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はてなキーワード: 退院とは

2018-07-18

精神病んでるときってこんなもの

友人が鬱だか適応障害だかで仕事を辞めて通院、薬も飲んでいたみたいだ。

当時自分妊婦だった。仕事もしていなくて暇だったので、よく相談に乗っていた。

その友人に呆れた出来事がふたつ。

1つ目。

妊娠中、一時期状態が悪くて自分入院することになった。

その友人も見舞いにきてくれた。

来てくれたのは嬉しいが、友人の同居している家族インフルエンザの人がいたらしい。

それを見舞いに来てから話された。一応マスクはしていた。

家族インフルエンザじゃ感染ってる可能性があるんだから見舞いになんかきちゃダメだよ」という内容でなるべく責めないように注意した。

せっかく見舞いに来てもらったし、しばらく話していたら、途中からマスクを外していたのに気付いた。

注意したのに…せめてものマスクも外すんか…と思った。

2つ目。

その後自分退院して、臨月を迎えた。

ある日の夕方に「明日遊びに行きたい」と連絡がきた。

暇だったし特に何もなかったのでオッケーした。

ただ、お腹が急に張ったときに等、「自分相手できなくなった時に友人が手持ちぶさたになると悪いので、〇〇ちゃんでも呼んだら?」と説明ちゃんとして、気が利く別の友人も誘ったら?と言った。

「わかった、誘ってみる」と返事がきた。

その後グループラインに「明日パーティーするけど来る人〜!」みたいなノリのことが投下されていた。

自分は慌てて「大人数は無理!入院した時にあまり動けないことも説明したでしょ?できるのはせめてふたりちゃんと訂正して!」とラインで叱った。

〇〇ちゃん指名した説明ももう一回した。

そして「誰と来るか、何時に来るかを報告してね。こちらも用意等があるので」と言った。

友人はわかったゴメンと、グループラインに「今のナシ」と投下したので大人パーティーはなくなって安心した、が以降友人からの連絡が来なかった。

その時は〇〇ちゃんを誘っているんだろう、〇〇ちゃん仕事かなんかで忙しいんだろう、と思って日付が変わるあたりまで待っていたが連絡はこなかった。

しかしたら叱ったことで割とションボリしてたみたいだし明日は来ないことになったんだろうか、どちらにせよ連絡のひとつくらいほしかったな…と思いながら寝た。

朝遅くラインの音で起きたら「今から行く、××時に駅につく。車のお迎えよろしく」という内容。

入院中に運転禁止されてることも話したのにな、それに臨月なのにな、結局誰が来るのかも聞いてないのに、山ほど文句があったがとりあえずもう余裕がないのでタクシーか歩きで来いと返信しておいた。

〇〇ちゃんはいなかった。友人ひとりで来たようだ。

今度ばかりは正直迷惑だったのでためておいた文句を並べた。

なんていうか一瞬しょんぼりするだけで、本当に理解してんだろうか?ぬかに釘のような気分だった。

〇〇ちゃん来れなかったの?と聞けば誘ってないという。

グループラインでは繋がっているが、個別だと繋がってないから。そんなことを言い出した。

じゃあ繋がればいいじゃん!

何で何時に来るかとか何人で来るかとか教えてくれなかったのかと聞けば、ラインで叱られた後しょんぼりしてたから。

もう意味がわからなかった。

過ぎたことはしょうがいから、こちらも色々用意があるんだから今後はしっかり連絡してと言えば、ともだちを家に呼んだことがないから知らなかった。家にともだちをあげてはいけないと親に言われていた。だからそんな配慮はできなかった。親のせいだ。

そういう家庭の事情があったとしても成人の口から出てくる言葉か?と呆れてしまった。

ラインで叱った内容をもう一度繰り返して叱っておいた。

精神病んでるときってこんなもの

もっと優しくするべき?

自分妊婦様すぎ?

あそこまで説明したのにわかってもらえないものなのかな?

もう成人してるんだからわかるもんじゃないのかな?

2018-07-10

点滴異物混入事件で思い出したこと

かなり個人的感想だけど、患者不審死事件を初めてニュースで見た時から犯人はその病院勤務看護師しかいないだろと思っていた。

数年前、たまたまあの病棟みたいな終末期医療患者さんばっかりのところに一ヶ月ほど入院してた事がある。そこは救急も受け入れていたので突然の大怪我で運ばれてそのまま入院になったんだけど、退院する前に耐えられなくなって転院した。

とにかく病棟雰囲気殺伐としていた。看護師ヘルパーが無愛想なだけならまだいい。

仕事殆どが寝たきりのお年寄りの世話のせいかスケジュール通りの仕事以外は面倒って感じを隠そうともしない。何か頼みたくてナースコールしてもまともに来てくれた記憶がない。日々の処置も乱雑でモラハラに近いものがあった。看護師全員がそうじゃないにしても誰かに何か頼むのがすっかり嫌になってしまった。

病院じたいもあまり良くなかった。病室は狭く設備も古くて食事の内容もいくら病院食といってもこれはないわと思うぐらいの粗食。担当医師暴言多いし勤務時間の合間に病院の裏口で医師同士が喋りながらタバコ吸ってる(家族が何度か見たらしい)。

でも何より毎日世話になる看護師たちのやる気のなさが一番きつかった。看護師同士の仲もあまりよくないのか、引き継ぎの連絡もうまくいってなかった。

こっちは思うように体動かせないし立場が弱いか我慢してたけど、最後はもうこれ以上は無理ってなって泣きながら訴えたら旦那理解してくれた。

転院先のごく普通の小さな総合病院天国に感じた。

私のはやや極端な例かもしれないけど、事件看護師本人の資質に加え、その病院全体の雰囲気経営方針とかも関係あるだろと思う。自分の勤務時間中に亡くなると説明が面倒とか言ってたらしいし。

あの時大勢入院してた終末期の患者さんたちのご家族はどう感じてたかはわからない。寝たきりの祖父母や親を預けるだけなら問題は感じてなかったかもしれない。でも入院してた患者立場からするとただでさえ憂鬱入院が更に憂鬱になるような、かなり殺伐とした場所だった。今回の看護師逮捕ニュースを見て久しぶりにまたそのことを思い出した。

2018-07-07

元カレが死んだ

わたし人格形成の一端を担う人だった。

喧嘩ばかりして、怒られて、ぶちギレて、苦しくて、どうしようもないくらいすきだった。どうにもならなくて、ひどい別れ方をして、死ねばいいなんて思っていたらほんとうに死んでしまった。

実感があるようでまったくない。

死んでから1ヶ月以上が経ち、

折り合いはある程度ついた気はするけど

これからまだもう少しかかるんだろうな。

心の真ん中でさよならを言えるようになるまでには。

彼と別れてこの2年間、ひとりで生きていける人になりたいと思ってがんばってきたけど、いろいろなタイミングが重なって最近付き合い始めた人とも別れて、もう身体が動かなくなってしまって入院していた。

退院してある程度回復はしたけど、今もひとりじゃ夜あまり眠れないし、ごはんもひとりじゃ食べられないか友達に付き合ってもらっている。

グレそう。

さびしい。誰かにそばにいてほしい。ひとりでがんばれると思っていたのに、自分がこんなに弱い人間だと思ってなかった。

もうどうにでもなれ、という気持ち

彼がいなかったら2年間がんばれはしなかっただろう。

から感謝してる。

このがんばりは無駄じゃなかった。きっと。

今は休憩する時期なんだとぼんやり思っている。

近しい人が亡くなった経験のある方、体験談聞かせてほしい。

anond:20180706031659

昔何年間か毎年沢山猫拾って10匹育てて貰い手探したけど、変なのしか残らないのはわかる気がする。

貰い手探しポスターを頼むと優しい人も多いけど「そんなので譲ってもまた捨てられるだけじゃないの」「寺に猫捨てる人多いかポスターなんてお断り」「当店は動物禁止ですので」等々結構厳し目の対応も受ける。

一度だけポスターを見て変態電話をかけてきた人もいた。

何より困ったのは意外と皆捨て猫を押し付ける先を探しているので、猫を拾う人だと近所や友達家族の知り合いから広がって毎年捨て猫を持ち込まれるようになった事だ。

私に押し付けなくても普通に広報に載せてもらえば2、3匹はすぐに貰い手見つかるし余裕だよ?と思うが、何故かみんな私が引き取らなければ保健所に連れて行くと言い出す。

子猫可愛いし貰いに来る人と話すのも結構楽しいしそこまで嫌でもなかったけど、母が癌になり泊まり込みで付添をして一時家に帰りバタバタしている時に、事情を知ってるはずの近所のおばちゃんが捨て猫を抱いて泣きべそ顔の娘を連れてきた時にもう限界だと思って捨て猫引き取るのを止めた。

でも母が退院後に妹の友達が捨て猫を押し付けてきて、母が猫がブサイクすぎて絶対に貰い手見つからんし飼いたいと主張し貰い手探す余裕もなかったから飼う事になった。

しか最近子猫を引き取って虐殺する人も居るらしいしやってられんだろ。

テレビで不潔な猫屋敷の婆さん番組を昔見た時に「皆家に捨てていく」と婆さんが言ってて、何か動物虐待するゴミ屋敷住人みたいな取り上げられ方だけど、捨てていく人が悪いよ気の毒だなと思いながら見た。

2018-07-05

恋愛は少なくともメンヘラとは両立できなかった話

 本文をうっかり読んでしまうのは時間無駄なのでいくらか前置きで警告をしておく。

 これは一人のクソ女の自分語りだ。

 多分恋愛をしている人にもメンヘラをやっている人にも響かないと思うので、ノンフィクション小説好きな人とかが読んで哀れむなり蔑むなりネタにするなりしてくれたらいいと思う。

 文章にすると落ち着くたちなので、一回字に起こして整理したかっただけだ。

 特に意見アドバイスを期待してはいないけれど、私が想像も出来なかったような現実を打開する魔法があるなら教えて欲しい。

 そうじゃないなら今はほうれん草を沢山使うレシピくらいしか知りたいことはない。

 石を投げたりして気持ち良くなるなら好きにこの文章の私を罵ってくれて良い。もし肯定したいとか共感したとか優しい言葉を掛けたいとか思ったら、それは上手く受け取れないので胸に仕舞うか何かしておいて欲しい。言って満足するなら言って満足して欲しい。

 それから、ぼかしたりフェイクを入れてはいるけれど一応念のため。私の彼氏さん。あなたがこれをもし読んでいたら、私にいい加減愛想を尽かして下さい。メールもしなくていいし、顔も合わせなくていいです。ここにはあまり書いてないけどあなたはすてきな人なので、きっと可愛くて気立てが良くて知的趣味の合う恋人や奥さんがそのうち出来ると思います。私抜きで幸せになって下さい。でも今までありがとう

