はてなキーワード: 教諭とは
【概要】
聖クンニ学園の創立者である新垣優香は、もともとカトリック系女子校の教諭として働いていた。
しかし、そこで彼女はある問題に直面したという。それは、カトリックの教義によって性的な事柄への嫌悪感が強く刷り込まれていたために、少女たちが自分の身体に対して無関心になってしまったということだった。
この問題に対処するために彼女がとった方法が、「クンニ専門の学校を設立すること」であった。
この学校では、少女は徹底的にクンニの技術を叩き込まれることになる。この過程で少女たちは自分の身体に興味を抱き始め、次第に自分の身体と心を大切にするようになるのだという。
この学園を卒業した少女たちは、その後マッサージ師になったり、カウンセラーになったりするなど、心身への深い理解を武器にした職業に就くものも多い。
教え子の男子生徒に対する強制わいせつ容疑で18日に警視庁光が丘署に逮捕された東京都練馬区立中学校の男性教諭(37)が、釈放後に死亡していたことがわかった。自殺とみられるという。
光が丘署幹部によると、21日午前5時25分頃、同区光が丘のアパート敷地内で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。男性教諭は19日に東京地検に送検されたが、東京地裁が地検の勾留請求を却下し、20日夜に釈放されていた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0b9c623299ff656fb1d6f6fe5fb4dbd1d58b994f
この人が書いたものと思われるインスタの一部分が下の文章だけど,これだけをみると,やられたほうからするととてもジョークになんか思えないよね。
「そこで私はその○○君に近づいて後ろから羽交い絞めにしながら「○○していないで掃除して」と笑いながら,陰部を服の上から掴みました。」
ちょっと想像してよ。後ろから先生に羽交い絞めにされて陰部を触られるって・・・・ ほかの生徒とは軽いノリで同じようなことをやっていたって・・・・そして,先生がなくなった今,被害者の生徒に一生残るトラウマとなるよねー この先生を慕っている生徒もいるようだけど,学校でこんなことされたら普通は嫌でしょ?意識しないところでこんなことしちゃう人はどうなの?
西階中学校では、近年、教育委員会が、 初等幾何や整数論を教えようとしているが、教員の中には、3,40代の者が多く、昭和58年に学習指導要領から
それらは廃止されているので、我々にはそれを教える教養も能力もないという意見があがっており、しかも校長は体育の専門のため、数学については分からない
ということである。
平成9年に西階中学校で整数論を教えていた小泊教諭らに聞いても、その当時は何もやっていなかったという返答。当時在籍していた生徒全員に聞いても
実質的には、斉野平先生から幾何学のなんのテクニックも定理も教わっていないといっている。
宮崎県高等学校の入試問題には幾何学の簡単な問題が出るが、10年一日のようなものであり、解けなくてもいいようにされている。
また、西階中学校の男子生徒の中には、幾何学に興味を示す者もいるが、女子生徒の中には、つまらないし、そもそも先生が教えていないとして不満を持っている者が多い。
延岡高等学校の生徒に聞くと、平面図形の問題は高校でも習うが、内容はメネラウスの定理、チェバの定理だけで無内容。定理を教わるだけで問題は解かない。
スタデーサプリの先生はセンター試験に出る多少難しい平面幾何の問題を解いているが、センター試験では誰も平面幾何を選択しない。
地方都市在住の50歳。妻子あり。東京に単身赴任中だが、コロナが始まってからは東京の借家には月に一度、一週間ほど滞在するだけになった。
中学2年生の時から書き溜めてきた日記帳を東京の借家に持って来ている。20年前の1月に書いたのを最後に更新が途絶えている。死後に読まれたくないが、処分してしまうと自分が自分でなくなってしまうような気がして、ドキュメントスキャナーでPCに取り込むことにした。
部活でいじめを受けていた中学時代。高校は県内トップ校を受検するもボーダーラインに数点足りず、県立高校の二次募集で片道1時間半の中堅高校に通うことになった。学校に馴染めず悶々としていた高1の夏、母親が癌で入院し、その冬にあっけなく逝ってしまう。その頃、今の高校を退学して大検を受けようと考え始め、父親とも激しく対立する日々──。
日記を読むつもりはなく、ただスキャン作業だけを淡々と進めるつもりだったが、どうしても作業の都合上、目に留まったページは読んでしまう。辛い記憶が蘇ってくる。
