はてなキーワード: 弥生とは
ネット界隈では「西早稲田2-3-18」の件がいろいろを語られてきたけど、Colaboの騒動によって一気メジャーになった。
日本キリスト教婦人矯風会の共催のイベント→https://kyofukai.jp/archives/7516
新宿区の告知では宗教名を完全に排除している→http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/danjo01_000001_00127.html
川浦弥生(牧会心理学)https://noden.ac.jp/about/faculty/
新宿区 吉住健一区長http://www.yoshizumi.jp/
新宿区長としての今任期(2018~2022)の終盤を迎えました。振り返ると、2020年春に新型コロナウイルス感染症の感染拡大が始まってから、感染症対策を重点とした区政運営に忙殺されてきました。
治療法も感染経路も解らない中で感染拡大した緊迫した時期、重症化する変異株が感染拡大して入院出来ない重症患者が発生した時期、新宿区医療介護福祉ネットワーク会議とともに入院待機施設や陽性者への介護サービスの体制を整えた時期、想像を絶する感染者数の増に対処するために高リスク者と低リスク社への対応をトリアージした時期。
時間の経過によって、ウイルスが変異し、感染症そのものの性質が変化していく状況を目の当たりにしてきました。
感染拡大の影響が大きくなるにつれて、職を失った女性や行き場を失った青少年が、以前にもまして歓楽街に集まってきました。
歌舞伎町に集まっている若者・女性の多くは住民ではありません。
そのため、普段の居場所や健康状態、所得の状況など、区役所が把握できる情報は限られています。
特に、東宝ビル周辺に話し相手や居場所を求めて集まってきているといわれる“トー横キッズ”達は地方から出てきた子供が大半です。
家出してきたと判明すれば補導されて、親元に戻すことになりますが、再び歓楽街に戻ってきてしまうことは想像に難くありません。
今、幾つかのNPOがそれぞれのアプローチ方法を考えて、支援をしています。
そのうちの幾つかの団体と新宿区は連絡を密にして、立ち直りの機会をつくれないかと模索しています。
いいですか?
いいですか? 季刊誌「Yaponesian」第3巻ふゆ号がですね!発行されました!
http://www.yaponesian.jp/topic00251.html
素晴らしい!素晴らしいことです!
2020年以降、東アジアにおける古代ゲノム研究が次々に発表され、この地域における集団の形成に関する大まかなシナリオが描かれるようになっている。
縄文人のゲノムからは、彼らがアンダマンの先住民などと類縁関係を持ち、東アジアに展開した集団から早い時期に分岐したことが示唆されているが、報告によっては異なるルーツを示唆しているものもあり、確実な結果を得ることはできていない。
しかし、縄文人の起源を、二重構造モデルが想定する東南アジアとすることは、集団形成のプロセスを単純化しすぎていることも分かってきた。
一方、渡来系弥生人の起源に関しては、最近の研究では、稲作農耕民と雑穀農耕民が朝鮮半島に流入し、そこで在地の縄文系の遺伝子を持つ集団と混合することによってあらたな地域集団が形成され、その中から生まれた渡来系弥生人が三千年前以降に日本列島に到達したというストーリーが提唱されている。
現状では稲作の起源地である揚子江中流域の古代ゲノムデータがないので検証はできていないが、渡来系弥生人の主体を、北東アジアの西遼河を中心とした地域の集団と考えており、二重構造モデルと概ね一致している。
また、二重構造モデルが予想する渡来系弥生人の寒冷地適応は、EDAR遺伝子の大陸北東部での時代的な変化によって説明できる可能性が示されている。
先史時代において、考古学的に渡来人がやって来た可能性が高いと考えられているのは、弥生早期前半、前期末の2時期、そして古墳時代中期です。
ここでは年代が変わらない古墳中期を除く弥生時代について、年代順ではなく渡海の可能性が高い順に説明します。
もっとも可能性が高いのは前期末の前4世紀前葉で、中国東北部に起源をもつ燕の鉄器や韓半島の円形粘土帯土器が出土するようになることをあげられます。