 さて、数えてないけど多分これ五千字くらいある本文。

 私には彼氏がいる。中学生の頃男女混ざった仲良しグループに居た同士だったが、彼は当時テンプレ中二病クソ女であった私に親切だった。私はいわゆる愛情に飢えたメンヘラであり、被虐待児でもあったので親切な彼を好きになった。

 親に無理矢理突っ込まれ進学塾、殴られたくないから沢山勉強して、私が目指した志望高校は彼と同じ学校だった。志望理由は、当時不良やヤンキーが苦手だったのでそれでもやって行けそうな校風であることと、私のやりたい部活の成績が良かったこと。通える範囲で目指せる偏差値勝手に割り出されたその高校を志望していると自分に言い聞かせるために、彼と一緒に高校に通えるかもしれないことを考えていた。彼は頭が良かった。彼の頭が良いところにも好感を持っていた。

 結果として高校受験は失敗だった。兄弟が多い我が家は長子の私の滑り止めを用意出来なかった。模試きれいな紙に印刷された合格する確率が70%まで落ち込んだ。挑戦は許されず漫画のように家庭の都合で通いやすくそれなりの偏差値の親が決めた高校受験して合格した。

 妥協のご褒美に私は携帯電話を買い与えられた。猿のように熱中した。友達とひっきりなしにメールをするのが楽しかった。そんな携帯中毒に付き合ってくれたのが彼だった。

 彼は愚痴をうんうん聴いてくれた。肌寒い日にはコートをかけてくれて、雨の日は傘を差して家まで送ってくれた。

 彼は誰にでもそうする人間だ。

 そういう人間を私は好きだと思った。

 高校一年の夏、好意を伝えた。彼はいわゆる恋愛恋愛した面倒は嫌だけど、と前置きした上で私と付き合う返事をくれた。友達にも家族にも内緒だった。私はおおっぴらに恋愛満喫して盛大に恋心に振り回される友人たちのようになりたかったが、その夢は絶たれたと言ってもいい。

 彼は時折、家族が留守にしている放課後休日、私を自宅に呼んだ。彼の家は急な坂の向こうにあり、私は暑い日も寒い日も自転車こいで彼の呼び出しに応じた。二人でカーペットの床に並んで座って、他愛もない話をするのはとても楽しかった。彼はキスがしたいと言ったので応じた。こんなもんか、と思った。彼は私の胸や下半身に触れたがった。胸は触らせたが、下半身他人に触られるのは嫌だったので精一杯かわいこぶって断っていた。

 彼が満足そうで良かった。私にかわいいとか偉いとか頭が良いとか言ってくれるのは彼だけだったからだ。

 たまにデートなるものもした。彼は共通の友人にばれたら面倒だから地元ではないところで待ち合わせて、博物館などに行った。博物館が好きなので楽しかったが、多分一人でいても楽しかったとは思う。彼は理系なので解説をしてくれて、知らないことを知れたのは楽しかった。

 いわゆる中学生ぐらいのいじましいお付き合いは高校三年生になるまで続いた。

部活大会模試で顔を合わせたら、こっそり示し合わせて抜け出して会って話したりしていた。

 関係が、と言うよりも私が変わったのは高校三年生の秋頃だっただろうか。

 私は学校へ行けなくなったというより、身体が動かなくなった。

 鬱を発症していたと知るのは年明けに通院をはじめてからだ。高校卒業も危うくなった。彼のメール無視し続けた。友人たちのラインブロックした。手首を切った。酔い止めを何箱も一気に飲んだりした。苦しかった。とにかく早く死にたかったが、癇癪を起こすと椅子を投げてくる母親から兄弟を守らなければならなかったので死ねなかった。

 音信不通を続け、両親の説得も不登校支援センター保健室も諦め、私は精神科に通院することになった。

 高校三年生の一月、私はセンター試験どころか学校へも行かず精神科に通った。薬が効き始めるまでが地獄のように長かった。向精神薬睡眠薬がなんとか効力を発揮する雰囲気を醸しはじめた頃には、卒業はほぼ絶望的だった。

 私は主治医から診断書をぶん取り、校長などのお偉方と交渉を重ね、補講を組んでもらうことでなんとか、卒業から数日はずれが生じるものの年度内に卒業出来ることになった。周りの大人は私の想像はるかに超えて優しかった。同情し、時には私の身の上話に涙ぐんでくれた。そんなことで悩んでいたなんて知らなかった、と口々に言った。進学校だったので不登校前例が無かったのが幸いした。先生方は私一人のために会議室卒業式をやってくれた。

 さて、話を恋愛に戻そう。私はなんとか卒業証書をぶん取り、彼は第一志望の難関大学合格していた。サイゼリアで久し振りに会って彼は「元気そうで良かった」と言った。

 私は全くもって元気では無かった。

 恋愛どころじゃない、何度も死にかけた。

 人に説明する元気もあまり無かったので、かなり端折って私はことの顛末説明した。ずたずたの腕を見せて「メンヘラと付き合うとろくなことがないって言うから、別れるなら今だと思うよ」と彼に提案した。彼は「それは別れる理由にはならない」と言った。

 そういうことでお付き合いは継続されることになった。

 彼は大学入学した。私はそれを祝福した。彼が受験勉強を頑張っていたのを知っていた。とても尊敬している。

 私はといえば、自分を殺そうとする自分に耐え、病状を必死家族説明し、ひたすら精神科に通った。

 彼は以前と変わらず家族が留守の合間に私を家に呼んだ。私は行かなかった。外に出る元気も無かったし、当日朝「今日家誰もいないよ」と言われても動き出す頃には翌日の昼間だ。

 彼はサークルが忙しかった。理系から男ばかりで可愛い子いないよ、と言っていた。

 私達はあまり会わなくなった。

 彼は学業を、私は治療を、お互い頑張っていた。

 彼は私が死んだら悲しむだろう。優しくて弱い人だから自殺だけはしてはいけないと自分に言い聞かせた。

 色々なことがあった。

 死なないために意識を失うことが必要だった。私は酒浸りになり、睡眠薬はどんどん強いものに変わった。早朝起きて、Amazonで買ったウォッカを水で割り、それで頓服を服用して眠り、昼過ぎに起き出して母に罵倒されながら(これは10年来の日課だ)食事をとり、薬を飲んでまた眠った。眠れない夜は頓服を酒で服用した。そうすれば眠れる。眠っている間は死にたくならないので楽だった。

 私某居酒屋で酒を飲みすぎて意識を失い救急車に乗った。倒れたはずみに骨折もしていたのでそれを治療するため更に入院した。入院中は母に罵倒されず三食昼寝付きだったので手術の痛みを差し引いてもお釣りが来るくらい快適だった。

 退院してからはまた酒を飲んで眠るだけの生活をした。

 そんな状況を医者は許さず、私は精神科閉鎖病棟入院することになった。彼は見舞いに来たがったが、私は断った。誰にも会いたく無かった。自分自身と二人きりになりたかった。何もかもに疲れ果てていた。

 入院生活幸福だった。

 看護師さんは優しい。変な人が沢山いるけどそれぞれが自分のことで精一杯だから誰も干渉してこない。

 母の罵倒が無いなら、現実逃避するためのスマートフォンは要らなかったので無くても困らなかった。

 少しの本、ポータブルCDプレイヤーと何枚かのCD。それだけで完結した生活は確実に私の心を癒した。

 これが人生の正解だと思った。誰も、何も要らない、天国だと思った。

 あらかじめ定めていた期間が過ぎ、私は退院した。

 閉鎖病棟入院したことがあるレッテル付きの私は母から罵倒が少しは薄まったと感じた。もう死にたくならないために一人で十分だった。

 そして同い年の彼が大学二年生になると同時に、私は大学一年生になった。

 母が勝手に推薦入学に出願して受験料も払い込んでいた。仕方がないので面接に行ったら大学に受かった。入学した。

 彼はおめでとうと言ってくれた。

 新調したスーツきれいなキャンパス、好きな学問、新しい友達

 私はまともな人間に戻れるかもしれないと期待した。

 アルバイトもはじめた。友達徹夜で飲み明かしたりした。

 しかし、ゴールデンウィークが明けた頃には既に私はくたびれていた。夏休みが明けて、大学へも行かなくなった。アルバイトはクビになった。

 主治医からストップがかかり、休学する事になった。

 私はただ家で時間を潰し、母の(以前よりはマシな)罵倒に耐え、薬を飲み生活していた。もう死のうと思っていた。

 大学で新たな人間関係を築いた彼は、私の死を受け入れるキャパがあると思った。

 そういえば私は彼とセックスしていなかった。

 呼ばれても家に行かない、共通の友人たちと遊ぶ以外では会わない、そんな恋人であったから、私はなんだか彼に申し訳が無かった。

 セックスすることでそれを清算できると思った。

 セックスする前に私は酒を飲んだ。

 薬の副作用で性欲は無く、彼とキスしても気持ち悪いと思ったからだ。

 彼が取ったホテルで私は彼と昼間からセックスした。

 こんなもんか、と思った。

 彼は別にセックスたからといってこれまでより優しくなる訳でも冷たくなる訳でも無かった。

 その日私からやや強引に誘い、夕食を食べながら話をした。私は彼と話がしたかたからだ。彼と話すのは楽しかった。

 それが数ヶ月前のこと。

 それ以降、私は彼と一度も顔を合わせていない。

 なんだかひどく億劫で、気の許せる女友達しか話したくない。

 精神科に通い続けて、自傷行為をやめられた。アルコール中毒も治った。睡眠規則的になった。

 兄弟が進学と同時に一人暮らしを始めた。もう自分の身を自分で守ってくれる。

私の生きる価値は無くなった。

 ある夜母が癇癪を起こして私に出て行けと怒鳴り、私を家から蹴り出そうとした。

 終電が無かったので私はははに頭を下げて「一泊止めてください、明日出て行きます」と言ってその場をおさめた。

 翌朝、私は最小限の荷物だけを持って逃げるように家を出て、何度か遊びに行っては掃除をしてやったりしていた兄弟一人暮らしをしている家に転がり込んだ。

 それから紆余曲折あり、結局兄弟仕送りで私は生活している。兄弟大学に行き、私は自分兄弟の二人分の家事をしている。おそらく幸せなのだろう。私が欲しかった暮らしは手に入ったのだろう。

 もう死んじゃおっかな。くたびれた。もう何も要らない。

 今死んだら同居している兄弟がショックを受けるだろうから、死んでないだけ。

 彼と連絡を取っていない。

 これが自然消滅と言うのならそうなのかもしれない。

 私は多分もう駄目だ。大学は妹宅から距離的に通えないので中退する。アルバイトでせめて食い扶持を稼ぐのが目標だが、達成出来るのはいつになるやら。

 こういう駄目な人間恋愛などしても彼に何の得も無いだろう。

 だから自然消滅であってもさよならを言っておきたい。

 もう恋愛感情がどういうものなのか思い出せないのだ。

 自分異性愛者ではないのかもしれないとも思ったが、同性も好きにならないのでたんに今恋愛をしたくないだけだと思う・

 彼は人間としてすてきだから好きだけれど、セックスはしたいと思わない。それじゃあ社会的地位の高い彼にぶら下がりたいだけの厄介メンヘラだ。しかセックスさせてくれないときた。そんなクズになってまで恋愛かいフィールドに立っていたくない。情けないし申し訳ない。

