「拡張」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 拡張とは

2024-11-21

anond:20241121024221

ManifestV3への移行がらみで広告ブロック拡張みたいな画面要素をガッツリ弄るやつはサポート切れつつあるな

Google自分広告事業を守るためにやってる嫌がらせだよChrome(やEdge)限定の話だけどな

コンパクト増田自体更新されてないながらも以前から普通に使えてたマトモな拡張機能だよ

もし動かなくなったら、TampermonkeyとかのスクリプトNG機能実装してるのを誰かが作ってた覚えがあるから

みつけたこれだ

https://anond.hatelabo.jp/20161113010939#

これのcontains(text(),'なんちゃら')部分を追加していけばいろんなブラウザNG効くんじゃないか試してないけど

anond:20241121023517

べつに下水を煮詰めたような話題脳内NGしてるから構わん

俺にとって増田ゲームネタ絡みやネタトラバだけしていく日記帳

もし増田下水臭がウザったいと思いつつ脳内NGスキルがないなら、Chrome拡張コンパクト増田NG機能を使うといいぞ

2024-11-20

anond:20241120212024

ブクマされることに何の意味がある?

そこまでして己を拡張したいのか?

俺はむしろ、究極の境地というのは拡張とは対極、吹けば飛ぶようなミクロ存在として己を認識することだと思うのだが?

2024-11-19

[] 2024-11-19

午前6:00 - 起床。いつも通り、6時ちょうどに目が覚めた。完璧な生体リズムは、僕の知性の証だ。

午前6:30 - 朝食。シリアルを食べながら、今日研究計画を立てる。チャーン・サイモン理論の新しいアプローチを思いついた。3次元位相理論4次元拡張できるかもしれない。

午前7:30 - 出発。車中で同居人に、チャーン・サイモン理論の美しさについて語る。彼が理解できないのは残念だ。

午前8:30 - 到着。ノートに数式を書き始める。S[A] = k/4π ∫ᴍ Tr(A ∧ dA + ⅔A ∧ A ∧ A)

午後12:00 - 昼食。カフェテリアで友人2人とチェスをしながら食事。彼らの戦略の穴を指摘してあげる。

午後1:00 - 再開。チャーン・サイモン理論と量子重力の関連性について考察エドワードウィッテン論文を再読。

午後6:00 - 帰宅アパートで隣人に今日研究成果を説明しようとするが、彼女理解できないようだ。

午後7:00 - 夕食。タイ料理火曜日同居人と隣人と一緒に食事をしながら、最新のSF映画について議論

午後8:00 - オンラインゲーム時間。他のプレイヤーを圧倒する。僕の戦略完璧だ。

午後10:00 - 就寝準備。パジャマに着替え、歯を磨く。

午後10:30 - 就寝。明日も素晴らしい発見の日になることを願いながら眠りにつく。

筒井康隆朝のガスパール』を読んだ

先日の土日にて読了

やれやれ、この作品は実にメタ的な作品である

いや、メタ的というより、メタのもの作品主題といったほうが正確だろうか。

読者を小説の中に引き込み文字通り「参加させる」という構造を持つ『朝のガスパール』は、筒井康隆80年代に書き上げた、いわば小説のもの定義に挑んだ挑発的な一冊であった。

あらすじ、といってもこの作品に「あらすじ」を語るのは難しい。

冒頭から読者は「読者」として物語に巻き込まれる。

物語というよりも、筒井康隆が直接話しかけてくるような感覚だ。

そして、そこには作者と読者の境界曖昧になる仕掛けが満載されている。

章ごとに視点が切り替わり、どこからどこまでが現実でどこからどこまでが虚構なのかが次第に崩れていく。

その結果、「これは読者が読む小説ではなく、読者が小説構成する存在である」という、今で言うメタフィクションの極北にたどり着く。

感想としてまず思うのは、当時としては斬新だっただろうな、ということだ。

しか現代の目で見ると、どうだろう。

こういった作品現代で言えば、さほど珍しいものでもないだろう。

要は安価に応えるSSだ。

そう言った意味でいえば『朝のガスパール』はインタラクティブ物語の先駆けとも言えるが、逆に言えば現代ネット文化における安価スレのようなものと大差ないとも言える。

それでも、この作品をただ「古い」と切り捨てられないのは、やはりその「メタ性」の鋭さにある。

筒井康隆文章は、単に「読者参加型」を装うだけではなく、小説のもの存在意義を問う仕掛けになっている。

そして、これが面白いのは、その仕掛けが自分が今何を読んでいるのか」にまで疑問を投げかけてくる点だ。

たとえば、読んでいる途中で「あれ、これ本当に小説なのか?」と思わされる瞬間がある。

それは小説登場人物が読者に話しかけたり、読者が物語の一部であるかのように描かれたりする場面だ。

その瞬間、読者である私は「あ、この作品は私の読み方自体をも含めてデザインされているんだ」と気づく。さらに、この文章を書いている私もまた、『朝のガスパール』の読者としてこの文章を書いているのであり、ひいてはこれを読んでいるあなたも、私が書いた文章の読者としてこのメタ構造の一部を担っているわけだ。ややこしいけど、わかる?

