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蓬莱学園の復刊とラノベ図書館04 ライトノベルの二次文庫を出すにはどうする?|中津宗一郎
しかしここで問題になるのが、ライトノベルというジャンルの傾向です。「書き下ろし文庫」として書かれたライトノベルは、良い意味でも「読み捨て」という傾向が強いのは否めません。例えばスニーカー文庫という名称も、元々は『スニーカーのように履き替えられる、読み捨てして軽やかに読める文庫』という意味が付与されていたとも言われています。
このスニーカー文庫の名前の由来について、ブクマで疑問視する声があったのでググってみた。
ラノベ史探訪(1)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【前編】 | ライトノベル研究会
スニーカー文庫はもともと、「角川文庫・青帯」という形で角川文庫内の一部として生まれたらしい。
ラノベ史探訪(2)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【後編】 | ライトノベル研究会
発表当初から「スニーカーシリーズ」となっていた記載は、「コンプティーク」や「ドラゴンマガジン」の1989年3月号発売の頃に「スニーカー文庫」に変わっていきます。
この記事の中では、「スニーカー」が選ばれたことについて、「私見」としてこう書かれている。
上記候補の中からなぜ「スニーカー」という名称が選ばれたのかについて。出版社側からすれば、靴の中では手軽でカジュアルなスニーカーのイメージが、若者向け作品を刊行していた「角川文庫・青帯」のイメージに合致したからではないかと(もちろん若者に馴染み深い単語だからといった他の理由もあったとは思います)。
(中略)
ただここで注目したいのは、「スニーカー」という名称が公募の形をとって読者側から(公募ゆえ「応募者=読者」とも限りませんが)提案された点です。つまり読者側にとって当時の「角川文庫・青帯」は、スニーカーのような手軽さがあると少なからず思われていた、ということになります。その「手軽さ=ライトさ」という意識こそ、1990年末頃に「ライトノベル」という名称の誕生へ繋がっていく…こうした仮説の検証も今後行っていく必要がありそうです。
スニーカーという語には、当時の読者の「ラノベ」(と後に呼ばれるジャンル)に対する「手軽」「カジュアル」「ライトさ」のイメージが反映されていたのではないか、という内容だ。
これ自体はもっともな話である。だが、少なくとも「履き替えられる」「読み捨て」とまでは書かれていないのは間違いない。
という話が、もしもこの記事を参考にして言っているのだとすれば、さすがにやや誇張した要約と言わざるを得ないだろう(文化軽視の風潮があると危機感を煽るため?)
ただ一方で、noteの著者はまさに、もともとスニーカーの編集部にいた人らしい(在籍時期は90年代とのことなので命名時に立ち会ってはいない)
そのため引用した記事とは無関係に、スニーカー=「読み捨て」の意図があったと言えるだけの根拠を得ていた可能性は十分にある。編集部内ではそういう意識で語られてたとか、応募ハガキ?にそんな感じのことが書かれてたとか。
どっちなのかは本人に聞かなきゃわからん。俺は直接聞くほどではないので、気になる人はどうぞ。
おしまい。
ジャンプで連載中の漫画「ぼくたちは勉強ができない」が今週一つの最終回を迎えたところですが、同時に少年誌では前代未聞のマルチエンド方式であることを発表したことで大炎上しています。
結ばれたヒロインが決定してからそれなりの時間が経ち、荒れかたも落ち着いてきたところでの爆弾投下だったので酷い荒れ方でした。全盛期の頃の俺妹にも負けず劣らずの荒れようで、罵詈雑言が飛び交う酷い有様でした。
純粋に喜んでいる人もいるのでしょうがそういう人はあまり多くは書き込まないので、大抵は今までの鬱憤を晴らそうとする書き込みですね。見るに堪えない人も多かろうと思います。