 友達に戻って彼と飲みに行きたい。手を繋がないで一緒に博物館に行きたい。一緒に食事がしたい。でも今は会いたくない。

 さよならを言うために約束を取り付けようと思って、彼が通う大学夏休みの期間を調べている。

 でも何だか会うのも連絡するのも嫌になってきた。

 こうやってぐずぐずしたまま、付き合い始めてこの夏で四年。嫌だ。

 生活が忙しくて、朝起きて夜寝るのが精一杯で、恋愛なんかやってる場合じゃない。

 そろそろ死んじゃおうと思っている。

 メンヘラはよく人生を虚無虚無言うけど例に漏れず私もやはり虚無を感じている。

 恋愛には向いてなかった。

 多分健康でいることが出来なくなった段階で恋愛なんかやめにしておけばよかったのに、彼の優しさでそれは人工的に延命措置を受け続けている。

 罪悪感はそれだけで健康を害するから排除しなければ、と、病気治療する上で判断出来る。だからさっさと別れようってメールを打てば良いのだ。

 参ったなあ。

 

2018-07-03

歩道ではなく車道を歩く歩行者は何を考えているの?

たまに車道を歩いている人を見かける。

「車にひかれたら危ないので、歩行者歩道を歩けば良いのにね?」「何でわざわざ車道に出てくるんだろ?」と不思議に思ってた。

道路各部位の名称

車道外側線がある車道歩道場合

歩道|路肩|車線|路肩|歩道

という構造になっている。

(参考)

説明http://blog.livedoor.jp/ashitanoplatform/archives/20518574.html

図解:http://livedoor.blogimg.jp/ashitanoplatform/imgs/6/4/64a571c6.png

 

上図で言うと、歩行者歩道を歩けば良いのに、路肩を歩いている歩行者がたまにいる。

車線には車がビュンビュン走ってるし、自転車も路肩を走っている状況なので、結構危ないし、車道を走る車や自転車から見ると、車道に出てくる歩行者は通行の邪魔

 

理由の予想

なぜ、車道を歩いているのか?理由を知りたい。

 

今度声をかけて、理由を聞いてみようかな?(別にわざわざ知りたいとは思わないけどw)

 

ファッション誌などで活躍する人気モデルの赤谷 奈緒子さんが事故に遭った。

赤谷さんは5月3日東京港区で歩いていた際に、走行中のタクシーと接触したという。

事務所によると、赤谷さんは軽傷で、検査のために一時入院したが、現在退院している。

赤谷さんは、「事故の瞬間のことは、よく覚えていない」と話しているということです。

発言を見る限り、歩きスマホといったあたりかな

どこを歩いてたらタクシーと接触するのかね?横断中?

 

anond:20180701174111 歩道を走る自転車私人逮捕する活動のススメ

2018-06-24

母の作ったからあげが食べたい

私の母は3年前にがんで亡くなった。まだ50代半ばだった。

ヘビースモーカーだった母が肺がんを患ったのは、まあ仕方ないことだったのかもしれないが、

驚くべきスピードでがんは進行し、病名告知からわずか1年も経たずに、母は逝ってしまった。

余談だが、母は病気がわかってから煙草を吸いたいと言っており(禁煙はしていたが)、

喫煙の習慣性、あるいは依存性は恐ろしいと思った覚えがある。

当時は正直あきれてしまった。

これは私が喫煙者でないから、彼女の心情はあまりからなかったのだろう。



病名告知の時点で、種々の抗がん剤が効かなければ、手術の適応にすらならないと言われていた。

がんだとわかった時点でもう左の肺はレントゲン上で真っ白、ほとんど機能していなかった。

この時から、本当は近い将来母が死ぬことはわかっていたのに、わたしはこのことについてきちんと考えることすらしなかった。

残された時間が短いことはわかりきっていたのに、5年後、10年後も母は生きていると信じていた。



亡くなる2か月前、母は治療してもらっていた病院退院し、自宅療養となった。

母が言うに「医者に見放された」ようだったが、これは現在のがん治療方針を考えるとしかるべき流れだったのだろう。

わたしとしても主治医に思うところがなかったわけではないが、それも仕方ないことだろうと納めていた。

とあるごとに、母はこのことについて主治医に恨み言のようなものを言っていたが、そうだね、としか返せなかった。

一人暮らしをしていたが、父や兄弟からヘルプがあり、仕事を辞め、実家に戻って母の介護をすることになった。

少し回復しては悪化し、またそれを繰り返し、だんだんと母はできることが少なくなっていった。

呼吸が乱れて大好きだったお風呂に入れなくなった。

歩けなくなった。立てなくなった。座れなくなった。

トイレにも行けなくなり、オムツになった。

スプーンすら持てず、自分では食べられなくなった。

オムツを変えて、体を拭いて、食事の介助をして、いつも母の隣にいた。

浮腫がひどく、水分出納バランスを見なくてはならないときにはバルーンカテーテルも入った。

私は看護師だが、所属が全く違うために寝たきりのバルーンはすぐ詰まることすら知らなかった。

母はバルーンが嫌で、少しでも違和感があると、流出問題なくてもカテーテルの交換をしてほしがった。

ほぼ1~2日おきだったと思う。

訪問看護師さんに頼んで、バルーンキットを何個か家に置いて行ってもらっていた。

母にバルーンを入れるなんて、看護師になった当初は想像もしなかった。

夜中は背中が痛むといって隣で寝ている私にさすってくれないかと頼んだ。一晩に何度も何度も。

さすがに私も眠くて、いら立って「もういい?」と言ってしまう夜もあった。

はいつも「ありがとうね」と言っていた。



でもそんなこと、何度だってしてあげればよかった。

死んでしまったらなにもできない。

母が好きだったもの、したかたこと、なんでも話せばよかった。

母の声はどんなだったかときどき思い出さないと忘れてしまうのが怖い。

母が何を好きだったのか、どんな夢があったのか、なんとなくしか知らない。

できないことが増えていく母がどんな思いだったのか、きちんと聞けばよかった。

あんなに一緒にいたのに、看護師なのに、

母に何もできなかった。

本当に親不孝な娘だ。



私は小さいこから母が作るからあげが大好きだった。

そのレシピは、地元スーパーにおいてあったチラシに書かれていたもので、

中濃ソース醤油ケチャップなどで味付けがしてあった。

一人暮らしをして以降、実家に帰ると必ず母はからあげを作ってくれた。

母が自宅療養となって、あるときこのからあげのレシピを教えてあげる、と言った。

自分はもう作ってあげられないだろうからと。

縁起でもないといって私は聞かなかった。

あのとき素直に聞いておけばよかった。

もう母はいない。

夢に出てくる母はいつも病気になる前の、元気で働き者の母の姿をしている。

病気になったのは夢だったんだな、よかった、と思ったところで起きる。

そして、もう母に会えないことを思い出す。

もう一度母が作ったからあげが食べたい。

時間が悲しみをいやすというが、あれは嘘だ。

いつまで経っても悲しいままだ。

2018-06-22

https://anond.hatelabo.jp/20180622220341

国立がんセンターの大部屋は、日々人が死んでいくんで地獄だって

異ガンで死んだ奴が、自主退院したあとで言ってた

医者生活保護のための病院かねぇ

アスペルガー保険

家族の入っている保険会社担当が恐らくアスペルガーだ。

大病を患い入退院を繰り返した際、頻繁にお世話になったのだが、会うたびに不快になる。

言葉のチョイスが絶妙にずれていて、幾度となく会話に妙な間と空気の悪さが漂った。

病名や加入している保険内容など、個人情報が盛り沢山の封筒を郵送でなく直接ポストに入れて行くのだが、

集合住宅名字が書かれているにもかかわらず、上の階の別人のポストに入っていること2回。

うち1回は上の階の人が開封してしまったあとで、謝罪メモと共に家のポストに入っていた。

今直ぐにやめろとは言わないが、やはりアスペルガーの程度によって向かない仕事もあるだろう。

特に人の生死に関わる保険で無遠慮な言葉をかけられるのは、許容し難いものだ。

2018-06-20

鹿児島の県立精神病院小学生閉鎖病棟入院させ薬物治療? 

鹿児島県姶良病院http://hospital.pref.kagoshima.jp/aira/

所在地 〒899-5652 鹿児島県姶良市平松6067 TEL:0995-65-3138 FAX:0995-65-8044 E-mail.air-hos@pref.kagoshima.lg.jp 病床数334床 管理者 山畑良蔵(院長)

「県立姶良病院について語ろう

449 2018/06/19 11:19

この病院、こんだけ評判悪いのによく存続できるな。

今 この病院の7病棟素行の悪い小学生が4人 入院してるんだけど、その小学生にすら治療と称して大量の薬 飲ませてる。

ここの医者小学生素行の悪さを薬で治せると 思ってるらしい。

アホか姶良病棟。薬じゃなくて「しつけ」ヤロ。

子供にまで薬商売触手を伸ばすとはオマエら(姶良病棟医者ヤクザ以下。

姶良「商魂」病院改名しろ鹿児島の恥ども」

http://bakusai.com/thr_res/acode=10/ctgid=104/bid=1304/tid=3433815/

「7病棟48床(男女混合閉鎖病棟)

精神科救急入院病棟スーパー救急病棟)として、新規入院者の6割以上が3ヶ月以内に自宅又は施設退院できることを目指しています患者さん個々の病状やスケジュールに合わせ、多職種カンファレンスを持ち,早期に地域での生活に移行できるように積極的退院支援を行っています

http://hospital.pref.kagoshima.jp/aira/section/kango/kango03.html

、、この記述事実か?

仮に事実として、小学生閉鎖病棟(?)に入院させ、更に薬物治療を行うに至った経緯・法的根拠はあるのか? そしてそれは法的・医学的に本当に妥当か?

仮に事実として、これは「児童虐待」にあたらないのか? 公的機関報道機関などに通報すべきか? 通報すべきとしてそれは何処が最善か?

仮に事実として、人権上、これは許容され得ることなのか?

