はてなキーワード: 修士課程とは
私は新卒で入社した企業をたった2年で辞めてアカデミアの世界に戻ってしまった。
共感してもらえるとは思わないが、なんとなく聞いて欲しくて書いてみている。
分野は特定されたくないのでぼかす。
入社した理由は周りの多くが修士を出て大企業に就職してたから、お金もらって研究続けられるならそれでいいかと深く考えずに入社した。
元々研究が好きで就活時もR&D一本で就活していたので、結果的に見れば理想通りの進路だった。
最初の研修を経て研究職として地方の研究所に配属され、近くの寮(一人部屋)で一人暮らしを始めた。
しかし入社して半年程度で、自分の仕事に全く楽しみを見出せなくなってしまった。
まず研究について。
これは企業なので仕方がないのだが、入社時に希望していた研究テーマ(仮にAとする)と大きく異なる分野に関わることになった。
Aは就活当時に海外で研究が盛んになっている分野で、産業的に日本にも入ってくるかどうかというタイミングだった。
事実、私が入社したタイミングでその研究も立ち上がったのだが、残念ながら自分はメンバーではなかった。
正直、誰よりも興味があったし先行研究もそれなりに知っている自負があった。
勿論、新しい研究の立ち上げに加えて新卒の教育なんて大変なのはわかる。
ただ自分にとって真横でAの研究が行われるのを傍観し、全く異なる別のテーマに情熱を注ぐというのは正直かなり無理があった。
上司と話す機会もあったし私がその分野に強く興味があることは知っているはずだが、どうもその上司の育成方針からして私は何年経ってもその分野に関わることはないだろう事を悟った。
また入社時にはコロナが流行しており、半年たっても会ったことのない部署の先輩がいる程度に希薄な人間関係が出来上がった。
元々研究所はその特殊性からか人員移動がほとんど起きず、10年単位で同じ課にいる人がいる程度にはクローズドなコミュニティだった。
普段なら人付き合いは得意な方なのだが、その閉鎖性とマスク越しで想像し難い同僚の表情に勝手に畏怖してしまい、必要以上に気を遣う付き合い方を始めてしまった。
気づけば半年も経つ頃には人付き合いに対して過度に気を遣って自滅してしまい、人付き合いに楽しみを見出すことが出来なくなってしまった。
家と会社を往復して酒飲んで寝るだけの生活に終止してしまい、家族や友人にも会えずなんのために会社で働いているのか分からなくなってしまった。
また、自分の周りの方々を見ていると自分のキャリアがこの先どのように進んでいくか、人生が概ね見えてしまった気がした。
新卒で年収が400万、3-5年ごとに100-150万ずつ上がって、40代でもし課長になれば1000万超えるとか、そんな感じの年功序列が色濃く残る給与テーブル。
研究員は10年とか努めたら突然の辞令で研究員ではなくなり、別部署の主任になるのが大半みたいな。
大体三十歳前後に結婚して、近くに家をローンで買って、子供育てながらずっと勤め上げるみたいな。
恐らく多くの人から見たら幸せな人生なんだと思う。勘違いして欲しくないのは、私はそれを全く否定していない。
それでも自分には魅力的に映らなかった。
日本では取っても食えない足の裏の米粒とか言われているが、それでも私は研究に携わる上でいつかは博士号を取得したいと思っていた。
入社当時は社会人博士等も考えたのだが、会社としては肯定的ではなかった。
研究所にも関わらず職場では実務には必要ないという考えが主流で、事実博士号を持っている方々もそれに見合った待遇は全くなかった。
むしろ時間と金をかけているのにほぼ年功序列のため、同年代の同僚と加えて損しているような状況であった。
もちろん全ての会社がそうではないと思うが、私は博士号を良しとしない日本の風潮と会社に大変に失望した。
また別の理由として、人生で一度は海外で生活してみたいという強い思いがあった。
元々いつかは海外駐在をと思って会社を選んだが、入社してから研究員として駐在するというポジションはなく経理や営業がほとんどであることも知った。
それどころか会社で研究員を続けたら海外に行く機会はなくなり、10年も腰を据えればある日突然の辞令で研究員ですら無くなってしまうのだと理解した。
私はいつか研究から離れるにしても、少なくともその引き際については上司の裁量や社内政治の巻き添えではなく、自分の意思で決めたいと思った。
入社半年で上記のような数々のギャップを抱いた結果、海外で博士号を取るという決断に至った訳である。
どうやら博士号や欧米では十分に評価されるらしいとか、海外の大学院は授業料無料で生活費までくれると聞いたのが大きな理由だ。
よくも知らないのに受験して海外に来ているなんて、今思えばかなり無謀なことをしているように自分でも思う。
また研究の世界はどこまでいっても英語が公用語であるため、基礎的な学問を母国語で習得した上でなら英語で研究を遂行する能力も必要だろうと考えた。
幸い職場はホワイトだったので、勉強する時間は存分に確保できた。
主に米国の大学院に絞ったため、一年目の秋頃からそれに合わせて準備を始めた。
大学院留学には主にTOEFLかIELTSが使用されるため、私はIELTSを選択してオーバーオール7.0まで取得した。
GREとはGraduation Record Examの略で、米国の大学院を受験する際に要求されるスコアだ。
ただ近年では研究能力と関連がないという意見も多く、廃止される大学も増えてきている。
こちらも半年程度で目標としていた点数(Verbal 150, M170, AW4.0) に達した。
2年目の秋頃から書類を揃えて本格的に海外の大学院のPh.D.プログラム(日本でいう博士後期課程)に応募を始め、三校から合格をもらった。
自分のレベルに見合う中堅の州立大学をメインに受けたのでIvyのようなトップスクールではなかったが、それでも合格が来た時は本当に嬉しかった。
合格した中には修士時代に少し交流のあった先生からの誘いが含まれていて、これ幸いとそこを進学先に決定した。
反応は様々だった。
新卒で2年しか勤めてないのに辞めるのかとかなり叱責してくる上司もいて辟易したりもしたが、実際会社から見たらただの不良債権なので仕方ない。
そもそも会社辞めて海外に留学なんて叩き上げの管理職からしたら当てつけのように感じたかもしれないから、分かり合えないのは仕方ないと割り切った。
管理職ではない方々は割と優しくて、割と前向きに送り出していただくことが出来た。
大変に良い人が多かったので、コロナ禍でなければもっと良い交流を持つことも出来たのかなと少し残念に思った。
アメリカでの博士課程生活は大変に気に入っていて、現状は概ね満足している。
一度社会人を経験してみて履修する講義はどれも面白いし、大学生時代よりも自分に存分に投資できる時間を嬉しく思っている。
ただ給料が出るとはいえ大学院生なので、収入の面では下がってしまった。
現在の給与は年間で大体$25,000くらい、日本円だと350万円くらいかと思う。この額は多分アメリカの州立大学の大学院生の平均的な給与だと思う。
そもそも好きに勉強して研究するだけでお金が貰えるので、自分にとっては天国である。
自分としてはむしろ授業と研究だけで350万貰えるのに、フルタイムで苦労して働いて400万しか貰えなかった日本の大企業やばない?と若干思うところもある。
まあしかしアメリカの田舎なので物価は安めだが、日本の時と比べると生活費は上がってるので前より余裕はない。
大学院としては年間$30,000(約400万円)の学費免除を経済支援の一部としているので、それを踏まえると待遇は上がったかと納得している。
アメリカでは博士卒が民間に就職した場合、自分の分野では平均$80kから100kは貰えるそうなので、給与の面ではJTC時代を大きく上回る算段となっている。
周りをみても外国籍が特に問題なく就職しているので、日本の博士卒の就職難というような問題はこちらでは無縁のようだ。景気さえ悪くならなければ大丈夫だろうと思う。
幸いビザ問題はとある理由でクリアできる目処があるため、卒業と現地就職を目指して今後も研究に励むつもりだ。
海外生活も日々新鮮に感じることが多く、自分にとっても成長を感じる機会が多くて楽しく過ごせている。
生魚や焼き鳥が恋しいが、日本食材自体は売ってるので思ったより食事が辛いということもない。
元々人付き合いは好きだが、上下関係や気遣いは得意ではないので大分ストレスに感じていたように思う。
年功序列は自分には向いていない制度であったし、自分の意志を介在せずに自分の処遇が決まっていく組織というものにに耐えられない性分でもあった。
それでも日本の大企業に入社してみた経験自体は確かに生きていて、培ったマナーであったり規律等は学生上がりが多くカオスなアメリカの大学院生活でも大変に役立っている。
自分は別にアメリカを礼賛しているわけではないが、少なくとも私のような青二歳の外国人にも挑戦すれば機会が与えられて、能力があれば高い給与が貰える可能性があるのだとすれば、これは私にとってのアメリカンドリームに違いないだろうと思う。ドリームというほど上振れてもないけれども。
同じようなことで悩む若者がいたら、少しでも参考になれば嬉しい。
なんか定期的に「図書館司書の待遇悪すぎ!」という記事がはてな村はてさ民会でバズっては
