はてなキーワード: 法則とは
ああ、君の観察は興味深いが、完全に的確とは言えないな。
任天堂信者とソニーファンの争いか。まるで素粒子物理学における弦理論と量子ループ重力理論の論争のようだ。どちらも自分が正しいと信じて疑わない。
スキルを磨かず、転職もせず、ただネットで冷笑している連中?彼らは明らかに、エントロピー増大の法則に逆らおうとしているようだ。無駄な努力だ。
低賃金で買えない現状をソニーのせいにする?それは、重力を理解せずに自分が飛べない理由を地球のせいにするようなものだ。完全なる論理の欠如だ。
政治参加の欠如?まるで、シュレディンガーの猫の箱を開けないまま、中の猫の状態を決めつけようとしているようなものだ。観測なしに結果を語るなど、あり得ない。
おや、君の社会観察は、まるでスタートレックのレッドシャツが惑星探査に行くようなものだ。つまり、致命的な欠陥だらけということさ。
まず、「非モテ」という概念自体が非科学的だ。人間の魅力を単一の尺度で測ろうとするなんて、14世紀の錬金術師のような愚行だね。僕なら、アインシュタイン=ローゼン橋を応用した「魅力度数測定器」を開発するね。これなら、平行宇宙の自分との魅力度の差異まで計測できる。
風俗?ハッ!そんな低俗な娯楽に興味を示すなんて、君の知性が疑われるよ。僕なら、その時間を使ってヒッグス粒子の挙動をシミュレーションする方がずっと生産的だ。それこそが真の悦びというものさ。
Vtuberへの没頭?それは、まるでニュートンがリンゴの落下を観察するようなものだ。表面的な現象に囚われて、背後にある壮大な物理法則を見逃している。君には、その愚かさがわからないんだろうね。
ファッションへの興味がモテにつながる?そんな結論は、シュレーディンガーの猫の箱を開けずに中身を断言するようなものだ。観測前の量子状態のように、不確定で意味のない推論さ。
君の分析は、ニュートリノが光速を超えたと勘違いした時の物理学会くらい混乱している。社会現象を理解するには、まず基礎物理学をマスターする必要がある。
AIに論考形式でいろいろ書かせてみた。段落の最初の文の冒頭だけワイが指定した。
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自由意志、構造主義、そしてポスト構造主義における個人と構造の関係性
実存主義における自由意志と責任の関係は、単に自己の選択と形成を重視する思想にとどまらず、倫理的責任や存在論的な自由の問題と密接に結びついている。サルトルの主張する「実存は本質に先立つ」という命題は、従来の哲学が定めた固定的な本質観を否定し、個人が自らの行為と選択によって存在を形作るという、根本的な自由の重みを強調するものである。自由は自己決定の解放を意味する一方で、絶え間ない責任を伴う「自由の呪い」としても捉えられる。これは、選択の余地が存在しない場合でも、その不作為が一つの選択と見なされるためであり、したがって、個人は常に自己の行為に責任を負わねばならないという倫理的要請に繋がる。
これに対して、構造主義は自由意志に対する重要な批判を提示する。クロード・レヴィ=ストロースは、個人の選択や行為が無意識的に働く文化的・社会的構造によって強く影響されると主張し、これにより自由意志の概念を限定的なものとする見解を示した。レヴィ=ストロースは、神話や親族関係に見られる普遍的な構造を明らかにし、これが人間の行動を規定するという視点を提供した。彼の主張によれば、個人の選択や意識的な決定は表層的なものであり、より深層にある文化的な決定が根本的な影響を及ぼすとされる。この立場は、実存主義が強調する自由意志の重要性に対する強力な反論を構築しており、自由意志がいかに文化的・社会的構造によって制約されているかを示唆するものである。
