はてなキーワード: 講師とは
人脈づくり
ですよ。興味のある分野の学問なら勝手にゼミにもぐり込んで講師と個人的に知り合いになったり、面白そうな学術イベントなら片っ端から頭を突っ込んで、同じような興味を持ってる学生を見つけて情報交換したり、知らない本とか良さげな学者とか教えてもらうと楽しいこともあるぞ
大学てのはあちこちの地方から人が来るし、学生の年齢幅も結構ある(地方大学でも、たとえば福岡市の大学なら九州全県から学生が集まる)。意識的に人脈を広げようとすれば、確実に地方高卒在住で人生終わる奴よりも広い世界が見られる。
それが直接役に立つかは知らん
ただ、1990年代当時の話だが、俺の場合はそうやって自分より学歴が高い友人を何人か作った結果、そのおこぼれ(人脈つながりの紹介)で、ド零細ながらも人文系でメシが食えるようになった
例の土俵上の救急活動の影響らしくいきなり職場で救急救命教室が開かれた。
だりーと思って参加したら、講師として来た人が予想外に若い(といってもアラサーくらい)の女だった。
その時点でなんかおかしいと思うべきだったんだろうけど、教室が始まって「はーい、それじゃあ人形ぉぉ、使ってぇ、心肺蘇生の練習ぅしますねぇぇ」みたいな作ったアニメ声みたいな、幼児向けTV番組みたいな進行を始めた。
うざーと思いつつ話を聞いていたが、周りは工場勤めのおっさんが大半なのでデレデレと実習を受けている。
ようやく終わったところで後片付けをしていたら、当然のように比較的若いイケメン気味のおっさんと連絡先交換してる。
なんかおかしいと思って講習会を呼びかけた上司に尋ねたところ「あれな、俺がよく行ってる飲み屋のねーちゃんなんだ。副業で水商売やってるんで大変そうだなってうちに講習会に来ないかって呼んだんだよ」とのこと。
美術系の授業がたくさんあり美大芸大からも多くの講師が来ていた
その中の1人がA先生だった
先生は歳の頃は30前後、スキンヘッドで身長180超えてて、スラリと細身で足も長くて顔立ちもはっきりして、見たことないような柄のシャツやネクタイとオシャレなスーツをばしっと着こなしてて、まるでモデルみたいだった
ただいわゆる「オネエ」言葉を使う人だった
美術系の私のクラスはほとんどが女生徒で、A先生はあっという間にクラスの人気者になった
作品講習では歯に衣着せぬ物言いでズバズバ言うにもかかわらず、「全然ダメ!何よこのデッサン!ここのパースが狂いまくってるじゃない!」みたいな調子でテレビから出てきたタレントのようで、けちょんけちょんに言われても皆んな嬉しそうにしてい
た
ある時、休み時間に日直の私が黒板に書き物をしていたら、教壇に立ってたA先生のところにクラスの女子が寄ってきて「先生!ちょっと聞きたいことがあるんですけど…」と切り出した
その子はいわゆる「腐女子」でBLもの同人誌を普段から描いている子だった
「なーに?」とA先生が聞くも、その子はモジモジしてなかなか質問を言わず、A先生が重ねて問うてやっと口に出した
詳細は忘れてしまったけど、それはあまりにもプライベートな、性的な質問だった
A先生が答える前に、私があんまりびっくりして動揺して、チョークがボキッと折れて床に落ちた
それで2人が私の方を振り向いたので、私は「躊躇ってた割に、すごい失礼なこと聞くんだね」と思わず言ってしまった
A先生はそれを聞いて手を叩いて大爆笑して、私の肩までバンバン叩きながら「ほんとそうよねー!!」と、私がひくくらい笑っていた
それからまた別の日、A先生が全校生徒の前で壇上に上がって話す機会があった
A先生がしゃべりだすと、他のクラスの生徒がザワザワし出すのが分かった
あちこちで笑ったり、驚くような声が上がった
先生は騒がれてもちっとも気にしない(ように見えた)で話し終えた
私たちのクラスの子たちが近寄って行って、「先生すごい騒がれてたよー!」「他のクラスの子から『あれってホンモノなの?』って聞かれた!」などと囃し立てられていた
先生は笑っていた
その子たちが行ってしまって、先生が後ろを歩いていた私に気づいて、「なにが『ホンモノ』なんだか。ほっとけって言うのよ、ねえ?」と口を歪めた
私はこうしたことから、A先生は当たり前だけどタレントさんじゃなくて、普段笑って上手に冗談にして返してるけど、本当は本当はセクシャリティのことを話題に騒がれるのは嫌なんだと気付かされた
一度気づくと先生には毎日のように性的なからかいが投げかけられていた
担任から「お前、かわいい男子生徒を見つけても手を出すなよ」と言われてクラスが爆笑したり、
学年主任の先生もみんなの前で「俺はその気はないからな」とか言って笑いを取っていた
尊敬していた別の講師が、「オネエ言葉なのに女の格好はしないの?」とニヤニヤ聞いてたのを見たときは、私がなんだかシュンとしてしまった
正直、私だって前はなんとも思わなかったでも先生は本当は嫌なのかもと気づいてからは、先生へのそういった性的なからかいが、ヒリヒリして聞こえてきて辛かった
他人の私が、またかーってウンザリするくらいだから、先生はこういう毎日をずーっとずーっと過ごしてて、怒ったりするのもとっくに諦めてるのかな、と思ったりした
だって女の先生にそういうこと聞いたらセクハラになるんじゃないの?A先生だとオールオッケーなの?
