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はてなキーワード: タデとは

2021-03-04

anond:20210304195523

それってさ「景色」じゃないの?

北海道じゃないとみることのできない景色

そういうの見て、感じる人は、地元を出るかどうかにかかわらず、なんか行動するわ。

北海道は優れた音楽家も生んでいる。

イタリアも、考えられないようなアーゾロとかの村やチッタデカステロ町みたいな人口数百のド田舎に住むのが多く、そういうのは歴史にしっかり残っている。

「ここでしか見ることのできないもの」を見て感じてしまった人間は、知能にアクションでも入るんだろうね。

2021-03-03

ガチャピン政権が「嫌い」という発言をする権利禁止する法律を制定してから10年が経った未来

コロナによって東京オリンピックの開催がおじゃんになった世界線2031年

世は禁酒法ならぬガチャピンが定めた禁嫌法から10年が経っていた。

かつてガチャピンの片腕であったムックは禁嫌法の緩和を訴えるも反嫌法に基づいて電気椅子に送られてしまっていた。



「嫌い」をキめたくて仕方がない人々は、

はてなというアングラサービスを使い日々「嫌い」という感情をぶちまけるのであった。

それを取り締まろうとするガチャピン警察たち。

しかし「嫌い」を表明する場を提供するはてな

ガチャピン警察たちの努力あざ笑うかのように

人々の欲望を取り込み闇の世界でその勢力を拡大させていった。

その過程で多くの憎悪クリエイター誕生した。

憎悪クリエイターの多くは、反プリキュアニストであった。



いったい、どうしてこんなことになってしまったのか?

このようにきわめて重大な法令を、

国民はなぜこのように圧倒的に、まるできまぐれのように受け容れたのだろうか。

コロナ流行は禁嫌指導者に大きなチャンスを与えることになった。

完全禁嫌プログラムには反対していたはずの人びとの注意はコロナに奪われ、

国家存亡の危機に際しては、人間自由意志などは些細なことだと考えられた。

またコロナは、ガチャピンに広範な権力を与える思いきった法律制定に、国民を馴らしてしまった。

感情節約必要となり、感情節約手段として、ガチャピンリベラリストたちに禁嫌奨励することになった。

ガチャピンは、世論をすべてLGBT賛美に変えた。 

憲法修正ガチャピン条はその自然表現だが、コロナはまたスパルタ理想主義ムードをもたらした。

すべてのものマイノリティ繁栄のために犠牲にされた。

マイノリティが良いものであり、マイノリティ生産能率の良い存在であるならば、禁嫌論議は、さしあたり反駁余地のないものだった。

一方、国民ユートピア的な理想を抱いていた。

もしこのコロナとの戦いがすべての争いを終わらせるものであり、勝利が新たな輝かしい世界秩序をもたらすことを可能にすると考えるならば、

この効果的な禁嫌を無限に続ける時代に入っていくことを想像するのは、いかにも容易であった。



そして結局、コロナとの戦いは国民を、即座に結果があらわれないと苛立つように変えてしまった。

2022年2023年は、やる価値のあるものは何でも、官僚手続き反論や快不快や便不便を無視して、即刻やる価値がある、ということになってしまった。

こうした諸勢力の結合は、抵抗し得ないものだった。国民は熱病にかかったように、息せききって、禁嫌のユートピアへの近道を選んだ。

アレン/藤〇ミネ訳『オンリーイエスタディ』2033 ちく〇文庫 p.328-330>




もうちょっとムック活躍させてあげたかった…

50ブクマまでいったら電気椅子の刑を受けたムックは実は死んでいなかったで第二章書くわ

2021-02-01

社会学は滅びるべきなのか

 以下の文章は、社会学客観性が無いか学問の体をなしていないか解体すべき、という暴論を見かけて、趣味社会学を学んでいる人間イラッとして書き散らしたものです。専門家によるまともな読み物としては、盛山和夫社会学方法立場: 客観性とはなにか』(2013)、佐藤俊樹社会学方法――その歴史構造』(2011)(たまたまですがどっちも東大系の人ですね)、あるいは以下で紹介する「客観性論文」やそれ関係論文などがあります。ちなみに「岩波科学科学論文」の人に関しては擁護のしようも無いと思います

 たとえば、この宇宙スパゲッティモンスターによって創作されたという誤ったイデオロギーを抱えた科学者がダイナマイト発明したとして、ダイナマイトは誤った発明であるとか、あまつさえ存在しないということにはなりません。それはそれ、これはこれ、という態度が科学的というものでしょう。しかし、誤ったイデオロギー社会学者が抱えることは望ましくないとされます。なぜでしょうか。