弥生最初の鉄器は炭素量の高い鋳造鉄器で、鋳型に融けた鉄を流し込んで作る斧を代表とします。
鋳型の構造からみて、韓半島ではなく中国東北部の燕系のものである可能性があります。
また、円形粘土帯土器もやはり中国東北部に出自があることが指摘されていますので、韓半島南部だけではなく中国東北部から人がやって来ている可能性を指摘できます。
クマネズミやハツカネズミは有史以前の人類のユーラシアの移動に随伴することで現在の地球レベルの広範な分布域を手に入れた。
これらのネズミ類の歴史を辿ることは文字に記されていない人類の移動の歴史を知ることでもある。
このことを今から50年前に想起した国立遺伝学研究所の森脇和郎(もりわきかずお)は世界各地から野生ハツカネズミを収集し、米川博通氏とともに遺伝子の解析を行った。、北方系亜種のMUSはイラン北部の起源地より、1)中国西部の砂漠地帯(15000年前)、2)黄土高原(10000年前)、3)中国東北部(7000年前)、4)朝鮮半島(5300年前)、そして、5)日本列島(3000年前)へと順次東方移動したことが示唆された
本講演では、大陸から稲作を携えてやってきた渡来系弥生人が、1)どこからやってきたのか、2)どのくらいやってきたのか、という問いに対する知見を、最新のゲノム解析の結果を踏まえて一般向けに紹介しました。
渡来系弥生人の遺伝的構成についてはOsada and Kawai(2021)や機関誌Yaponesian3巻はる号で詳しく解説しているのでご一読いただけたらと思います。
Hanihara(1991)では渡来集団が東シベリア、中国東北地方およびモンゴルの集団と形態学的には似ていたと述べられています。
これまでのいくつかの東アジア現代・古代人のゲノム解析から、渡来系集団は現在の北方系東アジア人集団に近かったという結果が出ており、この予想と概ね一致します。
本講演ではさらに、考古学や言語学的証拠も考慮に入れ、3500年前ごろに遼東半島近辺に居住していたが紅山文化の中心地からは外れたひとびとが、稲作とともに朝鮮半島を南下してきたのではないかという仮説をあげさせていただきました。
次にふたつ目の疑問、どのくらいやってきたのか、という問題について、Hanihara(1991)で用いられた手法を使い、より新しい歴史人口の推定値を用いた結果を発表いたしました。
Hanihara(1991)では、日本列島の人口が弥生開始期に約7.6万人、古墳時代の終わりに約540万人という推定値が用いられています。
埴原先生は、この値をもとに計算された自然人口増加率が年あたり0.43%である、という値がありえないほど高いと考えていたようです。
この前提に基づき、Hanihara(1991)では、どれくらいの渡来人が来ればおよそ1:9である縄文:弥生の遺伝成分を説明できるかというシミュレーションを行っています。
驚くべきことは、埴原先生が当時の形態データから推定した1:9の混合率という推定値が、現在の全ゲノムを用いた推定値とほとんど変わらないことです。
渡来人和推定の方法も比較的単純でありますがエレガントなものとなっています。
年あたりの大陸からの移入数を一定と仮定したモデルでは、毎年約1500人、およそ1000年の間に約150万人が渡来し、自然人口増加率が0.2%であれば日本列島における人口増加量の説明がつくという結論に達しています。
本講演では、Hanihara(1991)の方法に基づき、歴博による新しい年代観やより新しい人口推定値を用いてその評価を行いました。
たとえば、弥生の開始期を更に600年古くすると、1500年の間に人口が59倍に増加したことになります。
その場合、年あたりの移入数の推定値は約1000人と減りますが、1500年の間には約146万人と、埴原先生による推定値とほとんど一緒になります。
程度問題なのよな
例えば日本の住民が弥生系70%、縄文系30%でくっきり別れてて
「縄文系には参政権と職業の自由与えません、そのかわりベーシックインカム4万円配ります足りないぶんは小作人として米作ってください」
みたいな国だったら、縄文系としたら「差別だ!平等にしろ!」って思うじゃん?