しかし私はおとなしく目立たない地味な、勇気も何もない生徒だったから、幼い義憤をかきたてられても何もできなかった
今思えばA先生はオネエ言葉ではあったけれど男の格好をするのが好きといってた
当たり前みたいに先生を「同性愛者」として見ていたけれど、今思えば、恋愛対象が女か男かも、性自認が女か男かもわからない。しかし、一番大事なのは、そんなこと知る必要もないってことだった
大人になって大学、社会に出てからも、美術系にはいわゆるカミングアウトした性的少数者が何人もいた
もちろん誰も表立って迫害したりはしないし、ふつうに仲良く過ごす
でも、悪意のない冗談めいた性的なからかいはしょっちゅう耳にした
その度にA先生を思い出した
誰もA先生を嫌いじゃなかった
みんなA先生が好きで、仲良くなりたがってた
それでも善意で、悪気なく、誰かを傷つけるかもしれないんだなと分かった
大人になって、社会でいわゆるセクハラのような扱いを受けたことが何度かあった
そのたびA先生をまた思い出した
先生、私も笑って受け流してるよ。だって相手に悪意がないのに戦っても仕方ないし良いこともないし そんな深刻な被害でもないからノリのいい女でいた方が生きやすいし
でも先生、なんかこれ削られるね
笑って流して大したことないって顔してるだけで、ちょっとずつ自分が削れていくもんなんだね
私もきっと知らずに誰かを削ってるんだね
まあ私はA先生じゃないからA先生のことが分かるわけでも代弁できるわけでもないんだけどね
今も忘れられないの
就職した会社は若干体育会系の空気があるがそれなりに楽しくやっている。
社訓を暗記させられたリはするもののめちゃくちゃ厳しいわけでもなく、楽しい部分も為になる部分も多い。
意味のない大声での絶叫、挨拶、返事の練習。生まれ変わる宣言。
”仕事10則”。まだいい。けどそれって120秒以内に大声で絶叫しないとダメな内容なのか?
みんな頑張ってるんだからさ、声が出ないなら出ないなりに泣いたり真っ赤になって叫んだり喉枯らしたりしろよ、っていうけどさ。
本当に必要か?キビキビとした動きで、って軍隊じゃないんだぞ。サービス業だぞ。
やっとの思いの昼食は講師と談笑しながら和やかに、って正気か?お前がいるから和やかにできないんだよ。
去年は山の麓で2泊3日、終わらないと帰れなかったとか。
時代にそぐわないにも程がないか?本当に必要か?顧客はそんなものを社員に求めているのか?
会社は高い金を出してこの研修をしているんだぞ!と言うけどだからどうしたという気持ちしかない。
高い金を出して取り寄せた海外のジビエなら有難がって食うのか?俺は食わないね。
検索したら去年研修内で人の過去のトラウマ掘り返して自殺者出して訴えられてるし。
始めに受けた説明で 録音・録画禁止 と言われたが当たり前だよな。訴えられたら困るもんな。
次の研修では絶対に録音してやる。この為にボイレコまで買ったからな。
いい加減にしろよビジネスグランドワークス。管理者養成学校みたいなのは昔の世代の人間だけでやってろ。ブラック研修で訴えられちまえ。
紙の辞書のほうが調べる途中で他の単語も目に入るしで、探している単語以外にも覚えるから、とかいう理由で。
別の日にわざわざ紙の辞書を使っているというどっかの大学の教授についての新聞記事の切り抜きを持ってきてまで力説してた。
それから10年たった今あの先生はどうしているのかと思い出す。
英語はもとより知らない言葉も百科事典使ってるのだろうか。Wikipedia,Google翻訳など使わずに紙の辞書をせっせとひいては付箋を貼るみたいなことをやってるのだろうか。もしまだ紙の辞書を使っていたら(紙の辞書を使おうとは一ミリも思わないが)その信念に敬服するし、やってなかったら土下座して靴裏舐めて欲しい。
浪人時代は予備校に通っていたが、そこでは紙か電子かなどという講師はいなかったし、使っていた電子辞書は理科や物理についても網羅されていたので、とても重宝していたのは覚えている。
今だともうスマホで調べればOKになっていると思うけど、実際学校の現場だとどうなんだろ。まだ紙の辞書使ってるところとかあるのかな
私は新入社員だった。
なんでこれをやらないといけないかよく分からず、大声を出したり、挨拶の練習をしたりしていた。
自分はなんでマナー研修をやってるのかという部分がいまいち理解できていない、という話をした。
講師の回答は、とりあえずやってみよう、だったように記憶している。
帰り際に君はマナーは何だと思うかと聞かれた。
講師は君が会社でうまくやっていくために学んでほしいと言った。
噂によると、今年の新人は講師にマークされていたらしく、おそらく私の発言が原因らしい。
当時の自分はマナー研修の意味を考えることで、マナーに対する深い考えや主体性を持てると考えていた。
感情的には、心身ともに疲れるマナー研修を受けるに納得できる理由、心を動かされる理由が欲しかったのだと思う。
とは言えマナー研修をやる意味は、会社でうまくやるため、以外に特にない気がする。
でもそれ以上の回答があるなら聞きたかったなと思う。
