はてなキーワード: 河童とは
ただ、家族から切り離して老人の集落を作る・日中はフツーに農作業して老人集落へ帰っていく地域の方が多かったのでは?と言われているがな
あたおかは捨てるよりも殺した方が合理的とかいうが、兵士ですらPTSDになるっつーのに、自分の両親・家族を殺せるわけねーっつーの
金あるのに棄老している人たちのことを、食うものがなく、泣く泣く山や谷に母を捨てた先人はどう思うだろうな
まぁ地域ごとに特色が違うらしくて圧倒的に殺意が高い地域(棺桶に入れて投げ落とすなど)もあれば、
老人の足腰でも登り降り出来る山に連れてって、昼は山から降りて農作業を手伝い食事をもらい、山に帰っていく地域もあったそうだが
日本の女がなぜかぜんぜん働かないし働く意思もない教育しちゃってるのは、少女漫画の悪影響以外に、
こういう先人の願いがあったのかもな
パンデミック前に体験したほんのり(と当時は思っていた)怖い話を残しておきたいと思います。
当方外資系の商社の営業部で働いている身なのですが、時折他国の支社に出張する機会があり、初めて上司を伴わずに一人で出張となったのが2018の事でした。行先はタイのバンコク。
数日間の忙しい仕事や打ち合わせを終え少し気も楽になった私は、一人であったこともあって独身男性の好奇心のままに夜の街に繰り出すことにしました。
ここでなぜか日本人特有のシャイさを発揮した私は、日本人の溢れる某エリアを避け、バンコク中心部から北東に離れた歓楽街に向かいました(念のためエリアの具体名は避けたいと思います)。有名歓楽街では女性を品定めして「買う」スタイルが主流であるのですが、当時彼女がいた私は海外とはいえそれも気が引け、そのバンコク北東エリアではセクシーな女性と一緒に飲んで楽しむというスタイルがメインとネットで見かけたのも私を後押ししました。
22時頃現地に到着すると、そこら中ネオンやサインで目がくらむというような感じでもなく、一目見て外国人と見受けられる男性陣もまばらです。予想以上のローカル感に少々面喰らいましたが、それらしきバーにとりあえず飛び込んでみました。
店内は50名程度はくつろげるであろうスペースのバーで、奥のステージでは5,6人のお姉さんがやる気のない感じで体を音楽に合わせて揺らせています。
稼ぎ時であろうと思われるのですが、店内には数名の地元客と思われる人たちしかおらず、外国人は私一人でした。今考えると繁盛店でなく、外国人もいない時点で危ない香りがするのですが、興奮と好奇心がMAXに達していた私にはそのことは全く気になりませんでした。
空いている席に着くと、小さめのドドリアのような小太りのおばさんがドリンクとフードのメニューを運んできます。地元密着型であるためか価格はとてもリーズナブルで、万が一の事を考えてかなりの額を両替してきた私の心配は杞憂に終わりました。一通り注文を終えると、ミニドドリアは「ガール?」と言います。どうやら席に女の子を付けたいか、という事のようです。満面の爽やかな(つもりでとても気持ちの悪い)笑みで「プリーズ!」と言うと、ミニドドリアが去って行った後に小柄の可愛い女の子が私のもとにやって来ました。
女の子はとても可愛い!某ダレ〇ガレさんを小柄にしたような彼女は、私のもとに来るなり隣の席ではなく私の太ももの上に座りました。片言の英語でコミュニケーションを取りつつ、私の手を彼女の体のあちらこちらに導く彼女に、この時点で私の興奮はマックスです。気持ちが大きくなるうえに彼女におねだりもされ、オーダーも進みます。ドリンクや追加注文をするたびに席で現金で払うシステムなのですが、現地の通貨になれていない私は正しい紙幣を探すのに苦心し、彼女に助けてもらう始末でした。今考えるとこれがいかに無警戒だったか…
さて、そんな形で楽しく30分ほど飲んでいた所なのですが、まだビールにカクテルを2杯ほど飲んだだけなのに、急に頭が朦朧としてきました。右手でダレノ〇レさんのお尻を撫でながら、楽しさでIQ2になった頭で必死に考えます。「これはもしや…何か盛られた!?」そうこうしている間にも、ますます頭が働かなくなってきます。横にいる女の子に私を心配する素振りが一切ないのも、ますます私の不安を煽りました。
(寝込みに財布の金を根こそぎ取られる…?痴態を撮影されて脅される…?まさか体を切り裂かれて臓器が…)と最悪のシナリオが頭によぎった私は、「今日は帰る」と女の子に告げ、もつれる足で何とか店の出口に向かいました。そばにいる店員は口々に「レスト!レスト!」と言ってきます。いよいよ危ない感じがしてきました。
ひどい千鳥足で出口までの道のりは永遠にも思えましたが、店のドアを開け、外で目に付いた最初のタクシーに飛び乗りました。
その後の一時間ほどの事は全く覚えていません。幸運だったのはタクシー運転手が超が付くほどの聖人だったことです。行先も告げずに気を失った私をとりあえず安全なバンコク中心部まで送り届け、そこで車を停めて起こしてくれました。彼の言うところによると、私の後を追って店員がタクシーのもとへやって来て、「この外国人は気分が悪いみたいだからうちで介抱する」と車から降ろすようにしきりに促していたようです。そこで車から降ろされ店に帰されていたら、果たして無事に帰国できたか分かりません。
ちなみにその後、混ぜ込まれた薬物の質が悪かったせいか、宿舎のベッドからほぼ動けない状態で上下の口からのマーライオンに2日間悩まされたのですが、理由が理由だけに同僚にも何も話せず、ただの体調不良を決め込んだのでした…
日本でもニュースなどで、女性をターゲットにした「デートレイプドラッグ」が報道されることがあります。しかし男性でも私のような形でターゲットになることがあるとは想像だにしておりませんでした。
ハルシオンやデパスのような即効性のある薬を、しかも店までグルになって仕込まれると、ほぼ対抗策がありません。私のような無鉄砲なエロ河童は少ないと思いますが、海外にお出かけの際にはくれぐれもお気を付けください。
河童は生き物だろうか
何故なら、子どもに人権がある国 もしくは、親に子どもは子どもの人権を守る意思がある場合は、子どもの養育コストがバカ高くなるからだ
『子どもの人権を無視しないエリート労働者』や『まともな中間層』は晩婚小梨(あるいは養子)か子ども作っても1人だぞ
別に現代の職に対する要求値が上がったから晩婚化したわけではなく、江戸時代だって番頭が結婚したのはとりわけ有能な者で30歳くらい
番頭はエリートだから(震え)にしたって農村部でも男の初婚は25歳〜28歳だよ
現代でもそうだが職人の見習い・下積み期間は給与が安いのだ。ITだってそうだね
職業経験が極端に薄い人・・・というか ギリ健 or 開き直りDQN は想像もしないのだろうけど、
ギリ健 or 開き直りDQN、そのどちらでもない人は、子どもを持つまでに自分の仕事を自由に調整出来るようキャリアを構築するんだよ
もしくは組織の制度でフツーに産休・育休・時短が出来る公務員・大企業社員になる
そもそも自分の面倒を見れない男女が子どもを作るのが本来ならおかしいの
江戸時代は子どもに人権がなく、子どもを河童にしたり売り払っても問題無かったから、
やるべき事やらない連中が子ども作っても、運が良ければ次世代に血を繋げることができただけなの
身のほどを弁えろ
ボクサーを撲殺したのは僕さ
これから満で数つけるわ
ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ
新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼し信管が作動する。
ケニアに行ったら生贄や
柑橘類の香りに歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。
塗装を落とそうか。
観光客がフイルムに感光させた写真を刊行することが慣行になった。
サボってサボタージュ
景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)
夫を成敗するオットセイ
つまらない妻の話
竹の丈は高ぇなー
餅を用いて持ち上げる
ロストしたローストビーフ
サボテンの植え替えサボってんな
過度な稼働は可動範囲を狭める
伯爵が博士の拍手に拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人を白紙にもどす。
紅葉を見て高揚する
甲子園で講師をする公私混同した孔子の実力行使には格子窓も耐えられない。
死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」
夜祭で野菜を食べる。
信玄餅を食べながら震源を特定するように進言する新元素を発見した人。
蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ
五反田で地団駄を踏む
ようやく要約が終わった
海溝で邂逅
豪華な業
甲板で甲板をかじる
甲板で乾パンをかじる
店頭で転倒
大枚をはたいてタイ米を買う
醤油をかける人「えっっ?」
神田でした噛んだ
少食な小職
牛の胆嚢の味を堪能する
あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。
キーンという高音の起因が掴めない。
こんな誤謬は秒でわかるだろ
壊疽した箇所が治るというのは絵空事だ
経口補酔液
痴的好奇心
セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ
軽微な警備
冬眠する島民
ベットは別途用意してください
The deserted desert in desert desert.
九尾のキュービズム
罹災者へのリサイタル
画家の画架
不納が富農になるのは不能だ
理工がRICOHに利口な履行
I sensed tha it is in a sense sense.
私はそれをある面では扇子だと感じた。
鯖を食べている人と、それを見ている人の会話
鯖 ça va?
ça va 鯖
ça va
ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない
早漏で候
凪に難儀
東上線に搭乗した東條が登場
高校を後攻で煌々と口腔で孝行
蝉が転んでセミコロン
道徳をどう説く
写真はフォトんど撮りません
ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」
華美な花瓶のカビに過敏に反応
檻に入っておりいった話をする
夏のおサマー
夜は寝ナイト
渦中のカチューム
渦中のカチューシャ
リスボンでリスがborn
どうないはどないなってんねん
苫小牧でてんてこ舞い
市内を復旧しないと
石狩の石を借りる
おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」
砂がどしゃーw
東上線に登場した東條が登場
飽きない商い
おなか吹田市
観劇で感激する
側転に挑戦し即、転倒
別件を瞥見
凹地のお家
魚を初めてみた人「うぉー」
カラヤンの頭の空やーんw
豚をぶった仏陀
只見線をタダ見w
菊名でそんなこと聞くなよ
五秒で死んで御廟に埋葬
がらんとした伽藍
有給を使いすぎて悠久の時が流れた
長谷に想いを馳せる
Thinkerの真価
不具の河豚
暗記のanxious
半世紀にわたる半生での藩政を反省
タンチョウが単調増加
ショック死内親王w
カルカッタの石軽かった
天皇のこと知ってんのー
蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する
其方のソナタ
先王に洗脳される
防潮堤で膨張した傍聴人
砂漠で鯖食う鯖を裁く
筒に入った膵島
サイコロを使った心理テスト(psychological test)
カラシニコフが辛子個踏んだ
皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂
にようかで酔うか?
うるさい人が売るサイ
どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人
透徹した饕餮の眼球
チャカで茶菓を破壊
slimyなすり身
ゆうほど広くない遊歩道
いにしえのイニシエーション
コーランをご高覧ください
K殻の傾角を測定する計画
協賛した共産党員に強酸をかける
負けたのは聖者の静寂のせいじゃ
裏地見るウラジミール
カミオカンデの上に紙置かんでw
県大会がおわり倦怠感を感じる
夕暮れのユーグレナ
ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm(公務)」
エド・はるみの穢
祭壇を裁断
腐卵ダースの犬
全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」
四苦fuck
都バスが人を跳ね飛ばす
怒るカロテン「なにカロテンねん」
嫌がる慰安婦「いやんっ」
かえるがえる帰る蛙
沈厳な青梗菜
トリコロールの虜
布陣を組む夫人
栗けっとばすクリケット🦗
婉容と遠洋漁業
アマルガムで余るガム
ハラスメントの疑いを晴らす
滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない
他意はないタイ人の鯛の態度
鯛が蛇足
ダジャレではない↑
割と面白い
ハラッパーの原っぱ
紫に関して思案を巡らす
Huluが夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流)
下調べのムニエル
わからないので
意味ない諱
よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」
どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」
計算ができない人
着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」
enough、enoughは工夫がenough
負け負け山(カチカチ山)
薬師丸せま子
トーマス・マンの書いたふるさと「うさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」
その心は
焼結が猖獗を極める
これはstaleだから捨てるか
衒学的な弦楽を減額
完全な勧善懲悪
イボ人の疣痔
イブに慰撫
(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)
盲いるのに飯いるの?
アーヘンで阿片を吸った人「あー変」
毒吐く独白
明借りるアスカリ(車)
丁寧な砂浜「Could you九里浜」
ゴーンと奉公
その心は
サンクチュアリに山窟あり
熟れたウレタンは売れたんか?