この方式が嬉しくないかと言われると嬉しい気持ちもあるにはあるのですが、それでも個人的には「ラブコメ漫画」でのマルチエンドには反対です。1話2話程度の完全にifルートと分かるような形式であれば良いのですが、過程も含めて描こうとするのは絶対に反対です。
ラブコメを読むことを競馬に例えることも多いし、その感覚もあるのは否定しませんが、それでも一番は唯一無二の運命の人と結ばれる過程を見たいから読むというようなロマンティシズムなところなんですよ。
好きなヒロインがその相手であれば最高ですけど、そうでなくともその運命が美しければそれで良いんです。
恋愛ゲームはいいのかと言われそうですが恋愛ゲームはいいんです。ラノベにもあると言われそうですがラノベも今のところはいいものしか知りません。媒体の違いは大きいです。知ってる範囲で違いを書きます。
漫画でのマルチエンドは少年誌では前代未聞ですが、、青年誌では「すんどめミルキーウェイ」という前例があるそうです。
読んでいないので詳しくは知りませんが、本編のフィナーレ手前からの分岐のようです。読んでいないのでなんともいえませんが、「ToLOVEる」のようなエロよりならありかなと思いますし、そうでなければちょっとどうかと思います。どのくらい続きを書くかにもよりますが。
ちなみにジャンプで連載中の「ゆらぎ荘の幽奈さん」も擬似的なマルチエンドを行っています。一本道の話の中で必然的に各ヒロインのあり得たかもしれない将来を描いているもので、設定的に可能な作品は限られるとはいえ上手いやり方だなと感心します。
ラノベで一番有名なマルチエンドは最近出た俺妹のあやせルートでしょうか。これはゲームのノベライズです。ifなのは明らかなのでこれはいいです。
他にも「ベン・トー」の最終巻もマルチエンドですがこれも短編でそれぞれと結ばれたかもしれない世界を書いてるだけなのでifなのは明らかですからこれもいいです。
ラノベとして一番ちゃんとマルチエンドを書いてるラノベは「お前をオタクにしてやるから、俺をリア充にしてくれ」の小豆エンドでしょうか。ドラゴンマガジンで本編と並行して短編連載していたパラレルストーリーをまとめたものですので、これもifなのは明らかですね。時系列的に半年以上かけて別の世界を書いていますし、小説なので描写の密度も漫画よりずっと高いです。このくらいかけていればこういう選択をしていれば小豆と結ばれる運命だったんだなと素直に思えます。
シナリオメインの恋愛ゲームは基本的に出会いとそれぞれの事情を簡単に知っていく共通ルート、個別のヒロインとイベントなどを通して結ばれていく個別ルートに分かれています。「シュタインズ・ゲート」のように実質一本道なものもありますが、恋愛メインならほとんどこういう形式です。
共通ルートと個別ルートの比率は作品によって色々ですが、大抵は共通ルートのほうが短く、個別ルートのほうが長いです。
なぜかといえば、最終的に主人公がどのヒロインと結ばれるにしろ共通ルートでは同じ経験をしているわけですから、その同じ経験の比率よりなぜそのヒロインと結ばれたかという個別に仲を深める比率のほうが高くないと説得力が薄くなってしまうからですね。
個別ルートが1,2時間とかいう作品もありますがそういうものは基本駄作と言っていいでしょう。1,2時間で描写が済んでしまうような運命に説得力などありません。
主人公のした選択によって、別のヒロインと結ばれる運命が生まれる。恋愛ゲームのいいところはあったかもしれない運命をいくつも見られることですね。まあそれをメタるのもまた恋愛ゲームですが。
オリジナルアニメでマルチエンドはないでしょうから概ねこの辺りでしょうか。
「唯一無二の運命の人」という表現ですが、生まれたときから赤い糸で結ばれているという意味ではなく、その場その場での選択によって結ばれる運命となった人という意味で使っています。
ですから今現在ラノベでやったことがあるような方式ですとか、恋愛ゲームならその運命になるだけの十分な説得力があるからいいんですね。
じゃあなんで漫画だと反対かというと単純にそんなに長く描けないでしょ? というだけです。長く描けるなら別にいいと思います。