 それは社会社会問題が、原子DNAが「存在する」のと同じ意味では「存在する」と言えないことに根本的な原因があります。たとえばホームレス現在社会においては色々な意味問題とされていますしかし、ホームレス人類の定住以前においては間違いなく問題概念として存在していませんでしたし、中世近世においても今日と全く同じ問題としては存在しなかったことでしょう。原子がこの宇宙の始まりから今と同じように存在していたのとは対照的です。ホームレスを扱う社会学が、物理学生物学と比べて胡乱なものに見えがちな理由はここにあります。誤ったイデオロギーを抱えた社会学者は誤ったもの存在するとみなしてしまいかねないのですね。

 しかしだからといって、今日ホームレス問題としてまったく「存在しない」と言い切ることはできないのもまた確かな実感でしょう。原子の「存在」とは別の意味とはいえ社会社会問題は確かに存在」する、と言いたくなります。「実在」と「非実在」のあいだの独特な在り方。社会学者はそのことを「社会実在」のような言葉で表してきました。これはいかにも怪しい物に思われますしか今日における我々が「ホームレスになりたくない」、「ホームレスが怖い」、あるいは「そうしたホームレスに対する差別的見方こそが問題なのだ」と思っているのもまた確かなことです。およそ100年前、そのことを単に思うだけでなく、その思い自体を当時隆盛しつつあった科学方法分析しようと考えた人々がいました。

 マックス・ウェーバーの「社会科学社会政策にかかわる認識の『客観性』」(以下、客観性論文)という1904年論文がありますウェーバー社会学におけるビートルズであり、この論文イエスタデイくらいの重要さと著名さを誇ります。要するに、まともに社会学をやっていればなんとなくは知っているべきもの、という位置づけでしょう。(ちなみにLet it beは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。読んでいないのは許されない)

 とか言いながら私は手元にその本が無いので、ネット記述に頼りつつ思い出した記憶で以下のことを書くことをお許しください。

 ウェーバー客観性論文のなかで社会学者がよって立つべき「価値自由」という概念提唱します。この主張はしばしば「価値判断をしてはならない」とか「価値判断に影響されないデータだけを虚心に扱うべきである」といった主張として誤解されていますしかしそうではなくウェーバーはここで「社会学者もまた人間である以上、何かの価値判断を持ってしまうことは避けられない。そして価値判断は時として認識を狂わせる。しかしだからこそ、社会科学的に取り扱う社会学者は価値判断認識区別しなければならない。そのためには自分の持っている価値判断に対して敏感でなければならないのだ」といったことを主張していたはずです、たぶん。客観性論文については多様な読解や批判がなされている(上に私の手元にその論文が無い)ので客観性論文の内容についてはこれ以上立ち入らないことにします。以下ではその代わりに、客観性論文に関する微かな記憶を頼りにしながら、社会学客観性について考えてみたいと思います

 たとえば次のような主張がなされることがあります。「数字は嘘をつかないが、数字を使う人(社会学者!)は嘘をつく」。けだし名言でしょう。しかし、社会学であるならばもっと深く考えなければなりません。ここでは「ホームレスの人数」について考えてみましょう。ここで名言に従って単純に考えるのであれば次のようになるでしょう。ホームレスの人数は、数学物理における定数のように誤ることなく(それを測り間違うことはあるかもしれないが)存在しているが、それを多いとか少ないとか、それを減らすべきだとか主張する人は誤ることがある、と。

 後半は確かにそうでしょう。しかし、前半は間違っています。たとえば、日本政府ホームレスについての統計を発表していますしかし「国民税金を使ってホームレスの人数を数えよう」という時点ですでに何かしらの価値判断が働いています。そのことは政府サイトに「ホームレス実態に関する全国調査」が載っていて、「鼻くそをほじって鼻血を出した人の実態に関する全国調査」が載っていないことを考えてみればわかるでしょう。こうした極論を言うと、「どちらも数字としては存在するが、後者はただ(未発見物理性質のように)見つかっていないだけだ」と言われるかもしれません。しかしたとえば日本政府ホームレスに関する調査は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法第2条に規定する「都市公園河川道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」」を対象にして行われているようですが、ここからはいわゆる「ネットカフェ難民」がその統計から漏れています。これは単なる「測り間違い」なのでしょうか。そうではありません。「ネットカフェ難民」をホームレスに入れるべきか、あるいはそもそもネットカフェ難民」をそもそも問題」とすべきかこそが、ひとつ価値判断であるのです。「ネットカフェ難民」を入れたホームレスの人数と入れないホームレスの人数、どちらが正しいでしょうか?それは重力加速度として2m/s^2と9.8m/s^2のどちらがより正しいか、という問いのようには答えが出そうにありません。

 社会についての数字は、自然科学における定数のようには存在しないのです。つまり社会における事実は、自然科学における事実のようには存在しません。そのような状況で、いかにして社会科学的に扱うことができるでしょうか?