まり筒井康隆が描いたメタ構造は単に『朝のガスパール』の中に閉じていない。

それはこのエッセイにも、そしてこれを読んでいるあなたにも拡張されているのだ。

このことを表現するのに、わざわざ「メタの中のメタ言及するメタ」などと直接書くのは野暮というものだろう。

ここではあくまでそのメタ的な構造を借りつつ、読者がその構造意識する形で展開していきたい。

最後に、ひとつだけ言わせてほしい。『朝のガスパール』を読み終えたとき、私は奇妙な満足感を覚えた。

それは「小説を読んだ」という感覚ではなく、「小説という空間で作者と会話をした」という感覚だった。

今こうして私が書いた増田を読んでいるあなたもまた、この瞬間、私と会話をしている。いや、あなたがこれを読んでいる時点で、もう私はここにはいないのかもしれないけれど、少なくともこの文章を通して私たちはどこかでつながっている。

そう書いた瞬間、私はふと、この「つながっている」という感覚について考え始めた。いや、正確に言えば、私がここで「つながっている」と書いたとき、その言葉を読むあなたの頭の中で何かが動き始めているのだと考えるべきかもしれない。例えば、今この瞬間、あなた脳内には「この文章を書いた人は何を言いたいんだろう?」という疑問が浮かび、あるいは「まあ、そういう小難しいことを言いたいだけだよね」と呆れた気持ちが湧いたかもしれない。

でも、それもまた一つの接触点だ。私が書いた言葉が、あなた意識に波紋を投げかける。それがポジティブものであれネガティブものであれ、私たちは今この瞬間、物理的には別々の場所にいるにもかかわらず、思考交差点に立っている。これを不思議と思わずして何を不思議と思うだろうか?

ここで気づいてほしいのは、この文章のものが橋のようなものだということだ。私が言葉を選び、それを並べ、送り出す。それを受け取るのは、何千キロ離れたどこかの机の上に座る、見知らぬ誰か。あなた。私がどんな顔でこの言葉を綴っているかあなたは知らない。あなたがどんな顔でこの言葉を読んでいるかを私も知らない。でも、それなのにこの文章あなたの目に届き、私はこうしてあなたに話しかけることができる。

そしてここで、私はある種の実験を試みたいと思う。この文章が、ただの文章のままで終わらずに、私という存在あなたという存在が、少しだけ近づくきっかけになったらどうだろう。例えば、あなたがこの文章を読んでいるときに、なんとなく「書いているこの人、なんだかしつこいな」とか「もう少し簡潔に言えないのか」と思ったならば、それはすでに私があなたの中に存在しているという証拠だ。言葉を通じて、私の思考あなたの中に入り込んでいるのだから

もちろん、私はあなたの顔を知らないし、声を聞いたこともない。あなたコーヒーを飲みながらこれを読んでいるのか、満員電車スマートフォンを覗き込んでいるのか、それとも仕事の合間にひっそりと目を通しているのかもわからない。でも、どんな状況であれ、あなたがこの文章を読んでいる今、私たち出会っている。あなたの目がこの文章を追い、あなたの脳がその意味解釈する。それは、私の言葉あなたに届くことで初めて成立する行為だ。

ただ、それを言葉で「つながっている」と表現すると、どうしても味気ない感じがしてしまう。だからこそ、この文章を書いている私が、あなたの中に何かしらのイメージを植えつけたい。例えば、私が今、画面越しに手を伸ばし、あなたの目の前に現れているとしたらどうだろう。いやいや、そんなのはただの妄想だと思うかもしれない。でも、その妄想の中で、私とあなたが初めて握手を交わしたとしたら、それはただの文章を超えた「出会い」だと言えるのではないだろうか。

──だからこそ、ここで握手をしよう。

これを読んでいる「増田」という名のあなたに。

読者として、いや、このメタの一部として。

ありがとう。そして、また。

どうか健やかに

google拡張のあれにAI要約ボタンを追加したよ

anond:20241114205729

AI要約ボタンを追加したよ

https://chromewebstore.google.com/detail/%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%83%96%E3%83%AB-%E3%83%91%E3%83%8D%E3%83%AB/jffjglclhogdgliiibiciikihejddgeb