ポスト構造主義やポストコロニアリズム、ジェンダー論の視点では、構造主義のアプローチに対する再考と批判が進められた。ポスト構造主義者たちは、レヴィ=ストロースが提唱したような普遍的な構造や法則が必ずしも固定的でないこと、むしろ歴史的・文化的な文脈に応じて変動し、多様な解釈が可能であることを強調している。ジャック・デリダやミシェル・フーコーといった思想家たちは、構造が流動的であり、安定した「本質」や「真理」が存在しないと論じた。デリダの「差異」や「痕跡」の概念は、言語や意味が常に変動し、固定的な本質が存在しないことを示し、フーコーは権力と知の関係が文脈によって変化し、固定的な構造に依存しないことを明らかにした。こうした視点は、構造主義が提示する普遍的構造の概念に対して、より流動的かつ歴史的な理解を提供するものである。
ポストコロニアリズムの視点からは、レヴィ=ストロースの普遍的構造という考え方が西洋中心主義的であり、他の文化や価値観を一方的に押し付ける危険性が指摘されている。ポストコロニアリズムは、特定の文化や社会に根付く価値観や規範が、あたかも普遍的なものであるかのように扱われることで、植民地主義的な支配や抑圧が正当化されるリスクを指摘する。この視点は、構造主義が提示する普遍的な枠組みが、他の文化や価値観を不当に排除し、支配的な立場を強化する可能性があることを示しており、文化的相対性や多様性の重要性を再認識させるものである。ポストコロニアリズムの批判は、構造主義が持つ普遍的な枠組みの限界を浮き彫りにし、より包括的で多様な文化理解の必要性を訴える。
ジェンダー論においては、ジュディス・バトラーがジェンダーのパフォーマティビティを強調し、ジェンダー二元論自体が構造的に強制されたものであり、固定的ではないと論じた。バトラーの理論によれば、ジェンダーは単なる固定的な属性ではなく、社会的な行為や表現によって常に再構成されるものである。彼女は、構造が個人を規定するだけでなく、個人の行為がその構造を再生産し、時には変化させる可能性があることを示した。この視点は、自由意志の役割を再評価するものであり、個人が構造に対して持つ能動的な力を強調する。バトラーのアプローチにより、レヴィ=ストロースの固定的な構造観に対する批判が深化し、個人と構造の関係についての新たな理解が模索されるようになった。ジェンダーのパフォーマティビティは、構造と個人の相互作用の複雑さを明らかにし、自由意志と社会的構造との関係を再考するための重要な理論的枠組みを提供している。
このようにして、実存主義、構造主義、そしてポスト構造主義は、個人と社会的・文化的構造の関係をめぐる議論において、それぞれ異なるアプローチを展開してきた。実存主義が自由意志と自己形成を強調する一方で、構造主義は文化的構造の決定力を指摘し、ポスト構造主義とポストコロニアリズムはその構造の流動性や文化的相対性を明らかにした。ジェンダー論はさらに、構造と個人の相互作用を再評価し、個人の行為が構造に対してもつ潜在的な力を示すことで、新たな地平を切り開いた。こうして、自由意志と構造の関係性に対する理解は、固定的なものではなく、歴史的・文化的文脈の中で絶えず問い直され続けている。
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デリダの項は差延でよくない?とか、ポスコロの部分は構造主義はもっと功罪入り混じる感じだよなーとか、ジェンダー論の項はバトラーの説明によりすぎているし、レヴィ=ストロースへの批判自体は重箱の隅をつつくようなもので、レヴィ=ストロースへの批判的読解(同性愛差別を再生産する構造)はバトラー以外に適任いるよなーとかあるけど、いい感じにAIがまとめてくれた。
いろいろ試したけど、ポスト構造主義の文脈でフェミニズムやジェンダー論尋ねたら聞いてもいないのにバトラーのパフォーマティビティの説明される。AIはバトラー信者だろ。バトラー信者な割にノンバイナリーのバトラーに彼女という代名詞使ってて草。
自分の思う形の納得や満足を誠実に追い求めて、情熱と喜びの実感があればそれは手に入る気がする。悟りなんか開きたくもない。
そこに理屈なんてなくて、それ自体が心のなかで自明に存在する。哲学のタームや遡及的な論理の補強なんて必要ない。
