はてなキーワード: 草間彌生とは
商業的に成立しなくなった伝統工芸を継承・保存するために補助金を出すのはまだわかる。そういうのは国が補助金出さないとロストテクノロジーになってしまう。
でも前衛芸術を補助金出してまで保護する必要ってあるのか? 今は商業的に評価されなくても芸術的な価値が高いものが、補助金受けてる展示の中にあるのか?
ゴッホやピカソが国から補助金貰ってたとは思えないし、そこまでいかなくても岡本太郎や草間彌生が補助金で食いつないでた時代があるとも思えない。
「市場で高く評価されて高価なアートを公立美術館が買い付けるために補助金を出そう」という話ならわかるけど、「作家を食わせるために補助金を出そう」という話はさっぱり理解できない。
美術手帖で連載中の「シリーズ:これからの美術館を考える」の第6回、横山由季子(金沢21世紀美術館学芸員)による「シリーズ:これからの美術館を考える(6) ブロックバスター展は善か、悪か|MAGAZINE | 美術手帖」。一読して何が言いたいのか理解し難かったが、それもそのはず、書いている本人が考えがまとまらないと言っているのだった。
まとまらない考え、逡巡をそのまま書いてしまいましたが、現状を共有することで、今後の共催展、ブロックバスター展について考えるきっかけになれば幸いです。
「考えまとめてから話せ、バカ」で済む話ではあるけど、一部好意的に受け止められている様子もあり、少しこだわってみたい。
まず、かなり気に食わないことの一つに、ブロックバスター展について「善か、悪か」と問うている点がある。「善悪」というのは倫理道徳的な価値判断であり、展覧会の評価をするにあたってはなじまない言葉である。「是非」でよかったはずだ。にもかかわらず、横山は敢えて「善悪」という強い言葉を用いた。その理由は推測することも可能だが、不要だから止めておく。ただ、私自身は「善か、悪か」という問いに答える気にはならないし、また応じて「ブロックバスター展は悪だ」と言っている人がいたら異様だと思う。些末な問題ではある。しかし、筆者の立ち位置や考え方が無意識に出ているように見受けられる所、注意を要する点である。
次。筆者はタイトルで「ブロックバスター展は」と議論の対象を提示する。そして文中で「ブロックバスター展」の定義を明確に行う。ここまではまったく素晴らしい。だが、なぜか横山は文中でブロックバスター展以外についても語り出してしまう。こんなわずか短い文章にもかかわらず、その対象を固定することすらできない。大丈夫なのか、この人?
実際に対象になっているのはブロックバスター展と共催展である。前者も後者の一部だが、このうち60~70万人ほどを動員したものを指すと定義している。もちろんそれ以上動員した場合も含まれるのだろう。また、共催展以外でこの規模の動員は不可能と考えられる。すなわち、60万人以上の動員を記録した展覧会はブロックバスター展だと言っていい。明確だ。
共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれるものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議でメディアの担当者と話していても、60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚がある。
共催展一般が共通するものであるならば、わざわざ分ける必要はない。だが、60万を越える規模になると、単に量の違いではなく、質の差が出るようだ。「60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚」というのはそういうことだろう。ならば、「ブロックバスター展」と呼び分けることに意味が出るわけだ。
しかし、結局筆者が俎上に乗せるのは共催展一般であって、ブロックバスター展特有の問題についての指摘はわずかしかない。筆者は読者にブロックバスター展のみに絞って考えて欲しいのか、それを含めた共催展一般について考えて欲しいのか不明である。というよりも、筆者自身の中で、その程度のことすら整理できていないのではないかと思われる。
そんな筆者横山が共催展やブロックバスター展の「現状」についてどのように認識しているか、批判的に捉えているか、文章を引用しつつ細かく見ていこう。
ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段は美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術の裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。
一過性の消費の何が悪いのかさっぱり分からん。人生は短い割に、世界はあまりにも豊かだ。誰しもが、美術とがっぷり四つに組んでいる暇があるわけではない。すべてのことに入れ込むことはできないわけだ。学芸員と成るほど美術に真剣に取り組んでる横山も、例えば音楽とか、芝居とか、映画とか、ほかのジャンルに関しては一過性の消費で済ませていたりするわけでしょ? 美術に対してそういう態度をとる人たちを批判する権利なんかないわな。
ブロックバスター展やそれに準ずる共催展に足を運ぶ人の多くは、作品を見に来ているのね。有名作に心踊り、傑作に胸を打たれに来てる。学術性とか、正直無くても構わないとすら思っている。
最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。
共催展の数を減らして、ブロックバスター展に集約していると読めるけど、事実なのか?