清澄な声調を静聴し成長
プエルトリコで増える虜
象さんを増産
兄弟が今die
Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす
ソフィカルのソロカル
美人局に筒持たせる
十把一絡あげ
篤信な特進が涜神を得心
これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。
クートゥを食うとぅいいよ
マイソールで昧爽に埋葬
ドクサは毒さ
暗殺で朝死んだ
クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」
凛々しいリリシズム
衛生的な俳人
御髪も亂とはオクシモロンだ
コロナ後の世界を分析する学問→postcoronialism
影響が色濃いイロコイ諸族
あてのあてないアテナイ
記事からは特に問題意識を感じなくて、「ツイッター速報〜BreakingNews」とやらが「させられている」って書いたのが全てかと。
2023/01/06
政治キメてるとこ悪いけれども
「かっぱ寿司の地下では捕まった河童たちが泣きながら寿司を作る仕事をさせられている」というネタがあるので
「くら寿司ではウクライナ人が労働させられている」って書いただけだと思う
元ネタすら知らなければ「かっぱ寿司 強制労働」とかでググろう
で、
自分もかっぱ寿司ネタなんてずっと前にちらっと見ただけだけども
このツイッター速報の書きざま見たらパッと「あのネタね」となった。
「ああこの人は要素の類似であのネタを思い出したので軽いパロディでそう書いたのね」と。
手繰るのではなく一瞬でパッと全部出る。
世の中にはこの「パッと」が無い人の方が多い。
文章読んでもどういうネタかとかどういう構造かとかがわからない。
誰がどういう立場でどういう主張をしてるとか
何を参照してこういうこと言ってるとか
そういうことがパッと把握出来ないし整理できない。
ああ多分この人はこういうこと主張したいんだけど
こういう風に言葉が足りないせいで周りに通じるわけなくて
足りないのはここの説明だよねとか
それぐらいのことが自分は見た瞬間パッとわかるけど
やってる全員わかんないらしくて延々やりとりして段々喧嘩になってる。
だから中心で怒ってる人に
「これこれこうだからあなたここの説明が足りないので周りにはわかんないですよ」
「あなたの主張は多分AかBだと思うんですけどまずそこを明示しては」
って言うと更にピキピキ怒りだしたりする。
読むことが苦手な人の為に書くんだから段落分けたりとか強調したりとかいろんな工夫も要る。
だいぶ乱暴に書いた方が反応が良かったりする。
たぶん漏れなく書いたところで漏れなく読める人があまりいない。
ちょうどいい塩梅に書くことをかなり訓練したけど
パッと掴むことより掴んだものをわからない人に説明する方がずっと努力がある。
この人は明らかにパッと掴める側の人だった。
彼は保守・右翼のカリカチュアと言うかパントマイムをしていた。
彼の発言は野暮な言い方をすれば保守・右翼への風刺や揶揄であって
パッと掴める人には一瞬でわかることだった。
革新・左翼側の人達に猛攻撃を受けて炎上・凍結したりしていた。
垢転生をまたぎ別々の大物から「ウヨク」誤認され2度炎上は凄いことで
当人も唖然としていたし見ている自分も開いた口が塞がらなかった。
我々にすればパッと掴める・伝わることが全く伝わらない。
革新・左翼大物のそれなりの文筆家が誤認して同士討ちを号令する。
もはやどういう風に文章を読んで理解してるのかさっぱりわからない。
最初の話に戻り、
「くら寿司ではウクライナ人がすしを作る仕事をさせられている」だけでパッと意図が掴めない。ニュアンスがわからない。
元ネタ知らなくとも「なんかこれは自分の知らないものが下敷きになってるな」と察知する鼻も利かない。
そういう人達にとって
「これは政治的イデオロギーの自分と対立する側の人間の妄言だ!ケシカラン!」
という処理は負荷がきつくない。
パッと掴めない人でも議論参加気分を味わうための補助輪ではないのか?
どうもそういうエッチラオッチラ読解するような能力の話とも違う気がする。
わかる人はパッと掴むし
それが出来ない人は時間かけて頑張っても無理。
冗談にしても
わかる人はひとことに100詰まったネタを一瞬で消化して
わからない人は15ぐらいのネタをダラダラ長い説明されてようやく理解して笑う(虚構新聞とかの感じ)。
これに長けてる人間もここが弱い人間も自覚すらないことが多い。
前者はなんとなく「自分はバズるのが得意だな」とかになったりはする。
職場や家庭などではパターン認知でなんとか会話が成立するからであって
自由なお題で少し抽象性の高い会話すると全くダメだったりする。
ネットではそこがむき出しになるのでフリーディスカッションは居心地が悪くなり、何らかの党派のチームに入りがち。
hesopenn
凄い思い上がった人だなという印象。
ある程度、額面通りに文章を読むことは不可欠で、パッと文意を読んでしまう人は誤読、深読みにハマる。
2023/01/08 リンク yellow16yellow
いや「パッと」自体は全員がやっている。
本当に額面通りに読むなら「ウクライナ人が寿司を作る仕事をさせられている」を読んで
この書き方をする書き手の意図はなんだろう?わかんないな・・・
で一旦保留して探るはず。
でもそうしてなくて
「難民様は働かずに暮らせるべき、みたいな意識なんかな」という、
書き手が何か特殊な政治的意見を表明しておるのだな、という解釈に「パッと」なっている。
これは自民党の工作員だな、という解釈に「パッと」なってはいる。
その直観が間違いなだけで。
「パッと」は全員やっている。
その精度が出る人と出ない人(掴めない人)という話。
…というこの話自体も
私の同類はたぶん「パッと」で秒でわかるし、
その能力がなくともエッチラオッチラ額面通りに読めば読めるはず。
それがわからなかったということは
・どちらの能力も欠損している
どっちかで
少なくとも「パッと」の精度が欠損しているのは確定的だと言えるので
そのことについてここでは書いているわけです。
chambersan
(大体わかった)相手が自己と同じ体験と知識がある事を当然の前提に話し始めるのって、ウチの子が5歳の頃にしていた行動なんだけど。
2023/01/08
話のまくらということを考慮してもたまたま増田がかっぱ寿司ネタを知っていたことをマウントの種にするのは話の趣旨からするとアホすぎんか?
