はてなキーワード: 解像度とは
解像度の高い俺が理想の女性像を増田に書き込んだらキモいとボロクソに言われたぞ
ちなみに以下がその理想ね
・笑いの閾値が低い
・ご飯を作らない
・俺の事を見下してあきれたり嘲笑わない
・異性の友達が居ない
あちこちにいるはずなのに、自分から事情を喋らないから逆に知られてない。
お兄ちゃんいるけど、まさにそんな感じ。
中校生くらいの頃からずっと女っ気がないし、受験勉強のノリでいつも仕事の勉強とかしてる。
ずーーっと同じ。
でも婚活しだして女性に振られたときは泣いてたから、心がないってわけじゃないんだと思う。
と考えてるのが、輪をかけてヤバいと思う。
…
じゃあ逆に男の人ってって女の何を好きになるの……?
人間性が見えなくていいなら、女のどこを好きになるの?
「男のどこが好かれる」と思ってんの??
どんな女の子が好きなの?
…顔のよい女・胸のデカい女・清楚
らしい。スリーストライクバッターアウトだけど、多分これカラクリがある。
要するに女性とずっと関わりがなかったから解像度が極端に低いんだと思う。
小学生が山の絵を描くと「八」みたいな絵を描くじゃん。それと同じ。
分別のない時期に学習したメディアとフィクションの女性像で評価するようになってる。
未発達なのは女を見る目だけじゃなくて、他人を好きな気持ちのメタ認知もだから、少しでも拒絶されると立ち直れないくらいに傷つく。
ずっと女から逃げ続けてて仕事だけに真剣に打ち込むのは、前歯だけを磨き続けるみたいなもん。
磨いてない歯から腐ってく。
美容師の方は客と雑談するのは「気分良く帰ってもらって次も来てもらう」とか「沈黙で微妙な雰囲気になるのを避ける」とか以外の目的が無いゆえに、話題そのものには裏の目的がない「本当の雑談」になりうるけど
「今日なんで新宿来たんですか?」はどう考えても、それをフックにしてなんか今日のプランとか人となりを知った上で似合う色とか提案して最終的には化粧品買ってもらおうって魂胆が一言目から見えるレベルの「営業雑談」でしょ
まず私のプロフィールを明かしておく。
大学院生。社会学と文学のあいの子みたいな分野で、とくにジェンダーとかセクシュアリティとかそういう事を学んでいる。
映画は学部時代に少しかじった程度で、評価はB+だった。だから的外れなことも言うかもしれない。すみません。
匿名なのでもっと書くと、同性愛者で、SMの実践者で、フィクトセクシュアルに片足つっこんでいるので、わりとどの界隈でも少しなじめない気持ちになりがち。
「映画としてはちょっと……」というような意見が主にアカデミックや評論の場で散見される。
これは分からないでもない。ちなみにここでは個人攻撃みたいにするつもりはないので、引用は特に必要でない限りはしない。
「すげえ! マリオってこういう解釈ができるんだ!」みたいな「新しいもの」はなかった。しかし、「マリオの映画といえばこういうのが見たいよね」という「見たいもの」が詰め込まれており、「新しいもの」を入れる余地は90分にはないように思われる。
メディアミックス映画としては一つの模範解答であり、文句なしの一級品といってもいいかもしれない。面白い映画といい映画は別だが、以下では「いい映画」(いい映画って何すか?)としての切り口を見てみたい。
ゲームをアニメとしたら、キャラクターの解像度や物語の運び方だけでなく、どのようにゲームの快感が写し取られているかが重要ポイントに思う。
マリオのゲーム体験を思い返すと、快感は大きく二つに分けられる。
「スーパーマリオブラザーズ」ならステージクリアのタスク消化に似た快感。
「スーパーマリオ64」に連なる「箱庭マリオ」なら新しいマップを開いていく探索の快感。
マリオシリーズだけでなくゲームの快感はむしろこの二者に共通する「試行する」快楽が大きいのではないか。
私はといえば、ゲームが苦手だった。
