はてなキーワード: 平成3年とは
「荒(あら)らげる」と「荒(あら)げる」どちらがよい
「声を荒立てる」「度をこして激しい声で言う」ことをさすことばとしては、「声をあららげる」が伝統的な言い方です。
しかし、声に出して言う場合、「あららげる」より「あらげる」のほうが言いやすいことや、「荒らげる」と書いてあるのを「あらげる」と読むという思い違いもあってか、今では「声をあらげる」と言う人のほうが多くなっています。
NHKが平成3年(1991年)に行った全国調査でも、「あららげる」と言うと答えた人が19%にとどまったのに対して、「あらげる」と言うと答えた人が77%にものぼりました。
このため、放送でも (1)「あららげる」[アララケ°ル]とあわせて (2)「あらげる」[アラケ°ル]を使うことも認めるようにしました。
本当のオールタイムは選べなかったため平成に絞って俺もやる。テレビドラマは消えものでアーカイブされにくいジャンルで、時代をここ35年に絞ってみても網羅できないという問題はある。そのため、俺の観ていない重要作の話をどんどんしてほしい。1脚本家1作品に絞った。俺はテレビドラマは脚本家のものだと思っている。
トレンディドラマの代表作の1つにして、トレンディドラマの終末期の傑作。フジ「月9」枠の代表作でもある。「東京では誰もがラブストーリーの主人公になる」をキャッチコピーに掲げ、等身大の若者たちの姿を描き出した。2010年以降の坂元裕二の影響なども考えランクイン。
こちらもトレンディドラマの終末期の傑作であり、お世辞にも男前とは言えない武田鉄矢の叫びは、"トレンディ"の終わりを印象付けた。TBS『高校教師』でも、好きな野島作品に入れ替えてもらって構わない。90年代には確かに野島伸司の時代があった。
田村正和亡き今も、再放送され、パロディされ、やたら話題になる三谷幸喜のコメディ。ホームドラマや恋愛ドラマなど、会話による人間関係の機微などを守備範囲にしていたテレビドラマが、ストーリーのダイナミズムによる面白さにシフトしていったのは、アメリカのコメディから影響を受けた三谷幸喜の功績がある。個人的には『王様のレストラン』のほうが好み。
他のタイトルに合わせて脚本家をクレジットしたが、今作を選出したのは何といっても堤幸彦の出世作ということにすぎる。『ケイゾク』『池袋ウエストゲートパーク』につながる斬新な演出は一時代を築いた。「土曜グランド劇場」に旧ジャニーズの若手が主演していくのもこの頃からで、後の『透明人間』『ごくせん』『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』などにつながっていく。
「テレビドラマ」というフォーマットを映画館に拡張した功罪ある作品。テレビドラマのメディアミックスの先駆けといえ、映画館はこれ以降テレビ局製作の作品であふれることとなった。『踊る大捜査線 THE MOVIE』は未だに実写の日本映画の歴代興行収入1位に燦然と輝いている。今秋新作が公開された。
21世紀最初の朝ドラ。シリーズ化され、現在も再放送されている。『ちゅらさん』が描いた疑似家族によるホームドラマはその後も『すいか』『11人もいる!』『逃げ恥』『カルテット』と平成ドラマの1つのパターンとなった。岡田惠和の功績は膨大な作品数の作品を書いていることで、彼がいなければこの時代のテレビドラマシーンは空洞化していたかもしれない。
クドカンは物語自体の面白さに注目されがちだが、彼の功績は、若者たちがダラダラ話すという「日常ドラマ」を描いて見せたことにある。彼の脚本は、小ネタやギャグがストーリーに連結してゆく。木更津という周縁の田舎の共同体の風景がドラマになるということは革命的出来事だった。大きな物語を失った後のゼロ年代的転換。
遊川が成し得た功績は『女王の教室』の真夜(天海祐希)のような強い、誇張されたキャラクターによるドラマを成立させたこと。それは後の『家政婦のミタ』の大ヒットにもつながった。彼の過剰な演出は賛否が分かれるが、常に時代と向きあい続けるための一つの方法論なのかもしれない。
2000年代後半に停滞していた朝ドラの復権は間違いなくこのドラマからで、この作品がなければ『あまちゃん』ブームもその後の『ごちそうさん』や『あさが来た』『ひよっこ』などの良作、令和の『カムカムエブリバディ』のヒットも存在していなかったと過言しておきたい。そういう意味でハッシュタグなどでのTwitterなどの賑わいにも一役買っている。朝ドラの復権は同時にその後のNHKドラマの復権を意味していた。
TBSドラマの復権ということでいうと後述の『JIN-仁-』を挙げてもよいのだが、その後池井戸潤ドラマの隆盛という意味でも半沢直樹を。いうまでもなく『VIVANT』へと繋がる日曜劇場の系譜である。主演の堺雅人は『リーガル・ハイ』や『真田丸』という傑作でも存在感を示した。
本当は問答無用に最重要作として今作を挙げたかったのだけど、視聴率や知名度を考えて日和ってしまった。今作は『ちゅらさん』で描かれた疑似家族によるドラマ、『木更津キャッツアイ』で書かれた日常のやり取りのドラマを深化させた。そこに大島弓子的ファンタジーをブレンドさせ、ドラマが物語る対象を変えてしまった傑作。