前川喜平氏による講演会の告知チラシ(左が北九州市分、右が山口県下関市分)
https://www.nishinippon.co.jp/import/national/20180407/201804070004_000.jpg
山口県下関市で14日に開かれる前川喜平・前文部科学事務次官の教育関連の講演会を巡り、下関市教育委員会が主催団体からの後援依頼を断っていたことが分かった。一方、同じ趣旨で同日に開かれる北九州市での前川氏講演会については、北九州市教委が後援を決定。自治体によって判断が分かれた。下関市は安倍晋三首相や林芳正文科相の地元。前川氏は政権に批判的な発言をしており、識者から「何らかの忖度(そんたく)が働いたのでは」との指摘が出ている。
両市の講演会はいずれも地元の市民団体が主催。教育格差や子どもの貧困問題をテーマに、前川氏と元文科省官僚の寺脇研氏が講師を務める。
下関市教委は主催団体に対し、2月26日付で「国会でも発言の真偽が議論されている前川氏を、市教委が応援、支持していると捉えられかねない」などとして後援しない旨を通知した。市教委によると、後援については営利目的や、特定の政治、宗教を宣伝する内容ではないといった基準がある。今回は「その他後援を行うことが不適当と認められるもの」という項目に該当すると判断したという。
市教委への後援依頼は昨年度278件あり、断ったのは今回を含め2件。担当者は「政治的な配慮はしていない」と説明した。
一方、北九州市教委は3月29日に後援を決定。下関市と同様の基準があるが、問題ないと判断した。北九州市教委幹部は「市民が自主的に企画する社会教育活動の一環であり、拒否する理由はない」と語る。
前川氏の教育に関する講演会は昨年12月に愛知県西尾市で、今年2月に北海道旭川市でも開かれたが、それぞれの地元市教委は「政治的なものではない」として後援を認めている。
今月15日に前川氏の講演会を開く広島県尾道市の市民団体は「自治体は政府の顔色をうかがっているように見える。政治的に偏向しているとみなされ、後援されない」と考え、後援依頼自体を控えたという。
前川氏を巡っては、名古屋市の市立中学での同氏の講演内容について、文科省が市教委に報告を求めたことが明らかになっている。
尾木直樹法政大特任教授(臨床教育学)の話 下関市は安倍首相の地元でもあり、市議などから文句が出て市政を混乱させたくない、との政治的配慮があったのだろう。主催者が後援依頼を自ら控えたというケースは逆忖度とも言え、市民が行政に期待できないとなれば民主主義の死滅につながる。
■幅広い議論の場を
施光恒(せ・てるひさ)九州大准教授(政治学)の話 元文科省官僚の立場から教育問題を論じるというケースであり、認めるべきだった。政治的な中立とは政権を支持する、支持しない両側の考えを、できるだけ幅広く聞いて議論できる環境を整えることではないか。極端な内容を除き、行政は広く後援などを認めるべきだ。
タイトルのとおり。
3月30日で現任校の任期が切れて、4月2日付で80キロ以上離れた県立高校に異動することになった。
20日に教育関係の人事異動が発表されて、校内は歓喜の声や悲鳴で賑わった。
その後、学校間や教育委員会とのやりとりが行われ、「○○(教科)の先生が足りない」となり、自分たちのような非正規教員(臨時登用名簿に載っている者)に連絡が来る。
(生徒指導部長、進路部長といった分掌長を担当する場合、その先生の担当コマ数は軽減されるので、先生の人数は定数でもコマ数が足りなくなるという現象が起きる)
ちなみに、去年は3月28日に連絡が来たので、今回はかなり早いということになる。
断れるはずがない。
この県で教員採用試験を受け続ける自分のような者が、県からの内示を蹴るはずがないのだ。
今年35歳を迎えた男、独身。
「来年こそは!」と共に対策を練った仲間は、正規になったか、疲れて別の道に進んだか、自分のように毎年学校を転々としながら講師を続けているか、だ。
臨時教員の異動について連絡が来たあと、事務職員に呼ばれ、「月末で健康保険証を返却してください、翌月支給の手当があるので口座はそのままにしておいてください、任期が半年を超えた人には退職手当相当金が支給されるので別途書類を渡します」などと指示を受けた。
「今年新卒なんですよ」と言っていた若い彼女は、自分の仕事のある種の残酷さに気づいているだろうか、などと思った。
どんなに遠方に異動することになっても、正規の教員のように引越し代や赴任手当が支給されることはない。
4月2日からの任用ということになっているので、4月分の通勤手当は支給されない。
4月1日に最初の大事な職員会が開かれるらしいので、暗黙の了解で参加する。
任用があるだけマシだとは思う。
臨時教員とはいえそれなりに給料はあるので、任用がなかった年は住民税や国保の支払いにえらく苦しんだ。
いつまで続けるのだろう。
考えかけては、気を逸らしている。
自分の教え子に「体育の先生になりたい」「教育学部のある大学に行く」などと言われて、「先生はいい仕事だ!頑張れ!」と素直に言えなくなって何年が経つだろうか。