4冊目の大学ノートをバラそうとしたら、高1の進路指導のプリントが挟まっていた。提出したプリントに担任の先生がひとりひとりに手書きのメッセージを書いて、3学期の終業式の日に返却してくれたものだ。国語と書道を担当する年配の男性教諭である担任のS先生には、退学や大検受検のこともよく相談に乗っていただいたものだ。プリントの余白には、こんなメッセージが書かれていた。
今年度はいろいろ辛い思いをして、本当にたいへんでした。一ぺんに学校以外のことで試練を受けましたネ。それにくじけなかった増田君は、本当に強い、と感心しました。新年度は、又、心機一転がんばってください。この1年、何の役にも立てなかったこと、許してください。K先生(部活の顧問)や必要あれば進路指導部の先生などとよく相談して、最終的には自分自身で決意してください。悔いのないように! 将来を期待しています。
藁半紙のプリントにボールペンで書かれたこのメッセージを見た瞬間、涙が止めどなく溢れてきて、声を立てて泣いてしまった。記憶から抜け落ちていたこの文章が、あの頃の辛かった記憶を呼び戻したのだろうか。あまりにも予想外のことで、自分でもびっくりした。
S先生は翌年度から県内の別の高校に転任され、それ以来お目にかかっていない。ご存命なら、今は80代中頃だろうか。
結局、高校は退学せずに卒業した。大学受験は何度も失敗し、就職してからも苦労が絶えなかったが、今では人並み以上の幸せな生活ができている。当時は自分のことで精いっぱいだったが、今思い返せば、S先生にはずいぶんと支えていただいた。直接お礼を伝える機会はもうない気がするのが、なおさら悲しい。
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彼は、紺色のスーツを筋肉質な体に対して少し窮屈そうに着ていたのが印象的だった。
スポーツをしていそうだと思った短髪。大きな声と、明快な話し方。
相反するように、いわゆるビン底と形容したくなる度の強い眼鏡を身につけていた。
彼とのこれといった思い出は特にない。
ただ、オリエンテーションのように行われたはじめの授業で彼が語った中の一言がずっと頭の片隅に残っている。
「僕が学生の頃にいちばん得意だった教科は英語で、いちばん苦手だった教科は国語です。」
私は真っ先に、なぜ得意な教科の先生にならなかったのか?と疑問に思った。
その後に、自らの苦手を無くしたかったと語っていたような気もするし、苦手という気持ちがわかるとも語っていたような気もする。
とにかく、当時は変わった先生だと思った。
授業内容についての記憶はない。
可もなく不可もなくだったのか、ストレスがなく印象的なことがなかったのかは定かでない。如何せん年数が経っている。
世の中には一定数、苦手なものに対して真摯に向き合う人がいるだろう。
彼の場合は、教諭として生徒に教える立場でありながら、苦手だった教科を教えることを選択している。
そんな彼を、私はふと思い出しては奇特だと思うのだ。
ただし、感覚的に理解しているもの、生まれながらに会得しているものを、他人に教えるのは難しい。
中には、できない他人を理解できない人や、自分ができることを他人ができないことなどあるはずがないと無意識下に思い込んでいる人もいるはずだ。
また、どちらかと言えば得意であったり、簡単な知識を有していたりするものに対し、特段興味がなければ、必要以上に深く掘り下げる人は少ないのではないだろうか。
・苦手という意識がある
・苦手ということに理解がある
・苦手への取り組み経験がある
・苦手を職にするほど得意にした
等々の、いわばスーパー教える側にいてほしい人間!!!!!!!()
…………世の中に彼のような意識を持つ人物が増えたらいいのになという気持ちを込めて。
余談だが、小学校5年生の時に担任をしてくれた女性教諭は、家庭科の先生でありながら、夫が教えている国語を教えることも得意としていた。
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私は「インターネット上で故人のブログが閲覧できる」ということを知り、廃墟サイトまとめを閲覧していた。
そもそも一体なぜ私が故人のブログに興味を持ったのかということについて述べたいと思う。中学生の頃、図書館で南条さんの本を借りた。当時私はリスカやアムカを常習的に行っていた。そのような自傷行為がきっかけで南条さんの本に辿り着いたと記憶している。
本には、南条さんという人物について、また彼女がインターネット上に残したものについて書かれていた。
「死んだらインターネットで公開したものが残り、さらには書籍化されるパターンもあるらしい」
衝撃だった。
南条さんは、生存した証をインターネット上に残して死んだ。いや、「生存した証がインターネット上に残ってしまった」と言い表した方が正しいのかもしれない。