90年代と10年代の坂元裕二を別人とするなら10選にねじ込んでしまいたい。10年代の坂元裕二作品は、テレビドラマが扱えるダイアローグのレベルを一段上へと引き上げた。10話における瑛太と風間俊介の会話は他に代わるもののない名シーンだと思う。現在のドラマシーンは、坂元裕二のフォロワーで溢れている。
これだけトレンディドラマの話をしているのに、鎌田敏夫の名を漏らしてしまい、それは平成以前になってしまうので、それ以降から一作挙げるなら『29歳のクリスマス』を強く推したい。元祖『9ボーダー』。取り巻く環境は変わっても、年齢を巡る憂いは不変のものなんだと。
坂元裕二と並び、この時代の天才をもう1人挙げるなら、野沢尚を挙げてしまおう。野沢の深いキャラクター造形はその後の作品に影響を与えた。彼が存在し続けたら、この選も変わっていただろう。またキムタクドラマも1本を挙げていないというのも偏っている。それだけこの時代の彼の存在は異常だったのだ。挙げるならこの作品を挙げたい。
あるいは今作か。トレンディドラマと2000年代の間には間違いなく北川悦吏子の時代があった。北川悦吏子は近作が色々言われることもあるが、それは(例えばミスチルがそうであるように)強烈に時代と寝た人物にだけ得られる特権だ。そのため、俺は何があっても今後北川悦吏子を擁護し続けていきたいと思う。
この10選からは確実に存在していた深夜ドラマの文脈がごっそりと抜け落ちている。『孤独のグルメ』や『おっさんずラブ』に繋がっていくような深夜ドラマの系譜。『時効警察』はシティーボーイズの放送作家三木聡の最高傑作である。近年では主演だったオダギリジョーが謎の力でそのパロディをNHKドラマ⇒映画化までさせているが、盛大にスベっている。
一部では「朝ドラ史上最高傑作」の呼び声もある今作。戦争もの・女の一代記としての朝ドラ。岸和田の街に生まれ、生きて、老いて、死んでいく強いヒロイン。渡辺あやは強烈な作家性を朝ドラにおいて発揮させ、それはこれ以降の朝ドラの指針が転換される契機にもなったのかもしれない。(だからこそ『純と愛』などが生まれてしまったとも言える)
坂元裕二、岡田惠和、宮藤官九郎、遊川和彦、木皿泉、渡辺あやらの作品を挙げておいて、森下佳子の名前を出さないわけにはいかない。構成力という点で彼女の右に出る者はいないのではないだろうか。森下佳子の手にかかれば、物語における伏線は人生の因果に映り、プロットは運命へと変貌する。TBSドラマの復権のきっかけとしても、今作を挙げておきたい。
野木亜紀子を10選から漏らしてしまったのは痛恨の極みであるが、令和の選が今後もし出来るなら1番に入る人であるのでご容赦いただきたい。社会的テーマをポップにテレビドラマの次元で取り扱い、ヒットさせてしまったのは見事。野木亜紀子はもともと原作ものの実写化の手腕に定評があったが、『アンナチュラル』『MIU』とオリジナル作品もヒットさせている。
はてな界隈では大学進学、東京で正社員就職、が人生の既定路線として語られています。
しかし現実には大学進学率は60%、東京の昼間人口は日本全人口の13%に過ぎません。
社会の底辺を占める人々をはてな民が認識していないのは社会の階層化が進んだ結果でしょうか。
底辺層も日々普通に暮らし、納税し、選挙では一票を持っています。人生の夢や目標があります。家族がいて子供を育てています。
と、大上段で書きましたが、本音は奨学金をめぐる小泉進次郎氏や河野太郎氏の発言を聞いて底辺層が理解されていない現状・軽んじられている現状に苛立ち、一旦吐き出したい気持ちで書いておきます。
他の党首候補の皆さんも同じですが、奨学金を借りる層を最底辺と思われている節がありますが、その下には借りることを諦める層もいるという話です。
先祖は父方母方共に学がありません。
明治から大正にかけては博打打ち、物乞い、自転車修理などをしており、ホームレスもいたそうです。
昭和に入ると建設作業員、工場労働、トラックドライバーといった職業に就いていました。
戦災や仕事のために西日本を転々とする中で、1991年(平成3年)に中国地方の片田舎でわたしが生まれました。
通っていた公立小学校は治安が悪く、男子生徒が徒党を組んで女性教諭に暴行を働いていました。いじめも多く、暴行や、習字の墨を顔にかける、アルコールランプで服を燃やすといった事件が頻発しており、小3から小6は学級崩壊状態でした。
わたしはイジメが怖いのでなるべく不良に関わらないように逃げ回っていました。昼休みは校舎の裏の木陰に隠れていました。
小6の算数は教科書が半分くらいしか終わりませんでした。この傾向は中学まで続きました。
地域には公営団地が多く所得の低い世帯が多かったため、半袖半ズボンがトレードマークとなっている生徒はわたしの他にも数名いました。
学級崩壊が継続していました。不登校が学年の一割ほどにのぼっていました。