 もしかしたらそもそも可能かを問う以前に、そんなことを目指す必要があるのか疑問に思う人がいるかもしれません。あるいはより直裁に「社会科学的に扱う学問社会学って何の役に立つの?」と聞かれることはしばしばあります。それには多様な答えがありうるでしょうが、私は次のように答えることにしています。「何かの役に立つわけでもないのにやらずにはいられないのが科学の出発点なのだ」と。人間が持つ認識能力や、何かを書く/描く、喋るといった能力は、生存する上での必要から発達したはずです。自分の周囲を見渡す能力や、自分が見た物事他者に伝える能力は、それを持っていない種よりも生存上の有利をもたらしたことでしょう。しか人間は、その必要性を越え出たところまでその能力を、あるいはその能力によって生み出すものを発達させました。それは、芸術とか哲学とか、あるいは科学とか呼ばれるものです。存在しない風景を描くことに、どんな必要性があるでしょうか?死後の世界を思い描くことに、どんな必要性があるでしょうか?そして宇宙の星々の表面を調べることに、どんな必要性があるでしょうか?こういうことを言うと、次のように返されるかもしれません。「芸術哲学生存に不必要かもしれないが、いまのわれわれは科学無しには生きられないではないか」と。まあ、確かにそうです。でも、それは科学根本的な不必要性を否定するものではありません。人間ホモサピエンスは、ニュートン万有引力発見する以前からずっと世界覇者であったではないですか?それでもニュートン万有引力発見したのは、「世界のことをもっとよく知りたい」という、ただ生きるためには不必要知的欲求、こういってよければ人間特有本能からであったはずです。「ただ生きる」ことに飽き足りないのが今の人間であり、そうした人間が生み出したのが芸術哲学科学です。そのうちの科学欲求が、これまた不必要に複雑化した社会のありように向かうことも、私は自然なことだと思っています。先のような問いをする人には、正直に言えば「なぜあなた社会について科学的に分析したいと思わないでただ生きていられるのですか?」と私なんかは思うのですが、これはさすがに社会学に頭をやられてしまった奴の意見でしょう。ほかの社会学者はもっとうまく説明することができるはずです。まあ、そんな可哀想な奴もいるんだなと思っておいてください。でも実際、「社会に対する科学認識って必要?」と言われたら、究極のところ「認識したいんだから仕方ないじゃん?」としか私は返せません。なのでこの問題放置して次の段落に向かいます

 さて、いか社会科学的に扱うことができるかという問題でした。その問題は、社会に「存在する」もの数字が、ふつう科学が扱うもの数字と同じようには「存在しない」、というところから発生しているのでした。より明確に言えば、社会実在は、それを観測する人や社会価値判断を抜きにしては存在し得ないという独特の性質を持ちます。たとえば「ネットカフェ難民」は、ここ二十年ほどの日本労働環境ネットカフェの事情抜きには科学的な意味で「存在しませんでしたし、さらに言えば科学的な意味で「存在」していても、支援団体の人々などが発見ニュース等で取り上げられるまでは社会的に「存在」しえませんでしたし、いまだに政府ホームレス統計には「存在」していない、という状況にあります。そのことは万有引力宇宙の始まり以来、ニュートン発見しようとしまいと科学的な意味で「存在」していた、あるいは今現在未知の物理現象生物現象が、まだ発見されていないだけですでに世界のうちに「存在」していることとは対照的です。

 価値判断抜きで存在し得ない対象を、いか科学的に扱うか。それこそがウエーバー客観性論文のなかで考えたことでした。ここでよくある誤解は、そして絶対に避けられるべきなのは、「社会実在は実は価値判断抜きに存在しうる」と考えたり「価値判断抜きで存在するもの社会学は扱うべきだ」と考えたりすることです。前者が存在しないことはすでに説明しました。社会実在は――それが単なる数字統計であっても――価値判断抜きには存在し得ません。であるからして、後者社会学根本的に否定する思想です。そういう価値判断に影響されざるを得ないもの、すなわち社会社会実在をよりよく知りたいと考えるのが社会学なのですから。それを否定する人に対しては何も言えないということはすでに述べました(あくまで私個人からは、の話ですが。ほかの社会学者はもっとうまく説得するかもしれません)。

