はてなキーワード: 着物とは
いくら着飾ろうと、江戸中の男たちに愛されようと、しょせん遊女は商売道具でしかなかった(「遊女」を「芸能人」に置き換えれば現代に通じるか)。
休みもほとんどなく、食事も粗末なものが出るだけだ。いいものを食べたければ、懸命に働いて客からお捻りをもらい、そのお金で自前の食べ物を買っ
たり、見世にあげた客に台の物をとらせご相伴にあずかるしかないのである。
さらに、着飾る着物、帯、化粧品に至るまで、すべて自分で買い整えねばならない。そのために、見世から借金しなければならなかったから、借金は増
える一方である。
大名や大商人が贔屓にしてくれる遊女はほんの一握りで、ほとんどの遊女が手練手管を労して客からお金を吸い上げることに精を出した。
遊女の務めは「苦海十年(苦界とも書く)」と呼ばれ、十八歳から二十七歳くらいまでが吉原で遊女として商売できる期間である。この期間に、身を売っ
た代金、つまり身代金を働いて返さねばならない。これに加えて、前述のように借金が加算されていく仕組みになっており、馬車馬のごとく働かされる。
遊郭の掟や慣例も遊女たちを苦しめた。その掟の見張り役が、遊女上がりの遣手たちである。
遊郭の一ばんの掟は、見世の若い衆と遊女が男女の仲になってはいけないというものだ。見世側とすれば、商品に手をつけられてはその商品が働か
なくなる。つまり、若い衆といい仲になると、その遊女が客を取りたがらなくなるのである。
この関係が深くなってしまうと、やがて手に手を取り合って遊郭から逃げ出すということも起こる。いわゆる駆け落ちだが、見世側としては、黙って見逃
すわけにはいかない。吉原の地回りなど大勢を使って二人を見つけ出すのである。見つけ出された男はほとんどの場合殺されてしまった。遊女は吉原
へ連れ戻され、凄惨な折檻を受けることになる。殺してしまえば商品としての価値がなくなってしまうが、それでも他の遊女たちへの見せしめの意味もあ
遊女が苦海から抜け出る方法は三つしかなかった。一つは年季奉公を勤め上げた、いわゆる「年明き」で遊女から足を洗う場合。二つ目は、金のある
客に見初められて「身請け」される場合。そして三つ目が死んだ場合。
吉原の年明きは二十八歳なので、この年になった遊女は見世から暇を出される。中には遣手として見世に残る遊女もいたが、多くは吉原の外を望ん
だ。吉原を出た遊女は、年明きになったら一緒になろうと約束していた男と所帯を持ったり、そのまま吉原以外の色里・岡場所に行く女もいた。
客に身請けされるのが遊女の幸せといわれるが、なかなかそんな客は現れない。特に太夫クラスの上級遊女になれば、身請け金は膨大な額だったの
である。もともとの身代金に加え、これから働いて稼ぐであろう金額、これまでの借金、見世や周囲の人間に出す祝い金など、合計すると何百両にもな
る。このような大金をぽんと出すのは、大名や大商人以外は不可能である。
中級あたりの遊女でも、やはり百両前後はかかったという。ランクが下がれば身請け金も下がるが、宵越しの金は持たねぇと突っ張る江戸っ子には数
十両のまとまった金は調達不能だろう。それでも、中にはコツコツお金を貯めて、身請けした町人もいたようである。
死ぬほど辛い苦海・吉原では、実際に死んだ遊女の数は知れない。粗末な食事で馬車馬のように働かせ、体力は消耗する一方だが、さらに病気が追
梅毒はもともと西インド諸島の風土病で、コロンブスが西インド諸島に到達し、スペインに帰国した際、その船員たちがヨーロッパに運んだといわれてい
る。シャルル八世のナポリ攻撃以来ヨーロッパから世界に広がり、日本にも十六世紀の半ば南蛮船の来航によって上陸した。ちなみに日本の文献には
それよりも前、1512年に「梅毒」という言葉が登場している。
当時梅毒は、「かさ」などと呼ばれていた。感染すると感染部におできのようなかたまりができ、これがかさぶたのようになるからである。この「かさ」が
潰れると、痛みを伴うがしばらくすると治ってしまう。実際は一次症状が収まって潜伏しているだけであるが、当時の医学知識ではこれで治ったと思って
一度「かさ」にかかって治った(と思っている)遊女は、二度と梅毒にかからないとされ、客の方でも病気のない遊女として認知された。見世からも一人
前の遊女として扱われ、遣手は客にどんどん勧めた。おまけに病気が潜伏している影響か、妊娠しにくい身体になっているから、見世としては大変重宝
した。こうして、梅毒はどんどん広がっていったのである。客の方でも、梅毒にかかることは一種のステータスで、遊びを極めているという目で見られた。
何年か後、再び症状が現れると、今度は皮膚にゴム状の腫れ物が出て、その部分の肉が落ちる。鼻が落ちるといわれる梅毒の症状はこの時期だ。
やがて神経系が冒され、死に至る。
こういう症状が出ると遊女としての価値はなくなり、吉原を追い出されたり、生きたまま投げ込み寺へ捨てられたという。悲惨な結末が遊女を待ってい
たのである。
梅毒とともに遊女を悩ませたのが妊娠だった。妊娠は遊女の恥とされ、さまざまな避妊法を用いたが、当時の知識では妊娠は避けられない出来事だ
った。
当然見世側とすれば中絶させたが、この手術も原始的なもので危険極まりないものだった。中条流というのが堕胎専門医師の看板で、中絶に失敗し
て命を落とす遊女も多かったという。
堕胎できずに子供を産んでしまった場合もあった。この場合は、見世の子供として育てられ、女の子なら遊女の道へ、男の子なら見世の若い衆として
今日というか書き始めた時点でてっぺん超えてるので厳密には昨日か。
ご近所なんだがいわゆる観光スポットなのでちょっと歩きに行ってきた。
場所によっては盛んなこのレンタル着物。2人して全身キメていて見目が派手で大変良かった。たびたび気になるのは巾着なのだがそれ荷物なんも入らんやろ。何入れてんの?