中2の頃に母が体を壊して働けなくなり、経済状況が一気に悪化しました。
1日3食食べられなくなったので、給食のパンを持ち帰り夕食にしていました。土日やパンがない日は近所のミスタードーナツのゴミ箱から廃棄のドーナツを拾って食べていました。
栄養不足のためか、朝礼や体育の授業で倒れることが頻繁でした。
父が電気部品組み立ての内職を持って帰ってくるので、毎晩手伝っていました。ノルマは1日500個で、2時間ほどかけて作ります。家電メーカーに納入されていたとのことなので、皆さんのご自宅のエアコン、冷蔵庫などにわたしが組み立てた部品が入っていたかもしれません。
同級生のあいだではワンピースやハンターハンターといった少年漫画、マリオカートやポケットモンスターといったテレビゲームが人気でしたが、わたしは33歳の現在に至るまで一度も触れたことがありません。
給食がなくなったためミスタードーナツのゴミ箱あさりが毎日のルーティンになりました。なぜミスタードーナツなのかというと、家が近いことと、完成状態で捨てられていたためすぐに食べられたからです。たまに廃棄を入手できなかった日は別の飲食店をあたるか夕食抜きです。
「大学」という施設があることを高校1年生のときに知りました。当時知っていた大学は東京大学、慶應大学の2校です。なぜ慶應かというと当時「学校へ行こう!」というテレビ番組でco-慶應という学生ラッパーが活躍していたためです。
わたし自身が大学に行くかは分かりませんでしたが、文系・理系の選択で文系コースを選びました。
高校2年に上がると学校で全国模試を受けることになりました。毎回全国で2500番〜3000番くらいにランクインし、成績優秀者の冊子に名前が載りました。
模試を受ける際には志望校を記載することになっています。そのときに初めて知ったのですが、大学というものは全国各地に数百校あるらしいと分かってきました。
担任の先生は大学進学を熱心に勧めてくれました。「もしかしたら東京大学や京都大学にさえ進めるかもしれない」…と。大学進学すべきかわたしは迷いました。
担任や、数学の先生、英語の先生が私を放課後に呼び出して、食べ物や飲み物をくれながら、大学進学するように勧めてくれました。
しかしわたしは大学進学しないことに決めました。理由は一点です。
ましてや、実はわたしは既に借金を背負っていました。貧乏で公立高校の学費を支払えないことから、親が銀行から毎月1万円借りており、計36万円を私が将来返済することになっていました。
加えて、担任が試算してくれたプランでは学費(減免の可能性あり)、実家を離れて暮らす生活費が合計毎月10万円ちかくにのぼり、本当にわたしが想像できない金額でした。
学費は減免の可能性がある、最低でも半額は狙えるだろうとか、大学進学により生涯所得がうんと大きくなるといったことを教えてくれました。しかし中学生の頃からミスタードーナツのゴミ箱をあさったり電気部品の内職をしているわたしにとっては現実感のない話です。
想像できないほどの金額を返済できるのか。大学進学したとして就職でつまづいたらどうなるのか。この展望を全く持てないために大学進学しないと決めたのでした。
大学進学しないことを決めると、担任の先生が表計算ソフトの教本を無料で与えてくれました。放課後に情報室のパソコンで練習しました。
高卒の就職活動はなぜか一社しか志望できないというルールが当時あり(現在も「一人一社制」という名前でルールが残っているようです)、わたしは地元の和菓子屋に接客・兼・事務として就職しました。1学年440名中就職は2名で、他438名は大学等への進学という比率の高さに驚いたことを覚えています。
その後父母が鬼籍に入ると、わたしは実家を離れていくつもの会社を転々としています。今では全く別の職業で生活しています。
身軽になった今、あのとき大学進学していれば違う人生があったのだろうかと想像することがあります。
わたしに借金を背負う覚悟がなかったといえばそれまでですが、やはり当時のわたしには覚悟は不可能だったと思います。未成年ができる決断ではない。
河野太郎氏は大学教育費を親負担ではなく本人負担に変えよと述べましたが、貧しい世帯は既に生活費も含めて全額本人負担です。むしろ本人が負担しきれないことが問題なのです。
小泉進次郎氏は必ずしも大学進学の必要はなく手に職を付けよと述べました。しかし転職の多いわたしが言うことでないかもしれませんが、手に職系の仕事も簡単ではありません。
大抵のひとは5年〜10年も同じ仕事を続ければ成長が止まります。しかも年齢を重ねると体に無理が出てきます。かといって独立して料理人が自分の店を経営するとか、建設作業員がひとり親方として営業していくには「手に職」と別種のスキルが必要となり、現場の人間のうちそれができる者は一握りです。
残された道は若手・外国人材・機械化との低賃金チキンレースです。
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まず、感情に流されてババアなどという言い方をしたことについて反省します。御不快に感じられたのなら申し訳ありませんでした。