前回の社長は良かった。サイコパスだけど考え方に同意ができた。決断も早いし行動力もあった。
性格は見た目に出るという自分の中のヤバいやつルールにスマッシュヒットだ。
大企業の部長になれるスキルはあるのだ。それは自分の感想でしかない。
今の社長が着任してまずやった事は1クォータかけて社員全員の面談だった。
この時点でヤバさが増した。100名程度のたかがグループ企業の社員に3か月も経営そっちのけで面談を優先するなんて、ちょっと想像の範囲を超えていた。
しばらくすると若い女性社員とキャッキャしだした。あたまポンポンとかセクハラになりますよ。社長。
そうこうしていると、現管理職向けに研修をしだした。外で講師をしていると自信満々だった。
だがその内容は、市販本を劣化コピーしただけの資料で、講義もただの読み上げだった。
いや読み聞かせてくれたのだろうか。こんな内容で講師をしているのかと背筋が凍った。
一点試しに質問したら、しどろもどろな挙句、最後にはみんなでがんばろうと締めくくられた。
そんなに社長業はヒマじゃないはずだ。口だけだされた現場は、混乱や責任転嫁が横行しはじめ、明らかに効率がおちた。
本社への報告資料が増え、本社の意向に沿ったルールが執行されだした。予定外のビジネスプロセス変更が発生した。
改修ではない。ただのやらなくても良い今の社長が本社からほめてもらえるだけの変更だ。
いや、まだわからない。ひょっとして彼のスーパーメソッドに我々下々の思考が追い付いていないだけなのかもしれない。
業績報告では、彼が本部長である部署のに売り上げが未達なことを、誰に対して叱咤激励しているのか意味不明だった。
みんなが「すごいブーメラン...」と感じていないか少し心が痛んだ。
最近いろんなところで、彼のいろんな噂を聞くようになった。
とにかく二人で話合いになると、その場にいない第三者の陰口を切り出すらしいのだ。
A君がこう言っている。でも口だけだ。数年待ったが効果がない。きみはどう思う。
A君とは私が直属する本部長だ。
「そういう話なら、Aさんと面談すべきでは?Aさんのプランについて、現場としての私の意見を求めるなら3人でミーティングしたほうがコストが低いですよ」
呼びましょうと席を立とうとすると
「いや。自分のほうで調整しますよ。」ありがとうございました、と急に話が終わった。
あまりコロコロ変わられても対面的によろしくないが、こちらとしては傷が修復可能なうちにさっさと変わってほしい。
バレる暗躍とかする社長は、ものすごくかっこ悪いので一緒に仕事をしたくない。
マウントとか無理にとろうとする姿も見てて辛い。
文部科学省の前川喜平前事務次官が名古屋市立中に講師として招かれた際の授業内容や録音について、同省が市教育委員会に報告を要請していたことが15日、分かった。文科省は「問題ない」としているが、国が個別の授業に絡み、講師の言動に関わる内容を細かく調べるのは異例で、批判の声も上がりそうだ。
文科省や市教委によると、2月に前川氏がこの中学の校長に招かれ、総合学習の時間の講師として全校生徒や地元住民らに授業をした。内容は生き方やキャリア教育、夜間学校についてだったという。毎日新聞2018年3月15日 21時41分
・「あたしおかあさんだから」問題→勝ち:のぶみ・だいすけおにいさん謝罪、楽曲配信停止
・スリーパーセル問題→負け;三浦講師謝罪せず、ワイドナショー・講師職続投
・女性専用車両問題→負け;乗車を繰り返す男性団体を阻止できず
・チンギスハン落書き問題→勝ち:漫画家・小学館謝罪、コロコロコミック3月号発売中止・回収
3月中旬時点でそれなりに謝罪と中止を引き出せてる感じなので、過去数年間と比べると勝率がそこそこ高いのではないかと思う。
そして今一番重要なのが森友問題で、これは本当に総力戦の中の総力戦。
ここで勝って安倍退陣を引き出すことができれば、今年起こるであろう残りのCM、歌、ご当地キャラ等々の戦いでは全敗してもお釣りが来るレベル。
いや、向こう数年間は誇れる戦績となると思う。
学生時代バイトで個人指導の塾講師をやっていて、座ってられない&話が聞けない中2とか、アルファベットのaとdとbの区別が付いてなくてbog とかdopple とか平気で書いちゃう中3とかを担当していた。
そういうレベルの子供でも、ちょっとした一言というかきっかけが見つかれば変わるし、偏差値27から50超のだいたい普通レベルまでもってくことは、片手間の個人指導の大学生バイトでも割と難しくなかった。
逆に私にとっては、普通の子を出来る子にする方が簡単じゃなかった。本人に勉強への自発的意欲があって家庭の協力があれば偏差値60超くらいまではいけたけど、そこから先は元々の素養がないとダメかなぁという感じだった。個人的な体感だと65を超えるのは元々の素養が大きく左右するなぁと思っていた。
