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2020-08-03

現代黙示録

1

ウェブSNSの各所にできるだけフェイクニュースを散りばめましょう。そこに断片的な真実を散りばめ、人びとに大きな物語を作ることを促しましょう。その際、ひとつひとつの断片に歴史的背景を備える宗教的政治的シンボル付与することで、より効率を高めることができます

 

少しずつ真実を混在させることがとても重要です。 少なくともそのように思わせることが重要です。これは実際、人びとの探究心や創作欲求を刺激するもっとも優れた方法です。こうして物語が量産されるようになります

 

2

やがて物語を作ろうとする者、物語を読み解こうとする者、結論だけを求める者、そして、何も知らない知ろうとしない者に人びとが弁別されていきます弁別が繰り返されることで自然と人びとのうちに階層が生じるでしょう。

 

こうして発生した階層構造のもと、自律的なゴイム社会が生まれます。彼らはより高い階層を目指しますが、互いにいがみ合うことに注力するため、結局ゴイムであり続けるしかなく、当然真実にも到達しません。 つまり真実はけっきょく真実たり得ず、イリュージョンでありつづけます

 

3

この断章物語の断片たるべく書かれました。ゴイムには、常に物語を作らせる必要があります物語再生産がゴイム社会健全に保ちます。その意味でこれをある種の祭礼と捉えることも可能です。

 

真実を知るのが誰なのかは私たち自身にも分かっていません。しかしそのことで、私たち財産がゴイムから遠ざけられ、冗長化され、より堅固なものとなることは明らかです。

 

4

以上はごく簡単トリックですが、とても強力です。この断章のもうひとつの狙いは、すでにある程度の社会成功を得た者に、社会階層の維持の方法財産冗長化手法教唆し、これと似た断章を生みだすことを促すことにあります

 

これをもって、現代黙示録を生みだす作業ということもできるでしょう。断片的物語の集合こそが黙示録といえるからです。そうでなくてはイリュージョンとしての真実を示すことは不可能です。現代において黙示録は、集合知という位相に安置されるべきものです。

2020-06-15

anond:20200615003345

東大卒東大教員になったような連中の間では、最近、この手の話がめちゃくちゃ危機感を持って語られている。

いま助教准教授くらいの年代団塊ジュニア世代だと、東大生は首都圏だけでなく、地方の名門私立&ナンバースクール出身者の混合で、よくも悪くも、大学(東大)にいったらこんなに面白いつがいた!みたいな経験があった。自分首都圏出身だが、同級生東北人が、高校時代バンカラだったと聞いて、マジでびっくりした。下駄学校行ってたとかさあ。

しか最近は、首都圏中流以上の家庭の出身で名門私立を出たやつがほとんどになってきた。均質性が高まり、みなそつなく、しかし外れ値が少ないのでダイナミズムに欠ける、ように思う。東大のかつてのよさが失われてる気がして、焦燥感を感じている。有象無象拠点としての寮の消失も効いてるかもしれない。とにかく、みな小綺麗になってきて、焦る。

でも逆に、学生の話を聞いてると、地方学力の高い高校生でも「わざわざ東京行きたくない」という気配もあるらしい。 それが東大でも、だ。これも衝撃、

結局は大きな物語崩壊以降、大学(東大)とはなにかの価値提示しきれていないのかなという気もする。東大のために東大に来いとは当然、いえないわけで、うーん、なにかシステムの抜本的改革必要なのはわかるが、さりとて、と立ち止まってしま

2020-05-08

GWにみたアニメをふたつ

極めて良質なエブリデイマジックだった。

一話ずつ食事の支度を見ながら再生し、食べ終わるころには楽しい気持ちで見終わっていた。

弘前に降り立った魔女普通女子高生をするお話

田舎景色を取り囲む優しい人間関係が、見ていて心地いい。

日常系かと思うと、箒で空を飛んだりするのが良いアクセントになってよい。

ちゃん魔女になりたいと希望したシーンをみて、後半は世界主人公破壊せよと、選択を迫る激鬱展開なんじゃないか心配したが、そんなことなかった。安心

どこかに進んでいく物語じゃないので、続編を作りやすい気もするので、切に希望している。

モンテクリスト伯原作にしたアニメ

クール24話でも、すらっと見れたということは割と面白かったのだろう。

モンテクリスト伯復讐劇なんだけれど、実は後半まで誰が誰に復讐するのか、それほど明らかではない。

復讐物語ぼんやりと見えてくるまでが若干退屈かもしれないが、後半に結末まで駆け抜ける勢いは見る価値がある。

ただ、このアニメが作られた時代的なものがあるのかもしれないが、画が汚いのが残念。

画面で人物が動いても服のテクスチャが動かないので、脳が混乱して非常に見ずらい。

これさえ目をつぶれば、伏線が繋がって大きな物語が完成する快感を楽しめる割と楽しいアニメだった。

2020-03-22

anond:20200322095557

議論してるように見えて、パワーゲームやってるだけだよね

(これも古臭い言葉だが)大きな物語がなくなった時代から共通モラル」を作るのは難しい

から今は万人による万人の闘争状態

2019-10-11

いまさらながらFF15をやってみた

ネット上でホストファンタジーなどといろいろと悪評を聞くが、自分でやってみないとなぁと思ったので。

ちなみに買ったのはロイヤルバージョンで、1年前に買っていたが、どうにもやる気がでず、1年間寝かせていた。

最近やった他のゲームアストラルチェイン、FF9カップヘッドなど。

先に結論を書くと、FF15は80点くらいの作品で、決して悪い出来ではない。良い部分があるが、粗削りな部分があるといった評価とも異なる。

しろウェルメイドであり、ゲームとしてウェルメイドでありながら、圧倒的なセンスの悪さが、FF15を怪作たらしめていると思う。

先に悪い部分を書こう。

ほぼ前情報なしでプレイしたので、作品オープニングでタイトルとともに、Stand by meが流れたときは、センスの悪さに鳥肌が立った。

自分に忍耐がなければ、電源を落としていただろう。それくらい、21世紀のこの時代にStand by meは気持ちが悪かった。

旅がテーマ、男4人の旅というのは知っていたが、だとしてもだ。

ホストファンタジーという揶揄からもわかる通り、キャラクターは大不評のようだ。

自分野村ファンタジーにはそれなりの耐性があるものの、全員黒い衣装ってどうなの?とは思う。

あと車の乗り方。ヤンキーか。

終始、画面がシュールな笑いに包まれるのだが、製作者がこの笑いを意図したものなのか、天然なのかがわからず、笑っていいのかどうかよくわからない。

口調は主人公のみ気になったが、それ以外のキャラクター特に気にならなかった。

100万回くらい言われているのだろうが、駆け足&説明不足。しかし、この原因はあとで考察する。

ファンタジーなのか現代なのかはっきりしてほしい。道路は異常に整備されているが、車の数は少ない。

誰がどういう目的あんなに道路を整備したのか。車は一般人ももてるのか、特権階級だけなのか。

帝国はなぜ空から襲ってくるのか。道路に非常線を張れば、一発で主人公を捕らえられるのにバカなのか。

良い部分

オープンワールドゲームとしてよくできていると思う。地形も良いし、世界もそれなりに広い。

仲間とのパーティがあるオープンワールドゲーとしてはよくできていると思う。特にチョコボの出来が非常に良い。

チョコボに乗って初めて、やっとFF15やってよかったと思った。それまでは苦行だった。

車は、道路を走っているだけなので、個人的にはあんまり良さは感じなかったが、人によっては、あのドライブしている感じを楽しめたのではないかと思う。

オープンワールドゲーでは終始走り続けないといけないので、そこに車によるオートドライブというのは新しい世界の魅せ方だったと思う。

アクションゲームとしても良くできている。特筆すべきものがあるわけではないが、やっていて気持ちよさは感じるのでよかった。

さて、FF15ゲーム部分としてはよくできていて、ストーリー部分は終わっていて、演出センスが壊滅的であると書いた。

その理由FF15オープンワールド化とこれまでのFFギャップにあると思う。

基本的にはFFストーリーリブンのRPGと見做されていた。FF13が一本道とバカにされたように、FFはこれまでストーリーを語ってきた。

そのため、FF15でもストーリーを語りたい、クリスタル帝国王家召喚獣が出てきて、いろいろやりたいという欲望製作陣にあった。

一方で、オープンワールドゲームストーリーを語るのに、あまり向かない。または、現状でストーリーを語るうまいフォーマットが生まれていない。

ゼルダBotWでも、かなりストーリー部分は淡々としていた(ゼルダは基本淡々としているが)

