はてなキーワード: 享楽とは
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
東浩紀が指摘しているようサピエンス全史やホモデウスで言われれいる諸々の問題を人類は解決したと思いこんでた
映画、アベンジャーズエンドゲームでは何か問題があってもグローバリズムでなんとかなるみたいな文脈は数年で過ぎ去った
でもでも間違いなく彼らの本心はずれていてそれがSNSで分解されてしまっている
それだけでない、親の世代と違って死ぬ可能性、底辺に落ちる可能性が増えた
だけど今とこれからを大切にして生きていきたい
でも少なくとも帰り道を少し変えてみるだけでもちがうんじゃないかなと
自分人身にいい気聞かせている、楽しく生きようって
終わりは思ったタイミングでは多分起きない
「命は大事にしろ」系の理屈にあまり納得が行っていない。自分たちが普段さんざん生き物を殺して糧にし、お金で救える命を救うよりも自分の享楽を優先していることから目を背けていると感じる。草刈りヤギレンタルは良いのになんで猫のレンタルになっただけでこうも騒ぎ出すのか。猫は環境変化に弱いからみたいな理由があれば一応納得できるが感情で物を言う人間が多いように感じる。
飼い主が最後まで責任を持てばペットを飼って良いというのもよくわからない。生き物をペットにするのは完全に人間のエゴなのに、同じく人間のエゴであるネコホーダイがこんなに批判されるのは納得がいかない。結局人間どもの心情の違いでしかないだろ。猫の気持ちに寄り添うポーズを見せて、叩いていい風潮が出来上がっている相手を自分勝手な正義感でけなし散らして気持ちよくなってるだけだと思う。猫の心情を勝手にわかった気になってるのが気持ち悪い。わかるわけないんだから、猫に優しくすること、冷たくすることのどちらも結局私利私欲だと思う。もし自分が猫を飼うことになったとしたら、餌をあげるときも遊具を飼うときもお風呂に入れるときも健康に気を遣うのも猫のためなんて言い訳は絶対しないし猫の気持ちを想像しようなんてしない。すべては自分が癒されるためだけの行為であるということを一秒たりとて忘れない。
最低限の質素な生活をして、余ったお金をほとんど募金などに費やしている人以外は、命は大事にしろなんて言う資格を持っていないと思う。それか「自分は快楽のためにたくさん生き物を殺すし少し我慢して募金すれば救える命のことは見捨ててちょっと良いものを食べたり高い服を買ったりするし暗黙の了解として人間が抱える倫理の矛盾は無視し合うけれど、大っぴらに矛盾を見せびらかす相手のことは自分の正義感がなんとなく許せないし、実際には自分はそこまで大事にしてないけどお前はもっと命を大事にするそぶりを見せろ」と正しく言ってほしい。
それも非常に初歩的で、あり得ないようなミスを。
俺は馘になるかもしれない。
慢心がなかったと言えば嘘になる。
だから鬱憤を晴らすため享楽に耽り、ゲーム、アニメ、動画にかまけていたことを否定はしない。
けれど本当は分かっていた。
目を逸らしていたことには気付いていた。
俺は時間の隙間に死を考える。
でも30も半ばを過ぎれば、死とのご近所づきあいだって考える必要が出てくる。
人付き合いはもっと疎かで、俺は別に孤独が大好きってわけでもない。
ただ煩わしく感じてきただけだ。
それでも俺は理解していた。
孤独が人を孤立化させ、分断された思考が偏って凝り固まり、それによって人はさらに孤立する。
悪循環だ。
努力を軽視し、人付き合いを忌避し、刹那的な生活に身を投じる。
本当は分かっていたはずだ。
人が堕落し、耽溺するのは、死を真剣に考えていないからだということを。
そのことに俺は改めて気付かされた。
だが、それによって目も覚めた気がする。
これは楔だ。
そして俺は死について考える。
俺は今日を持って、今までの俺と決別する。
時間は有限であること、今日のミスは己の慢心と努力の怠りが原因であることを。
どうしようもない孤独のなか、日々カフェインとアルコールで頭がいくら酩酊しようとも、それでも俺は理解しているつもりだ。
俺の中の壊れていない部分は、それでもまだ残されているはずなんだ。
育ちは悪いが学歴はある。
学生運動世代で、ろくに勉強もせずに(授業が2年間なかったらしい)卒業し、いい時期に公務員(教師)になって給料も年功序列でだいぶ貰ったようだ。
そして子供にもそれを押しつけた。
勉強ができない人間は最底辺のクズのように罵るクセに、その勉強のために塾や習い事をしたがると「そんなものに頼るのは卑怯だ」と言い出す。
結果、3人いる子供たちはすべて偏差値50台の微妙な学歴にしかならなかった。