 そこでウェーバーが述べたのが「価値自由」でした。社会学者は自分価値判断をわかっていなければならない。より分かりにくく論文に忠実な言い方で言えば、「存在する」ことと「存在するべき」ことを区別しなければならず、科学は「存在する」ことしか明らかにできない。このウェーバーの主張に対しては、それもまたひとつ価値判断ではないか、という主張を投げかけることが可能ですし、一見ただのいちゃもんに見えるその問いは、社会学の中で大真面目に議論されてきました。私の見たところ、この問題は答えが出ない種類の問いなので、取り扱わないことにします。いいじゃないですか、どんな学問だってドグマの一つくらいありますよ。それより重要なのは、「自分価値判断をわかる」ことが、本当に社会実在を扱う上での十分条件であるのか、ということです。それが必要条件であるのは確かにそうであると思います。ある社会学者が「ホームレス問題についての社会学分析」という論文を書くとして(テーマが広すぎますがそれは置いておいて)、その人が「自分ホームレスを望ましい人間の在り方ではないと考えている」とか「というかホームレス気持ち悪い」とか「ネットカフェ難民をホームレスに含めていない日本政府問題である」とかい自分価値判断自覚していなければ、それは社会学研究として成り立たないでしょう。しかし、それだけで十分なのか。社会実在というものは、もっと慎重に取り扱わなければならないものではないか。(実際、客観性論文より後の後期ウェーバーも、そう考えて「理解」を社会実在根本に据えたと私は理解しています[詳しくないので間違っているかもしれません])

 と、ここまで書いて疲れたので一旦筆を置きます。続きは最初に挙げた二冊を読んでください。でも、ここまで読んでくださったあなたに問いたいのですが、私の書いたことは多少なりとも興味深くはなかったですか。社会学はこのような根本的な問いを抱えながら成長してきましたし、まだその途中にあるのかもしれません。私の考えるまともな社会学者はこの文章における中心的な問い「社会実在とはどのようなものか?」に対する、この文章以上に説得的な答えをそれぞれ持っています。そこが人によって違っていいのか、と思われるかもしれません。もしかしたらそこが社会学の駄目なところかもしれません。しかし、おおよその社会学者は確かにウェーバーや(この文章では触れませんでしたが)デュルケームなどが作った社会学歴史の上で考えている、という点では一致していると思います。それこそが社会学共通性であり、知的伝統であるとみなしてはもらえないでしょうか。よろしくお願いします。

anond:20210128191108

イエスタデイをうたったった(201999年「イエスタデイをうたった」の続編)

2021-01-20

スペイン語の好きな語彙16選

guitarra

ギタッラ。ギターのこと。ラは巻き舌で!

fútbol

フットボルサッカーのこと。雑すぎる

béisbol

ベイスボル野球のこと。雑すぎる

sótano

ソタノ。地下室。響きが好き

preferentemente

プレフェレンテメンテ。「主に」みたいな意味。eが多い

placard

プラカー。タンス。アルゼンチン特有の語彙らしい

arrancar

アランカール。破る。「エンジンをかける」って意味でも使うことがあり、カッコいい

plata

プラタ。銀。ラプラタのプラタ。アルゼンチンではお金って意味にもなるらしい

chingar

チンガール。ファックするみたいなニュアンスメキシコ語らしい

guagua

アグアバスキューバ語。響きがかわいい

desastre

デサストレ。災害。「俺は○○に関してデサストレだ」ということで、超ヘタクソとかド不器用とかそういうニュアンスになるっぽい

sábado

サバド。土曜日。サタデーよりサバドのほうが若干好き

gigante

ヒガンテ。巨大な。スペイン語圏ドラえもんではジャイアンがヒガンテと呼ばれているらしい

atropellar

トロジャール。轢く。響きが好き

estropear

エストロペアール。壊れる。これも響きがいい

desierto

シエルト。砂漠。こういう英語に似てる語彙がわりと好き。「無人の」「不毛な」みたいな形容詞にもなるのがまたイイ

2020-12-26

つくづく若い人間しか好きになれないと思った自分が悲しいサタデモーニング

2020-12-09

anond:20201207192749

スローライフとかやってみたら

Switch面白いゲーム他にもいっぱいあるよ、スタデューバレーとか米作るやつとかあつ森とか

2020-11-09

つんく信仰の謎

ハロオタからつんくクリエイターとして信仰されている理由がピンとこない。

ハロープロジェクト象徴的な存在としてなら、わかる。始祖として、崇めるなら分かる。

 

しかし、クリエイターとしてどうか?

ずば抜けてるのか?

 

つんくが書く歌詞は、そんなに優れているのか?

全然起き上がれない〜のなんだよバカちゃんって。マツコミジメックスのいとこか?

