はてなキーワード: 交響曲とは
当時、S誌(シミュレイター)と共に日本のボード版SLG界を牽引していたT誌に掲載されたリプレイ。トラベラー特集の目玉企画。著者はGURPSなど多数の作品を翻訳することになる佐脇洋平。リプレイと聞いて連想する今の型式が普及する契機となった。このときに安田均が「違う型式でいこう」と考えてたら、多分リプレイ文化は成立してないか大分変わってた。
そのS誌に掲載されたローズ・トゥ・ロードのリプレイ。Wikipedia曰く『ゲームの解説記事である以上に「読み物」として書かれた初めてのリプレイ』である。著者はわきあかつぐみ(藤浪智之)。実際の誌面を見ると一目瞭然だが、かなり独特な型式で、これに創刊号(再創刊号)でいきなり15ページも与えた鈴木銀一郎恐るべしである。記事自体の人気は爆発的に高く、反響も大きかったが、先述の通り、型式が独特だったので直接の模倣作はそんなに多くなかったはず(プレイの雰囲気というかノリは割と真似というか汚染されてたので、影響力が小さかったわけではない)。
既述の通り、日本のゲーム界では「このとき安田均が違う決断をしていたら歴史が変わっていた」タイミングがいくつかあるがその中でもかなり上位に入る。翻訳TRPGの本命というべきD&Dを紹介するにあたり、安田均がパートナーとして選んだのが、(専門性の高いボードゲーム誌でなく)大抵の本屋で普通に買えるコンピューターゲーム雑誌&角川書店だったこと、マスターに選んだのが水野良だったこと、結局そのままの単行本化ができなくてD&Dから離脱したこと、それまでの「エルフ耳」とは単に先が尖っているだけだったのに出渕裕の勘違いで笹の葉の如く細長くなったことなど、その影響は極めて大きい。
(以下追記)
元増田のブコメでb:id:f_d_trashboxさんの指摘により思い出した。名前の通りD&Dの入門書だが、リプレイパートが存在しており読み物としても楽しめた。著者は鈴銀とともに初期から日本のボード版SLG界を牽引していた黒田大佐こと黒田幸弘。それまではリプレイ=雑誌掲載記事だったが((厳密に言えばリプレイ載った同人誌も登場しつつあったが雑誌より入手難易度は上))、これは誰でも買える一般書籍として登場したという点で画期と言える((ただし、TRPGとは複数人数で遊ぶものであり、会場を借りる文化が発達してない時代だと個人宅で遊ぶ物で、必然的に自分で持ってない雑誌でもそこで読んだ、という人間は多く(筆者含む)、「雑誌掲載記事」という単語のハードルは現代人が想像するほどには高くなかった))。
リプレイ文化と言うよりも日本のTRPGシーンに与えた影響の大きさで選出。著者は山本弘。元増田は『TRPGリプレイが多数書籍刊行されることにはならなかった可能性があるくらい、歴史上はとても重要な作品』と言っているが、これは過大評価であり、当時すでに「雑誌にリプレイを連載し、そのシステムを販売し、さらにリプレイ本や小説((ロードス島戦記1巻は1988年4月発行))や解説本も売る」が安田均の戦略なのは多少目端の利く人間なら理解していた((どんなに遅くとも、独自システムになったロードス島のリプレイ第3部(コンプティーク1988年9月号~)を見てそう思わない奴はいねーよ、ぐらいの相場観))。
いわゆる「スチャラカ冒険隊」のリプレイは月刊ドラゴンマガジン1988年11月号から連載が始まるが、このパートではそれまではただ退治するものだったはずのモンスターを違う視点で描き、当時の日本中の若者(筆者含む)に多大な影響を与えた。
「初期」とタイトルに入れたので80年代の話だけにしようかと思ったが、影響の大きさ的に触れた方がいいかと思って言及。不幸な出来事。警察庁広域重要事件117号(1988年~1989年)と同様に「オタクは迫害されている」との自己認識を強める契機となった。
アメリカ探偵作家クラブ賞受賞の推理小説。著者はシャーリン・マクラム。訳者は浅羽莢子。D&Dがよく分かる本を探しに行ったら本棚から出てきたので紹介。SF大会で起きた殺人事件を題材とするミステリ。SF大会のオタク的様相が描かれる。クライマックスではTRPGを使って犯人を追い詰めるので、小説形式リプレイにしか見えない謎仕様。今気づいたけど、152ページに出ている架空の書籍タイトルが「美女と野獣――マンチキンの国がとりもった結婚」とかで訳注は原義の「オズの魔法使いの国に登場する小人の国」としか書いてないけど、年代的にはジェフ・オカモトの方にひっかけた可能性が高いと思われる(余談が過ぎる)。
んんwwww増田氏、その意気込みは素晴らしいですぞ!でも、拙者は少々異なる意見を申し上げますぞ。まず、「一発バズりたい!!」という欲望、実に人間臭くてよろしいのですが、そのようにバズ目的で書くと、どうしても熱意が薄れてしまいがちですぞ。真に人の心を震わせる大作は、自分の思いを率直に、そして心から書くことで生まれるものと拙者は信じております。
増田氏の「しょうもねぇなー、俺」という自己評価、拙者はまったく賛成いたしませんぞ。誰しも初めは試行錯誤ですし、その過程が大事なのですぞ。ベートーヴェン氏だって交響曲をいきなり完璧に書き上げたわけではないのです。
だからこそ、少しずつでも日本語を書き続ける姿勢、一つ一つの言葉に積み重ねていく決意、それが増田氏の真の力を引き出すことになると拙者は信じております。頑張れ、増田氏!バズるよりもまずは自分の筆で本当に言いたいことを書けるようになることこそが大切ですぞよ!
