はてなキーワード: 問題視とは
同じく垂れ流してみる。
投票は大体行ってる
テレビはあまり見ない Youtubeもあまり見ない Xは時々見るがROM専
ゴリゴリのはてな村の村民なので、自民嫌い、維新大嫌い、立民も推したいけど推せないムーヴかましすぎ、国民も自民の補完勢力だし、公明はスキャンダルが少なくて政治家の教育がしっかりしているところだけは推せるが軽減税率と創価学会が嫌なので論外、共産はガバナンスがヤベェ、どこにも入れたくねぇ、って感じです。
政治については国民の平均より関心は高い方ですが、政治的な活動に参加したことはありませんし、真剣に考えるだけの一票の重みもないと思うので、選挙は行くものの割と毎回適当に投票してます。
前回は、うちわ会食騒動井戸県政の後継人(自民系?、おじいさん)と斎藤知事(維新系、若い人)で正直どちらも入れたくなかったのですが、迷った末に斎藤知事に投票した気がします。
公益通報潰しを一番問題視した。だから斎藤以外に入れようと思った。
稲村さんのことはよく知らないが、自民でも維新でもない有力な人が立候補してくれるなんて願ってもないことだと思った。清水何で立候補しとんねん。やめろや。
おねだりや、パワハラに関しては事実だとしたら悪いことだとは思うが、正直、同程度のパワハラ野郎なんて組織の上の方に立つ奴なら履いて捨てるほどいるレベルではないのか?と思った。
「自分で調べた結果、齊藤知事に投票した!」と誇らしげに言う知り合いが何人かいた。
斎藤支持者は、ストーリーが魅力的なので「全てはウソだったんです!真実はこうなんです!」と周りに広めるモチベーションがあるが、
稲村支持者は、支持をしていても、それを広めるモチベーションのある人は少なかったのではなかろうか。
私も家族以外誰とも選挙の話をせずに、淡々と投票したのみであった。
プライバシーを暴露されそうになったことを苦にして自殺、というストーリーが正しかったとしても、
それが即「パワハラはなかった」という証拠になるわけではない。
県民局長の自殺原因と、パワハラの有無は別問題として考えるべき。
でもあの音声データは衝撃的だったかも…マスコミがだんまりなところも含めて。
にしても故人って中傷しても罪に問われないのかな?、故人に対しては中傷し放題なんですね。
まさに死人に口なし。どんだけ辛くても死んだらあかんわ。
ありとあらゆるところに自分の顔載せすぎやねん!どんだけ自分の顔好きやねん?ナルシストすぎやろ!!!
兵庫県に住んでる限り、齊藤知事の顔写真からは絶対に逃れられへんようになってもたわ!!
シュッとしてて政治家の中ではやっぱり見てくれはええ方やと思うけどなぁ!!にしてもナルシストすぎるで。
全会一致ってよっぽどじゃないか?
県議会議員なんてたくさんいるのに、
自民も維新も立民も公明も共産も(いるのか知らんけど)全員不信任なんて、あり得る???
何で百条委員会終わってから選挙せーへんかったん??誰か知っとぉ~????
ご提示いただいたケースでは、以下の点が問題視される可能性があります。
1. 詐欺の疑い:
- 弁護士への相談: 弁護士に相談し、法的アドバイスを受けることを強くお勧めします。
3. 民事裁判:
会社は、詐欺や契約違反の疑いが強く、あなたは全額返金を求める権利があると考えられます。しかし、具体的な法的判断は、個々のケースによって異なります。弁護士に相談し、適切な対応を取ることをお勧めします。
インテリ層の良くない部分が出ているので、あえて名指しで批判する。
シロクマ先生の書き方は良くないです。今すぐに謝罪して記載を改めるべきです。どんな人間も馬鹿にされたことは敏感に感じ取ります。
もしも本当に、心の底から馬鹿にするつもりも嘲るつもりも無かったのであれば、全ての比喩表現を直接的な表現に改めて、その上でどのように受け取られる可能性があるか考えてみてください。
シロクマ先生の以下の記事は、齋藤知事のパワハラと全く同じです。
ビバ! デモクラシー!
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20241119/1732024800
斎藤氏はパワハラ疑惑を巡る認識を問われると、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくしたことはあった。これがハラスメントに当たるかは第三者委員会などで審議されることになる」と語った。
小学生を含めて(個人的な感覚では、不満を表明できるのは小学三年生前後)、悪意には非常に敏感です。どのような言葉遣いであっても馬鹿にされたかどうかは瞬時に理解します。
「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という「良かったですね」という物言いは、対象を嘲る言い方です。自覚が無いのであれば今すぐに改めるべきです。
以下、具体的に指摘します。
「今回の選挙は、民主主義を正しく反映したと言えるのではないだろうか」という書き方ではいけなかったでしょうか。
なぜ、「民主主義が三度の飯より好きな人には」と、民主主義を好ましいと思う人を「三度の飯より好きな人"には"」という表現にして限定しましたか?
今回の選挙結果を、揶揄する意図が無いのであれば即刻改めるべき表現です。
他の支持者との一体感を体験しやすい仕組みのおかげで、「いいね」や「シェア」ぐらいでも推し活気分や選挙活動気分を味わえたりする。
「自分は、いいねやシェアボタンを押す行為は、選挙活動とは言えないと思う」と書き方ではいけなかったでしょうか?
なぜ、「推し活気分や選挙活動気分を味わえたり」という、自身で「参入する敷居がものすごく低い」と書いているにもかかわらず、「気分」や「味わえる」という表現にしましたか?
他人の選挙についての関わり方を見下すつもりが無いのであれば即刻改めるべき表現です。
SNSや動画にじかにコメントする、という方法もある。なにもコメントが秀逸である必要はない。凡庸なコメントでも、論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない。支持する人への応援コメントでも、敵対者への批判や非難のコメントでも、数多く集まりさえすれば強力なコメントたり得る。どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ。誰が言ったかや何を言ったかだけでなく、何人が言ったかも重要であることを、いまどきのネットユーザーが知らないわけがない。
「どんなコメントであっても、200も300も連なれば有意味になってしまう。論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、いまどきのネットユーザーにとっては、何人が言ったかが重要になってしまう。私はそれを好ましいとは思わない」と言う書き方ではいけませんか?
どのようなコメントであっても数が連なれば有意味になることが好ましくない、もしくは危険だと思うのであれば、そう表現すべきではありませんか?
なぜ、「事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない」と許容したのにもかかわらず、「どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ」として、自分と同じコメントをする人が200や300ある人たちを「しょうもない」と馬鹿にしたのですか?