2023/01/08
増田もかっぱ寿司ネタがさして面白いとは思えないし深くはまったことがあるわけでもなく
ずっと前にネットの片隅で見たなって言うのがパッと出る(出なくても未知の下敷きの存在を感知する)
という能力の話をしていて、
この話を
かっぱ寿司ネタを知ってるのが偉いというネットミームマウント合戦だな?と受け取る人は
「パッと」で間違った直観を得ているわけでしょ
だから念の為かっぱ寿司以外の例も出してるのにそこはそもそも頭に入りもしていない
それは掴めるとしか言いようがないんだけど
出来ない人は本当に「そんなの嘘だ」と言う反応になることを最近気付いた
キメセク天皇も仲間から燃やされるまでは気付いてなかったと思う
hakusai_chan
あのさあ、内輪のネタって内輪にしか通じないんやで。悪ふざけ叱られてただのネタなのにーってイキってる中学生みたい
2023/01/08
同上
仕事上の連絡とかのリアルでシェークスピアだのホメロスだのでマウントされてからもう一度書いてみてほしい
2023/01/08
「掴めない人もたぶん仕事だとやりとりは出来ている」
ということをすでに書いたのにこういう”反論”をする人は
・直観の精度が出ていないし
ということでしょ?
折り込み方はさりげなく何の目配せも無いほど高度であって
受ける側もそれをきちんと読み取れるのが当然。
こういう場面場面の違いの話も多分この人は理解をしない。
「この場面ならこう、この場面ならこう、」と書かれてあってもそれぞれのことが読み取れない。直観でもエッチラオッチラでも。
そういう人でも仕事のやりとりは積み上げたパターンがあるので何とかなっている。
そしてパターンコミュニケーションしかない人はその外での自分の欠落や無力を自覚しないので
ネットで自由の荒野に放り出されたときに、じわじわと党派モンスターに吸収されていく(楽だから)のでは
という話をしました。
mng_dog
本人の「俺は当然のことをやっているだけだが」という頭良しぐさと「パッと掴める」という頭悪ワードのギャップが面白い
2023/01/08
自分がある種の知性について優れているということなら多分そうだと思う。相対的に。
ただあなたの「頭良」「頭悪」のイメージはおそらく知性のイメージの相当な貧困があると思う。
社会が求める”理想の父”をあれだけの精度で演じて見せたあとで
そのステージを終わらせると決意した途端にまた見事な濃さの”女”になって出てくる。
物凄い能力の高さがある。
その一方でりゅうちぇるは中学までの学校の勉強の理解度は壊滅してるし、アナログの時計が読めない。
知性は無数の方向性があって、
【超ぷろろーぐ】
昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山んばにしばかれに、おばあさんは河童に逢い引きに行きました。
おばあさんが川で洗濯しながら河童を待っていると、川の上流から、1.26mの少し大きな桃がどんぶらこどんぶらこと流れてきました。
おばあさんはこのサイズの桃は美味しくないことを知っていましたので、川の下流の方に消えゆく桃を横目で見ながら洗濯を続けました。
おばあさんが揉み洗いを終え、木の枝に洗濯物を干していると、川の上流の方から、2.16mの大きな桃がこんぶらどこんぶらどと流れてきました。
おばあさんは川に背を向けて洗濯物を干していたため、この桃の存在に気づきませんでした。桃は哀愁を漂わせながら流れていきました。
おばあさんが洗濯物を終えて河童を待っていると、川の上流の方から、6.12mのとても大きな桃がどぶらんこどぶらんこと流れてきました。
ここまで大きな桃はおばあさんも見たことがありません。おじいさんに見せてあげようと思い、その巨大な桃を持って帰ることにしました。
おばあさんは荒れ狂う波に負けそうになりながらも懸命に手足を動かし、濁流に立ち向かいました。その姿はまるで水上のシャチ。あっという間に桃に辿り着きました。桃を抱えて泳ぐことは困難だなと考えたおばあさんは、桃にそっと手を添え、そのまま一思いに真っ二つに叩き割りました。すると中からは2.16mの桃が出てきましたので、おばあさんはその桃を抱えたまま岸辺に戻りました。6.12mの桃の残骸は、寂しそうに川の下流へぶらぶらと流されていきました。
岸について一息ついたおばあさんは、無我夢中だったのもありますが、6.12mの桃を割ってしまったことを恥じ、おじいさんに申し訳なく思いました。ですが、2.16mの桃も珍しいことは確かなのでそのまま持って帰ることにしました。
おばあさんが頭に洗濯物を乗せ、2.16mの桃を左手で抱えながら帰宅すると、おじいさんが笑顔で迎えてくれました。
「ばあさんお帰り。飯を炊こうかや?風呂を沸かせようかや?それともま る た?」
切り倒した木の幹を笑顔で見せつけてくるおじいさんの衣服は刃物で切られたあとがたくさん付いていましたので、今日のおじいさんは山んばとたくさんハッスルしたのだなあとおばあさんは思いました。
「丸太なんてどうでも良いですからおじいさん、これを見てください」
「わしの成果どうでもいいで片付けられた」
おばあさんが2.16mの桃をドスンと床に置くと、おじいさんはたちまち目を輝かせました。
「ここまで大きな桃は見たことがない。きっと神様の御使いが入っているに違いない」
いうなりおじいさんは木を切り倒すのに使っている斧を2.16mの桃に振り下ろしました。10年100年の間、毎日木を一振りで切り倒してきたおじいさんの斧の腕前は、もはやその対象が木でないものでも全く同じパフォーマンスを発揮することが可能。おじいさんの斧は桃の頂点から尻の中心までを寸分違わず、一直線に両断しました。
中から吹き出る果汁。その中に一際輝く小さな物体が、産声をあげていました。なんということでしょう、中には赤ん坊が入っていたのです!