御質問の件についてです。
少なくとも、労災保険給付の範囲内で、基本的に事業主が損害賠償することはできません。
損害を被ったのは死亡した労働者であり、その遺族ということになります。つまり、保険給付請求をできる人です。順番からいうと逆で、保険給付を受けるということは損害を被ったからということになりますが。
そして、保険者である労災保険(を運営する国)はその賠償請求できる権利を請求人(被災労働者や遺族)から代わって(代位)取得します。
そういうわけで、今回のケースでは死亡なさった警備員の方の遺族給付に対してダンプのドライバーに対して、その過失割合に応じて損害賠償をすることになります。
一方で、本件災害は建設現場での事故ということになるのですが、建設業の場合は元請の事業主が下請の分も含めて保険料を納付することになっていますが、警備会社と元請負事業主の間で請負契約であるということはほぼ考えられませんので、今回の事故では保険給付は警備会社の労災保険からということになります。
労災保険にはメリット制度というものがあり、ものすごく雑にいうと、労働災害が少ない事業場に、その保険料を少なくするメリットを与えるという制度です。逆にいうと、保険事故があると保険料率は逆に上がる、つまり数年後に労災保険料が上がる可能性が高くなります。
いままでで、この労災保険料が上がったことに対しての事業主からの異議については、確か昭和60年に提起された京都府のタクシー会社が、本来もう保険給付が必要ではない状態にもかかわらず漫然と給付を続けたために労災保険料が上がったことへの提訴があり、平成3年ぐらいに国側敗訴の判決となっています。
また、最近、たしか令和3年か4年の判決ですが、本来給付されるべきではない精神疾患の労災が認定されることによって保険料が上がったことについても国側敗訴があったように記憶しています。
最近、中東イスラム研究者の池内恵氏が博士号を持っていないことが、X上で話題になっていた。やたらに博士号を持っている側を持ち上げたり、あるいは逆に博士号は重要ではない、実績を見よ、と反論していたりするのが目に付く。
だが、博士号に関しては議論の前提が違う。かつて、そもそも日本の人文系の博士号はレジェンド級に希少であり、真っ当な研究者でも取得できないのが普通だったのだから。90年代以前の人文系の研究者の大部分は、博士課程で博士号を取得することはできないと認識していただろう。
その様相が変わって学位取得が適正化されたのは、池内氏が学部生、院生として過ごした90年代から2000年代にかけてのことだ。池内氏はその変化の恩恵?を授かれなかった狭間の最後の世代なのだと思う。
その点に触れている投稿がなかったので、メモしておこうと思う。
人文系の博士号の取得について認識の齟齬が生じる原因は大きく二つだ。
現在では人文系の博士号の運用は理系の運用に近づいた。だが世代や文理の違いによって事実が見えなくなっている人が多いのだと思う。
90年代中盤当時、大学院について調べていると謎の単語「単位取得退学」に出会った。博士課程に進学し修了したとして、しかし残念ながら学位もらえず、ということはある。ここまでは当然だろう。不思議だったのは、単位取得退学という言葉がまるで学位のような扱いだったことだ。プロフィール欄に堂々と書くようなものか?と思った。
調べるとどうやら人文系で博士号を取得するのは非常にマレだということだった。それゆえに単位取得退学が学位のように通用していたということである。
ざっくりと状況を把握するには、下の 3.4.2日本の博士号取得者 (1)日本の分野別博士号取得者 あたりを見てほしい。
[科学技術指標2021・html版 | 科学技術・学術政策研究所 ](https://www.nistep.go.jp/sti_indicator/2021/RM311_34.html)
実態としての運用はどうだったか。その雰囲気はこの辺のWikipediaの記事に詳しい。
[単位取得満期退学](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E4%BD%8D%E5%8F%96%E5%BE%97%E6%BA%80%E6%9C%9F%E9%80%80%E5%AD%A6#%E4%BA%BA%E6%96%87%E3%83%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%B3%BB%E3%81%AE%E7%89%B9%E8%89%B2)
「1989年以前の東京大学大学院人文科学研究科では、大学院生にとって課程博士論文は書かないことが原則で書くことは例外であったという」
少なくとも90年代以前では、人文系の研究者がキャリアの初期に博士号は困難であったというより、ほぼ不可能だったみて構わない。かつて人文系の博士号はキャリアの晩年に差し掛かってそれまでの功績を評価してもらうもの。今のように博士課程を修了した時点でキャリアの出発点となるような資格のようなものではなかったのだ。