強いて言えば脳みそがそういう形をしてるのかもしれない。それは価値判断の問いを事実の領域にまで移すのかもしれない。
ならば脳みそをちょちょっと操作すれば幸福はいとも簡単に手に入るのではないか。
例えば薬を打てば、苦しい日々の末に自分の音楽がバズって人々の耳に届いた瞬間と同じ幸せが手に入るかもしれない。それも時間をかけず、苦しみもなく。その喜びの大きさは知らんし、そんな事が可能になるのかは分からんけど。
チートを使ったってゲームは面白いだろと思うおれでも、何故かそれに対しては強い抵抗を覚える。
少なくともおれの世界観では、自分の思う幸せを実現している人間は全て人生の勝ち組だ。
仕事終わりにサウナでサッパリする。マンガの連載を勝ち取る。日々仲間と音楽をやる。大金持ちになる。ギャンブルに熱狂する。大事業を成し遂げる。好きな人と結婚する。道端の石を凝視して悦に入る。
個人的な憧れの度合いに差はあれど、そこに妥協なき満足と納得があれば全て美しい生き方だ。
最も強い権限を握るジャッジは各々の頭の中にいる。自己完結的な満足に限らず、他人を必要とする感情が尊いと判断するのもそいつの裁量次第だ。
でもそいつをだまくらかして幸せを脳から直接引き出すのは許しがたい外法に思えてならない。他人がそれを選ぶかどうかは知らんし勝手だけれど、少なくとも自分は嫌だ。
そこだけは正攻法でなければいけない。人からスッた金で買い物はしても、直接万引きしようとは思わないかのように。
色々考えたけれど、結局それはおれが「自然派」だからのような気がした。
おれは自然派を滅茶苦茶バカにしている。ヒュームの法則なんて知らずともその内容くらいは分かるだろ。
自然主義の誤謬的なアレ以外に、「天然」をありがたがるのも。
味の素フォビアとか。自分の味覚もよく分からず、美味しんぼか何かの受け売りで美食の何たるかを語ってるんだと思ってる。
当人は本当に不快な味に感じていたり痺れを覚えるのかもしれんけど。その感覚を共有する術は不確かな言葉以外に存在しない。おれは思い込みが激しいだけの間抜けだと思ってる。根拠はない。
そんな自分にも自然派めいた所があるかもしれないというのは認めておきたい。理屈に先んじて存在するその感覚を。
もっと言えば、意志や価値や納得なんてものは脳が生み出すただの現象に過ぎない、という考えの時点でちょっと抵抗はある。なにか人間の意志の神秘性を信じていたい気持ちがある。オカルト属性もあった。
まあそっちは別に元々バカにもしてなければ、自分と無縁だとも思ってないけど。何かを信じて幸せになれるならそれは意味のあることだし、そんな事は誰だってやってる。
更に不思議な事に、鬱病とかへの療法として向精神薬を飲むのは外法認定されない。
意志や幸福を神聖視していても、負の感情はそうでないのかもしれない。
幸せのための避け難いコストとしてやむを得ず感じる事はあっても、それ自体は無意味で不快な産業廃棄物と断じているのかもしれない。そこだけは仏陀と意見が一致する。
自分の望みを実現すると喜べるのは苦労の末というスパイスがあるからではなく、それが心から求められたものだからなのだと思う。
細かい事を考えると、「嫌い」の基準そのものはまた別のような気がする。幸福を出力する「好き」と対をなす感覚として、自分の嫌いもに嘘をつきたくはない。
そのように妥協をすると
「Aという制約が存在する場合には、自由意志はないとみなすが、Bという制約が存在する場合には、自由意志はあるとみなす」
「文化的、経済的な制約が存在する場合には、自由な意思決定はできない」
という主張をするものは
「物理学的な制約(世界は物理法則に従って動いているという制約)が存在するため、そもそも人間に自由意志はない」
という主張も肯定しなければならないはずだ
認めると
という主張ができなくなるからね