当たり前なのでは。
ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外の作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。
ブロックバスター展や美術館展など、学術性の低い展覧会を批判する人って、だいたい欧米によく行っていて、そこで十分に作品を見ている人なんだよね。だから、そういった展覧会が名作や有名作を持ってきているということ自体に意味を見いだせないわけだ。でも例えば、今後10年間、海外所蔵の作品を見ることを一切禁じるって言われたら、我慢できるの? できないでしょ。できないなら「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり」とか言って欲しくないよね。子供や仕事で忙しい人、貧乏人、障害者、老人。誰しもが気軽に海外に行けるわけではない。そういうところにブロックバスター展の意味の一つがあると思うんだよな。弱者に優しいという点を鑑みれば、筆者の問いかけに「ブロックバスター展は善である」と答えることも可能かもしれない。
共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者に展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館や展覧会の未来はそう長くはないであろう。
若者じゃないから分からないけど、どっちかというとやはりブロックバスター展の方が若者にリーチしていて、それより規模の小さい共催展に問題がある気がするけどなあ。今なら例えばフェルメール展とルーベンス展。
近代美術の延長線上に現代美術を位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆や草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディアが現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術と現代美術をつなぐ展覧会を企画したり、現代美術を一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。
これはブロックバスター展や共催展の問題じゃないよね。美術館や学芸員が怠けていたからこういう状況になったんじゃないの? 「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ」んでしょ。美術館主催で粛々とやってればいいのでは。
数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代や主題ごとに画業をたどるようなオーソドックスな構成となりがちだ。先行研究や調査をふまえた新たな視点を、カタログの論文や作品解説のなかで示すことはできても、展覧会の構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館やルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館の学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画の自由度が低くなるという側面もあるだろう。
そういう学術性は不要なんだって。単にいい作品を持ってくればいいの。学術性を発揮したいのであれば美術館主催の展示でやればいい。それでは自分の能力が十分に生かされないと感じるなら本場の美術館に就職してください。あと、日本の学芸員よりオルセーやルーヴルの学芸員の方が信用できるから、その場合は口出さなくていいよ。
オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、そして日本語や中国語、韓国語の資料も網羅されている)、それを日々リアルタイムで更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。
日本がフランス絵画についてオルセーと張り合う必要なんかないよ。自国の美術の研究環境が貧弱なこと(いろいろ話を聞くに相応の事実だろう)については悲しむべきことだけど、西洋美術は基本的に横のものを縦にしてればいい。もちろん立派な研究をなしとげれば敬意を表するが、俺達のブロックバスター展を研究発表の場として利用してくれるな。
私はブロックバスター展やそれに準ずる規模の共催展を楽しんでいるのだ。それを学芸員風情の浅薄な考えや安っぽい使命感によってぶち壊さないで欲しい。日本に居ながらにして傑作や有名作を鑑賞することができる。これだけでブロックバスター展は素晴らしいものなんだ。ということを学芸員や玄人気取りに理解してもらいたいのだが、なかなか難しいのかもしれない。
一応草間彌生の作品をインターネットホットラインセンターに通報しといたから、その結果もpixivに突き付ける。
アトリエの名前(元メールでは具体名挙げた)を言ってサイトのURLも教えたのに、サークルっていう認識をしているってザルすぎるだろう。
私はエロティックアート作品を投稿して、本も作っていたのですが、ある日突然
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(以下略)
それに対して、「抵抗権は正当な権利である」とかまあ当然の事を言ったら、
みたいな事を言われて、
取り敢えず
(註:この反論は直接メールでは言っていません。メールで言おうとしても無視されるし、こちらからはpixivに言わないよう言われてる)
民事と刑事を混同していますよ?企業がこんな認識で大丈夫ですか?貴方訴訟される立場にいつでもなり得るんですよ?