ネットで見かけた、「自称」音大ヴァイオリン卒という人が言ってた話ではあるんだけど。
彼曰く
「チャールダーシュは自由度が高く奏者がいくらでもアレンジできる曲で、実際余興として弾かれるケースが圧倒的に多い時点で本格的なクラシックじゃないので、それを以て奏者のクラシックの演奏能力は測れない」
だそうだ。
いや、チャールダーシュはロマ音楽をリスペクトした作品であって、それはそれでどう弾くかは入念な考察が必要なわけで、自由度が高いなんて解釈は雑もいいところ。
だいたい、それだったらジャンルを同じくするスペイン交響曲やチゴイネルワイゼンだって、本格的なクラシックじゃないという話になるんじゃねーの?
と思ったら、その2つは難易度的な観点(チャールダーシュのほうが遥かに簡単かつ、上の2曲は音大受験レベルの難しさ)から、本格的クラシックなんだそうな。意味わかんねー。
とはいえ現実には、プロほどチャールダーシュを悪い意味で余興的なスタンスで弾くことが非常に多くて、そうやって弾かれたチャールダーシュは、残念ながらどれもこれもセンス的に微妙過ぎたり。
まあでも「それを以て奏者のクラシックの演奏能力は測れない」んだったら、好き勝手に弾いていいってことなんでしょうね、どうにもがっかりですわ。
音大卒しかもヴァイオリンとなると、それこそ音大入るまでに比喩でも誇張でもなく、文字通り「百万回さらってきた」人たち。
その時点で誰もがその場所に立てるものじゃないどころか、それを生き抜いてきただけでとんでもなく凄いと思う。
だからあんまりそういう立ち位置の人をdisることはしたくないんだけど…それにしたってあまりにレベルが低すぎないか???
アレか?音大はクラシックを本格的かそうじゃないかを、曲の難易度だけで選別するのが教育なんですかね??実に芸術的で頭が下がりますね。
そんなんだったら音大なんて行かなくて良かったって心底思うし、悪いけど「音大なんか行くもんじゃない」って周りに言いふらすことにさせてもらうわ。
anond:20240904032316についてたブクマカの初めて買ったCDのリリース年を調べた。
for (let a of document.body.getElementsByClassName('entry-comment-text js-bookmark-comment')) console.log(a.textContent)
ってやってテキスト集める。
Microsoft Copilotに「以下の文章に出てくる、音楽CDのタイトルとリリース年を一覧で表にしてください。」って指示。
途中で切れたので分割する。 続き→ anond:20240905115337
まとめるとこんな感じだった。
①吸引の際は結構咳き込む。心配されるくらい咳き込むけど、体感としては端から見るほど辛くない。
②5分くらいしたら、口の中がめちゃくちゃ渇く。渇いたときに水分がなくなるからか口の中は苦くなる。そして、身体の表面がそわそわする。強さによっては、この時点で揺れてる感じがしたり、回転してる感じがしたりして、気持ち悪くなることも。これは意識変容の最初のサイン。
③まずは、知覚が変容する。音が立体的に聴こえたり、色彩がビビッドに(赤と緑が強くなる気がする)なり、強さによっては少し歪む感じがすることも。そして五感が有機的につながって、ひとつの体験として感じられる。
④そこまできたら、感情が昂ぶっているのを感じるだろう。そして、思考がまどろんでいく。自分が何を考えてたか忘れちゃったり、距離の感覚が把握できなくなったり、腕が催眠術にかかったみたいに固定化されちゃったり、身体や足が椅子や地面と一体化しちゃったり。いわゆるストーン。個人的な体感として30分〜1時間くらいで落ち着く。
⑤上記と並行して、いろいろと気がつくことがある。この体験内容はセットとセッティング(心的構えと使用環境)によって大きく変わる。バッドトリップしないためにも、品質の良い大麻で、事前に偏見は取り除き、正しいセットとセッティングを整えよう。(当然、セッティングには安全な環境≒合法的な環境であることが望ましい点も含まれる)
⑥だんだんと普段生きている世界に帰ってくる。大麻では問題ないと思うが、意識変容体験であることは間違いないため、グラウンディング(心的着地感)についても気をつけよう。具体的には、黄泉がえりだ。つまり、あちらの世界(彼岸)からこちらの世界(此岸)へ、体験を持ち帰ってくるのであって、彼岸に魂をおいてきてはいけない。グラウンディングが適切に行えるかで、体験の質は大きく変わると思う。
個人的に、マリファナ体験でよく報告されるところの「マンチー」(食欲亢進)はあまり感じられなかった。
詳しくレポートしていく。
まず、体験した国名については推奨するわけではないから敢えて伏せておく。自分で調べてくれ。
もちろん、日本では違法だから吸うんじゃないぞ。合法大麻とか言って売ってる合成カンナビノイドもやめとけ。あれは信頼性の低いデザイナーズドラッグだ。最近は成分もよくわからんのが出回ってる。CBNクッキーとかまでにしておくといい。
さて、ここはとある大麻調剤薬局(ディスペンサリー)。清潔感のある店内で、店頭にはさまざまな品種のマリファナが取り揃えられている。価格としては、日本円にして1,200円〜2,800円/gほど。値段が2倍以上異なるのは、品種ブランドによるためだ。