でもこのBIが20万だったら、逆に弥生系の庶民が「ふざけんな」ってなるかもしれないよな
だから結局「自分は損してるな」って感じてる人たちが「もっと俺たちに有利にしてくれ!」って訴えるしかない
本来誰でもそうすべきだし、その訴えが正当かどうかも問題じゃなくて、
それが悪いことだ思ってる日本人は多そうだけど、でもそれしかないと思うんだよな
生きることは闘争だよ
『スラムダンク』大人になったら「モテ男必至の人物」3選 本当にモテるのは流川でも仙道でもない…!?
2022.03.30
『スラムダンク』大人になったら「モテ男必至の人物」3選 本当にモテるのは流川でも仙道でもない…!?の画像
画像は『SLAM DUNK 完全版』(集英社)第11巻・書影より
90年代の『週刊少年ジャンプ』(集英社)で連載され、少年少女たちの心を熱くさせた井上雄彦氏の『SLAM DUNK(スラムダンク)』。言わずと知れた珠玉の名作だ。
ところで『SLAM DUNK』といえば、アイドル級のモテ男たちがたびたび登場するのも見どころのひとつ。湘北の流川を筆頭に、山王工業の沢北、陵南の仙道など、女子たちの黄色い歓声を浴びまくるエースたちに憧れた読者は多いはずだ。
たしかに彼らはそれぞれ類稀なる才能を持った魅力的な人物である。ただし、それはバスケットにおいては……の話。年を重ねてみると、女性が男性を見る視点も変わってくるものだ。
そこで今回は『SLAM DUNK』の登場人物で、大人になったらモテ男になるであろう人物を勝手ながらお届けしたいと思う。
■海南大附属高校「神 宗一郎」
まずはじめに“モテ男認定”をしたいのが、海南大附属の長身のスリーポイントシューター「神 宗一郎」。
湘北の赤木、陵南の魚住、同じ海南大附属の牧、山王の河田など、ごついゴリラ顔or渋いおじさん顔の登場人物が多い中、神の繊細なルックスには単純にひかれるものがある。そして189センチ、71キロのすらりとしたモデル体型は、細マッチョ好きの女性にはたまらない。
しかし、神がモテるであろう理由は外見だけではない。もともとセンター志望で海南大附属に入部した神。ひょろひょろとした体型のため、体格の良い牧や高砂などのチームメイトにふっとばされる日々が続き、高頭監督から「センターはとうていムリ」と指摘されてしまう。
高校生には酷な言葉だ。しかし、その日から神は1日500本のシューティング練習を欠かさず努力し、押しも押されぬ全国レベルの名シューターに成長する。
穏やかな容姿からは想像もできない内に秘めた闘志と粘り強さ。困難があっても即座に対応できる決断力。相手チームを分析する冷静な洞察力。後輩の清田をかわいがる面倒見の良い先輩感。実際にこんな男性がいたら、女性が放っておくはずがない。
■湘北高校「木暮 公延」
“メガネくん”と桜木花道から慕われる湘北の副キャプテン木暮公延は、ルックスもバスケットスキルにおいても、正直、主役になれる存在ではない。だが、実は『SLAM DUNK』の陰の立役者であり、誰より大人の男だと筆者は考える。
流川や桜木など、優れた才能を持つ後輩たちにいずれポジションを取られることが分かっていながらも「湘北は強くなる」と、チームのためを思って成長を喜べる器の大きさ。いつでも優しく親身になって後輩に指導を行う姿。また、キャプテン赤木を根っからのポジティブさで支え続ける忍耐力。湘北バスケ部を潰しに来た不良の三井に向かって「根性なしのくせに何が全国制覇だ…」と、物怖じせずに言い放つ勇気も持っている。
そして、忘れてはいけないのが、インターハイ出場がかかった最後の試合「湘北vs陵南戦」での活躍。大事な局面で、きっちりスリーポイントを決める勝負強さもあるのだ。木暮が個人練習をしている風景はあまり描写されていないが、毎日コツコツと練習してきたからこそ、大一番で力を発揮できたことが想像できる。
さらには、部活に没頭しながらも成績優秀。とにかくデキる男なのだ。社会人になった木暮の姿を、ぜひとも見てみたい。
■翔陽高校「藤真 健司」
最後は、翔陽の選手兼監督である藤真健司を紹介したい。強豪・翔陽の歴史の中で唯一1年生の時からスタメン&エースの座に君臨する実力、さらさらヘアーで童顔の甘いルックスなど、もともと十分に女心をくすぐるポイントを持っている藤真。