クリボーに激突する。穴に落ちる。ドッスンに潰される。空から落ちる。燃やされる。溺れる。
我ながらヘタクソなプレイである。しかし、プレイを重ねると、一つ一つそれらを回避なり消化できる。そこにゲーム的快感がある。
翻って「映画マリオ」に戻る。キノコ王国に迷い込んだマリオは、ピーチ姫の旅についていくためにゲームばりのアスレチックに挑むわけだが、このプレイングも経験者ならば笑ってしまうほど失敗に満ちている。そしてその分だけマリオは「試行」を試すことになる。
アスレチックだけでなく、ドンキーコング戦、クッパ戦と繰り返し作中で強調される「諦めの悪さ」が導くゲーム的快楽とはこのような「試行」の快楽が適切だろう。
文学研究者の藤田直哉は上記のようなことも含めて、「物足りなさ」を指摘している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1655397557198278662
ここは鑑賞者のバックボーンも関わってくるのかもしれない。
周回前提のゲーム「ドキドキ文芸部」「UnderTale」「シュタインズ・ゲート」の記憶が私にはすごく強くあるし、マリオシリーズから距離を取っていたので(ここまで多くの作品に触れたわけでもない)、試行錯誤性は面白く観た。
また、勉強不足と笑われそうだが、3Dの映像で2Dのフィールドを表現する映像も、私としては十分に真新しいものだった。
「反ポリコレ」とか、「ジェンダーから距離を取っている」いう話も聞く。
しかし私はそうは思わない。LGBTと「マリオ」作品群の関わりは以下のコラムに詳しいため、これ以上は言及しないが、さらに男性性との関わりについて分析する。
https://cinemandrake.com/pokemon-musashi-kojiro-lgbtq
こちらも藤田直哉の評を引用する。私のマリオ映画への評価は彼とは異なるが、この評と私の見解は一致している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1656110486713434113
クッパは名誉と所有、暴力を原理においたキャラクターであり、婚姻と幸せを直結させる家父長制を背負った男である。
ピーチ姫に対し無茶な論理で婚姻を迫ったり、彼女の知人も含めた囚人を婚姻の犠牲として殺そうとしたり、人の論理の届かない人外らしさが映画における彼の輝かしい魅力でもあることは間違いないが、それは悪しき男性性の発露でもある。
この「有害な男性性」を退けることを軸にマリオ映画を見てみると、マリオは退けた先に何を得たのか。
それは物語のラストが示すように、ピーチ姫ではない(ピーチ姫とマリオとの恋愛の成就がほのめかされてはいる。しかし、ほのめかされていることと明らかであることは違う)。
マリオはゲームにおいてプレイヤーの分身であり、あまり感情を発露しない。
葛藤もあまり読み取れず、さらわれたピーチ姫を取り返すため、躊躇いなく絵画に入ったり火山に行ったり宇宙に行ったりしているように見える。
しかしマリオ映画においては、夢を追う自信のなさげな男として描かれる。
イタリア系アメリカ人の家庭で育ち、家族仲はおそらく悪くないが、「父親に認められたことがない」ということが恐らく影を落としていて、自分のやりたいことと、父親に認められたいという二つの想いが両立できていない。
そしてマリオは映画の終わりに藤田のいうところの「有害な男性性」の発露であるクッパを倒し、父親からの承認を得ることとなる。
婚姻に大きな意味をおく家父長制の権化を倒した先に、父という家父長に認められるというメビウスの輪的な権力のねじれについて、私はまだうまく説明ができない。こういう嫌な書き方をすることで、妙な引っ掛かりを表明するしかできない。
その是非について何か言いたいわけではない。