全身黒とか彼女ギャル彼氏偽ザイルみたいなああいう気合い入ったファッションの方たち。好みの服装でバシッとキメてるのめちゃくちゃかっこいいです。ただその靴で長距離歩ける?大丈夫?って心配になりました。厚底とかさ。
白黒は無難だよねわかるよ。けどデートならもう少し気張れよなんやその首元びろんびろんのTシャツは。
レンタル着物が盛んな観光地でオフショルへそ出しミニスカート厚底サングラス気合い入ってんね。可愛いね。彼氏、そこ車道だよ邪魔だよ。んでなんだその適当な服とつっかけは。
近所の高校の子達っぽかった。部活かな?通学路が混み混みで大変そうだけどちょっと距離近くてにこにこしてて可愛かった。幸あれ。
⑥だるだるカップル
「人多いー並ぶの無理ー」てわかるよわかるがGWぞなんでわざわざこんな人の多いとこ選んで来たのよ。1本裏の散歩道なら人少ないぞ店はないけど。
カップルというか2家族で来てるみたいなちびーず。いっしょにスイーツ系食べててよかった。言っても仕方ないのはわかるが、でも急に動き出したりするのはやめなさいお母さんの顔すごいことになってたぞ。
バブを背負ったお母さんとそれをせこせこ世話するお父さん。かなり仲良さそうだったけど子供がいる仲の良さというよりはほんとに普通にカップルだった。子育て頑張ってください。幸あれ。
カップル以外にも面白い人たちを沢山見かけた。連休の人混みを歩く醍醐味のひとつはいっぺんに色んな人を見れるところかなぁと思う。
まずは『長野まゆみの偏愛耽美作品集』より『魔術師』と『昆虫図』を。
実を言うとあまり得意ではない作家の作品(いうて主に食わず嫌いなのだが)が多々収録されているので、買ったはいいが読む気にならず、遅々として読み進まない。長野まゆみ作品のファンなので、頑張って読むけど。買ったし!
主人公の「私」は異国の町にいた頃のある夕べ、恋人から「公園」に行ってみようと誘われた。その公園とは日本でいうところの浅草六区をもっと酷くしたような場所だった。いい歳をした男女達の狂乱する怪しげな公園の最も奥まった所にある城が、恋人の目的地。そこでは魔術師が見世物をしており、どんな人でも一度観たら病みつきになってしまうのだという。「私」はついノリで城に入ってしまったが……。
中二病が二十歳を過ぎても治らなかった人の好きなやつ……THE大正ロマンって感じの。こういうのあまり詳しくないんだけど、航海技術の発展で新大陸への憧れが強まったりとか、産業革命からの社会不安なんかがまざりあって世界的に流行ったのかな。
まあこういうのに憧れたシーズンが私にもありましたね、という感じ。似たような路線だと、スティーヴン・ミルハウザーの『ナイフ投げ師』と『パラダイスパーク』も私は好き。
「十二階」という建物に少し言及されているけど、これは「浅草凌雲閣」という建物のこと。明治時代には東京で一番高い建物だったよう。長野まゆみ先生のインタビュー記事に、「十二階」という固有名詞は今となっては校正者にすら通じない、と書かれていた。
選集に入れられた理由は魔術師が美少年だからなのか。面白いオチだった。『春琴抄』ほどクレイジーではなかった。
すごく短い話なので省略。タイトル通り虫がうじゃうじゃする話ということだけ。
えっ、これ「耽美」なの? ……グロいんだが。耽美とは美に耽ることなのであり、常人が忌み嫌うようなものにすら美を見出だす、通人の遊戯なのだとすれば、まあ、耽美なのか? 『魔術師』に出てくる浅草六区だって、悪所の代名詞のように使われているみたいだし。
気持ち悪いし、とりわけ過激というほどの話でもないのだが、サクサク読めてなんか心に嫌なものを残す。なるほど、「文体の魔術師」か……。
『長野まゆみの偏愛耽美作品』は今回はここまで。これでやっと半分読んだことになるのか。先はまだまだ長い。うへぇ。
絵本『たくさんのふしぎ傑作集』シリーズのうちの一冊。ポルトガルのお菓子パン・デ・ローが日本に伝わり、カステラという名の伝統和菓子となるまで。
絵がなかなか渋くて好み。昔の日本の人々の顔が、そこらへんに普通にいそうなリアルさでいい。華美だったり汚らしかったりする着物を着て、髷を結っていても月代を剃っていても、現代日本人と地続きな存在っていうのがよく伝わる。
そんなに珍しいことは書かれていなかったが、パン・デ・ローの作り方は伝わったのに、パン・デ・ローを焼くには欠かせないオーブンは伝来しなかったというのには、ちょっと驚き。和製フライパンのような鍋に蓋をし、蓋の上に墨を置いて上から下から加熱してカステラを焼いていたというの、面白いなあ。何で誰もオーブンを作ろうとしなかったんだろう?