書店に販売されている成年向け雑誌などで、適切なモザイク処理が施されていないことで発売元の責任者が逮捕された事例などもあります。
コアマガジンの件は警察の匙加減ですよ。pixivはそんな事も分からずにサービスをやっているのか。こりゃあワタミの方がマシだね。
昨今インターネット上での監視が強まっており、警察庁から業務委託されているインターネット・ホットラインセンター等から、送信防止措置を求められることがあります。
馬鹿かこいつら?草間彌生の男根オブジェやエゴンシーレの全裸イラストにインターネットホットラインセンターがなんか言ったか?
取り敢えず草間彌生の男根オブジェの写真が載ったサイトをIHCに通報して、多分対象外になるだろうがホットライン対象外と言う結果を突きつけてpixivがドナルド・トランプと同様のフェイクニュース野郎であることを暴いてやるつもりだ。
調べたら、利用規約に書いてるからって何してもいい訳じゃないみたいだな。
是正いただけないようですので、アカウントを停止いたしました。
また闘われるとのことですが、ご自身の責任の範疇でご対応ください。
抗議したら、こんな神作譲や司忍もびっくりな事を言われてアカウント停止されて、今消費生活センターに相談している所だ。
※後日母親と相談したが、話聞いてるので行かなくていいとのこと(2018/08/21追記:母親は私がエロティックアートを描いていることは知っていますし、別に止めてもいません。むしろ応援しています。)
あと感情的になっているのでそこらはすまん、訴訟の目処が立ったらこれは消すつもりだ
今はまだ分かりませんが、某サイトにも相談済みです(勘のいい人ならバレるか)。
1533039372-00321
(2018/09/02追記)草間彌生の作品の載ったサイトを通報したところ、
ちょうど仕事の谷間も時期だったので、衝動的に有休を取って平日の昼間に六本木の国立新美術館まで行ってミュシャ展を観に行った。
連休にぶつかると混雑は必至なのはわかっていたので、そうなる前に観に行きたいと思って行ったのだが行って正解だった。
とはいえ、平日にも関わらずそれなりに人が多かった(ちょうど草間彌生展も同時開催してたので、そちらの客入りの影響もあったのかもしれないけど)。
少し前のNHKの特番を見て予習したのだが、やはり生で観るのとでは迫力が全然違った。
まず、ミュシャの画風がスラヴ叙事詩とそれ以前(パリでポスターとか広告絵を書いてた頃)で全くの別人のようで大変驚いた。
スラヴ叙事詩はそこに描かれた苦難の時代を生きるスラヴ人の眼力の凄まじさに、まさに射竦められる心地がした。
「残りの人生はスラヴ民族のために捧げる」というミュシャのの真摯な姿勢が感じられた。
一般的なミュシャのイメージといえば、パリ時代のサラ・ベルナールの舞台のポスターに代表される作品群だが、これはこれでもちろんよかった。
花と女性の四部作に描かれる女性は官能的だけど、決して下品ではないエロティズムが魅力的だった。
「花と女性」だけでなく、宇宙的なモチーフ(太陽・月・六芒星・星座)も取り入れられてるのも特徴的だった。
故郷のチェコ(当時はチェコスロヴァキアか…)に戻ってからもパリ時代のポスター画みたいな作品をいくつか描いているが、
そこに描かれる女性は少し趣が異なる、スラヴ系特有の丸顔が特徴的だった。
朝の10時半頃から昼過ぎの14時までゆっくり鑑賞することができて満足した。
帰りは遅めの昼食を東京ミッドタウンの中の店で採った、新宿にもあるだし茶漬けえんで冷汁を食べた。これは美味しかった。
奈良美智 「自分の作品のファンがラッセンも好きなら発表をやめる」 - Togetter
ムサビの受講生アンケートにおける「嫌いなアーティスト」に村上隆、草間彌生、会田誠、カオスラウンジが挙がるも,奈良美智が挙がらなかったらしい。
それについて,武田氏(誰?)が「奈良美智が好きな人はラッセンが好きなんだろう」という発言をしたらしい。