アホの子を普通の子にする役目は、他のバイト講師仲間の誰もがやりたがらなかった。私はアホだったからそっちのが性に合ってたのもあるが、アホの子を普通に近づけていくことで、どんどん目に見えて変わっていくのがすごく楽しかった。こういう言い方はあまり正しさがないとは思うのだが、アホを普通にする方が、普通を出来るにするよりも賞賛されやすかったし、本人からも周囲からも感謝されやすかった。労力に比して賞賛や感謝が多いバイトだなーとあまり倫理的でないことを考えていたし時給の昇給も早かった笑
アホの子へは、勉強の理解を促すための教え方とか理解させ方以前に、取り払ってやらなくてはダメなことがある。
彼らは、勉強=キライ、怒られる、自分が惨めになるだけ、といった思い込みがある場合が多い。どうせ分からないのだから頑張るのは無駄、と思うらしい。で、Togetterでまとめられてた子のように無意識にアパシー状態になる子が多かった。
なので、まずは、間違ってくれないと先生が困る、と言うようにした。
あなたが間違ってくれないとどこが分かっていないのか先生が探せないから、間違ってくれないと困っちゃうんだよー、と言う。でなぜその間違いをしたのかを、問い詰めるのではなく一緒に探していこー!というスタンスで接していた。
なんで間違ったの?と聞くのは子供たちにとっては死刑宣告に聞こえるようだった。この人も結局私を救ってくれる人ではない、と思われ閉じられてしまう。実際に最初の頃に担当した子供の中にはそうやって閉じられてしまった子もいた。
よく考えたら、間違ったところや間違った理由が自力で分かったらアホじゃないし人の手助けはいらないはずだ。アホの子だって一丁前の中学生なのだから、できることなら同級生や女子大生()の塾講師にアホを晒したりしないでカッコつけたいはずだし、自分で分かることができるようになりたいはずだ。
aとdとbの区別が付かなかった中3には、なぜこの3つがごっちゃになるのかを見つけてやった。まぁ簡単なことで形が似てるからなのだが、彼は自分が混在させてしまうアルファベット同士の形が似てることすら気づいていなかった。
aはアタマが短いけどdはアタマが飛び出してるかごっちゃになるんだよ!だから書く時にアタマ飛び出すか飛び出さないかに注意すればいいよー、と言っただけなのだが、次の週にはbとd問題も勝手にクリアしていて、普通に綴り間違えなくなったし音読もできるようになっていた。
さすがにこの時は、私サリバン先生かよ!と図に乗ったが、26文字中のそれも比較的頻用するアルファベット3つが見分けられないまま放置されてりゃ勉強嫌いになるよなぁとかわいそうにも思った。もっと早く誰か気づいてやれなかったのかよーオトナー。
一次方程式で硬直する別の子は、単にxとか英語が突然出てきた!ずるい!と思考停止してただけだった。便宜上の記号だから怖がらなくてもいいと理解できた後は数学だけじゃなくて英語の成績も人並みになったし、英語の成績が良くなったら国語と社会も急に頭に入るようになったと言っていた。
びっくりするレベルで出来ない子は、こちらが想像できない些細なところで驚くほど繊細につまづいているケースが多かった。だから学校の先生から見落とされ続けてたか、対応しきれなかったんだろう。あと、そういう子は大抵、家の環境はあまり良くない傾向は確かにあった。貧困家庭、片親、離婚再婚で家にいづらいとか。
そういう子が、アホの子から普通になることのインパクトは大きい。劣等感と、どうせここから抜け出せないという無力感と共に生きてきた子にとって、普通になるということは、普通の将来を考えられるようになるということだ。アホ高じゃなくて普通の高校行ける、普通の高校行ければまともな就職もできるんじゃないか?という希望だ。
私が面倒見たアホの子たちは2年間で6人いたが、高校行けないかもしれないところから普通レベルの公立普通科や商業科に進めて、それぞれ今は会社員などをやっているらしい。地元だから生徒のお母さんに会ったりして近況を聞けたのだ。
adbの区別の付かなかった中3は、なんとホテル系の専門学校に進んで大手のホテルチェーンでフロントをやってるらしい。立派になって先生は嬉しいよ
愚痴を書かせてください。
私は、彼と同じ学術分野(文系)のQ教授の過去の研究内容に疑義があり、それを指摘するために本講座に参加している。
最近わかってきたのは、Q教授の研究はまさに先行研究だということ。彼らは先行研究だったのに押さえてなかった。つまり、タコツボだった……。
文科省の審議会の人文学・社会科学振興に関する平成21年の報告書を読んだのですが、
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/toushin/1246351.htm
基本的にこの頃から問題の性質は変わっていません。十年ぐらい叱られているのに、それでも克服できない。
昔の学者ってどうだったのかなと思って、マックス・ウェーバー『職業としての学問』を読んでみたのですが、当時のドイツの大学では、私講師という資格だけが与えられ、何を教えてもよく、給料は受講生からの授業料の上がりだけ、つまり出来高制だったみたいです。しかし医学や自然科学系の研究に巨額の資金が必要となり、アメリカでは研究者という仕事が月給制になった。ドイツでもアメリカナイズが進んでいるとウェーバーは書いている。ドイツ式だと市場原理が働くので、実力不足の学者は淘汰される。一方、アメリカ式だと雇用が保護されるので、官僚主義がはびこる。