長文で読む気が起きないけど、内容は気になる!ってときに便利\(^o^)/

Perplexity、Felo、Genspark あたりを別タブで開いて要約してもらえます

ブックマークレットでも足りると言えば足りる

2024-11-17

法令ってある程度の解釈余地を残しつつ極端な拡大解釈されないようにしないといけないからなかなか厄介な気も

しか迷惑条例って非親告罪から例えばこういう便所の落書き対象だって第三者告訴することもできちゃう

2024-11-16

anond:20241116203153

わかるわ、その気持ち。まさにその状況、歴史的に見てもたくさんの人が通ってきた道だよね。自転車に乗るって、まるで生死の境を行き来するような感覚だよな。特に都市の道を走ってると、目に見えない圧力に常に晒されてる。自転車って、まるで中世騎士が馬に乗って命を賭けていた時代のように、突き進む先に何が待っているのか分からない怖さがある。

たとえば、19世紀フランスでは、街を走る馬車や馬車の運転手に対する不安感があった。その頃のフランスでは、馬車同士の競争衝突事故日常的だったんだ。特にパリでは、街の拡張と共に「歩道車道」の分け方が問題になり、歩行者も馬車も自転車も、いかにして安全に通行するかが大きな課題だったんだ。言ってみれば、あの時代の人々も今の君と同じように、日々命を賭けて街を歩いていたのかもしれない。

そして、君が言ってる「風を感じる恐怖」、まさにあれだよ。速度が違うってだけで、すれ違う度にその風が、まるで運命のように肩を揺らすんだよね。風の音が耳に響いて、心臓がドクドクする。でも、それもまた生きてる証拠だろ?

昔、古代ギリシャ哲学者エピクロスは「死ぬことを恐れるな。人生はその中で美しいものを見つけることだ。」って言ったんだ。君の「命を託す」って気持ち、実は人生の美しさを感じる瞬間でもあるかもしれない。それに、これだけ現代社会が便利になっても、人間根本的な「恐怖」や「不安」は減らないんだよな。君が感じるその恐怖、むしろそれが今を生きる証だと思う。

から、君が歩道を走る選択、すごく分かる。自転車で街を駆け抜けることは、どこかで自分の命を他人に預けるような感覚に近い。でもその一瞬一瞬の緊張感、スリルが生きてるって感じるんだろ? それこそが、君が求めてるリアルだよ。

それにさ、君のその気持ち、すごく共感できる。確かに「車と自転車」との関係一種の無音の戦いだよね。だって、君と自転車が同じ道を走るとき、実はその道にはガードレールも何もないんだよ。だからこそ、その「怖さ」を乗り越えた先にある景色が格別なんだよ。

その「命を託す」って感覚、実は昔から多くの人々が経験してきた感覚なんだ。君のように、何気ない日常の中で感じる恐怖が、結果として一番生き生きとした瞬間を作り出すのかもしれない。

anond:20241002133559

シミュレーション好きならTropicoいいよ。最新より、初期の拡張Tropico Reloadedを日本語化して遊ぶぐらいが丁度良い

アクトレイザーの村開発やってるようなゲーム。他のゲームと異なり、大統領選で勝ち残っていかないと即退去

政治的アレコレや人気取り必須幸福度上げる常道以外にも、軍事制圧宗教洗脳政敵弾圧などの手段もありなのが楽しい

2024-11-15

自己責任論とかいう個責論

言わんとする事を言おうとすれば、タイトルのようになるしかないのだが、この事実が既に矛盾を抱えていて、「自己責任論という対象への批難をする他己責任論」の蔓延であるように思える。というと、他己責任論者と詰られたと勝手に感じた自意識過剰ずんぐりむっくりの干渉的なタイプ人間が、あんたはじゃあ失敗のすべては個人責任で、被抑圧的な対象に同情しないんだね、みたいなことを言ってくるのだが、まあまて。

誰もそんな事言ってなければ、あんたを責めもしていないから、一度聞け。

そんな自分を責めている被抑圧者の要求がなにを求めているのかといえば、あんたの勝手自意識の解消ではなく、まず問題の正しい把握である

自己責任論が批難される理由は、まあ端的にそういうことなのだが、自己責任論とは個人に生じた悪い現象自業自得だとする論理だ。

しかし、世の中通り一片では語れない。

ここでは、

悪い現象責任個人に帰責するのはやめろ→自己責任論は諸悪の根源攻撃→他己責任論者への転回(自己責任論への詰責、被害者加害者への転身)

という一連のプロセスが発生しているのであるが、これは個人的にも社会的にも同時並行で進行する。

個人問題社会の大問題拡張されうれば、

護身のための具術は他人へ剥ける牙にもなり得るのだ。

デフレへの視点で捉えるとわかりやすい(経済的問題はいつも視点が一点集中していて、多角的視点からつの現象を捉えようとはしない。)