オープンワールドでは、どうしても小さなクエストを回りながら、大きなストーリーを進めていくというプレイタイルになる。

世界には小さなしかし大量の点としてのクエストがあり、そこを自由にまわりながら、その世界を楽しむことがオープンワールド面白さなので、

ゼルダであれ、ホライゾンゼロドーンであれ、Falloutであれ、大きなストーリーは、主人公個人動機依存する物語で、世界を救う動機ではない。

から、回り道がストーリー矛盾しない。

一方で、FF15場合は、国と国の間の大きな物語を語ろうとしてしまっている。つまり、従来の線としてのストーリーだ。

すると、この王子は親父が殺されて、国が崩壊しており、もしかすると自国民が路頭に迷うかもしれないのに、ふらふら旅をしているお馬鹿さんになってしまう。

国が滅んでいるのに、シドニーに頼まれて、ワックスを取りに行ってしまう。それ、やる必要ある?とプレイヤーは突っ込んでしまう。

結果として、オープンワールドゲーの楽しさである回り道が、ストーリーにとっての罪悪感を生んでしまい、

どちらを重視するプレイヤーにとってもしっくりこないプレイタイルをつくってしまっている。これがFF15ゲームとして見たときの一番の欠点である

もちろんキャラクターが気に入らない、ファッションが気に入らないという感想はあるかもしれないが、

上記オープンワールド大きな物語矛盾こそがFF15を怪作としているところだ。

つの解決策は、ノクティスを村人にすればよかったと思う。

ノクティスと仲間たちは、戦争孤児で、シドが引き取って育てていた。つまり、ただの村人である

ノクティスが18歳になったときに、一般人では手に入れることが不可能な高級な車が見ず知らずの人間から送られてきた。

そこには、こう書かれている。「世界を見よ。そして、自分が何者かを知れ」

ノクティスはこれを機に旅に出ることにする。

グラディオラスが言った「おまえ一人では心配だ。用心棒がいるだろう?」

イグニス料理ができる人間必要ですね」

プロンプト「旅に出るなら、記録も必要だよね」

4人の旅が始まる。

旅の途中で、ノクティスは謎の力を手に入れることになる。

その力をめぐって、帝国軍とやりあうことになり、帝国に追われることになる。

たまには幼馴染のシドニーのところに戻って、車を修理したり、彼女のお願いを聞いてあげる。

世界を少しずつ回るにつれて、帝国とルシス王国の争いに、巻き込まれていくこととなる。

次第に明らかになる自分の出生の謎。そして。。。

おそらくこういう導入の仕方の方が、すんなりと世界に入れたのではないかと思う。

FF15はとにかく惜しい作品なんだけど、インディーゲーや小さいメーカーがつくったゲームと異なり、

なんか根本的なところでずれているゲームという印象がある。

開発期間がもう少しあれば、開発資金がもう少しあれば、といった話で解決されるものではまったくなく、

このゲームをどういうゲームにしたかったのかが不明確で、昨今のスクエニディレクターをやれる人が少なくなってきているのを如実に表していそうだ。

プレイだがKH3も同じ感じがしていて、材料がいいが、味付けが悪いと思わせる。

2019-09-05

現代黙示録

1

ウェブSNSの各所にできるだけフェイクニュースを散りばめましょう。そこに断片的な真実を散りばめ、人びとに大きな物語を作ることを促しましょう。その際、ひとつひとつの断片に歴史的背景を備える宗教的政治的シンボル付与することで、より効率を高めることができます

 

少しずつ真実を混在させることがとても重要です。 少なくともそのように思わせることが重要です。これは実際、人びとの探究心や創作欲求を刺激するもっとも優れた方法です。こうして物語が量産されるようになります

 

2

やがて物語を作ろうとする者、できあがった物語を読み解こうとする者、結論だけを求める者、そして何も知らない、知ろうとしない者に人びとが弁別されていきます弁別が繰り返されることで自然と人びとのうちに階層が生じるでしょう。

 

こうして発生した階層構造のもとで、自律的なゴイム社会が生まれます。彼らはより高い階層を目指しますが、互いにいがみ合うことに注力するため、結局ゴイムであり続けるしかなく、当然真実にも到達しません。 つまり真実はけっきょく真実たり得ず、イリュージョンでありつづけます

 

3

この断章物語の断片たるべく書かれました。ゴイムには、常に物語を作らせる必要があります物語再生産がゴイム社会健全に保ちます。これをある種の祭礼とみなすことも可能でしょう。

 

真実を知るのが誰なのかは私たち自身にも分かっていません。しかしそのことで、私たち財産がゴイムから遠ざけられ、冗長化され、より堅固なものとなることは明らかです。

 

4

以上はごく簡単トリックですが、とても強力です。この断章のもうひとつの狙いは、すでにある程度の社会成功を得た者に、社会階層の維持の方法財産冗長化手法教唆し、これと似た断章を生みだすことを促すことにあります

 

これをもって黙示録を生みだす作業といい換えることもできるでしょう。なぜなら、断章の集合こそが黙示録であるといえるからです。これを現代風にいえば集合知となりましょう。黙示録は、現代においては集合知という位相において安置されるべきものです。

2019-07-23

anond:20190723222409

ゲーム実況みたいなものだと思えばいい。

同じゲームの実況でもプレイヤーによって微妙プレイ内容が違ったりするだろ。

いろんなプレイヤーの実況をいくつも見ることでその微妙な違いが分かってくる。

チートプレイしている奴は多いが、中には縛りプレイとか、ウケ狙いの面白プレイバグをハックするようなプレイ、実力でスーパープレイしている奴もいる。

「こいつはこの場面でこう動くのか」とか「このままいくとこうなるんじゃないか」とか予想しながら楽しむものだ。

また、基本的には何十話も一気読み、あるいは新聞四コマを読むように毎日一話ずつサクッと読むものなので、そのぶん一話一話の内容は薄かったりする。

スルッと飲み込めるような薄い話をいくつも積み重ねて、長期的な視点大きな物語を作っていくわけだ。

まあ、風呂敷を広げたきり未完のまま終わる作品も多いけどな。

2019-05-05

anond:20190505212650

でも大きな物語や嘘が、「ひょっとしたらそんなこともあるかもね」と気持ちで納得するためには、

細部の作りこみが必要だと思うけれども、細部の整合性蓋然性描写が雑なのでとても雑な感じがする。

2019-02-26

「本筋が進まないシナリオ世界干渉できないキャラクター」は何が面白いのか?と悩んだ話

 さて、私事ではあるが、私はひょんな事から知人の紹介を以て物書きとして仕事をすることになってしまった。

同人小説の一つも書いたことはなく、詩を紡いだこともないズブの素人が物書きとなってしまったのだから、これは一大事である

世の中に生々しい悪臭を漂わせるクソのような文章を生み出すに違いない。同業の諸先輩方には申し訳のしようもないが、生きていくためには書いてみるしかないようだから、一つ堪忍していただきたい。

具体的に何を書いているのかという話だが、主にソシャゲシナリオフレーバーテキスト仕事をしている。

シナリオ新規追加キャラクターに付帯する「ガチャを回したくなるようなストーリー」であり、フレーバーテキストとはアイテムキャラ説明文といった類のものである

自他ともに認めるズブの素人であるから面白いストーリーも売れるキャラクターも分からずに右往左往している私の論は大変滑稽であると思うが、思考を整理しながら意見を頂きつつ、私のような後進があった時の手がかりになればという考えでタイピングしているのでご容赦願いたい。

物申したい訳ではなくて、自らの認識と世の中の齟齬を確かめつつ、様々な意見に触れられれば良いと考えた訳である

■私が考えた「物語」の面白さとはなにか?