そんな彼の最大のモテ要素は、エースであり監督という重責を担った、デキる男ぶりだろう。どのような経緯で翔陽の監督になったのか具体的には描かれていないが、専任の監督がいないからこそ、やむを得ず監督の大任を引き受けたのかもしれない。
エースで監督という特別感。普通だったら、同世代からのやっかみがあってもおかしくない。しかし、藤真が試合に出場するだけで、花形をはじめ大柄な選手たちが一気にまとまり、チームの士気が上がる。
さらに、翔陽の男子部員たちが藤真のプレイに熱い声援を送り、一生懸命応援をしている姿を見る限り、同性から絶大な信頼を得ていることが分かる。これは偏見かもしれないが、たとえば山王工業の沢北のように実力はあってもナルシスト気質だと、同性からはあまり好かれない気もする。彦一の姉、相田弥生が藤真に対して目をハートにしていたが、そのあたり彼はまさしく「要チェック」な存在なのだ。
学生時代、スポーツのできる身体能力が高い男子に惚れる女子は多い。しかし、大人になってみると、やはり内面の良さがモテにつながるのは必至だ。今あらためて『SLAM DUNK』を読み返したら、昔とは違ったキャラクターが気になってくるかもしれない。
完全にこの人の趣味で草
いいですか?
いいですか? 季刊誌「Yaponesian」第3巻ふゆ号がですね!発行されました!
http://www.yaponesian.jp/topic00251.html
素晴らしい!素晴らしいことです!
2020年以降、東アジアにおける古代ゲノム研究が次々に発表され、この地域における集団の形成に関する大まかなシナリオが描かれるようになっている。
縄文人のゲノムからは、彼らがアンダマンの先住民などと類縁関係を持ち、東アジアに展開した集団から早い時期に分岐したことが示唆されているが、報告によっては異なるルーツを示唆しているものもあり、確実な結果を得ることはできていない。
しかし、縄文人の起源を、二重構造モデルが想定する東南アジアとすることは、集団形成のプロセスを単純化しすぎていることも分かってきた。
一方、渡来系弥生人の起源に関しては、最近の研究では、稲作農耕民と雑穀農耕民が朝鮮半島に流入し、そこで在地の縄文系の遺伝子を持つ集団と混合することによってあらたな地域集団が形成され、その中から生まれた渡来系弥生人が三千年前以降に日本列島に到達したというストーリーが提唱されている。
現状では稲作の起源地である揚子江中流域の古代ゲノムデータがないので検証はできていないが、渡来系弥生人の主体を、北東アジアの西遼河を中心とした地域の集団と考えており、二重構造モデルと概ね一致している。
また、二重構造モデルが予想する渡来系弥生人の寒冷地適応は、EDAR遺伝子の大陸北東部での時代的な変化によって説明できる可能性が示されている。
先史時代において、考古学的に渡来人がやって来た可能性が高いと考えられているのは、弥生早期前半、前期末の2時期、そして古墳時代中期です。
ここでは年代が変わらない古墳中期を除く弥生時代について、年代順ではなく渡海の可能性が高い順に説明します。
もっとも可能性が高いのは前期末の前4世紀前葉で、中国東北部に起源をもつ燕の鉄器や韓半島の円形粘土帯土器が出土するようになることをあげられます。
弥生最初の鉄器は炭素量の高い鋳造鉄器で、鋳型に融けた鉄を流し込んで作る斧を代表とします。
鋳型の構造からみて、韓半島ではなく中国東北部の燕系のものである可能性があります。
また、円形粘土帯土器もやはり中国東北部に出自があることが指摘されていますので、韓半島南部だけではなく中国東北部から人がやって来ている可能性を指摘できます。
クマネズミやハツカネズミは有史以前の人類のユーラシアの移動に随伴することで現在の地球レベルの広範な分布域を手に入れた。
これらのネズミ類の歴史を辿ることは文字に記されていない人類の移動の歴史を知ることでもある。
このことを今から50年前に想起した国立遺伝学研究所の森脇和郎(もりわきかずお)は世界各地から野生ハツカネズミを収集し、米川博通氏とともに遺伝子の解析を行った。、北方系亜種のMUSはイラン北部の起源地より、1)中国西部の砂漠地帯(15000年前)、2)黄土高原(10000年前)、3)中国東北部(7000年前)、4)朝鮮半島(5300年前)、そして、5)日本列島(3000年前)へと順次東方移動したことが示唆された