「育て方を間違えた」と、「もっと厳しくすべきだった」という意味で繰り返す。
子供の頃から、うちの親のように成功を威張らないが、こどもには習い事をさせたり好きなことにチャレンジさせたり、そういう金はしっかり出す家の友達を見てきた。
「衣食住を切り詰めたりせず、贅沢できてるうちの方が幸せだ」と親は言い、それを長いあいだ信じてきた。
でも、その友達はしっかりと教育に投資してもらい、それなりの結果を出して、今では自分よりちゃんとした地位についている。
うちの両親は育ちが悪い。子供に投資するという発想がない。いくら給料を貰っても、それを「消費する」ことしか知らなかった。
いくら良い大学に行っても、その日暮らしで享楽を貪る、根本的な人生観の浅はかさは治せなかった。
はてなでは「実家が太い」なんて言って、親の学歴や資産にばかり注目するが、そんな「たまたま」でも得られるものより、もっと大事なことがあると思う。
金じゃない、学歴じゃない、もっと根本的な意味で「育ち」が悪い親は、もうそれだけで最悪なんだ。
自己満足で高い肉を買ったりするが、子供には小遣いは与えない。自分は駄菓子を買う金すら持ったことがない。
親の見栄で「みっともなくない」服を着せられたが、自分で選んで服を買う金も持たせられたことはない。勝手に買ってくるからサイズが合わない。
自分では読みたい本を山のように買って家中に積んでおくが、勿論こどもが本を買う金も渋る。金がないのに「自分から参考書ぐらい買って勉強したらどうだ」となじられたことがある。
国立大学に入ったら、「自分の時代は数千円だったのに、こんなにかかるなら私立と変わらないな」と何故か俺が怒られる。
「何かトラブルでも起こされたら親に迷惑がかかるんだぞ」と20になるまでアルバイトも許されない。
これ冗談じゃなく全部同じ人間が言うことだからね。「二期の雄」とか言われたらしい某大学を出て、数学のテストで偏差値80越えを出したことがある、が自慢の奴が。
お誕生日おめでとう。
あなたの誕生日に直接会ってこれを言うことが出来なくてとっても残念だけど、言葉を大切にするあなたなので、言葉を贈ることが出来ればと。
複数日にかけてちょぼちょぼとこの祝辞を書いているので、前後の脈絡がない所は(あ、違う日に書いたんだな)と思ってくれると助かります。
思えば僕たちが初めてちゃんと会ってお話したのはもう2年前の早春のことで、湯島の「シンスケ」から飲み始めるという、今振り返ってもかなり攻めた会だったと思います。
夜の上野公園でお酒片手にベンチで話し込むなど、ここ最近会う時の「型」みたいなのができた(僕としては)非常に素晴らしい会で、次はしっかり桜を観ようなんて話をしてお別れをした、コロナ禍前夜の最後の享楽の日でした。
それからかれこれ2年が過ぎ、(桜を観ようね、という約束含め)もう会うことも無くなってしまうのかな、なんて考えていた今年の早春、あなたから直接DMで連絡を貰えたことを今でも思い出します。それに前会った時に観ようねと話していた桜のことも覚えていてくれてとても嬉しかったです。こういう口約束はとかく反故にされがちで、だからこそきちんと覚えていてくれたことを嬉しく思うし、それだけで救われました。
梅雨が(一時的に)明けた今年の初夏、互いの諸々を乗り切り再び会うことが出来たことは、今年起きたことのうちで最も嬉しいことです。駅の改札で会った時のほとんど最初のひと声、とっても嬉しかった。人から褒められることなんてここ最近はとんと無かったけど、これまでの人生で受け取ってきた褒め言葉と同じくらいの嬉しい言葉をたくさん頂いてしまいました。何だかこんなんで本当にいいのだろうかと、白昼夢でも見ているんじゃないかと、ふと思ってしまうほどに。
10月に会えると決まった時、もう今日含め前後数週間には会えないことは分かっていたので、事前にプレゼントはあげようと思ってました。この話はしたけども、あなたにあげた某ブランド別注のカップは、見た瞬間に、あなたが自分の部屋でこのカップ持つ姿が目に浮かぶようで、これをあげるしかないと即決でした。
自分が思っていたよりもとても喜んでもらえて、本当にあげて良かったなと。人生で、人から貰えるもので心から嬉しいことってあまりないじゃないですか(そんなことも無いのかな、どうなんだろう)。でもあなたの気に入るものをあげることが出来て僕も心から嬉しい。心に余裕があまりない時は洗い物をため込みがちと話してくれたけども、「このカップだけは使っては洗って、使っては洗ってとやっている」話を聞いて、いいものをあげられて良かったと安心しています。