 物書きとしてスーリーを生み出す以上、面白いと思われる作品を作らねばならない。

しかし、困ったことに今までの人生面白いものを作ろうとして作ったことはない。作りたいから作った絵や模型は少々あれど、人にウケる事を目的とした作品を作ったことは全く無い。これでは何を良しとすれば宜しいのかが分からない。

初っ端から大きな壁にぶち当たり、困り果ててしまった私は「ここはひとつ自分が好む『面白さ』を分析し、自分と同じ感性人間ウケる物を作ることから始めよう」と考えた訳である

そのために、まずは自分が好きな作品リストアップしてみようと思い立った。

そうして思いつくままに好きな作品リストアップしてみた訳だが、どうやら具体的なことは何も分かりそうにない。 困った困った。

(例として『攻殻機動隊』『エヴァンゲリオン』『松本零士戦場まんがシリーズ』『姉なるもの』『装甲悪鬼村正』『DARKER THAN BLACK』『Fate/stay night』『イヴの時間』『カウボーイビバップ』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』『殻ノ少女』『ARIA』などが浮かんだ)

パッと見で抱く第一感は、大抵の作品には何処か仄暗さがある事、ハーレム物ではない事(Fateハーレムに近いが)が共通であるという事ぐらいだろうか。

一見明るく見えるARIAだって地球の海はすでに人の泳げない環境になっており、テラフォーミングされた火星の海で人が営む話だし、その他の作品主人公格のキャラが暗い過去を背負っていたり、あるいは直面している状況が暗かったりする。)

あとは私が「根暗で面倒くさいタイプオタク」のような何かであることぐらいは分かるのかも知れない。

本筋に戻るが、素人なりにこれらの作品を嗜好する人間が好む『面白さ』とは「その世界キャラクターを通して知ること」ではないかと私は考えた。

例えば草薙素子メスゴリラではなくか弱い少女であっても、碇シンジが熱血爽やか少年であっても、私は攻殻機動隊エヴァが好きだっただろう。

なぜなら彼らがどのような性格や外見であっても、あるいは登場せずとも、世界設定が同じならだいたい同じように世界は動くだろう。

極論を言えば草薙素子がか弱い乙女であり公安9課に勤めていなくとも人は義体化し続けてゆくし、あるいは碇シンジが初号機に乗れと言われた時点で超ノリノリであっても、最初に戦う第三使徒サキエルにはコテンパンにされ、進化し続ける使徒を食い止めきれずにサードインパクトを迎えるだろう。

キャラ性格や外見がウケなくとも物語は進行し、あるいは登場せずともその役目は別の人物担当して物語は収まるべきところに収まる。なぜならその世界はそういうニーズを抱えて生まれからだ。

しかしそれではつまらいから、面白く見える視点を借り受けることで、物語は娯楽作品として成り立たせることが可能になる。

結論として、私は「キャラクターとは世界観に内包される1つの要素であって、世界の覗き穴でしかない」という考えに至った。

しかしこれを知人に語ったところ、「世界キャラクター内包されている」という返答を得て混乱することになり、こじらせ続けた結果としてこの日記を書くに至ったのである

■「キャラクター内包される世界」に触れて

 まず私は混乱を与えた知人に「なぜ世界キャラクター内包されるのか?」と問いかけてみた。

すると彼は「大塚英志を読みなさい」と言うので、彼が勧める「物語消費論改」に目を通し、今の私にうってつけの本のように思えた「キャラクター小説の書き方」も読んでみた。

大塚英志の書く文章客観的エビデンスを示す事よりも、一つの前提を提示した上で理論を展開する事に重きを置いているように思え、彼の取る左翼的立場(いわゆる大多数の革新派とは別物との自覚があるのか、自身は『サヨク』と表記するが)が突如乱入して辟易する事もあり、中々体力の必要な内容であったが、ひとまず読み切った。

彼の書き込んだ政治的ノイズと、理論展開をしたかっただけの文章フィルターに掛けながら読んでいくと、どうやら物語というのはキャラクターがいないと生まれないものらしい。

キャラクターが初めに存在し、ストーリーを作る中で世界が見えてくるのだという。

なるほど、確かに何かしらのネタがなければ物語は書けないし、世界描写することができないように思える。

しかし、どうも私には納得がいかなかった。

例えば年齢や性別を設定されたA子さんというキャラクターけがそこにいて、世界観がなかった場合はどうだろうか。

この場合、A子さんに生まれるのは虚無の中に放り出されたと言う事実だけである

もし、その「『何もない世界』を受けてA子さんが得た情動こそが物語である」というのならば、それは虚無と言う世界観がないと成り立たないのではないか

逆に、例えば「中世風の世界」があったとしよう。登場するキャラクターの設定は何もない。

中世風の世界といえば、人の頭の中には剣戟や鎧がたてる金属音や、あるいはそこで生活する人々が桶を片手に井戸に水を汲みに行く姿などを思い浮かべるだろう。

そして、多くの人は中世と言われただけで頭の中にヨーロッパ景色か、日本中世を思い浮かべたのではないか

あたり前のことだが世界観には内包する事物があり、事物には経緯がつきまとうものである

世界観を定めたことで、これらの自然な在り方の幅が定まり人物も含めて存在する範囲が決定される。

たとえ時間が静止していても、大木には新芽から育った歴史があり、水すらも水素2つと酸素が結合したという経緯が発生する。

私はこれらの変化こそが物語なのではないかと考えているのである

即ち、その世界で起こった変化を拾い上げた時に、初めて事物キャラクター化すると考えているが故に、私はキャラクター世界内包されるという考えが捨てきれない。

そして、物語の本筋というのは、それらの小さな変化全ての集合体であり、世界観そのものストーリーであると考えてしまっているのだ。

うーん…困った…。なんでキャラクター世界内包されるのだろうか。

A子さんの主観から書いた物こそが物語であり、A子さんの認知した物こそが世界である定義するのだろうか?わからん

うーんこまった。うんこまった。

なぜ困っているのかは次項で触れよう。

ガチャを回させるために、物語を捻り出すソーシャルゲーム性質に触れて

 さて、ようやく本記事タイトルに近づく事が叶う。

上記の様に「世界キャラ内包されている」と考えている私が、物書きとして初めて書くことになった物語ソーシャルゲームに追加される新キャライベントストーリーだった。

この仕事キモは、有料のクジ引きでプレイヤーが獲得できる新キャラプレイヤーに対して強烈に売り込むことである

具体的には運営会社が考えるキャラクターの「良さ」を引き立てるためのお話を一本仕上げるのだ。

ここで私は早くも躓いた。

何故ならソーシャルゲームにはベースとなる世界観があり、主要キャラはすでに出揃っており、本筋の進行に何ら問題のない所に、いきなり「強烈な売り込み」を必要とするキャラが登場してしまうからである

本筋の話に必要のないキャラクターを、いかにも重大で必要な魅力を持っているかのように持て囃し、そのために何かしらの話を世界観という大地から発掘して、プレイヤーの周りに再配置する作業となる。

そして、運営としては本筋に明確な終わりを与えてしまうとプレイヤーが離れてしまうから、本筋だけを避けて大地を穴ぼこだらけにしながら不要物ばかりが増え続けていき、やがてはプレイヤーの周りに綺麗にそびえ立つ「本当はどうでもいいキャラ」の山が本筋を隠してしまう。

これは、私の「世界内包されたキャラクター」の考え方だと避けて通ることは叶わない結果のように思える。

しかし、「キャラクター内包された世界」という考え方であれば、大地の形は定まっていないので、きっとプレイヤーの周りに何処からともなく取り出した土を積んでゆく作業となるだろうから、なるほど確かにそちらの方がソーシャルゲームに向いている。

ただし「どこからその土(物語)を持ってきたんだよ」という疑問とともに、「別にその土がなくてもこの世界存在しているし、その山は不要じゃない?」という感想を得る私のような面倒な者も少々発生するだろう。

「要・不要しか語れない虚しい奴め」と言われればそれまでだが、こちらとしてはいきなりステーキか、或いはさわやかハンバーグでも良いが、兎も角ステーキハウスで3000円のステーキを注文したら、鉄板の上にステーキを覆い隠さんほどのミックスベジタブルを乗せられた心持ちなのである

いきなりステーキ店員としても、ステーキが主役なのに上役の指示でステーキを切り捨ててでもミックスベジタブルを山程ぶち撒けろと言われて途方に暮れててしまうだろう。ステーキの前でアホ面を晒しミックスベジタブルを握りしめている店員こそが私なのである

私は本筋を覆い隠さんほどのサブキャラを並べるという在り方は、本筋へたどり着かせない為だけの行為しか思えず、ベースとなる世界観にガチャの新キャラを紐づけていく意義を上手く見いだせなかったのだ。

前項で困っていたのはこの点であって、物語キャラクター内包されているのであれば私の考えが間違っているだけなのだが、どうやら一応理屈は通っているように思えてしまっている。

この矛盾放置するべきではないだろうが、結論は見えない。

え?意義はお金を稼ぐ事だし、キャラ理由なく存在していてもいいじゃないかって?

まあその通りなんだけどさ…青臭くってウブな駆け出しとしては、ちゃん物語を進めたいわけよ…

え?面白ければ本筋がどーこーはどうでもいい?

それも最もな話よ…だけど、面白いって何さ?

■「本筋が進まないシナリオ世界干渉できないキャラクター」は何が面白いのか?