他人のコメントの書き方を馬鹿にする意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
それらは従来型のマスメディアが機能した帰結でなく、双方向メディアとしてのインターネットが普及し、猛威をふるった結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとしてはびこるようになった、と表現すべきだったと思う。
「それらは従来型のマスメディアが機能した帰結では無く、双方向メディアとしてのインターネットが機能した結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとなった」という書き方ではいけませんか?
もしくは「双方向メディアとしてのインターネットは、従来型のマスメディアの機能とは異なり、より積極的に他人に干渉するようになった」というような書き方ではいけませんか?
従来型のマスメディアを超えることによるなにがしかに危機感を覚える、好ましく思えないのであれば、それを直接表現すべきではありませんか?
「猛威をふるった」や「はびこるようになった」という書き方に、従来型のマスメディアよりも双方向メディアとしてのインターネットを貶める意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
特にこの表現は顕著なので注記しますが、「ならばマスメディアが猛威をふるいはびこっていた従来よりも良くなったでは無いか」と返答されるとは、本当に思いませんでしたか?
その返答に対して「マスメディアの方が優れていた」以外の回答を持っていますか?もしも持っていないのであれば、それは双方向メディアとしてのインターネットを見下した表現です。
「投票率が上がり、選挙活動への参加が増えたことは良いことだ」と言う書き方ではいけませんか?
馬鹿にする意図が無いのであれば「良かったですね」という表現は即刻改めるべきです。
単独の文言では無く、前後の文脈から、この文章を読み取った相手が「投票や選挙活動への参加を馬鹿にされた」と受け取らないと、本当に信じていますか?
「なるほど、コイツはインターネットで情報収集したり、いいねで応援したり、コメントを書いたり、自分で考えて投票した俺を、子ども扱いしているんだな」と受け取られる可能性が無いと思っていますか?
真摯に相手の人格を尊重してなおその表現しか出てこないのであれば、おどけた調子の文章を書くのは止め、少なくとも真面目な話題ではビジネス文書のように書くべきだと思います。
インターネットも含めた諸々をとおして、投票所により多くの人が足を運んだこと、より多くの人が選挙活動に参加したことだ。それって民主主義にとって基本的で必要不可欠なことでしょう?
段落内のおそらく骨子の部分である、この部分はとても良い書き方をしているだけに残念でなりません。
民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。
その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、それは捉え方の違いだろうと思う。
(「"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか」というのは、どのように書き換えてもアリストクラティア(優秀者支配制)を意味すると思うが、そこは民主主義の捉え方の違いだろう)
「民主主義は、時としてヒトラーのような独裁者を生み出すとしても、全員参加が理念であった」という書き方ではいけませんか?
前段の主張も含めて、文脈からは「民主主義とは、建前としては全員参加だが、本音ではバカは参加しないものとして上手く回っていた。バカが参加して壊れるのは制度の限界だ」としか読み取れません。
それ以外の意図を持つ文章として文脈を構成しているのであれば、全面的に書き直すべきです。おちゃらけた書き方をしようとするあまり、文脈上そう受け取る人がいても非難できないと思います。これよりのちの文章を読む限りではこの読み方をして欲しいと想定するしかないです。
(また、ヒトラーの例えを出しておいて「マスメディアという制御弁が民主主義政体を安定させる効果があったのは、たぶんそうだろう」と書く意図は量りかねます。ナチ党の躍進にラジオが大きな役割を果たしたことには一定の了解があるはずです)
いまどきの民主主義の理念を作り上げた人というと、ロックやルソーやジェファーソンといった近世~近代の思想家を思い出す。ところが彼らが生きていた時、末端の大衆にまで選挙権が行き渡り、末端の大衆の選択までもが民意にフィードバックされる民主主義を想像するのは難しかったのではないか。たとえば、民主主義の始祖たちの眼中に、立花氏がバカと呼んだ人々はどこまで含まれていただろうか?
少なくとも、ジェファーソンの名前を出して合衆国独立宣言で最も有名な一節である "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal,"を無視するのは看過できません。
このall men (すべての人々)に、大衆(シロクマ先生の言うところの「末端の大衆」)が含まれていないと推測するのは侮辱でしょう。もしもよく知らないのであれば名前をあげるべきではありません。
トーマス・ジェファーソンが、いかにマスメディアに悩まされていたか("nothing can now be believed which is seen in a newspaper. truth itself becomes suspicious by being put into that polluted vehicle")を知らずとも、
ほんの少しでも興味があれば、ジョン・ロックが人はみな生まれながらにして公平であるが、そのままでは不都合なので、人の承認のもと政府を作るであるとか、ジャン=ジャック・ルソーが間接民主制すら否定していたことなど、見聞きしたことがあるはずです。
彼らが、貴族や選良市民のみを対象として考えていただろう、末端の大衆(シロクマ先生が想定するのが、教育を受けていない人、政治に詳しくない人だとすると、当時の農民や奴隷、犯罪者等)は考えていなかっただろうと想定して枕詞に使うのは、不適切です。
(その後の段落は、シロクマ先生の想像や思いが書かれているので、別に問題は無いと思います)
個別の選挙結果が未来の制度設計の材料になっていくのも、民主主義のいいところだ。亀のようにゆっくりと、しかし着実に。ただし、こうした民主主義のドタバタを、ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう。未来が明るいといいですね。
この段落でも、その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、シロクマ先生の考え方を述べている部分なので良いと思う。
ただし、文脈上「全員参加という民主主義の建前を維持したまま、インターネットが深く介在する場合には"悪い民意"を取り除き、"良い民意"を選び取れる制度設計を、末端の大衆ではない我々が行うべきである」としか読み取れませんが、そういう主張でないとすれば記載を改めるべきです。
(私はそれをアリストクラティア(優秀者支配制)だと思いますし、良くないものだと思いますが、主義主張の違いなのでそれについて表明することは良いことだと思います)
「ただし、制度設計が改善される前の現在の良くない状態を、他国が狙っているかもしれない。改めるべき点は早急に改めるべきだろう」と言う書き方ではいけませんか?
「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」というのは、陰謀論と何が違いますか?何を意図して記載したのでしょうか。
「未来が明るいといいですね。」というのは、皮肉では無く本心からそう思っているのだとすれば、記載を即刻改めるべきです。
また皮肉を書いたつもりであれば、誰を皮肉ったのでしょうか?今回の選挙に参加した誰を馬鹿にする意図をもって表現されましたか?
シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、全体としては皮肉めいた、兵庫県知事選挙の結果を受けての現行の民主主義制度への感想でしょう。
これを、面白おかしいものとして読む人がいることは否定しません。(私もホットエントリーにあがってきたので読みました)
パワハラをする側にとって、されたものが右往左往したり泣いたり病んだり職を辞するのを見て愉快だと思うのと同じだという指摘です。
齋藤知事は、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくした」と表現しています。
前知事時代のパワハラを問題視した人は、この「業務上の指導や注意」の「やり方」を問題視したはずです。性根や意図、背景では無く、手法に問題があったのだと認識しているはずです。
愛があろうが、心の底から相手のことを思っていようが、パワーハラスメントに該当すれば、それはやはりパワーハラスメントなのだというのが、これからの社会での共通認識で合って欲しいと、自分は思います。
その意味で、シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、インターネットを利用して投票先を決定した人をバカだと呼び、彼らを選挙から排除すべきである、そうしなければ民主主義は壊れる、利するのは他国だ、という記事になっています。
そういう意味で書いたつもりでないのであれば、そう読み取れるようにおちゃらけた書き方をするべきではありません。すぐに改めてください。
(バカだと呼んだのは立花氏であるとか、選挙から排除すべきとは書いていないという、言葉遊びをするべきではありません。本当にその意図が無いのであれば比喩や暗喩の使い方が致命的に間違っています)
もっと言えば、記事全体が記事中に貼られた立花氏と同じことを言っており、そこから一歩も外に出ていません。
制度設計で排除すべきでは無いかと暗に書いている分、また「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」と記載している分、なお悪いと考えます。それは選良主義や陰謀論と具体的に何が違いますか?
そして、バカや犬や猫と同じと言われた側とすれば、率直にそう表明する立花氏に好感を持ち、シロクマ先生に嫌悪感を持つと思います。率直さは美徳であり、当てこすりは悪癖です。
なぜならば、立花氏は返す刀で「バカじゃ無くなればいい、キミはいまバカじゃ無くなった、立派な選挙民になったんだよ!」と導くからです。
シロクマ先生が、「自分はマスメディアが一定正しいものだと思っている。それを大きく超える力をインターネットが持つと証明されてしまったようで怖い。こんな選挙結果になると思わなかった」と思うのであれば、そう表現してください。
投票に行った国民を「お前らにはどうせこうやって書けばわからないだろう」という書き方で馬鹿にするのは即刻止めてください。
その積み重ねが、インテリ層への嫌悪に繋がり、わかりやすく自分を肯定してくれる者への同調に繋がります。
よい県政になりさえすればパワハラが許されるわけでは無いのと同じで、民主主義の問題だと思う点や選挙への在り方を指摘するのに他者を馬鹿にして良いわけではありません。
別に何を面白がろうが自由だけど、二言目には自浄作用が無いだの、パワハラは現代にはそぐわないだの言っておいて、中身が正しけりゃ表現は些末な問題と言う立場をとるなよ。
読み取り方の問題じゃないし、皮肉だから何しても許されるとか無いの。そういう表現は、お前らがバカにしているネットde真実と1ミリも変わらねえよ。
「うわーついにトランプ的SNS扇動が日本にもやってきたか……」と思ったら、「関西人、公務員めっちゃ嫌い説」が回ってきて、SNS関係なく公務員に対するパワハラを問題視しない勢が結構いるのかもしれんな……と思った
複数日に渡る集団リンチな分、立花より悪質なしばき隊(https://note.com/neon_shuffle/n/n0ef38a984eba)
フェミ?が生協でのエロ本購入を問題視した事件を思い出したわ。
突然、ナゾのお気持ちルールに従わなきゃならんくなってしまった、という事件。
とかだったら邪悪さが際立ったと思う。
人権がどうのとか、個別の事案については置いといて文字が独り歩きしているような印象がある。
正直、ここ最近ずっと役人って人気じゃない。別に求人がないわけでもないのに。
いや氷河期はもっと、というか公務員くらいしかパンピーの一発逆転ストーリーが無かったのかもしれないけど。
これって安定した職業が良いっていう、安定志向の考えの人間ばかりなわけでしょ。
国を良くしようだとか何だとか思っているわけでもなく、実家が近いというだけの理由で選んだ道。
県政を支える、県民に仕える公僕としての職業に対する何の矜持も持たず
県に対して〇〇という形で貢献したい、地元に恩返しがしたいという意思もない
20年ものんべんだらりとやってりゃあさ、そりゃあサボるよ。にんげんだもの。
それがいきなりトップの方針が変わりゃあ、毎日張り詰めたようになるわな。
県庁職員の方々の立場から見てみれば、知事って結構権限があるだろうから、負荷はかかるだろうけど
それも産みの苦しみじゃあないけどさ、良い機会なんじゃないの。
それとも上に書いた通り、ヤダヤダヤダ、パワハラなんかヤダ。
別に県政がどうなろうが知ったこっちゃない、定年までのんべんだらりと仕事をして
定年後は関係する会社に天下りして70手前くらいまでゆるりと働きたいとでも?
そういう態度が、この20年間普段接している県民に伝わってたんじゃないの?
だからこういうことになってるんじゃないの?
少しでも心当たりがあるのなら、どうか矜持と意思を持って業務に邁進してほしい。
と、ここまで精神論を書いたけど別に、本心でそう思っている必要はないよ。
けれど、公務員以外の人間と接するとき、政治家や県民と接するときにそう振る舞えないのなら
どんどんパワハラされてください。おれは厳しくいく。
それが出来ないのなら、文句言わずに立つ鳥跡を濁さずでさっさと辞めてください。
ちなみに、経営者として個人的には民間企業でパワハラしても能率は上がらないと考えてます。
昔はさ、村一番の秀才を村総出で送り出す的なある種ヒーロー的な地位だったと思うんだよ。
与えられた栄えある地位と、報いるべき・救うべき万の対象と、果たすべき理想があって
だからこそパワハラじみたこと、ブラック的な要素があっても、それに耐えて地域に魂を捧げてきた。
それが当たり前。きついのが、大変なのが当然。
県に仕えて働きすぎてしね。いや言われずともこの身捧げよう。
仕えるべき県民の側が、先に腐ってしまったのかもしれないし。鶏が先か卵が先か。
これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。
むしろ一市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである。
それでも、虚言や流言、罵詈雑言が猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である。
以下に続く文章は、主語がデカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。
もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである。
この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である。
つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプが当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。
しかし、メディアやネットでパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。
尤も、自分の最初の認識がそもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明な民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。
このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。
選挙結果が出てから、兵庫県知事選は立花某にハックされたということや、あるいはネットで真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNSと選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。
もちろん、我々はアメリカの大統領選にロシアやイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家の裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジ・アナリティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。
しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義に有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストクラシーを実現するのか、リベラルな思考をもった等質的な市民たちによる思想のゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。
各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通の民主主義国家における市民と同じくらいの能力や感覚を持ち、それなりに各候補者を比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。
ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮の埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道が気持ち悪いから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢の有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。
何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。
少し前に国民民主党の玉木代表の不倫問題が報じられた。不倫の責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。
その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能な事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。
筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちらから願い下げである。議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。
どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党の政治資金収支報告書不記載の問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えから生まれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性に懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方の女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベルの不見識なのではないか。)。
とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫は家族や当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取りが台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見が大勢を占めているのではないか。
そしてこれは、斎藤が公益通報制度を度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別的言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティと相通ずるものがあるのではないか。
もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉の問題が別にあるということにほかならない。
このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証である。そもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義の要諦なのかもしれない。
この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的お説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家に自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。
だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」
大人になってから『のび太の結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有な人間であったと痛感せざるを得ない。
立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤の拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。
斎藤に投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣な矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤が自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義のレジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家が存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。
日々の生活に汲々として自分の人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。
ナゾは解けるどころか深まってると思う。過去数々の自殺が問題視されたのに、男性の自殺率とパワハラ自殺の総スルーは何が元凶だ? ………土地柄か? 県民(都民)性?