反左翼・新自由主義連合に「そもそも図書館司書なんてなりたいやつ多すぎ、市場価値無い、図書館自体が電子化など先進技術についていけない無駄なハコモノ」とぶっ叩かれるのを繰り返し観測する。
どっちサイドも「欧米先進国ではどうなん?」という普段大好きな切り口に全く興味がないんだよね。なんでどうして。
個人的には欧米の図書館司書専門職位は修士課程相当が基準だって話が気になる。
これは労働供給過剰、市場価値低い、技術力低いという問題への対応力の差になるだろうか。
欧米で図書館司書の正規職になろうとすると、日本で言うと筑波とかでとれる図書館情報学の修士、要するにmaster of library and information science相当のものが必須とされている。
図書館は欧米アカデミアでは歴史的にかなり重要視されていた影響で、電子化の時代もとくに大学図書館を中心にけっこう独立性や利権を保っている。
たとえば理系アカデミシャンが大好きなarXivはロスアラモス国立研究所の物理学者が始めたが、現在はコーネル大学図書館が管理運営している。
ちなみに日本ではミラーサーバが京大基礎物理研にあったけど予算不足で停止。まあこれ自体きついが、図書館が管理しないで研究所がやるというのはやはり差だろう。
他にも欧米では「科学・芸術・文学情報のオープン化・電子化」という図書館情報学の重要課題について、各地の図書館がプロジェクトにおいて中心的な役割を果たしている。
ちゃんと予算がついてやっているのは国立国会図書館ぐらいだろう。東大図書館ですらオープン化・電子化の取り組みはまばらだ。まあ予算がないんだろう。
逆に欧米ではそういう専門性を必要とするプロジェクトの実行権やポストを各地の大学図書館が握っており、それを推進するために専門性を持った職員を必要としていると。
こういうでかいプロジェクトに関わることができれば技術力はつきそうではある。
しかし、じゃあ欧米圏での図書館司書専門職位の経済的待遇がいいか。というとなかなか微妙だ。
よく米国で話題になる「修士学位ごとの年収中央値」では下位常連である。
登録がいるが下のサイトで情報を見ると2021年の修士学位のなかで下から五番の年収中央値で、約5万3千ドル。
https://www.statista.com/statistics/226674/worst-masters-degrees-for-jobs-in-the-united-states/
とはいえこの年の全米の年収中央値は5万1千ドルなので、一応上回っているし、労働時間や負荷も考えたらそこまで悪くない待遇ともいえるか。
修士課程を取った人間でそれ以上の条件(正規職に就職してるとか、公的機関に雇われてるとか)がないサンプルの中央値なので、学位の時点で市場価値自体がある程度保証されてるということになる。
では、直ちに欧米では図書館司書の年収は日本より高い!といえるかというとそうではない。
アメリカ図書館協会によると図書館職員全体の年収は2万ドル-3万ドルがほとんど。
図書館司書専門職位をもって「司書」を名乗れるのは修士を持っている人間だけ。
当然それだけで業務は回らないので、窓口スタッフやら配架やら、日々の業務をやるのは結局パートタイマーって感じ。
日本では「司書」としてひとくくりにされてる層が末端までやってるわけだが、この層が単に「司書」を名乗れなくなるのが米国。
比較対象となる、日本の図書館司書は年収中央値が公的データで出てこなかったのだが、求人サイトで中央値を出してるところを眺めるとおおむね300万円台みたいだ。
あと、米国での図書館司書専門職位のような専門性のある仕事を確実にやってるであろう数少ない日本の組織、国立国会図書館の常勤職の年収を見てみると
だいたい中央値500万円ぐらいらしい。国家公務員行政職と同じ給料という扱いみたいだ。昇給もするし退職金他の福利厚生もしっかりある。
なんか、日本と米国の年収の違いを差っ引くと、大体の仮説ができそうだ。
(1)日本も欧米も一部の専門職は安定雇用で、全職業の中央値と同じぐらいかそれ以上にもらえる。それ以外の業務はパートタイマーで年収は低い。
(2)この構造自体は変わらないうえで、専門性を要求するプロジェクトやポストの数が欧米のほうが多い。
(3)だから日本の司書制度に高度な専門性を課した場合、(1)は変わらず(2)は変わる可能性がある。
飽きてきたので仮説を検証するための詳しい定量データを集めるのはやめる。
ただ、結局のところ欧米型にすると、「図書館司書」としてそれなりの待遇を受けられる人間は増えて
その層は技術力もあり、市場価値も最低限は保証され、需給のバランスもとれるが
待遇はそこまで変わらないという事になりそうだな。
鬱病で半年前まで休職していて高望みはできないのですが、自己の好奇心を満たすためや自己実現(事業を通じて世の中を良くしたい)のために何れ大企業で働くだけでなく、キャリアを広げるか、キャリアチェンジをするか考えています。
ひとつは留学です。社内の仕組みでの1年留学と、退職しての学位をとるための留学があります。どちらも同じ部署からそれらの経験をした事例があって、研究やデザインスクールの学位習得などされていました。
社内に残れば仕事の幅は広がる、または専門性は高まるし(出世とはあまり関係なさそうですが、自己満足です。)、退職した場合も有名な学位を取れれば日本での転職は困らないようです。
私の場合英語力がネックではあります。一度三ヶ月ヨーロッパに留学したことはありますが、コミュニケーションにかなり苦労しました。
二つ目に日本で社会人博士課程、もしくは別の分野での修士課程で専門性を極めることです。修士は多くの場合授業を日中にあるのが難しく、博士課程は単純に負荷が非常に高いです。今年も某大学にアプライしようかと考えましたが、研究テーマを考えきれず辞めました。
一つ目、二つ目は取り組む分野やテーマが重要ですね。私はITのソフトウェアエンジニアですが、VRなどスマホやPC以外の機器を使うことが多く、またUXデザインや機械学習についても知見があるため、何を伸ばしたいかで大きく選択肢が変わります。ちなみにまだ迷っています。
また経営に関しても興味があり、国内で勉強するなら夜や土日中心の経営学修士もよいのではと少し考えました。(元カノが行っていました)
三つ目は、ビジョンを持つ、賢い人の近くで働くことです。主にスタートアップへの転職になります。既存の私のスキルセットでは難しいものはありますが、それを望んでいます。イノベーションなどの経営学に関する本を読む中で興味が高まっています。私の知人が何人もスタートアップの社長をやっていることもあり、私も彼らと同じ土俵で戦いたいなと思っています。
業務負荷はとても高いだろうとは感じていますが、それ以上に好奇心や達成欲が勝っています。
四つめに自ら起業といいたいところですが、まだ何も考えていないのでとりあえず挙げておくだけにします。
鬱病で半年前まで休職していて高望みはできないのですが、自己の好奇心を満たすためや自己実現(事業を通じて世の中を良くしたい)のために何れ大企業で働くだけでなく、キャリアを広げるか、キャリアチェンジをするか考えています。
ひとつは留学です。社内の仕組みでの1年留学と、退職しての学位をとるための留学があります。どちらも同じ部署からそれらの経験をした事例があって、研究やデザインスクールの学位習得などされていました。
社内に残れば仕事の幅は広がる、または専門性は高まるし(出世とはあまり関係なさそうですが、自己満足です。)、退職した場合も有名な学位を取れれば日本での転職は困らないようです。
私の場合英語力がネックではあります。一度三ヶ月ヨーロッパに留学したことはありますが、コミュニケーションにかなり苦労しました。
二つ目に日本で社会人博士課程、もしくは別の分野での修士課程で専門性を極めることです。修士は多くの場合授業を日中にあるのが難しく、博士課程は単純に負荷が非常に高いです。今年も某大学にアプライしようかと考えましたが、研究テーマを考えきれず辞めました。
一つ目、二つ目は取り組む分野やテーマが重要ですね。私はITのソフトウェアエンジニアですが、VRなどスマホやPC以外の機器を使うことが多く、またUXデザインや機械学習についても知見があるため、何を伸ばしたいかで大きく選択肢が変わります。ちなみにまだ迷っています。
また経営に関しても興味があり、国内で勉強するなら夜や土日中心の経営学修士もよいのではと少し考えました。(元カノが行っていました)
三つ目は、ビジョンを持つ、賢い人の近くで働くことです。主にスタートアップへの転職になります。既存の私のスキルセットでは難しいものはありますが、それを望んでいます。イノベーションなどの経営学に関する本を読む中で興味が高まっています。私の知人が何人もスタートアップの社長をやっていることもあり、私も彼らと同じ土俵で戦いたいなと思っています。
業務負荷はとても高いだろうとは感じていますが、それ以上に好奇心や達成欲が勝っています。
四つめに自ら起業といいたいところですが、まだ何も考えていないのでとりあえず挙げておくだけにします。
タイトル通り,日本悲観論に揺れて漠然と国外に行かなきゃと考える学生に,金をかけずに国外脱出する方法を伝授する.