「ぼくたちは勉強ができない」での分岐は文化祭だそうですが、文化祭は150話中69話目です。恋愛ゲームでいえば共通ルートが69話、個別ルートは81話です。この時点で成幸が誰かに惚れてる感じもしないので分岐するタイミングはいいと思います。だから各ヒロインこのくらい描くならいいと思いますよ。でも81×4って無理でしょ? 直接ルートに関係あるところだけとして適当に半分にしたって約160話、約3年分って半分にしても非現実的じゃないですか。
そうするとどうなるかっていうと今まで描いてきた描写を使い回さざるを得ないじゃないですか。そうする度に成幸が同じ経験をしてきたにも関わらず、些細なことで全然別の相手を好きになりましたってならざるを得ないんですよ。運命の、物語の純度が下がるんですよ。1,2時間の描写で相手が変わるみたいなことになって、成幸の経験が薄く、軽くなるんですよ。
その程度で揺らぐような運命を見たって感動できないんですよ。ていうか一度感動した分今までの感動何だったんだってなるんですよ。
いやまあ使い回さないこともありえますよ。各ヒロイン1,2話みたいな。それはいいんですよ。明らかにifなんで根幹の物語の純度は下げませんから。
でもあの発表の仕方でそれはありえないじゃないですか。それで描写を使い回さないならヒロイン間の描写密度が違いすぎて軽すぎますし、そもそも成幸がそれで惚れるのは解釈違い甚だしいんですよ。それに歯抜けの描写で結ばれても感動のつまみ食いみたいになるの嫌じゃないですか。音楽のサビだけ聞くようなもんじゃないですか。サビだけ聞いたっていい気分にならないわけじゃないですけど、でもその程度で満足できるわけじゃないじゃないですか。
恋愛ゲームと同じじゃないかみたいな声も聞きますが、恋愛ゲームやったことある人間に言わせると違うんですよ。
恋愛ゲームにおける共通ルートって各ルートに共通する設定を説明するパートであると同時に各ヒロインを選択していくパートなんですね。そこで選んだ選択肢によって好感度が上下していき、最終的に最も好感度が高いヒロインの個別ルートに進むんです。
つまりその選択肢を選んだ世界だけ見れば、そのヒロインを追いかけてそのヒロインのルートに進むわけですから、主人公とヒロインが結ばれる運命って言われてるほど安くないんですよ。選択肢一つ選んだらそのヒロインのルートに行く作品って全然多くないんです。
バトルとか恋愛メイン以外なら結構あるかもしれませんが、恋愛メインならあまりないですね。恋愛ゲームって女の子を攻略するゲームなんですよ。
じゃあ漫画だとどうかってまた1話からやることありえないですよね? だから漫画では全く同じ共通ルートにならざるを得ません。ですから漫画における共通ルートの価値ってゲームと比べても必然的に軽くなるんです。
ラブコメ漫画って作中の時間は置いといて、リアル時間で何年も掛けて連載を追って、たった一人の相手と結ばれる流れを見守るという点で運命の密度と純度が高いんですね。こればかりは恋愛ゲームは敵いません。リアル時間で匹敵できるのはラノベくらいでしょうが、ライブ感は比較になりません。
そういう意味で「ラブコメ漫画」って唯一無二のジャンルなんですね。漫画以外じゃ代替効かないんですよ。
だからゲームのいいとこを取ろうとこんなサプライズのようなやり方をしないで、「ラブコメ漫画」の強みを活かした作品を読みたかったなあと、今週号を読んで思いました。
ところで文化祭で分岐ということですが実際に連載自体は各ヒロインの長編後から始まると思います。
あしゅみー先輩以外は同じ内容の長編をやることが不可避でしょうし、一度長編をやっているのにもう一度やるのは馬鹿らしいですから。
センター試験あたりからロードするんじゃないかという話も多いですしぶっちゃけそんな気がしないでもないんですが、さすがにこれやったら筒井先生の正気を疑います。
理珠の長編のあとでも成幸の気持ちを動かすのに時間が十分とは言えないと思いますし、ましてセンター真っ只中から受験終了まで恋愛に頭悩ます暇ないでしょうからさすがにやらないと思います。