日本で大学が設立された頃の事情ですが、福沢諭吉あたりが大学を創設した後、その後に官立大学を作ったみたい。2011年の東日本大震災で原発御用学者が社会的に批判を受け、国立大学法人改革で彼らは国家公務員ではなくなった。
いままで国は学者個人の自主性・自律性を尊重するとか言って、お金は出すけど口は出さなかった。しかし厚遇しすぎて、仕事をえり好みする人ができあがった。果たして障害者にフッサールを教えることが正しいのか? 私は、彼らがずっとサボタージュしてきたQ教授の過去の研究の批判という仕事の督促のためにやって来たのですが、彼らは、どうしてもフッサールを障害者に教えたいらしい。Q教授の批判という仕事は絶対にやりたくない。病人の私に押しつけたいそうです。病人の私がいまやらないといけないのは自分の病気を治すこと(自己保健義務)です。早く元気になって、勤労と納税の義務を果たすことです。Q教授の批判なんて、病気に障るからできるだけやりたくないのだが。
国が税金で複数の学者を雇っているのは、お互いをチェックさせるためなのですが、彼らはタコツボという自分たちの宿痾を克服したくない。どうしても大好きな哲学学を障害者に教える仕事だけをやりたい。私はいまQ教授が20年前に書いた悪書を読んで、問題点を洗い出す作業をしている状態です。泣きたいですよ。
文系って理屈っぽい。「理論上はこの結果がでるはず」と自説にこだわって、ありのままの事実を認められない。理想主義者なんですけど、理想論を学生にも吹き込む。そうするとモンスター障害者、モンスター高齢者ができる。大学教員もモンスター化しているともいえます。
東京周辺に在住している高齢障害者が熊谷さんの講義を何回も聞いている一方で、沖縄の子どもの貧困率は29.9%です。
いま医療費が年1兆円ベースで急増している。とても国民全員に熊谷さんの講義を何度も聞かせられる財政状況ではない。税金で喰っている哲学者と税金で喰っている障害者が学校を開いたら、そりゃあ「学ぶことはすばらしい」という結論になるでしょう。その学費を稼ぎだしているのは誰? 受講生は病人だから知らなくてもいいと思うけど、プロである学者がそんなことさえわからないとしたら、職業としてもう終わりだと思う。一度、マックス・ウェーバーの時代に戻すべきでしょう。
いまの文系の振興策、例えばこんな研究に三年間で一千万ぐらい使われちゃってるんですけど、
https://www.jsps.go.jp/jissyakai/data/saitaku/h25_houkoku/hamauzu.pdf
こういう税金の使い方、本当にいいのかな。
東京藝術大学の学生生活は本当に病むから気をつけた方がいいを読んで思うところがあったので書きます。
百数十万人の同い年に生まれた子供のうち、3000人くらいしか入れない大学です。
そこに入るには、日本でトップクラスの学力を要するといわれています。
芸術よりも、お勉強の道を選ぶ人は多いので、まあ、入学するには最難関の大学の一つですね。
東大に入ると、せっかく東大に入ったのに自信がなくなるのは、当たり前です。
なんせ、駿台模試とか東大オープンとかで、自分の点数(440点満点で220点くらい)から見ると理解困難な点数(330点とか)を取っていた秀才がリアルに目の前にいるのです。
人の学力をけなすような低劣な人格だったらまだ溜飲が下がるってもんですが、そういうのに限っていいやつなんだな。
そういう秀才を目の前にして、ひがんで屈折してしまう自分の、人格的な弱さと、その根底にある学力の弱さに涙した東大一年生は何百人もいるはずです。
誰もそんな恥ずかしいことは口にしませんが、そうやって自分のせいで人間不信になって、大学に来れなくなったり第二外国語をさぼって放校になる駒場生は何十人もいます。
それでも、学力という、偏差値という唯一の物差しを信じて人生18年生きてきた東大生は、病むほどに勉強します。
だって進振りがあるんだもん。教養の平均点を偏差値に置き換え、平均点の優劣で人生が決まると思って勉強します。
病むほどに点数は上がります。病むほど勉強しないと、同級生の秀才たちには太刀打ちできないのです。
東北の某県で無敵を知られた秀才君も、九州で男子を蹴散らし英語無敵を謳われた彼女も、ここではただの一東大生。
そんなレベルは、男女御三家(武蔵を除く)やツッコマには掃いて捨てるほどいるのです。
田舎から出てきた東大生は、東京というものに強い憧れを抱いていたんですね。
クリームがいっぱいに乗ったパンケーキ、お洒落なブティックとかドラマで見る東京の恋愛に、ただ漠然といいなぁ素敵だなぁと胸にトキメキを馳せておりました。
実験し大教室に通う毎日と、倒しても倒しても出てくる自分より賢い同級生の前にひれ伏す毎日を過ごします。