それについて,奈良氏が「武田さんの発言は、なんだか心外だなぁと思います。僕の作品が好きな人に統計をとってみてほしいですね~。ほんとにそうだったら、発表を辞めます。本気で。」とtweetした。
ラッセンは「美術」として扱われておらず,他方で奈良は「美術」として扱われている。これは,ラッセンは美術館に展示されない(あるいは美術館を発表手段としていない)が,奈良は美術館に展示されていることに端的に表れている。村上隆が美術館に入り鳴子ハナハルが美術館に入らないのと同じである。
もっとも,そのような,業界での位置づけ(奈良=内部者,ラッセン=部外者)という視点は,両者のファン層が重複するか否かと関係しない。
ファンになるか否かは,業界での位置づけではなく個々人の好みの問題であるから,作品あるいは商品自体の性質から導かれるはずだ。
ラッセンの絵は,海とイルカという具体的なモチーフを扱いながら何らの意味を持たない。
奈良の絵もまた,何らの意味を持たない。(それ故に,殊更に「嫌いなアーティスト」として認識する必要に迫られない。)
少女という具体的モチーフを扱っているかのように見えるが,実際にそこで行われているのは,キャンバスに直線を数本引いて「この線の緊張感が」と云々する古式ゆかしい現代アートそのものである。
作品のスタイルからして,ラッセンは中身の無い美しい物好きに,奈良は中身の無い顕学主義者に好まれるであろうから,両者のファン層は異なると予想される。
したがって武田氏の発言は失当であり,奈良が怒るのも尤もなのである。
(などと書いてみたけど,何らの意味を持たないという点では草間彌生も同じなのに彼女はムサビ生に嫌われているらしいので,間違ってる気がする。)
松本人志監督作品の映画「しんぼる」を見た。以下「しんぼる」及び「バベル」の相違点について言及しているため、両作品のネタバレ含むので注意。
松本人志はテレビで見せるフリートークと、コントで演じる役とのギャップが激しい芸人である。フリートークで自我を全面に押し出して、コントでの演技は別人格かのような憑依型。この二つを偏らず両立させて、しかも成功している。
映画「しんぼる」においてもまた、見た目奇抜だが、無口で平凡な思慮の浅い男(それでいてどこか狂気をはらんでいるような)男を自分に憑依させて演じようとしている。
では、何故見た目を奇抜にする必要があったのか、果たしてこの主人公があのような服や髪型のチョイスをするような人間だろうか?
見ているとそのような矛盾や違和感が何度も起こる、矛盾や違和感だけを繋げて映画にしたといっても良いぐらい出てくる。しだいに全てに何か理由があるんじゃないかと思うようになり、どうしてもそれを考えてしまう。最終的に「くだらない」が「面白い」って事ね、という所に一応行き着くが、やっぱり「で、それが何なの?」という疑問の答えにはなっていない。
この映画が、観客の解釈や理解をうながす為に作られているのは間違い無い。「もっと理由や意味を考えてみて!」と言われているような、そうやって考えるのが面白いという事だろうか。その結果裏切られてしまうカタルシスを楽しめ、そういう作品なのかもしれない。
解釈や理解しようとする事自体を楽しめ、というテーマだとして、ではその映画に正しい理解や解釈の正解は存在するのか? 存在しているはずだ。その方が面白いから。
という訳で、正解を探す事にする。
僕が考えた正解なんじゃないかと思う答えを検索してみると、バラバラの要素としては既出なのだが、統一されたものが無いのでここにその解説を書いてみよう。
「しんぼる」は、日本人の海外に対するコンプレックスを表現した作品だ! と強く断言してみる。
「しんぼる」は、2006年カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した「バベル」という映画を非常に意識した作品である。