「おお、ばあさんや、御使いが入っておったぞ!」
「赤ん坊を見るのなんて何年ぶりでしょう。そうだ、この子を私たちの子供として育てませんか?」
「御使いを育てるのってバチが当たりそうなんじゃが」
「ねえばあさん。わしの話聞いて?」
こうしておばあさんにより赤ん坊は桃太郎と名付けられ、大切に育てられることになりました。
【超ほんぺん】
それから3年が経ち、赤ん坊だった桃太郎は細マッチョの美青年に成長していました。赤ん坊にしては育ちが早すぎるのではないかとおじいさんは言いましたが、桃栗3年柿8年という言葉があるのを知っていたおばあさんは特に何も思いませんでした。この家でのおじいさんの発言権は無いに等しいのです。
さて、近頃隣村では鬼が出るという話を河童からおばあさんは聞きました。この話をすれば正義感の強い桃太郎は鬼を駆逐しに野を超え山を越え海を越えてしまうでしょう。人の噂も75日という言葉を知っていたおばあさんは、75日も経過すれば誰かが鬼を退治してくれるだろうと思って放っておきました。いつだって親は子供が大切なのです。
75日後、隣村が滅びたという話を聞いたおばあさんは、朝の食事におじいさんの好物であるお雑煮を作りました。お雑煮を主食に、隣村滅亡のニュースをおかずに。完璧な献立だとおばあさんは確信しました。
朝食中、おじいさんが餅をのどにつまらせて三途の川に足を踏み入れたそうですが、特に問題はありませんでした。おじいさんが何教徒なのかは誰も知りません。
正義感が強くて愛と勇気が友だちである桃太郎が、邪智暴虐を尽くす鬼の話を聞いてじっとしていられる筈もありません。朝食後に桃太郎はおばあさんに鬼を退治しに行く旨を伝えます。
「まあ待ちなさい、桃太郎」
「おばあさん、鉄は熱いうちに打てと言うではありませんか」
「待ちなさい、桃太郎。あなたの好物のきびだんごを作ってあげますから、あと1日待ちなさい」
「そうですね、おばあさん。刀をしっかり研がなくては鬼退治どころではありません。今日は一日刀を研いで、明日の早朝に家を出ようと思います」
「わかりました。桃太郎、忘れ物をしないように気をつけるのですよ」
「わかりました、おばあさん」
「……なあばあさんや、どうして桃太郎はわしに対して何も言ってくれないんじゃろうか」
「おじいさんはいつも通り仕事をしてればいいのですよ。これは私たち家族の問題ですので」
「わし家族としてカウントされてないの?わしはおばあさんにとっての何なの?」
「私は今日桃太郎にきびだんごを作ってあげなければいけませんので、自分の洗濯は自分でお願いしますね」
「わしの服もついでに洗ってくれてよくない?」
「わかりました。川に流しておくので海に流れる前に取りに行ってくださいね」
「自分でやるわ」
おばあさんは桃太郎に6.21mのきびだんごを4つこしらえてあげました。これにはきびだんごが好物の桃太郎も、1日かけて研がれた刀も大喜びです。桃太郎は喜びの感情を抑えられずに庭へ飛び出して小躍りし、刀も嬉しそうに鞘をガシャンガシャンと鳴らしています。
「桃太郎、いってらっしゃい。転ばないように気をつけるのですよ」
「ありがとうございます、おばあさん。鬼が生まれたことを後悔するようにこらしめてきます」
「鬼がかわいそうだから程々にしてやっておくれ。鬼にも何かしら事情があるんじゃろう」
「ありがとうございます、おじいさん。痛みを感じないように速やかに地獄へ帰還させることにします」
「ねえ、わしの話聞いてた?」
こうして桃太郎は迷子の鬼を故郷へ導くために、午前8時に家を出て、きびだんごを転がしながら鬼が住むという鬼ヶ島へと走っていきました。
桃太郎の家から鬼ヶ島への道のりは12.00km、直線距離は約6.00kmです。桃太郎は時速3kmで歩くことができるため、鬼ヶ島へ舗装された道を通って行く場合は片道4時間程かかるでしょう。それだと往復時間と鬼を退治する時間を合わせて、計8時間半程かかってしまいます。これだと寄り道をして遊ぶ時間がほとんど取れないと考えた桃太郎は、鬼ヶ島まで木をなぎ倒しながら直線で進むことにしました。これだと往復時間は4時間です。遊ぶ時間は十分に取れるでしょう。
さて、桃太郎が4つのきびだんごを転がして森の中を進んでいると、急に背後から犬が現れました。
「こんにちは桃太郎!美味しそうなきびだんごだね!1つ僕にも分けて貰えないかな?」
桃太郎はこれを快諾し、1つのきびだんごに犬をねじ込みました。初対面でタメ口、しかも人に食べ物をねだるような犬畜生のしっぽは嬉しそうにブンブン揺れているので、とても喜んでいるのでしょう。犬畜生は立派ないぬだんごに進化したのです。
桃太郎が3つのきびだんごと1つのいぬだんごを転がして木を薙ぎ倒していると、急に目の前に猿が立ちはだかりました。
目の前に何が立ちはだかろうと、桃太郎は止まりません。桃太郎には鬼を倒した後に遊ぶというとても大切な計画があるのです。
そんなわけで桃太郎はきびだんごに猿を巻き込みながら進みました。猿が何を言おうとしていたのか少し気になりましたが、そんな小さいことは鬼退治という大義の前では無意味に等しいのです。桃太郎はすぐに猿のことを忘れました。
桃太郎が2つのきびだんごと1つのいぬだんごと1つのさるだんごを転がして海を渡っていると、空から雉がとても大きな声で話しかけてきました。
「なんでしょうか。私は今鬼退治で忙しいのですが」
「私もその鬼退治にお供します!!!!私は奴らに友を殺されたため、奴らに復讐したくて仕方がないのです!!!!ケーーーーン!!!!!!!」
「それは可哀想に。どれ、少し降りてきてください。共に鬼ヶ島へ行きましょう」
案の定、復讐心に身を焦がす焼き鳥はきびだんごに巻き込まれました。
今ここに、いぬだんご、さるだんご、きじだんごという3種の神器が揃った今、もはや恐れるものは何も無いと、桃太郎は鬼ヶ島へきびだんごを向けます。
世にも恐ろしい鬼が住まうという島は、桃太郎の来訪を拒むように雷を轟かせていました。
桃太郎が鬼ヶ島へ上陸した頃、鬼ヶ島では宴が開かれていました。人間から奪い取った食料が、賞味期限一日前であることが判明したからです。賞味期限がすぎた食べ物を出すと「腹を壊す」などと若い鬼が騒ぎ、賞味期限がすぎた食べ物を捨てると「食品ロスだ」などと老いた鬼が喚くため、今日消費することでしか食事当番の鬼の未来はないのです。食事当番の鬼はボイコットしてやろうかと思いましたが、そうするとほかの鬼からフルボッコにされて食材にされる未来が見えたので、大人しく料理を作りました。
さて、鬼が豪勢な食事を囲んでいると、海の方からごろんごろんと巨大な玉が4つ転がってきました。
いえ、よくよく見るとそれは玉ではありません。
あるものは犬のしっぽのようなものが飛び出ていて、あるものは猿のものと思わしき赤い尻が見え、あるものは鳥の羽を生やしていました。
そしてその3つの生命の輝きと1つのきびだんごを転がしている神の御使い、あるいは人間が、今こそ鬼に滅びをもたらさんと凄まじいスピードで宴会の席に突っ込んでいきました。
たくさんの鬼が、1人、また1人ときびだんごに巻き込まれていきます。そして鬼ヶ島の表面全てをきびだんごが通過した頃には、鬼ヶ島には桃太郎ときびだんご――おにだんごを除いて、人っ子1人いなくなりました。ついでに海もなくなりました。これで海面上昇に悩まされる国も大喜びすることでしょう。
鬼ヶ島は壊滅した!ミッションコンプリート!おばあさんの家に戻ろう!