兵庫県知事選で斎藤元知事が再選したが、もっともな結果だと頷ける内容でもある。兵庫県の県民性としてパワハラは必要悪であり、権力を持てば多少の我儘は当然と考えている節がある。
私は全国に支店を展開している中小企業で部長職を務めているが、最近、職場のパワハラ気質が非常に深刻になってきた。その問題の根源を探る中で、兵庫県出身者の採用を控えるという決断に至った。決して偏見に基づいた判断ではないが、職場環境を守るためには避けて通れない選択だと感じている。
我が社は全国に支店を展開しており、多様な地域出身の社員が働いている。その中でも、兵庫県出身の社員が抱える特定のパワハラ的な傾向が、近年顕著に見られるようになった。具体的には、上司として部下に対して強圧的な態度を取る、または指導の名の下で精神的に追い詰めるといった行動が目立つようになったのだ。このような行動は、社員間の信頼関係を損なうだけでなく、職場全体の士気を低下させる原因となる。
もちろん、兵庫県民全体がこのような行動を取っているわけではなく、個々の社員によって異なる。しかし、職場での行動パターンにおいて、兵庫県出身者に特有の傾向が強く見られることが多く、これが問題視されている。結果として、職場内でのトラブルや不満が積み重なり、改善が求められる状況に至った。
このような状況を受けて、私は一時的に兵庫県民の採用を控える決断をした。これは、問題を根本的に解決するための一歩であり、単なる地域差別や偏見からくるものではない。現時点での職場環境を守り、全ての社員が平等で尊重される空間を提供するためには、こうした対応が必要だと考えたからである。
もちろん、この決断が最終的なものではない。今後、社員教育やリーダーシップ研修を強化し、パワハラの問題を根絶するための取り組みを進めていく予定だ。兵庫県民の採用再開に向けた条件が整い次第、改めて採用を再開するつもりだが、まずは職場環境の改善を最優先に進める必要がある。
私が目指すのは、地域に関係なく、全ての社員が安心して働ける職場である。そのためには、どの地域から来た社員でも、共通の価値観と行動基準を共有し、互いに尊重し合うことが不可欠だ。この取り組みを通じて、より良い職場環境を築いていきたいと考えている。
パワーハラスメントの報道がたくさんされていたが、これを現実味を持って実感出来る人が減ってる気がする。
それだけ世の中からパワーハラスメントが減ってるって事じゃないかなって思った。良い時代です。これは素直によいことです。ただ、これによってパワハラって事の具体的なイメージが無くなって来ている、実感として悪い事だという事がイメージしづらくなってるんじゃないかな。
これは、他の同種のうねり(繰り返す波)に、戦争関係のれきしがある。戦争そのものも、そして、戦争を直接知っている世代と接したことがない世代も増えて、戦争が起きないようにすると言う施策や活動が力を失っている事がある。これが振り戻しが実際に現れたわかりやすい例だと思う。
中国の台頭とか、アメリカの第一次トランプ政権からの圧力などに直面する前。
日本の防衛費は無茶苦茶削られてて、GDP1%と言う枠の中で、港湾の整備費や飛行場の修繕費など、それって防衛費じゃないよねみたいな金まで支出されてカツカツだった。
実はアメリカですら、9.11を迎えてしまう前はそうだった。これは、戦争を現実の脅威と考えられなくなっていたからだ。
逆方向には、草の根の平和活動とか、そういったものがバカにされる風潮もそれだったと思う。戦争反対ってなんだよ、戦争なんて起きるわけないだろ、みたいな。
その状態はヨーロッパなどでも起きていたし、彼らにとってアフガニスタンとか中東系の戦争は違う世界の戦争だったわけだけど、その状態を付いたのがウクライナ危機であり、ウクライナ危機は同じヨーロッパ人が侵害されたと言う事で一気に動いた。
日本は台湾情勢に、スプラトリー諸島の問題などで現実の問題として認識されたわけだ。
ただ、これはそのまま防衛の意識が高いままで警戒がされていたら、中国やロシアなどの暴発など、こういったことが起きていただろうか?と言う議論がある。
一方で今回のモラハラ・パワハラの斉藤が再選した件も、それなのではないか。
つまり、世の中からパワハラが大きく減っていて、それに晒されている人が少なくなったから、実感を得られていないのではないか。
またかつて石原慎太郎らが仕掛けた怪文書などによる選挙工作、昭和の選挙もファンタジー扱いされつつあり、実際に痛い目に遭ったことがある人、あるいは痛い目にあった事のある人からの情報を見聞きする事が少なくなったのではないか。
その結果、それらを問題視する人の声をリアリティ持って受け止める事ができず、問題への支持が広がらず。
一方で「不倫問題」のような、現代でより身近に現れて、インスタントに分かりやすく「経験」と結びつきやすい、実感を得やすいものが登場し、共感を得やすい問題によって印象が上書きされたことによって、ご覧の有様になったのではなかろうか。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言う言葉ある。これは元々ドイツ人の ビスマルクの格言だが、この「経験」は意訳で、実際には「失敗」という言葉が宛てられている。どうやらそちらの方が原文の意図に近いらしい。
そして、私も含めてほとんどの人が「歴史に学ぶ」事のできる領域は、恐らく自分の専門分野のみなのだ。
それ以外では愚者なので、今回のようなことは無数に引きおこされて、歴史は繰り返してしまうのだと思う。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。しかし、忘れて熱湯を飲んで死ぬようなことになったら致命的だ。
大事な事は、できるだけ小さな失敗に留めて、そこから多くの事を学べるようにすることぐらいしかない。
各自衝撃に備えねばならない。
中国を含む一部の国を除いて、多くの国では著作権に関する「権利制限規定」が設けられており、いわゆる「学習されない権利」が認められていないのが現状です。
https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/chosakuken/pdf/94035501_03.pdf
著作権の支分権に「学習権」は無く、新しい権利を新設する必要があります。
インターネットにコンテンツを公開している限り、他国で進行しているAIモデルの学習を止めることは難しい状況と考えます。
さらに、アニメ系画像生成AIモデルの主流モデルやサービスは海外です。