バベルのネタバレになるが、バベルはメキシコ出身の監督と脚本家による映画で、ナショナリズム的な視点から観ると、思慮の浅い日本人のせいで、モラルの無いモロッコ人の子供が銃を使い殺され、それに巻き込まれた白人は自分達の事しか考えない。それにひきかえ他民族の子供を低賃金で助けるメキシコ人は陽気で善人だ、という解釈が出来る。松本人志はナショナリズムが強い思想の持ち主なので、バベルを観てメキシコ人ふざけんなよと、日本を馬鹿にすんなと怒ったはずだ。
だからしんぼるでは、同じ文脈で皮肉たっぷりに、思慮の浅いヘンな日本人のせいで、メキシコで不条理な出来事が起こり子供が不幸になる、バベルと同じくその因果関係に理由は無い。また物語の舞台となる国の数も同じ。バベルのアメリカモロッコで起こる出来事と違い、しんぼるでのロシア中国で起こる出来事は不幸ではなく、ただくだらない出来事なのだが、これはバベルの偶然性による不幸に対する皮肉なのだろう。バベルの偶然性による不幸が、メキシコ人監督の恣意的なナショナリズムにすぎない事への批判である。
さらに、映画の撮影の仕方も同じで、カットバックを使った演出もさる事ながら、しんぼるにおいてメキシコの場面での映像は、ドキュメンタリーのような手ぶれのあるハンディカメラの映像なのだが、これはバベルが終始そのように手ぶれのある映像だからである。
次いで、上記のバベルに対する皮肉を、さらに拡大して日本の文化による世界に対する皮肉、あるいはバベルを絶賛したカンヌ(フランス)のアートシーンに対する皮肉として、現代アートの文脈でアイテムが構成されている。
まず主人公の髪型や衣装は、フランス芸術文化勲章を持つ海外でも評価の高い草間彌生の格好で間違いない。脱出劇としては広すぎるあの白い部屋もインスタレーションそのもの。飛び出てくる意図的に日本の物に偏ったアイテム、それを使っての笑いは日本の文化の文脈のようでいて海外向けの笑いでもあり、これは海外でウケる日本の現代アートのコンセプトそのものである。
バベルやカンヌに反発を覚えながらも、欧米文化の中で迎合して同じ舞台に立たないかぎり世界的に受け入れられないというジレンマを抱え、それに対して下ネタとパロディという形で皮肉をこめ、彼らの持つ日本人のイメージを利用して、滑稽な道化のふりをして笑いを取り、しっかり世界にウケる現代アートの文脈にそって作品を作っている。
そして映画のクライマックス、最後の最後に、神のような姿になった主人公の背後の壁に立体的な世界地図が現れる。多くの日本人は何の疑問も持たないと思うが、外国人にとっては違和感のあるシーンである、その世界地図は日本が中心となっている。
このように「しんぼる」という映画は、日本と日本以外の世界を意識した作品である。世界に向けて表現しながら、媚びずに日本的であろうとした訳だ、しんぼるというタイトルも、英語のひらがな表記であるのはそういう理由だろう。
要約すると、松本人志による海外アートシーンを皮肉った「日本最高!」を世界に向けて表現した映画。
おそらくアートの文脈を松本人志が知っていたとは思えないので、その文脈を組み込んだのは脚本を共同作成している放送作家の高須氏によるものなんじゃないかと思われる。
憶測だが、バベルの脚本家か監督は菊地凛子演じる聾唖の女子高生のイメージを、例の毎日新聞waiwai事件の、元ネタの記事を見て得たんじゃないだろうか。元ネタ(http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/435.html) 女子高生、ノーパン、チラ見せ、男を誘惑、家で裸、という点が同じである。最もリアルに創り込むべき役なのに、日本にそんな女の子居る訳がないというような人物を設定した矛盾。海外受けするメジャーなアニメや映画でその様なイメージの女子高生キャラが居てそれの影響を受けたとは思えないんだが、しいて挙げるなら岩井俊二作品の女子高生の不安定さと元ネタの記事を合わせた感じだろうか。