 ようやっとこの4項目にして表題に触れられた。

展望も何もなく書いてきたので、まずはここに着地できた事で一安心である

「本筋が進まないシナリオ世界干渉できないキャラクター」に塗れた作品であっても、成功しているコンテンツというのは存在する。

何を隠そう大部分のソシャゲは「本筋が遅々として進まず(或いはほとんど存在せず)、本筋に絡まない=世界の動きに絡まないサブキャラクターに塗れている」にも関わらず、利潤を得やすガチャ商法確立し、商業的に成功していると言えるだろう。

何故、このソシャゲガチャ商法成功しているのか。

単純に言えば「面白いからである

しかし、これは「プレイヤーが楽をして手に入れられる娯楽としては」という但書が付属するのではなかろうか。

例えば、人が10時間自由と完全に健康な体を手に入れたとして、目の前に据え置きのゲーム機スマホが置いてあり、何れかの"ゲーム機"で好きなゲームをして10時間消費できるとしたらどちらを選ぶだろうか?

多くの人は据え置きゲーム機を選ぶと思う。

ソーシャルゲーム10時間プレイするということは、多くの場合右手の親指で、画面の右下を5秒毎にタップする10時間を過ごすことになるだろう。

ソシャゲファンタジーゲームよりもドラクエXIスマホ荒野行動よりもPS4のPUBGのほうが良いユーザー体験を得られることは当然である

バトロワゲーにおける「物語」とはプレイヤープレイのものであると私は考えている。つまり、より派手に快適に臨場感を得られるPUBGのほうが物語を鮮明に作り出すことができると思っている。まあ、異論どころか非難轟々かも知れないが、本題とは離れてしまうので一旦放置してほしい。)

しか現実には日本ゲーム市場ソシャゲが大きな地位を不動のものとしている。

これは、プレイヤー自身体験考察・のめり込む事なく「楽に手に入れられる娯楽」を欲しているからだろうと思う。

まり「さっと注文して、さっと食べ終えられるファストフード」のニーズが高まっているのだと考える。

ここで本題に戻るが、端的に言ってファストフード的娯楽に、「大きな物語の展開を推察し、その行く末を記憶して楽しみにする」という『面白さ』は重すぎる。

世界観や、大きな物語の動きを受け取ることができるプレイヤーに対して、ファストフード的娯楽を求めているプレイヤーが圧倒的に多い。

故に本筋を覆い隠してでもサブキャラを増やしまくり、ゲームの本筋とは関係のないキャラ推しの話を通勤電車の中で10分で摂取させ、その体験を通してガチャを回させて達成感を与える訳である

本筋というハイカロリーでの御馳走を消化するには、健康な消化管と食後にゆるりと過ごすことができる時間が不可欠だが、これは時間タスク処理に追われる現代人にはちょっと厳しい要求だ。

故に、消化が楽で手早く終わるローカロリー立ち食い蕎麦である、本筋に干渉しないキャラシナリオをちょいと摘むぐらいがちょうど良いという世情があり、まぁ立ち食い蕎麦も許せないほどマズイ訳ではないから多くの人が食べるのだ。

そしてこの2つを比べた時、多くの人は無意識のうちに御馳走と立ち食い蕎麦を「比べるべきではない両者」と判断して、或いは意識的に御馳走を我慢して立ち食い蕎麦を選んでいると言う構図なのだろう。

どちらを食べてもひとまず空腹は収まり、なんとなくか明確かの違いはあれど「美味しかった」という感想が残るから、死に物狂いで御馳走を求める酔狂グルメ以外は、立ち食い蕎麦でも満足感は得られるのである

まりベストである必要が無いと言うのが、物語の器たる創作物に求められているのではないか

立ち食い蕎麦ステーキも美味しいっちゅーことよ。

●疲れてきた。

 結局のところ私はここまで考えた所で面倒くさくなってしまった。

本当は物語の捉え方を考えていたはずなのに、到着したのは「求められる面白さ」になり、挙句の果てにはステーキ立ち食い蕎麦だ。救いようがない。

さて、脱線し続けた挙げ句、私はこの記事命題である「本筋が進まないシナリオ世界干渉できないキャラクターは何が面白いのか?」という問いには、一旦以下の答えを与えることにしようと思う。

Q.「本筋が進まないシナリオ世界干渉できないキャラクターは何が面白いのか?」

A.「本筋が進まないシナリオ世界干渉できないキャラクターは一番面白い訳ではないが、なんとなく面白い位にはなる」

まり結論として、「本筋の展開する面白さ」は今の創作物には重すぎる。

キャラを立たせてキャラを売った方が、消費者に優しいし、会社としても嬉しいのだ。

ベストではなくベターいから、世界干渉できないキャラクターでも十分であり、安心できる経営につながるということだけは確かなようだ。

私は物書きの入り口に立った以上、そこをうまいことやっていく必要があるらしい。

さて、私の眼前にそびえ立った、ステーキの上にぶち撒けるべきミックスベジタブルはどうしてやろうか。

ミックスベジタブルを手早く、それなりに美味しく仕上げる方法をご存知の方、或いはこのステーキミックスベジタブルが載っている鉄板料理の良い拵え方をご存知の方がいれば、教えていただければ幸いです。

或いは「お前の料理してるそれ、ステーキじゃねえから!」という声も。

2018-11-04

手塚治虫作品無料公開されてるから色々読んで感想を書く 1日目

https://www.ebookjapan.jp/ebj/free/campaign/tezuka/

おいおい2日目の今日11/3)きづいたよ。誰か早く言ってくれたら良かったのに!

ってわけで色々読んだ。

 

きりひと讃歌

人が獣人になってしまう奇病「モンモウ病」。青年医師小山内桐人はそれを風土病と考え、同僚の占部とともに研究を進めていた。一方、日本医師会会長への選出を目指す竜ヶ浦教授伝染病と考え、対立する小山内の排除を目論んでいた。竜ヶ浦の指示によりモンモウ病患者出身地に赴任することになった小山内はその奇病の餌食となってしまい……。

獣人という差別から逃れられない存在になった主人公を通し、中身ではなく外見ですべて判断される虚しさ、あるいは判断する愚かさを力強く訴える。医者として確かな腕を振るっても、ただ犬の顔というだけで結果が信頼されないのはまー辛い。

ヒロインは3人いるが、行動にいちいち生々しさがある麗花ちゃんお気に入り。拾った赤ちゃんに対するスタンスには彼女生き様を感じた。

悪役に対してはわりと因果応報モンモウ病を受け入れる層に囲まれるシーンもあって小気味よさは感じるが、その分、ヌルい結末だなーという感じ。

見た目だけでなく、生肉ガツガツわずにいられないことによって人間尊厳を奪われてしまうのがモンモウ病の特徴であり作品の中でも重きをなしていたと思うのだが、中盤以降そういうのがなくなってしまったのもヌルさに拍車をかける

 

アドルフに告ぐ

第二次世界大戦におけるナチスドイツの興亡を背景に、「ヒットラーユダヤ人の血が流れているという(ナチスにとっての)大スキャンダル」を巡って世界が、そしてふたりのアドル少年稀有友情翻弄される様を描く。

めっちゃ面白かったー。物語の展開のさせかたがチビるほど上手い。もうひとりの主人公である峠草平の弟がドイツで殺された理由はなんなのか、何を草平にたくそうとしていたのか、なぜ草平はなぞの組織特高から襲われ続けるのかーといった感じで話がグイグイ進む。ヒットラー秘密を軸に、いろんな人物が入り乱れ、運命が捻じ曲げられていく。

特に、アドルフ・カミルユダヤ人と見下すことなくむしろ尊敬を持って接していたアドルフ・カウフマンが、ドイツ本国学校に入ったあとナチズムに染まっていく描写が圧巻。無垢な魂も環境が容易に堕落させえることを、手塚先生は容赦のない筆致でえぐり出していく。

そして訪れるふたりのアドルフの友情の結末とタイトル回収。どこを切り取っても隙なし。文句なしの傑作。

ちなエリザちゃん初登場時の顔面偏差値の高さすごい。あれは一目惚れするわ。手塚先生が描く美少女2018年でも十分通用すると思う(そしてその子が老婆になった姿もしっかり描くところが手塚先生エゲツない)。

 

奇子

復員後、GHQ秘密工作員として働く天外仁朗。久しぶりに戻った実家では、父親が兄嫁と不義の娘・奇子(あやこ)をもうけるなど、人間関係が汚れきっていた。仁朗はGHQから命令で、殺しの後始末を手伝うが、返り血を浴びたシャツの始末を奇子に目撃される。一族から犯罪者が出ることを恐れた天外家は奇子を地下牢に幽閉するが……。

タイトルの割に、戦後直後の地主一家の腐りっぷりが話の中心。肉欲に金欲、そして一族の体面最優先な感じがキツい。一見まともに見える人物も後々おかしくなったりするのでそういった家の宿痾を巧みに描いているとは言える。

タイトルになっている奇子も、幼少時は純粋で可愛らしいと言えるが、幽閉され常識モラルがないまま長じてしまった後は性的に成長した外見と非常識内面ギャップがかなりキツいキャラになってる。外見も童顔なのに高身長グラマラスグロテスク、という感じがこう……(たぶんわざと)。