ルート分岐時点で先にマルチエンド宣言しておくのが誠意だと思うよ。
少なくともルートエンド前でしょう。余韻も何もあったもんじゃねえわ。
最近のネットの論調のせいかと思いますがセンシティブになり過ぎでは……? 個人レベルでのありなしって話なので作者は好きにしたらいいと思います。というか規制どうこうのレベルの話に読めます? まあどっちでもいいんですが読まないでもらえると嬉しいです。
私の中では人類普遍の原理に反する(比喩です)絶対に認めない価値観ではありますがそういう価値観があることは当然でしょう。同意されたら嬉しいですが、されなきゃしょうがないというか当たり前です。
オムニバス形式の一人の主人公がやったところでそもそもの積み重ねが大したことないので……。
enya_r 描写不足には不賛同。ぼく勉って個別ルートのイベントを時系列でザッピングしてきた漫画なんだよ。ヒロイン当番制がむしろ意図通りで文化祭以後も共通ルートじゃなかったわけよ、告知ページの作者コメント読み取るに
これは違うと思ってまして、というのもうるかの待つ空港まで辿り着けたのは、人の心が分かるようになった理珠がうるかと文乃が気まずくならないように私もキスしたいですと言ったり成幸の背中を押したりしたからですし、父親との確執を乗り越えて自分の心と向き合えた文乃が笑顔で成幸を助けたからですし、過去のトラウマを乗り越えた真冬が卒業式に出ることより成幸に手を貸すことを選んでくれたからですし、自分の夢を再確認したあすみが仕事を抜け出してまで成幸のところに駆けつけてくれたからなんですね。
そうやって成幸がヒロインズの問題を解決するのに協力したり交流してきたりしたからこそ辿り着けたわけで、その過程が実は唯一ではなくて他の道に逸れることもあるんですよとなるとその辿り着いた運命の純粋さが落ちるんですよ。だから今まで描いたものを使わないなら長く連載しないと描写不足になりますし、使い回すなら描写不足ではないでしょうけど同じような経験をしたのに別の相手を好きになってしまうわけですから、選んだ運命の純度が下がるという表現をしました。
別に今回で正式には最終回で次回からはifですっていうならいいんですけど、筒井先生曰く結末は読者次第だそうなので。
Arturo_Ui 「前例があるそうです」程度の知識でイキるなよ… // 「過程も含めて描こうとするのは絶対に反対」って、「学園祭の花火」が伏線だった件を増田はどう評価すんの? ていうか「ハーレムエンド」より余程マシだろ。
イキリってあれでですか……? 後段は何言ってるのかよくわからないんですが、ルートによって相手が変わる「学園祭の花火」が伏線だということ自体何言ってんのかなって感じなので評価も何もないです。うるかのやってきたことではなくて花火で全て決まったことになったけどどうなのという意味ならまあゴミですけど、他のヒロインのルートでも外形的にはそんなことやらないと思うのでやっぱりどうということはないです。
キャラとしての一貫性ならハーレムエンドよりマシなんですが、物語としての一貫性だとハーレムエンドのがマシかなあと思います。でもまあハーレムエンドはやらないですからね。どっちも嫌ですが。
tmkyz 最初にマルチエンドですって言ってくれれば良かったのに。うるかルート最終回の余韻を壊すような告知の仕方なのは悲しかった。/ここ数週、全体的に雑だったのも気になる。
最低限事前告知して欲しかったですね……
houjiT なんか恋愛の捉え方が無駄に大長編的で怖い。知り合いでもないのに一瞬で火がつくようなものもあれば、今まで別を見てたけど急に気になることもあるわけで、伏線と展開がなきゃ恋愛と認めない、は視野が狭すぎる
ラブコメ漫画読むのに大長編的に捉えないほうが間違ってると思います。漫画に限らずラノベ含めた恋愛メインの大衆小説一般でも恋愛に伏線と展開は求められているのでは。
isaisstillalive 終始想像だけでディスってる
deadwoodman アリかナシか読んでから決めても遅くはないと思うんだが、ちょっと盛り上がりすぎじゃない?