とても暑かった夏の日と、今の寒さ厳しい日々との間隙の、あの偶然にも秋めいた夜のことは死ぬまで忘れない、というか忘れられない。あの夜も嬉しい言葉をたくさん頂いて、嬉しくて何だか泣いてしまいそうで、というか多分少し涙は出ていて、こんなに良い夜があっていいのだろうかと帰りながらぼんやりと思ったことを覚えている。
僕がこれまであなたの言葉にどれほど救われ、励まされた日があるか、あなたへ上手に伝えられないことがもどかしい。
ここ最近はお仕事がとてもとても大変とのことで、僕としてはこの瞬間にも手伝えることがあれば何でも手伝ってあげたいという気持ちでいっぱいです(最近はもう峠を越え、少しづつ色々戻りつつあるみたいで)。
とはいえ、あなたの仕事場に行って直接手伝うことはできないので、せめてもの慰みと、あなたに救われてきた日々の恩返しの気持ちも込めて、とてもつらいあなたの日々を言葉で支えられたらと思う。あるいは僕が元気にやっている姿を見て、あなたが安心してくれるのが僕にとっては何よりです。
「サッカーにできることは何でしょうか。何も出来ない時でも、何も出来ない人を支えることは出来るはずです。(中略)今、自分が出来ないのであれば出来る人を支えたい。あるいはその先の人までも支えたい。この放送を見て、誰かが元気になってその人が、誰かを支えている人を元気づけられるのであれば、それでも意味があるのかなと思って、この放送席からレアル・マドリーとリヨンのゲームをご紹介していきます。」という話をしたのは、サッカー実況者の倉敷保雄さんという方です。
東日本大震災から5日後に放映された、ヨーロッパの大きなサッカーの大会の試合開始前にこの話をしてくれました。
"今自分が出来ないのであればできる人を支えたい"というのはある意味では今回のモットーのようなものであり、自分の中の心がけのひとつでもあります。僕の言葉であったり、普段と変わらずにそれなりにやっている姿であったりが、あなたの心の救いのほんの一部にでもなってくれていたら、それはどんなに嬉しいことでしょうか。
今回は僕が支えるタイミングでした。またあなたに支えられるタイミングが来ると思うので、その時はバトンタッチで。2人ともダメなら、2人で沈みましょう。
前に11月、12月と会おうねと話してくれたの覚えてますでしょうか。
具体的な日取りは決められていないけれども、あなたに会える日だけが今の僕にとっての休日であり、あなた自体が最早休日と言っても良い程です。
太宰治の『晩年』では、麻の生地の着物を一反貰ったことで夏まで生きようと思ったということから話が展開していきますが、まさにそのような感覚で、僕ももう少し長く生きられるなというか。生活に張り合いがでています。
さて、とっても長くなってしまったのでここまでにしたいと思います。
あなたの誕生日を祝福してくれる人はたくさんいると思うから、その人たちの1番うしろから、せめて手を振ってお誕生日おめでとうを伝えます。良い1年を。
社会的な影響力のある芸能界への締めつけを強めている中国の習近平指導部は、インターネット上の芸能人の情報をさらに規制する新たな通知を出しました。「いびつな美意識」の助長を禁止することなどを盛り込んでいて、国民の美意識にまで統制が及んだ形です。
中国政府でインターネットの管理を行う当局は、23日、インターネット上の芸能人の情報をさらに規制する新たな通知を発表しました。
通知では「ここ数年、ネット上では娯楽化傾向や低俗な発信があとを絶たず、悪い文化が主流の価値観に影響を与えている」と指摘しています。
その上で「健全なネット環境を築く」として、ネット上の芸能人の情報について「いびつな美意識」のほか、ぜいたくや享楽、拝金主義といった「よくない価値観」を助長したり、芸能人のスキャンダルを広めたりすることを禁止するなどとしています。
「いびつな美意識」について、中国政府はこれまでに「女性っぽい男性」を例に挙げていて、中性的な外見の男性アイドルをもてはやす風潮などを問題視したものと見られます。
中国の習近平指導部はこのところ、社会的な影響力のある芸能界への規制を強めていますが統制は国民の美意識にまで及んだ形です。
いびつな美意識が、一例として人体のパーツの売買につながったりする。
もしくは投票という民主的な行為が、反政府につながる可能性も多いにある。
飴と無知
映画のワンシーンのような写真、絵のような写真、写真のような映画のワンシーン、写真のような絵、映画のワンシーンのような写真のような絵、写真のような絵のような写真、絵のような写真のような絵
米ソよりお世話になっております
失敗の非嫡出子
流石にスタン
コラソンアキノ/リンゴスター/マリアカラス/アーネストサトウ/ナオミキャンベル/ベアテ・シロタ
キレる仏図澄「このブドチンガ」