というわけでヒロインにゐば(仁朗の母)で決定。夫が息子の嫁に手を出すのを止められなかったとはいえ作品良心ともいえる存在(息子の嫁は純粋被害者)で、話が進むにつれだいたいおかしくなっていく面々に対し最後までまともかつたまに元気な姿を見せてくれる一服の清涼剤であった。かーちゃんかわいいよかーちゃん

 

アポロの歌』

幾人もの男と関係を持つふしだらな母に虐待されて育った近石昭吾。彼は愛し合う生き物を見ると衝動的に殺してしま性格に成長した。ある時、警察現場を見られ、彼は精神病院送致される。催眠治療過程女神像に「女性を愛するが、結ばれる前に女性自分死ぬ」という悲劇体験し続けろと宣告されるが……。

重たいテーマを扱った手塚作品は緻密かつ重厚世界観になりがちで、話を把握するのが大変。だけど、これは主人公トラウマも設定も最初にぜんぶ開示されるため非常にわかやすい。かつ、それらの体験を重ねていくと大きな物語が浮かび上がる仕組みにもなっていて、かんたんなわりに厚みもあって楽しめた。

ある女性を愛するけど毎回悲劇的な結末を迎えるという構造に関しては『ゼノギアス』を思い出した。フェイとエリィに幸せな結末が訪れたように、いつかこふたりにも……と期待してやまない。

 

海のトリトン

漁師の息子・矢崎和也トリトン族の赤ん坊トリトン」を拾う。直後に津波漁村を襲い、和也の父は死亡。トリトンを忌み子と見た祖母に捨てるよう言われるが、和也は母を説得し、トリトンを含めた3人で東京へ。長じたトリトンは、己が人間でなくトリトン族であり、一族の大半はポセイドン族に殺されたことを知る。トリトンポセイドン大王を倒すために海へと出るが……。

今まで読んだことはなかったけど、いわゆる衝撃のラストについては知っていた。けどそういう展開にならずアレーと思ってwikipedia見るとそれは富野監督をしたアニメ版オリジナル展開だったという……。

衝撃のラストに比べれば、漫画版はひどく平凡な出来って感じかなー(それでも冒険活劇としては読めるけど)。テーマとして憎い敵であっても許すの大事ってのがあると思うんだけど、けっきょくそうならないしね。

あと今の感覚で言うのはアレだけど、今まで子ども扱いしていたピピ子が美少女に成長したとたん「洋子ちゃんよりずーっときれいだよ」とか平気で言ってしまトリトン普通にない。

 

リボンの騎士

おしゃま天使チンクのいたずらで男の子女の子の心を持って生まれ王女サファイア。出生のとき王子と誤って発表されたことにより、一日の半分を王子、もう半分を王女として育てられることに。サファイア排除して息子に王位を継がせたいジェラルミン大公や、サファイア女の子の心を奪おうとする魔女の魔の手が迫る。

戦闘美少女男装令嬢、女装少年(「亜麻色の髪の乙女」に変装するため)など今現在おおきな勢力を誇る萌え要素の先駆けであり、実際それらの要素に期待して読んだけどとても楽しめた。

お話的にはピンチピンチ連続で、けっこうハラハラキドキ。ただ、ヒーローであるフランツ王子に中身がないせいで、こいつと結ばれるためにサファイアは頑張ってるのかと思うとかなりしらけるものが……。

キャラとしては魔女の娘であるヘケートが魅力的。奔放な性格ながら自分というものを持ち、それに反することなら母ですら出し抜いてみせるところが小気味いい。フランツ好意を抱きながらもそれを黙ったまま迎えるラストは心が動いた。ヘケート→フランツの逆でサファイア好意を抱く海賊ブラッドというキャラがいるけどこいつも同様の魅力がある。

キャラはいいのに主役ふたりの中身がしょぼいのは本当になんなのか……。

あと魔女はいい悪役だったけど、後釜のビーナス微妙すぎる。魔女ポジションがまったくいっしょだった上にキャラの厚みがゼロ

いいところと悪いところが極端という印象。

ちななかよし版のあと少女クラブ版をちらっと読んでみたけど、コマ割りのレベルが低すぎてさすがに読めなかった。漫画神様も昔はこうだったのかと思うと妙に安心する。

 

※続き

https://anond.hatelabo.jp/20181104153709

2018-09-25

ソビエト連邦存在しない世界を生きるということ

共産主義者なので、返す返すもこの現実直視しなければ生きていけないことに途方もない喪失感を抱かずにはいられない。

宮台真司が言うところの、大きな物語は失われたのだから終わりなき日常を生きろ、というのはこういうことなんだろうけど。

言っとくが中国とかじゃ話にならないからね。あれは中華文明の延長線上にある地域大国しかないし、そもそも世界革命を輸出する気もない。

キューバ21世紀の今でもあん社会を維持していることが数少ない救いではあるが、東アジアにあってはかの国の存在感ほぼゼロだしむず痒い。

2018-03-30

anond:20180330021658

うーん、あまりそう思わない。

ストーリー不要論大きな物語終焉などは90年代後半からゼロ年代前半に

腐る程評論議論が出ていて、当時はそういうものかなぁと思っていた。

データベース消費とかは現在アイマス艦これやその他ソーシャルゲーム構造を言い表せているとも思うし。

一方で、90年代くらいなんて、多くの若者は一切政治に関心がなかったのに

昨今のネトウヨ日本すごい系のTV番組などを見るに、個々の意見の精度はともかく

政治国体に対する関心は高まっていると思える。日本自分の同一視というか。

まり日本天皇などを巡る言説は若い人の間で一般的になっている。

これはデータベース消費を行なっているだけのオタクでは発生し得ないもの

大きな物語回帰しているんじゃないかと思える。

2018-03-20

とりあえず自己顕示

狂気に憧れる凡人の話

 それはほかでもないぼくのことであるのだが。何よりもまずこのもったいぶっていかにも尊大そうな文章ケチをつけなければならないが、どうしてもこの文章じゃないと書けないのは、普段自分の頭の中をかけめぐる独白の数々がもう常にこの状態で、いくらケチをつかえようにも治らないのである。そしてその結果所々に綻びが生じる。そしてそれを許容するにはあと何十年も人生必要になるだろう。

 明け方明け方といっても現在午前19時である。日当たりのいる部屋に住むせいかカーテンを未だ閉めているせいか太陽を拝むことはないのだが、とにかくこの時間までぼくは寝れずにいた。寝れないときに頭を駆け巡るのはたいてい直近の過去反省か僕が主役の何かしらの劇的な映画である。ある時は正統を追い求めた結果化け物となる主人公を演じ、ある時は自分の人当りを恥じたり、ある時は海外旅行先で危うく性欲に負けそうなった事実を思い出す。現在過去からの逃避のためにぼくは狂気自分を追い求める。その狂気というのは目的達成のために没頭することができて周りを省みずそして周りもまた本人を認めている状態を指す。つまり自己実現自己顕示が両立した理想的状態に憧れる。そしてその状態過去いかなる自分構成している伏線を全て回収し、何等かの今現在の結果にすべて一本の柱で繋がることを求めている。求めているのである現実はそうはいかない。そのような狂気自分自分に舞い降りたことはなく、狂気の結果になったこともない。狂気を演じてみたこともあったがそこに生じたほころびはむしろ自分を苦しめることになった。つまりは結果が伴わなかったのだが、それはそうとしよう。なにより自分自身はどこまでも凡人で、その凡人さと、そして誠実さを追い求めていたという現実に直面したのである狂気理想、凡人も理想。でも現実は凡人。では理想は叶ったと思うが、これもまた難しい。この構造がよくわからない。凡人という層の上に狂人という層が乗っかっていて、その両方を求める自分がいるのであろうか。

 これはぼくの物語妄想に関連してくるのだと考える。ぼくの頭の中の物語、しばしばそれは12歳の頃から文章となって表現され印刷され、多くの人に読ませたりはたまた読まれたりしたわけだが、その妄想こそが平凡の上に狂気コーティングされている。つまり、世のなかに多く知れ渡るフィクションと全く同じ構造を取っている。具体的に言えばスターウォーズ

 例えば運命の申し子になりたがったり、運命に反逆し新しい法則を作り出す存在になりたがる。誰しも考える物語そうかもしれない。だからこの文章ありがちなものになり得る。それはしかし考え始めるとまた大変なので置いておく。

 まず、基本となる法則を追い求める。例えばスターウォーズでいう「フォース」であったり、よくある「運命」だったりする。「強大な支配者」だったりもする。そしてその基本となるものに、自分は「狂人」となり法則に準じて動いていく。妄想世界でこの法則絶対で揺らぐものではない。妄想世界ではぼくは絶対に間違えない。法則を間違えない。