人生Bluesだってスルメ曲って言われてるけど 初見じゃクソつまらんってことだよ?

 

オタクは、次のモーニング娘のニューシングルつんくであることに歓喜しているが、純エビ意味のわからなさ。

普通アイドルが歌う「純情」って言ったら、邪な心なしに相手を思う恋心だと思うだろ。

ライナーノーツを読んだら、

この歌詞に出てくる「純情」とは「新鮮味」「ピュアな心」という意味でもあって。

無心にモーニング娘。に入りたい!

歌手になりたい!

有名になりたい!

というような気持ちで飛び込んできたあの気持ち、つまり「純情」は今も持っているわという宣言なのです。


「純情」のエビデンス(根拠)を掲げるわ。

信じられないならどうぞ、検証してみてください。

ここまで言い切る私は生意気でなかなかいいでしょ!?

可愛いでしょ!?好きでしょ!?

とこういうことを叫んでいます

引用元: https://note.tsunku.net/n/n3e9074fe8211

いやいやいやー、それを歌われてもなぁ、、、

その辺は歌でつんく言葉を使うんじゃなくて、インタビューとかパフォーマンスとか、メンバー言葉で聞きたかったじゃん?それに、その辺りを知らずに聴いた人、置いてけぼりだよね?

 

五線譜のたすき」なんて、受け継いでいきます♡みたいな歌を児玉雨子作詞リリースさせておきながら、『あんなん過去のもんだから』みたいな歌詞をお前が書くんか!!!

過去に縛られるなと言いたいのかもしれないが、もっと言いようがあったんじゃないのか。

 

 

泡沫サタデナイトからファンだがセトリを知るためにも過去曲は聴くし、否応にも 作詞作曲が誰かを知ることになる。

明らかに2015年あたりが良くない。

青春小僧って、A面になりうる曲か???

恋ならはじまってるって、「当時のアンジュルム」の曲か?? ※スマイレージからメンバーである田村卒業シングルなので、餞としてスマイレージらしさがあるという解釈もある。

 

 

けしてクリエイターとしてのつんく否定するつもりはないが、妄信するほど優れているか?と言う点を考えてみてほしい

2020-10-10

名探偵コナン100巻のエピソード

タデーにサンデーの話。

なんかまとめサイトスレで行われた予想集のタイトルのようだけど、

いま実際サンデーで今週号から始まったのがコナン百巻目のメインエピソードである

タイトルが「FBI連続殺人事件

赤井ジョディジェイムズ(!)も

ジンウォッカも久しぶりに登場!…だけじゃない。キャンティコルン、そしてキール(!)

そしてどんどん死んでいく!FBIどんどん死んでいく!米花町!治安が悪すぎる!

探偵団に死体を見せないようにしているコナン!今更過ぎる!

スペシャル感満載なので今週号から読むべし。

青山先生も100巻で…と話しているのでわくわくが止まらない。

2020-09-23

イエスタデ

あんまり合わなかった

ビートルズ存在してないif世界ビートルズから影響を受けたアーティストってどうなるの?って気になって集中できなかった

恋愛パートご都合主義感あった

(追記)

多分時代の流れとかもあってのヒットとかもあるだろうにまるっと現代に持ってきて当時と同じように大ヒットするのかとか気になった

2020-08-17

anond:20200815085820

俺のライブラリから抜粋もっとあったけど比較知名度のありそうなアーチストと俺の好きな曲に絞る)

Sunday

Monday

Tuesday

Wednesday

持ってなかった……!

Thursday

Friday

Saturday

てか「サタデナイト」多すぎだろ(全部違う曲)

2020-07-29

ゲームが下手でつらい

Vtuberの台頭からか猫も杓子もテレビゲームで遊んでいるように感じられる。特にここ数年オンライン環境が一気によくなったからか、もはやオンラインマルチという言葉が消えるのではないかというくらい皆マルチプレイゲームで遊んでいる。ように見える。寂しがり屋のクソオタクである自分も例にも漏れインターネットの友人とオンラインマルチゲームで遊ぶ。

友人と同じゲームで遊ぶのはやはり楽しい理由は謎だ。興奮や苦楽を共感するということそのもの人間のなにか原始的欲求を満たすのだろうか。とりわけ対人ゲームにおいては実際のプレーでは苦虫を噛んだような顔をしていることのほうがほとんどの気もするが、それでもやめれず人を誘ってしまう。人がやっていて楽しそうだなと思って始めたゲームいくらかある。