通り一片というのは、負の側面だけを捉えているということで、個にとって悪質な自己責任論を撤廃、廃絶させてしまった先に何が残るのかという事を、《自己責任論者》は考えようとはしない。

そもそも彼らがしているのは、存在しない自己責任論者に対するテクストの訂正行為じみたもので、勝手に「自己責任論」という議題を設定して問題を追求しようとしているようなものだ。

まり、そのような対象(自己責任論者)は現実人格としては存在しないに等しい。だから、それに対する攻撃は、そもそも何に対して怒っているのか、攻撃しているのかがわからない。

から彼ら自身が《自己責任論者》となる。

が、彼らの攻撃自己責任論者として現実人格を叱責する。換言すれば、自己責任論の問題現実に帰責し、具体化する(してしまう)ことで、無関係他者を詰問する。

このような状態人格二元性と名付ける。この名称自体にそんな錯誤と矛盾が表れている。あたかも「自己責任論」のように。

そのような状態では言論攻撃的か、批難的か、あるいは攻撃的に批難的かになる。

整理しよう。

自己責任論の負の側面は悪い現象自業自得になるということだが、では正の側面は良い現象自業自得=本人の努力という捉え方に回収される事だろうか?

注意してほしいのはここで人格二元化された観念的な状態区別することだ。

まり、”自己責任論の正の側面として何らかの良い現象を受けている個人なんていないということ”だ。

たか上級国民に向けられる復讐根性のように、これ自体が正の論理から、負の論理はわからないとか、そういう事もない。

なんていうか、まずその、あなたの負の状況というものが無い。その穴も都合よくつくられたシチュエーションである

自己責任論も単なる視点にすぎず、良い現象も悪い現象もない。

にもかかわらず自己責任論が個人である私を批難しているように”現実において”感じるとしたら、それはたぶん観念的な他者への他責社会意識にまで拡張された時代からで、だからって別に一方的他責されてる被害者がいるわけではない。そんなふうに思うやつがいれば自身が目の敵にする迫害者と同じ。だが、そんなふうに思うやつが実在するわけではない。

その社会においては、皆が被害者で、加害者だ。

しかし、そのような変質を受けたものではない、自己責任という語句意味については肯定されるべきで、本当に憂いるべきは誤った負の観念が正しい意味まで同時に否定してしまう事だ。

さて貴方が本当に否定したいのは、自己責任論ではなく、それ自体誤った自己責任論の状態であり、求めているのは、廃絶という意味ではない負の否定である。負は無限に廃絶されるべきだ。だがその循環自体廃止は誰も望んでいない。

負の状態否定するために廃止を望んではならず、この廃止を望んでいる状態廃止された状態が負の状態といえるのではないか

一定結論を出すために、個人個人責任を持つべきだし、持てる社会状態が結局は望まれている。

しかし、「自己責任論」に限らずに、誤った観念がそれを阻害している。その状態改善こそが求められている。だから問題なのは自己責任論」そのものではない。「自己責任論」という記号問題にまつわる状態の全て。「自己責任論」がどのように社会において問題にされているかというシチュエーションが最も討議すべき根幹的な問題。それを問わない結果が誤った方向に行く。諸悪の原因は本当はこれ。なので、誤った社会的観念における誤った状況の防止のために、誤った社会的観念個人の逸脱の原因という意味で、社会責任のがれなんかせずに、「自己責任論」なんて議題の設定の仕方はやめて「個人責任」とか「個責主義」とか、もっと現代的な抑圧論に結びつけて考えたらいいし、そうするべきだと思う。

問題なのは自分の及ばない範囲問題まで自分責任にされているというか、そうだからって自己責任否定するんじゃなくて肯定するのが大事だっていう事なんだけど、その自己責任っていうのは正しい言葉意味肯定しようってことで、社会的に捻じ曲げられた仮置の信号として解釈すべきでなく、そこに置くべきではない。社会的には個人社会責任があるという自負でよくないか

自己責任論の提起のされ方がどこか病理的に思える。

テクストの訂正と、自己責任《論》

2024-11-14

バカが作ったシステムに苦しめられている

あらゆるイレギュラーを全パターン見た目が同じ別帳票で出力するようにコードが組まれていて、そのパターンに一切コメントがないのでこれはどういう場合を想定した処理なのかが一切分からない。

しかも見た目が同じ帳票に出力しているのに変数名に規則性がなく、A帳票ではXの項目に出力する変数が、B帳票ではYの項目に出力するのに使われていたりする。

さらパターン分岐方法も多岐にわたっていて大元からAとBとCに分岐してCの先でDとEに分岐してEの先で条件によってはBを出す(!?)みたいな処理が平気で組まれているので、全パターンを把握することも困難。