 これこそがぼくの今の状態を作り出すのである。平凡の狂気の同居を求めるということ。つまりそれは究極的には平凡を求めているのかもしれない。絶対正しいとされることを妄信的に突き進めばぼくは幸せになれる、自己実現ができるという、ある意味思考停止を求めた状態なのかもしれない。価値観の氾濫するこの時代である。よく大昔の評論でいう「大きな物語」の終わった時代。それが昔。らしい。ぼくの生まれる五年ほど前にそれは終わり、今は価値観の氾濫する時代になっている。だからこそ強い価値観が生まれカウンタ―も強い。2011以後、それを強く感じている。もはや学べば学ぶほど何が正しいかからなくなり、そして終着点が分からなくなる。よくフィクションで言われる「それは己が決める」そうしたい。そうしたいし、それが正解だと思う。しか自分が間違える存在で、正しいところに合わせなければならず、もし自分がそれを踏み外せばそれすらしばしぼくの責任ではなく(大きく元を辿れば自分責任なのだが)、自捨を求められる「大きな物語」の中にいたぼくが、この物語の氾濫するなかでそれを選択し生きていけるのだろうか。しばしぼくらは尊重される。マイノリティだとしても悪いことだとしても、その個人尊重される。されるべきである。一方でぼくを取り巻く規範がぼくにどう作用するのか。二つの全く異なるコミュニティを行き来してきた僕に何がどう作用するのか。1984よろしく二重思考である「わかっちゃいるけどやめられない」「間違っちゃいるけど間違っていない」恐らくこの二重思考も誤りであるが。そしてぼくはどちらかを選択し逃避する。どちらも正しいと思うのに。どちらも正しいと思うから。これがまたややこしい問題を引き起こす。

 本当のぼくはとても乱暴狂信者である。属する二つのコミュニティ規範に対して。とても乱暴妄信的な狂信者である。その折り合いは結局、この22年間でつけることは出来なかった。そしてもう23年目を迎える。自己実現自己顕示などもう参照ファイルの一個としてもったいぶって時折閲覧する程度でいい時期である。それすらも間違っているのかもしれないが。ぼくのただの達観という自己満足自己実現の1つの妄想の中の確信の1つなのかもしれないが。だがどうしようもない。この疑い逃れに堕ちぬよう絶対を見つけるまで日向ぼっこしかないんだ。何日も何十年も雲のように漂って。とっつきやす欲望転々として理由を探していたけど。ある日ある事あって。また嫌になったんだ。これまでの世界にもこの文章にすらシラケてしまった。ぼくは戻っていった。あきらめと忘却千羽鶴のように歩む生活の往来に。さながら長澤知之である。回想を繰り替えし思考列車回送を繰り返しながらぼくは今日もぐるぐると回り先人を参照して一時満足しまた離陸して宙に浮いて厨二に入ろうする。三十分が経った。整理できただろうか。ぼくはこうして前に進めない。前に進み規範に折り合いをつける技量もない。面白いことに一年前のぼくの就職診断で出た答えは「開祖」であった。宗教をひらけというのだ。つまりはもうぼくはそのようにして列車を止めることは出来ないから、早く駅を作りその駅に留まりまた路線を作り走り出せというのだ。それしかぼくのような人間は生きることが出来ない。社会でやっていくこともできない。

 そしてぼくのようなものは、地球上にゴマンといる。恥ずかしいことにマジョリティなのである。なんとも哀れ。恥ずべきこと。マイノリティを求めること時代マジョリティの発想なのである。この世に溢れるマジョリティを求めるマイノリティ物語などすべてその逆でしかない。この文章自己陶酔の一役目しか果たしていない。道具に頼らないだけマシであるが。

 夜が明けた。今日が始まる。あまり酔った文章を書きたくないのでどう締めたらよかろうか。この自分状態も、外の状態も、宵が明ける。上手い。よしこれで終わりにしよう。

2017-10-01

宇野常寛母性ディストピア刊行記念呪詛

宇野常寛の「母性ディストピア」が刊行されることを記念して、私が宇野ブロックされた時のことについて書こうと思う。

まず最初に言うと、私は宇野尊敬している。

だってそうじゃないか

立命館で「サークルクラッシャー研究」なんてしょうもないことして卒業サラリーマンやりながらミニコミ編集から身を立てて今や地上波キー局コメンテーターにまでなったんだからNHKじゃ時の人として特集まで組まれたよ。誰彼かまわず喧嘩を売って、使えそうなオヤジには取り入って転がすホステススタイルは誰にも真似できるもんじゃない。

で、ブロックされた時の話だけど、メンション飛ばしたり、引用RTしたりしたわけじゃない。

おそらく彼のシンゴジラ批評についてくさしたツイート宇野エゴサーチして見つけたんだと思う。

ツイートの内容は「宇野はいつまで大澤真幸や宮台慎司の残飯整理してるんだ」みたいなもの

ブロックされた時、まず「小せえな」って思った。

普段テレビコメンテータとしての発言炎上すると「耳障りの悪いことには耳をふさぐ愚民どもめ」みたいなこと言ってるくせに批判されるとこれかよと。尊敬してたのに見損なった。

次に「宇野はいつまで大澤真幸や宮台慎司の残飯整理してるんだ」って私の批判妥当かどうかって自己反省をしてみた。

宇野批評の要旨はだいたい以下の2点に集約される。

戦後日本をささえた「大きな物語」は失効したから、これから中間共同体に依って自立して生きていくことが大切だ。

村上春樹ファンとか高橋留美子ファンとか、母性依存した惰弱オタク死ね

前者については大澤真幸や宮台慎司90年代前半から言ってきたことで、これをいまだに繰り返しているのは芸がない。後者についてはそもそも誤読だが、百歩譲ってもほっとけよっていう程度でイキるような話でもない。そもそもこうしたマチズモ的な言説そのものが「大きな物語」への郷愁であり、まさに自家撞着に陥っている・・・とか書けば宇野批評いっちょ上がり。安っぽい。

宇野サブカル批評対象を都合よく解釈編集、捻じ曲げてこの1か2のどちらに接続するだけのものだ。

映画評論家の町山は「評論って串焼きみたいなもので、客観的ディテールや背景の事実などをできるだけ集めて、最後自分主観という串で貫く。集めた材料の量や質、それを外さずに貫けるかどうかで味(面白さ)、強さ(説得力喚起力)が決まる」って言った。

宇野批評は串ありきで、串に合わせて都合のいい材料を集めているだけだ。

考えれば考えるほどブロックされるようなことを言った覚えはない。

何がいいたいかというといちいち裏垢でツイート読むの面倒だからブロック解除してほしいのと、どうせくだらないんだろうけど「母性ディストピア」読むってこと。

あと教養のない若者は仕方ないと思うけど、あまり宇野批評とか真に受けないようにな。 

以上。

2017-09-24

anond:20170924023251

‪なろう系の作品にしばしば見られる特徴として「展開のスパンが長すぎる」というものがあり、もともとアニメ化に向かないのではないか危惧されていたけど、「展開があっさりしすぎる」「どこに向かっているのか分からない」と言われるのは、やはりそれが悪い方向に出ているのかと思う。‬

‪たとえば、なろう系の要素とされる「俺TUEEE」について、過剰なまでに展開を盛り上げて主人公の強さを強調するような想像をする人も多いと思うが、実際に見てみると分かるように、特に起伏なく淡々イベントをこなしていくような作品のほうが多いんだよね。‬

Web小説執筆するにあたって文字数や巻数という制限が薄く、読む側も数十話数百話を一気読みするのが前提なので、一話一話は薄味でさっくり作り、それをひたすら積み重ねて大きな物語を作る、という作劇になりがちだ。‬

漫画雑誌で細切れに読むか単行本で一気読みするかという感覚に近いかもしれない(超長期連載ほど展開が遅くなって週刊だと耐えられないけどコミックスで一気に読むと面白いみたいな)。‬

‪そしてこれは、一週間単位で細切れに放送され、たった三ヶ月全12話で起伏を作る「(深夜)アニメ」という媒体とは致命的に相性が悪い。‬

なろうのランキング総合一位の「無職転生」などでも下手したら最序盤のターニングポイントで1クールが終わってしまうのではないだろうか(アニメ化されないのはそれが理由だと思っている)。

今後、なろう発の作品アニメ化がいくつも控えているわけだけど、こういった問題解決するために構成を大胆にいじっていくのか、それともアニメ化しづらい作品は避けていくようになるのか、アニメ制作側の手腕が問われると言える。

2017-07-09

世の中、色んな理論があります理由けがあります

ポリティカルコレクトネスでもマルクス主義でも何らかの宗教でもなんでもいいんです。色んな正しさがある。

で、それとは全く関係なく、です。

全く関係なく、私の思想信条が、です。

何かことさらに固有の主義主張があるわけでもない私が、私がです。

私がその感覚を持って、私固有の感覚において、あなたのことを好ましく思えないのです。

大きな物語たりえる理由なんかないですし必要もないです。

あなたのことが、ただ好ましく思えません。

理由は以下の通りです。

あなたサブカルぶるわりに俗物からです。

共産趣味が、中途半端政治性を帯びていて、そのポーズの取り方がカッコ悪くて嫌いです。

ジェンダー論などの社会学いっちょかみしたポーズをとる割には、そのコメントダサいからです。

端的に言えば、もっと勉強してから書きこむべきです。ちょっとでも専論を読みましたか? ネットふわふわした情報しか見ていないのではないですか?