今日はここまで。
先の日曜日、(もう怒られる表現なのだろうが)妻の家の掃除を手伝っていた。
妻は大層しっかりものの人物できっかりかっちり物事をこなしてくれてとても助かっている。
私はどちらかというと陰キャオタクでぐーたらだから。妻は明るくもある。
本題。
何回しゅこしゅこしてもらめぇもうでないよぉな状態になったのでプラスチックゴミの袋に捨てた。
妻曰く「洗剤の容器を洗ってから捨てなさい」と。
私もゴミ捨てのルールは記憶していた。確かにプラスチックゴミは「汚れを軽く洗い流して捨ててください」と書かれている。ひどい汚れ付きは燃えるゴミだ。
このスプレーボトルの内部に付着しているのは洗剤だ。洗剤は"汚れ"ではない。仮に汚れだとしたら汚れで汚れを落とすことになるよね。と反論した。ついでに口が滑って「それは血で血を洗うような不毛なことだよね」ともにやけながら言ってしまった。書いていてもわかるがこれはとても余計な発言だった。思いついたら言ってしまった。
それに対しては妻曰く「捨てる段階での付着物は汚れである」。"食べ物"が"汚れ"になる瞬間と"洗剤"が"汚れ"になる瞬間は等しく同じなのかな?と私は理解したし、少し得心もした。
ではと「仮に洗剤が汚れであったとしても、それは許容範囲の汚れである。ゴミのルールも完璧な洗浄を求めていない」と。これも振り返ると争点を下げると言うかずらすというか。とにかく日常、トレーの油感などは完璧に拭わないし、さっと水で流す程度の洗浄をよしとするならば"洗剤"は"汚れ"であっても"許容できる汚れ"ではないかと。
私だってボトルに満杯の洗剤が入った状態でプラスチックゴミに出すようなことはしない。捨てるなら排水溝に中身を捨てるか今回のように使い切ってから中を洗わずに捨てる。きっとそうする。軽く振って垂れきらない水分はOKだろう。
だがこれも却下された。
「洗った結果の残留物は許容できるが、君はすすぐことすらしていない」
汚れは結果だったのだ。妻が汚れを受け入れるためには水で流すという努力が必要なのであった。そう、妻は洗剤が汚れかどうかのレベルを争ってはいなかった。私が容器を洗うという作業を手抜いたことが違反だと言っていたのである!
はっきり申し上げれば私は無駄な作業が嫌いなのです。地域でゴミの分別が甘いご家庭があることも汚れたプラスチックゴミを出すご家庭があることも存じています。そういった中でプラスチックのリサイクルにはおそらく洗浄のプロセスもあるでしょう。その中でボトル一本の表面についた中性洗剤の存在感たるや…。ひとりひとりが頑張らなければならないけれど、ひとりが完璧にこなしても全体は絶対に完璧にならない。そういった世の中のいろんなことに頑張ったり妥協したり生きていくわけです。
今回で言えば洗剤のボトルを洗うことは私にとっては無駄でした。無駄なことはしたくない。ああしたくない。徒労な口論をしてでも無駄な作業はしたくない。
ただただ妻とはOKライン、妥協ラインが異なる、いえ私が妻よりずぼらなだけなのですけれど。そういったことが今回の問題なのでした。
結末としましては私が折れて容器を水ですすいで捨てました。
私もとっても頑固な男です。自分の領分では自説を絶対に曲げないでしょう。それがわかっているから。ここは妻の領分であるから。私が折れました。
わかったことは今回の点では妻とはいろんな面で考えが合わなかったということ。妥協点が見出せなかった点が残念。嘘。本心はまあ論破できなくて自論を通せず残念とかでしょう。しかたない。私はそういう人間だもの。
あーだけど多少の洗剤ぐらい洗いたくないよー!洗濯用の洗剤ボトルも洗ってるのかよー!だるーい!