それはずばり,国外で大学院を卒業して現地就職を目指す方法だ.
実家が平凡,なんなら貧しくても問題ない.むしろ貧困は奨学金取りやすいので有利な場合もある.
文系は専門外だ.別の道をあたってくれ.
1. 学業に専念し,良いGPAを維持しろ.少なくとも3.5/4.0以上は欲しい.
2. 給付の奨学金に応募しまくれ.貧困対象でも成績優秀者対象でもいい.金銭的余裕を確保してバイトの時間を勉強に充てろ.
3. 海外とのコネクションがあるラボ,もしくは論文を書かせてくれそうなラボで卒研をしろ.
4. 国立の大学院に進学しろ.修士課程まででいい.同じ研究室でもロンダしてもいい.
6. 可能なら半年から1年くらい留学しろ.ラボのコネでもいいし協定校でもいい,ただし研究留学にしろ.
短期留学の場合は 給付の留学奨学金は結構充実してるので,応募して受かれば金銭的負担は少なくて済む.
7. アメリカ・もしくは欧州の博士課程に応募しろ.在学中は給料と授業料が出る.
おめでとう,完遂です.
【解説】
海外進学を目指すにあたり,海外の大学はGPAを何よりも大切にしているので,学業成績は高めを維持しなければならない.
日本の大学生は海外大生と比べて本当に勉強しないので,門前払いされたくなければ周りに流されず勉強しろ.
一方,日本の大学・大学院は授業より研究重視なので,これは逆に実績を積むのに都合がいい.
日本の修士卒業までに論文投稿,学会発表,奨学金の獲得(意外にもアピールになる),学術賞等を積み重ねれば他の国の受験者と大いに差別化できる.
更に更に,第1種奨学金は上に挙げたような実績が豊富だと半額もしくは全額が免除になる.利子もなく借り得なので借りておいたほうが絶対にいい.
研究留学はチャンスがあれば行っておいたほうがいい.将来の進学先候補になるし,違う大学院に行く場合にも海外研究者の推薦書が手に入る.ついでに英語も鍛えられる.
近年だと都道府県単位や大学ごとの奨学金,トビタテ留学JAPAN等々かなり幅広く給付の短期留学奨学金があるので全て応募するべし.
欧米の大学院,特に博士課程の学生は学費無料で給与が出るので競争が激しいが,
ここまでで履歴書を十分に彩れば,海外大学院応募でも十分に戦える.
日本のように博士学生=社会不適合者というレッテルもなく,むしろキャリアの一環という側面が強く劣等感を感じることも少ないだろう.
在学中も生きていけるだけの金を貰いつつ,良い就職先も見つかる.
英語が苦手?
英語も喋れず大した学位もない外国人を雇う国なんてないので,誇れる移民を目指しましょう.
以上,ここまでが地方出身者だろうが海外経験なしだろうが国外脱出できる方法だ.
学部卒から海外院→修士卒で就職も出来ないことはないが,さらに難しくなるのでここでは取り上げない.
また海外大学院応募にあたってはノウハウも勿論あるが,また長いテーマになるなので割愛する.
おめでとう.
小学3年生のとき、中学受験塾の入室テストを受けたら、選抜クラスに入ることができた。はじめて「得意なこと」ができた気がした。でも、自分がたいして頭がいいわけじゃないと気づくのも早かった気がする。小さな校舎だったけど、俺よりもっと勉強ができる子は何人もいたからだ。受験では運よくそれなりに入試難度の高い中学に入れたけれど、それは自分の唯一の「得意なこと」が、その学校では「苦手なこと」に変わってしまうことを意味していた。
それからずっと、勉強より得意なことが何かないか探し続けて生きてきた。運動神経がよくないのはもう知っていた。音楽ができるわけでも絵が描けるわけでもない。高校生のとき(男子校だったからだけど)ほとんどの同級生より早く彼女ができたのは嬉しかった。でも、長続きしなかった。振られたショックで大学受験の勉強も後半からほとんどできなかった。なんとか大学には進めたけれど、学科にもサークルにもなじめなかった。大学での勉強自体は楽しくて修士課程に進んだけれど、博士課程に進む勇気は出なかった。頑張って公務員試験を受けて(結局筆記試験が一番得意だった)、地方公務員になったけど、事務仕事があわなくてやめてしまった。結局、中学受験塾で勉強を教えて生きている。
30歳、金なし彼女なし独身、今の会社で出世もできないだろうし、転職も難しいだろう。振り返ってみると、小3のときにできた「得意なこと」に振り回されて生きてきたような気がする。それならもっと得意な人がたくさんいることを認めた上ではじめからもっと勉強にすがって生きればよかったのかもしれない。さえないなら、さえないなりの生き方がほかにあったんじゃないだろうか。
慶應の文系学部を卒業し機械メーカーにて法人営業をしていたが鬱で3年目に退職。イミテーションゲームという映画やそれに関連した書籍に影響され地方国立大学の情報工学コースに3年次編入。最初は勉強に追いつくだけで精一杯だったが段々楽しくなっていった。歳下の友達にも恵まれた。計算理論か知能分野に興味を持って入学したが、余りの難しさに挫折し画像処理の研究室を選択。学部を卒業した後は同じ研究室の修士課程に進んだ。2年目の現在、複合現実で仮想オブジェクトを操作する際の処理方法に関する論文を書いている。
正直研究や修論に関しては問題ない。やばいのはこれからだ。日々の勉強や研究の忙しさ、楽しさを言い訳に就活してない。俺は今年30になった。来年31だ。どうすれば良い。博士に進む勇気もないしこれ以上の財力はない。働かなくてはならない。月20万貰える仕事に就きたい。どこかしら拾ってくれるのだろうか。
「田舎出身」かつ「親族に東大卒、東大生はいない」かつ「母子家庭」から東京大学工学部計数工学科を卒業し、情報理工学系研究科にて修士課程を修了した。今はただのサラリーマン。親ガチャや教育格差についての一般例に対する個別一事例として。
両親は歯科医だったが俺が3歳の頃に離婚し、中国地方から東海地方の母の実家へ。家族構成は母、俺、祖父、祖母の4人。祖父も叔父も歯科医で歯科医院を営んでおり、離婚後の母もそこで働いていた。祖母は教員だったが俺が生まれた時には定年済だったため、平日は祖母に育てられたようなもの。祖母や母はそんなに勉強にうるさくなく「学校の宿題と公文のプリントだけしっかりやればあとは自由」だった。家に帰って学校と公文の宿題を済ませばいくらでも遊べたしゲームもできた。
家族の学歴的には祖父は戦前の歯学専門学校、叔父と母は私立の歯学部、祖母は駅弁大学になる直前の師範学校女子部卒。東大や帝国大卒は親族含め誰もいない。
県庁所在地まで電車や車で1時間以上かかる田んぼしかない町で育ったため、習い事や塾はなく公文のみ。幼稚園、小学校、中学校ともに地元の町立。小学校は毎日遊び、中学は毎日部活。高校受験で初めて本格的に勉強して県庁所在地の県立高校に電車で1時間かけて通学した。高校でも毎日部活。勉強は英単語や古文の暗記と学校の課題のみ。高2と高3の春休みから学校の近くの大手予備校に通い始め、現役で東大理科一類に合格した。
高校の長時間通学はきつかったし、県庁所在地付近で育ち小さい頃から塾に通ってた友達や駅弁附属の小中から入ってきた友達との学力差を感じることもあったが、受験期には差がなかったと思う。大学でもそこまで灘や開成出身との差は感じず普通に仲良くなれたので、結局は環境とかではなく本人のやる気や性格次第な気がしなくもない。