ただ大抵は自分の腕前と、ゲームをやる際の友人への接し方で悩んでしまう。幼少期の頃に正常な情緒を同世代との交流の中で育まなかっただろうか。

いや、正確にいうとようやく悩めるようになったというべきか。おおくのゲーマーが気狂いであるのと同様に私もそうなので、ゲームに対して「この下手くそが故で地面を這いつくばるような状況から抜け出したい」以外の感情が介入することについて基本的には一切の想像力が働かない、したがって「こうしたらいいよ」とアドバイスすることが裏目に出る状況を基本的に想定できなかった。

無論ゲームに対するスタンスは各個人のそれを尊重すべきであるというのはよくわかる。私も一人用ゲーム基本的に二周目をしたくないので、取り返しのつかない要素などは事前に調べるし、分厚い攻略本を開きながらコントローラーを握ったことさえある。それを「攻略本読みながらゲームやって何の意味がw」といわれる筋合いはないと思っているし、つまり他人に言える義理もない。さほどストイックでもなく、好きな武器キャラクター、戦法を採用して、それでやれる範囲しかしない(そのやれる範囲がどこなのか、という興味は尽きないと言った感じ)。ただゲームに対する自我形成だけはきちんとしているという自認はある。したがって基本的には相手の気分に合わせたいと考えている。例えばその時一緒にやるフレンドが別に向上心のかけらもなく、ただ今からゲームの都合上どうしても行かないといけないクエストにただ一人で行くのが嫌なだけで私を誘っていたとしても、その目的に応じる。私がこのゲームを上手くなるための修行のようなもの別によそでやればいい。そのゲームがうまければうまいほどここに関する余裕を作ることができる。腕前の都合上余裕がなさそうだなとおもったら素直に申告する。

であるため、問題として立ち上がってくるのは、相手ゲームに対する自我がきちっと形成されているかどうかについてはこちらは知りようがないという点に尽きる。

しばしば、女性相談する時基本的解決策を求めているのではなく同情してほしいだけ、という話題がのぼるが、根本的な問題点はおそらく同じで、そこに個人の考えを持ち込むなら性別は全く関係ないと思う。自分の不満に対する解像度が高いかいかそれだけだ。

私は同情のために「相談」を持ちかける人々に対して、さほどマイナス感情を持ってはいない。調べればより正確な情報インターネットに転がっていようとも「今の大剣の装備って何が強いんですか?」と仲間内に訊くことも、また一つのコミュニケーションである理解できる。ただ向こうが外面的にとってきたスタンスと内情が合致せずコミュニケーションミスマッチを起こした時の処罰が、当人ではなくこちらにむいてくる時が非常に困る。

「どうしたらよかったのか?」「いまのは何故負けたのか?」と訊いてくる友人がいて、そこに素直に自己分析した理由をぶつけて上手く行くかは、正直言って五分だ。これは理由を聞いたとて解消できるかどうかはその時点ではほとんどの場合からないのだから、心底同情はする。ただ、(相談を持ちかけられて受諾するような万全の姿勢であればまだしも)ゲームに負け、自身の機嫌もとってやらないといけない中、こう立ち回るとよいよ、まあ初心者にはできなくて当然だけどね、と厚かましく語れば「わかりきったことを何度も言われて嫌になった」「免罪符として下手だとぼやいているだけで上手くなりたいと思ったことなどない」「もう他のうまい人とやったほうがいい」などと嘆かれることもまったくないとはいえないので、はっきりいってかなり参る。

その上で競技性のあればあるほどゲームに関する「腕前」はかなりセンシティブ話題突入しがちだ。攻略上有利になるための情報を交換するためにつないでいるボイスチャットのその声が頭に入らない、あるいは必要コールを忘れる、というのはもはやゲームの腕前とは遠い。ゲームによってはマルチタスクを要求されるため、そもそもそこから苦手な人にはそれ自体苦痛という面もある。ゲームによっては聴覚視覚、反射神経を問われるような内容もある。電子スポーツと言われるようになっただけあり、スポーツと似たような、悲痛なほど根本的な問題に直面することもある。それこそ「足音聴くしかない」とか「忘れないようにするしかない」とか「ちゃんと仲間が教えていたんだが……」とか。

私自身も人間スペックがそう高いわけではなく同じミスを何度もしたり昨日できていたことが今日できていないとかはザラにあるので、結局「そこ」なんだと気づいた時の絶望感といったらない。であるからこそ、他人に指摘する時結局そこしかないのではとおもった時の苦痛も比ではない。