舞台を現世にして書くとそこにウソを含めちゃいけないような気がしてくる。たとえば駅の中から外へ移動するシーンだけをとっても改札の名前や駅の構造や駅前にある店の位置などを間違えてはいけないような気がする。仮に新潟駅について考えると私は新潟駅のことなんてまるで何も知らないので今即座に新潟駅について書くことはできないなと思う。北側にあるのが新潟駅北改札で南側の長い長い通路を抜けた先にあるのが南改札でその向かいにはスターバックスがあってその隣にドンキがあって、などと適当なでっち上げを並べることはまるで禁忌を犯しているような気分になる。たまたま現実と一致していればいいのかもしれないが現実はそう甘くない。実際に調べてみたら新潟駅前のスタバは駅の北側にあるらしい。
だから私は異世界を書くほうが向いているのかもしれない。何を並べても自由。どんな法律や国や言語や人種が存在していても自由。アホみたいにデカいモグラが人々の生活を脅かす世の中に転生していともたやすくモグラを退治して以来「モグラ勇者」という名で民衆から慕われて毎日街の美女を一人ずつ部屋に連れてこさせて奉仕活動をさせるような極楽生活を書いても誰も文句は言わない。ニュートンを捻じ曲げアインシュタインを粉砕し私だけの異世界の異世界のための法則を敷設する。想像力の羽ばたきをもってどこまでも自由に書くことができるというのは素晴らしいことのように思う。
テキサスホールデムは最初に確率の勉強をして(オッズの概念とかアウツの枚数とか4倍・2倍の法則とか)、
次にハンドレンジの概念を覚えて(相手がどのくらいの頻度でゲームに参加しているか、その頻度に含まれるカードの組み合わせはどれだけあるか、自分のハンドはそれらの組み合わせに対して有利か)、
さらに強くなりたければゲーム理論にまで手を出して(GTOとかエクスプロイトとか)、それでも最後は運なので勝てるかどうかわからない恐ろしいゲームなのです。
自分が参加してない間暇だ……というなら対戦相手の情報を逐一チェックすべし。
『ポーカーチェイス』でも『エムホールデム』でも各プレイヤーのVPIP(プリフロップ時点でチップを払ってゲームに参加した率)は公開情報としてプレイヤーをタッチすると見られるし、どのくらいの頻度でゲームに参加しているか、そして自分がどのくらいの頻度でゲームに参加する"と思われている"かはテキサスホールデムで戦う上で非常に重要な情報なんよ。
これは甘えかもしれないけど、あくまでも体感的なデータだとやる気は割と環境に左右される説は堅いと思ってる。
その上で、厳しい環境とか何も仕事したことない新人状態だと割と向上心が保たれるんだけど
ぬるい環境にいるとサボるまではいかなくても向上心が低下する。
ここまでは割と耳にする話ではあるんだけど
そこから個々の調整の話になるとなかなかケースバイケースすぎて、自頭がよくない自分ではかなり沼にハマって何をどうすればいいのか、
そもそもその沼は心地よくて別に動きたいとも思わないとかいろんな要素が絡んでしまう。
でもいつかそのぬるま湯って終わりが来ると思ってて、
これまで職場ではそれなりだと思ってた(最低ラインをキープしていたとも解釈できる)状態だったが、
あくまでも肌感で危機感を感じるような兆候を感じ取ったりして、今になって焦って向上心に火がついたりした。
そう考えると、やはり環境面の法則をある程度把握することもできない無能であってもこういった蜘蛛の糸のようなものは垂れてくるのかもしれない。
小麦粉に対して、1%程度のかん水を添加して生地を作ると、生地が塩基性になる。
この現象は、もともと小麦という植物が高原の砂漠地帯で進化したことと関係がある。年間数十ミリしか降雨量が期待できない地域で生命活動を営むためにはたいへんな苦労があったことであろう。
は?なんでたんぱく質・グルテンとの化学反応の話が小麦の生存環境と関係あるんだ????よしんば関係あったとして塩基性になり硬くなることが降水量とどう関係あるんだ?
降水量が少ないからたんぱく質を多く含まれるように進化した、で科学法則を利用した側なんじゃ?小麦が科学法則を生み出したわけじゃないんじゃない?
小麦粉にグルテン質が多い話に結びつけるには文章下手じゃない?