それはRAとしてお金が出たのかな!ここでは、学生に科研費の研究の一部を手伝ってもらう費用を科研費から支出するのが大変だという文脈だよ!そもそも、研究する学生のためのバイト代を科研費から支出しようと考える自分みたいな大学教員は、大学教員全体の中では「良心的」な方だと思うよ!「学生が研究するのは当たり前!」、「卒業論文や修士論文の存在をチラつかせて焦らせて無給で学生を自分の科研費の研究のために働かせよう!」という発想で、そもそも学生に研究のバイト代を払うという事すら考えたことのない大学教員はかなり多いと思うよ!数割の大学教員はそうなんじゃないかな!でも、学生が大学に払っているのは「学費」であり、科研費は教員の研究のために国から出ているお金なので、扱いとして全然別物で、厳密にいえば学生に教員の科研費の研究を手伝う義務はないはずだよ!そして、科研費の仕組みとして学生をRAとして雇いお金を払う事も想定されている以上は、「科研費の研究に学生を従事させたいなら、ちゃんとバイト代を払ってね」という仕組みに制度上はなっているはずだよ!卒論や修論を盾に学生に科研費の研究を手伝わせる行為は、厳密にいえば、無償労働の強要に当たるんじゃないかな!学生の側も変に大学教員と対立したりして卒論や修論が完成させられなくて留年とかになったらいやだから、ほとんどの場合、そのまま受け入れると思うけど、厳密には無償労働の強要でサービス残業させているのと同じだと自分は思うよ!学生の側も一枚岩ではなくて、教員の研究を手伝えるのが嬉しいとか研究楽しいとか、そういう学生もいるはずだよ!でも、全ての学生がそうなわけじゃないし、「大学教員の研究なんかどうせ社会の役に立たないんだから、早くやり過ごして社会でマトモなもっと役に立つことやらせろ」って思っている学生も割といると思うよ!いや、自分の研究は社会の役に立つから(そうじゃなかったら科研費通ってない)、たいていの場合、大学教員の研究が社会の役に立たないというのは学生の勘違いだと思うのだけど、だとしても、そう勘違いしている学生が多いことは否定できないよ!研究楽しいと思えるタイプの学生の「善意」によりかかるのは危険だと自分は思うよ!寄りかかりすぎて、本来は科研費の研究と卒論・修論の研究は関係ないのに「卒業できないぞ!」とおどして論文を書かせるのは、厳密にはアカハラと取られる可能性があるよ!全国を探せば、それでアカハラ認定されて懲戒解雇になった大学教員もいるよ!自分はそういう方がこわいので、学生に科研費の研究は手伝わせないよ!逆にこっちも科研費の研究を学生に手伝わせる義務は負ってないしね!
申し訳ないけど研究設備の話はしていないよ!自分は研究設備は足りていて、学生の雇用の話をしているよ!研究設備は一度そろえてしまうか、最悪、設備を持っている他研究室に頭下げて研究させてもらえばいいだけだと思うよ!大きな予算の分担者に入れてもらったところで、年100万が数年間、年数百万になるだけで、大差ないと思うよ!あと、少なくとも自分は自分の分野では無能ではないと思うよ!ここ5年の業績だと、分野を限定すれば明らかに国内で上から数えて何番目の位置にいると思うよ!与えられたリソースの割には業績出している方だと思うよ!自分より業績ない大型個人研究費獲得者、割といるしね。自分より研究業績あげている人を連れてきてから、無能呼ばわりして欲しいよ!
後、年100万が安いと思う人は、正直、企業に行けばいいと思うよ!自分は金にならない研究が好きだからアカデミアに残っているけど、アカデミアが研究費獲得に苦労する割には研究費やすいなんて言うのはわかりきったことなんだから、不満があるならさっさと企業に行けばいいと思うよ!
こういうこと言う人結構いるんだけど、これが全く意味わからないよ!違うと思うよ!だって、企業はこんな事やってないよね!労務管理の担当をする方を別におくことができるはずだよ!で、研究の内容に関しては、企業でも技術的には大学と似たような研究できるはずだよ!お金にならないから大学と同じ研究やってないだけの事が大半だと思うよ!「そういうの全部ひっくるめて研究」にしちゃったら、逆に、「そういうの」を経験しない企業は大学と同じような研究ができないって企業を下に見て小馬鹿にしているように聞こえるよ!国立大学だって、各研究室の光熱費や水道代とかは普通、研究費からは請求されないから教員個人が把握していないだけで、しっかり各研究室ごとにどれだけ電気使ったか計算されて支払われているはずだし、その会計を担当されている職員の方がいらっしゃるはずだよ!光熱費に関してはたくさん使ったからと言って大学教員の手間が増えたりしない仕組みが構築されているよ!現状、光熱費や水道代については、同じ大学の財産でも、教員に管理の手間がいかない仕組みができているのだから、労務管理でも本来はできるはずだよ!できないのは制度が悪いんだと思うよ!
私は、修士課程のころ、指導教員の印鑑を勝手に買って使ったことがある。
他人の印鑑を勝手に使用することは有印私文書偽造罪と立派な犯罪だが、なぜかバレなかった。
その研究室は、専攻分野の中でも際立った研究をしており、かなりの実績を出していた。
担当教員もかなり力のある人物で、設備も充実していたことに魅力を感じた。
研究テーマも、他の学生と全く異なるものを任せてもらい、やりがいもあるだろうと思っていた。
そこで論文執筆や国際学会発表をたくさんこなして博士課程まで進み、アカデミックに残りたいと思っていた。
だが、研究室に入ってすぐ、そんなことはできるわけがない現実に直面した。
まずコアタイムが厳しく、コアタイム外のゼミ会が毎週あったり、それ以外の時間も暗黙の了解で残らせるところだった。
夏休みも学部生が1カ月以上あるのに対しこちらは長くて1週間、春休みはなし。
書かれていないことは暗黙の了解に過ぎないと無視していたら、指導教員直々に「お前やる気なさすぎ」とまで言われた。
雑用当番や研究室行事も頻繁にあり、ただですら研究で疲弊しているところに追い打ちをかけるようだった。
また、研究室が優秀ならメンバーも非常に優秀ですぐについていけなくなった。
そんな中、研究成果をうまく出せず、指導教員に叱責される毎日を送っていた。
指導教員は言うことが頻繁に二転三転するうえ、こちらの意見は全く聞き入れられず、ストレスが溜まっていった。
うまくいかない実験に関しこちらが改善案を出しても一切認めず、ただやり直せと言うのみでにっちもさっちもいかなくなった。
学生相談制度で別の教授と会ったときも「ここまで緩い研究室すら無理なら退学すべき。就職も今は人物重視だから問題ない」と言われた。
学内の相談員も同様に、遠回しな言い方ではあったがやたらと退学を勧めてきた。もしかしてそういう校風だったのだろうか。
そしてある日、ついに限界を迎えてしまい、半ば喧嘩別れの形で研究室を飛び出してしまった。
その後は好きな講義を受講するなど学部生に準じる生活を送っていた。
ところで、私は学内で国際教養を認定するプログラムに入っていた。
それは対象の講義をいくらか受講し、さらに留学すると大学から認定証とともに国際教養のお墨付きがもらえるというものだ。
もちろん国家資格とかじゃないからこれで食えるわけではない。ゆく先々話のネタにはなる程度だ。
ちょうどお金もたまっていたのでそれに応募しようと思った。
しかし、大学院生は何をするにも教授の許可がいる。授業の履修だけでなく休学・退学ですら例外ではない。
もちろん留学にも指導教員の許可が必要で、願書には指導教員の記名押印をもらう必要がある。
しかしその時の私は指導教員と仲違いしており、のこのこと研究室に出て「ハンコ下さい」なんて言うわけにもいかなかった。
実際、これまでのことを謝罪しに行ったことはあるのだが、取り付く島もなく追い返された。
となるとどうにかして印鑑を押してもらったことにするしかない。
研究室へ行くとバレてしまう。ならば指導教員と同じ苗字の印鑑を買って押すしかない。
ダメで元々店に赴くと、かなりメジャーな苗字だからか簡単に入手できた。
指導教員の名前はWordで印字し、買った印鑑を押したら問題なく受理された。
(後で知ったが「記名押印」は印鑑さえ押していれば氏名は印字やハンコでもOKだという。氏名も手書きが必要なのは「署名捺印」)
申し込むとすぐに「学内選考合格。返済不要の奨学金付きで先方に推薦するので応募手続きを進めるように」という返事が来た。
そのまま応募手続きを進めたところ、留学先による選考にも合格してしまった。
ちなみに、一番大変だったのは英文の履歴書と志望理由書の作成だった。インターネットで調べて何とか出来たが。
留学担当部署へ合格を報告すると、選考だけでなく留学にあたり書く申請書にも指導教員の印鑑が必要だとわかった。
ここまできて引き返すわけにはいかないが、同じことをすればいいので良心の呵責はなかった。
こちらの行動がバレるきっかけはいくつかあったが、追及は全くなかった。その原因を考えてみたい。
まず印鑑を使った段階についてだが、これは簡単だ。印鑑を買って押したところは目撃されていないのでわかるわけがない。
書類を受理した側についても、建前上指導教員の許可が必要としているが、実際は印鑑の有無を事務的に見るだけだからだ。
銀行ではないのだから印鑑登録をしたり、その真正性の判定や所有者への確認はしない。
もし不備が見受けられるのなら書類を突き返して作り直しを命令するだけでよい。