さて話を戻すと、インターネット上で閲覧できる故人のブログというのが、二階堂さんの「八本脚の蝶」という日記サイトだった。利用されていたのは「@niftyホームページサービス」で、このサービス名から推測できるように、当時はまだ世の中に気軽に開設可能なブログサイトは広まっていなかったのかもしれない。
二階堂さんもまた、南条さんと同様にに生存した証をインターネット上に残して死んだ。特筆しておくべき点が、二階堂さんは南条さんと異なり「自らの意志で生存した証をインターネット上に残して自殺した」という点である。
私は、南条さんも二階堂さんもインターネット上でリアルタイムにて追うことができなかった。そのことについてなぜか「残念だ」と感じてしまうの自分自身の気持ちが不謹慎でたまらなかった。
インターネットではブログサービスの代りに増田が流行り始めた。私は主にメンタルヘルスについて発信している増田を好んで見ていた。そのうちそのクラスタ内のある増田について「どうやらあのアカウントの持ち主は自殺したようだ」と囁かれている場面に何度か遭遇するようになった。
このような場面を目撃し私は、非常にモラルの欠けた発言になるのだが「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と感じるようになっていた。
さて、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化され河出書房新社より発売された。文庫化されるという情報を得た時点で既に私は、自分の心の中で妙にひっかかるものを感じていた。故人の尊厳について考えた。
前置きは長くなったが、本編の日記を読んで感じたことを述べていこうと思う。
私はいつの間にか、2001年当時自分が何をしていたかということについて思いを馳せていた。2001年6月13日水曜日、私は小学6年生だった。私は6年生のゴールデンウィークに旅行先で体調を崩し、風邪をこじらせてしまい入院した。自宅で寝ていると熱がぐんぐん上がり、布団に包まっても寒くて寒くてたまらなかった。後になって改めて親とその話をしていると、どうやら熱性けいれんを起こしていたらしい。
ところで北海道の運動会は春に行われる。私は運動会当日までに退院することができた。当時の担任の先生が「持久走どうする?」と確認してきたので、私は「徒競走だけ出ます」と答えた。グラウンド5周の1キロなんて走りたくなかったのである。
私にとってそんな小学校最後の運動会が終わり、初夏なのか蝦夷梅雨(北海道にも一応梅雨のような時期が一瞬だけ存在する)なのかわからない曖昧な気候の中で、小学校生活を送っていた。おそらくそれが、私の2001年6月13日水曜日だったのではないかと思う。
2002年4月8日、月曜日。おそらくこの日に私は中学1年生になった。中学校に進学したといっても、私が通っていたのは小中併置校だった。わかりやすく説明すると、小学生の教室が校舎の2階にあって、中学生の教室が3階にあるということだ。つまり中学生になると階段を上る段数が増えるだけのことである。
私は新学期の校舎の何とも言えないにおいに敏感な子どもだったので覚えているが、小学生のフロアと中学生のフロアとでは、においが異なっていた。中学生の階の廊下や教室は、やはり中学生らしい大人っぽいとでも言ったらいいのか、とにかく少し変なにおいがしたのを覚えている。
4月も8日頃となると、多くの会社にとっては新年度の区切りを迎えてから数日経過したというところで、まだ新しい環境には慣れていないという時期ではないだろうか。
2002年4月8日の月曜日、二階堂さんにとってのこの日は、ある本に引用されていた詩を見つけることができた日ということになっている。どうしても読みたくて探していたのだという。彼女にとってのちょっとした記念日であるように感じられる。
2002年の3月末~4月初旬の彼女の日記を確認してみると、すっぽりと更新されていない空白の期間になっていることがわかった。年度末から年度初めは、やはり忙しかったのだろう。
彼女は文学部哲学科を卒業した後、編集者・レビュアーとして働いていたようだ。新年度が始まって早々しかも平日に、ずっと探していた本が見つかったという出来事を日記に書くほどに、彼女は本に対してかなり熱心な人物だったんだろうとぼんやり想像する。
2003年4月1日火曜日、この日は平日だ。
平日だが、二階堂さんの日記は「その一」「その二」「その三」「その四」「その五」「その六」「その七」、これに止まらず「その八」「その九」、さらに続き「その一〇」「その一一‐一」と綴られている。私はそのことに気付き、なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じた。「その一一‐二」「その一二‐一」「その一二‐二」と日記は続くが、いくら新年度の決意表明にしても長編すぎやしないだろうかと思う。「その一二‐三」の日記の次に、彼女はやっと翌日の4月2日を迎えられたようだ。