f_oggy 賛成だなぁ。個別ルートでどれだけ各ヒロインの魅力を引き出せるかが勝負所よ。というか全てが完結する前の論評なんて野暮ってもんよ
はい。
fusanosuke_n 正史を求めたい感じはある。ヒロインAと結ばれるストーリーが本物、正史で他のルートは戯れやファンサービスのifルートですって明言して欲しいっていうか。
はい。
今年と来年の冬アニメ。共に前世紀スタートの長期シリーズであるライトノベル二作が再アニメ化される。
原作開始と初アニメ化にそれぞれ数年の開きがあるし、ジャンルは異世界ファンタジーと現代SF風味異能、オーフェンが出版社(レーベル)を富士見ファンタジア(KADOKAWA)からTOブックスに移籍した一方、ブギーポップは一貫して電撃(KADOKAWA)から刊行し続けている……
といった細々した違いは存在するものの、テン年代および令和の視点から言えば、大雑把に「かつてアニメ化された昔の人気ラノベ」と括ってしまってもいいだろう。ブギーポップの新作アニメは今年の1月から3月まで1クール18話が放送され、ちょうど一年をおいて来年の1月にオーフェンが放送開始予定となっている。
さて、上に掲げたタイトルについて。ここでの「差」というのは作品自体の評価ではなく、あくまで今のアニメおよびその関連企画の成功度合いについての話だが、果たしてどちらが格上なのか。
はっきり言ってしまうと、オーフェンが上、ブギーポップが下だ。現時点で既にオーフェンの新アニメ化企画は、原作読者の盛り上がりの点でブギーポップを大きくリードしているように見える。
オーフェンは肝心のアニメがまだ始まってすらいないというのに、なぜそんなことが言えるのか。アニメとその周辺における、両作品の「差」を見ていこう。
今回のアニメに合わせたブギーポップのコミカライズは、アニメ化発表のほぼ直後から開始。アニメ化の範囲である「VSイマジネーター」「夜明けのブギーポップ」の2エピソードが、それぞれ異なる作家により漫画化された。「イマジネーター」の方は、上下巻構成である原作の、上巻にあたる部分までをベースにした内容になっている(打ち切りなのか当初の予定通りなのかは不明)
作品としての出来自体は、いずれも適度に省略・再構成しつつ原作をなぞり、ビジュアル面ではアニメとも異なる独自の解釈が随所に見られるという、手堅い造りになってはいる。のだが、どうせならアニメ化しない人気エピソード、特に「パンドラ」「ペパーミントの魔術師」あたりをやって補完しても良かったのに、という気持ちもある。アニメ2期にでも回すつもりだったのかなあ……取らぬ狸の……
片やオーフェンの新規コミカライズは3本。本編と言える長編シリーズの「はぐれ旅」、短編コメディの「無謀編」、そして旧版では無謀編の一部だった「プレ編」が、やはりそれぞれ別の作家の手で描かれた。
作品数がブギーポップを上回っていること自体は、それほど大きなアドバンテージでもないだろう。特筆すべきは、「無謀編」の担当作家が、あのファンタジーコメディ「エルフを狩るモノたち」の矢上裕だということだ。
いや、実のところ自分はちゃんと読んだことはないけれど、それでも名前は知っているぐらいには有名な作品であり作家である。アニメ化もされたし。
もちろん、何でもかんでも有名ベテラン作家を連れてくればいいというものではないが、これに関しては、代表作の連載時期が富士見時代のオーフェンと重なっている同時代性や、コメディである無謀編との相性の良さからか、原作読者の反応も上々な人選だったようだ。
ベストマッチなビッグネームの起用でオーフェンがやや有利といったところだが、ここはまだ比較的、両作の差が小さい分野と言える。
ブギーポップはアニメ化に合わせる形で、アニメ化範囲の原作5巻を新装版(単行本)で刊行している。表紙を含むイラストはオリジナルのイラストレーターによる新規描きおろし。また、分量はごく短いあとがき程度のものだが、本文にも書き下ろしがある。
旧アニメと同時期に原作イラストレーター自ら手がけた、原作1巻「笑わない」のコミカライズもやはり新装版で再刊。最初の予定ではアニメ放送中に合わせるはずだった?のが、たび重なる延期で結局放送終了後になったものの、原作本編の新刊も一応出ている。
アニメ化作品の出版社側の動きとして、ノルマは十分以上に果たしているとは言えるだろう。が、優等生的な物足りなさを少々覚えてしまうのは自分だけだろうか。
それに対しオーフェンは、旧シリーズの新装版は数年前すでに刊行済み。TOブックス移籍後の新シリーズも本編はほぼ文庫化完了していたが、新シリーズの「番外編」と旧作「プレ編」が、それぞれ2巻ずつアニメ化発表後に文庫化されている。
また、アニメ開始目前の来月末には新作長編が出る予定も……と、この辺まではブギーポップとそんなに変わらない順当なラインナップとなっている。だがオーフェンにはもう一つ、目玉と言える一冊がある。
その名の通り、オーフェンに縁のある有名作家たちによる、公式二次創作?短編集。歴史のあるシリーズだけあって執筆陣もそうそうたるメンバーがそろっている。
「スレイヤーズ」の神坂一!(旧シリーズ時代には富士見の二枚看板。オーフェン作者と合作の経験もあり )
アニメ絶賛放送中!「本好きの下剋上」の香月美夜!(TOブックス仲間)
「デート・ア・ライブ」の橘公司!(ドラゴンマガジンにオーフェン短編を掲載したことも)
「僕は友達が少ない」「妹さえいればいい。」 の平坂読!(よく知らないがオーフェン好きなの?)