マリファナには、文化慣習として大きく2つの品種分類があるとされている。夜の使用に適していると言われるリラックス効果が高いインディカ株、感情の高ぶりや笑い上戸、しゃべり上戸になりやすいと言われるエネルギッシュなサティバ株だ。なお、この分類は最近になって実際の化学構成(ケモタイプ)とはあまり関係がないことが明らかになってきていて、あくまで文化慣習的な目安だという。
ディスプレイされているさまざまな品種の前には、その効き方の目安として「意識の上昇」「多幸感」「意識の集中」「睡眠」「会話」などさまざまな効能が書かれている。私は、その中から3種類を選び、それぞれ1gずつ購入した。
ちなみに、購入したらその場でジョイントを巻いてくれた
さて、さっそく試しに吸ってみようと0.5gのジョイントを1本。同行していた友人とシェアしたので、半分の0.25gほどだろうか。火をつけてタバコと同じように吸い込んで、深く肺に入れる。
キック感がかなり強く、咳き込んでしまうわけだが、咳き込んで頭に血が上るような感覚ののち、段々と知覚が変わってくることを感じる。
まずは、口がすごく乾く。砂漠になったかと思った。あとは、少し喉が痛い。一気に吸い込みすぎたかも。喉が痛くて口が乾くから少し気持ち悪い感じがする。というか、世界が歪んできてる?酔っ払って三半規管が狂ったときみたいな、だけど意識はハッキリしてるみたいな、不思議な感覚が襲ってくる。
あれ、いつからここにいるんだっけ?あれ?今何してるんだっけ?聴こえてくる音楽が、風の音が、バイクの音が、なんだかすごく立体的に、リアル以上にリアルに感じるような気がする……
あぁ、そうだ。マリファナだマリファナ。いま吸い終わったんだ。5分くらい?経ったのかな?時間はー、えぇと、うん、進んではいるみたいだね。でも、進んでるとかじゃないよ。ただ、いまここに在るだけなんだから。
あぁー、完全にさっきいた場所とは違うみたいだ。いや、同じなんだけどさ。あれ、いまなに考えてたっけ?あぁ、そうだ。別の世界に来た感じっていうか。景色も随分とビビッドだし、鮮やかで、キレイだなぁ、あれ、時間って経ってるっけ?あぁ、腕が動かない。固まっちゃったみたいだ。あれ?なんか足が、足の裏が、地面が、あれ?どこから地面と足が分かれてるんだ?あれ?分かれてなくないか?一体じゃないか?
身体が椅子に、足が地面に根を張って、私はいつのまにか大樹になっていた。
1時間ほど経った後だろうか?だいぶ落ち着いてきて、立ち上がって歩けるくらいにはなってきた。まだ、世界は鮮やかだし、心は躍ってる。そのまま寺院観光に行ったけど、黄金に輝く仏像に、カラフルに彩られた建築が、なんだかこの世のものとは思えないほど荘厳に見えた。
上の体験記だけ読むと、ちょっと、いやかなり怖いものなのかなと思うかもしれない。たしかに、マリファナ体験の核となる意識変容体験は、認識に現れる世界をその根底から覆してしまうような、そんな衝撃があった。まさに、別次元の体験といっても差し支えない。だけど、不思議と怖いものではなかった。そこには、底しれぬ一体感があり、神秘の愛に包まれるような感覚がある。
思考がまどろんでいき、幸せな気分(THCの主作用に陶酔感、多幸感が含まれる)に包まれていく。「これはあれ」といったような識別作用、分別作用が弱くなっていく。だけど、不思議とそれを冷静に見つめる一つ上の自己みたいなものは保っていられる。そして、そんな変容意識体験においてしか、気がつけない「ナニカ」がそこにはあり、その「ナニカ」を受け取って日常世界に帰って来る。その体験は、さながら黄泉がえりであり、セラピューティックな気付きに溢れている。
自然の中での一服では、鳥の鳴き声、風の音、擦れる木々、すべてがハーモニーを奏でて聴いたこともないほど心地良い交響曲となっていた。
その日は一日観光をしてご飯も済ませたところで、23時頃だったかな。ホテルに戻ってきた。帰りに、ペットボトルに装着するかたちで使えるボング(簡易水タバコみたいな吸引器具)を買ってきた。個人的に、ジョイントでの喫煙は量の調整が難しいし、私は喫煙経験が浅いこともあって、こちらのほうがずいぶんと吸いやすく感じた。ボングの場合は喉の痛みもほとんど緩和されたし、氷水とかで試したらもっと快適そうだ。
それはさておき、ぶくぶくぶく。
もう慣れたもので、吸って5分くらいすると、口の渇きと身体のソワソワ感、その直後に「完全に別のリアリティに来た」という明確なテレポート感を感じたら、トリップスタートだ。
吸って30分くらいは、やはり少し混乱するし興奮する。2mくらい先にあるペットボトルを取りに行こうとするんだけど、動けない。なんというか、水取りに行こう、あれあんな遠くにあったっけ?あれ、何しようとしてたっけ?あぁ、水だ水。あれ、手を伸ばせば伸ばすだけ遠くにあるような感じがする。あぁ、もういいや、Let it be. だ、そういう感じ。
人間の慣れとはすごいもので、こんな超越体験でも1度経験してしまえば、体感のコントロールは効きやすくなる。30分も経てば、波は超えて、穏やかなチルタイムが始まる。
布団で横になって目を瞑ると、身体が風になって、世界の中空にただポツンと漂ってるような、そんなビジョンが浮かんでくる。ただポツンといる。そのはずなのに全く淋しい感じはしない。それは、まさに、風であるような体験だ。漂っている風はどこからか吹いてどこかへと消えていく、何かが振動し、その振動は空気を伝う。自然の振動は、どこかで区切られるものではなく、それは全体性の連関の中で生まれては消えていく。