2018-06-13

カフェイン30gと睡眠薬100錠を入れて死にかけたお話

1年以上経って落ち着いてきたので、いまなら書けるとおもう。

あれは忘れもしない去年の4月30日だった。

当時26歳の私は、大学課題卒論、日々の日雇い仕事性別違和精神疾患父親との不和、などさまざまな問題を抱えながら日々をやり過ごしてきた。

4月29日の夜、いつものように睡眠薬抗うつ剤抗不安剤女性ホルモン剤を入れて布団に入った。

眠れない。

仕方がないからしばらくネットサーフィン資格試験勉強などで時間を潰し、眠くなるのを待つことにした。

朝の6時になっても眠れない。

これはもう仕方がない、ひとまず眠れるまでは寂しいし誰かと通話しよう、そう思った私はSkypeで連絡を取れそうな人物と話をした。

大して内容のない話だったとおもう。本当にとりとめのないことを2時間半くらい話した。

そうしたら通話相手が、いまの私の現状に同情したのかなんなのかはわからないが、泣き出した。

泣いている人物と会話を話をするのはあまり得意ではないのでここらへんで通話はやめよう、そう思い、一応なだめて落ち着かせてから通話を切った。

通話後、自分なかには将来への不安感、絶望感、焦燥感、そういったものでいっぱいになってしまった。

そういえば、カフェインを大量に服用すれば死ねるということを聞いたことがあったのでインターネットで調べた。

私の体重カフェイン摂取致死量は15g。ならその2倍服用すればほぼ確実に死ねるだろう。

このあたりで私の頭の中は死ぬことでいっぱいになってしまった。

そして手元にあったカフェイン剤をきっちり30g分用意して、そしてそのまま眠って死ねたらいいなと思ってルネスタやらロヒプノールやらマイスリーやら合わせて100錠くらい準備した。

そして、一気に、手元にあった炭酸飲料で飲み干した。

カフェインの錠剤が大きかったため、何度かに分けて飲んだ。胃酸だろうか、せりあがってくる液体も無視してすべて飲み干した。

飲んでから20分くらいは特になにもちょっと変な感じかな、その程度の身体違和感しかなかった。

30分もすると強烈な吐き気がきて、ああこれはもう我慢出来ない、そう思いお手洗いで吐いた。ロヒプノールの色素のせいか青色の吐瀉物が出た。

何度かえづいていると、1階にいる母に大丈夫?と声をかけられた。大丈夫ではなかったので素直に大丈夫じゃないと言った。

なんせ強力な吐き気それからめまい身体が動かない、もう自殺したいだなんて思わないか身体を楽にしてくれ、そう思った。

母に水を飲まされ、何度も吐いた。母が救急車を呼んだらしく、部屋に救急男性が2人入ってきて、担架で救急車に乗せられた。

このあたり、正直なところあまり記憶がないため、細かいことを思い出せない。ただ、意識チェックなどを受けたことは覚えている。

それと、ごめんなさいごめんなさいと何度も謝っていた。

病院へ着くと、まず胃洗浄を行った。鼻にチューブを通され、洗浄水を入れたり、胃の中の悪い水分を抜いたり。

その後に、活性炭を投与された。胃洗浄は苦しいという話を聞いていたが、正直尿道カテーテルを通されるほうがしんどかった。

胃洗浄が終わると、病院着へ着替えさせられ、CTスキャンの部屋へ移動させられた。そこで強烈な吐き気

CTスキャンが黒い吐瀉物でまみれてしまった。ごめんなさいごめんなさい、ひたすらに謝る私。

その後で、病棟に入り、尿道カテーテルを通され、全身管だらけになっておむつもつけられて待機。

はずかしいはなしだが、何度も看護師さんにおむつを交換されてしまった。

それと尿道の管の違和感が苦しかったのでお医者さんに抜いてもらった。

深夜になると、とても苦しくて寂しくて、泣いてしまった。

一緒に病棟状態を見守ってくれた母がやさしく手を握ってくれたのを覚えている。

それから、こんな風になってしまってごめんなさい、と何度も謝った。

そして、明日には退院できるようにならなければ(その明後日に欠席不可の科目があったので)という気持ちが徐々に湧いてきた。

ODから1日経ちお昼になった。確かハヤシライスが振る舞われたと記憶している。

正直、食欲なんてまったくなかった。それでも、ご飯が食べられないと退院できないと聞いて、必死に食べた。

付け合せのレタストマト、デザートのバナナツナサラダ、そしてハヤシライス。軽いものから重いものへ順々に食べ、1時間近くかけてなんとか完食した。

その後はリハビリがてら、ちょっと歩いたりした。それは特に苦痛ではなかったのだが、最後に大きな問題が立ちはだかった。

自力排尿できなかったのである

いくら尿意を感じて力を入れても、1滴も尿がでない。尿が出ないと今日中に退院できないと聞いた私は数時間かけて排尿の練習をした。

そして、看護師さんに見守られながら、おしっこができたときは、すごく感動というか、開放感というか、達成感に近いものを感じたとおもう。

夕方になり、お医者さんに退院しても大丈夫との許可を受ける。

優しく接してくれた看護師医者さんの方々に深々とお礼を言って病院を去った。

そして実家に帰り、お風呂に入り、早めに寝て、次の日は大学だったのでまた普段日常に戻ったのでした。

今回の件で、絶対ODでの自殺企図はしないぞ、と固く心に決めたのでした。

・いまの現状

あれから精神は少しずつ落ち着き(結局大学卒業できなかったけれど)、念願の恋人との同棲も叶い、基本的には主婦としてやっています

たまに日雇い仕事を入れたり、電気系の国家資格勉強をしたりと、日々それなりに落ち着いた生活をおくれています

実家から離れることで、父親との不和も解消したし、精神が弱っているとき彼氏さんに支えてもらっています

たまに、彼氏さんと喧嘩したりすれ違ったりしているし、やっぱり将来への不安はあるけれど、いまは、しあわせです。

2018-06-08

児相保護されて生き残った

とある地方都市、母と兄との三人家族物心がついた時には既に、母から厳しい「躾」という名の暴力日常的に受けていた。

私には何かしらの、検査に引っかからない程度の発達の遅れがあったのだと思う。小学校入学する頃になっても、母が私に要求していることを理解できていなかった。自分がなぜ怒られているのか、私の何が悪いのかもわかっていなかった。

怒鳴られれば謝る。殴られれば謝る。ただそれだけ。反省なんてなかった。「母は正しく、私は間違っている。」それが私の、理解の全てだった。

年が離れた兄は、私に優しかったと記憶している。受験ストレスからか、一度だけ八つ当たりのように殴られたことはあるけど、それ以外に私を虐めたりすることはなかった。友達と遊ぶ時間を削って、私を家の外へ連れ出してくれることもあった。私は兄のことが好きだった。

同時に、私は心のどこかで「兄は私の味方ではない。」と思っていたかもしれない。兄は、少なくとも私の前では、母に殴られることがなかった。そして、母の暴力から私を助けようとしなかった。兄は甘やかされているように見えた。母に贔屓されているように感じていた。

私は家出を繰り返すようになった。その度に警察保護され、家に帰され、そして折檻を受けた。家出が「悪いこと」だとは暗記していた。ただ、理解はしていなかった。だから繰り返した。家に帰るのがとにかく嫌だった。

やがて私は、家の一室に軟禁されるようになった。それでも私は外に出たかった。外から鍵をかけられた部屋の中で一人、じっとしていることができなかった。

他に外へつながる場所を見つけられなかった私は、ベランダから飛び降りた。動けなくなる程度の怪我を負って入院し、数週間の後に退院し、待っていたのは引っ越し先の見知らぬ家と、以前と変わらぬ軟禁生活だった。

一時保護は9歳の時。ほとんど学校に行けなかった私を案じて、教師同級生が動いてくれたのだと後になってから知った。

私はただ、運がよかった。もし誰も声を上げてくれなかったなら、私は今ここにいないだろう。エスカレートしていく母の暴力は、しばしば生命危険を孕むものだったから。

施設を出て、もう10年以上が経つ。母は死に、兄とはもう連絡さえ取っていない。

母の望みはきっと、ささやかものだったのだろうと思う。「家族三人で仲良く、穏やかに過ごしていけたら。」少し贅沢かもしれない、でも当然の願い。私を持て余し、余裕を失い、叶えられることのなかった願い。

兄もきっと、嵐が吹き荒れる家の中で、家族を守ることができない自分の無力に苦しんでいたのだろうと思う。

悲しい事件があるたびに、生まれた家のことを思い出す。私を守ろうとしてくれた人たちのことを思い出す。身を切られるような痛みの中で、自分に与えられた運を思い知る。

私が今、この世界をどうにか信じて生きていられるのは、家出を繰り返す私の言葉を信じ、受け止めてくれた人たちのおかげだ。「そんなにひどい親はいないだろう。」「親が子供を殴って躾けるのは普通のことだ。」そんな人にしか出会えなかったとしたら、きっと私はここにいない。

最近、ある児童相談所責任ばかり追及する声を多く見るから書いてみた。

今までどれほどの子供が救われたのか、救われなかったのかはわからないけど、私は確かに児相に救われたと思っている。

同じように救われる子供が一人でも多くなりますように。つらい思いをする子供が一人でも少なくなりますように。

子供たちのために何ができるのか、みんなで一緒に考えていけますように。

2018-06-05

母が入院した。

以前から体調が悪そうにしていたので、少し気にはなっていたけれど、どこか心の中で「大丈夫だろう」という考えがあり、僕から病院に連れて行くことはなかった。

そして先月末、僕が寝ていると、父と一緒に「病院に行ってくる」と言い、びっくりしたので「体調悪いの?」と言うと、「うん」と小さな声で返事があった。

僕は「行ってらっしゃい」と言い、また眠りについた。

すると昼過ぎ頃に父からLINEが入り、母が入院することになったと。

夕方から仕事があったけど、父から普通に出勤するように言われたので、この日は普通に出勤した。

僕は夕方から深夜に働く仕事をしているけれど、不規則時間ということもあり、最近、母の顔をしっかりと見ていなかったな…と、今更ながらに気づいた。

正直、すごく泣いてしまった。

どうしてもっと早く病院に連れて行ってあげなかったのだろうとか、

どうしてもっと母の手伝いをしてあげなかったのだろうとか、

どうしてもっと顔をしっかり見て話をして話を聞いてあげられなかったのだろうとか…。

母がいつ退院するかは分からない。

入院一週間前は歩いていたし、入院当日もかろうじて歩いていたのに、今はもう歩けなくなっている。

病院に行くと、皮膚の状態も良くなかった。

からも「もしかしたら長くないかも」と言った説明を受けた。

いつもいつも僕は自分の楽ばかりを追求して、他のことに他のものに他の人にそして家族に目を向けてこなかった。

最高に馬鹿だとしか思えない。

もう取り返しがつかないところまでいって、やっと自分無能さ、無責任さに気がつく。いつもいつも僕はこうだ。

一体ぼくはこれからどうすればいい?何をすれば良いのだろうか…

今できることって一体何なんだろうか…

2018-05-25

anond:20180525215448

看護師ではたらいてておもったんだけど

別にお金なくてもみんな長い間入院して高い手術受けてんのよ

しろお金ない人ほど病気になった時に退院したがらないww

2018-05-19

anond:20180518184020

ICU看護師です。

(※夜中に記事を見て勢いで書いていますので、最新のガイドライン準拠した内容である査読していません。蘇生に実際に携わった経験複数回あり、ICLSで複数回トレーニングを行っている者が経験記憶を元に書いていることをご了承ください)