他国で学習されており、利用者はLoRAを使っている実情です。
個人的に「学習」に関しては、OpenAI裁判などでも棄却されています。
訴訟の立証要件が難しく、日本の利用者に対して「出力」規制を行う方が早いと考えます。
画像生成AIの追加学習、マージ、LoRAの仕組み上、「学習規制」しても、本当に解決する問題なのか個人的に疑問視しています。
例えば、学習されたくない「本人」ではなく、似た絵を別の絵師に制作依頼する。制作依頼した絵をAI学習させる。そういう手法もあると考えます。
俺は元増田の意見には同意しないが、それはゲーム性に対する考え方が違うからだ。
選ばなければ良い、というブコメなど楽しみ方や仕様、マウンティングのブコメなどあまりにもひどい。
なので、簡潔に何がひどいのか、実際のところドラクエ3のかんたんモード(ゲーム中では"楽ちんプレイ")はゲーム性を損ねていないのかを書きなぐる。
冗長なので読み取れない人が居るのは仕方がない。
元増田はきちんと「勝ち負けの無いゲームがあるのはわかる」「ゲームシナリオが楽しめれば良いとは思わない」「開発者がゲームそのものを破壊するゲームモードを組み込むのは違う」という話をしている。
だから、選ばなければ良いというのは違うし(組み込まれていることそのものを問題視している)、楽しめれば良いというのも違う(シナリオはゲーム部分の没入ありきという前提がある)、マウンティングも違う(私は、と自分の話をしている)
つまりnot for meという話も芯をとらえていない。
突き詰めれば元増田にとって「ドラクエ3はそういうゲームじゃない」のを破壊された、という話をしているので。
これは、少し卑近な例になるが、ニチアサのような女児男児向けアニメや実写作品で、公式が成人アダルトすれすれグッズを出した時の拒否反応に近いと思う。
not for meではないし、選ばなければ良いという問題でも無いのだ。
公式がそんなことをするなんて、存在が生理的に受け付けない、という感覚に近いと思う。だから気持ちはわかる。
ここまで元増田の肩を持っておいてなんだが、俺は楽ちんプレイはゲーム性を棄損していないと思っている。
最初に言っておくと、ドラクエのロールプレイングゲームは、単一の「こういったものだ」というものでは無いと思っている。
ロールプレイ(なりきり)も重要な要素だが、セーブもできないようなダンジョン深くでのヒリついた攻防や、道具とMPとをにらめっこしながら渋い管理を強いられることや、誰から防具を揃えて武器をどうするかなど、それぞれに思い入れがあると思う。
あとで書き添えるが、そもそもドラクエ3のゲーム性の話をするのであれば、今作でもっと触れるところがあるだろうとは思う(元増田はライン越えの話をしているので、まあ蛇足なんだが)。
ドラクエ3は、そもそもで言うとキャラをロストしない。蘇生からの失敗で灰になったり、仲間を永遠に失うことは無い。
ドラクエ3では、戦闘不能は明確に死亡として描写されるが、蘇生は確実に行える。
ただ、これでもってRPGとしてのゲーム性がウィザードリィより劣るとは言えない。ゲームシステムの違いだからだ。
そして、ドラクエでは伝統的に全滅を利用したゲーム攻略があったことも忘れてはならない。デスルーラを筆頭とする、全滅時に戻される仕様はあまたの勇者たちに長く愛用されてきた。
どんな高難易度のダンジョンの奥深くで全滅しようが、装備もアイテムも失うことなく、ゴールドを減らすのみでほぼノーペナルティで復活できた。
全滅後にセーブポイントまで戻されるシステムは利用(許容)しておいて、いまさら戦闘時に死亡しなくなる点のみを論点にするのは違うと思う。
楽ちんプレイでの戦闘不能にならず全滅しないというのは、言い方を変えれば、全滅した後にまた同じ戦闘まで戻す作業をスキップした、ということだ。
(戦闘で全滅して街からまた戦闘まで戻す作業中の悔しさこそがドラクエ3でそれが根幹だ、というのは、ちょっといくら何でも偏っている)
ではなぜあまたのプレイヤーが あぶないみずぎ について言及するのだろうか。
ドラクエの防具が、頭防具+1、鎧+5などでないのはなぜだろうか。
ターバン や くろしょうぞく である理由がそこにないと言えるだろうか。
もちろん、慣れて周回するとそれが単なるデータであり専用装備のフレーバーテキスト(雰囲気のための記載)に過ぎないことも理解できるようになる。
ただドラクエのドラクエたるゲーム性は、そのフレーバーにこそ宿っていると思う。
防具ではあえて触れなかったが、そもそも戦闘不能にならないからと言ってずっと真っ赤なHP1のままゴリ押しするプレイヤーはほとんどいないだろう。
なぜならばクッソ面倒くさいからだ。
単位時間当たりのダメージ量(DPS)を気にしなくなると言うが、それはゲームに多大な時間をつぎ込める人間だけだ。
そりゃ、ダメージ量が上がり、ボスの自動回復が無くなれば、1ダメージの積み重ねでもいつかは倒せる。それは事実だろう。
でも、現実世界のプレイヤーには時間の制約があり、そんな苦行みたいなことはしたくないのだ。
そうすると、ちゃんとそのボスに見合った、周りのモンスターを倒すのに見合った装備品を身につけることになり、きちんと武器には意味が生まれる。
このあたりから、「ドラクエ3リメイクの話するならそこじゃなくね」という話になる。
そもそも、今作では序盤からアイテムが結構拾える。つぼや宝箱を丁寧に確認していくと、結構装備品が揃う。
セオリーを教えてくれる町民もいるにはいるが、古い防具を売っては買い足してとか、ちまちまと金策をする意義は薄い。
装備品の付け替えから、各種ステータス異常を含めても、今作はとても遊びやすい。
とはいえ、店売りの武器防具の性能を見れば、今の装備品に比べて楽になるな程度の想像はつき、全滅しないのであればより試しやすくもなっている。
昔ほど必死になって金策をしては武器防具を下取りに出して新しい装備品にして、という手間はなくなったが、それはゲーム性の本質的なところでは無い(と思う)。
さて、全滅しないことでどんなことが起こるだろうか。
ドラクエ3ぐらいになると、シャレで選べよと忠告される遊び人を何故か連れていきたがる勇者もいるが、基本仲間の職業なんか堅めにそろえるしかない。
殴ってくれる戦士、打撃が効かない相手への魔法使い、回復してくれる僧侶。
でも、今作ではキャラメイクで髪色が選べるし、仲間の見た目もある程度は選べる。
初心者がうっかり、戦士、武闘家、魔物使いにしてしまっても、ほぼ詰まることなく遊べる。