しかしその4月2日水曜日の日記のタイトルは「その一」とある。この日は「その七」まで綴られているが、分割されている記事もあることを踏まえるとトータル9回更新されたということなのだと思う。おそらく当時はスマホなど普及していなかったはずなので、勝手な個人的な予想になるが、彼女は自宅で夜中になるまで複数回にわたってブログ記事を投稿したのではないかと考える。もしくは、職場のPCから小分けして投稿していたという可能性も考えられる。しかし、2002年4月8日月曜日の日記から判断する限り、彼女であれば絶対にそんなことはしないのではないかと思う。
一投稿あたりの文字数は、今でいうブログ(いわゆる収益化を目的としたブログ)と比較するとかなり少なく感じられる。
しかし彼女の複数回に及ぶブログ投稿を現代の増田で例えるなら、短文の増田をかなりの回数にわたって連投しているという状態に置き換えられるのではないかと思う。多くの人はそのような増田のことを、はてなーもしくはいわゆる「病み増田(メンタルヘルス系の内容を扱う増田の中でも特に思春期の中高生が該当するように思う)」に分類すると思う。事実私も、一晩にかけてそのように連投しているアカウントを見かけると、どうしてもメンタルヘルス系の悩みでも抱えているのだろうかと見なしてしまう。
さて連続して投稿された日記の内容はというと、私が生きてきた中でそのタイトルも作者も聞いたことがないような本からの引用である。また、彼女が数年前に受け取ったと思われる知人からの手紙を引用している投稿も見られる。
ふと私は、おそらく二階堂さんは思考の整理のためにブログを使うというやり方をとるタイプの人間ではないだろうかと感じた。というのも私も時たまTwitterをそのような用途に用いるからである。そしてどういうときにその思考の整理をするかというと、それは「ものすごく死にたいが、どう対処していいか方法が見当もつかないとき」である。これについては、もしかするとピンとくる方もいるかもしれない。そのようにしばしば私はTwitterで思考の整理を行う。なぜなら自分自身の脳内の回転及びそれによって生じる思考をインターネットに吐き出さなければ、到底処理しきれない状態に陥っているからだ。
そしてなぜあえてインターネットに吐露するのかというと、リアル社会には私の話を聞いてくれる人が存在しないからだ。私にとって、リアル社会で相手の様子を窺いつつ的確なタイミングでふさわしい言葉で相談を持ちかけるという動作は、極めて難しい。過去に何度も相談時のコミュニケーションに挫折する経験を重ねたことがきっかけで、そのような事態に辿り着いてしまったのではないかと疑っている。
彼女の本心は今となってはわからない。そのため私のような人間が、勝手に彼女と自身を重ね合わせ、どこかに類似点があるのではないかとあれこれ想像してしまう。
ふと、彼女の死とはこのような在り方でよかったのだろうかと思わず考えてしまう。死後に自分の作品が残るとは、そういうことなのだと思う。
2003年4月に私は中学2年生になり、無事に厨二病を発症した。インターネットに本格的に参入したのは、この時期だったかと記憶している。休み時間には、情報の担当教諭がヤフージオシティーズのアカウント取得を手伝ってくれた。
やはり、当時はまだブログがそこまで一般的なものではなかった。私はまずは無料レンタルスペース(現代でいうレンタルサーバーのようなもの)を契約し個人サイトを作っていた。そしてレンタル掲示板を設置し、同盟バナー(ハッシュタグで繋がる文化など当然存在しなかったため、共通の趣味で繋がる同盟という文化が主流であった)を貼り、繋がっていた。あの頃はそのような時代であった。
私は夜な夜な日記(これはノートに綴った日記であった。というのも夜はインターネットができない家庭環境にあったのだ)を書き、アムカをするようになっていた。田舎特有の地域性、そこで生じた問題、そして本来の私の性格と一体何が根本的な原因であるのかはわからないが、ちょうど家庭内でもそこそこ大きな出来事が発生し、私は混乱のさなかにあった。
やがて私は個人サイトの別館を作るようになった。それはおそらく現代でいうTwitterの複垢(サブアカウント)のような類に非常によく似ているのではないかと思う。私はやがて、いかにも「メンヘラポエム(笑)」と晒されそうな文章を拙いながらも公開するようになっていた。
私は日本におけるインターネット内でポエムが馬鹿にされる風潮にいまいち納得がいかないので補足するが、あの頃は「テキストサイト」とカテゴライズされる個人サイトが充実していた。現代詩ともエッセイともいえない、インターネットならではの文章をポートフォリオのようにまとめた個人サイトは、当時かなり多くみられたように思う。