受理された後も、書類は関係する諸手続きにしか用いない。つまり用が済んだら即時破棄が普通だ。
そこで一番バレる原因になりそうなのが教授会だ。
国際教養プログラムの担当教員によると、プログラム修了認定の議題を教授会に出したという。
となると、配布資料または口頭で私の名前が出ており、それを指導教員が認知しているはずなのだがなんの追及もなかった。
不思議に思ったので原因をいくつか考えてみた。
私としては、ありそうなのは順に③、①、②だと思う。
確かに指導教員の許可を要する物事は数多く存在するが、そうでないものも多い(証明書の発行、通学定期の購入など)。
従って、国際教養プログラム参加には指導教員の許可は不要と思っていた。
当然、私が無断でやったことにも気づいていない。
講座の受講や留学には指導教員の許可として記名押印が必要である。
指導教員は許可などした覚えがないのに私が勝手に受講を始めてプログラム修了まで至っている。
しかしながら、それを立証する証拠がない。留学の応募書類などを開示してもらうことはできるがこれでも立証は難しい。
(なお、卒業生については事務局が学位・単位の修得状況だけ保有し他は破棄するため、現在は教員による立証は不可能)
私を呼び出して話を聞こうにもいくらでもすっとぼけられてしまう。教授会の開催も私の修了間近と追及する時間的余裕もない。
もし事前に立証できているなら、学科内のエライ教授に話をつけて懲戒処分に持っていけるはずである。
とはいえ、私がこんなことをしていようとも指導教員自身や研究室には何の実害もない。
それに、ヒエラルキーの非常に強いアカデミックの世界だ、こんな不確かなことで騒ぐのはもったいない。
下手に騒いだせいでお偉いさんに目をつけられるとキャリアが台無しだ。
特に、私を大学から追い出さないといつまでも居座られる。ならば研究成果が不十分でも修了判定を出すしかない。
(一応、学生を放置することで在籍可能期間を満了させて除籍に持ち込むことはできそうだが、問題になるのだろう)
大学教員は如何に予算を取ってきて研究成果を出し出世するかが大事。
こんなことどうでもいいし、私がやったことについて調べるのも面倒。
帰国後は残りの単位を修得し、国際教養プログラムの認定要件をクリアした。
学内カウンセラーの方に仲裁してもらい、無事研究室にも戻れた。
研究室には指導教員とは別にもっとエライ教授がいたが、私が不在にしている間、何の前触れもなく退職した。
私以外のメンバーにも退職日や理由などを事前に知らされなかったそうだ。
そういえば私が研究室に入る前、その教授は「近い将来指導教員を独り立ちさせる」と言っていたので、それ絡みだろうか。
研究室に来なくても研究を進められるようになった。連絡は口頭でなくチャットソフトを使うことになった。
研究や生活面、あらゆることでこちらを詰めてきたはずの指導教員も対応が事務的になった。
今までは研究報告でさんざん貶されていたところを、提出したらすぐに「よいと思います」と言われるようになった。
高圧的に命令してきたところが、丁寧語で提案するような口調になった。
「どんなことよりも研究を優先せよ」だったのが、「やりたいことがあるならそちらを優先した方がよいです」と言うようにもなった。
ただ、「発言が二転三転する」と言われたのが心外だったのか、何度も「研究ですので変更もありえます」と言うようになった。
発表資料も何度も突き返されたところを、指導教員が大枠を作り、こちらはデータだけ書き加えればよいことになった。
雑用当番やゼミ会、研究室行事も免除となり、学部生に準じる夏休みももらえた。
修士論文は序論として先行研究に続いて自分の研究背景をまとめ、あとは研究報告書を要約していけば完成した。
その代わり、
・私の研究ポスターや発表実績を外部(研究室ホームページや研究棟の廊下など)に公開しない
・修了間近に私のデスクを片付けに行ったら、そこが荷物置き場になっていた(最も、研究室を飛び出す前からよくこうなっていたが)
など、私をいなかったことにしたいようだった。
学位記授与式を過ぎ離籍しても、就職先への出社日前日まで研究をさせるところだったが、私は修士論文を出した時点で解放された。
(本当はこれ、部外者を研究に従事させているので万が一のことがあった時を考えるとマズいことなのだが…)
結局、修士の学位記と認定証、そして「修了おめでとうございます。さようなら」とそっけない言葉をもらい大学から去った。
(なお、博士課程については、1年次後期の時点で指導教員直々に「テメーはダメだ」と言われたので断念していた)
何のつもりか研究室からの寄せ書きもくれた。数人はメッセージなしか当たり障りのない内容だったけど。
一応研究ノートとかは返してないが、こちらも特におとがめなし。まぁ「門外不出にする価値もない」ってことなんだろうけど。
研究室に感謝する義理もないので、研究室のパソコン内のデータや研究実験用ソフトなどを全消しするプログラムを仕組んでおいた。
バレにくくするため、研究室を去ってから数か月後に全消しプログラムを作成してから消えるパッチファイルだけ入れておいた。
全消しプログラム生成からさらに数か月後、そのプログラムが作動しパソコンがダメになるというわけだ。
今頃どうなっているか気になるが、今は部外者で研究室とも仲が悪かったため覗きに行くことができないのが残念だ。
ところで、私が去った後の研究室や専攻の方針がどうなったのか気になるところである。
私のような学生のニーズに最大限配慮した研究・進路指導をするようになったのか。
デビッド・ライス氏と白饅頭氏が互いを批判する文章をブログ,SNS上に投稿している。しかし,以前からこの両者の発信する文章を読んできた私としては,両者の主張は根本的なところで対立はしておらずむしろ同じ方向を見据えて書かれているように見えた。
ではなぜ,ライス氏と白饅氏は対立するに至ったのだろうか。結論から書けば,両者は主張の内容は近しいものだが,その主張をどのようにして一般に発信するべきかという点において大きな価値観の相違があった。その相違にばかりに注目し批判を繰り返した結果,現在の不必要な対立を生じさせたと私は考える。
両者は互にレッテルを張り合い,主張をよく確かめずに感情的な言葉を投げ合っているように見える。しかし,ライス氏と白饅頭氏は現代の言論界において重要な役割を担っており,こんなところで格を落とし合っている場合ではない。
実際に両者がブログ,SNSに投稿した文章から,なぜ不毛な対立が生じたのかを見ていこう。
ライス氏は2022年11月2日,自身のブログ「道徳的動物日記」に,『「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターについての雑感』というタイトルの記事を投稿した。その中で,氏は白饅頭氏の言説について
“弱者男性論者たちはアカデミシャンではなく、コンプレックスや差別を煽ったうえでnoteやYouTubeで言動を売って稼ぐ「商人」だ」”
と批判した。
弱者男性論者である白饅頭氏がアカデミシャンではないというのは事実だ。彼は学部卒で,大学等には属さず個人で発信を行っている。「商人」というのもやや悪意のある表現ではあるが,noteや書籍を販売しているとい点では間違った表現ではない。
だが,アカデミシャンでないことも「商人」であることも,白饅頭氏の論を誤りだとする根拠にはならないはずだ。ここでライス氏が批判しているのは言説ではなく,白饅頭氏の立場と手法だ。氏の言説が誤りだと主張するならば,具体的に彼の文章を引用するなりして,どこがどう誤りなのかを論理的に説明するべきだろう。
また,ライス氏は2021年4月3日に現代ビジネスに『「フェミニズム叩き」「女性叩き」で溜飲を下げても、決して「幸せにはなれない」理由』という記事を寄稿した。その中で,
“弱者男性論でおこなわれているのは、「女性」(または「フェミニスト」「リベラル」)という属性を仮想敵にして、自分たちのつらさの原因はすべて彼女たちに責任があると主張することで、弱者男性である読者たちの溜飲を下げさせるための議論だ”
と書いた。ここで批判されているのは“溜飲を下げさせるための議論だ”とあるように,弱者男性論の主張する内容ではなくその目的だ。もちろん,その弱者男性論によって留飲を下げている男性も少なからずいるだろう。