本講演では、大陸から稲作を携えてやってきた渡来系弥生人が、1)どこからやってきたのか、2)どのくらいやってきたのか、という問いに対する知見を、最新のゲノム解析の結果を踏まえて一般向けに紹介しました。
渡来系弥生人の遺伝的構成についてはOsada and Kawai(2021)や機関誌Yaponesian3巻はる号で詳しく解説しているのでご一読いただけたらと思います。
Hanihara(1991)では渡来集団が東シベリア、中国東北地方およびモンゴルの集団と形態学的には似ていたと述べられています。
これまでのいくつかの東アジア現代・古代人のゲノム解析から、渡来系集団は現在の北方系東アジア人集団に近かったという結果が出ており、この予想と概ね一致します。
本講演ではさらに、考古学や言語学的証拠も考慮に入れ、3500年前ごろに遼東半島近辺に居住していたが紅山文化の中心地からは外れたひとびとが、稲作とともに朝鮮半島を南下してきたのではないかという仮説をあげさせていただきました。
次にふたつ目の疑問、どのくらいやってきたのか、という問題について、Hanihara(1991)で用いられた手法を使い、より新しい歴史人口の推定値を用いた結果を発表いたしました。
Hanihara(1991)では、日本列島の人口が弥生開始期に約7.6万人、古墳時代の終わりに約540万人という推定値が用いられています。
埴原先生は、この値をもとに計算された自然人口増加率が年あたり0.43%である、という値がありえないほど高いと考えていたようです。
この前提に基づき、Hanihara(1991)では、どれくらいの渡来人が来ればおよそ1:9である縄文:弥生の遺伝成分を説明できるかというシミュレーションを行っています。
驚くべきことは、埴原先生が当時の形態データから推定した1:9の混合率という推定値が、現在の全ゲノムを用いた推定値とほとんど変わらないことです。
渡来人和推定の方法も比較的単純でありますがエレガントなものとなっています。
年あたりの大陸からの移入数を一定と仮定したモデルでは、毎年約1500人、およそ1000年の間に約150万人が渡来し、自然人口増加率が0.2%であれば日本列島における人口増加量の説明がつくという結論に達しています。
本講演では、Hanihara(1991)の方法に基づき、歴博による新しい年代観やより新しい人口推定値を用いてその評価を行いました。
たとえば、弥生の開始期を更に600年古くすると、1500年の間に人口が59倍に増加したことになります。
その場合、年あたりの移入数の推定値は約1000人と減りますが、1500年の間には約146万人と、埴原先生による推定値とほとんど一緒になります。
論文紹介2
論文タイトル:Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages
掲載誌:Nature (2021年, 599巻, 616-621頁)
著者:Robbeets M., Bouckaert R., Conte M., Savelyev A., Li T., An D., Shinoda K., Cui Y., Kawashima T., Kim G., Uchiyama J., Dolińska J., Oskolskaya S., Yamano K, Seguchi N., Tomita H., Takamiya H., KanzawaKiriyama H., Oota H., Ishida H., Kimura R., Sato T., Kim J., Deng B., Bjørn R., Rhee S., Ahn K.-D., Gruntov I., Mazo O., Bentley J., Fernandes R., Roberts P., Bausch I., Gilaizeau L., Yoneda M., Kugai M., Bianco R., Zhang F., Himmel M., Hudson M., Ning C.