この状況は1990年代に入ると徐々に変化する。
[23.博士学位授与数の推移と授与率:文部科学省](https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1407428.htm)によると、博士授与率は、
平成3年度(1991年度)に人文系4.7%、工学系78.1%だったものが、平成13年度(2001)年度では、人文系で23%、工学系では88.6%と変化する。まだ差はあるものの確実に変化している。
いずれにせよ、2000年前後は、「博士課程を修了して真っ当な評価を得れば博士号を取得できる」という普通の状況に至るまでの長い変化の途中の時期だった。
博士号を取得する人の数は増え続けている。ただご存知の通り、その活躍先が十分あるとは言えない状況だ。
このことで企業側の受け入れ姿勢を批判する向きもあると思うが、それは間違っていると思う。かつての日本の博士号(人文系)の授与が異常だったのであり、企業はそれに適応しただけだろう。変な運用を続けていた大学に責任がある。企業の変化にはまだ時間がかかるだろう。
現在、特に人文系に関して博士号は多く取得されるようになったが、だからと言って価値が軽くなったという話ではない。
ただ時代が違ってしまうと、まるで別のものになっていることは押さえておきたい。別の分野の研究ともなると尚更比較するのは困難だ。
私自身は結局アカデミアとは無縁のキャリアになったので、個別の研究室の中のことを知る由もないが、おそらく池内氏が博士課程に在籍していた2000年前後は博士号の扱いの転換期だったはずだ。その当時は学位を取得することは不可能ではなかったが当然でもなかった時代だと言える。
まして、仄聞するに、池内氏は学会の因習、悪弊に対して相当の武闘派であったようだから、そう簡単に学位を取得できる状況だったとは思えない(これは憶測だが)。
池内氏の中東、イスラムの分野の研究における業績は既に輝かしいし、一般向けの著書や寄稿も数多い。加えて組織の設立・運営、後進の育成など、並みの胆力ではこれだけのことはできない。
現在、この世界情勢のもとで池内氏の解説や発言は、信頼のおける言説としてますます重要になっていると思う。
当人にとっては博士号の話など大きなお世話で、拘泥もしていないと思う。
ただ、一般の人が博士の扱いの変遷について知らず、この話題によって氏への信頼に一点でも曇りを生じそうな人がいるなら、それは違うとは伝えておきたい。
自分は平成3年生まれで今年31なんだけど、小学生の頃2chのレスバ見て
「うわなんかやべえ。こういう世界もあるんだな。」
って思ってたようなノリがどんどんどんどん拡張していってることにビビってる。
挙句の果てにひろゆきが日本でトップクラスに影響力のある言論人になり例のツイートが26万いいねである。
例のツイートが正しいか正しくないかという話ではなく、あのまさに「レスバ」な内容がこんなに関心を集めていることにビビってる。
基地反対活動側の抱える問題への指摘(これ自体に関しては否定しない)をするにしても、まさか「座り込みの定義に合ってるか合ってないか」的な、そういうレイヤーの議題が1番盛り上がる世界が来るとは思わなかった。
このノリで指摘しあう闘いの不毛さと、全員が消耗だけして何も生まれない感じを学んだつもりだし、みんなもそうだと思ってたんだけど
俺が間違っていただけで、この世界こそ進むべき道なんだろうか。
中野ブロードウェイが開業した1966年(昭和41年)の日本は、輸出主導型の経済成長によって、第二次高度成長を迎えていました。それにともない、日本人の生活も急速にアメリカナイズされていきます。中野ブロードウェイは、その波に乗り誕生した先駆的な商業住宅複合ビルのひとつです。
その後、栄枯盛衰を経て、現在のように「サブカルの聖地」として名を知らしめるようになったのは、1991年(平成3年)のバブル崩壊後になります。そして、その道を切り開いたのは、1980年(昭和55年)に、わずか2坪のスペースで営業を始めた漫画専門古書店『まんだらけ』です。旧来型商店経営の衰退とともに、 様々なジャンルのコアなマニアの経営者が『まんだらけ』に呼応するように集まってきました。
今の中野ブロードウェイの礎を築いたのは、『まんだらけ』なんでしょ。
まんだらけのおかげで、中野ブロードウェイにサブカルの担い手が集まってきた経緯も忘れて、
SNSの力で懲らしめてやろうとするから、おかしなことになっとる。
あの有名声優も何も分かっちゃいない。
文化人類学者たちの報告によれば、現代においても、アマゾンとまではいかなくても、女性上位の社会はいくつか存在するようである。しかし、地球上の大部分の社会では、我々の社会のように、男性上位になっている。これに不満をいだく一部の女性たちが、最近、ウーマン・リブとやらいう運動をはじめて話題を呼んでいる。ウーマン・リブとはウーマン・リベレイション、つまり女性解放のことである。