風は一人ぼっちじゃない。この世界に〈私〉は一人しかいないし、実存的な〈私の世界〉は誰とも共有できない。だけど、ひとりじゃない。家族、友だち、社会、人間に限らずモノだったりコンピュータだったり、自然だったり、ありとあらゆる万物の関わり合いの中で、ただポツンとそこにある。そんな感覚が、ワンネスが愛そのものなんだ。
内省的で詩的なことを考えていたと思ったら、気が付いたときには朝だった。眠っていた。こんなにも熟睡できたのはいつぶりだろう、というくらい本当によく眠れた。眠りに入っていくその瞬間まで愛に満ちたまま眠れた。
もう3ヵ月以上前の話。日本に帰ってきてから無理をしてまで入手して吸いたいとは全く思わない。
あったら幸せだけど、捕まるかもとか勘繰りながら使ってたら安心してチルアウトなんてできたもんじゃないからね。それなりに異常な体験だし、セットとセッティングには気を付けたい。
いずれにしても、1回吸ったら廃人になる、気づかないうちに依存症になってるなんて類のものではない。世界でも解禁の流れは進んでるんだし、もうちょっとマトモな議論をしたほうが良いんじゃないの、とこの間のアベプラを見て思った。
俺のところは九州の地方都市(福岡市じゃないよ)なんだけど、結構クラシック音楽とかのハイカルチャーが盛んな旧城下町なので、全国どこでも同じだというわけじゃないとは思う。
そういえば、俺の入った小学校は普通の公立小学校(市立)なのにオーケストラ部があったよ。入学式でシューベルトの交響曲の出だしのところを演奏してくれたのを覚えている。
やっぱりその辺の話だよな。
それは地域差も時代差もあると思う。最近は以前とくらべるとピアノ人気はだいぶ下がったみたいで、このへんでも散歩しててもピアノを練習している音が聞こえてくることがほとんどない。それと、地域差というのは、たとえばサッカーが盛んな地域もあればそうでない地域もあるでしょ。そういうこと。
俺のところは九州の地方都市(福岡市じゃないよ)なんだけど、結構クラシック音楽とかのハイカルチャーが盛んな旧城下町なので、全国どこでも同じだというわけじゃないとは思う。
そういえば、俺の入った小学校は普通の公立小学校(市立)なのにオーケストラ部があったよ。入学式でシューベルトの交響曲の出だしのところを演奏してくれたのを覚えている。
日本を代表する世界的指揮者の小澤征爾さんが死去された。ご冥福をお祈りしたい。
だがよく分からないのは、なぜ小澤征爾が世界的に評価されたのか?である。
長年にわたってアメリカの名門オーケストラであるボストン交響楽団のシェフを務め、後に世界三大歌劇場の一つであるヴィーン国立歌劇場の音楽監督に任命されたのだから、欧米で高く評価されていたのは事実だ。
だが小澤征爾の演奏を聴いてもそこには指揮技術の巧みさは感じるが、音楽表現に個性が感じられないのである。音色的に白色に近い透明で、蒸留水のような無味無臭な感じがする。
例えば、クラシック音楽のオーケストラのメイン・レパートリーはまず第一にモーツァルト・ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーといったドイツ・オーストリアの交響曲であり、そこにやや邪道のマーラー(オーストリア)とRシュトラウス(ドイツ)が加わり、その周辺にチャイコフスキー・ムソルグスキー・プロコフィエフ・ショスタコーヴィチなどロシア・ソ連音楽、スメタナ・ドヴォジャークといったチェコ東欧音楽、グリーグ、シベリウスなど北欧音楽、ドビュッシー、ラヴェルなどフランス近代音楽で構成されている。
で、その最もメインのモーツァルト・ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーの交響曲を聴くとき、その素晴らしさを味わうならばワルター、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤン、アッバード、ラトルといった指揮者で聴くのが普通だ。日本人指揮者で聴くなら、朝比奈隆や小林研一郎を聴くというのも分かる。
ベートーヴェンやブラームスの交響曲のような最も王道の曲目で、あえて小澤征爾の指揮した音源を聴くという人は、どこがどう良いのかを自分の言葉で説明して欲しい。
「ボストン交響楽団やヴィーン国立歌劇場のシェフに任命されたんだから欧米では高く評価されているんだよ。だから素晴らしいのは間違いない」みたいなのは一切禁止な。それは自分の耳で素晴らしさを認識したんじゃなくて権威の意をかる狐だから。
1. コードは真理のラビリンスであり、バグはその奥深くで永遠に迷子になる存在。
2. 真のプログラマーは夢の中でコードを書き、覚めてからそのコードが実在しないことを理解する。
3. プログラムは宇宙のダークマターのようであり、その存在を感じることはできても、観測することは不可能である。
4. コードはフラクタル次元の曼荼羅であり、バグはその中で永遠に回帰し続ける。
5. プログラマーは時空を歪め、コードの中で過去と未来を同時に見ることができる。
6. コードは未知の言語で書かれ、プログラマーは解読の旅に挑む。
7. デバッグは自己の反射であり、バグはその中で無限に反射し続ける。
8. プログラミングはマルチバースの探求であり、バグは別の次元から侵入してくるエージェントである。
9. コードは異次元の文明からの通信であり、プログラマーはそのメッセージを解読する使者である。
10. プログラマーは宇宙のコンダクターであり、コードは宇宙の交響曲である。バグはその交響曲に独自の不協和音を加える存在である。
【追記】