と、いっそ胸焼けを起こしそうなほどの豪華さだ。参った参った。
実のところ、ラノベがアニメ化する際などに他の有名作家を集めてこのような公式アンソロジーを出すことは、そこまで珍しいわけでもない。刊行期間の長い古参シリーズの場合はなおさらだ。それこそオーフェンの作者自身『スレイヤーズ 25周年あんそろじー』に寄稿しているし、最近の例では他に『されど罪人は竜と踊る: オルケストラ 』などもあった。
だからこそ、アンソロジーはもはや、出せる時にはとりあえず出しておくべき記念品みたいなものだと思うのだが……何でブギーポップは出さなかったんだろうか?あれだけ業界への大きな影響が(「〜以前・〜以降」だのと実態よりも過剰なほどに)強調して語られ、読者だったことを公言している現役人気作家もそれなりの数が存在しているシリーズだというのに。もったいないとしか言いようがない。
一応ブギーポップ側には、原作の出版社であるKADOKAWA以外なので厳密に言えばアニメ連動の出版ではないが(敢えて言うなら便乗)、批評誌「ユリイカ」での作者特集というものもあった。これも最初に企画を知った時には、公式アンソロジーと同じぐらいのインパクトを感じたし、実際インタビューや対談、書き下ろしの「竹泡対談」(読者にはお馴染みの会話形式SS)など、ファンにとって素直に価値のある部分も存在した。
ただ正直、作者本人以外の執筆陣がちょっと……それぞれの知名度や実績自体に問題があるわけではないんだけど、ブギーポップやその作者を語ってもらう時になぜ敢えてこれ?と疑問が残る人選で……言葉を選ばずに言うと、なんで西尾維新呼ばねぇの?ってこと。他のメフィスト賞作家は3人もいるのに!
どうも全体的に、ユリイカに呼びやすい人材の中で、ブギーポップというかラノベについてまあ知っていないこともないぐらいの人々(&新アニメ関係者)をなんとな〜く集めたような、芯の定まらない生ぬるい印象を受ける特集になっていた。これではとても、夢の公式アンソロジーの代替にはなり得ない。
(ちなみに本拠地である電撃文庫のライトノベル誌「電撃文庫MAGAZINE」でもアニメ放送中にブギーポップ特集が掲載されたが、これはユリイカなど及びもつかない完全にスッカスカで虚夢of虚夢な内容だったらしい(自分は他人の評判を聞いて回避した))
オーフェンはアニメに先駆けて、今年の8月と11月に「舞台版」の公演を二度行っている。いわゆる2.5次元だ。
異世界ファンタジーというジャンル、そしてラノベの中でもセリフや行動には直接表れない微妙な感情や設定が特に多い原作という、2.5次元素人の感覚からするとかなり難しそうな題材ながら、ツイッター等での反応を見るに原作ファンには大好評だったようだ。客の入りなどの数字的なことは不明だが、生身の人間がラノベキャラを演じ、実際に観た読者をあれだけ満足させられたのなら、それだけで大成功と言っていいだろう。
また、スレイヤーズやフルメタルパニックと共に「富士見ファンタジア文庫レジェンド」の一つという扱いではあるものの、オーフェンはあの「パズル&ドラゴンズ」でのコラボ参戦も果たしている。今や、オタクカルチャーにおいてアニメに匹敵するほどの存在感を持つスマホゲーム。その中でもいまだトップクラスの人気&売上を誇るパズドラとのコラボなのだから、これはもう勝ち組と言わざるを得ない。
さて、そういったイベントめいた展開がブギーポップの方にも何かあっただろうか。
KADOKAWAラノベ原作アニメは、放送中のコラボ率がわりと高いので期待していたのだが……。後述するキャラデザイン変更の問題により、原作版とアニメ版どちらでの参戦になっても角が立つからという理由でどこも二の足を踏んだ、のかもしれない(あくまで憶測)
それ以外では……そう、「“不気味な色”グミ」の配布会があった!