だいたい女は男にくらべて脳細胞の数が少ないせいか(日本人の場合、脳の重さの平均値・男1372.9グラム、女1242.8グラム)浅はかさと愚かしさをもってその身上とし、それがまた魅力ともなっているのだが、浅はかさもここまでくれば、いささか許しがたい。
女性解放運動というのは、昔から禁酒運動と同じくらいポピュラーで、同じくらい成功率が低いものである。理由は簡単。禁酒を望む酒飲みと同じくらいの比率でしか、解放されたいと願う女性がいないからだ。
ウーマン・リブの指導者にはくやしいことだろうが、大多数の男が男らしくありたいと望むように、大多数の女は女らしくありたいと望んでいる。
ある日、男らしくない男たちが大同団結して、男らしさが、侵略と反革命を支える。男らしさの返上。男らしさの基準で男の優劣をきめる社会に怒りをたたきっける」とわめいてデモりだしたとしたらどうだろうか。あるいは、突然豚に知恵がついて、豚らしさの返上。豚らしさの基準で豚の優劣を決める社会に怒りをたたきつける」と、ブーブーいいだしたらどうだろうか。
女性に特有の思考様式は、現実を無視して議論を展開することである。
現実の第一。原始、古代社会においては、母権社会、アマゾン社会がかなり存在したにもかかわらず、いまは見る影もないということ。これが意味するものは、女性上位社会は、人間社会史において自然淘汰された不適応社会であるということ。社会の不適応性は、その社会体制維持のために、どれだけのエネルギーを必要とするかにかかっている。
歴史上、女性は抱く女から抱かれる女へなることによって自己解放をなしとげ、現に解放された存在なのである。ウーマン・リブが志向しているものは、一種の先祖帰りでしかない。それはフランスの王統派と同じくらいアナクロである。
ウーマン・リブの幻想をかたちづくっている現実無視の第二は、女性が生理的にも心理的にも、抱くよりは抱かれることに適しているのだということに目をつぶっていることにある。人間の生殖器官の構造と機能を一べつしただけで、生理的に、男性は能動的、女性は受動的にできていることがわかろう。
心理的には、女性心理学の第一人者、ヘレーネ・ドイチェが指摘するように、女性の特性はナルシシズムと受動性の二語につきている。しかし、不幸なことには、ごく一部の女性は、正常な女性心理の発達を阻害されて、抱かれることより、抱くことを望むようになる。
マリー・ボナパルトは、正常な女性は膣型であるのに対し、この種の精神的不具の女性は陰核型であるという。陰核は発生学的にいって未発達のペニスである。彼女たちは、膣という素晴しい道具を持っていることを知らずに、陰核がペニスなみでないという点に欲求不満を持ちつづける。その結果は、真のオルガスムスをついに味わえないという結果になる。
ウーマン・リブは、一夫一婦制を、女の性欲求の封じ込めと非難するが、これは彼女たちが精神的不具者であることを公表しているようなものだ。正常な女性の性心理からは、女性が自ら一夫一婦を望むものであることは、あらゆる心理学上のデータが証明している。
多淫な女、複数の男性を望む女は例外なく冷感症、不感症なのである。オルガスムス不全がニンフォマニアとウーマン・リブを生むといっても過言ではない。女性が真に解放されたいと望むなら、早くオルガスムスを味わわせてくれる男を見つけることだ。そしてそのとき、オルガスムスを味わうためには、女は抱くことより、抱かれることが必要なのだということを忘れないことだ。
●知の巨人・立花隆先生による井田真木子著「プロレス少女伝説」評
「プロレス少女」はどうでもいいことを巧みに書いた典型のような作品である。
私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。そういう世界で何が起きようと、私には全く関心がない。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様がさまざまあるだろう。しかし、だからといってどうだというのか。世の大多数の人にとって、そんなことはどうでもいいことである。
【存続の危機】浅草の商店街は「不法占拠」、台東区が立ち退きを要求https://t.co/V2CN17rect
浅草寺南に連なる32の商店に「公道上に許可なく店を建てて営業している」と立ち退きを要求。店主らは区の許可はあると解釈し、土地代や賃料は支払っていないという。 pic.twitter.com/JuqJ6sYxL3— ライブドアニュース (@livedoornews) June 7, 2021
歴代区長 台東区ホームページ(https://www.city.taito.lg.jp/kusei/shokai/abouttaito/profile/rekidai_kutyo.html)によると、
「およそ40年前。当時の区長」
と言うと
内山 榮一(昭和50年4月27日就任~平成3年4月26日退任)
既に他界されている方なので、直接本人に当時の模様を確認することは出来ないけど、商店街側にも当時を知る方だったりメモなどの資料は残っていない?