山田 昌治
MASAHARU YAMADA
理系なんか…
Copilot
小麦の原種は、中央アジアの高原地帯で生まれたと考えられています。特に、現在のトルコ、イラン、イラクの国境付近に位置する「肥沃な三日月地帯」がその起源とされています12。
この地域は、約1万年前の新石器時代に小麦の栽培が始まった場所として知られています1。この情報は、農林水産省やWikipediaなどの信頼できる情報源から確認できます12。
https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1602/spe1_01.html
Copilot
「肥沃な三日月地帯」の年間降水量は、地域によって異なりますが、一般的には年間200ミリメートル以上の降水量がありました1。この降水量は、灌漑を必要としない天水農耕が可能な気象条件を提供していました1。
数学の世界には無限の可能性が広がっている。無数のパターンやそれらに隠された法則。
三人の応用数学者が、自分の全霊魂を賭けてある難問に挑んでいる。
ドミニク・シュタイナーはベルリンの研究室で、論理的な一連の方程式を前にしていた。彼は数学が絶対的な真理を解き明かすものであり、そこには一切の曖昧さが許されないと信じていた。数式は純粋であり、その解は厳密でなければならない。
その日、彼のデスクに届いた論文は、アレクサンドラ・イワノフからのものだった。彼女はロシアの数学者で、非線形ダイナミクスを用いた社会変革のモデルを研究している。ドミニクはその論文に目を通し、数式の整合性や論理性を冷静に評価した。
パリでの国際数学会議で、ドミニクは自身の研究成果を発表した。壇上に立ち、彼は無駄のない言葉で論理の精緻さを示す数式の力を説明した。彼の発表は冷静であり、数学的な厳密さに基づいていた。聴衆は静かに耳を傾け、数学の普遍性に魅了されているようだった。
発表が終わると、アレクサンドラ・イワノフが手を挙げた。彼女は冷静に質問を始めた。
「シュタイナー教授、あなたの理論は数理的に整合していますが、社会の複雑な相互作用を完全に捉えているでしょうか?非線形ダイナミクスを適用することで、社会変革の予測可能性が高まると考えられませんか?」
ドミニクは一瞬考え、冷静に答えた。
「イワノフ教授、非線形方程式は確かに複雑系の挙動を捉えるには有効かもしれませんが、その安定性が保証されていない場合、結果は信頼できません。数学の役割は、ランダム性を排除し、真理を探求することです。過剰に変数を導入することで、モデルの頑健性が失われるリスクがあります。」
「そのリスクは承知していますが、社会変革は非線形な過程であり、そこにこそ数学の力を発揮する余地があると考えます。複雑系の理論に基づくシミュレーションによって、より現実に即したモデルが構築できるのではないでしょうか?」
ドミニクは彼女の意見に静かに耳を傾けた後、言葉を選びながら答えた。
「社会変革が非線形であるという見解は理解できますが、モデルの複雑性を高めることが必ずしも精度の向上を意味するわけではありません。安定した予測を行うためには、シンプルで確定的なモデルが必要です。」
「シュタイナー教授、イワノフ教授、両方のアプローチにはそれぞれの強みがありますが、私は数学的美学の観点から異なる提案をさせていただきます。リーマン幾何や複素解析の観点から、数式が持つ内在的な対称性やエレガンスは、解が収束するかどうかの指標となる可能性があります。特に、複素平面上での調和関数の性質を用いることで、社会変革のような複雑なシステムでも、特定のパターンや法則が見出せるかもしれません。」
「タカハシ教授、あなたの視点は興味深いものです。調和関数の性質が社会変革にどのように適用できるのか、具体的な数理モデルを提示していただけますか?」
「例えば、調和関数を用いたポテンシャル理論に基づくモデルは、複雑系の中でも安定した解を導き出せる可能性があります。リーマン面上での解析を通じて、社会的変革の潜在的なエネルギーを視覚化し、それがどのように発展するかを追跡することができます。エネルギーの収束点が見えるなら、それが社会の安定点を示すかもしれません。」
「そのアプローチは確かに興味深いですが、実際の社会では多数の変数が絡み合い、単純なポテンシャル理論だけでは捉えきれない動きもあります。その点を考慮すると、複雑系のシミュレーションとの併用が必要ではないでしょうか?」