しかし,それが決定的に弱者男性論を否定する根拠になるだろうか。卑小な目的で立てられた論であろうと,それが誤りだと証明するには論を構成する根拠や理論についての誤りを指摘するべきだ。
上記のように,ライス氏は弱者男性論を批判しながらも,その批判内容は専ら論者や読者の問題を指摘することに終始し,弱者男性論を構成する根拠や理屈についての矛盾を殆ど指摘していない。
ライス氏は上記の記事の中で,弱者男性論がある程度は妥当であることを認めてすらいる。しかし彼はその妥当性を認めながら,それが社会に与える悪影響のみを強調し,弱者男性論をこき下ろしている。これはややバランス感覚に欠けた主張だと言える。
なぜ彼はこのような一方的な主張をしたのか。それは,彼がネット論客と呼ぶ者たちによる弱者男性論が盛り上がりを見せていたからだ。ライス氏は先ほど引用したように,ネット上で学位を持たない者が政治的な主張をし注目を集めることに対し強い拒否感を持っている。彼からすれば,学位を持たず大学にも属さない者の発信する政治的主張はSNS上でフォロワーに対してアピールするだけのものにすぎず,学術的な裏付けのない稚拙な主張に過ぎないようだ。
たしかに,ネット上で政治的発言をするアカウントの発信する内容は仲間内に向けてのアピールに終始しがちな傾向があることは否めない。
しかし,白饅頭氏の発言のほとんどは客観的な妥当性を意識しているものだ。彼のどの主張にしても,必ず明確な根拠を示しながら筋道を立てた発言を行っている。弱者男性論にしてもそうだ。
SNS上には白饅頭氏と同様にアンチリベラル的な主張をするアカウントが数多く存在し,数万のフォロワーを獲得しているものもいるが,彼ほどの存在感と影響力を有している者は他にいない。それは,白饅頭氏の発言する内容がアンチリベラル層だけでなく,中立・一般層にたいしても説得力を持っていることの証左と言えなくもない。
ライス氏は白饅頭氏のTwitterやnote上での発言を批判している。ライス氏によっては,SNSのような誰でも発言が可能な空間では論理的に正しい意見よりも大衆の感情を煽る意見の方が支持を得やすい。だから白饅頭の主張は誤りであるにも関わらず支持されるのだという。
しかし,白饅頭氏が発言を行っているのはTwitterやnoteのような誰もが発言できるメディアに留まっていない。現代ビジネス,プレジデントオンライン,BLOGOSといった,中立性を保ったある程度格式のあるWEBメディアにおいてもその主張が掲載されている。これは,彼が一般メディアからもある程度の評価を獲得している根拠であり,仲間内に向けて偏った発信ばかりをしているというライス氏の主張を否定するものになる。ちなみに,現代ビジネスにはライス氏も寄稿している。
ライス氏は学術的な背景のある言説を至上のものとし,ネット上での言説を程度の低い物と見なす価値観を持っているようだが,これは偏った価値観だろう。
ネット上では素人の発言が可能だが,それに対して専門家が批判を加えることも可能なのだ。生半可な言説では,素人がネット上で自らの論が正しいと広く認めさせることは,実際のところかなり困難だ。ネット上で政治的主張をするアカウントのほとんどは仲間内で価値観を確認し合うことしかできないのが現実だ。
そんな中で,広い層からの支持を集め,書籍を出版するまでに至った白饅頭氏の言説は,一考に値するものであると判断されるべきだろう。たとえ学位がなくとも。
それに,学術分野での肩書を持つ者の発言が必ずしも正しいとは言い難くなってきているのはライス氏も理解しているはずだ。実際に,彼のブログでは大学に属する研究者の著書や発言の誤りを指摘する記事が多く書かれている。
ライス氏は,ネット論客の主張は仲間内へのアピールばかりで発展性も新規性もないと言うが,学術の世界ではそうでなはいと言えるだろうか。学術界でも,特定のコードに反する内容の主張が正当な理由なしに発表を拒否されるという事例が少なからずあったはずだ。
ライス氏は学術的であることを重要視しているが,それだけを至上のものとし,そうでないものを見下すような態度はそれこそ閉鎖的で彼の指摘するネット論客の悪い特徴と同じだ。
2022年12月20日,白饅頭氏はライス氏のツイートを引用リツイートしこのように書いた。
“社会正義の総本山アカデミ屋を称揚する奴がいうのマッチポンプ感があって草”
たしかに,社会正義を定義しがちなアカデミア出身のライス氏が,社会正義に疑問を呈する内容の本を紹介するというのはやや疑問を生じさせるものかもしれない。
しかしながら,ライス氏は普段からアカデミアの主張する社会正義について無批判だったわけではない。彼のブログを読めばわかることだが,学術的な地位のある人物の著書についても内容に疑問を感じる点があればしっかりと指摘をしている。
ライス氏はアカデミアを重要視こそしているが,かといって盲目的に信奉しているわけでも無い。
“いやだから、君のような人文アカデミア礼賛ネット論客が「露悪的なおもしろさ」とか語るのダブスタもいいとこでしょ。”
白饅頭氏はライス氏を“人文アカデミア礼賛ネット論客”と呼んで揶揄している。これは,ライス氏が人文アカデミアについて批判的な視点を持ち合わせていることを無視した発言だ。
“インテリの本って普通に読みにくくて面白くないという根本的問題があるんだよな。
おもんなくてわかりにくい文章を書いているだけの分際で「高尚なことをやっている」とのぼせ上がっている奴らの商売が破綻するなんて当たり前でしょ。
「本当に頭のいい人は一般の人でもわかりやすく説明する」みたいな論調には与しないまでも、かといって「複雑なものを複雑なまま理解するのが知性だ」みたいなのも、インテリの自惚れが含まれていないわけではないだろう。“
これは名指しこそしていないが,ライス氏の著書に絡めた発言ととることができる。たしかに,ライス氏の著書は硬い文体でやや学術寄りの内容でもあるため,読むために労力を要する。
だが,ライス氏の著書はより厳密な内容で社会について論じたものであるという点から,白饅頭氏の著作よりも優れていると言える。本自体の売り上げで言えば白饅頭氏のほうが圧倒的ではあるが,それは彼の知名度と,内容の易しさによるところが大きいだろう。ライス氏の著書は本人の知名度も低く,厳密で硬い内容であるために気軽に手に取れる本ではないものの,より厳しい視点を持つ読者にとってはライス氏の方が優れたものとなるはずだ。
白饅頭氏は難解な内容について“インテリの自惚れ”と言っているが,これはただの暴言だ。ライス氏の著書が難しい内容となっているのは,学術的な視点からより厳密に理論を展開しようとしているからであり,アカデミア出身としての自負心と責任感によるものだろう。アカデミアを腐したいあまり,不適切な言動をしてしまっている。
“ 世間知らずのインテリくずれがパソコンカタカタで俺に勝つなんて甘い。フォークリフト乗ってから出直せ。”
“世間知らずのインテリくずれ”とは,おそらくライス氏のことだろう。しかし,ライス氏は大学院を卒業した後企業勤めやフリーターをしながらブログを執筆していたため,白饅頭氏の言う世間知らずは根拠のないレッテル張りだ。インテリという言葉には明確な定義がないためはっきりとしたことは言えないが,少なくともライス氏は修士課程を卒業しているという点で学部卒の白饅頭氏よりも学術的な視点でのアドバンテージがあることは確かだろう。インテリくずれという揶揄も,適切な発言とは言い難い。
白饅頭氏はライス氏を頭でっかちで世間知らずな,大衆の苦労など知らない嫌味なインテリなのだと思い込んでいる節があるように見える。
しかし,ライス氏のブログを読めばわかることだが,彼は社会に出て様々な苦労や葛藤に出会い,しっかりと現実を見据えたうえでその経験を活かしながら発言をしている。決して白饅頭氏が言うような,苦労知らずや頭でっかちではない。
白饅頭氏はライス氏のブログや著書に関して,“つまらない”や“わかりづらい”,“売れない”と評している。たしかに,ライス氏の硬い文体は読む人によってはつまらないと感じるかもしれない。だが,社会について論じる以上は厳密かつ真剣な文のほうが望ましいというのも,一般的な考え方ではある。ライス氏の文章はライトな読者層にとってはつまらなく感じるかもしれないが,言説に対してより高い基準を求める読者にとっては大いに満足のいくものであるはずだ。