テジロ猿/ヤジロベイ
湯担保
ニューカレドニアはク活用形容詞の補助活用の已然形ニューク+逆説のド+連語のニヤ
豚を陸フグと呼ぶ人
サーターセンダーギー
想起ソバ
ワイヤレスイヤホンを洗っても壊さないことを売りにしている洗濯機
アンタレス↔︎ワタシモア
見ざる言わざるdismissal
禿げたフッサール
豪遊型リゾート
看取るネーム
鷹の爪の垢
四角い頭を丸くする→頭を丸める
忙しくない/忙しない
りんご/フラミンゴ/日本語/喃語/マンゴー/単語/援護/縁語
セヴラック/セノビック
絶賛デッサン中
大きいエスカルゴ→Lカルゴ
銃は社会の癌だ、ガンだけに
よりどり緑
エーゲ海↔︎悪い天上
能し力(抑止力)
隠された鷹の爪
don’t こい
likely きらいがある
singing 呻吟
break order 無礼講
スケルトン 透ける
へしくらまんじゅう
崇めムノン
ベートーベンの答弁
Unboxing Day
めちゃくちゃ覚えておいて欲しい人「記憶の中心にでも置いて頂ければ」
焼き討ちを見た人「ひでーじゃん延暦寺」
めくるめくの久留米
選りすぐりのリス
上手くいった人「計画が表目に出た」
蛸の価値は如何ほどに?
敷衍できない人、プエン
いたわる/板割る
めんどくさくなったキリスト教徒「あーめんどくさい」
揺れ過ぎてシンドバットになった
しちめんどくさいから。
同時進行する川→長良川
千客万来→万客千倍
匈奴人「オルドスにおるどす」
呵呵大笑と笑うとと(父)
仏陀をぶった斬る
ディーテイル/ディティール
前半で感動させ涙で目をにじませることを想定して、後半は適当に作画しているアニメ
電子卓上計算機は「計算機」の部分が大事なのに電卓と略されている
追い詰められるトランプ→弾劾絶壁
ちょっとバズってる池→プチバズの池
アリペイにいえば...
ガラガラヘビで賑わってる店
イキリ寿司
コドモオオトカゲ
票取るピョートル
黙って物々交換
2寸の虫には10分の魂
教室に窓がなかったので、卒業生が集まっても同窓会が開催されない学級
どっちか分からない人。タバコは吸いますか?すいませんが吸います。
みんなやめる政党→辞任党
吸えず運河
シモニデセ/シモニデセ/シモニデス/シモニデスル/シモニデスレ/シモニデセヨ
ポジティブな朱熹「老人は年を取りにくく、勉強も大変にならない」
麓で行われる頂上決戦
死んだ草間彌生→草葉彌生
円の下の力持ち→日銀買支え
原発利権のNHK番組が話題になってたが、マヌケな国民を馬鹿にする最高の内容だったと思う。
10年後にやるってそういうことでしょ。逃げ切らせたあとの申し訳の程度の正義。本気だったら5年以内にやりなさいよ。そんなやついないからこんな国なわけだし沈むんだけど。
そもそも2度も核爆弾食らってる国が世界で類のない原発事故を起こしといて、
この国の連中がやってたことといえばSNSでの放射脳レッテルの殴り合いと、享楽に塗れた日常を取り戻すための間違った現場主義と制度設計の追認だけだった。だれもなにも考えちゃいない。朝4つで満足する猿ばかりだ。
脱原発を言いたいわけじゃない。原発は必要だ。でもドイツくらいの国民的な議論はしようよ。ドイツはドイツでいろいろクソだけどさ。
これなら天罰食らうのがお似合いだわ
こういう風に肉食者とかヴィーガン関係なく、頭の良い人は客観的に公平に分析できることがわかり単純にうれしい。
いろんなスレでも書いてるがヴィーガンになると食費は3割~5割減になる。
肉にさいていたエンゲル係数を米とか他のものに費やすことになる。
自分はオーガニックとか無知だけど、ヴィーガン女性がオーガニックにこだわるのはよく目にする光景。
なのでそれは余裕といえば余裕だし、1食分を丁寧に食べるので、はたからみてリッチに見えるのも事実である。
また一般論として教育水準が高いことによって自分で畜産や環境の現状を調べることができるというのはあると思うので、
なお自分は平均以下の低所得者であり親戚家族にもヴィーガンは皆無である。
とくにヴィーガンを開始した時期は明日の生活にも困る生活であったので、人によると思うが、
自分の場合は低収入で苦しいことで逆にヴィーガンのメリットに気づき、継続しているという事実もある。
たとえばスーパーの男爵イモよりキタアカリという通販で買うイモのほうが1.5倍ほど高いのだが、味が全然違う。
また白米より玄米で購入してぶづき米や胚芽米にするとコメ自体が美味いのでおかずがいらないということもある。
こんなことは肉食を続けていたら一生気づくこともなかったと思う。
このようにヴィーガンのメリットは知識がつく(=料理もうまくなる)ということもある。