ブコメ、千回聞こうが自分の中では初心者。結局CD4枚しか持ってないし、クラシックって演奏者と指揮者が違って、これ!という演奏になかなか出会えない。
てかクラシック聴いてないのか。聴いてると思ったんだが。なんか教えてくれ。伸びる増田と伸びない益田の差が激しい。
クラシック初心者のまま中年に差し掛かった者ですが、重厚すぎてガンガン来るクラシックは苦手なんだけど、
高校のときにたまたま出会った、軽やかで柔らかい数枚のクラシック音楽のCDが好きで好きで、千回ぐらいは聴いている。
けどさすがにもう少し対象を広げたくなったので、そのCDを挙げるから、そこからオススメを教えてほしい。
ここで「軽やかで柔らかい」ってのは、専門知識が無いので完全なイメージなんだけど、
・休日の午前中にリラックスしたいときに聴いたら心と体がほぐれる感じ
・品の良いパーティーや気の置けない仲間たちと喋ってるときに話を邪魔しない感じ
いわゆるヒーリングミュージックというのでもなくて、寝ながら聴いてますよりは、ちょっと椅子に深く腰掛けて聴きたい感じ。
説明が難しいけど、CDの説明文とかを見る限り、ただ癒やされるだけでなく、一定の華麗さ・典雅さが欲しいのかも。
素人でもどこにフォーカスして聴けば良いかわかりやすいからどちらかと言えば交響曲よりは協奏曲の方が好き。
あとや室内楽、クラシックギターやバイオリンの独奏とかでも好きみたいです。
① モーツァルト:ディヴェルティメント集(トン・コープマン指揮、アムステルダム・バロック管弦楽団)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00005OOI0/
https://www.youtube.com/watch?v=MeQeHNFdvLo
これでクラシックの魅力を知った。ディヴェルティメントというのは他にも何枚も聴いたけど、結局これより好きなものはなかった。
疲れているときでも聴けて、クラシックの解像度の低い自分のような人間でも、千回以上は聴いてるけど飽きることなく、
「ここの旋律美しいなー」とか「ここ息が合っててプロって凄いなー」とか「上品な規律って最高だな」とか毎回のように思える。
それになんか元気になるっていうか。聴いたあと、さて誰かと軽く喋りたいなとか、○○は元気かなとか、美味しいランチを軽く食べるかってなる。
https://www.amazon.co.jp/dp/B002SDO1AM/
これもモーツァルトのディヴェルティメントほどじゃないけど千回ぐらい聴いてるかも。演奏自体も柔らかい感じがする。
その意味では、曲だけでなく、室内楽だと演奏者、交響曲や協奏曲だと楽団・指揮者も知りたいかなー。
他にも2枚かあるけど、とりあえずこの2枚で・・・。
「クラシック音楽で最もメタルな瞬間 10選」という記事がかなりブックマークされていたので、
クラシック楽曲を引用したHR/HM関連楽曲で個人的に好きなものを少し書いてみようと思う。なお、リンク先は公式の動画に限定している。
曲名: No Mercy(よくネタにされる例のアルバムジャケットが見れます)
https://www.youtube.com/watch?v=Gdl8r2i5FwU
2:20付近から始まるパートが引用部分で、Yngwieはこのパートのみの動画も上げている。
https://www.youtube.com/watch?v=QyvRkBkm_3w
Yngwieは協奏組曲を作曲し新日本フィルとコンサートも行っている。
曲名: Difficult to Cure(武道館のライブバージョン)
https://www.youtube.com/watch?v=jp48fMchnuc
なぜこのバージョンなのか。その答えは4:00あたりからの歓声と音を聞けばわかると思う。公式の映像動画はなかった。
なお、RainbowではCozy Powellがドラムソロでチャイコフスキーの「序曲1812」を使用していた。
DVDはあるが公式の動画は見つからず。シンバルの叩き方がとんでもなくカッコいい。
曲名: Haydn Symphony No. 88 Finale
https://www.youtube.com/watch?v=qyZACyXFIVI
引用というよりはカバーに近い。小気味好い演奏でニッコリしてしまう。
余談だが、同パートをLeonard Bernsteinが指揮している動画がある(公式は見つからず)。
Bernsteinは出だしだけ指揮棒を振るが、それ以降は顔や体の向き、表情や目線で指揮をする。とても幸せそうだ。
「Haydn Symphony No 88 Bernstein」などで検索するとすぐ見つかると思う。
引用: バッハ「無伴奏パルティータ BWV 1004: IV. Gigue」
https://www.youtube.com/watch?v=V6rF_c_UkoA
こちらも同様にカバーに近い。検索すると引用元をHilary Hahnが演奏しているのがでてくる(https://www.youtube.com/watch?v=YE5IkQP5xA4)。
2023年春アニメの「青のオーケストラ」では彼女の演奏を聞くことができる(https://aooke-anime.com/news/05.html)。
以下抜粋
私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。
私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。