ユーラシア集団において、日琉語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族、およびチュルク語族などのトランスユーラシア語族の起源と初期の拡散については、もっとも議論されている問題のひとつです。
重要な問題は、言語拡散、農業拡大、人口移動の関係です。Robbeetsらは、遺伝学、考古学、言語学の広範なデータセットから統一的な視点で解析することにより、この問題に取り組みました。
それにより、トランスユーラシア語族の共通祖先と最初の拡散は、初期新石器時代以降に東北アジアを横断した最初の農耕集団に遡ることができ、それらは青銅器時代以降の広範な文化交流によって覆い隠されてきたことが示されました。
これら3つの分野が大きな進展し、その証拠の組み合わせることによって、トランスユーラシア語族の初期の拡散が農耕によって推進されたことが明らかになりました。
最近の古代DNA研究のブレークスルーによって、ユーラシアにおけるヒトと言語と文化の拡散の関連が見直されていますが、依然として西ユーラシアと比べて東ユーラシアのついての理解は乏しいのが現状です。
本研究で着目する内モンゴル、黄河、遼河、アムール川流域、ロシア極東、朝鮮半島、そして日本列島を含む北東アジアについても、遺伝学に重点を置いたものや、既存のデータセットのレビューに限定したものなどのいくつかの例外を除いて、北東アジアを対象とした学際的なアプローチはほとんどありません。
トランスユーラシア語族(「アルタイ語族」として知られる)の言語的関連性は、有史以前の言語において最も論争が多い問題の一つです。
トランスユーラシア語族とは、ヨーロッパと北アジアに広がる地理的に隣接した言語の大きなグループを指し、5つの言語族(日琉語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族、チュルク語族)を含んでいます。
この5つのグループが単一の共通祖先から派生したかが問題となるのですが、長年に渡って、言語が継承されたのか、それとも借用によるものなのかが議論されてきました。
最近では、これらの言語間の共通性の多くは確かに借用によるものだとしても、トランスユーラシア語族は信頼できる確かな系統グループだとする証拠も示されています。
この系統グループを受け入れた場合、これらの時間的深度や場所、文化的アイデンティティ、拡散ルートなどの新たな疑問が生じます。
そこで彼女らは、トランスユーラシア語族の初期の拡散が紀元前4000年紀に東部ステップで始まった遊牧民の拡散だとする従来の「牧畜民仮説」に対して、これらの拡散が「農耕/言語拡散仮説」の範囲内である「農耕仮説」を提唱することで、課題の解決を試みました。
これらの課題は言語学の枠を超えているので、考古学と遺伝学を統合した「トライアングレーション」と呼ばれるアプローチで取り組んでいます。
言語学からは、98のトランスユーラシア語族について、方言や歴史的変化を含んだ254の基礎語彙を示すデータセットを用いて、ベイズ法による系統解析を行っています。原トランスユーラシア語族は9181 BP(5595–12793BP, 95%信頼区間)、原アルタイ語は6811 BP(4404-10166 BP)、モンゴル・ツングース語は4491 BP(2599-6373 BP)、日本と韓国語は5458 BP(3335-8024 BP)を示しました。
また、トランスユーラシア語族の空間的な拡大をモデル化した結果、これまでのホームランドとされていたアルタイ、黄河、内モンゴルの大興安嶺山脈、アムール盆地などではなく、初期新石器時代の西遼河流域がトランスユーラシア語族の起源地であることを支持する結果を得ています。
さらに、再構築した農耕牧畜の原語を用いた定性分析によって、たとえば新石器時代に分離した共通祖語では耕作や雑穀に関する語彙を継承するなど、特定の地域・時期の祖先原語集団の文化的項目が特定されました。
一方で、コメ・麦の栽培、牛・馬などの家畜などは青銅器時代の人々の言語的交流による借用とされました。
よって、言語学からは牧畜民仮説ではなく、農耕仮説を支持しています。
考古学からは、255の遺跡の文化的類似性によってクラスタリングしたベイズ解析の結果を示しています。
北東アジアの新石器時代の植物栽培はいくつかの中心地から拡大しており、そのうち9000年前に西遼河流域で始まったキビがトランスユーラシア語族にとって重要となります。
解析の結果、新石器時代の西遼流域に文化的クラスターがあり、そこから雑穀栽培に関連した2つの分岐(韓国のチュルムン分岐とアムール、沿海、遼東にわたる新石器時代の分岐)があることがわかりました。