追伸
世間でいう麦茶やトイレットペーパー少し残す人間みたいに私も「洗剤ボトル少し残す人間」になるかもしれない。
たぶんならないと思う。
ならないんじゃないかな。
3/27~3/28編
(夜中の1時半くらいに目が覚めたけどもっかい寝た)
間取りは実際の自分の部屋とよく似ていて、ちょうど布団の足元にふすまがあり、その奥が部屋の入口になっているようだ。
寝ているという自覚を持ちながら寝ている、という奇妙な状態。夢あるある。
部屋も真っ暗なはずなのになぜかそれが着物を着た女性だということが分かる。夢あるある。
着物の女性は布団で寝ている自分の横を通り過ぎ、枕元に置いてあった荷物を漁り始めた。
「なるほど、物盗りか。」
寝ているが意識はあるというよくわからない状況にいた自分は、よし、とっちめてやろうと決意する。
女性が用を終え立ち去ろうとした瞬間、布団から起き上がって「おい!」と呼び止めた。
というところで、聞いたこともない自分の低い声が喉から発せられて飛び起きた。
もちろん現実の部屋の枕元に荷物は置いていないし、着物の女性はどこにもいないし、そもそも和室ではない。
ていうか現実でもし夢のような場面に遭遇した時、とっちめてやろうとか思っちゃだめだろと思う。
体格に自信があって格闘技の覚えでもあるなら話は別だが、深夜に他人の部屋に入り込むような輩がこちらを物理的に襲わないとも限らないのに。
30分前にも下痢をした。その30分前にも下痢をした。(勿論トイレで)
その後楽しくはてブを眺めていたところ、おならのようなものが通行許可を求めてきた。
トイレは30分前にも行ったばかりだ。下痢特有の差し込むようなものは感じなかったので、何の気なしに許可を出す。
その場で恐る恐るパンツを下ろす。
生理中でナプキンをしていたのが不幸中の幸いだった。ナプキンが便を受け止めてくれ、パンツへの被害はほぼなかった。ちょっとだけあった付着物も、生理用ショーツなので拭けばそれほど気にならない。
ティッシュで拭くと、結構な被害だ。この全てがパンツに付かなくて本当に良かった。
私はいつも椅子にきちんと座らず、椅子の上に足を乗せて体育座り、またはうんこ座りをしている。今回はうんこ座りだったのが幸いし、被害を最小限に留めることができた。
うんこがうんこらしく発射されたことで広がることなく、ナプキンに一点集中できたのだ。
よく考えると、パンツの被害がなかった時点でパンツをもう一度履き、トイレに直行してウォシュレットとトイレットペーパーで処理すべきだったのだ。
焦りからその場で処理することしか考えられず、ティッシュとウエットティッシュでケツを拭いた。
気にならなくはなるが、ポリ袋に鼻を近づけるとくさい。
ここで私は失敗したので、うんこを自宅内で漏らした人は参考にしてほしい。
だが、発射物が付着したナプキンは、巻いてしまうと袋に入れずともうんこ臭さはない。別に消臭タイプでもないのに。これはすごい。
これまでも私は数度、うんこを漏らしてきた。
余りにも病院に行けないから元気な夜のうちに病院近くのマンガ喫茶に前乗りすることにした
環境が変わると寝れないタイプだから漫画を読みまくろうと思うんだけど、普段あんまり漫画を読まないからわからない
オススメを教えて下さい
・読みたい漫画
メンタルに優しい皆善人悪い人のいない優しくて可愛い世界の漫画
もしくは
嫌なことを考える暇がなくなるような謎解きとかで頭が忙しい漫画
ブラックラグーン(着物の女の子が表紙の巻まで読んだ。今日続き読む)
ストレンジプラス(16巻くらいまで読んだ。今日続き読む→無かった)
鍋に弾丸を受けながら(ネット掲載されてない分今日読む→無かった)
弟の夫
犬のかがやき
・読めない漫画
①前向きにお仕事頑張ってます系、クリエイター頑張ってます系は今は無理
元気な昔はハチクロも東京トイボックスも楽しく読めたけど今は読めない
左利きのエレンとかひだまりスケッチとか気になってるけど今は読めない…
オススメ教えてください
・追記
マンガ喫茶ついた!