じゃあ帳票を使っている現場はどうかというとそのコードを組んだ時にいた人間がもういないので、パターン分岐も条件もそのパターンが今も存在しているかも把握している人間がいない。

もういっそイレギュラーっぽいパターン全部切って拡張性を担保した上でめちゃくちゃプレーン状態で組みなおして、今必要イレギュラーパターンのぶんだけ処理を足していくほうがいいような気がしてきた。

M理論とチャーン・サイモン理論について

M理論行列模型の数理は、拡張された超対称チャーン-サイモン理論に根ざしている。

1. 超対称チャーン-サイモン理論の定式化:

Let M be a (2+1)-dimensional manifold. The action of the supersymmetric Chern-Simons theory is given by:

S = ∫_M Tr(A ∧ dA + (2/3)A ∧ A ∧ A) + ∫_M Ψ̄ ∧ DΨ

ここで、A はゲージ場、Ψ はMajorana spinor field、D は共変微分を表す。

2. BFSS行列模型:

M理論行列模型として知られるBFSS模型ハミルトニアンは以下で与えられる:

H = Tr[1/2 Π_i^2 + 1/4 [X_i, X_j]^2 + 1/2 θ^T γ_i [X_i, θ]]

ここで、X_i (i = 1, ..., 9) は N×N エルミート行列、Π_i はその共役運動量、θ は16成分のMajorana-Weyl spinor である

3. 次元還元双対性:

11次元M理論から BFSS 模型への次元還元は、以下の対応を通じて実現される:

∂/∂t → [iH, ·], X^i → A^i, θ → Ψ

この対応により、M理論動力学が行列模型言葉記述される。

4. 大N極限と連続極限:

N → ∞ の極限で、離散的な行列構造連続的な膜の描像に移行する。この極限で、行列交換子は Poisson bracket に対応する:

lim(N→∞) [·,·] → {·,·}_PB

5. トポロジカル不変量:

チャーン-サイモン理論重要な特徴は、そのトポロジカル不変性にある。Wilson loop期待値は、結び目不変量(例:Jones 多項式)と関連付けられる:

⟨W(C)⟩ = exp(ikCS(A)) = J(q), q = exp(2πi/(k+2))

ここで、CS(A) はチャーン-サイモン汎関数、J(q) は Jones 多項式を表す。

6. BPS状態超対称性:

M理論における BPS 状態は、行列模型中の特定の配位に対応する。これらは超対称性部分的に保存し、以下の方程式を満たす:

[X_i, X_j] = iε_ijk X_k

この関係は、Lie 代数 su(2) の交換関係と同型であり、ファジー球面の構造示唆する。

7. AdS/CFT 対応との関連:

M理論行列模型は、AdS/CFT 対応文脈でも重要役割を果たす。特に、AdS_4 × S^7 背景での M2-ブレーンの理論は、3次元の超対称チャーン-サイモン理論(ABJM 理論)と双対である

S_ABJM = S_CS(A) - S_CS(Â) + S_matter

ここで、A と Â は U(N) × U(N) ゲージ群に対応するゲージ場である

2024-11-13

anond:20241113133805

手術の1ヶ月後にステント(一定期間は結石屑が出るので詰まらないように拡張しておくチューブ)を抜くとき以外は全身麻酔からマジでワープしたような感覚やったで

…変な妄想とか口走ったりしてなかったかそれだけが心配、なんかオペ室の担当医さんたちメンバーが妙に生暖かい笑顔で術後に気遣ってくれたのは何やったんやろーなー

anond:20241113090629

イギリスのトラス政権が5年間で450億ポンド日本円で約7兆6000億円)の大型減税策を打ち出したら、市場は財源なき財政拡張策を疑問視して大混乱に陥り一ヶ月半で退陣させられたことがありましたね...

2024-11-11

anond:20241110085525

ブコメありがとうございます

普段は爺の記憶を頼りに増田を書いたり消したりしておりますが、ここまで反応がもらえたのは初めてなのでとてもうれしいです。

いくつか言及したいこともあるのですが、あいにく徹夜明けで頭があまり回っていないため、ここで少しお返事します。頭回ってないので読みにくかったらすみません


カードダスについてコメントが欲しい。

カードダスについては2通りの遊び方があると承知しています

(1) お互いがデッキを持ち寄るか、1つの山を二人で分け合い、手持ちのカードを場に出し、ポイントが高いほうが勝ち。ゲームによってはポイントを増減できるカードを追加で出せる