桃太郎は再び4つのきびだんごのようなものを転がして、元来た道を帰っていきました。
後に残されたのは、草木だけでなく海すらも1滴残さず蹂躙された、今日まで鬼ヶ島と呼ばれていた陸の孤島だけでした。
【超えぴろーぐ】
帰りに春画即売会に立ち寄ってきびだんごのようなものと両手いっぱいに抱えられるほどの春画を交換した桃太郎はほくほく顔で帰路を辿りました。
桃太郎が家の扉を叩くと、お婆さんと山んばが笑顔で出迎えてくれました。山んばの手には鞭が握られており、奥の部屋には縄で縛られたおじいさんがいました。
桃太郎は抱えていた春画を畳の上に並べました。おばあさんは桃太郎に感謝を述べながらNTRモノを持っていきました。山んばはSMモノを数冊抜き取った後奥の部屋へと戻りました。おじいさんがあまりにも騒がしかったので、桃太郎は百合の春画を投げ込んで襖を閉じました。
桃太郎がどの春画から読もうか悩んでいると、縁側から河童と1.26kmの桃が家に上がってきました。
河童は言いました。
「僕ら、実は結婚することになったんですッパ」
これを聞いた桃太郎は大いに喜んで2人の結婚を祝いました。おばあさんも笑顔で祝辞の言葉を述べました。
「いえいえ、お構いなくッパ。おばあさんからは沢山のものをいつも貰っているではありませんかッパ」
「この玉手箱と大きい葛龍、どちらが欲しいですか?」
「本当にいらないです」
「あ、じゃあここにある春画から好きなのを持っていってもいいですよ。後で私にも読ませて貰いますが」
桃太郎の結婚祝いは秒で受け取ることにした河童と1.26kmの桃は触手陵辱モノの春画を持っていきました。2人の性的嗜好は似通っているようなので、これは熟年カップルになれるだろうと桃太郎は笑顔になりました。さりげなく河童を2.16kmの桃に寝盗られたおばあさんはとても興奮していました。きっと今晩はお楽しみになることでしょう。
こうして日本一美味しい鬼退治は終わりました。鬼は食べ物のために村を滅ぼしました。しかしその鬼も桃太郎の正義の前にあっけなく滅ぼされました。鬼退治の翌日には春画と交換されたきびだんごは誰かに食されています。桃太郎一行が所持している春画も、毎日おいしく頂かれることでしょう。
世界は食べることを中心に回っているのです。それを忘れて食べ物を粗末にすると、あなたもきびだんごにされてしまうかもしれませんよ。
世間の流行の移り変わりとは無関係に、私は度々『鬼滅の刃』の原作単行本を読み返しているのだが、またも同作を読んでいる。
ここ最近の読み返す切っ掛けの一つとなったのは、例によって金関丈夫の『木馬と石牛』である。何度目だ。
ひとまず最初に紹介しておく金関丈夫の論文は「わきくさ物語」と題する一篇である。
これは、腋臭(わきが、えきしゅう)や体臭を肯定的に捉えるか否定的に捉えるか、その相違について、人類学的な統計データに基づいて西欧人と東アジア人の腋臭体質の多寡(出現頻度)を比較するとともに、東西の文学作品や文献に於ける腋臭や体臭に関する記述を比較したという内容である。今さら気づいたが、論文の題名は『若草物語』のパロディである。
金関丈夫の論旨を大雑把にまとめて紹介すれば、次のようなものである。「人類学的に見て、西欧人の集団では腋臭体質の人の出現頻度が高く、日本や中国などの東アジア人の集団では出現頻度が低い。それに呼応するかのように西欧では、身体の臭いを肯定的に捉えて讃美する詩や文学作品が見出される。それとは対照的に日本や中国では、身体の臭いを讃美する文学作品や記述は見られない。ひどい体臭の人が周囲から疎んじられるといった、否定的な記述内容は見出される。日本の文学においては、田山花袋の『蒲団』など西洋文学の影響を受けた近代の少数例を除けば、体臭文学は存在しなかったのではないか」云々。これも今さら気づいたが『大衆文学』の駄洒落である。
それはともかく、かのナポレオンが愛人に宛てて「近々戦場から戻るから、風呂に入らずに待っているように」と手紙を書いたという有名な挿話を知っていると、金関丈夫の主張にも頷けるところがある。
しかし、体臭文学に関して言えば、確かに金関丈夫の言うとおり国文学の中では劣勢なのかもしれないが、嗅覚そのものは、時代の変遷や題材の違いによる差異はあれども、国文学においても大なり小なり着目したり描かれたりしてきたのではないかと思う。源氏香(※)のような遊びが生まれたぐらいなのだから、香り・匂いを味わうことの悦びを昔の日本人も持ち合わせていなかったわけではないだろう。それにまた、腋臭のような刺激的な匂いに対する肯定的な記述が見られないからといって、体臭そのものに対する愛好癖が日本人の間に存在しなかったとまでは断言できまい。好ましくない体臭に対する認識があったのならば、好ましい体臭に対する認識があってもおかしくはない。したがって、いま少し詳細な再検討が必要ではなかろうかと思われる。[※注:源氏香は、室町末期以降の遊びであるが、源氏物語各巻の見出しに源氏香の記号が付記されるようになったのは明治以後のことらしい。また、その記号は、組合せ数学のテキストで例として挙げられることもある。]
とまあ、こういった具合に「わきくさ物語」を読み直したことが切っ掛けで、嗅覚について色々と思いを巡らせていたところ、竈門炭治郎のことも連想して『鬼滅の刃』を再読し始めたという次第である。
ところで、上に述べたとおり、私は金関丈夫の主張に対しては批判的な考えを抱いているわけだが、そのような批判的思考は私の独創ではない。以前に読んだ本の記憶から「はて、国文学でも、それなりに嗅覚は重要視されていたはずではなかったか?」と思ったので、金関説にも疑問を抱いただけなのである。
さらに、その時に本で読んだ内容には『鬼滅の刃』を妙に連想させる記述も含まれていたと記憶していた。そこで本棚を漁ってみたところ、それらしきものを再発見した。次に、それを紹介しようと思う。
『鬼滅の刃』の主人公たちである竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助の三人が持つ優れた感覚は、それぞれ、炭治郎=嗅覚、善逸=聴覚、伊之助=肌感覚(触覚)である。炭治郎や善逸は、相手が人間か鬼か、人間であれば善人か否かを、これらの感覚によって看破できることは、漫画を読んだりアニメを観たりした人ならばよくご存知のことと思う。
この三感覚と同じ取り合わせを、私が目にしたのは、小松和彦の著書『神々の精神史』(講談社学術文庫)に収録されている「屍愛譚(しあいたん)をめぐって 伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の冥界譚を中心に」と題する論文の中であった。
まず、私が『鬼滅の刃』を連想させるものと記憶していた箇所を、少し長くなるが同論文から引用しておこう。