これはテンプレ構成を押し付けることなく、自由に遊んでもらいながら、(そのプレイヤーから見た)理不尽な死を回避できる良い方法だと思う。
全滅したらセーブデータを消して最初からやり直していたものだけが石を投げよ。
ボス戦で、無駄行動や良い乱数を引いてギリギリで勝てたという経験で興奮したプレイヤーも多いはずだ。
それは裏を返せば、運が悪ければ全滅してまたその戦闘まで戻す、もしくはレベル上げして再挑戦するという作業を強いられていたとも言える。
元増田が、新しい土地に踏み込んで知らないモンスターに出会って全滅したときに、黙ってセーブデータを消して最初からやり直すタイプであれば謝罪しよう。ゲーム性を棄損するという非難には正当性がある。
しかし、うっかり全滅してセーブポイントまで戻されて再挑戦したり、道具を大量に使ってなお負けたのでリセットした経験があるのであれば、そのやり直しのタイミングが戦闘中に限定された、という考え方にすることはできないだろうか。
ちょっとしたミスで膨大な時間が無駄になるという経験を無くすのが、楽ちんプレイの目的なのであれば、理にかなっている。
それはプレイヤーに寄り添う形にゲーム性がかわっただけであり、ゲーム性の棄損でもなければゲームの破壊でもない。
俺はドラクエのようにダンジョンの最奥から魔法一つでお手軽に帰ってこられるRPGがダンジョンを題材にしたゲームとして劣っているとは思わないし、死力を尽くして良い乱数を引く戦闘"だけ"がドラクエの醍醐味では無いと信じている。
(遊び方次第だが、全員真っ赤のHP1で戦闘を終えた後、ここは早かったなとキメラのつばさを使って街に戻るのであれば、ほぼ全滅時にゴールドを失わない程度の意味しかない)
ドラクエ3リメイクのゲーム性の話をするならさ、レベルアップ時にHPとMPとが全快する仕様について疑義を呈してくれよ。
キメラのつばさとルーラ(MP0)が天井があっても使えるようになったという点とかさ、ミニマップが右上に常に出てるとかさ、アイテムがもりもり拾える点とかさ。
難易度を いばらの道だぜ にしてても、この辺の仕様変更ってゲーム性を大きく変えてる(損なったとは思わないが)。
全体的に、現代にドラクエ3をリメイクして、ほとんど内容を変えずにお出しする際に遊びやすさがすごく考えられて調整されていると思う。装備変更するときも楽だし。
でも、手持ちのやくそうが尽きて、絶望的な気持ちで いのりのゆびわ を使って、リレミトとルーラで戻ってくるみたいなロールプレイはもうできなくなったと思うと少し寂しい気持ちもある。
が、じゃあマップもノートに書いてメモを大量にとってと言う体験を後の世代にこれこそがドラクエなり!とお出しして良いかと言われると、いやもう時代じゃないしな、という気持ちになる。
だからというわけじゃないが、時代に沿ったゲーム性の変更は許容すべきだと思うんだよね。
それは破壊じゃない、ゲームが苦手でもエンディングにたどり着く人を一人でも増やす救済なんだよ。
というわけで、めっちゃ良くできてるから食わず嫌いしてる人は買って遊ぶと良いよ!
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うーん、ちょっと待って。話を聞いてみると、君が言ってることはかなり偏った見方をしてるんだよね。パワハラが「犯罪とは違う」と思ってるかもしれないけど、実際はその考えがまさに歴史的に見ても危ういし、現代の社会ではその視点が非常に問題視されているんだ。
まず、パワハラを「指導に対する解釈不一致」として軽視しているけど、そんな風に扱うのはかなり危険だよ。君が言うように「犯罪ではない」としても、パワハラが引き起こす心理的・肉体的ダメージは無視できない。これがわかりやすい事例で言えば、18世紀の産業革命時代の労働環境だよ。労働者は過酷な条件下で働かされ、身体的な搾取だけでなく、精神的にも虐げられた。その結果、労働組合が台頭し、労働基準法が整備されていったんだ。つまり、過去の教訓として、パワハラのような行為が「指導」という名の下に行われることで、結局は社会全体の健全性を損なうことがわかってるんだよ。
それに、セクハラを「性犯罪」として認識しているけど、パワハラは「心理的な暴力」としての側面がある。たとえば、ドイツの哲学者イマヌエル・カントが述べた「人間は目的そのものであり、決して手段として扱ってはいけない」という倫理観があるけど、パワハラを行うことはまさに相手を手段として扱う行為なんだ。これは現代倫理において許されるべき行動ではない。
また、公益通報者保護の問題についても言及しているけど、それが「裏切り者を放置する方が有害」と感じるのは、全体主義的な考え方に偏っている。公益通報者が保護されるべき理由は、社会全体の信頼を守るためなんだよ。仮に君の考えが通ると、組織内で不正を暴くことがリスクだらけになり、結果として社会が腐敗する。中世の封建制度下では、貴族や領主の不正を誰も指摘できなかったことがあるけど、その結果として民衆の不満が爆発して革命が起きたんだ。現代社会でも、通報者を守ることが民主主義や透明性の基盤なんだよ。
つまり、君の考え方は歴史的に見ても偏ったもので、現代社会においても非常に問題が多い。パワハラが「指導の一環」として許容されるわけではないし、公益通報者が守られるべき存在であることは、社会的な正義を維持するために不可欠なんだよ。
AIが
筆者は「日本の法において、学習そのものを拒否する権利は最初から無い」と述べていますが、これは完全に正確とは言えません。
現状、日本の法律では「著作権法30条の4」に基づき、著作物を学習データとして利用する行為は一定の条件下で許容されています。
ただし、その範囲や条件は解釈の余地があり、特に「学習目的の利用」が具体的に何を指すのかについては、まだ法的に明確化されていない部分があります。
そのため、法的議論が進行中であることを軽視しているようにも見えます。
筆者は、「個人の絵柄が再現されることはあり得ない」と断言していますが、これは生成AIの特性をやや過小評価している可能性があります。
確かに、現在のAI技術では数十枚程度の学習では個別の絵柄を忠実に再現することは難しいと言えます。
しかし、「LoRA(特定の作家に特化した学習モデル)」のような技術は既に存在しており、これを利用すれば特定作家のスタイルを再現することが可能です。
これが問題視されている点を無視するのは、公平な議論とは言えないかもしれません。