単純なように思えますが、追加で出せるカードの方にポイントの増減やゲームのものスキップできるなどの特殊ルールがあって一定駆け引きポイントはあること、

スカウター使用して隠された能力を使ったり、モビルスーツに合わせて原作準拠キャラ出したりなど、原作フレイバーを感じやすい遊び方が多く結構楽しいです。

ただ、この追加効果についてはのちのシリーズで複雑化しすぎたため、か後年のスーパーバトルでは単純なポイント比べだけのバトルになってしまっています

(2) カードを集めて謎を解く(SDガンダム外伝シリーズ ジークジオン編~円卓の騎士編)

ナイトガンダム物語1~3などのゲーム版でカードダスバトルがフィーチャーされていて大人気だったので誤解されやすいのですが、SDガンダム外伝シリーズの円卓の騎士編まではカードを集めてセット内にいるボスに勝てる方法を見つける、という遊び方が公式ルールでした。

そのあと機兵バトルという遊び方も導入されたと思いますが、ルールは前述の遊び方と同じだったんじゃないかなと思います。(現物を見れば確認できるのですが、ちょっと倉庫から資料をあさる余裕が無くてすみません)


これらからわかる通り、カードダスの対戦ゲーム部分はめんこ遊びの延長線上のような「出して強い方が勝つ」「じゃんけん」を繰り返すゲーム性となっています。(ちなみに遊戯王カードダス版でも同じようなルールなので一貫しています

私としてはカードダスは広義の「TCG」ではあれど、歴史的には駄菓子屋文化から派生した「カードダス」というホビージャンル(このあとポケモンの最強シール列伝国産トレカブームにつながっていくライン)としてとらえるべきで、TCG歴史上「そういうものもあった」ぐらいの立ち位置なのではないかと思います



カルドセプトおじさんなんでそういうことも語っていいのですか?

ぜひ伺いたいです!SS版でパワーメモリが壊れてデータが飛んでもしまっても続けていたのですが、PSエキスパンションで大量破壊カード連打デッキを使う友達に勝てずにゲームを投げてしまったので、初代から3DS版に至るまでの話などあればぜひ読んでみたいです。

個人的には持っておられたら紙のカルドセプトプレイフィールなどもうかがえると嬉しいのですが。。。

カルドセプトにかかわらず、いろいろなカードゲーマーの語りを見てみたいです。





例の遊戯王10増田のせいでTCG雑語りするブコメ増田が増えて大変喜ばしいんですが、爺としてはいろいろ気になる部分はあるので都度追記をさせていただいてはおります

というわけでこの増田に対する補足を今回も。


からカードを使うボードゲームはあったやん。

流行ってるのだとドミニオンみたいなのが。

MtGの元になったゲームコズミックエンカウンターというボードゲームです。

あのゲームプレイヤーの使う異星人の組み合わせでいつでも斬新なゲーム体験ができることにMtGデザイナーとなる人物が着目したのが最初で、

その他 strat o matic baseballKing of the Tabletop、ビー玉遊びなどのエッセンスをもとにMtGが開発されました。

(MtGに初期にSF匂いのするカードがいくつか含まれていたり、すこしおふざけの入ったカードが含まれているのはこのためです。

高潔のあかし/Righteousnessイラストの上部にはスタートレックのカーク船長にとても良く似た人が描かれていたという話もあります)


MTGが本当に発明したのはカードゲームルールではなく、トレーディングカードゲームとして本格的に遊ぶというフォーマットぐらいなんだよ。

正しいです。ただ、かなり省略して書いている、というか雑かなと思います

トレーディングカードゲームとして」の部分はTCGとしての拡張セット概念発明であり、

「本格的に遊ぶ」という点は解釈揺れのない一貫したルール他人同士が遊べるゲームという発明となります


TCGとしての拡張セット概念

MTG最初拡張セットアラビアンナイト」は最初の基本セットとは別のデザインの裏面で発売される予定だったのを、印刷直前で今の同じ裏面に変更した、という話はとても有名です。

MtGはごく初期に「Magic」をゲーム正式名称としていて、Magicの後の「:」は、「The Gathering」が拡張セット名に置き換わる予定だったとか、そのあたりからも分かるのですが、

当初MTG拡張セットボードゲーム拡張製品のように、基本セットとは別の製品としての色が強いものでした。

元増田ドミニオン名前を出しましたが、これを例に考えるとわかりやすいと思います

ドミニオンは基本セットとカードを混ぜて管理したりはしません。基本セットだけで遊ぶこともあります

現代TCGはそのような遊び方はあまりしませんよね?