このことは、雑穀農耕が 5500 BPには韓国に、5000 BPにはアムール川を経由して沿海州に伝播したことを示すこれまでの知見を裏付けています。
さらに、西遼河地域の青銅器時代の遺跡は、韓国の無文遺跡や日本の弥生遺跡とクラスターを形成しており、4000年前の遼東-山東地域の農業パッケージが、米や小麦で補完されていたことを反映しています。
これらの作物は、初期青銅器時代(3300~2800 BP)には朝鮮半島に、3000 BP以降には日本に伝わりました。
遺伝学では、アムール、韓国、日本の九州と琉球列島の23体の古代人ゲノムを取得し、先行研究の古代東アジア人および現代ユーラシア大陸集団のゲノムデータと統合して解析しています。
西遼河地域では初期新石器時代のゲノムは欠くものの、西遼新石器時代の雑穀農民はアムール的遺伝要素をかなり含んでおり、時代とともに徐々に黄河流域のゲノムに移行しています。
解析の結果から、このアムール的遺伝要素は、バイカル、アムール、沿海州、南東ステップ、西遼河を覆う新石器時代以前(あるいは後期旧石器時代)の狩猟採集民の本来の遺伝子プロファイルであり、それがこの地域の初期農民に引き継がれていると考えられます。
アムール的遺伝要素は日本語や韓国語の話者にまで遡ることができることから、トランスユーラシア諸語の話者に共通する本来の遺伝的要素と考えられます。
韓国の古代ゲノム解析では、朝鮮半島南岸の新石器時代人で縄文的遺伝要素がみられました。
一方で、同じく南岸の新石器時代のAndoでは縄文的遺伝要素は見られませんでした。
このことは新石器時代の朝鮮半島南部では縄文人の祖先が不均一に存在したことを示しています。
時代が下って、青銅器時代の韓国西岸部の瑞山市にあるTaejungniには、縄文的遺伝要素は見られませんでした。
また、現代韓国人への縄文人的遺伝要素の寄与は限定的であることから、新石器時代から現代にかけて減少していることが見て取れます。
Taejungniに縄文的遺伝要素が見られないことは、縄文的遺伝要素を持たない初期の集団が稲作を伴って朝鮮半島に移動し、縄文的遺伝要素を持つ新石器時代の集団に取って代わったことを示唆しています。
ただし、サンプルサイズと対象範囲が限られていることから、この仮説の検証にはもう少し多くの人骨のゲノム解析が必要です。
私の意見を述べるならば、私たちが分析した韓国南部の大邱市の南東部にある三国時代の完山洞古墳群の出土人骨のDNAも、現代韓国人と同程度に縄文的遺伝要素を受け継いでいることから、完全に入れ替わったとする考えには賛同しかねます。
以上よりRobbeetsらは、朝鮮半島への農耕の伝播は、新石器時代の雑穀栽培の導入は紅山文化、青銅器時代の稲作の導入は夏家店上層文化というように、アムール川流域と黄河流域からの異なる遺伝子流動の波と関連づけることができると述べています
以上の言語学的、考古学的、遺伝学的証拠から、これらの分野の間に明確なつながりがあることがわかります。
これらの統合により、トランスユーラシア語族の起源は、新石器時代の東北アジアにおける雑穀栽培の開始と初期のアムール的祖先集団にまでさかのぼることが示されました。
これらの言語の伝播には、農耕や遺伝子の拡散と同様に、大きく分けて2つの段階を含みます。
第一段階は、トランスユーラシア語族における主要な分裂に対応し、新石器時代前期から中期にかけて、アムール的遺伝要素を持つ雑穀農耕集団が西遼河から隣接する地域へ拡散した時期に該当します。
第二段階は、5つの言語族間の言語接触に対応し、後期新石器から青銅器、鉄器時代にかけて、アムール的遺伝要素を持つ雑穀農耕集団が黄河や西ユーラシア、縄文人と混血したときに、稲作や牧畜などを農耕パッケージに加えました。
本研究では、東北アジアにおける雑穀栽培の二つの中心地が、黄河流域のシナ・チベット語族と西遼河流域のトランスユーラシア語族の起源と関連していると示唆しています。
朝鮮半島に関しては、紀元前6000年頃に黄河流域および西遼河地域の各農耕集団が沿海州に拡大して混血し、それが朝鮮半島に持ち込まれたと考えられます。
その後、3300 BPに遼東−山東地域の農耕集団が朝鮮半島に移住して米や麦をもたらしました。
この農業パッケージが3000年前に九州に伝わり、本格的な農耕への移行と縄文系と渡来系の混血、および日琉語族への言語的転換が起きました。
なぜ「分かりません」で終わらせないのか
いいですか!日琉語族が弥生時代に朝鮮半島から伝来したのはもはや定説なんですよ!