ヴィーガンを横目から見る人はいかにも上から目線で高慢のように見えるかもしれないが、
それは縛りプレイをしていることで否応なく食生活の知恵がつき、一見金持ちの享楽のようにも見えるからであろう。
実際は自分のように低所得の理由からヴィーガンになる人もおり、
そして低所得でもそこそこリッチな食生活になるということが可能、という意味で、コントロールができている満足感がある。
https://note.com/kouichi1997/n/n7df16cf0f4bc
こんにちは!今日もこの増田を見ていただいて、誠にありがとうございます!え~、今日はですね、また新しいnoteが投稿されたという事で、読んで行きたいと思います。
前回、80プペルで話題になった本岡さんなんですけど、彼が長い沈黙を破ってついにお気持ちを表明したという事でですね、早速気になる内容のほう、ガチャを回して読んでいきたいと思います。
はい。いま読み終わったんですけどね、僕は本岡さんは救う必要ないんじゃないかって思います。彼はもう救われてます。
僕の意見の前に、サラッと本岡さんについておさらいしときましょうか。
本岡さんは兵庫県の加古郡出身で、3人兄弟の真ん中です。兵庫の高砂南高校から、確か高知工科大学の環境理工学部に入って、そこから綜合キャリアグループって会社に入ったと思います。プロ野球には入ってないです。彼も昔はもちろん野球部だったんですけど、高校の時に辞めちゃってるんですよね、そこが残念です。
で、大学を出て綜合キャリアグループに入社したんですけど、入って一年しないうちにアムウェイとかの副業をやり始めた挙句、そこから数か月後の2020年5月に綜合キャリアのほうは辞めちゃうんですよね。今は土木作業員なんかやりながら糊口を凌いでるって聞いてます。
そんな本岡さんなんですけど、いつの間にか西野サロンに入ってて、そこでプペルの映画チケットと台本のセットを80セットも購入するんです。本岡さんは台本のセットは2020年の8月頃に購入して、2020年の10月ぐらいに「無職が失業保険使ってチケット台本を80セット(約24万)買った話(理由)」って言うnoteを書いたんですけど、これがめちゃめちゃバズったんですよ。バズったというよりは明らかに炎上ですよね。誹謗中傷とかすごかったです。ただ、この炎上にはちょっと時差があって、本格的に炎上しはじめたのは今年の一月に入ってからなんで、ホントつい最近ですよね。
炎上してからしばらくは本岡さんのnote更新が止まってたんですけど、1月23日(土)に前述のnoteがアップされたと。大まかにはそういう流れです。
…で、僕の増田の表題にもなってるんですけど、救いたくないんで、もう結論から言っちゃいますね。
彼はサロン外部の人間に迷惑をかけてないんですよ。もう、これに尽きます。
この件について語る時、皆さんは色んな話をごっちゃにして話されるんでこんがらがるんですけど、実際にはめちゃくちゃシンプルなハナシなんだと思ってます。順を追って説明していきますので、ちょっと長くなるかもしれないですけど、良かったら読んでいってください。よろしくお願いします。
結論で既に述べてますけど、僕は全然悪ではないと思っています。まず、彼の本質が善人か悪人かで言うと、確実に善人側の人間なんですよ。これはハッキリと言っておきたいですし、異論もほぼないと思ってます。
彼が騙されやすそうな言動や思考をnote上に残していたり、彼のとっている行動が毎回あまりもに微妙なんで皆さん色々と批判めいたアドバイスをしてらっしゃるんだと思うんですけど、彼自身は今のところサロンメンバーの外部には明確な金銭的被害を与えてないんですね。
本岡さん以外にも西野サロンのメンバーで炎上した方がいて、仮にS藤さんとするんですけど、このS藤さんはサロンの外部の人に「サロン内でしか通用しない信用」を売りつけようとしたのが一番マズかったと思っています。それに比べて本岡さんはチケット購入当初はサロンメンバー以外にも売ろうとしていたみたいですけど、実際は売ってないですよね。この差はすごく大きいと思っていまして、僕は本岡さんの「サロン外部の人間に金銭被害を与えてない」って状態はすごくいいと思います。
ただ、彼のワキが甘いのは確かです。2020年の9月11日に失業保険の認定に行って来たとnoteに書いてるんですけど、2020年の9月7日から土木作業員として働いています。つまり彼は、違法行為をして受け取った失業保険でプペルのチケットと台本を買ってるんですね。誰か葛飾区のハロワにチクっといて下さい。