しかも、「土地代・賃料なども支払っていない」事を不自然に思わずに営業を続けてきた店舗側もドヤ顔で交渉できるものでは無いのでは??
どこを落し所にして決着するのやら…
まず日付は完全に蛇足なので忘れてください
a歳の人がb歳になるのは(当然ながら)b-a年後です
一方、令和Y年は平成X年の Y+30-X 年後です
この30というのは令和元年(=2019年)と平成元年(=1989年)の差で、令和の年数に足すとその年が平成何年に相当するかが分かります
これを「平成と令和の間隔」と呼び、g(平成,令和)と表すことにしましょう
(元年は0年ではなく1年なので、平成最後の年は平成30年ではなく平成31年(=2019年=令和元年)であることに注意してください)
①の場合、3歳の人が33歳になるのは33-3=30年後、令和3年は平成3年の3+30-3=30年後で一致するので成立することが分かります
一般に「斯斯X年にa歳になった人が然然Y年にb歳になる」のは
Y + g(斯斯,然然) - X = b - a
のときです 整理して
g(斯斯,然然) = X - a - Y + b ……☆
とすると、X,a,Y,bが特定の(意味ありげな)値となるために必要な間隔 g(斯斯,然然)を求める式が得られました
(X,a,Y,b) = (k,k,k,11k) を☆に代入すると、g(斯斯,然然) = 10k となり、k=3 が①のケースです
また、(X,a,Y,b) = (k,11k,2k,22k) の場合もg(斯斯,然然) = 10k となるので、k=3のときは平成、令和に適用でき、
「平成3年に33歳になった人は令和6年に66歳になる」……②となります
(X,a,Y,b) = (k,0,k,11k) からは g(斯斯,然然) = 11k が得られ、またg(大正,平成) = 77 = 11×7 より、それなりに知られている
「大正7年生まれの人は平成7年に77歳になった」が出てきます
(X,a,Y,b) = (11k,0,k,11k) は g(斯斯,然然) = 21k となり、g(昭和,平成) = 63 = 21×3 より、そこそこ知られている
「昭和33年生まれの人は平成3年に33歳になった」が得られます
この人は②に繋がっていくわけですが、これは (X,a,Y,b) = (11k,0,2k,22k) を☆に代入した g(斯斯,然然) = 31k を g(昭和,令和) = 93 が満たしているためです
私は首都圏のマンションで育った。平成初期に建てられた分譲マンションは同世代が多く、私の住む棟は平成3年生まれが私含めて4人いた。30歳を目前にしてそれぞれの人生を振り返ってみた。
中学時代は水泳部で部長を務め、行事ごとにリーダーシップを発揮してキラキラしていた子だった。地元一番の進学校へ進みそのまま首都大に進んだ。小学校の先生を目指していたが試験に通らず、現在は都内のホテルで働いている。
2.女子(私)
中学時代はとことん地味だった。高校受験で都内の進学校(御三家)へ進み、現役で学習院へ進んだ。外資系の人材企業へ就職して数年でメンタルを壊し、現在はSE。
3.元気な男子
野球一筋の男子でいじめっ子だった。頭は当然悪く、地元の偏差値40くらいの高校へ進んだ。指定校推薦で体育系の学校(日体大?)へ進み、今は駅ナカにあるマッサージ店で働いている。
4.地味な男子
元気な男子に虐められていた。地元一番の進学校へ優等生女子と進み、一浪の後中央大へ進んだ。三菱系の企業へ入り、アメリカの現地法人で働いている。
地味な男子が一番楽しそうに生きていた。いじめっ子は楽しそうに働いており、親と同居している。優等生女子はキラキラしてるけれどたまにつらそうな投稿をしている。私は身の丈にあった生活をしている。昨年末に中学の同窓会に誘ったのに誰も来なかったのは、何かしらのコンプレックスがあったからかもしれない。
我が党は、「反共産・社会主義、反独裁・統制的統治」と「日本らしい日本の確立」―の2つを目的とし、「政治は国民のもの」との原点に立ち立党された。平成元年のベルリンの壁の崩壊、平成3年のソ連邦の解体は、この目的の1つが達成されたという意味で、我が党の勝利でもあった。
そこに至るまでの間、共産主義・社会主義政党の批判のための批判に耐え、我が党は現実を直視し、日米安全保障条約を基本とする外交政策により永く平和を護り、世界第2の経済大国へと日本を国民とともに発展させた。