本音を言えば相手が何ができて何ができないのか、なにがしたくて何を求めていないなんて知ったことではない。勝手自己解決して欲しいし、求める何かがあれば自分から表現をして欲しい。注意が欠落しがちで、マルチタスクが苦手なら、それを自覚してそのように立ち回ってもらいたい。ただし、たとえゲームが上手かったとしても、我々は基本的に気狂いの馬鹿であるためすぐ「そんなの言わずとも当然だと思ってた」みたいな態度をとってしまいがちで、私自身はこれは好ましくないと感じている。それに娯楽を通して自分がどうありたいかなど、簡単自己分析できることではないだろう。であるため、丁寧にやれることはやりたいと思って実行しているが、パーフェクトコミュニケーションヒューマンではないのでしばしばこういうことになり、メンタルマッチョではないので心に明確な疲労が累積する。

ゲームというのは基本的には報酬があるとわかっている負荷を楽しむものだと感じる。あちらを立てればこちらが立たないという状況を我々は「ゲームバランス」と呼び、基本的には一方的こちらが有利である状況を好まず、解消し甲斐のある困難を求める。それがいわゆる攻略というものであり、キャラクター世界観に深く没頭する以外では、我々にとってゲーム話題はこれしかない、とどうしても思ってしまう。したがって我々にとってほとんどの場合攻略について語るのはその話題しかいからで、別に相手に上手くなってもらわないと困るからということはないと思う。困るとすれば、それはゲーム上の成績云々ではなく、単純に「何か自己が払うコストで解消できそうな悩みに対して行動を起こさずうじうじとし続けている人間」を見続けることに対する純粋ストレス程度だろう。優しくあやしても信じずアーアーヘタデスワといって殻にこもり、かといって攻略話題にすればうまい人とやりたくないなどと言われる。そりゃあ私だって初心者調子にのらせられるようなゲーム展開に持っていけるほど腕があればどれほど気持ちの良いことか。

結局どうして欲しいのかといえば、私とゲームしないのが一番などを向こうは言った。ここで私がその人とゲームをしなければ、私は自分よりうまいやつとしかやらず、身内の下手くそさに辟易して一緒に遊ぶ相手を選ぶ嫌なやつか?他人の腕前も、そこに対する信念の強さも、これほど興味のないこともないのに。向こうの立場に立ってみればそう上手くもないやつが懇々と指示厨してくるので辟易するだろうといったところだが、あの手合いの人間こちらの対応にあぐらをかいてくるような態度にもややうんざりとしてきた。小学校の時分、友達の家でやったマリオパーティ64をもうちょっと辛抱強くプレーしていたなら上手くやれたのだろうか。よくわからん

ゲームが上手くなればそのもやもやの半分は解消できる気がしてしまい、ゲームが下手くそでつらいなあ、となってしまうのだった。

サンデーサイレンスが月曜になったら?

マンデーマイレンスに決まってるだろ

「サ」を「マ」に変えたんだよ

土曜日ならサタデーサイレタス

「ン」を「タ」に変えたらいいんだ

2020-07-17

ヤレヤレ、また過疎ですか?

自粛とはいえ金曜日の夜だからタデナイトスペシャルしてる感じですか?

2020-07-16

シャニマス】ノクチルとオトナ帝国アイドルマスター

 「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」という映画をご存知でしょうか。20年以上続くシリーズの中でも傑作と名高い作品です。20世紀も終わり2001年、「20世紀博」というテーマパークにはまる大人達。ある日しんのすけ子どもを置き去りに失踪してしまう。残されたしんのすけ達は大人を救うため20世紀博へ向かう…という映画です。

 

~ジャングルジム~

 若干ネタバレですが大人達は結社イエスタディ・ワンスモア(敵)が発明した"なつかしいニオイ"に影響され幼児退行し文字通り「子ども」に戻っていきます

 立ち位置的にイエスタディ・ワンスモア=P、「大人」=ノクチルに近いのでは無いかと思います。(あくま立ち位置的な話)

 Pは透の中に過去の思い出を回想し、「輝き」としてノクチルの大人として見た時決して褒められた物ではない行為拍手し、またノクチルもPの中に昔の憧れ(ジャングルジム?)を見た透とその後ろ姿から懐かしさを求め、挙げ句子どもじみた反抗をする姿に近しさを感じます

 オトナ帝国では敵とされた「過去に立ち戻らせようとする大人」が主役となっている訳です。

 要するにノクチルの「青春」というのはPという大人の望むその掌の上の出来事で、反抗的なある種幼稚な行動もPの期待する所な訳です。そしてPは彼女達を罰を与えず始末書を書かせる程度で済ませてしまます。敢えて大人として振舞わない事で子ども自身の願望の自己投影手段とする作中のP引いてはライターエゴを強く感じました。