(※一応、就業中でも失業保険は受け取れます。ただ、その場合は認定日に就労日申請をする必要があり、本岡さんの場合は自己都合で退職したと書かれていますので、2020年5月末から約3か月の給付停止期間を挟むと最速でも9月7日の土木作業員として勤務開始日に被ってしまいます。そうなるとチケット購入したという24万円以上の給付はかなり無理があります。再就職手当を加味したとしても同様)
他にも2020年11月29日にノートルダム大阪ONEで開催された、今年26歳になるお姉さんの結婚披露宴にノーマスクで出席したり、その様子をモザイク等無しでそのままnoteにあげてしまったりと、何かと思慮が足りてないのは事実あると思うんですよ。
その辺を差し引いたとしても、少なくても本件において彼は悪いことはしていないです。失業保険の不正受給はダメですが。
ここなんですけどね、やっぱり否寄りの評価が多くなると思います。それが今回の炎上をかなりややこしくしている原因かなと僕自身は思っているんですけど、今回は僕は「本岡さんをガチャで引きたい救うか救わないか」という軸で増田を書いてるんで、一旦本岡さんからは切り離してます。
ただ、僕が「本岡さんは救わなくていい」って思ったのも彼が西野サロンに所属しているからなんで、そこは説明させてもらいたいと思います。
まず西野サロンそのものについてなんですけども、これはもう僕が何か言うよりも、既に様々な人によって喧々諤々と議論されたエントリとかがたくさんあるんで、それを色々と見てもらったほうがいいと思います。僕はあんまりこの言葉を使いたくないんですけど、宗教団体と色々と構造が似てます。
その上でなんですけど、西野サロンで活動している本岡さんは、ものすごく楽しそうなんですね。少なくともnoteの上では。
これで本岡さんが「自身の享楽の為にサロン内外の他人に多大な金銭的負担を強いている」とかだと非常にマズいなって思うんですけど、今のところは全然そんなことないです。
確かに西野サロン外にいる我々からすると、本岡さんの言動や行動って理解に苦しむものが多いんですけど、それで即座に「西野サロンは悪の組織!滅ぼすべき!」となるのはちょっと違うんじゃないかなと思います。本人も楽しそうですし。
過去の様々な歴史に学べば、「外部に実害を及ぼすまでは彼我の距離を適切に保っておく」ぐらいしかないと思っています。
これはもう、ぼったくりですね。ちょっと言い過ぎかもしれないですけど、少なくとも本岡さんの言う「原価で購入した」はあり得ないですし、まぁ適正価格ではないです。ただ、当の本岡さん本人はこの値付けに納得してまして、少なくともnoteではそう宣言しています。
一応説明しますと、西野サロン内でプペルの映画前売り券と台本がセットで売ってたんですよ。それでサロンメンバーは利益を上乗せして転売しても良い事になってました。そのセットを本岡さんが80セットで23万6千円程で買ったのが「適正価格」なのか?という事です。だいたい1セットで3,000円ぐらいですね。
映画の前売り券は皆さんご存知の通り、大抵1,500円(税込)で買えます。台本は「ブルーノ」っていう公式のオンラインストアがあるんですけど、そこで西野さんのサイン入りで1,480円(税込)で買えます。
つまり、本岡さんじゃなくても、サロンメンバーじゃなくても、税込2,980円で我々も普通に買えたんですね。今は映画が上映中なので前売り券は買えませんが、メルカリ等に掃いて捨てるほど出品されていますので、今は実質3,000円以下…いやもっと安く買えます。なのでこれはもう全然適正な値付けとは言えないですね。
ちなみに、今現在本岡さんの自宅に積まれているであろう80冊の台本には、西野さんのサインは1冊も入ってないです。
整理すると、本岡さんは悪事を働いておらず、西野サロンも一概に悪いとは言えないけど、チケット台本の値段はちょっと高いよね、となります。ただ、金銭的にマイナスを出したのは現状では本岡さんのみで、当の本人が購入したことを肯定的に捉えている為、僕は本岡さんを「救われている」と判断しました。なので本岡さんはもう救う必要はないです。
概ね以上なんですが、まずはここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。最後に少しだけ、僕がこの増田を書いた理由とかを述べたいと思います。
「本岡さんは救いたくない」って書きましたけど、「じゃあお前は誰を救いたいねん」ってなるじゃないですか。この増田は、「救う」とまではいかないかも知れないですけど、「オンラインサロンの外にいる人」とか、「オンラインサロン内にいるけど、今あんまり楽しくないと思っている人」に向けて書いてます。