大学院に行きてー」と何度つぶやきましたか? なぜ大学院に行かないのですか?

仕事は閑職にあるのだからいくらでも暇はあるはずです。

40近いのに調子悪いアピールと移アピール

仕事もやる気がない。

自分他人とは違う、そう思いたいのかもしれませんが、あなた感覚は何ら突出していません。

それは、あなたが舐めたような人生を送っているからです。

もちろん、そうした人生を送ることをダメだと言っているのではありません。

そういう人生があっても良いのですが、なぜそれから動こうとせず、かつ、動いているか考えているかのような惰弱ポーズを獲るのですか?

そこが嫌いなのです。

から、何を言ってもダメです。

2017-07-08

けものフレンズ面白さの本質

けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観から抜け出しているところにある。

少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。

もうひとつの「ガイナックス的なアニメ価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場いぶし銀技術者ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。



私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーインタビューで語っている。


「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html

放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)

たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズたつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。

「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/

ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。

―― アニメはお好きなんですか。

たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。

―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?

たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りましたhttp://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html

本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。

話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。

たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。

そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だからけものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。

シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明から”。

ガイナックス庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。

新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギーク価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任野ざらしにされ担う者はいない。

2000年代2010年代アニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観のもの形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。

もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。

これは自由の味だ。

ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識のものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。

可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。

3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチ必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。

次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的ものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成脚本たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。

「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思いますたつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」

http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395

「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバー関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題

福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚ミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。

最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しであるたつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。

1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌え主人公エヴァギミックNARUTOアクションジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通オタク価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。

続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。

第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。

4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。

5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。

ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」であるたつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。

ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマシリアスからだ、という批判も予測されるが「ストーリーシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。

『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグテーマTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。


再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。

自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァけもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメ価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう

ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。

2017-07-04

常識が変化するスピードが遅すぎる

この程度のスピードでは老害どもに「常識は変化するもの」という常識を植え付けられないじゃないか

お前らが信じた大きな物語(笑い)も結局は偏見コレクションに過ぎないって事を奴らに早く知らしめないと日本が持たんときが来ているのだ

2017-05-31

[]

優しい死神の飼い方を読んだ。三章がピークだった。あと、戦時下物語を描くのって難しいなあって思った。

この小説連作短編集になっていて、ひとつひとつの章で小さな謎をおい、全体を通して大きな謎を解くっていうオーソドックス構成になっている。

なっているんだけど、ちょっぴり前半と後半とで毛色が変わりすぎているきらいがあった。例えるなら塩の街みたいな感じ。小出しの三篇の後に大きな物語がくるって形になっていた気がする。

個人的に気に入らないのは、物語の配分が雑だったところ。もっと後半の大事件あっさり目にして小出しの内容を充実してほしかった。

あるいはもうちょっと前後半の分け方を不明瞭にした方がよかったと思う。ダイヤモンドの捜索や、迫りくる凶悪犯の情報をそれらを解明する章を作ることではなく、ほかの事件を追っている最中に判明するような形にしてあればもっと気に入ったと思う。

また第一章の戦時下物語について陳腐だなあって思ってしまった。この時代を書くのは本当に難しい。知識想像力が大切なんだなあって思わされてしまった。

四章で死神自分存在告白してしまうのも残念だった。その方が書きやすいし、物語も動かしやすかったのだろうけれど、最後まで死神人間と直接関わりあってほしくなかったなあ。

はいえ三章最終部の美しさは素晴らしかった。本当にここがピーク。というか、ここから物語の毛色ががらりと変わってしまって、それが肌に合わなかった。

地下室いっぱいに色彩と太陽の光が広がっていく感じが切なさと相まって胸に迫る読書感だった。


あとほかの作品になるけど、ちょっと前に舟を編むも読んだ。

すっごく読みやすお仕事キャラクター小説って感じだったんだけど、主人公が変わるごとに、つまりは章が進むごとに月日が大きく変化するところで少し、ほんの少しだけ読みづらさを覚えた。

どうせならそれぞれの章ごとにタイトルを決めちゃえばよかったのにって思ったんだけど、そうしなかったのには何かわけがあるのかもしれない。

あと、かぐやさんの性格が変わりすぎてやしませんか?

笑いながら読める、愛おし変わり者たちが活躍する小説だったけど、そこらへんが気になった。

2017-04-13

唐突うんこを漏らしたくなる

唐突に、何の文脈もなく、うんこを漏らしたくなることがある。街を歩いているときカフェコーヒー飲みながら本を読んでいるとき、誰かと真面目な話をしているとき、談笑しているとき、何でもない日常の一コマうんこを漏らしたい衝動と戦っている。正直漏らしても何のいいこともないのは理性では承知しているつもりで、お前は何と戦っているんだ状態だが、もはやこれは衝動と言っても良いぐらいの強度で、僕の頭と主に肛門周りを強く刺激してくる。

特に、誰かと会話しているときに、「うーん、これは」とか「うーん、違うんじゃない」とか、うんこを想起させる発言をされた瞬間が一番やばくて、その瞬間僕の大臀筋に緊張が走る。

そんな衝動と日々戦っていると、自分のこの衝動犯罪者のそれが似ているのではないかと思ってしまうことがある。「魔が差して」痴漢してしまったり、「衝動的に」通り魔をしてしまった犯罪者自分は同じなのではないかと思うと身震いするような空恐ろしさを感じる。

人混みの中で急にうんこでも漏らしたら確実に僕は異常者扱いされるだろう。それが、「我慢したんですが便意を耐えられずに」であればある程度仕方がないとする向きもあるだろうが、「排便衝動に耐えられなくて積極的に」だと完全にアウトである

自分のこの衝動を見つめ直して見ると、「今、誰も俺がうんこするなんて思ってもいないだろうな」と感じる場面で特に便意が強くなる気がする。日常感が強ければ強いほどその欲求高まる。おそらくだが、大層に言えば、予定調和からの脱却欲求があるのだと思う。つまり相手の裏を掻いてやろうという気持ち、といったところか。

宮台真司がかつて喝破したように、我々は大きな物語喪失し、終わりのない日常を生きている。その日常の断絶という物語を生む道具が私のうんこなのであるうんこによって日常は非日常と化し、そこから新たな物語生まれる。もちろん、僕個人物語が大きく変わるだけで、世界は何も変わらないだろう。でも、少なくとも誰かと朗らかに談笑している途中に僕が唐突うんこをすれば、その日は僕の人生の大きな変化点になるに違いない。それが僕にとって良いことか悪いことかは分からないが、僕はそうなるのを心のどこかでは期待しているのかもしれない。

からクーラーボックスに入るコンビニ店員やおでんつんつんするユーチューバーを見たときはよく分からない親近感と憧れに似た気持ちを感じたものである

なので、彼らのニュースとその後の炎上を目の当たりにした僕は他人事とは思えなかった。もし僕が彼らに先んじて渋谷ホコ天うんこしていたらきっと僕も彼らと同じ目にあっていたに違いないからだ(大阪なら何事もなく許される気がする)。逆に言うと、彼らを親の仇のように批判していた人たちはああいった愉快犯的な衝動が一つもないということで、それはそれで羨ましい気持ちにもなる。

もちろん、上で述べたことはただの欲求であって、本当にうんこすることは今後もありえないとは思っている。そこが僕と炎上した先人たちの超えられない差と言えばそうなんだろう。だがしかし日常の一コマコマでこれからも便意と戦っていかなければならない人生を思うと、若干暗い気持ちになってしまうのは否めない。そんなときは、老人になったら嫌でもすることになるんだから、と自分を励ましたりしている。

ちなみに、上記衝動と戦う中で一つ気づいたことがある。

おならをすると少し衝動が和らぐということだ。だから、僕は(もちろん相手は選ぶが)時々唐突おならをするようにしている。談笑中に唐突放屁。ごめん、屁こいた。ガハハハハ。といった具合である