「男と女の愛の語らいは、昔から夜中に行なうのが一般的であった。言い換えれば、愛とは、第一次的に視覚に依存するものではなく、香り(嗅覚)や声・物音(聴覚)あるいは肌触り(触覚)のなかから豊かに創り出されるイメージの、想像力による夢幻の世界における営みであった。そして、日本的女性美の一つは、この視覚的な隔離から発生しているともいえよう。『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」のなかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」とあるが、この言葉が苦しまぎれに吐かれた言葉にせよ、実に見事に女の美のあり方を、愛のあり方を示唆している。」
奇しくも、小松論文の中で三つの感覚が挙げられる順序は『鬼滅の刃』の物語に主人公たちが登場する順序と一致している。果たして吾峠呼世晴は、小松和彦の論文や著作を読んでいたのかどうか。真実は分からないが、そういった想像をしてみるのは楽しいことである。
さて、小松和彦の論文は、国文学などにおいて見られる、妻・夫・愛人などに先立たれた人が、パートナーの亡骸を屍姦したり冥界を訪れるという物語や記述について論じたものである。その中でも題名のとおり特に、亡くなった妻のイザナミ恋しさに黄泉の国を訪れたイザナギの物語、そこで語られる覗き見の禁忌、その侵犯について考察している。
死して黄泉の国の住人となってしまったイザナミは、自分を現世に連れ戻すために訪れた夫イザナギに対して「それでは、現世に戻れるのかどうか、殿内に入って黄泉の神と協議します。私を待つ間、決して中を覗かないようにして下さい」と言い残して黄泉の殿内に籠もる。しかし、妻と黄泉国神との協議が終わるのを待てなかったイザナギが禁忌を犯し、黄泉の国におけるイザナミの変わり果てた姿(肉体が腐敗して蛇に集られている有り様)を覗き見てしまったがために、彼女は現世に戻ることが不可能となり、二人は別れざるを得なくなる。
この禁忌を犯す場面において、イザナギは彼の御髻(みみずら)に挿していた湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を抜いて、それに火を灯してから黄泉の国の殿内を覗き見るという筋書きになっている。この灯火を焚く必要があったということは、つまり、黄泉の国でイザナギとイザナミが語り合ったのは、闇の中であったことを示している(そうでなければ、黄泉の国で最初に再会した時点で、イザナミの肉体的変貌にイザナギは気づいていたはずである)。ここには、現世でも黄泉の国でも何ら変わることのない「男女の愛の営みや語らい(ピロウトーク)は暗闇の中でこそ行われる」という形式がある。
小松和彦の論文でも指摘されていることであるが、日本のイザナギ・イザナミの冥界譚やその他の屍姦譚・屍愛譚には、中国大陸の物語から影響を受けた節が窺える。小松論文でも紹介されているが中国の東晋時代の書物『搜神記』における屍姦譚の一例として、次のような話がある。
美しい女性と結婚した男が、妻から「私は普通の人間ではないので、結婚してから三年経過するまでは、夜、明かりで私の姿を照らさないで下さい」と言い渡され、それを守りながら夫婦生活を送り、二人は子まで設けた。しかし、どうしても夫は我慢が出来ず、ある夜、明かりで照らして妻の姿を見てしまった。彼が目にした妻の姿は、腰から上が普通の人間の女性で、腰から下は干からびた白骨というものであった。妻は「私は死者であるが、あなたが、あと一年だけ我慢して私の今の姿を見ないでいてくれたならば、完全に蘇生することが出来たのに。しかし、あなたが禁を破ったがために、最早それは叶わなくなった」と言い残し、形見として袍(うわぎ)の端布と二人の間に生まれた子を残して、男の元を去ってしまった。その端布を持って嘆き暮す男のことは、スイ陽王(スイは目偏にオオトリ旁)の知るところになり、袍の端布が王の若くして亡くなった娘姫のものと同じであったことから、娘姫の葬られた墓を暴いたとの嫌疑で男は取り調べられることになった。男が語った事の経緯を信じられない王と家来が、娘姫の墓を検分したところ、墓暴きに遭った形跡も認められず、念のために墓内に入って棺も確かめると、袍の裾が棺の蓋の隙間からはみ出ていた。それを見て「さては、本当に墓を抜け出して夫婦生活を送っていたのか」と、王も家来も信じるようになったとの由。この生者の夫と幽霊の妻も、彼らの愛の営みを、妻の申し渡した禁忌を犯さないように、明かりの無い暗闇で行なっていたことは確実である。
イザナギ・イザナミ冥界譚と『搜神記』における人間・死者婚姻譚との間に共通するのは、妻の本当の姿を見ることの禁忌、それを夫が犯したために妻の蘇生が叶わないという点である。
特に前者の覗き見の禁忌について、小松和彦は考察し、その本質は「女性が『ありのままの姿』を公に晒すのは好ましくないという、昔日の社会における男女観・価値観・倫理観の反映」であり「女性の本性を覗き見ることについての禁忌」だったのではないかと推理している。それを裏付けるかのように、生者であるパートナーに対して自分の本当の姿を見ないように要求する死者の話は、圧倒的に女性が要求する側であることが多いのである。また、禁忌を犯した夫イザナギに対するイザナミの怒りの言葉は「吾に辱(はぢ)見せつ」(私に恥を晒させた!)というものである。さらに、類似の物語として、豊玉姫(トヨタマヒメ)が出産の時、産屋に籠もり、それを彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が覗き見ると、豊玉姫の正体はワニ(サメ)の姿であったという話もまた、女性の本性を見る禁忌の事例として挙げられる。
死者にしろ生者にしろ、隠れている女性の姿を覗き見る男の性向というのは、時代を下っても変わらない。例えば『伊勢物語』の「むかしおとこうゐかうふりして」という出だしで有名な最初の一篇でも、田舎には不釣り合いな雅やかな女性が里に暮らしていることを知った主人公(在原業平)は、垣根の破れた所から彼女たちの姿を覗き見る。ずっと時代を下った現代においても、男性向けアダルトコンテンツは、視覚的表現が重要性を持つことは周知の事実である。このように、イザナギ、在原業平の昔から変わることなく、男性は「視覚的な欲求」を満たすことを強く好むと言って間違いない。
ところで、この「屍愛譚―」論文を再読し、期せずして気づいたのであるが、論文の著者である小松和彦の行なう考察もまた(覗き見の禁忌を論じて考察する必要性から、当然のことではあるとはいえ)、やはり「視覚の範疇」に留まっている。これもまた、視覚を重視する男の性向の顕れと言えるかもしれない。しかも、上に引用した箇所で「夜の闇の中での男女の愛の営みや語らいにおいては、嗅覚・聴覚・触覚が重要である」といったことを述べているのにも関わらず、同論文は、それらの三感覚が重要な働きを示している国文学上の具体例を、特に挙げてはいないのである。あるいは、国文学に詳しい人たちからすれば周知の事実なので、態々挙げる必要がないとして言わなかっただけのことなのだろうか?