現時点では専門家としてのコメントが見当たらなかったので少しだけ書きたいと思います

救命専門家かと言われると自信はありませんが、院内でも心停止心臓マッサージとなると、蘇生後(あるいは蘇生しながら)ICUに入るのがセオリーです。当然、院外から運び込まれますもつまり私たちは「蘇生がうまくいった人」「蘇生いまいちだった人」「蘇生がうまく行かなかった人」のその後を実際に見ている立場です。

まずは、倒れた方が速やかに蘇生して何よりです。搬送されたその後は気になりますが、いろいろな意味で、これが一番良かったことです。

次に、大変お疲れ様でした。とても疲れられたと思います

僕たちは定期的に、より高度な人形(胸を押す深さを記録したり、電気ショックを実際に行うことができるなど)でトレーニングを行いますし、実際に院内心停止対応したことも一度や二度ではありません。

慣れている僕たちでも、単純な運動としてもかなり疲れますし、頭をフル回転させて原因検索現場マネージメントを行うので、終わった後はどっと疲れます。慣れない一般の方であれば、アドレナリンがドバドバ出て、興奮が冷めたころにものすごい疲労を感じられたのではないかと思います。本当にお疲れ様でした。

そして、文面を見る限りでは、バイスタンダー(居合わせた人)としてのあなた対応は間違っておらず、正しい処置をされています安心して下さい。一番言いたかたことはこれです。

・脈拍について

もし本当に心臓が止まっていたら、あるいはとても弱い拍出しかなかったら「脈は触れない」ので探す必要はありません。

例えば、熟練者が1~2秒で「脈があるorない」と判断し即座に心臓マッサージを開始するのであればそれでもいいかもしれませんが、反応と呼吸がない(もしくは死戦期呼吸という喘いでいるよな呼吸)の時点で心停止とみなすため、特に熟練者では今回の対応が正しかったと言えます

救急隊の方の発言真意はわかりません。

肋骨骨折について

私は肋骨どころか胸骨を折ったこともあります。仕方ありません。何もしなければ死んでしまうので、よくぞ続けてくれました、という所存です。

患者さんはICUで「胸が痛い」と言います。実際かなり痛そうです。いろいろな痛み止めの薬などで対応しますが、リハビリをし、退院されていきます。それは初期対応が的確になされ、障害がないあるいは軽微であったからこそです。

時間を記録していること

大相撲の件でもどなたかDrが言及していましたが、心停止蘇生の時刻を記録しているのは非常に重要なことです。心停止時間が長くなれば、心拍や呼吸が戻ったとしても、脳がダメージを受けて植物状態のように意識が戻らない方もいます心停止心拍再開の時刻がわかれば、脳のダメージがある程度予測できますしかし、一般の方がムリに記録する必要はないと思います。できるだけ早く心臓マッサージを始めること、良質な心臓マッサージ可能な限り絶え間なく続けること、AEDを適切に使用できること、これが優先です。余裕があれば時間の記録をお願いします。

心臓マッサージはもちろん生死の問題です。しかし、同時に社会復帰できるかの問題でもあります

蘇生までの時間が長かったとき上記のように、身体は生きていても意識は戻らずずっと寝たきりのままになるかもしれません。

あるいは脳がダメージを受け、言葉がうまく使えなかったり、身体が十分に動かなかったりするかもしれません。

早くAEDにつなぎ、電気ショック心拍再開することや、心拍再開するまでに胸骨圧迫が上手に行われて脳に血液が通っていることで、こういった可能性、程度が少なくなるということです。

そういう意味において、今回のケースは、蘇生が早かったこと、そしてバイスタンダーであるあなたが速やかに適切な処置ができていたこと、倒れられた方にとって幸運だったと思います

最後に、環境について(誰も交代しようとする人がいなかったこと、駅員さんの情報共有?など)は残念に思うことがいくつかあります

特に、駅員さんを含めて誰も心臓マッサージを交代しようとしなかったこと、AEDを持ってきてくれなかったことです。

今回のようにすぐに心拍再開しなかった場合、5分も経たずにあなた心臓マッサージは「有効もの」ではなくなります。そして、AEDの装着と解析はできるだけ早いほうがいい。

今回の記事が良い形で広まりあなたのように適切な初期対応ができる方が増えることを期待します。

お疲れのところ、詳細な日記をお書きくださりありがとうございました。

2018-05-18

anond:20180518101912

そもそもCheenaは他人受け売りばっかだしなぁ

受け売りじゃないことやったと思ったらちょっとかしこ中学生でもできることだし


それに退院直後にxmppあいつ連絡とってた知人にxmppに呼び出してきたと思ったらコネ自慢と犯罪自慢した挙句

ツイッターの女のフォロワーのうち誰がヤらせてくれそうだの言いだしてたログスクショを見せられたことがあるけど

わざわざOTRやってもスクショ撮られたら意味ないってことを理解してなかったのも含めてバカだなって思ったよ

2018-05-17

NHKスペシャル仮想通貨ウォーズが酷い件

あの番組とある人物が「期待の新人ホワイトハッカー!」と称して紹介されていたが正直酷かった

まず第一に彼は過去に二度捕まって少年院に入っているし確実に去年まで保護観察下にあったので新人でもホワイトハッカーでもない。

彼のツイートを見る限り退院後の保護観察間中からわざと保護司保護者に話を通さず取材しているようでコンプライアンスの欠片もない。

おまけに彼は現在進行形民事訴訟も抱えているはずで、過去清算も終わっていない人間事実をひた隠しにしながらあのような扱い方をするのには首を傾げざるをえなかった。

肝心の内容も仮想通貨とonionを触ったことのある人間なら誰でも分かるような事を仰々しく解説

他の内容も編集の妙でごまかしてこそいたがペラペラでしょうもなく、お前ら本当に報道屋なのかよという感想を抱いたしこんなもん作ってるような局じゃ金払いたくもなくなるわな、ということを思った。

2018-05-09

人生の答えって何だろうか

これまでの人生苦痛が多く、ほとんど無意味人生だった。

淡々人生を歩んできて、楽しいと思った時期なんてそこまで無かった。

そんな日々も残りあと少しなので、簡単にだけど振り返って吐き出したい。


幼少期は両親の喧嘩が絶えず、割れる瓶と鈍く低い音、そして奇声といつも冷や冷やとしていた記憶しか無い。

もちろんその喧嘩によるとばっちりを受けたこともある。

親の友人からはいつも大人しいと言われていたが、あのような状況が続いてわいわいと騒げるわけがない。

更に親が喧嘩した後、薄かった壁に大きめの穴が空いていたのが恐怖を感じた。

幼いにも関わらず、この時から親を反面教師にして生きていこうと決意していた。

しかし、この頃から人の目を伺うという性格根付いてしまった。

ずっと無気力がちだったのもこのせいなのかもしれない。


その後、小学校入学して新しい環境になるが、学校が唯一の癒やしだった。

勉強ほとんど出来なかったが、家と比べて遥かに休息出来ているという感覚はあった。

友人も何人かでき、よく休憩時間放課後でも楽しい時間を過ごしていた。

とは言え、当時の記憶なんてもうほとんど覚えていないが、暖かく晴れた日の柔らかな風とカーテンの揺らぎが、子供ながらに不思議と癒やしを感じていたのはよく覚えている。

けれど安らかな一時というのは時間が経つのが早い。

学校が終わったら癒やしも何もない家へ帰るのは本当に億劫で、わざと遠回りして家に帰ることはしょっちゅうだった。

ただ、両親が居ない時の家は心を休めることが出来た。


そして中学になってから両親は離婚したが、母親相手に強く依存するタイプだったようで、依存対象が無くなったせいなのか更にメンタルがやられ、この時からロクに家事をやらなくなった。

母親が何もやらないので、仕方なく自炊やらを覚えたのはこの辺りだった。

肝心の学生生活については、育ちの悪い連中に影響された奴が多く、一気に不良となった子が増えたのにうんざりしていた。

小学の時は良い友人だったのに、突然万引きやらタバコをやり始めた人が何人もいた。

ただの格好つけで根は良い奴だと思っていたが、弱い者イジメに加担する輩も結構いて、私は心底呆れていた。

小学の時の癒やしとは程遠かった。


数年経ってそのような生活も終わり、高校へと進学した。

この時、知っていた小中の人達とはほとんど別れて全く別の環境になった。

全く賢い学校ではなく、むしろバカ学校と言える高校だったが、当時の担任面白いお兄さんで、学生のようなノリをしながら生徒と同じような目線勉強を教えようと頑張ってくれた。

担任ギター経験者であり、時々息抜きとしてみんなに弾き語りしてくれた時もあった。

小中とロクに勉強してなかったので日々勉強するのはそこそこ辛かったが、先生一生懸命教えてくれたこともあり、賢いとは言えるレベルで無いにせよ、ある程度の教養は身につけられたと思う。