~夕日町~

 イエスタディ・ワンスモアのボスであるケン台詞夕焼けは人を振り返らせる。だからここはいつも夕方だ。」

 子どもとして大人への反抗を遂げたノクチルを夕焼けが照らし出します。遠い過去子ども時代への回帰象徴としての輝きなのでしょう。日暮れへの感傷は万人共通のものなのだと思います

~21世紀を手に入れろ~

 最後は野原一家イエスタディ・ワンスモアの戦いになります過去に拘泥し時間を巻き戻し過去という殻に閉じ籠ろうとする敵と未来に向かってひたすら走り続け未来を手に入れようとする一家の戦いです。

 先程も述べましたがノクチルに対するPは大人の責務を放棄し、彼女たちの良く言えば純粋な、悪く言えば子ども染みた行為を称賛します。

 こういった構図は特に青春モノなどではありふれたものとも言えます。ただ私が気になったのはそれが「大人主観」でありそれを美化し正当化するような筋書きであることです。

 系統として古典で言えば「ぼくらの7日間戦争」のような純粋で爽やかな青春大人への反逆を描こうとしたのだと思います。ですがPという大人恣意が前提にあることで純粋さは薄れ「俺たちの7日間戦争」とでも言うべきものになってしまっています一言で言えば"理想的なクソガキ"でしょうか。青春の1ページという描写陳腐な物に成り下がります

 今の所のノクチルにおけるPというのは彼女達の成長を阻む存在であり、必ずそこと向き合うべきであると思います

 そこに向き合えない限り"売り物"と"売る者"のエゴ、ノクチルというアイドルがPの自己満足と大人としての子どもへの傲慢の上に成り立つ存在しかいからです。

 

~最後の~

 割と悪く書いてる気がしますがまだ1ページ目、最初コミュまでの感想しかありません。またそう言った関係性や意識の変化も描かれていくものと思います

 個人的に驚いたのは天塵のコミュ徹頭徹尾称賛する人が割りといた事でしょうか。オレの人生はつまらなくなんかない!(ryと言えるような大人は意外と少ないのかもしれません。

 現状の彼女達というのはPに泳がされているだけの存在であると思います。そこに自身から向き合い、殻を破り、誰の定義でも無い私へと変化していく方が健全だとは思いますね。 

 

2020-07-04

熊本大丈夫

熊本県鹿児島絵県には大雨特別警報が出ているはずなのに、

熊本RKKラジオでは普段通り「桂木まやのシャバダバタデー」を放送している。

鹿児島では特別番組放送しているのに、大丈夫なのかな。

2020-07-03

タデラ・知足寺

むかし彼女ブダペスト旅行に行って、チタデラって名前ちょっとした山に登った。

英語イタリア語フランス語か知らないが、とにかく城砦意味するCitadelって単語からきた名前らしい。たしか無骨な砦のようなものが頂上にあった。

砦そのものには入れないが、高度と位置がちょうど良くて市街が一望できる。いろんな国籍の人が集まって街を見下ろし、思い思いに写真を撮ったりしている姿は牧歌的で素敵だった。ドナウ真珠と呼ばれるだけあってブダペストの街は美しく、それなりに感動した覚えがある。俺たちもドナウ真珠をバックに写真を撮ったが、自撮りが下手すぎて2人の顔ばっかり写っていた。

タデラ、いい思い出だ。

 

で、この前なんとなくグーグルマップを見ていたら近所に「知足寺」という寺をみつけた。ちそくじ、とでも読むのだろうが、ちたでらとも読める。なんてことはない普通の寺だが俺たちは大いに盛り上がり、日本のチタデラへと向かった…というのはウソで、彼女は「べつに行くほどではないかな…」とつれない態度だったので俺だけ行った。

普通の寺だった。人はいなかった。境内に入って声をかけられたら怖いので、外から眺めるだけで帰った。

彼女にその話をすると、「よかったね」と言われた。 完

2020-06-25

イエスタデイをうたってを見る。

イエスタデイってビートルズのか?

カセットテープ黒電話が出てくるあたり、80年代の話か?90年代前半?

(ジョジョアニメですら隠されている)タバコをばかすか吸わせることで時代背景を現してるのかな?

ところでこれは徹頭徹尾恋愛モノなのだろうか。

すごく有名な作品からきっと面白いのだろう。

きっと。

正直、恋愛モノはあんまり…(昔から好きではなく、そのため典型的少女漫画も読めなかった)

それでも見る価値はあるのだろう。

きっと。

2020-06-18

最近アニメでパロAVが出たら

2020-06-12

anond:20200612124629

銀色の回転式、ってブランドどこだろ

ルガーかな、それともやっすいサタデナイトスペシャル

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