このように、思春期も相まって私は何かと思いつめて過ごす時間が多かった。先に述べたアムカをするようになったのは、確か半袖を着なくなった秋頃だったかと記憶している。
二階堂さんの日記は2003年4月26日の土曜日で更新が途絶えている。4月26日というと私の誕生日の翌日なのだが、そんなことなど今はどうでもいい。4月26日の日記は、6回更新されている。「その一」「その二」「その三」、そして「お別れ その一」「お別れ その二」「お別れ その三」という題で投稿されている。
そしてその後に、おそらくこれは投稿時間を設定したことによる自動投稿なのではないかと思うのだが、「最後のお知らせ」が更新されている。その内容は、「2003年4月26日のまだ朝が来る前に自ら命を絶ちました」という旨を報告するものである。
人の死についてあれこれ憶測することが心苦しいが、おそらく夜中のまだ朝が来る前に、最期のまとめとお別れの言葉を、何人かの対象に向けてそれぞれ投稿したのではないかと思う。そして、2001年から更新が続いていた日記をありがとうございましたという言葉で締めくくり、パソコンをシャットダウンしたのかどうかはわからないがきっと彼女のことなら身支度を整えてどこか高い建物へ向かい、そして亡くなったということだと思う。
断っておくと、私は『八本脚の蝶』すべてを読破したわけではない。二階堂さんが好んだ幻想文学などの専門分野について私は詳しくないため全文の理解が困難であるという言い訳により、私は挫折した。しかし何とも言えないモヤモヤとした疑問が残った。
冒頭で私は「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と述べた。再度ここで明記するが、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化された。
もしかするとインターネットに生きた証を残して自殺するということは最悪な選択肢なのではないかと私は思った。というのも、自らの意志に構わず書籍化され、需要や編集者の熱意があれば数年後に改めて文庫化されるというパターンもあり得るということが今回わかったからである。
果たして彼女はそのようなことを望んでいたのだろうかと、厚かましくも疑問に感じてしまう。世に広まるということは、全く想定していないターゲット層にまで届いてしまうということだ。もしかすると「自殺なんて弱い人間が行うことだ。自殺をする人間は敗者だ」などと主張する層に触れ議論を呼ぶこともあり得るかもしれない。
事実、書籍化された『八本脚の蝶』は私のような読者にまで届いたし、加えて私は今こうしてこのような文章まで書いている。果たして私のこのような行為は許されるものであろうか。
文中で軽く触れたが、私にとって増田は思考の整理のためのツールとして役立っている。
私は物心ついた頃より、「この子はぼんやりと過ごしているねぇ」と周囲から見なされることが多かった。しかしその一方で、「あなたは随分と真面目だね」などと言われる場面もたびたびあった。その理由について私は、私の脳は必要以上に過剰な思考を行っているためではないかと考えている。
私にはストレスや言いたいことを溜め込む傾向がある。「我慢しちゃだめだよ」とかなりの数の人たちから言われた経験がある。しかし、言える相手に言える範囲で相談をし、さらに増田で大量に噴出しても追いつかないのが残念ながら現状なのだ。
私は、増田を含むインターネットとは「最後の砦」であると考えている。リアル社会で捨てきれない期待をインターネットに託している。もし私がインターネットに見捨てられたなら、どうにかして確実な方法で間違いなく命を絶つと思う。それほどまでに私はインターネットに縋り付いている。
果たしてインターネットは苦しみの最中に置かれた人間にとっての救いとなるのだろうか。
今となっては、様々な利用目的によりインターネットは利用されている。インターネットで事業を興し収入を得る個人も随分と多く見かけるようになった。しかしインターネット上に人が増えたわりに、一向に私はそこで救われることがないように感じる。
私はリアル社会の中で、絶望に絶望を重ねている。冷静に振り返ると自滅して傷ついている場面が多いようにも感じられるが、何らかの救いを求めてインターネットに入り浸っている。もしも私がインターネットに絶望しきってしまったのなら、それは完全に終了の合図だ。「死」以外に何もあり得ない。
インターネットを彷徨っていると、「死ぬ以外の選択肢が無いために死ぬという選択を取った」という人間が多数存在することに気付かされる。
二階堂さんが一体どうして「八本脚の蝶」というウェブサイトを立ち上げたのか私にはわからない。もしかすると彼女の日記のどこかで触れられているのかもしれない。