人の見分けがつかなくて挫折してしまったけど同じ作者のおたんこナースは好き
こっちはなぜか人の見分けがついた
・追記
期待してたんだけどかなりヤバいと思う。
展開があまりにもストイックすぎる。本当に落語だけやっている。リアルすぎる。
落語界なんてリアルに接写したら高齢化したシケまくった伝統芸能の世界でしかない。
落語を軸にしつつももっと読者が楽しくなる展開積んでいかないと高速打ちきりだと思う。
あかね噺がロールモデルにすべきはやっぱり『アクタージュ』で、あれは演技の天才で美人だけど難しい家庭事情で友達ゼロ目標ゼロだった夜凪が役者てスカウトされる。
最初は打ちきり臭がしてたんだけど流れ変わったのはいわゆる「糞映画編」で、若手俳優たちと一緒に安っぽいデスゲーム映画に出演した夜凪がそこで衝突したりしつつ最終的に一目おかれて友達が出来て、打ち上げで同年代の役者達に色々構われてTシャツに寄せ書きされたりしながら花火やって肉を食べる。
演劇も大事だけど、友達ゼロで粗食人生だった主人公の成長やサクセスや肉食べて美味しい!や、そういうの見て読者も楽しくなったり嬉しくなったりする。
あかね噺はそういうのが弱すぎる。
父親を理不尽に破門されて、落語が好きで、雌伏しながら訓練重ねてはじめての寄席を成功させた。
それはいいんだけどそこで弾ける感情が弱すぎる。あかねは普通に喜んでるだけ。それを見ていた若手落語家のお兄さんも普通にうまい!ってびびってるだけ。ちょっと前に会っただけだからそりゃそうだが。
カタルシスが弱い···。
あかねの才能の破格さを語る前に実力者キャラが出てきてもっとすごい落語を見せた。まあ年上の本職だから当たり前だよね。
って、これ三話でやることか?
もうちょっとさあ、あかねの凄さを立てるターンだと思うよまだ。
もっといえば、いきなり本職の世界に入門するより高校で学生生活やったりしてもいいと思う。
女子高生が制服に着物羽織ってるビジュアルがよかったのにいきなり普通の着物になってどうする···。
あとなんかおっさんの着物は悪くないのにあかねの着物だけ線が下手に見えるのはなぜだろう。動きが派手だから?
ちゃんと衣装用意してポーズを撮影して資料にした方がいい気がする。
オレゴラッソの人の絵好きなんだよなー
本当に成功を祈ってるんだけど今のところ嫌な予感がする硬派過ぎる展開が続いている。
あとさー、女の子が主人公な時点でBL的な人気はつきにくいんだから、序盤に出てくる宿命のライバルっぽい若き天才はあのお兄さんじゃなく浮世離れした天才少女(でもあかねの才能を認めててあかねのことが大好き)だと思うよ。
天使じゃねーか!って?そうだよいいんだよ成功したパターンはなぞれば。オレゴラッソ先生の画力と個性があればちゃんと差別化して別のキャラになるから。
あとオレゴラッソ先生の明確な弱点は女の子の横顔。すごい変。一旦誰かうまい人の真似した方がいいレベル。
浴衣の場合自装だと思うけど、夏場でもあるし、そこまで普通は強い補正しないんだよ。
普通の胸サイズで尻もでかくなければ、寄せ上げなしの和装ブラで胸下に汗取り兼用の薄いタオル入れるぐらいで十分だし、動画とか本とかもそこまでの巨乳は想定してない。
むしろ浴衣なのにガチガチに補正するのは野暮よねって意見もあり、知らずにそのまま着ると胸が帯にのっかる萌え絵着付になっちゃう人もいると思う。
あと、この件でみんな誤解してるけど、胸を強調すると下品だから補正するのではなく、「着崩れてくる」って物理的な問題があるんだよね。
着物ってストレッチが効いてるわけでもなくダーツがあるわけでもなく、直線裁ちの布を体に巻きつけて帯で固定するって構造になってる。だから、体に凹凸があるとどんどんグズグズに気崩れてくる。
江戸時代とか明治初期ぐらいまではグズグズに着てる人もいたらしいけど、それは下層民というか「半尻出してるギャル」とか「ノーブラで出歩くババア」みたいな立ち位置だしね。
というか昔はブラジャーがないので、胸の肉は脇とかにどんどん流れて「巨乳」にはならない。浮世絵なんかでもお椀型の大きい胸っていないと思う。ここ数十年で日本人の平均のブラサイズは飛躍的に大きくなってるのだけど、これは、栄養状態が良くなったのとまともなブラジャーする習慣がついたのとが大きい。
偶数月の末日頃発売。電子版は基本的に翌月の10日前後に発売なのだが、今回は4日発売と、いつもより早かった。今回も私の推し作家・座裏屋蘭丸先生はお休みだ。ひぃん。しかし『Daria』で連載中の『コヨーテ』が佳境なので仕方ない……。再来月まで待てがんばる……。