これがわれわれの希望である。この信念を抱いて、私は南部へ戻って行く。この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができ るだろう。この信念があれば、われわれは、この国の騒然たる不協和音を、兄弟愛の美しい交響曲に変えることができるだろう。この信念があれば、われわれ は、いつの日か自由になると信じて、共に働き、共に祈り、共に闘い、共に牢獄に入り、共に自由のために立ち上がることができるだろう。
まさにその日にこそ、すべての神の子たちが、新しい意味を込めて、こう歌うことができるだろう。「わが国、それはそなたのもの。うるわしき自由の地 よ。そなたのために、私は歌う。わが父祖たちの逝きし大地よ。巡礼者の誇れる大地よ。あらゆる山々から、自由の鐘を鳴り響かせよう。」
元増田氏( anond:20230203192604 )の対応は大変誠実だと思うので、特に言及する事はないのだが、
表題のようなことを思ったのでつらつらと書く。 anond:20230205085517 みたいなこと言う人もいるし。
ベートーヴェンの交響曲だとバラ売り不可なのはどう考えても第5番だ(いわゆる「運命」。運命と呼ぶのが正しいのかについては深入りしない)。
あまりに有名な冒頭の「ジャジャジャジャーン」を楽曲全体でいろんな風に使いまわす形で曲が構成されており、最終楽章だけ聞いてもあんまりピンとこないのだ。あんまりメロディックでもないし。
むしろ第1楽章だけ、の方がまだ演奏機会があると思う。
このへんのバラ売り可能不可能は交響曲というジャンルの中でも色々で、それこそゆるいセットリスト的な感じで楽章と楽章の関連性は希薄なものも少なくない。
そーゆーのは結構バラ売りされる。なにしろ曲の構成とか主題の変容とか抜きにして「それ単体で聴いてもカッコイイ」というプリミティブな良さってのは大きな武器なので、
作曲者の意図がどうあれ、バラ売りはされる。そういうものだ。ベートーヴェンの交響曲第7番のノリノリでダンサブルな終楽章( https://www.youtube.com/watch?v=uPRpUXlBel4 )とか。
で、ベートーヴェンの第9に戻るわけだけど、
第9はそれまでの交響曲に対してパンクというかメタな構成の曲だ。
第5みたいな緻密な主題の展開とかは3楽章まででやり尽くしてしまう。
そのうえで、終楽章で突如ソロボーカルたちと大編成の合唱がぶち込まれ、
「こんな曲じゃなくてもっといい曲やっちまおうぜ!」(乱暴に言うとそういう歌詞だ)つって歓喜の歌が始まるのである。
極論、第9を続けて聴く意味というのはその「今までの交響曲のありようを覆すメタでパンクな仕種」を味わうことにあるので、
直接それまでと歓喜の歌に繋がりがあるわけではない。
んで、歓喜の歌は単体でアガる曲(そーゆー魅力があるから後の世に残っている)なんで、そこだけ聞くのはむしろ全然アリだし、
なんなら3楽章までは手の込んだ退屈な導入にすぎない(暴論)。
ブコメの人、なんで第9を引き合いに出したのか、正直謎。
単体で楽しめるカッコいい部分がある長い曲は、全曲を聞く楽しみもあるけど、そこだけ聴いて楽しんだって、全然問題ない。誰だってそーする。おれもそーする。
前回のあらすじアルバムで音楽を聴くというのがやはり理解できない
とにかくお前らの言い分を把握するために一通り聞いてみることにした。
どうせ家では一日中パソコンの前にいるからゲームしたりSNS見ながら聞いてりゃいつの間にか大体消費しきれたぞ。
最初に言っておくが12勝8敗であったとこっちは思ってる。
こっちの勝利条件は「これは単なる詰合せであり単品で買えば良いものがお得に集まってるだけだ」とこっちが思ったかどうか。
逆を言えば「このアルバムの曲はこの曲順と組み合わせじゃないと駄目っぽいな」と感じたらそっちの勝ちだ。
そもそもなんで勝ち負けなんか決めなきゃあかんのかは知らんが、お前があんまり反論してくるせいでこんな感じになっちまった。
これがコンセプトアルバムだ!みたいに言う割には似たような曲を揃えて最初と最後にそういう設定を入れただけじゃんっていう。
これこそまさに「詰め合わせセット」だ。
なんだろうな……まさしくアルバム単位で売る以外のやり方が存在しなかった時代の遺物って感じ。
「交響曲というシステムをパクってみせることで抱き合わせセットを売りつける」というアイディアを持ち込んだのは凄いと思う。
だが今の時代にこれを聞かされても「その市場に他所のアイディアを持ち込んだ事が凄いだけ」としか思えんね。
むしろ「コンセプトアルバムのスタート地点はこの程度だった」という意味で、音楽業界が歩んできた距離の長さを感じた。
まあ「参考」にはなったよ。
「100年前、100m走の世界記録は10秒6だった。この100年で人類はそれを1秒丸ごと縮めたのだ」みたいな「感動」もね。
これも普通に詰め合わせパック。
ある程度時代が固まっているけどその中でも方向性がいくつかあるんだなーって感じで終わってる。
まあ「一時期を切り取っている」というコンセプトの公式プレイリストとしては成立してるんでファンがCDラックに並べてニンマリして時折聞くためのファングッズとしてありなんかもだが、それシングルでもよくねっていう。
izumiya1948 例えばベートーヴェンの第九を第4楽章から聴く(第4楽章しか聴かない)、なんなら「歓喜の歌」だけでいい、ようなやつなんだな。
単品で聞いちゃ駄目なのか?