しかし、私にはそのことについて何時までもこだわっている時間は無い。正直に言うと、小康状態を保ちながら生きていく上では、他人のことを気にかける余裕など皆無なのだ。そして当然なことであるのかもしれないが、健康な人間にとっても同様に、いわゆる「生きづらい人」を気にかける余裕というものは本当に無いらしい。最悪の社会だと思う。
しかしその「最悪な社会」だからこそ、インターネットは救済希望者を受け入れて欲しい。私の意図することをより明確に言い表すなら、「すべての利用者がインターネットを通じて他者を救済する世界であって欲しい」。
相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情の上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名で披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。
私は自分自身の人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。
「自分自身とよく似たパーソナリティの人物の言動や思考を知ること」は、抱えている苦しみを解消することにかなり役立つのではないかと思う。そのような情報を医療機関で提供してもらう機会が少なく、私はインターネットに救いを求めている。そういうわけで私は毎日欠かさずインターネットを利用している。
私はインターネットヘビーユーザーのまま亡くなっていったすべての人たちを観測したわけではないが、目にした限り彼らは社会に対する憎しみを叫ぶことなどせずにこの世を去っていったように思う。彼らに共通することとしては、後世に何らかの表現方法でアドバイスを残し、そして希望を託して亡くなっていったように感じられる。
私は彼らから希望を託された側として生を続けたいと思う。そしてそれがいつまでの期間になるかはわからないが、インターネットに救いを求めつつも、積極的に自分自身の不幸を開示していこうと考えている。
同僚に舌打ち・あいさつ無視4年間、歴代校長らが注意していた女性教諭を戒告処分 : 社会 : ニュース : 読売新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220215-OYT1T50168/
「女性教諭は2017年度~20年12月、同僚の30代女性教諭のあいさつを無視したほか、ため息や舌打ちを繰り返したという。机に乱暴に物を置く、扉を強く閉めるといった行為、職員会議で自分と異なる意見が出ると、大声を出したり物に当たったりすることもあり、歴代の校長らが注意していた。」
あいさつ無視、机に乱暴に物を置く、某派遣先で社員にこういった対応されたなぁ、そっかコレってハラスメント行為なんだ、と改めて感じた。
俺の同期に、女子社員から「理想の旦那」と言われているAがいる。
顔はフツメンよりちょっと落ちるが、とにかく嫁と子を大事にしてるのでそれが高評価らしい。
イクメンといえばAという感じ。
俺んとこはまだ小無しなんだが、
できてもAみたいにはなれそうにないな~と
Aと飲みながら話した。
そしたらA
とすごい勢いでダーっと語りだした。
以下Aの話。
Aは中学~高校時代、5chで言う勘助(勘違いクソ男)だったらしい。
「この女の子は俺に気があるんじゃ?」
嫌がられると
「俺の気を引こうとしてる」
「そんなことしてると嫌いになっちゃうよ?」
と脅すようなアピール
追い詰めてしまい、
と真顔で言われショックを受けたという。
「なんかお母さんより先生の言うことが正しい気がする…」
と思ったA。
「そうか、やっぱり」とそこで思考停止してたのが、
初めて「なんか違うかも」と思ったとか。
カウンセリングを受けようかと悩んだが
話し相手になってもらえることになった。
で、その人と話してるうちに
段々Aはマトモになっていったんだそうだ。
A母はAにベッタリ
ベッタリするかと思えば、
突き放して試すようなことをしたり、
「嫌いになっちゃうわよ」と脅したり。
無意識にやり返してたわけだ。
なんでこんなんなっちゃったんだろ、
と思ったAは
母親の反対を押し切って、
結果Aは「母親だけの密室育児は勘助を生む」という持論を得た。
「私ができなかった夢をかなえて」か
「お父さんの代わりに恋人になって」
「お父さんの代わりに恋人になって」
とAは熱く語った。
そしてAは
と誓ったんだそうだ。
嫁さんを信じてないわけじゃないけど、
万が一にも自分のような思いはさせたくないと。
ほのぼのイクメン語りを聞こうと思ったら
とんでもなくディープなとこまで話がいって衝撃だった。
酔いがさめた。
Aは結婚時もめちゃくちゃ反対されて、
死ぬ死ぬ詐欺とかもされたって言ってたよ。