そして今回は前号で最終回を迎えた、『 鴆(ジェン) 天狼の目』(文善やよひ)の記念特集が紙本版にはドドンと入っているはずなのだが、電子版には文善やよひ先生のコメントまでひっくるめて一切掲載されていない。悲しい。なんでそんなに電子派を冷遇するの……。Canna公式Twitterによれば、特集記事のほかに各鴆シリーズの第1話も一挙再掲載されているらしい。
鴆シリーズは獣人(鳥人)ものという、BLの中でも特殊なジャンルではあるけれども、とても漫画の上手な作家さんの描いた漫画で読みやすいので、BL初心者とジャンル不問で漫画好きの人におすすめ。個人的に好きかと問われると、微妙なのだが……(単純な好みの問題)。
ということで、 鴆特集は電子派の私には読めないので、それ以外の掲載作の感想をば。
新連載きた! バンドマンBL。主人公が性的なトラウマ持ちでしかも感性が周囲とズレていて浮きまくる系の人。ゆえにすっかりメンヘラに成長しており、おそらく攻めであろうバンド仲間(ベース担当)に面倒を見られてなんとか生きてる感じ。
1話目なのでなんとも言えないが、バンドマンBLというと『ギヴン』という超人気作品の存在がよぎるので、チャレンジャーだなと。
去年の暮れ辺りに完結した『ヤクヨメ♂』のスピンオフ作品。ヤクヨメ♂の攻め・いわおの子分的な人のツレが主人公。タイトルは主人公の職業が漫画家であるためにバクマンみたいになったようだが、かといって主人公がちゃんと漫画家稼業に励んでいる描写があるわけではない。カップリングが替わってもなお、作者の例のあの性癖をてんこ盛りに盛った内容である。まあ幸せそうでなにより♂♂♂
読み切り。パン屋×米屋の幼なじみBL。エロはない。ピュアラブ系。絵柄が『この世界の片隅に』のこうの史代先生的なふんわり系で、ストーリーにも尖ったところはない。最初から最後まで可愛くほわほわしていた。たぶん、二次創作でしかBLを知らない人の漠然と思う「BLってこんな感じ」に近いんじゃないかと。なごむ。
逃げる相手を追うのが好きな男×逃げ癖のある男。あ、攻め受けこれで合ってるかな?
前編から間が空いてしまったので、どんな話だったっけな……。出来れば短い話は毎回掲載されるといいんだけど、BL読みにおいては短気は損気だ。
絵柄がリアル寄りでがっつりと大人の男同士のゲイものって感じ。
フラッととんずらをこく方もこく方もだが、昔とった杵柄とコネで相手の居場所を特定してくる奴もだいぶヤベェ。もはや犯罪だし。でも追う方からはターゲットはびびりながらもちょっと嬉しそうに見えたらしい。うん、それって幻覚じゃないかな。
今となっては一般ジャンルでも大人気小説家でBL小説家でもある凪良ゆう先生の人気作品のコミカライズ版。世間知らずの坊っちゃん医者×詐欺師。
毎度思うけど、凪良ゆう先生の小説は大部分が心理描写に費やされているし、分かりやすくてノリのいい文体が魅力なので、それを絵で見せられてもなぁ……という感じ。いくら上手い絵でも。凪良ゆう先生の小説が好きだが『積み木の恋』は未読の私としては、ただ原作を読みたくなるだけ。凪良ゆう先生を全く知らない人が読んだらどう思うだろうな? 一読してスルーかな。
まあ、コミカライズ担当の漫画家が悪いんじゃなくて、いくら出版不況で小説が売れないからってこんな企画立てちゃう編集部がよくないんだ。
『 鴆(ジェン)』特集は冒頭に書いた通り電子版には載っていないので、省く。
ゲイカップル・いまぢとほづつみの家に猫に擬態した宇宙人のサンが転がり込んできて、地球侵略の為の情報を得るためにいまぢとほづつみの暮らしを観察しているという話。
痴話喧嘩回。今回はサンの出番が多くてよかった。自転車をこぐいまぢの後頭部に貼り付いているサンの後ろ足がとってもキュート。サンは中身が宇宙人なだけあって人の心を解さないかと思いきや、人間の夜の営みをガン見で観察した結果、恋愛アドバイスができるまでに成長してしまった。すごい猫だ。釈迦に説法感のあるアドバイスだったけれど。
ラストの引きが強い。これは続きが気になるぞ……。
旅人×猫耳獣人。旅人のオルは癖の強い城塞都市国に入国するなり引ったくりに遭い、無一文身元不明人になってしまう。なり行きで働くことになった、猫耳獣人ばかり売っている娼館で、美しい娼夫アコニと出逢う。
ハーレクインのような美麗な絵とストーリー。しかしBLである意味がもはやなくないか? というほどに娼夫達の見た目が女性的。
今回はあまりストーリーに進展がなかったな……。オルが重大な決断をしただけで(それが「進展」というやつなのでは?)