とりあえず、男女の機微の話は後回しにして、ひとまず、妖怪を識別する手段としてのこれら三つの感覚について、話を進めることにする。
聴覚を妖怪の識別に用いる事例は、比較的容易に見出される。例えば、誰そ彼(たそかれ)時・彼は誰(かはたれ)時・夜のように、人間なのか物の怪なのかを視覚的に区別をつけ難い時、相手の妖怪が発する声によって正体を見抜くという事例は幾つも見つけられる。カワウソなどの物の怪は、人間から「誰じゃ?」と問いかけられると「俺じゃ」と言えず「おねじゃ」とか「かわい」などとしか言えないので、正体を見破られてしまうという。これは、言霊の力とも解釈できるが、音声(聴覚)による正体識別の事例と考えても許されるであろう。また、仮に人間の方が話し掛けたり問い掛けたりしなくても、妖怪の方から自発的に何らかの独特な声や音を発してくる(アズキアライ・テングダオシのような怪音、ヤロカ水の怪しい呼び掛け声など)ので、それを聞けば正体が分かるという例もある。これらも聴覚による妖怪識別に含めてよさそうである。
触覚の方はどうだろうか? 例えば、厠(便所)で河童などの物の怪に人間が尻を触られるという怪異の話は数多い。そして、それらの怪異譚は「毛むくじゃらの手である」といったような、通常の人間とは何かしら異なる手触り・肌触りの特徴を持つことを窺わせる描写が伴うことが多いように思える。厠が家屋の中では暗い場所に分類されることを併せて考えれば、これも視覚には頼り難い状況下で、触覚により妖怪を識別する事例と考えることが可能ではないだろうか。他には、猟のために山に分け入った猟師が、夜になり「これでは鼻を摘まれても分からないな」と独り言を呟いたところ、突然「これでもか?」と何者かの手に鼻を捻られたという怪異譚もある(参考:千葉幹夫『全国妖怪事典』静岡県の部)が、これは残念ながら手触りについて伝えていない。しかし、このように暗い場所や時間帯において、物の怪に身体の一部を触られるという怪異譚は、枚挙に暇がない。これらも触覚によって人か物の怪かを判断するという事例に含められないか否か、再検討してみるべきかもしれない。
問題は、嗅覚により妖怪を識別する話や本性を看破する話なのだが、残念ながら今のところ、これといった事例を見つけられずにいる。逆に、妖怪の嗅覚の方を利用し、何らかの臭いを発するものを人間が用意することで魔除けにするという事例ならば、比較的容易に幾つも見出だせるのであるが。例えば、焼いた鰯の頭を魔除けとする例は有名である。また、今でこそカカシといえば田圃に立つ人形のことであるが、日本神話でオオクニヌシがスクナビコナと出逢うくだりに記されているように、本来の古い和名はソホド乃至ソフドである。それがカカシと呼ばれるようになったのは、稲を荒らす鳥を追い払うのに、鳥の死骸を焼いたものを竹竿の先に紐で括り下げて掲げるという風習があり「臭いを鳥に嗅がせる」という意味でカガシと呼んでいたものが、鳥避け人形と混同されるようになったからである。上に挙げた鰯の頭も、ヤイカガシ・ヤッカガシ(焼き嗅がし)と呼ぶ地方があり、明らかに鳥避けのカガシと同じである。他にも、山中でタヌキやムジナの類いに化かされたことに気づいたならば、煙管(煙草)を一服すれば妖怪は逃げていくとか、小便をすると臭いを嫌がる妖怪を避けられるとか、人間の嗅覚ではなく妖怪の嗅覚を逆手にとって利用して払う例は多い。
小松論文では具体例が挙げられていないものの「視覚的に本性を見ることが禁忌とされた状態、特に暗闇の中で、何者かと一対一で対峙する状況において、重要な役割を果たすのは、嗅覚・聴覚・触覚である」という見解は、説得力を感じさせられるものであることは確かである。特に、愛の営みに関しては、そうである。人間がお互い裸一貫となって同衾する時、見た目の虚飾は、ほぼ通用しなくなるのだから。したがって、これら三感覚の重要性が高まることは、必然であるように思われる。
とはいえ「思われる」ということと、国文学などにおいて実際にどのように捉えられていたのかは、もちろん別問題であるから、これは検証の必要があるだろう。あるいは(素人である私に言われるまでもなく)既に専門家の間では検証済みなのかもしれない。国文学中の、特に男女の愛の営みや語らいにおける三感覚が占める役割について、どのように描かれ、語られてきたのか、可能ならば識者の見解を知りたいものである。
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さて、私は上で、男女の機微の話を後回しにして、妖怪の正体を識別する感覚的な手段の話をすると書いた。そこでいよいよ、男女の機微、すなわち異性のパートナーのことを暗闇の中で知る手段としての嗅覚・聴覚・触覚の三感覚について論ずる順番がやって来た。といっても、上の文章を読んでもらえば分かるとおり、専門的な知見を私は持たない。そこで、識者の見解とは無関係に、今の私個人が思うところを書くことにする。したがって、これより以下は全くの駄文である。
文字数制限のため分割したので、続きは⇒anond:20221023224411