宇宙人扱いされた。
ウオークマンは街で個人的空間に浸るものだとして批判の対象になった。個人主義はそれ自体が罵倒文句だった。
全共闘運動はあらゆる権威を攻撃し、大学の知の権威というものも破壊した。この為その後大学教授というのは学生に対して尊敬されない状態が継続。やがて学生は脱政治化したが大学や学問には敬意が持たれず、特に文系では学生が誰も勉強せずレジャーランド化した。
90年前後の大学改革でICUや上智の比較文化など厳しいカリキュラムに注目が集まり、学生が勉強するという当たり前の状態が復活した。
この為に卒業年1994年頃を境に知識やモノの考え方で極端な程の違いがある。
・様々な塩製品
塩は国家専売品だったので専売公社の製造する塩以外の岩塩、ミネラル入り塩、胡椒入り塩などは製造販売禁止だった。塩の小売りには国の許可と標識の掲出が必要だった。
・「メイド喫茶」などの語
「メイド」は放送禁止用語だった。基本住込みで働く為、身分制や階級制の象徴のような職業であって、戦後の身分平等にそぐわないと見做された為。メイドは家政婦と言い換えられ、住込みでなく通勤が一般的な「雇用」となった。
一周回ってメイドの構造が過去帳入りした為に「メイド喫茶」などで使うのが問題視される事が無くなった。2005年頃。
・キャノーラ油
キャノーラ油の原料は菜種。
米国では菜種油を食用販売することが禁止されている。この菜種油の成分を調整して販売を認めさせたのがキャノーラ油。
米国で生産量が増加した後に日本に入ってきたので、一般化したのは1990年代。
過払い金などの広告が出来るようになったのは弁護士法が改正された2000年から。それまでは屋号や執務時間などの表示のみ。
1991年に大店法が改正されるまではデパートの閉店時間はPM6時、スーパーの閉店時間はPM7~8時というのが相場だった。更に定休日もあった。
基本的に地元の商工会の意見で決められていた(大店法の定めによる)。これの改正が商店街の全滅に繋がった。
・生ビール
ビールは酵母菌により発酵するが、発酵が進みすぎて飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまう。飲み頃に提供するのが生の地ビール。
この為ビン缶詰では熱で酵母を全て殺してから詰める必要がある。
1970年代末にサントリーがフィルターで酵母を除去する製法を開発。飲み屋への営業力を活かしてジョッキ生を広めた。この為初期は生=サントリーだった。後に各社が参入して生戦争が勃発。
だから地ビールの生はずっと昔からあったが、全国流通製品の生ビールはサントリー生が1970年代末、その他の各社は1984年ごろから。因みにサントリー生より生じゃないキリンラガーの方がずっと美味い。
バブル期の好景気期に端緒。残業上限規制が導入され36協定があっても残業上限40(80かも)時間/月の行政指導が主に大手企業に行われた。
それまで残業代はフルチャージだったが計算上打ち切るという慣行が発生。それらの会社はタダ働きしてると奇異の目で見られた。
これが平成不況時に残業代は基本支払われずに長時間労働という慣行に変化していく。当初の指導の対象外だった中小企業ではずっと残業代フルチャージだったがこれらにも悪習が伝播していった。
1990年から。1970年代にも導入が試行されたことがあるが全く普及せず直ぐに撤去された。例えば地下鉄では1974年開業の有楽町線池袋駅だけに自動改札機があり、同駅の入場だけにしか使われていなかった。これも後の1986年頃に一度撤去。札幌地下鉄などでは当初より継続して使われていたのと対照的。
1995年以降。それまでササニシキが絶大な人気だったが、冷害に弱く1993年冷夏で全国的な米の不作が発生、大騒動になった。
冷害に強いコシヒカリ系の後継種、あきたこまち、ひとめぼれが席巻するようになった。
駐車違反にバイクと車の別はないが、バイクの駐車違反は2006年まで摘発されていなかった。摘発を民間に委託してインセンティブを付加し原付まで摘発するようになると店舗に駐輪場が無い都心ではバイク移動が不可能になり、バイク市場が干上がる効果となった。
・大学生の専攻無し
学部でも一部以外では専攻は必ず取るものだったが、1990年代初頭の教育学部ゼロ免課程の流行や福祉大などの開学で専攻無しの学生が増加。1990年代後半から。
福岡教育大学の初等のカリキュラム改革によって、副免が取りやすくなる、初等でも中学・高校の教員になれる、というデマが広まっています。
しかし、改革しようが、初等は小学校の先生になる人のための課程であって、中学・高校の先生になる人のための課程ではありませんよ、カリキュラム改革は見せかけですよ、という話。
福岡教育大学の初等は、小学校教員主免の一択で、副免(中・高校の免許)は取らせない、という方針です。
これは、寺尾愼一学長・櫻井孝俊学長、両学長(両名とも不当労働行為をおこなった、不当労働行為学長です)による「改革」の大方針であり、その改革は、成功しました。
初等は、副免は取らせない、という方針は、変わりません。
この「改革」の眼目は、「初等の学生を小学校教員にする」、ことにあります。
これは、「初等の学生は、中学校の教員とか、高等学校の教員にはしない」と同義です。
もし、副免を希望しても、中学や高校の教員免許は取らせない、仮に副免として取れたとしても、二種免をかろうじて取れるようにして、一種免は無理としたいのです。
https://www.fukuoka-edu.ac.jp/campuslife/academic_affairs/glb0i0000000126j-att/glb0i00000009mmy.pdf
小学校の先生になりたい、という人は、初等はおすすめです。しかし、中学校、高校の先生になりたい、という人には、絶対におすすめできません。