サイボーグ×人間。酸素濃度のやたら高い星に来た元軍用サイボーグが、植物の調査研究をしている人間の護衛だかお守りだかを担当する話。
もはやハードボイルドの可能性はすっかり消し飛んでしまった……。人の心を薄くしか持っていないサイボーグが、ワンコキャラな人間に恋してしまい、誰が見てもほわほわと浮わついているという話。これは温かく見守るしかない……。正直、もっと渋いのを期待してたのだが。山なしオチなし意味なし略して「やおい」まさにこれ。
オメガバース作品。政略結婚と人身売買の中間みたいなカップルなんだけど、買った方の攻めは受けの事を好きなわりに受けの愛を信頼してはおらず、買われた受けの方は実は真っ直ぐ攻めを愛している。猜疑心故に素直になれない攻めと、惚れた弱みで腹を割って話すことが出来ずに攻めの顔色をびくびく窺い続ける受けの、ディスコミュニケーションぶりが、読んでて非常に辛い。
現代的な人権意識と家庭内の前時代的な価値観による閉塞感のギャップがえげつない。ていうかこれ完全にDVじゃん。受けの人全力で逃げて!
……と思うんだけど、逃げねんだよなぁー。それでも攻めを愛してるからってよー。
そんな古風なストーリーなんだけど、今回は実在の最新型避妊薬「インプラノン」が登場する。えっこれもう認可されてたっけ? と思わずググってしまった。マッチ棒くらいの長さの筒の中にホルモン薬の仕込まれた避妊薬で、二の腕の皮下に埋める。三年くらい避妊効果が続く。飲み忘れリスクがないので、99%くらいの確率の避妊効果があるそうだ。
そんな文明の利器を受けの人は良かれと思って攻めの人と相談せずに独断で使用してしまう。そしてそれが新たな修羅場を生む。
あのさぁ、そんだけの行動力があるなら事前に攻めの人とよく話し合おうよ。とも思うけど、攻めは攻めで支配欲と嫉妬の塊で受けとの約束をあっさり覆してくるやつなので、話し合ったところで受けにとって良いような流れには、ならないんだなあ。
今時こういうストーリーはただ只管に辛いばかりなのだが、このギチギチに古風なDVカップルがどのように軟着陸するのか(Cannaだからバドエンではない、と信じたい)、興味はある。
『嘘つきな愛を買う』のDVカップルでがっつりテンションを落とされた後で、今度は陽気に? サバサバしたディスコミュニケーションカップルのやつですよ。ゾンビの佐田×マッドサイエンティスト間宮の日常BL。
前回、一泊温泉旅行(+一泊)にて、恋バナで盛り上がった佐田と間宮。佐田の独特な恋愛観……実は世間一般でいう所の恋愛というもののべたべたしているところが苦手で、それよりセックスの出来る友達くらいの距離感で人と付き合えるといいなと思ってる(間宮と付き合いたいとはミリも言っていない)……を聴いた間宮は、じゃあセックスしよう(もう友達だから)と提案(という名の強制)をしてきて、佐田大ピンチ。
『スリーピングデッド』上巻のレビューには「受けの間宮がだいぶ無理。これで萌えろと言われても」的なことが書かれていがちなのだが、主人公の佐田にとっても間宮はかなり無理だったというのには笑った。正直に「たぶん無理……」と言ってしまうBLの攻め様ってどうなのw
そんな佐田に好かれようと一生懸命な間宮がとても可愛かった。まだ3月なのに可愛い受けオブ・ザ・イヤーが来てしまったぞ大変だ。思いがけない佐田の行動にびびった時の間宮が、死ぬほど驚き怯えた時のハムスターみたいに両手を胸の前で縮こめて目を見開く姿が可愛くて可愛くて可愛くて可愛い。
一方、佐田はといえば間宮がツンツンしまくりながら無茶な要求・暴言・暴挙をぶつけてくるのに案外律儀に応える体でいて、最終的には首尾よく間宮を丸め込んでちゃっかり自分の身を守り切るところが、学校の先生って感じだった。お前そういうとこやぞ……。
もはやゾンビ物とは? って感じのストーリーで今回は特に息抜き回色が強かったが、次回からはどう話が転がって行くのだろうか。ずっと間宮の純愛ネタばかり描かれる訳じゃないだろうし。もうすでに単行本1冊ぶんくらいの分量は書かれたわけだし。既刊が「1巻」ではなく「上巻」なので、あと1、2話で完結して下巻が出るか、1回くらい休載して中巻が出るかかな。
男同士でがっつりド派手に致しているところが見たい人には物足りないんだろうけど、大人の恋愛漫画としてとても面白いので私は好きだな。