ぶっちゃけて言うと、今まさに溺れようとしている本岡さんの状態を客観的に書く事で、本岡さん以外の「西野サロンって楽しそう」と思っている方、もしくは「西野サロンに入ったけど、なんか楽しくないな…」と思っている方等に届けばいいな、と思っているます。サロン的なものを全否定するわけではないですが、サロンというのは誰でも無条件に楽しくやれる場所ではないです。一度立ち止まり、自分に合っているのかどうかをゆっくり考えてみてもらえたら嬉しいな、と思っています。その時に僕の書いた文章が少しでも助けになれば幸甚です。
なんだか偉そうに言ってますけど、結局は本岡さんを批判して周囲に注意を促す、いつものやり口です。この方法を好ましく思わない方も大勢いらっしゃるのは承知していますが、現状の僕にはこのやり方しか思いつきません。許して下さい。
本岡さんもそうなんですけど、オンラインサロンで活動してる人って単純に楽しそうじゃないですか。しかも西野亮廣っていう有名人がやってる集まりに月々980円で参加できるって、パッと見めちゃくちゃ魅力的だと思うんですよね。
でも、オンラインサロンで本格的にガッツリ活動して行こうと思うと、ある程度の金銭が必要になってくるんですよ。これは割とどのオンラインサロンでもそうなんですけど、西野サロンの場合はそれがかなり顕著で、かつ動く金額が大きくなりがちです。これはごく少数の例外を除いて発生します。例外になるのは、西野さん本人とその周辺の著名人や、「絵が描ける」等の何らかの才能がある方とかです。それ以外の人…言い方は悪いかも知れませんが本岡さんのような方は、ガッツリと活動したければかなりの支出を覚悟する必要があります。(実際に24万円払っています。)
ここからが肝要なんですが、そのお金をどうやって補填するのかによって、色々と大事なものを失ってしまう可能性があります。
非難されやすいのは、「オンラインサロン外の人間から補填する」事です。先述のS藤さんはまさにこのパターンでしたし、初期の本岡さんもこの計画だったと思われます。これは本当に駄目です。人生の上で大事なものをたくさん失います。サロン内の人間が勝手に散財して勝手に破産するのはどうでもいいのですが、サロンの外の人間に「サロン内でしか通用しない価値」を売りつけるのはまさしく詐欺そのものです。やめて下さい。
我々はプペルの映画が観たければ2,000円払って映画館で観ます。観た上で西野さんのファンになれば、西野サロンに入るかもしれません。そういう流れになればみんなハッピーだと思うのですが、本岡さんやS藤さんといったサロンメンバーの方は何故かそういう流れに持っていきません。「3,000円で仕入れて3,500円で売ろう」とか、「150万円でトラックを札幌に呼ぼう」とか、我々からすると理解のできない方向に行きます。
それで理由を聞くと、「プペルは本当に素晴らしいから、皆に知ってほしい」「西野サロンは本当に素晴らしいから、皆に知ってほしい」と返ってきます。
これ、本当に心からそう思っているならコンテンツ自体の良さを語ってほしいんですけど、なんで誰もそれをやってくれないんですかね?何故プペルの原作が無料で公開されているサイトを教えてくれないんですか?何故西野サロンに入れば毎日西野さんの長文記事が読めるとかの情報を教えてくれないのですか?
そういったコンテンツ自体の良さを何も喧伝しないのに、トラックに150万円は出せないです。チケットに3,000円は出せないんですよ。「いやこれは3,000円分以上の価値があるから」じゃないんですよ。先にコンテンツありきじゃないですか。そこを飛び越えてくるから、互いに分かり合えないんです。
「えんとつ町のプペル」というコンテンツは素晴らしい!皆に教えてあげたい!…そう思うならですね、まず一番初めにやってほしいのは一緒に映画館に行く事なんですよ。で、観た上で興味が出てきたのなら、台本なりサロンなりを勧めればいいじゃないですか。なんでそれを飛び越えて、「まず台本」「まずトラック」なんですか?なんでまず「映画を観る代金」以上のものを要求してくるんですか?穿った見方をすると、プペルというコンテンツ自体にはそこまでの魅力がないのかな?と思ってしまいます。プペルがあまり面白くないから、ほかの手段でカネを巻き上げてやろうと思っていませんか?
私は「サロンや映画えんとつ町のプペル」が好きですし、作品と関係ないところで評判が落ちてしまうのはとても悲しいです。
って書いてますよね。ハッキリ言っておきますが、いま作品の評判を落としているのは本岡さん自身です。今回の炎上で「プペルって面白そうだな」って思う人はいないです。まさに、作品と関係ないところで評判を地の底まで落としているんですよ。その自覚がありますか?