TVアニメ「ブギーポップは笑わない」で、「夜明けのブギーポップ」編全4話を一挙放送する2時間特番が決定!それを記念して、アニメイト秋葉原店頭にて「“不気味な色”グミ」&「特製ポストカード」セットの配布会を開催致します
いや〜行きたかったな〜、「“不気味な色”グミ」配布会!首都圏に住んでたらな〜!どんな味がしたんだろう「“不気味な色”グミ」!
ところで……「“不気味な色”グミ」って、何?(不気味=ブギーというキーワード以外特に原作とは関係がない)
それから、「“不気味な色”入浴剤」の配布会も忘れてはいけない。
アニメイト秋葉原本館でTVアニメ「ブギーポップは笑わない」のオンリーショップが開催決定!それを記念して、アニメイト秋葉原本館店頭にて「“不気味な色”入浴剤」&「特製ミニキャラカード」セットの配布会を開催致します
いや〜行きたかったな〜、「“不気味な色”入浴剤」配布会!首都圏に住んでたらな〜!どんな効能があったんだろう「“不気味な色”入浴剤」!
…………「“不気味な色”入浴剤」って、何???(原作無関係だが合成促進剤の風呂だと思って入ると楽しそう)
別に、「“不気味な色”グミ」や「“不気味な色”入浴剤」が必ずしも悪いということではない。いっそ「“不気味な色”まんじゅう」通称「ぶきまん」も作り、調子に乗って事業を拡大させ経営破綻に陥ったっていい。
ただ、そういう飛び道具的なネタは、「ファンが普通に喜ぶこと」を一通りやった上で、ダメ押しとして追加するのが筋ではないだろうか。
2.5次元やスマホゲーコラボだけがファンへのサービスとして正解ではないのはもちろんだ(ブギーポップは意外に2.5次元素材としては向いてるんじゃないかとは思うが)。それでも、グミや入浴剤の前にはやれること、やるべきことが他にいくらでもあったのでは、とつい思ってしまう。
公開済みのPVやキービジュアルなどを見る限り、今回のオーフェンアニメ化においては、単に基本的なデザインを踏襲するのみならず、原作イラストのテイストをかなり強く意識した画作りがされているようだ。これは周辺のメディア展開も同様で、前述のパズドラコラボにおいても原作イラストレーター自身がオーフェンのキャラ絵を一枚描きおろしている。
一方ブギーポップはアニメ化にあたって、「ブギーポップ」のコスチューム以外のほとんどのキャラクターデザインを、原作イラストとは別に本編での描写から新規に設定し直している。分かりやすいところでは、原作ではセーラー服だったメインキャラの制服がブレザーになったりしている。
このデザイン変更をめぐって、原作イラストレーターとアニメ制作会社との間でトラブルがあったことは周知の事実だろうから、今さらここで改めて説明はしない。
自分はこのデザイン変更自体は、他の多くの人々が考えるほどには、作品の致命的な傷だとは思っていない。たしかに原作ラノベの魅力にあのイラストが大きく関わっているのは事実だが、一つのアニメ作品として考えた時に、絶対に何があろうと譲れないポイントである、とまでは言い切れない。ラノベといえども小説であり本体はあくまで文章なので、ストーリー等の変更の方が重大な問題だ。
ただ、オリジナルストーリーだった前アニメに対し今回は原作をなぞるという基本方針のアニメ化において、わざわざ「原作通り」から外れる要素を持ち込むのであれば、それなりの根拠が必要にはなるだろう。変えるなら変えるで、原作イラストよりも明確に“カッコイイ”とか“カワイイ”といった、意図や売りが伝わるデザインであってほしい。
殘念ながら実際のアニメ版デザインからは、「なぜコレなのか」が感じ取れることは少なかった。敢えて言うなら、ややリアルに寄せたということにはなるのだろうが……「歪曲王」の耳が異常にデカい母子とか何がしたかったんだろう……
今回のブギーポップのアニメを原作エピソード単位で見た時に、世間一般での評価が最も厳しかったのは、やはり最初の「ブギーポップは笑わない」編だろう。