現実では家父長制や異性愛規範や同性愛差別やトランス差別や人種差別が吹き荒れている。そのような不均衡な権力は改められるべきだし、悪しき男性性とは決別すべきである。
その是非についても何か言いたいわけではない。
ここまでが建前。
「家父長制の権化」と表現したけれど、理屈の通じない愛情を持て余す魔王クッパが大好きだ。
本気で惹かれると言っていい。
そして彼は多くの部下に愛されながらも、彼の愛はどこにもたどり着かない。
槇原敬之の「軒下のモンスター」から「いっそ妖怪にでもなって 君を軒下からただ見ていたい」を引いてもいい。
三島由紀夫の「仮面の告白」から「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」を引いてもいい。
ピアノを弾きながら「ピーチピーチピチピチピーチ」とか歌ってる彼のカットでは劇場で笑い声が起きた。
「悪しき男性性」の回路ではもう誰かと心を交わしあうことはない。ピーチが振り向くことはない。彼の歌うラブソングは哀愁に満ちて、あるいは滑稽かもしれない。
私も笑った。でもぶっちゃけ泣きそうにもなった。
今ギリギリこの男を笑って愛でながら見られるくらいには私もマジョリティにいられてるんだろうけど、こういうジェンダーやクィアの批評は規範を可視化させ内破する営みであって、次に生み出される新しい規範にいられなくなったら、次は私が笑われる番なのだ。
本当は、弱者はクッパの方なのかもしれない。でも私は彼にあまりに感情移入しているから歪んだ読みをしているのだろう。
お前の横暴さも、報われなさも、情けなさも、関われなさも好きだぜ。ほんとに。
最近上映され始めた映画「TAR」は、ものすごく「はてブ向けのテーマ」を扱っている。
世界最高峰のオーケストラで指揮者を歴任し、クラシック界の最重要人物となったレズビアンの主人公、リディア・ターが、音楽教育やオーケストラ運営の中で徐々に問題にぶつかっていく。
そこではSNSによる告発、ある種のハラスメントや人間性の消費が描かれており、その解像度が高い。
主人公を写し続ける美しい画面は主観的で、リディア・ターの真摯に音楽と向き合う姿勢と、権力者として傲慢に振る舞う姿勢が描かれる。きっと、見る人によってターへの共感のレベルが変わり、物語全体が理不尽にも、因果応報にも、新たなる希望にも感じられる。
客観的な描写が省かれることにより、誰がどういう心境で、実際に何が起こったのか、確定をすることが難しい。見る側の理解に委ねられている。
ジェンダーやハラスメントの問題も、本質的なテーマというよりは、より普遍的なストーリーのためのスパイスに過ぎないのかもしれない。
いい映画を見ても、なんかよかった、なんか好き、とかしか思わないし、人と雑談していても、ネットで適当に拾った浅い断片的な知識を披露する傾向にあるからか、深掘りする質問には耐えられなくてじゃあなんでその話題振ったんだよ、みたいな空気になる。
仕事でも、私の仕事のやり方が行き当たりばったりで雑なこと、感覚的であることを精一杯オブラートに包んだ表現で指摘されたことがある。
全体的にふわっとしている。自覚はある。ただ、解像度が低いので、すぐに忘れる。メンタルが強いと言われるのもこのあたりに理由がありそうだ。
今はまだ若いからで済まされるかもしれないけど、これから中年になってもふわふわしたことばかり言っていたら結構やばいかもしれない。
自分も最近妻がASDと診断された、理解あるかはよくわからない夫だけど、増田はとりあえず生きてるだけで偉いのでまずは自分を褒めてほしい。
なかなか難しいとは思うけれど、今まで生きづらさを感じながら、有名大学出て大手企業で働いてるだけで、Fランでアラフォー低賃金労働者の自分よりもすごい。