本岡さんが西野さんやサロンを大事に思うなら、今やるべきなのは、「僕は前向きにとらえています!」と宣言する事じゃないんですよ。評判の落ちたプペルというコンテンツの良さを世間に知らしめる事なんですよ。なんでそういう方向にいかないんですか?今のままだと、本岡さんのせいで映画に行かない人が増えている状態ですよ。そんな状態を放置していていいんですか?
また、本岡さんは約24万円のチケット代金を全額自分で被っていますよね。ここだけはかろうじてマシです。他人に迷惑かけてないんで。…ただ、これも最終的には詰むんですよ。持続性がないからです。本岡さんが大富豪なら別なんですが、そうではないようなので、ずっとこの状態を維持することはできないんですよね。
今起こっている事象の大半は、「24万円払った」という行動からはじまっています。善きにせよ悪しきにせよ、今まで経験したことのないものを味わえたと思います。一応、本岡さん自身は今回の件を「とてもプラスな経験」とおっしゃっています。
でも、それで終わりなんですよね。次に似たような経験をしたかったら、本岡さんはまた24万円を払わないといけないんですね。もし24万円で慣れてしまったら、もう50万円とか100万円とか払うしかないんですよね。覚せい剤と一緒です。ずっとそのお金を払い続けることができるならいいですけど、大抵の人はそれができません。だからいずれ、自分以外の他人…サロン外の人にお金を払ってもらおうとしますし、それができないとどんどん追い詰められていきます。覚せい剤と一緒です(2回目)。
この状態の本岡さんを擁護する人は、「信用経済的に、本岡さんは24万円分の信用を買った。だから問題ない」とか言うんですよ。でもそれは80枚のチケットを他人に売りつける事に成功した人だけですよ。本岡さんは1枚も売れてないです。そんな人は信用できないです。
僕から見れば本岡さんは「プペルというコンテンツを周囲に売ろうとしたけど一切売る事ができなかった人」にしか見えないです。信用経済で言ったら、マイナス勘定でしかないですよ。サロンメンバーもなぜか本岡さんを擁護するんですが、これがよくわからないです。プペルって素晴らしいコンテンツなんですよね?そんな素晴らしいコンテンツの良さを周囲に伝えられなかった人を何故評価するんですか?先程も言いましたけど、むしろプペルのコンテンツの評価って本岡さんのせいで下がってますよ。プペルが大好きなら、大好きなものの価値を下げまくった人を擁護するって、おかしくないですか?
皆様ご存知の通り、人が活動すればするほど新型コロナは感染拡大する。影響の多寡こそあれ、夜遊びでも会食でも出社でも登校登園でも。
よって感染拡大を防ぐには何かを自粛の名のもとに犠牲にせねばならない。極めて小さくなった「自由」という名のパイを奪い合っているのが現状だ。
そして感染拡大するにつれパイはますます小さくなる。このままではパイは無くなる。
この現状は絶滅危惧種のウナギに似ていると思う。日本人はウナギを食べるのを自粛しているか?むしろ、どうせ絶滅するならその前に食いたい、という人も多いのでは?
今日もそういう奴の享楽により「自由」という名のパイは食われている。
そして、自粛してもパイが他人に食われてなくなり、何ら報われる事なくこの愚民めがと十把一絡げに罵声を浴びせられるだけなら、いっそ愚民らしく食い尽す側に回った方がマシでは、という気持ちが湧いてきている。
追記:
どこでも成長が求められる。
みんな成長が楽しいのだね。
成長を追い求める環境にもっと身を置いておけば良かったのかな。
とはいえ今まで頑張ってきたこともあるし、成長の楽しさも分からないでもないけど、僕は無駄にダラダラと過ごす時間も憧れる。
ゲームをしたり映画を見たりドラマを見たりという、生産性が何もない瞬間を夢見ながら最近は生活している。
成長を楽しいと思う自分、享楽にふけたいと思う自分、どちらも自分である。
どちらかというと享楽が好きと思っているけど、どちらかというとストイックな生活をしている自分。
仕事も以前の仕事の方が確実に楽だったのに、ストイックな仕事へ転職してしまった自分。
個人がとってきた行動が結局のところその人を表しているのなら、自分は成長好きな人なんだろう。
そうした人たちはバリバリとプログラムを書き上げて(僕の仕事はプログラマー)、会社や世の中に成果を誇っている。
そんな実力がない、あるいは要領が悪い自分はそれを焦燥感と共に眺めている。
そんなに頑張れないよ、と思う自分がいる。
ふと全て投げ出して享楽にふけりたくなる瞬間がある。
今日も複雑な切なさを感じながら過ごしてる。