うんこ代替としておならというのは分かりやすい。使う部位も一緒なのも良い。そんなわけで、日々どうしようもなくなったときおならお茶を濁しているのだけど、最近どうもおならでは満足できなくなっている自分に気づく。

これらおそらくだが、おならが僕の中で日常化してきているのだと思う。もともとは談笑という日常風景に対するカウンターパンチおならだったはずが、談笑+おならがセットになって僕の日常となってしまったのだ。

これは、影で「おなら野郎」と罵られるという犠牲を払いながらも、うんこよりはマシと放屁をし続けていた僕にとっては由々しき事態である代替品としてのおなら通用しなくなってしまった僕の日常にはもはやうんこしか残されていないのではないか

それだけではない。この事実は、もし僕が忌憚なくうんこをするようになったとしても、それはまた新たな日常の到来を意味しているのである

うんこを超えるうんこ存在とはなんであろうか。

私には一つ思い当たる節があるが、恐ろしすぎてここには書けないため、ニーチェ言葉を転記するに留めておくことにする。

怪物と戦う者は、その過程自分自身怪物になることのないように気をつけなくてはならない」

2017-03-28

憎しみについて。

factはもうどうでもいいのだろう。

各人が自分にとって好ましいと思われる主張だけを取り入れ(「好ましくない」主張は排除し)ひたすらにナイーヴな、個人のinterestのみにかかわる声だけをあげつづけている。

現代もっとも重視する感情は「ヘイト」だ。「ヘイト」は被害者意識から発する。「わたしが手にするはずの権利利権が××によってそこなわれている」。その××が憎悪対象となる。それを裏付け根拠付けるはずのfact論理手続き正当性といったものは全て無視される(結論の正しさは必ずしもそれに到るまでの手続きの正しさを保証しないというのに)。

自分のinterestをおびやかす(ものとされている)相手――もっといえば「わたしが嫌いなあの人(たち)」――を叩いて、自分存在承認してさえくれれば――それはあくまで「承認」だけにとどまり、その先の恩恵は何一つ(それこそfact論理による)保証をもたないのだが――手続きレベルでなされた詐術や背後の事実関係などをすっ飛ばして、直ちに支持してしまう。

未だに(不幸なことに)「大きな物語」と「小さな物語」の対置というリオタール的な図式は有効で、実感のない「大きな物語」より自分にとってより切実に感じられる(ように錯覚される)「小さな物語」としての"身の周りのこと"を優先する態度だけが前面にあらわれて、その「わたし」「わたしの嫌いなあの人(たち)」「わたしの嫌いなあの人(たち)を――事実裏付け論理的正当性はともかく――叩いてくれるあの人(たち)」の三項からなるごく卑近な図式を通してしか、他のレイヤーに存するはずのあらゆる社会的問題も捉えられない(ああ懐かしの「セカイ系」!)

ライフハックとかQOLとかに端を発する「個人の(あなたの)生活第一!」という恐ろしくプラグマティック思考が幅をきかせ、みんながみんな自分(と、自分と利害を共有する「身内」)にばかり甘くなる。「身内」によって構成された「内輪」の外にいるのは、「わたし(たち)と利害を共有しない」がゆえに「わたし(たち)の生活を害して利を得ている」ものてされて――その判断客観的事実による裏付けは全く必要ない――「ヘイト」を集め、排除された人びとだ。その「排除された人びと」もまた別個の「身内」どうしで固まり、これらの集団はそれぞれ互いを憎み、排除しあう。かくして現代の「分断」の構図は生まれるのであった。

もちろんこの文章もまた、何らの論理的正当性個別的客観的factによる裏付けももたない、何か実体のない相手に対する「ヘイト」と被害者意識から書かれ、そしてわたしとinterestを共有する「身内」に向けて発せられた言葉にすぎないのだが。

2017-03-26

未来人権

いろいろ考えた結果、一人一票の原則や、基本的人権のあり方は今後変わっていくだろう、という結論に到達したので、その思考過程をここに書いておく。

さて、歴史を振り返ってみよう。

貴族時代軍人の育成には多大な時間お金がかかるため、ごく少数の貴族職業軍人がこれを担い、そのために平民納税を行うという構造があった。

この時代は、

軍事力時間によって育成された個人能力お金による兵装

それからときは経て、マスケット銃が登場する。

これにより、戦争貴族のものから民衆のモノへと変化した。

そしてフランス革命を経て、権力貴族から民衆に移り変わる。

基本的人権はこのときに生まれ、「民衆が力を持っている」ということを前提にしている。

この時代は、

軍事力徴兵された平民テクノロジーによる武装

である

その後、第一次世界大戦第二次世界大戦を経て、戦争工業力の戦いへと変化する。

軍事力徴兵された平民+優秀なマニュアル国内工業

である

加えて国内工業力も、実質的には国内工業労働人口依存するため、人口の持つ価値大衆が持つ価値、一人が持つ価値、というのは、この時代を通じてどんどん上がっていることになる。

冷戦を経てもこの構造は変わらず、人口国内工業力が軍事力を決定する時代は続く。

子供を持つのは正しいことである、という価値観も、人口と国力が結びついている時代の名残だと思う。

しかし、冷戦崩壊からこの状況は少しずつ変わってくる。

いわゆる大きな物語崩壊というやつだ。

グローバリゼーションの発達により、工業力は必ずしも国内にある必要はなくなってきた。

海外にある工場をうまく使えるものが勝つのである

加えて、戦争の高度化は、職業軍人の高度化を促し、徴兵では成立しなくなってくる。

すると、人口軍事力、国力が結びつかなくなってくる。

さらには、情報化時代の到来がこれに拍車をかける

工業化時代であれば、人間一人のパフォーマンスというのは倍も違わない。

しか情報化時代では、人間一人のパフォーマンスは、数万倍違うことが当たり前である

ビルゲイツスティーブジョブズマークザッカーバーグ、etcetc...

このような時代突入した現在人間権利というのは平等でよいのか。という疑問が生まれてくる。

人間平等であるのは、テクノロジーマスケット銃)による人間の性能の差の克服、という背景がある。

けれども現代におこっているのは、テクノロジーコンピュータ)による人間の性能の差の拡大だ。

平等であるための根拠が消えてしまっている。

雑に式にするとこんな感じだ。

性能=人間の性能+マスケット銃

性能=人間の性能×コンピュータの性能

コンピュータ効率的に使える人間と、使えない人間

AI効率的に使える人間と、使えない人間

脳を拡張した人間と、脳を拡張していない人間

意識アップロードした人間と、生身のままの人間

そういった形で、今後は人間一人が持つ性能の差はどんどん拡大していくだろう。

そういう時代において、一人一票の原則や、基本的人権って維持する必要はあるんだろうか?

どうしたもんかね

2017-02-14

あずまん大きな物語は死んだ!もういない」

フレンズ「すごーい!たのしー!あなたフレンズなんだねー!」

あずまん「俺はけもフレなんて認めん!1話で切ったわクソが!」

まあそりゃ認められるわけねーわな。

名刺代わりの著作に対する残酷なまでのアンチテーゼが襲ってきたんだから

2016-12-13

逃げ恥」にテーマなんかないんだよ

ガッキーかわいいだけのドラマと言われているが、本当にその通りだと思う。

ネットでは変に社会派じみた解釈までされてしまっているが、あんもの蛇足の極みである

まあ確かに、女性向け作品の男としては珍しい設定なのかもしれない。

しかし、ただそれだけだ。設定そのものに大した意味などない。

だいたい、そんな大きな物語ではないのだ。

大きな物語でなければ何かというと、結局ただの「萌え要素」でしかないのではないか、というのが私見だ。

そもそも、変な設定のキャラとの間に恋愛関係は成立し得るか、という作品は、すでに山ほど出てしまっている。

例えば、90年代美少女ゲーム代表的作品ひとつであるTo Heart」においては、メインヒロインの幼馴染、

その友人のスピーカー女、委員長オカルト好きの先輩、外国人、後輩の格闘少女超能力少女など、

実に様々な設定のキャラが登場し、そしてなぜかメイドロボのマルチが人気を獲得したらしい。

だが、個々の設定自体に、そう大きな意味必然性があったとは考えにくい。

いわゆるデータベース消費というやつであって、二次元美少女という畑の中で芋掘りをした結果でしかない。

女性向け作品にしても同じことで、イケメンキャラという前提の下で、どこまでぶっ飛んだ設定が許されるか、

というチキンレースしかないように思う。

その意味では、どれだけ変な設定だろうと、よくあるハイスペック俺様キャラと地続きの存在なのだ

恋愛経験のない理系男との契約結婚」という設定は果たしてOKかNGか。

ただそれだけであって、それ以外に大した意味などありはしないのである

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