それなら駄目な奴ばっかだぜ日本人は。
音楽オタク様にゃそういう粗雑なイエロモンキーと同じ血が流れていることがずいぶんと恥ずかしいらしいねえ?
進歩はしているがサージェント・ペパーズの域を出てない印象だ。
ある種の時代を切り取っている感はいいが、その背景にある時代の物語を描ききれているかという微妙。
未来趣向をテーマにした結果として発売当時の時代感の再現が弱まっている気がする。
うーん……シングルで聞いた場合との違いがあんまりわからない。
異世界冒険譚とか人生の底でファイティングポーズみたいなコンセプトの曲だけで固めていれば……と言う気もしなくはないがそれでも単なる詰合せになりそう。
まあお得ではあるとは思う。
mamemaki こういう人がいるからプリンスのlovesexyは曲送り出来ない形でリリースされたんだよね。「黒人の命のようにアルバムも大事」とはプリンスの言葉。
この曲は売れてるんだろうなあってのがあるのはいいんだけど、そこまでの流れにきちんと相乗効果があるかって言われると微妙な気がする。
当たりと微妙が入り混じった福袋をそれっぽく並べ直しただけというか。
ランダム再生よりはちょっと上なんだろうけど、アナリーゼ100%の作者本人が並べ直した割にはって感じ。
これなら当たりの曲だけで聞く側が自分でプレイリスト作ればよくねって気がする。
ただ詰めているだけじゃない気はするけど、この順番で聞かせることを推奨するだけの何かがあるのかという疑問が。
anepan 椎名林檎のアルバムの曲構成が線対象になってる話とか曲名の頭文字を拾うとアルバム名になってるプロトタイプナナクジャクの話する?
だから何?って感じが凄い。
単にパッキングされた曲を聞いてるだけなのにLIVEにおける曲感のMCやちょっとした特殊な入り、繋ぎに似た感覚が得られる。
ライブ・ビューイングの缶詰を開けたような体験だ。
なるほどこれはアルバムじゃなきゃ無理だな。
だが逆を言えば、この感覚がない大部分のアルバムはシングルをユーザーがプレイリストにしたものと大差はない「詰め合わせパック」でしかないということなのでは?
映画のようなある種の段取りに合わせて何か長い物語のイメージが共有されていくような錯覚がある。
音楽によって表現したい世界観をいくつもの曲を組み合わせることで多角的に伝える感じか。
相互に作用し合うことで一つ一つの曲の解像度が単品よりも上がっているな。
単品で聞くと「あの映画の曲だ」にしかならなかったモノが、その奥にあるTMの世界観に意識を向けられるようになる。
なるほど、ドラクエ1~3を詰め合わせて一気に遊べば世界観の解像度が上がるに決まってるだろという話か。
単品で聞いても意味わかんねになるような曲をいくつも聞くことでいつの間にかノリが見えてくるこの感じはアルバムじゃねーと無理だわ。
強烈なクセや世界観があるアーティストにとっては束ねることによって理解度を深める機会を得られるアルバムは追い風になるか。
レイン・ドッグと比べると単品でも成立しやすい曲は多いがシナジーの効かせ方はそれ以上にさえ感じる。
この辺は公式推奨プレイリストとしてしっかり仕事してるのでアリだと思う
narukami ユニコーンの風を聞いた後忘れた頃に風IIがかかるからいいのであって風IIが先に来たり連続してたりするとあまり笑えないので
はい。
実物聞いたらまさにその通りでした。
初めて聞いたがいいバンドだな。
表題曲を聞かせるための下準備に1/3を使って、その後もマイルストーンになる曲によってアルバム内でサビの曲みたいなのを作っていってる。
捨て曲があるという程ではないけど盛り上がる曲とそれ以外にやはり別れるんだが、その中でいい感じにカタルシスを得られる。
単に好きなものを詰めただけの個人制作プレイリストではやりにくい、「公式から押し付けられたプレイリストだから貯めを委ねられる」みたいなノリだなあ。
「三部作のセットは、ただの詰め合わせではない」とでも言いただけだな?