でも、ある日からその担任は別の高校へと向かうことになった。

その高校はここよりも遥かに賢く、誰が聞いてもとても良い場所だった。バカ学校なんて所にいるより、遥かに待遇も良いだろう。

また、当時担任の奥さんは妊娠していたようで、それを含め生徒らは祝福した。


そしてお世話になった担任は去り、別の教師が新しい担任になった。

しかしこの教師曲者で、突然怒り出したと思ったら平気で授業を放棄するわ、意味分からん自慢話ばかりで授業が進まないわで非常に厄介な人で、ひどく困惑した。

他の教師からも疎まれているようで、教員会議でもワンマンぶりを発揮し、大声で意味分からん持論を発して他の教師を困らせていたようだ。

何故そんな教師がクビにならないのか非常に疑問を感じていた。

担任変更が高校最後の年だったので被害はそこまでだったが、二度と関わりたくない相手だった。

前の担任が別の学校へ行った時、その教師はアイツは逃げたと言っていたが、そりゃこんな所なんて逃げるだろうと誰もが思っていた。

ちなみにこの頃、母親は別の男を見つけ、更に家事放棄するようになっていた。

まあ、この時大体の事は自分で出来るようになったので、大した影響は無かった。


そして時が移り、大学入学を迎えた。

正直なところ、高校入学当初は大学になんて行けると思っておらず、高卒就職だろうなと考えていた。当時の最初担任のおかげだろう。

ただ自分学力では良い大学には行けなかったが、割と綺麗でお洒落大学に入れたので良かったと思っていた。

はいえ、折角大学に入ったのにそこまで勉強をせず、サークルにも入らず、自堕落生活を送っていた。

また、以前から一人で過ごすことも多かったので、積極的に友人を作ろうともしなかった。

居ても一人や二人程度だ。

大学では一応授業はちゃんと出ているつもりだったが、大抵途中で居眠りしていた。落とした単位が少なかったのは幸いだろう。

それよりも静かな図書館でひたすら眠ったり、よく晴れた日に大学のベンチでご飯を食べながら日向ぼっこしていた事が、小学生の時の癒やしを何となく思い出させた。

大学がこれまでの人生で最も安らかだった時期だと思う。


アルバイトを始めたのはこの頃。

高校バイトしている人は多かったが、学校自体禁止していたので積極的に参加は出来なかった。

バイトコンビニで働いていたが、時給の割にやることが多すぎて大変だった。

仕事自体は大変なだけで辞めるほどでは無かったが、その店のオーナーと息子があまりにも横柄で更に仕事をしなかったため、衝突が多くなり、半年もせずに辞めた。

まりイライラする職場だったので、最低限の事だけを行って何の言葉も残さず退職した。

仕事よりも人間関係の離職理由が多いとはよく聞いていたが、なるほどなと理解した。

正直この時点でもうバイトはしたくないと考えていたが、そんなこと言っている場合じゃなかったので、次は家の近くにあった小売の仕事に転換した。

また同じ事になったら嫌だと思ったが、予想とは異なり、その店の従業員はみんな良い人ばかりだった。

以前のとの差に驚き、最初からここで働いていれば良かったなと後悔した。

ここは大学卒業するまでずっと働いていた。

当時の方々には非常にお世話になったと感謝している。


ちなみに女性を初めてまともに好きになったのは大学に入ってからだった。

出会い大学の通学途中、学校へ向かう電車が一緒だった。

当初はお互い気付いていなかったが、ゼミが一緒だったこともあり、行きや帰りの駅で何度か姿を見かける事に気付いた。

の子は小柄で物静かな女性で、物腰や動作がどことなく品がある女性だった。

最初はそこまで何も思わなかったはずなのだが、気付けば気になる存在となっていた。ただ、姿を見かけてもどうすれば良いのか分からず、会話することが出来なかった。

向こうもこちらの存在には気付いていたようで、お互い気にはなっているがその先が踏み込めない状態だった。

大学ではその女性の友人間でこの話が広がり、私がその子の近くにいればその子の友人らはよく騒いでいた。

偶然隣り合うくらいに近くにいた時、彼女の顔が凄く赤くなり、若干挙動が慌てていたのもよく覚えている。

また、大学構内で彼女を近くで見かけた際、こちらに気付いていない彼女は私の事について嬉々としてその子の友人と話していたことがあり、それで私は色々と察した。


本来ならすぐにでも仲良くなるべきだったが、酷い事に年単位で何もすることが出来なかった。腰抜けにも程がある。

流石の自分もこのままでは駄目だと思い、授業中や通学途中にもどうにかするべきだとずっと考えていた。

結局良い方法が思い浮かばず、結局は素直にそのまま接触することにした。

夕方大学の帰りの電車で話しかけた時、彼女はとても驚いていたが、その目はどことなく輝いていた気がする。

ただ、こちらはあまり必死過ぎたせいか、話した内容も聞いた内容も全く覚えていない。


それから問題なく彼女と仲良くなれたと思うだろうが、残念ながらそうはならなかった。

この後に私は友人に呼び出され、何かと思えばその友人は彼女の事が好きなんだという事を話していた。

以前から何となくぼんやりとは察していたが、やはり言われれば印象は大きく変わる。

しか彼女好意を抱いている友人は一人だけではなかった。これには流石に困惑してしまった。

これからどうすれば良いかも分からず、完全に混乱してしまった私は、最終的に彼女無視するという馬鹿げた行動に至る。

これが良い行動でなかったことは言うまでもなく、理由を知らない彼女は私にからかわれたと思ったのか、徐々に避け始めた。間違いなく嫌いになったのだろう。

友人も以前から私と彼女との間を少し察していたため、どんどんとギクシャクした関係になってしまった。

それ以降、この友人とも連絡を取ることは一度も無かった。

これらが影響で大学へ行くのも面倒になってしまい、楽しくもなくなった。

そしてこの件は私を含め誰も得をすることなく、何も解決することもなく、呆気なく大学生活は終わりを迎えた。


これまでの学生生活は長いようにも短いようにも見えたが、その中で何か大きな事を成し遂げることは一切無かった。

10年以上もの時間が与えられたのにも限らず、ただ時間無駄に過ごしただけ。

それを思うだけで自分の中の自信が無くなっていくようだった。

せめて何か形に残るような事をやっておくべきだったな。


大学卒業後、私は在学中ギリギリ内定を貰った職場で働くことになる。

この職場実家と離れるために一人暮らしをしていたが、今まで以上に億劫な日々を過ごし続けていた。

学生時代とは違った、空気の全く異なる職場で何も考えることなく働き続けた。

仕事特にやりがいがあるわけでもなく、また休みの日に何かをすることもなく、ただただ無為時間が過ぎているだけだった。

同僚や上長もそんな私の空気を察したのか、ほとんど関わろうともしなかった。

話しても挨拶のみや一言や二言程度で、会話が広く発展することもない。

このような状態が続いても精神面に良い訳がなく、更に朝昼晩の交代制の仕事だったため、生活リズムも徐々に狂い、心身共に壊れていった。

まりに酷い時は心療内科に通うこともあったが、その医者は話を聞いてくれずただ薬を出すだけだったので、諦めて薬も飲まずに自分で何とかしようと考えた。

そうやって何日も何日も耐えてきたが、ある日の朝、全く起き上がれなくなった。

動こうと考えても身体は言うことを聞かず、天井を見上げていることしか出来なかった。

日経ち、その職場退職した。


辞めたあとは仕事から解放感か、体調は一時的に軽くなった。

しかし、その後もまともな生活を送っていなかったため、暴飲暴食や昼夜逆転生活で体調は日が経つごとに悪化していくだけだった。

部屋はゴミだらけで文字通り足の踏み場もない状態風呂すらロクに入らなかった。

でも途中で生活資金が尽きそうになり、仕方なく正社員での募集を探してみるものの、何度も何度も断られた。

挙句の果てにアルバイトですら断られる時もあった。

そんな生活が何年も続いた。

もう起きることすらしんどくなり、お腹が空いても飯も食べず1日中寝ている日もあった。

もはや生きているとは言えず、死んでないだけの抜け殻状態だった。

時々母親からは安否の連絡が来たが、適当に返して放置していた。


そんな鬱々とした生活のある日、久々に入った短期での仕事中に体調が一気に悪くなって倒れた。

酷い吐き気めまいがあったのを覚えているが、倒れてから記憶はなく、後で知ったのだが救急車で運ばれたらしい。

そんな体験をしたのは生まれて初めてだった。


目覚めた時、妙に病室のベッドが心地良かったのを覚えている。

今までは床で寝ていて掃除もされていない酷い部屋で生活していたからだろうけど。

その日会った看護師によると、私は数日間意識が無かったようで、ずっと眠っていたらしい。

ただあの時のベッドの心地良さが続くならば、ずっと眠っていたい。そう思った。


それからしばらくして、母親が部屋に入ってきた。

泣いていた。

私はそれを見ても全く何も感じる事はなかった。むしろ、早く一人にして欲しいと思うくらいだった。

しかし、すぐに帰らないので仕方なく相手をしていたが、その時はいつもと比べて妙に母親が優しいと思った。

その理由はあとになって分かった。


日経って病院での生活も多少慣れてきた頃、担当医者に呼ばれた。

話によると、私は余命が半年と少しほどしか無いらしい。

肝臓に酷いダメージがあり、もう治療をしようにも手の施しようがないそうだ。

できるだけ安静にしていれば余命は伸びるかもしれないが、それを怠ると今後の苦痛が大きくなるとか。

今までの経緯を話したところ、今回は重度のストレスと暴飲暴食が原因だと先生結論付けた。

から身体は弱い方だったが、それがここになって一気に来たものだと思った。


余命宣告された時にはあまりに突然だったため、一瞬驚いたが、同時に安堵した。

過去自殺を考えたことは何度もあったが、実行に移し切れずその度に憂鬱になっていた。

でも、もう無理に頑張る必要は無いんだなと、張っていた気が抜け、少し救われた気分になった。

はいえ、現在の状況は何もかも全て自分の行いで招いた結果ではあるが。


それからしばらくして一時退院、主に自宅での安静を命じられて実家に戻る事となったが、家に居ても特にしたいと思うことがない。

食事にしても身体を壊してからは何も食べられず、内容も淡白ものばかりになってしまい、当然美味しくもない。

幼い頃は家にいるとテレビゲームをよくしていたが、今となってはやる気力さえ全く起きない。

無理やりやろうとしても10分もせず飽きてしまう。

気分転換にどこか出かけるにしても身体負担が大きいので遠出は出来ず、そもそも金が無いか旅行なんて出来ない。

テレビを見ているかスマホパソコンネットでも見るか、それとも何か食べているか、眠たくもないのにただ寝ているか

結局は入院前の生活とさほど変わりなかった。


残りの人生何をやろう、と思っても前々から考えていなければすぐには思いつかないものだった。

仕方ないので、晴れた日にはとりあえず近所にある大きめの公園へ行き、ベンチに座りながら遠くを眺めていた。

園内では子供達がいつもはしゃいでおり、その姿を見ているだけでも元気が貰えるように思えた。

時には夫婦と幼い子が仲睦まじく歩く姿もあり、それを遠くで羨ましく見ている時もあった。

ネットサーフィンをしている時に時々フェイスブックを見るが、当時の友人や知人は徐々に結婚してきており、既に子供が生まれているのが何人もいる。

そして彼らが時々掲載する写真動画を見ると、微笑ましいと思うと同時に気が落ち込む。

自分も、もう少しまともに生きていればこうなっていたのだろうか。


そこでふと、大学の例の女性を思い出した。今は一体何をしているのだろうかと。

もう卒業してから何年も経っており、当時はよく注目されやすい人だったから、とっくに結婚もしているだろうとは思っていた。