日本の存在感が増すにつれ、国際化のなかで我々は多くのものを得た反面、独自の伝統・文化を失いつつある。長寿国という誇るべき成果の反面、経済成長の鈍化と財政悪化からくる財政諸機能の不全に現在も我々は苦しんでいる。少子化による人口減少は国の生産力を低下させると言われる。
我が国は、これ等の現実を明るく希望ある未来に変えるため、少子化対策とともに、教育の充実と科学技術開発に国民資源を注力することにより生産性を向上させ、長寿人口の活用と国民資質の向上、国際化への良き対応により、経済成長が達成でき、国民生活の充実が可能なことを世界に示さねばならない。
我々は、日本国及び国民統合の象徴である天皇陛下のもと、今日の平和な日本を築きあげてきた。我々は元来、勤勉を美徳とし、他人に頼らず自立を誇りとする国民である。努力する機会や能力に恵まれぬ人たちを温かく包み込む家族や地域社会の絆を持った国民である。
家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、公への貢献と義務を誇りを持って果たす国民でもある。これ等の伝統的な国民性、生きざま即ち日本の文化を築きあげた風土、人々の営み、現在・未来を含む3世代の基をなす祖先への尊敬の念を持つ生き方の再評価こそが、もう1つの立党目的、即ち「日本らしい日本の確立」である。
我が党は平成21年総選挙の敗北の反省のうえに、立党以来護り続けてきた自由と民主の旗の下に、時代に適さぬもののみを改め、維持すべきものを護り、秩序のなかに進歩を求め、国際的責務を果たす日本らしい日本の保守主義を政治理念として再出発したいと思う。
我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない。自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい。従って、我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。これと併せて、政治主導という言葉で意に反する意見を無視し、与党のみの判断を他に独裁的に押し付ける国家社会主義的統治とも断固対峙しなければならない。
また、日本の主権を危うくし、「日本らしい日本」を損なう政策に対し闘わねばならない。我が党は過去、現在、未来の真面目に努力した、また努力する自立した納税者の立場に立ち、「新しい日本」を目指して、新しい自民党として、国民とともに安心感のある政治を通じ、現在と未来を安心できるものとしたい。”
何だかんだやってみてはいるものの、安倍麻生のぼんくら感は否めず国民が怒りつつあるのが今。
本来なら自民党内で自浄作用するはずだが、戦後レジームから脱却し新たな日本の基礎を作ることが最重要項目だから
成り上がり議員や長年続けてきた議員は意見するよりも、このままボンクラに突っ走ってもらいたいと考えている。
しかし、まぁそんなに上手く行ってないよね実際は。
バブル世代は、バブル景気(内閣府景気基準日付第11循環拡張期、1986年(昭和61年)11月から1991年(平成3年)2月)による売り手市場時(概ね1988年(昭和63年)度から1992年(平成4年)度頃)に新入社した世代で、とりわけその時期が大学(4年制)卒業時と重なる1965年4月2日から1970年4月1日生まれを指す[1]。短大(2〜3年制)・高専(5年制)・専門学校(1〜3年制)卒であれば1966年4月2日から1973年4月1日生まれ、高校(3〜4年制)卒であれば1968年4月2日から1974年4月1日生まれまでが該当する。
災害の発生:平成12年8月10日~8月29日(8月18日に大規模噴火)
災害の発生:平成12年3月31日(3月29日に気象庁から緊急火山情報あり)
事業内容は
となっておりトマトの要素はないように見受けられる。
ちなみにこの会社は平成3年に「トマトランド」という名称を商標登録している。
思いつきで打ち込んだワードなので、25年以上前から公式に存在する言葉であったことが衝撃的だ。
ワンダーファーム - 農と食の体験ファーム - 福島県いわき市
進撃の巨人に出てくるような要塞都市で呑気にトマトを育てている光景を想像しながら検索にかけたので、トマトとあまり関係のなさそうなデジタルサイネージの企業がトップに出てきたことが意外だった。どのような経緯で名前がつけられたのかが気がかりだ。