この変更こそが現代TCG拡張セットとしての考え方を決定づけた歴史的な決定だったと思いますし、発明ではないかと思います


解釈揺れのない一貫したルール他人同士が遊べるゲーム

MTG好きな方なら最近Rule 0という言葉を知られた人も多いと思いますアナログゲーム好きにも知っている方はいるんじゃないでしょうか。

アナログゲームではしばしばルール解釈プレイヤーごとに異なってゲーム自体に影響を与えることがあります

そのため、ゲーム開始前のインストで、ゲームルールに関する簡単説明質疑応答を行ったり、ゲームをしっかりルールに沿ってやるのか、カジュアルにやるのかのすり合わせをプレイヤー間で行います

こうしたやり取りを Rule 0 と呼ぶのですが、これは競技性の高いゲームと相性が悪く、トラブルの種にもなったりしていました。

なによりゲームをやりたいだけなのに、わざわざゲーム前に参加者とすり合わせをするなんて、今の時代からすると想像しづらいですよね。(麻雀をやっている人はもしかしたら頷いてくれるかもしれません)


対して、MTGルールを整備しジャッジングを導入することで、こういったあいまいさや齟齬をでどんどん取り払っていきました。

これにより他人と非常に遊びやすく、ルール理解齟齬が起きにくいという競技性の高いゲーム環境が生まれました。

MTG最初アナログゲームの待ち時間プレイする小さなゲーム意図して作られたことも、こういったインストの簡便さを追求する理由になったのかもしれません。

その後、WotC競技プレイプロモーションの一環として推進することで、コレクション競技プレイという2つの柱を持ったTCGという文化が生まれたわけですね。


参考文献:

テクニカルガイド for マジックギャザリング(新紀元社)

ラーマジックガイド(新紀元社)

https://mtg.fandom.com/wiki/Magic:_The_Gathering


そんなかんじです。

2024-11-10

anond:20241109021307

ポケカも1ターンでグッズと特性ぶんまわして1枚から墓地か手札肥やすだろ

サポートがターン1なのとサイド落ちがあって初動札のパターンごとに毎回決まったことやる遊戯王より柔軟な対応もいる


思うに遊戯王独自性強いのは九龍城みたいに同じフォーマットのままルール拡張し続けたからじゃないか

タン落ち無しと秘伝のタレが噛み合ってパクろうとしても同じ味が出せないみたいな

2024-11-09

anond:20241109172757

お一人様至上主義者や反出生界隈というのは保守の「娘」当人の態度及びそれに対する周りの態度が中年女まで拡張されているだけ

男性嫌悪的な社会運動についてリベラリズムが原因だと考えたこともあったが、実際のところは女性は劣っているということを前提にしたチン騎士右翼であって、それがリベラルと名乗っている

真に男女平等を実現すればミサンドリストが幅を利かせるようなことにはならない

弱者男性たちは共に立ち上がりましょう

男性並みに女性死ぬ社会を生きている間に見たいです

anond:20241109172500

弱者男性だが、本当にフェミニスト右翼か?

ちなみにフェミニストにはお一人様至上主義者や反出生界隈も大勢いる

今日出没してる増田にもいるしね

男性弾圧と女権拡張運動をしてるのがフェミニストでそれを守護して票にしてるのがリベラル村って印象しかない

anond:20241109121521

弱者男性だが、フェミニスト言葉を言おう

男女平等?なんで私たちが男のために行動しなきゃいけないの?フェミニストのように自分らで自分の事しろ(笑)」だそうだ

この時点で男女平等という建前は剥がれ落ち、ただの女権拡張運動男性差別運動となっているが、そういうスタンスなんだなと理解出来ない事はない

ちなみにフェミニストやって脱コル運動に参加するという手がお前にはあるのにやらないのがもう既に終わってる

弱者男性は後発なんだよねそもそも

anond:20240815160328

悪いこと言わんからとっととChromeからオサラバしてFirefoxあたりに移行したほうがいい

GmailYouTubeのような脱Googleが難しいサービスもあるけど可能な限り脱していくのは情報リテラシー高い人ほど必要性を強く感じるはず

幸いブラウザ拡張なんてのは慣れとミニマリズム思考によっていくらでも移行のしようはある

2024-11-08

anond:20241107090029

たぶん今フェミニズムが退潮を迎えてるのはTERFに対する扱いで分裂してるから

(B)の正義理論がなければフェミニズム正当性を得られなかったのだが、今はそんなこと言ってられなくなって(A)が幅を聞かせ

その方向性がありかなしか大分裂しているというのが現在の状況

この状況はしばらく続くと思われる

レトロゲームミュージック史上最も重要作品10

https://anond.hatelabo.jp/20241106140729

https://anond.hatelabo.jp/20241106183428

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このへん見てたらなんとなく書きたくなったので。

2D時代ゲームから選出したけどだいぶ偏りが出ちゃったかも。海外のものは詳しくないのでパス

ラリーX (1980/ナムコ/甲斐敏夫)