でも最期に少しでも連絡が出来たらと間抜けな期待を抱き、数少ない友人に連絡が出来るかどうかお願いをしてみた。すぐに了承してくれた。

そしてしばらくして、思っていたよりも早く結果が返ってきた。

友人によると彼女はまだ結婚していないらしい。でも向こうは連絡がしたくないそうだ。

それだけ聞けたら十分だと思い、その他のことは何も聞いていない。まあ当然だろう。仲良くもなかった男から突然連絡が来ても迷惑なだけだ。

時間も経ちすぎているし、向こうにしても過去の事であり、もしくはどうでもいい事だと考えているだろう。

当時の事も謝りたいとも思っていたが、思い出したくもない過去を今更掘り返しても意味がないと考えざるを得ない。

もうすぐ終わる身としては開き直るしかなかった。


こうしてまたいつもの日常に戻り、何か特別にやらなければいけない事も無く、残り少ない日々を消耗している。

まだ時間がある人ならば、これから頑張ればいつか良い日がやってくると信じて先へ進めるかもしれない。

私のようにもう時間が無い者ならば、これからどうすればいいのか、未だに分からない。

今の私では新しい思い出を作ることは出来ず、過去を思い返すだけしか残されていない。

病院ではそんな私を哀れんで慰めてくれる人もいるが、私は言葉を表向きは受け入れるが、裏では全く何も思わない捻くれた人間であり、素直に受け取れない自分に嫌気が差す。

こんな状態でまともに気持ちの整理も出来ず、向き合えないまま死んでいくと考えると、どんどん悲しくなってくる。


ちなみにこの余命については親以外誰も知らない

言った所で今後会った時の対応に困るし、友人に話そうと思っても言葉が詰まって何も話せなかった。

顔色が悪いと言われても、ただ愛想笑いしながら、いつものように話すことしか出来なかった。

でも、例え自分が何も言わずにこの世を去ったとしても、数年も経ってしまえば、昔あんな奴いたな程度の存在で徐々に忘れ去られていくのだろう。

他人自分が思っているよりそこまで何も考えていないし、期待しても単なる思い過ごしになる。それは今までの経験上、全て事実だった。

それ以前に難しいことを考えるのはもう疲れた

病気悪化しているのか、体調の波がどんどん激しくなってきているため、こうやっていられるのもあと少しだろう。


今までの人生を軽く書こうと思い、これまでを思い出しながら突貫で文章を綴ってきたが、作成中には当時のそれぞれの場面を思い出し、その度に涙が止まらなくなった。

あの頃に戻れたら、もう少し自分に行動力があれば、または別の場所で生まれていたら、何度も何回も様々な事を考えどそれは無駄な事だと察して嫌になった。

まれ変われるならとも考えた事もあるが、そもそも宗教なんて信じていないのに、そんな事を考えるのはおかしい話ではある。

でも死んだ先に何があるのか、それとも何も無いのか、それは今の私でもとても気になっている。


20年以上生きてきた中、他人にも自分にも今後のためになるような何かを与えたことはなかった。

そして生み出すこともなかった。

ほとんど何もしなかった私のこの人生意味はあったんだろうか。

私には答えが何も浮かばなかった。

人生についての意義を考えるのは人間くらいだと言われるが、少しでも生きていて良かったと、そう思えるような意味のある何かが欲しかった。


こんな駄文をここまで読んでくれて本当にありがとう

2018-05-06

ゴールデンウィーク最終日に熱で寝込むってどうなの…

昨日(ゴールデンウィーク最終日の1日前)39度の熱が出た。

それから実家に帰り、死んだように寝ていると、ゴールデンウィーク最終日も半日が過ぎていた。

熱はだいたい下がったが、まだ頭は痛いし、体はだるい

明日から仕事である

少し前、年末にもこんなことがあった。

バイト中、具合が悪すぎて早退すると、インフルエンザと診断され、自室のベッドの上で紅白を見ながら年を越す。

そういえばこんなこともあった、高校生の頃、夏休み終盤で骨折(1.2年の時両方)し、ギリギリ退院して腕にギプスガチガチ宿題をこなしたり、高3の時には、高2の骨折ときに腕に入れたボルトを取るために、入院して手術。お陰で苦手なプールは泳がなくて済んだ。

でも今気づいた。

めちゃくちゃ休み損してない?

僕、あんまり平日休んだことない。

今日休みけが潰れていく。

体調管理絶妙に悪いのかな。

明日は元気に仕事頑張ります

2018-05-04

持病が

再発した。3年半ぶり、社会人になってからは四度目の再発。一生付き合っていく病気だとは思っていたけど、小康状態の時には自分が健常者であるかのように錯覚しているので、こうしていざまた症状が急性期に入って仕事生活に困ると現実直視せざるを得ず、ショックは隠せない。しかも今回は、急性期に大量投薬する薬の効きがイマイチで、服薬後五日目にあたるのに未だ症状が収まる気配がない。その点がとても心配だ。

再発の度に、自分アイデンティティというか、存在意義について考える。

幼少の頃からこの持病を抱えていて、当時は今よりももっと頻繁に再発、入退院を繰り返していた。両親は共働きでありながらそんな自分愛情深く、どちらかというと過保護に近いかたちで育ててくれたが、自分社会性を身につける機会を損なったせいなのか、特に大学時代あたりから友人関係を築いていくことに困難を覚え始めた。社会人になったものの、当時既に大学時代の不甲斐なさが人生の大きな欠損として心に鎮座しており、社会人に入った直後は大学時代にも増して同期たちと関係を作ることができず、窮地に陥った。社会人生活が始まったのに知り合いを増やせていけない自分絶望する中、そのタイミングで持病が再発、あえなく長期療養を余儀なくされた。

以降、自分の社交性に関する自信の欠如は自分の日々の生活の中で大きく居座っており、先輩や同期を含めた同僚たちとうまく関係性を作っていけない自分を惨めに感じていた。そしていつしか、「せめて仕事くらいは人よりも難解なことを、過重労働を厭わずにこなせなければいけない。そうでなければ自分は生きている価値がない。そうでなければ毎日出社したくないし、30年以上もサラリーマンを続けていけない」と思った。

新卒入社した会社は(まやかしの)学歴のおかげか、斜陽ではあるもの自分には不釣り合いな大層大きな某総合電機メーカーであった。業績は落ち込み気味だけど、福利厚生は充実しており、ぬるま湯に浸っている社員の人たちは優しく、持病をもつ自分も働きやす環境であった。まさしく僥倖であった。

しかし、上記のような経緯から己の存在意義について考え始めた自分は、紙を右から左へ動かすだけのような仕事に嫌気がさし、加えて、うまく作ることができなかった人間関係から逃げ出したいという思いがあって、無謀にも転職をした。 その後二転三転あり、さらにもう一度転職経験して今の会社にいる。ちなみに自分職業経理であるが、今の会社自分希望を聞いてくれて、アカデミック頭でっかち部署に配属してくれた。それは嬉しかった。自分能力不足を痛感して毎日毎日辛い思いをしながら、でも、少しずつその分野で成長できている自分が嬉しかった。年に四回ある決算期はそれぞれ一ヶ月くらい深夜残業となってしまうけど、遅くまで仕事ができる自分が嬉しかったし、満足感もあった。勿論、疲労感とストレスは辛かったけど。

はいえ、頭の片隅にあるのは以下のようなことだった。つまり、これだけ頑張ったところで自分公認会計士税理士資格を持っているわけでもなく、やはりサラリーマンは社交性が命であり、こんなコミュ障自分がこの先どのように生きていくのかは結局うまく見通せない、暗雲が立ち込めているなということだった。この思いが頭をもたげてくると、気持ちは沈んだ。しかし、転職までして今の環境を望んだ自分は後には引き返せなかった。だからがむしゃらに働いた。

挙げ句、今回の再発である。年度末の決算期はそれはもう多忙を極め、一ヶ月ほど25時就寝5時起床という生活を続けていた。尿量が減ってきていて、浮腫が強いなと薄々思っていたが、検尿をして大変に病状が悪化していることが判明した。すぐに病院に行って薬を処方してもらった。

正直、これからどうしていけばいいのか分からない。やはり自分は無理のきかない身体であると分かったし、頭だってそれほど良くないと痛感している。こんな人間が生きていて、申し訳なく思う。何の役にも立たない人間が、社会コストとなってのうのうと生きていくことは許されないと思う。

連休残り二日の間に、何とか薬が効いてきてほしい。連休中はずっとベッドの上で、自分はこれからどうすればいいのかを考えたいと思う。

2018-04-29

子なしの自分が受け入れられない

長文です。

人の幸せを喜べない自分が嫌だ。僻みっぽくて、常に他人自分を比べて凄く嫌な女だ。

結婚4年め。子なし。旦那の転勤で海外在住。会社規定で働けない為、専業主婦

昨年妊娠した。子供が嫌いなのでピルを服用していたんだけど、丁度飲み忘れたタイミングだった。逆算してみて、多分一発で命中したんだと思う。

生理が重いから(事実)」という理由ピルを飲んでいた。これは夫も知っていた。

検査薬を見てゾッとした。大好きなお酒が飲めない・子連れになったらお洒落レストランにも行けない・海外旅行も暫く行けない。

子育て自分自由制限するものしか思えず、産婦人科受診まで憂鬱な日が続いた。

でも心のどこかで、ちょっと喜んでいる自分が居ることに気づく。意気揚々日本への里帰り出産計画を立てていた。

しかし、後になって気付いたけどそれは旦那子供と過ごす未来へのワクワクとかでは全くなく、他者から見た順風満帆自分人生への優越感だった。

友人のなかでトップ集団結婚し、旦那の稼ぎもかなり良い。私立女子大卒業した後は大手企業就職、早々に寿退社。当時は皆に人生(恋愛)相談をされていた。今思えば自分はかなり負けず嫌いで、勉強も学年で1番、受験就職所謂勝ち組だったと思う。しかしそこには自分が何をしたいとかは一切無く、ただ周りからまれ対象になりたかった。

受験就職結婚まで全て自分の思い通りになった。もちろん地頭が良い訳ではないし、容姿が特段美しいわけでもない。普通だと思う。だから努力だけは惜しまなかった。

私は、自分の事が嫌いだ。要領も悪く、身も心も美しくない自分が心底嫌だ。常に打算的で、周りの目ばかりを気にして、自分意思なんて物は何もない。そんな自分分身なんて怖過ぎる。加えて旦那の事は嫌いじゃないけど、正直愛してはいないと思う。一応恋愛結婚だけど、高収入介護無しの条件で選んだからだ。

日頃神様存在なんて信じないけれど、この時だけは神様は居ると思った。こんな私のところに、偉大なる神様が何かを授ける訳がないよね。

産婦人科受診した日の事だ。

子宮妊娠をしていた。しかもかなり危険状態で、すぐに手術が必要レベルだった。片方の卵管を切除。それしか道はない。「(私の)命が危険です」と言われた。今後妊娠出来ないわけではないけど、確率は30%程下がると医者から説明を受けた。

診察室でボロボロ泣いた。しかし、何故自分が泣いているのか分からなかった。

公共の場で騒いでいる子供が嫌で、野放しにしている親が嫌で、妊婦の膨れたお腹気持ち悪いと思っていたし、電車妊婦が乗ってきたら譲らなきゃいけないみたいな風潮も意味がわからないと思っていた。なんで好きでセックスして妊娠した女に優しくしなきゃいけないの?サラリーマンの方が疲れてるよね?妊娠自己責任だよね?何弱者ぶってるの?と思っていたし、正直この考えは今でも変わらない。そんな子供妊婦嫌いの自分が、何が悲しくてこうして泣いているのか?駐在生活も辛いよね?社会の何の役にも立っていない自分に後ろめたさ感じていたよね?働いていない事を理由に、旦那にヘコヘコするの嫌だったよね?生きてる意味がわからず、なんならもう◯んじゃいたいくらいに思ってたよね?むしろ願ったり叶ったりじゃないか子供は無かった事になる。内臓破裂させて◯ぬ事も出来る。それなのに、何故私は泣いている?