耽美SF少年愛BL小説家・長野まゆみ先生が十代の頃に心ふるわせた珠玉の小説、随筆、詩歌のなかから、耽美入門に相応しい全26作を精選。全作品に長野先生のコメント付き。巻末に解説もあり。
目次を見渡すと錚々たる顔ぶれに眩暈がするけど、幻想文学好きは必ず履修する作家ばかりだ。
が、私は現代の幻想小説はわりと好きなんだけど(長野まゆみ先生のほか、川上弘美先生や金子薫先生や今村夏子先生とか)、明治~昭和前期の幻想小説はあまり得意ではないんだよなあ。三島由紀夫は『潮騒』しか読んだ覚えがなかったし、泉鏡花は戯曲『海神別荘』しか読んでいないという体たらく。なお内田百閒は開始十行で寝落ちした。
そんな私が、いくら長野先生のファンだからって、本作品集を買っても最後まで読み切れるのか、甚だ疑問だ……。
では、頑張って読めたぶんだけ。
遊園地で二十七羽ものインド孔雀が殺される事件があって、その重要参考人・富岡の家に刑事が訪れる。富岡はただ前日に公園で孔雀達を長時間眺めていたというだけで犯人ではなさそう。だが富岡家の応接間の異様さと、壁にかけられた美少年の写真のことが、気になってしまう刑事だった。
冒頭を数行読んで、長野まゆみ先生と文体がよく似ていることに驚いた。もしも著者名を伏せられたまま読んでいたら、長野先生が書いたものかと容易く信じそう。文体が似るほど三島由紀夫に影響を受けていたとは。『潮騒』を読んだ時は、似てるとは思わなかったけどなぁ。
かつては美少年だったことを誰にも信じて貰えないほどに老いた男が、孔雀の羽の輝きに魅せられる。(孔雀の羽の色は色素で染まったものではなく、羽の構造が光を反射したものなので、永久に劣化しないのだ。)何者かの起こした事件により、孔雀の美を完成させるには死が不可欠だと気づいた男は、自分こそが事件の犯人ではないのかと妄想をし始める。
ラストシーンは男の美への執念が具現化したみたいでぞくりとした。
雑誌『象徴』の編集長・磯貝が出勤すると、先ほどまた蕗谷から電話があったという。蕗谷というのは筆書きの原稿を持ち込んだ美少年だ。日頃からどんな無名の作家の書いた作品でも必ず目を通すことにしている磯貝は、さっそく蕗谷の小説『蔵の中』を読み始めた。
冒頭は蕗谷の自伝風で、亡き姉との思い出を書き綴ったものであった。だが、姉の死後に蔵の中に独り引きこもるようになった主人公がとある楽しみを見出だした場面から、物語は思わぬ展開に……。
『偏愛耽美作品集』のどこら辺が「偏愛」なのかといえば、美少年が登場するものばかりをピックアップしているところで。さすが長野先生なだけあって。
無名作家の小説『蔵の中』と現実の出来事が交錯し、やがて殺人事件の真相を描いてゆく、と見せかけて……。という現実と虚構が入れ子状になっていてしかもその境界が曖昧な感じ。長野まゆみ先生の『左近の桜』に受け継がれているよなぁ。
蕗谷が女装にハマって鏡の前で表情を作るシーンがとくに印象に残った。
山の手に生まれ育った令嬢のとく子は、眼病の治療のために下町の病院へと入院する。その病院の近所には時春という下町っ子でぽっちゃりめの美少年が住んでいて、しばしばとく子を遊びに連れ出すのだった。
縁日の夕にも時春はとく子を呼び出し、つれ回した。あまりの美しさにどこへ行ってもモテモテで人気者の時春がわざわざとく子を連れ回す理由は見栄のためと、とく子は見抜いていた。とく子の令嬢然とした着物姿を見せびらかすために時春は彼女の手を引くのだと。そこに本心からの労りや思い遣りはない。
時春はとく子を火事現場の跡地に連れ込んだ。「君にほんとうのことを聴いて貰う」と時春は言うが……。
顔が美しいのが唯一の美点の少年。美しい顔はそのままで素顔ではなく見栄の一部となってしまい、その口から出てくる言葉の全てが人の気を惹くための嘘っぽくなる。美しい顔というのは実は醜い顔と同じく異形の一つなのだ。
時春の見栄っ張りを女の子の目敏さで見抜いてしまうとく子だが、時春の美貌の下に隠れた本当の孤独の寂しさには触れようとしない。そんな憐れな話。
ラストシーンで、時春の本心をちゃんととく子が見抜いていたというのが明かされるのが切ない。なんかこれじゃ、時春死んじゃってよかったみたいじゃん……。
はぁ、まだあと23作品もある……。これを私はあと何百年後に読み終わるんだろうか。しかも岡本かの子の次は泉鏡花だし。開始数行でうっ、苦手かも……と思い、もう数日放置している。