東京という街は、そういうところなんですよね。
実際、東京大学に対しても大きな憧れを抱いていました。その理由はやはり「日本トップの国立大学だから」というのがあったと思います
そういう理由で大学にきてしまったので、憧れの理想と現実の差に心を痛めました。
日本トップの授業があるわけでは無いし、合格したからと言って自分の学力が日本のトップになるわけでは無かったからです。
大切なのは、自分が将来何になりたいかであって、東大は通過点でしかないということを身にしみて感じています。
この年になるといろいろなものを見てきました。
キラキラしていた秀才が、国家公務員試験を上位で合格し、某省で組織防衛に身も心もさいなまれ、書類の書き換えの何が悪いと言い放つ姿も。
誰もがかなわないと思った研究者が、研究に疲れ果てたタイミングで引っ掛かった男に身も心も搾取され、売春でその彼に貢ぐようになってしまった姿も。
勉強ができたから、当然のように理学部物理学科に進学しあるいは司法試験に受かったのに、それらの職が本来求める対人調整能力がなかったがゆえに、人生で唯一得意な受験勉強で食ってくために予備校講師になった姿も。
18歳の時に知り合ったキラキラした秀才が、そういう風にして、堕ちていく姿をたくさん見てきた。
きっと彼らも、キラキラして見えたけど、東大にいた四年間に何か病むことがあって、そうして社会に出たときに、単に幸せを追求することができなくて、不幸せになっていったんだと思う。
上には上がいる。
そして、一つの物差しで「上」を計ろうと思うと、全体として自分が如何にあれば幸せになれたのかということが分からなくなってしまうのだと思う。
勉強が出来過ぎたがゆえに、勉強の物差しで人生は幸せになれると思い込まされる。
そして、自分より勉強ができる数多の秀才に出会ったが故に、もっと上に行きたくて勉強して、結果、勉強への過剰適応で世の中に適応できない若者を量産する。
それが東大。
私の涙腺は馬鹿なようだ。
「泣くのは恥ずかしい」という意識が常にあった。
高校生まで泣かなかった。
高校生になり、初めて泣いた。
問題児(女の子)と1対1での話し合いの際、学校の廊下で話したのだけれど
彼女は腕をくんで壁側に立ち、私が廊下の真ん中に立つようになっていた。
「何故、私がいじめられているような構図なの?」とか色々思うところがあり、
その場は言いたいことを言って、後で友達の所に戻り泣いた。
悔し泣きだった。
教授に「これはどういう意味なの?」とかその他根掘り葉掘り聞かれ
「これもできないんじゃダメだよ」という優しい言葉だったのに泣いてしまった。
やはり、悔しいからだった。
社会人になってすぐに泣いた。
二人きりになったときに
「感情が振り切れると泣いちゃうんです。 泣きたくないので我慢するんですけど、
どうしても勝手に涙がポロポロ出てきちゃって…」という話をしながら泣いた。
悔しいとかじゃなく、上手く伝えられるかとか恥ずかしいとか色んな気持ちがごっちゃになって泣いた。
私やってないのに責任押し付けられて怒られたから、即座にトイレに逃げ込んで泣いた。
悔しくてこらえているのに、涙は溢れるからたまったもんじゃなかった。
そもそも、12月とか10月とか時期関わらず
歩いているだけで涙がこぼれることもある。
私の涙腺は既に壊れてしまっているらしい。
大学一回生の時に受けたジェンダー論の授業の導入で講師が「フェミニズムってブスの僻みではと思う人もいるかもしれない」と言った。
恐らく、フェミニズムと容姿というのは切っても切れないものなのだろう。
2019新卒の就活界隈を漂って思うのは女性と男性の格差よりも容姿の格差なのではないかということだ。
説明会で見てくれの良い女と悪い女が並んでいるのを見ると、強烈な格差を感じざる得ない。
男性目線の何とかと誤魔化すのか。それでは言い訳できそうにない、見てくれの良い女からの自信ありげな雰囲気などはどう説明するのか。
一見、女性に働きやすい職場というのがあるとアピールする企業は沢山ある。
かつてあった男女格差は「多様な働き方」という企業側の賃下げの道具により解消に向かいつつありそうだ。
しかし、労働はコミュニケーションやら自律性とかいうカスみたいなマネジメントの考えが基本となりつつある。
そして、それは容姿が大切になってくる。
容姿が醜いゆえに疑い深い自分は男女格差を賃下げで解消して、容姿格差は隠蔽するのが企業側のやり方だと疑っている。
そんな給料が下がり、コミュニケーションが大切とされる時代に容姿が良いということはとんでもないアドバンテージだ。
ひどいニキビ跡が大量にへばりついている自分は格差を感じざる得ない。
よく、ネットでフェミニズムにハマっている人を見るとモテるアピールをしていたりする。
自分は恋愛市場において、不必要なものではないというアピールであり、顔は悪くないとでも言いたげだ。
また、アメリカの女優もフェミニストに賛同しているとかいう発言もある。
本心で言っていたとしても、容姿が悪い人間のフェミニズムとは違うのではないか。