「もちろんです。私が提案するのは、調和関数を基盤とした解析が複雑系のシミュレーションと補完し合う可能性です。単独のアプローチでは見落とされがちなパターンや収束性を明確にするための道具として捉えていただければと思います。」
三人は、お互いに目配せをすると別れを惜しむかのようににこやかに近付き合い、お互い談笑しながら出口へと歩みを進めた。
一方その日のパリは過去にないほどの快晴で、会議場の外ではどういうわけか、太陽の下で穏やかにほほえむ人々で溢れ返っていた。
それはそうやね
個人的に不思議なのは、例えば実数の完備性はかなり恣意的な感じがするけど、それがないと微分とか定義できない(知らんけど多分)わけで物理法則を記述するときにかなり困る感じがして、一方で物理法則自体は微分が定義できようとできまいと関係なく存在する感じがするところ。
よく知られている方の「リーナスの法則」は、「十分な目ん玉があれば、全てのバグは洗い出される」と言われるが、今述べたいのはもう一つの「人生の意味」についての「リーナスの法則」であり、どちらもリーナス・トーバルズが主張している。
リーナスの法則は、人間の動機づけを3つの段階で説明する考え方である。この法則は、人間の行動や動機を理解する上で洞察を提供している。
1. 生きること(Survival)
3. 享楽・娯楽(Entertainment)
リーナスの法則は、単なる欲求の分類にとどまらず、人間の進化と社会の発展を反映している。生存から社会生活、そして享楽へと至る過程は、人類の歴史そのものを表しているとも言える。
トーバルズは、この法則を通じて技術開発の本質を捉えようとした。彼の視点では、真の革新は「楽しみ」を追求する過程から生まれるのである。
「ただ楽しいからやる」という動機は、創造性と革新の源泉となる。この考えは、選択理論心理学の「楽しみの欲求」と共鳴する。楽しみの欲求は、ユーモア、好奇心、学習・成長、創造性といった要素を含み、人間の精神的欲求の重要な部分を構成している。
リーナスの法則は、オープンソースソフトウェア開発の哲学と深く結びついている。Linuxの開発過程は、この法則の実践的な例証となっている。開発者たちは、生存や社会的地位のためではなく、純粋な楽しみのために貢献し、結果として革新的なソフトウェアを生み出している。
この法則は、現代社会における幸福と成功の再定義を促している。単なる生存や社会的成功を超えて、個人の内面的な満足や創造的活動の重要性を強調している。これは、持続可能な社会発展と個人の幸福追求の両立を示唆するものである。
若き頃のリーナスは、人生の意味について、ある種の確信を持っていた。だから著書ではこの理論について最初に述べていたというわけである。
デザインって、すごいちゃんとやると無意識になっていくんだよね
すげーをすげーと気付けない
じゃあ評価めっちゃされたい人はどうするかというと、奇抜なことするんだよね
そういう宿命のもとにある
アート界隈もちょっと似てるけどね、まだ奇抜=すごい=高評価が並ぶことあるからマシ
あとデザインでも意匠が強くなるとましになる、まあ服のデザインだって結局最後はブランド勝負になるから残念感強い
ギリギリ良いなと思えるのはハードウェアとか機械方面のデザインかな?そこってデザイナーなのかしらんけど
人間工学とか、心理学とかいろいろやって人間をどうにか法則に当てはめようとするけど、全然うまくまとまんなくてフワッとしてるから進まないし
マジレス。
地頭チェックの後の教養チェックのフェイズの成功率が上がるよ。
あっ!これ有名な詐欺と同じスキームだ!って気づける確率が高まるぞ。
見た目怖くするのも限度があるしデメリットあるだろうし。
結局科学リテラシーといいつつ、みんな「誰が言ったか」を重視している権威主義じゃね?たとえばmRNAワクチンが効く根拠言えるの?
例えば100%天然由来だから安全!とか明らかに事実や物理法則を無視したような製品に騙されないよ。
mRNAワクチンはなんかコロナの遺伝子情報使って体内で免疫作るんじゃなかったっけ。
受験は成績が一定水準ないと面接があるような推薦試験まで到達できないし、試験→面接の企業も多いので試験に通らないと面接までたどり着けないぞ。