どうやらそうらしいな。
なんだったんだこの戦いは……
ここまでやられると「コンセプト」を認めるしか無い。
「コンセプトアルバムっていうけど似たような曲詰めてるだけだよね~~~」ぐらいの奴多すぎるから油断してたわ。
本当にコンセプト突き詰めるとここまで尖るのね。
味が定期的に変わるすげー長い千歳飴食ってるような気分だ。
いやいやこれは映画のストーリー通りに音楽が流れてくるだけでしょ。
……いや……それでいいのか……。
物語にそって流れるサントラはそれ自体が巨大な物語を表現した一幕のオペラか。
いやいや……それは反則だろ。
あーでもアルバムの定義次第だからサントラが無しとは言えないんだよな。
じゃあとりあえず負けでいいや。
あちこちで言われているだけはあるな。
噂の「猫背の虎」とやらを一番最初にやることで「どういうコンセプトのバンドであるのか」を紹介してくるのか。
最初の数曲は全体的に基礎コンセプト紹介しつつ万人受けしそうな感じの曲が並んでいて、「まずは名刺配りますんでよろしくお願いします」みたいな礼儀正しさがある。
そういう態度を取られるとこっちもまあ残りも聞いてやろうかなってなるな。
いきなり「忘れてやんない」とか言われたら「は?お前がそもそも誰?」にしかならんかったと思うし。
アルバムという形に込めた一つのライブという感じだが、押し付けがましいようなコンセプトもなくただ満足した気持ちで聞き終わった。
単純に出来がいいアルバムは単純に出来がいいので単純に評価が高くなる。
オタク君に人気のスパロボ歌手だと思ってたけど、オタクくんもライブ行ったら最後の曲で肩組んで「ララ~~ラ~~ララ~~~ラ~~~」って脂ぎった体でやるの?
というイメージが浮かんできた時点で今回のルール的には完全にこっちの負け。
曲順によってこういう曲単品で聞いただけでは存在してなかったであろうビジョン見せられるアルバムの例として良かったぞオタク君。
この話題でそれ出されても「そりゃそうだろ」にしかならんと思う。
ああいうのは一つのミュージカルを章ごとに分けてるだけだからアルバムって名前だけど実際には「長大なシングルに近い」と思うぜ?
こっちは別に「スターウォーズなんて三部作最後の3と6だけ見ればいいじゃん。どうせ途中の話は前回までのあらすじって感じで分かるだろ」みたいなことは言ってないぜ?
同上。
音と向き合える素晴らしい名盤だとは思うが、「この組み合わせ、この曲順でなければいけない」と言えるかというと微妙に思う。
まさに「お中元用の定番セット」のような……最高が揃っているが、最大公約数的な組み合わせには凡庸さがあるという印象だ。
まあ期せずしてベストアルバムみたいになってしまった物の一種として考えれば最高にお得だし、これを買った当時の人達は盛り上がったんだろうなと思う。
今の時代になってから戻ってきて「こんなの自分でプレイリスト作れば~~」と言っているこっちがおかしいのは分かるが、「アルバムってのはよ~~単なる詰め合わせじゃなくてよ~~~」で上げてくるのもなんか違うと思う。
さてまあ今回色々と紹介してもらったわけですが、アルバムごとに個性ってやっぱあるもんですね。
そもそも個性のあるアルバムみたいな題で聞いてるんだからそうなんですけど、どういう形を目指すかっていうのが色々あったと思います。
アルバムってシングルと違って「始まり」と「終わり」があるわけで、そうすると勝手に他のも「始まりからいくつ」とか「ちょうど真ん中ぐらい」とかになるわけで、するとそこに何らかの意図が絶対産まれるんですよ。
シングルだと結局はメインとサブっていう真っ二つの役割だけになりがちで、何故この流れでこの曲を流すのかの意味が単品で感じさせにくくなる。
もちろんアーティストの歴史の中で曲を出した順番やタイアップ、近況とかも把握して追っているファンであればそれぞれの中に意味を見いだせるんでしょうけど、そういった意味をキャッチアップするのは音楽を日常的に聞くほどではない人間には厳しいです。
アルバムはその点において構成によって意味を補ってくれるというか、「曲を単品ではなく何らかの奥行きを持って味わいたいけど、そのために調べるほどの気力はない」って人間にマッチする部分があると感じます。改めて感じました。
「お得な詰め合わせ」というのも単に悪い意味だけでなく「シングルにあの値段を出すほどの熱意は音楽に持てない」という人間でも新しい体験にドンドン踏み込んでいける緩さがあると感じます。
ただ、そうして手に取ったアルバムがただ「とにかく最近のを入れました」だと、ずっと追ってきた人なら「最近はこういうのが増えたんだね」と感じ取れたとしても、そうじゃない人間は順番に曲を聞くだけ、それもシングルほどには気合の入ってない、時には捨て曲のようなものが混じった体験をすることになるわけで。
この辺がちょっと悔しいと素人は思ってしまうんですが、音楽が好きな人はそういった「シングルなら世に出られなかったような曲」も味わせることにも価値を感じたり出来るのかなと羨ましくもあります。
今回漠然と「勝ち」「負け」なんて決めたわけですけど、実際にはそれぞれの価値観において音楽との向き合い方があり、そこに他人をいちいち踏み込ませたくないようなパーソナルスペースのようなものもあると思うと、ちょっと言い過ぎたのかなと思いますので最後に一言誤ります。ごめんね。m(_ _)m