筆者は反AI派の行動を「感情論」や「おまじない」と断じていますが、反AI派の中にも「自身の表現が無断で利用されること」に対する倫理的懸念や、「AI技術がクリエイターの市場に与える経済的影響」を真剣に考えている人々がいます。
これらの懸念を一括して「無知」「癇癪」と表現するのは、反対意見を不当に矮小化していると受け取られる可能性があります。
筆者は生成AIを「道具」であると位置付けていますが、この視点だけでは不十分です。生成AIは単なるツールであると同時に、新しい文化や経済の仕組みを作り出す可能性を持った技術です。
そのため、「AIは道具でしかない」とする議論では、AI技術がもたらす社会的影響を正確に評価できていないように見えます。
5. 過度な断定と冷笑的な態度
筆者は議論の中で感情的な表現や冷笑的な態度を多用しており、「反AI派は愚かだ」という印象を読者に強く与えています。
このアプローチは、自身の意見を支持する読者には響くかもしれませんが、中立的または反対の立場にいる読者には逆効果となる可能性があります。
批判的な視点を示すことは重要ですが、過度に攻撃的な表現は議論の説得力を損なうことがあります。
筆者の意見は、生成AI技術を肯定的に捉え、冷静な視点で反AI派の行動を批判している点で一理あります。
しかし、技術や法的問題、反対意見の背景をやや軽視している面も見受けられます。
意見そのものは正当性がある部分も多いですが、一部で議論のバランスを欠いている印象を受けます。
もし筆者が自分の立場をより説得力のあるものにしたいのであれば、反対意見をもう少し丁寧に扱い、具体的な技術的・法的根拠を挙げることで、公平な議論を構築することが望ましいでしょう。
って言ってたよ。
思想信条の自由の迫害とかそういう歴史上の悲劇といった意味合いを当て嵌めるのは間違ってる
アニメ・マンガ・ゲーム界隈が非常に混沌としており、ゲハ(ゲームハード)の争いなどがその一部であることにようやく気づきました。ゲーマーやゲーム好きなら、PS5もSwitchもゲーミングPCも持っているのが普通ではないかと思っていましたが、実際には賃金差別や健康問題、介護などの理由でそれが難しい人もいるのです。
あるハードやメーカーの決算発表を見て、これらの争いが能力の問題に関連していることに気づきました。「アニメ・マンガ・ゲームはわかりやすいから、知的な困難を抱えている人が好んでいる」というアンチオタクの意見もありますが、実際にオタク自身がそう感じていることも多く、これは事実かもしれないと思います。ゲハの争いは信仰ではなく、多くが困難から来ているのではないかと考えています。
特定のハードを購入するには特別な理由が必要で、それは信仰心でもコレクター魂でも、PCアレルギーでも良いのですが、そうした理由がないと理解されていないようです。決算の説明を理解できない人も多く、信仰ではなく能力の問題だと感じました。
幅広い属性の人々が楽しめるコンテンツを作ることに誇りを持つべきで、その価値を認識し、賃金差別やバックグラウンドの問題に真摯に向き合うべきだと述べています。そして、特定の属性の人々を騙すことは倫理的に問題があると強調しています。
最後に、ブログのコメントを見ても能力の問題だと感じ、MMOやウマ娘に対する誤解を持つIT関係者に対してもコメントしています。
とりあえず、この業界に寄せる思いとしてはこんな感じです。幅広い属性や健康状態の人々が楽しめるコンテンツを作っていることに誇りを持ってください。わかりやすい=とるに足らないものではないと思います。世の中に素晴らしい価値を提供していると思います。
『誇りじゃ飯は食えない、儲からないなら辞める』と言うなら、それで構いませんが、続けている間は、AさんとBさんにとって○万円は同じ価値ではない現実を真摯に受け止めてください。賃金差別があるし、賃金差別が回避できたとしても、さまざまなバックグラウンドの問題があるのです。幅広い属性の中には助けが必要な人も含まれており、その人々を騙すのはやめましょう。倫理的に問題があります。
マシンパワーが必要なゲームを積極的にやりたい人はゲーミングPCを持っているという現実と、持っていない人にはそれなりの理由がある現実を見つめてターゲット設定をしてください。
この増田についてのトラックバックやブコメを見ても、能力の問題だという確信を強めました。また、MMOやウマ娘についての誤解を持つIT関係者に対してもコメントしています。
つまりこいつは義務教育でニンテンドースイッチを配ればいいといいたいのでは
わいの追記
・感触でいうと、ソニーのプレイステーション5を購入するって海外ゲーマーかモンハン勢で、あまり身近にいないのでそれを今さら問題視されてもふーん
・ゲーム専用機もグラフィックボードを搭載したゲーミングPCも4K画像の出力にまで万全に対応できないという事実から、価格と画像クオリティは比例することはわかっている。そして性能の高い機器はもはや中古軽自動車を軽く超える価格になるから、当然ながら、高給取りを含めた一般向け価格では無い。
だが、4Kぬるぬる動かせるクオリティの高い機器は、マイニング、AI生成をしたい人、ソフトウェアやシステムの開発者、実況youtuberなどであれば経費で購入するものであるから、絶滅する心配はない。
したがって、「弱者ゲーマーに配慮せよ」とゲーム機器メーカーに命令することは無駄である。できることは「安くてクオリティのいいゲーム機器をたくさんつくってくださいというお願い」である。
ブコメでは、結婚が「所有物扱いで他人の性愛や恋愛を死ぬまで制限できる」と主張していますが、これは結婚制度に対する極端かつ誤解を招く見方です。
結婚という制度が、必ずしもパートナーを「所有する」ことを意味するわけではありません。
現代の結婚は、信頼と愛情に基づくパートナーシップであり、どちらか一方が他方を「所有する」ような関係ではないのが一般的です。
結婚は、互いの自由や独立を尊重しつつ、共同で人生を歩むことを意味します。
もちろん、個々の関係にはさまざまな形があり、伝統的な結婚観に基づく価値観が強い場合もありますが、現代社会では、パートナーシップの形態やお互いの自由に対する理解も重要です。
したがって、結婚が「他人の性愛や恋愛を制限する」という描写は、現代の結婚観には合わない一面的なものです。
ブコメは「お互い好きでそうする分には素晴らしい」としていますが、この主張は結婚の本質を理解していない可能性があります。
結婚においては、単なる「好き」だけでなく、相互の責任やコミットメントが重要です。
結婚は、感情的な自由だけでなく、相手を尊重し、共に人生を歩む責任を伴うものです。