術後、落ち着いた時に考えた。そして分かった事が2つ。まず、私は死ぬのが怖い。なんだかんだ怖い。2つめ、「子供を産めない自分が許せなかった」。大多数の女性が、皆がごく当たり前に出来る事が、自分に出来ないという事実を、受け入れられなかったのだ。

手術をして、退院した。街中で子連れ親子を見ると、羨ましくて涙が滲む。SNS妊娠報告・成長記録あいつらまじで◯ね。羨ま◯ね。子供が欲しいんじゃない。「子どもを産む能力を持っている事」が羨ましい。世の中の「子供が欲しい」と言ってる女性達の中にも、私と同じような考えの人が一定数は居るんじゃないかな?友人が皆子育てしているのに自分だけ居ないなんて、みたいな。働く女性が増えたとはいえ、27.8歳くらいまでに結婚しないとヤバイ・30前に子供産まないとヤバイ等、女は今でもそういう社会の目と、時間と戦っている。

今日、友人の妊娠出産報告を喜べない自分が居る。結婚する子にですら「どうせ私より先に簡単妊娠するんだろうなー」と思って、冷めた目で見てしまう。そんな自分が凄く嫌だ。

このまま妊娠出来なかったらどうしよう。旦那は「私ちゃんと2人で良いよ」と言ってくれているけど、信じられない。いつ離婚を言い渡されるか怯えている。とにかく自分が欠陥品だという事実を認めたくない。その為に子供が欲しい…でもそれは間違ってると気付いているので大丈夫。私みたいな人間は、子供を持っちゃいけないんだ。子供自己実現の道具ではない。本当は子供なんて欲しくない。私が欲しいのは、自分ポンコツじゃないという自信。それが何なのか、まだ私には分からない。

anond:20180428213654

うーむ。これはひどいと思う。他の増田意見ちょっと冷たいのが多いけど、俺は100%共感します。本当におつかれ様。とりあえず書かれていることを100%信じた上で書きますね。

さて、じゃあ自分だったらどうするか、なんだけど、実は俺も上司とのストレスでギックリ腰を患い正社員をやめた経験があるのだけれど、そこから20年たった今では、「最初の蔑みを受けた時点でキレる」が正解だとわかる。残念ながら、キレないと伝わらないヤツが、世の中にはいるっていうことなのですよね。

「はぁ!?先方が俺じゃだめと言ってきた、上司あんたを指名している、そのうえで相談しててその回答か!?あーいいぞ、これで失注したら、いいか「おまえのせい」だからな!全部記録は残してあるからな!」と。

上司にその経緯はつたえ、とりあえずは自分で処理する、失注しても上司のせいになる、というのが正解だった気がする。そこで、また上司が上上司と結託してそうだったら、もう辞める覚悟かな。クソな上司漏洩するコンプラ上司マネジメントできない無能上司、そんな管理層の企業にお先はないと思います

迷ったときは、第三者がその経緯を判断して、それじゃ仕方ないよねっていう状況になっているのであれば自信をもっていいです。ここは冷静になって状況判断必要です。

でもほんと、仕事って、何の仕事をするかよりも、誰とするか、がホント重要なんだよね。いい関係がチームのパフォーマンスに影響しそれが勝敗を決する、が現代ビジネスの鍵だと思ってます

俺もフリーでやって、会社経営もして、って経験してきたけど、業績ってほんと運とタイミングがかなりの割合しめるから現場のがんばりとか根性とかって、ほぼ関係ないんだと思ってる。だって、それに頼ってマネジメントしてたら、今は時間外労働ってことになって=ブラック、じゃん。

熱量時間外労働の多さ、でしょ。よく無能経営者や投資家熱量って言葉簡単に口にするけど、それって結局人生をかけてくれるかっていう、自主的時間外労働を越えて仕事できるか、ってことと思う。

でも、それはマネジメント的に言ったらアホだよ。ほんと。

ビジネス成功は、運とタイミングビジネスモデルと市場によるのよ。それを根性でどうにかなるってものももうない。

ほんと無能上司の下でご苦労されたと思うよ。お疲れ様です。

天網恢恢疎にして漏らさず。天はきっと見ているし、そしてもあなたももっと自分に正直に生きていいし、あなたらしい仕事の仕方をしていいし、それをもっと他人に伝えていい、大事にしているものはこれだって伝えて、でも今は命令に従いますけど、って。

退院したら、とりあえず故郷に帰って、癒やされてね。世界的なデザイナー川崎和男さんも帰郷して再起したって読んだことあるふるさとはすべてあなたを受け入れてくれると思うからおすすめです(いやな思い出があったら心のふるさとの地でいいと思う)。

復職や職探しはそれからでいいと思う。殺意を抱くほどのいやな体験は、良い体験で押し出すしかないのよ。本当に次は、稼ぎも大事かもしれないけれど、最優先は「居心地の良い職場」で探してください。もちろん自分もその職場の1人になるわけだからアサーション自分のことも伝えつつまわりとも協調する)も大事にしては欲しいですけど。

あなたの言っていることは間違っていないし、誰も傷つけていない。自信をもっていいです。立派だと思うよ。

ほどほどにがんばって。そして生きて。

迷ったら、親や愛する人を喜ばせる道を選べばいいと思うよ。

いまはゆっくりまれて下さい。

本当にお疲れ様でした。

この程度で済んで良かった

TOKIO山口メンバー

お酒で体調を崩し1ヶ月入院退院日当日に事件を起こしていたとのこと。

依存症と言う専門家もいますしこの事件が起きなかったとしてもいずれお酒によるトラブルは起きていたと思います

お金トラブル暴力もっと大きくなれば人の命に関わっていたかも。

被害に合われた方には申し訳ないですがこの程度で済んで良かったのかもしれません。

2018-04-28

シングルマザー山口達也さんとの共通点

数日もやもやしているのでここに書きます

山口達也さんのたいしたファンでもない私が記者会見情報を見て、一番「えぇー!」と思ったのは、山口さんが退院後、一人で荷物の片付けをしていたってこと。そうなの!? あんアイドルになってもそういうもんなの? 入退院なんて一大イベントじゃん? だれも心配になって来てくれないの? と心がざわざわした。アルコール依存のことも記者会見で何度も問われ、いろいろ書かれてるみたいだけど、それならなおさら、なんで誰も迎えに行かなかいか?って思った。

ちなみに私は山口さんと同じ歳、しか子ども高校生女子)。

子ども中心目線で考えれば、今回の件は、ちゃん拒否できてよかった、社会的対応されてよかった。同じようなことがあれば、私(親)もすぐ助けに行けるように、相談してもらえるように、しておこう、って思った。

でもそれを越えて、私自身が山口さんと同じ状況にあるじゃん、どうしたらいいの?って気持ちがある。

40歳を越えると、誰でもいいって訳にはいかなくなる。私は公務員なので、特に社会的問題になったときの、職場への影響を考えてしまう。その上で、

買春はまずい(いくら合法でも問題になる)

不倫は嫌だ(これは信条。お互いの子ものことを考えると説明できないし影響が大きすぎる)

身の回りで紹介してもらうと後がめんどくさい(元夫/妻への体裁もあるが、そもそも、どういうつもりで紹介してほしいか説明し難い。「彼氏」が欲しい…って、はあ?って感じだし。そういう風には思っていない)

こう書くと擁護してるように思われるかもだけどそうではない。言いたいのは、じゃあどうやって日常を乗り切れるパートナーをみつけられるのか、って部分。これが山口さん(バツイチアイドル)とシングルマザー共通してるっていう…すみません…そういう主張です。

山口さんの記者会見の中で、「彼女はいません」という発言めっちゃ違和感を感じた。

全貌をちゃん検証できてないのだけど、記者質問に応えた後、あっ、もしかしてこれ聞かれてる…?という雰囲気の中でのコメントだったと思う。違和感は、それが期待されているのかやっぱり…!?っていう部分。

知り合いのシングルマザーで、「彼氏」がいる人はけっこういるんだけど、そういう枠組みがもう嫌。子どもと同列じゃん?

もういい大人なんだし、彼氏、とかではないと思うんだよね。山口さんだって彼女」がいればどうかなったって訳じゃないよね、たぶん。

呼び方はもういいや。日本語で「彼氏」「彼女しかないなら、それでいくとして、

求めているものそれ自体も違う気がする(だからこの呼称が使えないと思っている訳なんだけど)。必要なのはセックスだけでは当然なくて、仕事への理解人生を支えること、(お金はそれぞれでどうにかする、というのを基本として>私の友人のシングルマザーは変な彼氏を養ってる人もいるので自戒)などを満たしてくれるかもしれない人と、どうやって出会えるのか、という点。

出会いすらない。というか、社会制度的に阻害されている。

もっと大人フランク出会える場とか、それが許容されるストーリー(それが当然だと社会的にも認められるようなシチュエーション)が必要だと思う。出会い系サイトとかホストクラブとかじゃなくて。

子ども高校大学生)は試行錯誤の期間だし、いろいろやってみたらいいと思う。

でも大人試行錯誤できない社会的制限がある。しかも、いま提供されている売春やらお見合いサイトやらでは、問題もある上、満足できないのは明らかだ。(だって人間関係の充実を求めているんだからね、基本的に。セックスももちろんしたいけどさ!それだけでは満足できないのはもう明らかだし)

ということで、知りたいのは、世のシングルマザーがどうやってパートナーをみつけれてるのかってこと。

ちなみに私はもう結婚入籍)する気はない。

知り合いには、シングルマザーになって、職場とかで相手みつけて再婚出産)ってケースはいくつかある。

もうでも私は産む気はないし、でもセックス含めて、よい関係相手をみつけたい(男性じゃなくてもいい)。でもそういう場は、日本にはないし、社会的制度的に性的関係から阻害されている気がする。社会の中で、そういうニーズをうまく位置づける仕組みなり物語なりが必要な状況だと思う。

2018-04-26

anond:20180426181146

酒で入院退院後その日のうちに一人で飲んで泥酔女子高生を呼び出した

って順番だよね?

これで女子高生山口が酒飲むのを止めるのは、超能力者でない限り無理じゃね?

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