白饅頭氏はより広く読まれることを目的としだ文章を書くため,その内容を可能な限り平易なものにしている。彼からすれば,ライス氏の文章はわかりづらく自己満足的なものに見えるのかもしれないが,分かり易さを求めることで論理的な強度が低くなることも事実だ。ライス氏の文章は批判的な視点を持った読者に対しても説得力を持つように書かれているため,どうしても文章が複雑化することは避けられないだろう。それをわかりづらいの一言で済ませるのは不当な評価だと言わざるを得ない。
白饅頭氏の著書がライス氏の著書よりも売れているのは確かだが,市場での評価が必ずしも言説の正しさを格付けするものではないはずだ。先程も書いたように,白饅頭氏の本が売れているのは知名度と平易さによるものが大きく,世間で売れる本の殆どがそうだ。
白饅頭氏は読みやすさを重視するあまり,学術的な厳密性を軽視しすぎている。たしかに厳密性を求めた文章は難解で読みにくくなるが,一定レベル以上の読者はそう言って文章を求めるようになるにも確かだ。白饅頭氏の文章は新規の読者を獲得すことには適しているが,高い基準を求める読者からは不満を覚えられる内容だろう。
また,白饅頭氏はアカデミアに対して偏見を抱いているようにも見える。彼の発言を見ると,アカデミアとその出身者はアカデミア内でのコンセンサスに沿った発言しかできないと思っているようだ。
しかし実際には,アカデミアとその出身者には多様な背景と思想をもった人々がおり,時には学会での権威に背くような意見発表されているということは彼が知るべき事実だ。
これまで書いてきたことからわかるように,ライス氏が重視しているのは学術的な姿勢と厳密性だ。一方で白饅頭氏が重視しているのが人気と分かり易さだ。両者が重視しているものは両立が困難であり,それゆえに互いが敵対的な姿勢を取るようになってしまったのだろう。
くだけた表現をするなら,ライス氏は「ガチ」であり白饅頭氏は「エンタメ」だ。どんなコンテンツであっても,ガチとエンタメは対立しがちであると同時に両方が必要とされるものだ。
ここで,格闘技の興行を想像してみよう。コアな格闘技ファンを満足させるためには,当然実力のある選手同士の対戦を見せなければならない。しかし,実力があっても知名度は低いという選手が多い。知名度の低い選手では,新規のファンやライトなファンを呼び込むことができない。そこで,実力はともかく知名度のある選手の試合も組まなければならない。
実力のあるガチの選手と知名度のあるエンタメの選手,共に興行を成り立たせるために必要な存在だ。白饅頭が朝倉未来なら,デビッド・ライスはヴガール・ケラモフだ。
ライス氏のような,学術的な背景から厳密な文章を書ける作家も,白饅頭のような分かり易くて売れる文章を書ける作家も,言論の世界を成り立たせるために必要な存在のはずだ。
両者は現在のリベラルやネット世論に対して同様の疑問を呈することもあり,思想的な共通点もあるように見える。冷静な対話を重ねれば,互いの考えについて理解を示し合うことも可能なはずだ。
ライス氏と白饅頭氏はこれから日本の言論界をリードする存在になり得る作家であり,こんなところで小競り合いをして格を落とし合って欲しくない。
本当に疑問なんだけど、日本にはフランス経済の専門家とかおらんの? 探せば日本のどっかにはフランス語を原典から訳せて経済学の知識がある人が絶対いるでしょ(フランス語はメジャー言語だ、って強調してるのはそういう意味もあるよ)。
ピケティの本が世界的な話題作であるなら尚更、フランス語と経済の双方に通じた翻訳者を探してくるか、それが無理ならフランス語からの翻訳を監修する経済学者を連れてくるべきで、重訳は最後の手段だろう、というのが人文系の感覚。「アイスランド語の推理小説」ならまあ重訳でも仕方ない(良いわけではない)けど、「フランス語の経済学書」だったら、日本にはフランス語の専門家は大勢いるんだから彼らに直接訳させろ、翻訳にあたって経済学の知見が必要ならフランス経済専門の翻訳者 or 翻訳を監修してくれる経済学者を連れてこい、というのが相場じゃないかなぁ。すげえどうでもいい本ならその手間を惜しむのもわからなくはないけど、世界的な話題作ならそこの手間はかけるべきでしょ、と思うよ。だからピケティを重訳で良しとする感覚がマジで理解できんのよな……(出版社にとっての経済的メリットはわかるけど、学問的にはメリット皆無でしょ)
結局、人文系にとっては「原典にあたる」ことがまず基本であって、翻訳は原典ではないわけよ。研究をするにあたって翻訳で済ませてよいのは、
場合に限られるんじゃないかしら。あとはよっぽど研究環境の貧弱な地方大学に所属してて碌な研究費ももらえず図書館も充実していないので原典を入手することができず、なおかつ信頼に値する翻訳があるなら、まあ翻訳で済ませるのも仕方ないかもしれないけれど、山形浩生はそんなに貧窮してるの? って話になるので。
(理論もすべて原典で読むべきか、はまあ微妙なところ。たとえばフーコーの思想を研究するのならフランス語原典を読むのは必須だけど、フーコーの「生-権力」概念をドイツ史研究に応用してみました! みたいな場合は、うーん、まあ研究の基礎となる資料をちゃんとドイツ語で読んでるなら理論は日本語訳でもいいかなぁ、という感じ。もちろん理想を言えばフランス語読むべきなんだけどね、それ言ってるとキリがないからね)
なお、元の話題に出てる北村紗衣は、「原典を読める文学作品については研究し、そうでない作品(ロシア文学とか?)については評論する」というスタンスであることをどっかで公言していたはず。研究はあくまで原典に依拠して行うもの、原典を読んでいないのは研究とはいえない、というのは、人文系研究者としては当然のスタンスだと思う。なんだろう、増田は経済学のこととかよくわからんけど、英語からの重訳を出されるのは、数学や統計学を踏まえずになされた経済学研究を出されるようなもんなのよ。基本のキができてないですね、問題外、って感じ。
修士課程は自分でやった初めてのテーマで論文化のときに指導教員にすごく助力いただく形でしたが、その時に書いた極めてしょうもない論文数本にすら業績評価で負ける教員がいるっていうことです。英語論文が生涯数本しかない教員とか。研究費云々はパソコンと部屋を借りてたくらいですが、指導教員には色々と大変お世話になりました。ご存知ないかもしれませんがちゃんと論文にすれば研究費の報告に載って貢献したことになるし、独立した研究者間でも研究費の分担や協力、テーマの分配みたいなことは普通にやります。
他にも粗探ししてきそうだから先に書いておきますけど普通に今は私も独立してやっているし、女性がこういう粗探し視点でゴチャゴチャ言われている場面もよく見るのでいつも複雑な気持ちになります。私も下駄履かせてもらって生きてきたし、あなたが一人で生きてきたわけではないように結局どの段階で下駄を履くかだけの違い。
結婚したときに私もキャリアプランを色々考えましたけど、自分を含めてやっぱり男性は下駄履いてるなぁって思うことは多いですね。
無理矢理でも女性増やせば全体の界隈人数が増えるから優秀な人がよりたくさん出てくることを期待してます。そもそも日本の特に理工系、女性少なすぎなんですよね。海外の学会とかいったら若手の女性研究者がたくさんいてビックリします。私の専門分野だと国内の同年代女性は両手で数えられるほどだし、全員すごく優秀で、めちゃくちゃ優秀な人しかわざわざ残らないんだろうなと思います。男性は結構均等に分布してて頂点もいるけど底辺も結構いる。あなたなぜ大学教員になれたの?みたいな能力の人が結構たくさん、それも年配世代に多い。
とはいいつつも私の分野でも女性限定公募が猛威を振るってはいて私も影響を受けていて、綺麗事ばっかりも言ってられないなという気はしています。ただ前述の通りそもそも界隈に人がいないから女性限定公募かけて血眼で女性を採用しようとしてもそもそも誰も応募してこなかったり… あとまぁやっぱり上の世代の後始末は上の世代の身も切って欲しいっていうのはありますよね。ただでさえ任期ついてて必死で年に何本もトップジャーナルに載せてるのに私の修士課程の時以下の業績のオッサンが教授まで上り詰めてたり任期なし助教ポストを何十年も占めているのを見ると怒りは湧いてくるし、なんか不平等だなぁと思うんだけど、それって女性どうこうじゃなくて上のオッサンたちの問題が女性に転嫁されてるだけなんじゃないかとか思ったり。