見てくれの良い人間のフェミニズムというのは、自分が性的魅力で得て来たものを実力としたい願望や利権を守りたいということだろう。
見てくれの悪い人間にとってみたら、縋るものであり、権利を拡大させるという夢になっている。
容姿が悪い人間だけだと、悲壮感しかないゆえに一部分において利害が一致する容姿が良い人間と共に行動するということになっていそうだ。
結束しているようで、何か容姿の格差故の断絶があるのではないか。
大学での女のグループが容姿格差で出来ていると発見して以来、そう考えている。
正直、変に男性だ女性だと揉めるよりは容姿の格差を考えた方がいい気がするものだ。
追記
容姿が悪いから就職活動が大変と言うと、自己啓発的なことを言われることが多い。
気の持ちようで見てくれはやっぱりよくならないし、グロテスクなくらいニキビ跡があり肌の汚い自分には清潔感などもっとも遠い。
服装とかいうが、スーツを着てみたら顔の大きさゆえに貧相というのか気味悪く見える。
ない袖はふれないというか、そんなもので変わりようはないのだ。
今まで、説明会も4つくらい程度の法人しか行っていないが何事もビジネスやら投資に結びようとする意識高い話にうんざりしてしまった。
父親が、まぁうまくやっている経営者だが胡散臭くしか聞こえてこない。
あるよく知っている組織に所属する社会人のツイッターを見るとビジネス系の意識高い系の話しかしない。
目の前の政治(裁量労働制やら高度プロフェショナル)を無視しているのに呆れてしまう。
労働者が労働を気にしないで、シリコンバレーばかり見てどうするのか。
自分は、そんな自己啓発というのかビジネスメソッド的な世界と相性が悪い。
それよりも単純にマトモな容姿が欲しい。まぁ、そうなると整形とかも考えた方がいいのだろう。
金銭的問題は解決している。二ヶ月間苦労して投資で稼いだ40万に、親からもらった種銭1500万でどうにかなるだろう。
しかし持病ゆえに断られる可能性があって怖くていけいないのと、自分の容姿がマトモにならないかもしれないので整形には手を出せない。
「学校教育法(昭和22年法律第26号)に規定する大学における教授研究の業務(主として研究に従事するものに限る。)」
学校教育法にはこう書いてあるのね。↓
大学には、学長、教授、准教授、助教、助手及び事務職員を置かなければならない。ただし、教育研究上の組織編制として適切と認められる場合には、准教授、助教又は助手を置かないことができる。
6 教授は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の特に優れた知識、能力及び実績を有する者であつて、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。
7 准教授は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の優れた知識、能力及び実績を有する者であつて、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。
8 助教は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の知識及び能力を有する者であつて、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。
9 助手は、その所属する組織における教育研究の円滑な実施に必要な業務に従事する。
「学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。」この部分の解釈が重要なのかなあ、と思った。
「学生を教授し、その研究を指導し」、又は「研究に従事する。」と読むべきだと思うのだけど、そうなると大学生の教育に関わる教員は裁量労働の適用外となるのでは?
小学校だと難しいかもしれないけど、中学校からは授業は基本授業動画を各自で見るようにしたら良いんじゃない?東進ハイスクールとかのカリスマ講師みたいな人に国が高給払って子供達が全員見られた方が絶対良いじゃん(完全に民業圧迫だけど今はそこは置いといて)。教師って当たり外れ激しくてダメな教師だとそのせいでその教科ごと嫌いになったりするじゃん。講師は複数いて生徒が好きな講師を選べるようにしてさ。
で、教師は自分で授業はしない代わりに生徒の質問に個別に対応したり、課題の答え合わせをしたりするの。生徒の理解度によって見るべき動画のアドバイスをしたり。理科だったら実験する必要があるし、英語だったら英会話とか、とにかく座学以外のところを担当する。
私の高校の時の世界史の先生だけど、授業はとにかく黒板の隅から隅まで板書きをしながら説明して、生徒は無言でノートに書き写すだけって人がいた。この先生は一体毎日何回毎年何回同じこと繰り返してんだろって思った。こんなもん録画してあと再放送したって一緒じゃんって。それだったらもっと分かりやすくて面白い授業を見れた方がいいじゃんって思ったのが、この考えのきっかけ。先生たちの忙しさも軽減できるだろうし。