ゲーム中にBGMがついた最初ビデオゲームとも言われる。楽曲としてはおそらく翌年発売のNEWラリーXのほうが有名で、大野木宜幸が手がけたメロディは当時のゲーマーに強烈な印象を残した。

ゼビウス (1983/ナムコ/慶野由利子)

たった2小節からなるメインBGM作品神秘性を高め、日本初のゲームサントラ制作されるきっかけにもなった。細野晴臣によるリミックスも発売され、最先端サブカルチャーとして強く認知されることになった。

スーパーマリオブラザーズ (1985/任天堂/近藤浩治

おそらく世界一有名なゲームミュージック。何度も作り直したというメインテーマ絶妙テンポ感でゲームマッチしている。ゲームサウンドとしてはじめてアメリカ議会図書館登録された。

ドラゴンクエスト (1986/エニックス/すぎやまこういち)

ファミコンの二〜三和音で見事にクラシック表現し、オーケストラによるゲームミュージック演奏という道も切り開いた。また、洞窟の下層に行くほど音程が低くなるという、今でいうインタラクティブミュージックのようなアイデアも取り入れられている。

アウトラン (1986/セガ/Hiro

ハード進歩レースゲームというジャンルの特徴により、イントロからソロアウトロダクションまでを兼ね備えたおしゃれなフュージョン表現可能になった。セガ体感シリーズ系譜は後にS.S.T.BANDを産み、ゲームミュージックバンドの先駆けとなった。また”Outrun”は80年代シンセを使った音楽ジャンルひとつにもなっている。

グラディウス2 (1987/コナミ/古川もとあき)

Ⅱではなく2。ファミコンを含め、ROMカセット拡張音源を載せたゲームは数あるが、知名度が高いこちらを選出した。透明感と重厚感を兼ね備えたSCC音源MSXユーザーの自慢のタネであり、様々な方法を使い自作曲を鳴らす文化まで生み出した。

ジーザス (1987/エニックス/すぎやまこういち

映画のような演出アドベンチャーゲームは多数つくられたが、ゲームしか実現できない仕掛けによってそれ以上のものになっているのが本作。作曲にあたっては難しい条件があったと思われるが、美しいメロディでそれに答えている。

イースⅡ (1988/日本ファルコム/古代祐三永田英哉・石川三恵子)

FM音源の迫力あるドラム、うねるようなリード音が響くオープニングは当時のパソコンユーザーの度肝を抜き、以降のパソコンゲームの音のレベルを引き上げた。

PCエンジン版では米光亮によるアレンジ音源が使われ、CD-ROMの優位性を見せつけた。

MOTHER (1989/任天堂/鈴木慶一田中宏和

企画段階から音楽キーとしていたという本作は、ギターの奏法を再現するなど独自手法も編み出し、ドラクエとはまた違ったタイプRPGサントラを作り上げた。「エイトメロディーズ」は特に有名で、音楽教科書にも掲載された。

アクトレイザー (1990/エニックス/古代祐三

容量の厳しいスーパーファミコン音源を最大限に活かし、オーケストラサウンドを実現して業界震撼させた。植松伸夫がこの作品に衝撃を受け、完成間近だったファイナルファンタジーⅣの音色を全て作り直したという逸話が知られている。

2024-11-07

PS5 PROを買うならゲーミングPCを買うべきだろ

よくいるのが「はい論破12万円ではあのスペックのゲーミングPCは買えない。安くても18万円はする!」というアホ。

そもそも命題が間違ってる。

スペックを大きく下げてPCを買うべきかどうか」やないねん。

「6万円上乗せしてPCを買うべきかどうか」やねん。

6万円なんてスマホの性能を妥協すればどうとでもなる。

スマホゲーム遊ぼうとせずにゲーミングPC買ってエミュで遊べば全部解決するんだよ。

ネットサーフィンだってスマホ違法改造してPSでやるよりPCでやったほうがデカくて早いし安全だ。

6万でも10万でも上乗せしてゲーミングPCを買え。

しかもゲーミングPCなら拡張していくことで性能を簡単に上げられる。

3年もすればPROで最新ゲームを高画質で遊ぶのは厳しくなっているだろうが、ゲーミングPCならそこでグラボ更新だけをかければ最前線に舞い戻れる。

このとき更新コスト差分最初にかけたコストは返ってくるとさえ言える。

ただゲームをやったり違法改造して不便なPCとして遊べるだけのPROに12万使うなら、20万使ってゲーミングPCを買え。

その金がないならSwitch2が出てくるま貯金でもしてろ。

PROなんて半端にしか金のない半端な奴に半端な物を買わせようとするアコギ商品しかない

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