https://www.titech.ac.jp/news/2022/065237
東工大が女子枠を導入することについて外部の人間がごちゃごちゃ言っているみたいだけど内部の人間としては大賛成。
A.前提として東工大の学部生は基本的に9割が大学院へと進学する。なので大学院の修士課程卒業時の質で考えることとする。
東工大は国内でも優秀な大学だと考えられているが、所詮成人したばかりの子供なので、他の大学と同様に入学後に遊び惚けて惰性で大学院に進学する学生が内部生の約3割程度いる。
つまり、学部一年の頃から飛びぬけた天才と真面目な秀才以外は、東工大生も他の大学生もその間にほとんど差はないということである。
さらに、大学院の修士課程では外部の大学から向上心が高く優秀な学生が大学院入試のハードルを越えて院進してくる(概ね内部生の3割程度と同数)。
つまり、仮に大学受験が苦手な天才や真面目な秀才がギリギリ落ちた枠の中にいても、そういった学生は他の大学で頭角を現した後に東大や東工大に入ってくる。
したがって学部入試においてギリギリで合格するか否か、の範囲に収まる学生を1割程度落としたところで東工大の質が落ちる可能性は少ないだろうという実感がある。
博士課程の人間としては、多様な背景を持つ学生や教職員と議論できる環境を用意する方が大学の質を高めるだろうという東工大の姿勢を応援する。
ついでに言えば、鶏口牛後と同じく、学部入試でギリギリ程度ならよその大学の上位を保って卒業したほうがよほど幸せな人生を送れるだろうと思う。
・男女差別は良くないだろ。
A.差別のデメリットより公平性を保つことの社会的・学術的メリットのほうが大きいと考える。
現状、女性研究者が少ないことは将来的な研究領域の開拓を妨げる大きな障壁となりえる。
上でも述べたが多様な背景を持つ研究者の数が少ないほど議論は頭打ちとなり発展が見込めない。
・それよりも大学の女性に対する環境を整えろ。そうしたら女子の進学率が増える。
A.整えるためには内部の女性を増やす必要があると考える。外部の人間にアンケートなどを取っても活かしようがない。
研究室運営に関わる立場から見ても、男しかいない研究室において女性へ配慮した環境作りを行うことはまず不可能であると感じる。
・女も所詮枠を用意してもらわないと合格できないって思われる。
A.東工大を卒業した場合、学部入試でお膳立てされたかどうかが本人の評価に関わることは一切ない。
その場合、そもそも外部からの進学者はみんな学部入試で東工大に落ちた人間じゃんと思われることになるが、もちろんそんなことはない。
基本的に本人の評価は大学院でどれだけ深くまで研究を行ったかどうか、になる。
研究室での活動を真面目にこなさなかった学生は専門的な知識に欠け、試行錯誤の経験や忍耐力を持たず、建設的な議論ができない。
この相手の研究能力は基本的に理系の修士以上と少し話せばすぐばれる。
このような意見は間違いなく理系修士卒以外の人間が発していると感じる。
また、東工大の学部入試を通過することを目的に東工大に入る学生は東工大に合わないように思う。
仮に入っても当然周りは東工大生ばかりで自慢できることでもないので。
・女子枠入試の面接で「女性活躍社会に貢献するために」とか書いてあるけど東工大に入りたい理由は理学や工学を学びたいからであってズレている。
A.理学や工学を学びたいだけなら他の大学に行くか、独学で勉強すればいい。
多くの大学のアドミッションポリシーを見てもわかるように、近年の大学は理学や工学を学びたいだけの人間を求めていない。
求める人材は次代の科学技術・イノベーションを担い、日本の未来社会に貢献する意欲のある人間である。
以下追記
男側から不満が出てくるのは「女だけを優遇する」からだと思う。
工業系の大学の女子枠を作るのであれば、女性の割合が高い看護学校や短期大学、医療系の学校に「男子枠」を作って初めて男女平等になる
A.今回の施策は男女平等の実現ではなく男女の公平性を調整するためのものであると考えられる。
東工大のニュースではDiversity&Inclusion(D&I)という言葉が用いられているが、グローバル社会ではDiversity、Equity、Inclusion(多様性、公平性、包摂性)のDEIがキーワードになっている。
男女平等は理想の社会として目指すべきであるが、男女の性差を超える技術革新が生まれるまでその実現は不可能であり、現状では男女の公平性を調整することが現実的な施策となる、と理解している。
A.メーカー企業では一般的に技術系総合職という枠組みで採用が進む。
簡単に言えば理系と文系が同じ採用枠内で比較されることはない。
まあ、そもそもこういうアファーマティブアクション思想自体がマクロ視点で望ましい社会(この場合、男女平等な社会)を実現するためなら罪のない特定の個人(女子生徒優遇がなければ受験に受かったハズだった男子生徒)に不利益を負わせても良い
A. 事前に公表している時点で女子生徒優遇がなければ受かったハズだった男子生徒など存在せず、不利益が生じた個人もいない。
仮に存在するとしたら、これまで女子大学に入学できなかった全男子学生は不利益を被っていると考えるのか?
またAO入試や留学生枠も存在するが、彼らの枠を増やすことも他の学生に不利益を生じさせているのか?
大学が受け入れると決める人材の種類や割合を大学側が決めていいのは当然の権利であろう。
大学が決めたルールと考え方に賛同できないならば大学側も必要としない、というだけだと考える。
下手に博士号を取ってもその先の進路が悲惨ということが、すっかりバレてしまい、男女共に総スカン。本当に一流の科学したい奴は渡米している。科学はアジアの大学には不利すぎる業界。
A. 専攻による、としか言えない。
物質理工学院の博士課程学生に限ってはその8割から9割がアカデミアや大手企業に就職できている。
また博士課程への経済的な支援も他の大学よりも充実していることが多い。
以下は東工大とは関係ない話題ですがコメントが多かったので増田個人の意見を述べます。
医学部や医者の世界に詳しくないので男女のどちらを増やすべきかについては言及しませんが。
賛成です。特に保育士や看護師については男性の数を増やすべきだと思います。
男性保育士や看護師のモデルケースが少ない現状、進路を選ぶ際の情報が少ないことは男女の公平性に欠けると考えています。
女子大学の存在が許されるなら男子大学も許されるべきだと思いますよ。
多様性を確保した方が研究の発展に資する、という立場なので設立の合理性には疑問ですが。
自分は、そのへんの私大(文系)の修士課程の1年生なんだけど、4月から、指導教員から「これはアカハラだろ」ってことを散々受けてる。
他の先生に相談しても、ほぼ全員役立たずで、「○○先生(指導教員)とよく話し合いなさい」とか、「○○先生はそういう人だから・・・」「あなたの受け取り方が悪いんだよ」と言うだけ。アカハラしてくる奴と何を話し合えば良いんだよ・・・そいつと一対一で話すのが怖くて、呼び出されるたびにビクビクしてるような自分が、まともに話し合えるわけがない。
アカハラの相談をしたせいか、指導教員による根回しのせいか、今の自分は研究科の先生のほぼ全員から無視されている。(同期と先輩は、全然問題なし)
自分は博士課程に進学して研究を続けたいと思っていて、他大学の大学院を受験しようと考えているのだけど、日本の最高学府ですらアカハラはあるみたいだ。Twitterとか見てると、アカハラ隠蔽とかも多いみたいだし。外部生が、学内の実態を把握するのは難しいから、受験するのも躊躇する(受かるか受からないかは別の問題として)。
どんなに対策委員会を置いたって、「アカハラをするのも、その先生の個性だから」で、片付けられてしまう。今やアカハラの手口も巧妙になってきていて、直接的な発言は行わないから、証拠を集めても警察に被害届を出すのも難しい。
アカハラをしない指導教員はどこにいるの?どうしたら巡り会えるのか??
自分には、指導教員と真正面から向き合って問題を解決しようとしていたところや、アカデミアの世界は、(上の者に取り入ろうとする能力よりも)研究実績こそが重視されていると信じていたところがあって、だからこそ、余計にアカハラに苦しんでいたのだと気づけました。心が少し軽くなりました。