そして!何が分かっているのか!何が分かっていないのかをわたくしが!整理いたしまSHOW!
次は~!考古学では!では!ですよ!
土器・青銅器・水田耕作の痕跡から山東半島・遼河流域・遼東半島・朝鮮半島・九州・本州という大きな!大きなですね!大きな矢印があるわけです!
特に無文時文化の土器と弥生初期の土器には完全な連続性があり!ます!
そして!そして~!青銅器も同様です!遼寧式銅剣が日本へ伝わったのは!もはや確定した事実なのです!
これも確定事項です!
なぜ「分かりません」で終わらせないのか
いいですか!日琉語族が弥生時代に朝鮮半島から伝来したのはもはや定説なんですよ!
そして!何が分かっているのか!何が分かっていないのかをわたくしが!整理いたしまSHOW!
まず!まずですよ!最も精度が高く過去を知れる分子生物学では!
日本人の!成り立ちは!10%の縄文人をベースに!90%の弥生人!これが黄金!比率!
これは!埴原和郎の二重構造モデル以来のド定番の説を!最近の分子生物が確定させました!
そして!そしてですよ!この!弥生人というグループが!2種類の集団に分かれていることも分かったのです!
弥生時代初期のグループと!弥生終期~古墳初期のグループです!
これは!これはですね!斎藤成也の研究を見ていただくのが早いでしょう!
さらに!さらにですよ!じゃあこの弥生人はどこから来たのか!まいごのまいごの弥生人!あなたのおうちはどこですか~!
そして忘れちゃいけない縄文人!縄文人の血をもっとの濃く受け継いでいるのはアイヌです!
以上!確定事項です!
(注)
こち亀の本田はバイクに乗ると人格が変わるが二重人格なので適合しない。
ピッコロは神と融合して人格に影響を受けているが、神の人格がもうひとりの人格として表出しないので適合しない。
進藤ヒカルは藤原佐為と人格が交換されることがないので適合しない。
(議論あり)
遊戯と闇遊戯が存在を互いに自覚しあったのはモンスターワールド編。
決闘者の王国編以降、遊戯は闇遊戯のことを「もう一人のボク」、闇遊戯も遊戯のことを「相棒」と呼ぶようになる。
翔は「ミコシサマ」というお守りを手放している時に優が危機に陥ると現れる。
どのような過程で優の人格となったかは一切不明だが、ファンの間では優の死んでしまった方の双子の兄(弟)という説がささやかれている (これは才堂家の習わしについて女子の双子と表記されているだけなので、優自身が男女の双子で生まれていた可能性もある為) 。
優は学校で翔の人格が表れ、同級生への傷害事件を起こし転校を余儀なくされる。
おじの鷹野の家へ向かうため弁天町に着いたところからゲーム本編は始まる。
テンジンとみずきは愛し合っていたが、地獄を裏切った代償としてジュリによって殺害されテンジンの体の中に封印されてしまう。
それからはテンジンとみずきは二心一体となり、「マンダラの笛」によって人格は交換することができるが、片方が表に出ている間はもう片方が体内に封印されてしまうため、愛し合いながらも二人は永遠に会うことが叶わなくなった。