ただでさえ原作小説1巻を3話で消化する尺に余裕のない状況なのに、よりによって「間」を大事にする演出を選択してしまったせいで原作のセリフが大幅にカット。また、一つの出来事がそれぞれ別の人物の視点から語られる各章からなる原作を、なぜか更に視点が細かく移動し時系列が前後する構成に変更してしまったため、複雑さが無駄に加速することに。
これらはむしろ、原作読者よりも初見の視聴者の方に影響が大きく、キャラクターの感情について行けないとか、今のシーンがいつの出来事なのか分からなくて混乱するといった声が多く見られた。
そして何より、クライマックスのシーンでブギーポップがトレードマークである「口笛」を吹かないという、信じがたい改変。これには原作読者が大いに驚愕することになった。悪い意味で。
出合い頭で深い不信感を植え付けられたせいか、あるいは単にそのまま視聴者が大量に離れたのか。後半に、特番枠で4話一挙放送された「夜明けのブギーポップ」のような名エピソードが存在しても、作品全体の低評化は結局最後まで覆すことができないまま終わってしまった。
繰り返しになるが、オーフェンの方はまだアニメが放送開始していない上に、どういった構成になるのかも正式には判明していない。だがもしも大方の予想通り、順当に原作長編の一作目『我が呼び声に応えよ獣』を最初に持ってくるのであれば、やはりこのファーストエピソードの出来がアニメ化の成否を大きく左右することになるだろう。
原作ファンは、普通にやれば普通によく出来てるはずのこの話に、「口笛を吹かない」に匹敵するレベルの大大大チョンボ改変が混入しないことを祈っておくといい。でも、『獣』でそのぐらいクリティカルなポイントって何があるかな。「ブラックタイガー」のカットとか?
(続き)
『オーフェン』短編集「無謀編」第1巻に収録されている『ひとの話を聞きやがれ!』(月刊ドラゴンマガジン1995年4月号 初出)にて。
無能警官コンスタンス・マギー(コギー)に対して、主人公であるオーフェンが容赦なくかかと落しを喰らわせた記念すべきシーンの直後の会話(同短編集 p.102)での事。
(コ)「思ったより乱暴者ね。いきなり女の後頭部にかかとを食らわせる?」
(オ)「男も女もあるか。魔術士ってのは基本的に性差廃絶主義者なんだよ。知っとけ」
という、やりとりが為されている。
これ以降、オーフェンは「性差廃絶主義者」「男女平等」という錦の御旗の元、たとえ女性が相手でも容赦ない鉄拳制裁を食らわせていくのである。
1サンプルとして。
一応、はじめに俺の読書傾向を書いとく。質問の答だけ知りたいなら読み飛ばして欲しい。
俺はラノベ読み始めた時点でスレイヤーズの本編は完結していたしていたくらいの世代。
はじめは主に富士見ファンタジアで神坂一とか榊一郎とか賀東招二とか鏡貴也とか読んでたけど、
ドラゴンマガジンの判型が変わった頃から電撃に重心が移動した感じ。
この頃から、ラノベ以外の小説もよく読むようになった。並行してメフィスト系とファウスト系も読んでた。
最近の作家はあんまり読んでなくて、アクセル・ワールドあたりがたぶん俺が知ってる一番デビューが最近の作家。
読むけど、基本的にエンタメ小説しか読まない。ジャンル的にはミステリィやSFが多い。
ただ、ラノベ以外と言ってもハヤカワSFや角川文庫、MW文庫の、比較的ラノベに近いところが多い。
野尻抱介や森博嗣や田中芳樹をラノベと主張されると、ほぼラノベしか読んでないかも。
なんというか、「ラノベっぽさ」みたいなあいまいな尺度があって、
「誰がどう見てもラノベ」から「誰がどう見てもラノベじゃない」を両端として、間にグラデーションがある感じ。
そういうのが別にあっても良いと思う。
全部がそういうのになるとジャンルは廃れるんじゃないかなーと余計な心配をしてしまう。
あと、パロディだと気づかずに読んでることもある。読んでおもしろければなんでも良い。
「ミステリィ」「SF」「時代小説」……みたいなジャンルの1つとして「ラノベ」があるわけではないと思う。
ラノベ/ラノベじゃないという分類と、ミステリィ/SF/時代小説/……みたいな分類が別にある。