もし「好き」で結婚が成立するならば、結婚の持つ社会的責任や、互いに対する倫理的義務(信頼、尊重、忠実さなど)を無視していることになります。
このような視点は、結婚における責任感や倫理的側面を軽視しており、現実の関係においてはうまく機能しにくいものです。
ブコメは結婚を過度に自由主義的に捉えており、「死ぬまで制限できる」という側面を強調するあまり、自由と責任のバランスを欠いています。
結婚やパートナーシップにおいては、個人の自由はもちろん重要ですが、その自由は相手との関係や社会的な責任に基づくものです。
自由主義の立場は、確かに個人の自由や選択を尊重するものですが、これを無制限に適用することで、パートナー間の責任や義務、あるいは社会的な影響を軽視してしまう危険があります。
結婚には、互いに尊重し合い、支え合うという責任が伴い、これを無視した「自由のみに基づく結婚観」は、実際には安定した関係を築くうえで問題を生じさせることが多いです。
ブコメは結婚を自由の制限として捉えている部分がありますが、実際には結婚自体が「自由を制限する」ものではありません。
結婚は、お互いに約束や信頼を基に成り立つ共同の営みであり、その中で互いに支え合う自由が大切にされるべきです。
結婚が「自由を制限する」と捉えるのは、パートナーシップの意義を誤解していることになります。
また、結婚をしているからといって、パートナーが他の人との性愛や恋愛を一切できないわけではありません。
現代の結婚では、カップルによってはオープンな関係を築いている場合もあり、「制限」という概念が必ずしも適用されるわけではありません。
要は、結婚をどう捉えるか、どのようなルールで関係を築いていくかが重要です。
ブコメは「結婚してイエに入れば所有物扱い」と述べることで、伝統的な価値観を非倫理的だと一括りにしていますが、このような極端な視点では、結婚や人間関係における多様な価値観や倫理的側面を無視することになります。
結婚には、相互の尊重、信頼、愛情、責任が必要であり、それらを軽視することは、関係における基盤を弱くする危険性を孕んでいます。
たとえば、結婚が所有物のように扱われることを問題視するのは理解できますが、それをすべての結婚観に当てはめることは誤りです。
結婚における平等性やパートナー間の自由を重んじる考え方もありますが、これは所有という概念に基づくものではなく、あくまで信頼と協力に基づくものです。
ブコメは結婚に対する自由主義的アプローチを強調しすぎて、結婚における責任や倫理的な側面を軽視している点が問題です。
結婚は自由でありながらも、互いに支え合う責任が伴うことを理解し、価値観や文化に基づく多様な結婚観を尊重することが重要です。
自由が重要であることは間違いありませんが、それを実現するためには、個人の自由と社会的責任とのバランスを取ることが必要です。
またブコメを書いた人の思考にはいくつかの偏りが見受けられます。以下にその特徴を挙げてみます。
ブコメは結婚を「自由を制限するもの」として捉え、結婚を批判しています。この視点は、自由主義的な立場を過度に強調し、結婚が持つ多様な意味や責任、パートナーシップとしての価値を軽視していると言えます。結婚が「自由を制限するもの」として描かれているため、結婚の本質的な価値や役割を過度に否定する偏りがあります。
偏りの具体例:ブコメは「所有物扱いで他人の性愛や恋愛を死ぬまで制限できる」という見解を示していますが、これは結婚制度の実態を過度に単純化したものです。現代の結婚においては、パートナーシップの自由や独立を重視する考え方も多く存在しており、結婚を一面的に「自由を制限するもの」とだけ捉えるのは誤りです。
ブコメでは結婚をほぼ否定的に捉え、「所有物扱い」といった極端な表現を使っています。結婚は「自由を奪うもの」であるという前提を置き、結婚における責任やパートナーシップの価値を十分に評価していないように見えます。
偏りの具体例:結婚における責任感や共同生活の価値を無視し、結婚を単に「所有」や「制限」の観点から批判している点は、過剰な批判的視点に基づいています。結婚は、信頼や尊重、協力の上で成り立っている場合も多く、その側面を無視して自由を制限するものだと決めつけるのは偏った見方です。
ブコメでは、結婚という制度がすべて「所有物扱い」や「自由を制限するもの」だと一般化しています。しかし、結婚制度は文化的背景や価値観、個々のカップルの関係によって非常に多様であり、その全体を一つの偏った視点で評価するのは誤りです。
偏りの具体例:「結婚してイエに入れば所有物扱い」という表現は、伝統的な結婚観に基づく一部の事例を過度に一般化したものです。現代社会では、平等なパートナーシップとして結婚を捉える考え方も多く、すべての結婚が「自由を奪うもの」だとは限りません。
ブコメは、自由を非常に強調し、「お互い好きでそうする分には素晴らしい」という視点を持っていますが、これは理想化された自由の概念に偏っている可能性があります。結婚においても恋愛においても、個人の自由を尊重することは重要ですが、それと同時にお互いの責任や義務が存在することを理解していないようです。
偏りの具体例:自由の尊重は重要ですが、それが互いの信頼や責任感を無視することと結びつくわけではありません。結婚には、相手を尊重し、共に歩んでいく責任が伴います。ブコメは、自由が理想的なものとして描かれていますが、現実的には責任感やパートナーシップの価値も同じくらい重要です。
ブコメには、道徳や価値観が相対的であることを過度に適用する傾向があります。結婚という制度が自由を奪うものであると一概に否定することで、他者の価値観や文化的背景を考慮していないように見受けられます。道徳や倫理観は文化や社会において異なるため、その相対性を無視するのは問題です。
偏りの具体例:結婚を「自由を制限するもの」と一括りにして批判することは、個々の文化や価値観を尊重しない姿勢に見えます。実際には、結婚が持つ意味や価値は地域や個人によって大きく異なりますが、その多様性を無視して一つの視点に固執するのは偏った考え方です。
ブコメを書いた人は、結婚に対する過度に自由主義的な立場を取るあまり、結婚の責任や相互の支え合いという側面を軽視し、理想化された自由の概念に過度に依存しているように見えます。また、結婚という制度に対する批判が過剰に一般化されており、その多様性や実際のパートナーシップにおける倫理的価値を十分に考慮していない点が、思考の偏りとして挙げられます。