ASDやADHDの人の中には仕事に就くことすらできない人もたくさんいる。かといって、増田の症状が他の人よりも軽いとか、そういうことではなくて、今まで本当に無理して頑張ってきて、なんとかここまでやってこれたんだと思う。だから本当に偉い。えらいえらい。でも今まで無理してきたから、いろいろとしんどくなってきているところに、ASDとADHDの診断結果が出てさらにしんどくなっているんだと思う。
恐らく、増田の死にたいというのは、今の状況がものすごく生きづらく、死にたいというよりもこの世から跡形もなく消えてしまいたいという感情なんだと思う。うちの妻もそうだし、生きづらさを感じている人は少なからずそうみたい。そういうときは誰かに話を聞いてもらうのが1番だと思うので、臨床心理士とかにカウンセリングしてもらうのがいいと思う。増田に書き殴るのもスッキリするかもしれんが、残念ながら世の中の多くの人はASDやADHDに対する理解が乏しく、心ない書き込みを目にしてしまうかもしれんので、弱ってるときはほどほどに距離を置いたほうがいい。
自分の場合は妻が死にたくて仕方なくなった際に、妻にいのちSOSの『WEBから相談』のチャットをやってもらい、いろいろと話を聞いてもらって最寄りの支援機関とかも教えてもらった。もし、どうしようもなくなったら、そういうチャットで話を聞いてもらうことで、少し気が楽になるかもしれん。
あと、これは憶測だけど増田父もややASDの気があるのではないだろうか。ロボットみたいな人間というのが個人的にすごく気になった。本来は両親も交えて心療内科で増田の幼少期の話とかも聞きながら、そういう話ができればいいんだろうけれど、なかなか厳しそうだしね。
仕事に関しては障害者手帳の申請をすれば障害者枠で働けるはずなので、今健常者として働けているのであればなんとかなるはず。うちも今申請中で、貰ったらどうしようかなと考えているところ。でも自分が障害者になったという事実を受け入れるのも勇気がいることだと思うので、もし相談できるところがあれば相談して、今後について考えたらいいと思う。
あとは増田の夫に関しては本当に理解があるのかどうか判断つかないけど、かくいう自分も本当に理解できているのか不安ではある。とりあえず、これは増田だけの問題ではなく夫婦の問題として捉えてASD、ADHDの本を一緒に読んで理解を深めていくところからはじめるといいと思う。夫もASDやADHDを理解すれば、世の中に対する解像度が上がるしメリットがあると思う。もし誰かをマネジメントする立場の人間なら予備知識として頭に入れておいていい。というか、これからはそういう世の中にならないといけないと思う。
実際、自分は他者に対しての見方が変わったし、フルHDが4Kぐらいになった実感はある。いろいろと配慮して生きていこうって気になったわ。
ちなみに自分はつらかったときにChatGPTに慰めてもらってた。AIすごいわ。行政の支援とか調べるときにはBing AIもわりと使えるね。
飲み会なんてね、というのはそうなんだが色々増田にも問題多そうだな
男ってほんと、女の容姿で会話に露骨な差を付けるというのを改めて実感した
でもそれって単に男の非モテが言われてる、優しいと卑屈なのは違うよ、ってのと同じ
正直厳然と容姿にも人間性にも稼ぎにも魅力にも能力差あるんだから差別的待遇が生まれるのは当然、それで割を食ってるのは増田がカースト低位だから
増田自身は差別的対応しない、差別的対応する女もいる、一方で差別的対応しない男もいる、差別的対応する男もいる…
それだけなのにいきなり主語デカになるのはプライベートの関係性と経験値が少ないから解像度が低いためなのだろう
これから先はこの男には仕事で必要な時以外に話し掛けるのやめとこ…
好きにすればと思うけど、単にカースト低位に固着するだけでなんも改善しないだろうな
努力したところで周りの対応が変わるかどうかは別問題なので、どうせ変わらないならコストかけたくないって戦術はあるから、否定はせんけど
容姿も陰キャも前世紀ならともかく今時いくらでも金と努力と情報で解決できんだろ
まあ頑張って