「改革」以前は、初等は選修制といって、各教科ごとにわかれていました。「初等国語」だの「初等数学」だのといった区分です。そして、副免として中学・高校の一種免を取ることが一般的でした。また、取りやすいようにカリキュラムを設計していました。本当は初等だけれど、中学(高校)の先生になりたい、といって、教員採用試験で中学校(高校)に合格する学生も、少ないながらいました。
これによって、教員採用試験を受けるのであれば、初等の学生は小学校しか受験できないようになってしまいました。
つまり、初等の学生には、小学校教員一択にして、実際に小学校教員にしかなれないようにする、ということが、大学の改革の目的だったのです。
実際に、就職率の数字を見ていくと、それが明らかになっています。
この年の卒業生は669人です。
そのうち、初等・中等・特支の学校教育三課程の卒業生は498人。生涯教育三課程(共生社会教育・環境情報教育・生涯スポーツ芸術)は171人です。
特別支援学校が32人(4.8%)
で、合計が358人(53.5%)になります。
進学者は66人(9.9%)で、その他は107人(16.0%)です。
これらを合計すると、669人となります。
なお、これを、初等だけに限って見てみます。
という内訳になります。
初等から中学・高校の教員になる人間が10%ほどいることがわかります。
ちなみに、これは、「教員採用試験に合格して中学・高校の教員になった」という数字ではありません。
教員採用試験に合格した人間も含んで、不合格であっても非常勤講師として採用された数も含んでいるものです。
さて、では、2020年(令和2年)の就職状況のデータを見てみましょう。
この年の卒業生は619人です。
そのうち、
特別支援学校が40人(6.5%)
幼稚園が4人(0.6%)
で、合計が446人(72.1%)になります。
教員以外は、115人(18.6%)です。
進学者は21人(3.4%)で、その他は37人(6.0%)です。
これらを合計すると、619人となります。
これを、初等だけに限って見てみます。
という内訳になります。
この結果を比較してみましょう。初等の小学校教員になる比率が明らかに上がりました。
2014年では151人(48.4%)でしたが、2020年では271人(72.3%)ですから、爆上げです。
このおかげで、ダイヤモンドオンラインの2021年5月31日、「教員を多く輩出した大学ランキング!」の記事の中で、福岡教育大学は小学校教員就職者数ランキングで日本一となったのです。
https://diamond.jp/articles/-/271717
大学も教員採用試験の合格者が多いことを、広報誌で誇らしげに宣伝しています。
https://www.fukuoka-edu.ac.jp/about/press/joyama/glb0i00000000yjn-att/glb0i00000004k2g.pdf
中学・高校を合計すると、2014年では32人(10.3%)でしたが、2020年では4人(1.1%)です。爆下げです。いや、ほぼ消滅と言ってもいいでしょう。
初等の選修制であった時、つまり改革前は、初等に来ることが小学校教員の一択ではありませんでした。初等であっても、中学や高校の免許も取りやすかったのです。
校種は決めてないけど、学校の先生になりたい、と漠然と志望している学生も多かったようです。そして、講義を取っていくにつれて、「初等だけれど、小学校ではなく、中学(高校)の方が自分には合っているようだ」と志望変更ができました。
あるいは、「中等は難しいけれど、初等だったら合格できそうだ」と入学してきた学生も多かったでしょう。
もし、中学・高校の先生になりたい、というのであれば、中等に入るべきです。初等では、中学・高校の先生にはなれませんから。
初等であっても、副免で中学・高校の免許が取りたい、という学生が多いせいか、そして、初等=小学校教員一択に対する学生の潜在的な不満が高いせいか、大学はカリキュラム改革を予告しています。
https://www.fukuoka-edu.ac.jp/files/bgeditor/other/R5gakubuhenkou.pdf
初等に、幼児、小学校、人文社会、理数自然、芸術技能、とわけて、副専攻で副免(中・高の免許)取れるよ、とアピールしたいようです。
この予告を見る限り、副免を積極的に取らせていく、という大学の姿勢は見えません。あくまで「取得することが可能になります」と、控えめな表現です。
これが、「取得を保証します」でしたら、確実に取得させる、と意味しますが、「可能になります」という表現は、「できるかもしれません」という意味であり、その裏には「できないかもしれません」という意味が隠されていることを、感じ取らないといけません。
また、取得の免許を「中学校教員免許状(1種または2種)」としているところも注目できます。高校の1種免については言及していないのです。
この改革は執行部が勝手に決めているだけのようで、大学の教員の間ではほとんど議論されている様子はありません。
https://twitter.com/fukkyosaisei/status/1417284940635414529
羊頭狗肉の改革です。初等は小学校主免一択のままで、これまでと変わらず、基礎学力テストで副免の授業を取れるかどうかを決めていくのでしょう。
https://anond.hatelabo.jp/20210224152912
カリキュラム改革は、見せかけの改革です。「やってます感」を出すためだけにすぎません。
参考までに「福岡教育大学教育学部の入学者選抜方法等についてのQ&A」のチェックをおすすめします。
https://www.fukuoka-edu.ac.jp/files/bgeditor/other/qanda.pdf