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2023-05-20

anond:20230520090930

「あまり好きな言葉じゃないけど(というのは定義曖昧からだけど)私は言うなれば弱者男性です。」これを踏まえてそれ言ってる?

2023-05-19

続・子ども嫌いの治し方教えて

コンビニで何かを探してるんだけど何が食べたいんだか分からない。

甘くなく辛くなく脂っこくなく塩っぱくもない何かが食べたい。

そんな風に思うこと、みなさんにはありませんか。

これ小技なんだけどツイッターをぼーっと眺めると大体解消しますよ。

文字情報なんて全然頭に入ってこないのに他人感情が流れてくのを見てるだけで安らぐ。

ほとんど表情に出ないけれど、本当は誰もが心を持っているって確認する作業必要なのかも。

同じ車両に乗ってるサラリーマンたちやエレベーターに乗り合わせた女性も、心があって。

世界に溶け込むために普通仮面を被って社会人を演じているけど、みんなそれぞれ悩みある人間で。

愛おしき赤の他人無関係人生をチェックする日課… でも今日は違った。

子ども嫌いの治し方教えて」—— anond.hatelabo.jp

私やん。

読書感想文が苦手だった。

友だちに本や映画オススメされるのも実は好きじゃない。

感想を考えなくっちゃ、っていう気負いが脳のメモリに常駐して読書体験純粋さを損なうから

どんな感想を返すかを中心に思考が成長してしまい、ストーリーの情景が入ってこないんです。

そこんとこ十年来の友達は心得てて、お互いオススメをするときはただ黙ってリンクだけ投げる。

本は買って渡す、感想を催促したりはせずに、読まずに捨てたとしても文句は言わない。

から頂いた約600件程度のアドバイスを読む前に言いたい事を言ってスッキリしとこうと思います

最初約束通りに助言を座って聞くけど、前提として追加で何も実践しない時点では返信しません。

3週間前の文章の中の私も言ってる、解釈を挟まず丸飲みにするつもりで聞けと。

およそ半月前の執筆時点で、日記を読んで力を貸してくれる善意の人はごく少数だったんだけど。

優しい人たちの助力のおかげで冷静になることができた。

改めて読んでみると私の日記には誤解されるかもしれない部分がある。

絶縁のピンチに見舞われてたわけじゃなくて、友人は珍しくブチ切れてたけど翌日から普通に仲良し。

まあ友だちってこんなもんよね、関係値と距離感熟練してるけど全ての話を理解し合わなくていい。

議論に出てきた全てのトピックを突っ込んで問いただたりはしませんよ。

スープストック事件を話してたので独身女性の話だと勘違いする人も出ちゃうかも、と気になった。

まり好きな言葉じゃないけど(というのは定義曖昧からだけど)私は言うなれば弱者男性です。

おそらくご存知ないと思うけど保険料って下がってくと月額千円になるんですよ、知ってました?

恋人どころか女の子と手を繋いだ経験さえないので、子どもを作ればいい、があっても泣くしかないです。

いつぞやのトゥゲッタースープストック赤ちゃん歓迎策を非難してたのは独身女性なんて言ってた。

だけど私には偏見しか読めなかった… だって女性かどうかなんてワザワザプロフィールに書きますか?

どうして性別特定できるだろうか。

あと受け身の態度につけ込んでメンタルよわよわ侍だから口調はマイルドに、があえて無視される怖れ。

自分気持ちよくなるためだけの痴漢のごときマウンティングかましてくる愚か者も現れると思う。

彼がどうして愚か者だと分かるかって?

それは自分の事しか考えずに他人迫害する奴が語る「子どもを、人を好きになる方法」なんて何の説得力も持たないから誰も耳を傾けないし、そもそもアドバイスじゃないからです。

黒人ゲイたちが迫害されてきた時代から人間進化したと考えるのは誤りだ。

カンブリア爆発だって1000万年掛かってるんだから生物進化はそう簡単には表面化しない。

迫害対象子ども嫌いの独身女性という新しいマイノリティに移り変わっただけかもしれない。

社会的制裁とか言いながら異端を虐めて正義ぶる『普通の人』はまだまだ多いはず。

世界に溶け込むために被ってる仮面には、実はサイズなんてなくて。

みんな一様だから靴擦れみたいに負担がかかる、その鬱憤を晴らすために他人を殴るというわけ。

もちろんストレスを生む仕組みが社会にあるからと言って個人が免罪されたりはしないのに注意ね。

ところで当時受けた数少ない指導は言われた通りに実践してるけど、まだ効果が表れた実感は無い。

お母さんたちの苦労や理不尽は調べるほど出てきて…。

特にツイッターハゲマンガに心にガツンとくるものが多かった…。

でも親たちに共感するのは直接私の子ども嫌いを治してくれる訳じゃないのにも気付きました。

なんというか声の時点で、もうキツイんだよね…、あと何を考えてるんだかわからないのも怖い。

気持ちをぶちまけたら心が軽くなってきた、さあもう貰ったプレゼントを開こう、この瞬間を楽しみにしてたんだ……✨

(そう言えば、人を好きになる努力、がなんだったのか結局聞いてないな…。そんなもん存在するのか)

anond:20230427085623

2023-05-15

anond:20230515023303

「うまく進めれば理想未来が出来上がる」妄想とでもいうのか。

生きるのも育つの株価だって言うなれば毎日毎秒が新しい「事故」、

で「事故処理」の評価がでるのは想像よりずっと後のことだよ。

2023-05-14

クソゲー叩きクソアニメ叩きってもしかしてハラスメントだったのか?

カスハララインがよく分からない。

不味い料理を不味いと口にするのは許されると思う。

それは感想しかいから。

だけどそれを「こんなの出してる味覚障害に金払う必要があるとか飲食業って本当簡単だよなぁ?」と言いながら会計して出ていったらカスハラになるかも知れない。

どうなんだろうまだ大丈夫かな?

たとえば店の前で「この店は超まずいですよ~~~」と大声で叫んだら流石に業務妨害も通るんじゃないのか?

いわゆる「ハラスメント」ってのは窃盗罪万引きに言い換えるようなものなのでは?

まり、「お前はそれがヤンチャで済むと思ってるのか?そろそろ弁護士呼んで蹴りつけるから震えて眠れ」を意味しているのでは?

じゃあ俺たちがやってきたクソゲー叩きってどうだったんだろう。

多分きっと間違いなく恐らく絶対メイビーで「この会社作品がこれ以上世に出回らないように、売上を下げなければ」という使命感があったはずだ。

それはクソゲーを掴まされたことに対しての正義の怒りであり、言うなれば詐欺にあった被害者の訴えとして存在していたんだと思う。

まりそこには業務妨害をしようという明確な意志があり、それが詐欺被害者という立場から来る特例によって許されると信じていたんだ。

食べログに騙されて不味い料理を食わされた客が、それを詐欺だと感じて相手詐欺師ならこっちもある程度は強気に出てもいいだろうと暴言を吐いて回るのと同じ思考回路で。

でもそれは単に今まで訴えられてなかっただけで、いつ訴えられてもおかしくなかったこと、要するに「ハラスメント」だったんじゃねーのかと。

インターネットを通じて気軽にレビューが出来るようになった直後、気に食わないものコテンパンに叩くのを当たり前だと人類が考えた時代があった。

それが一段落したあとに今度はそうやって自分趣味嗜好で人様の作ったものをボロカスに言う事の是非が問われるようになった。

トドのつまり、どっちも流行りに乗っかって手当たり次第に言葉暴力合法的に振り回したかった人達による叩いていい認定ブームだった気はしないでもないのだが。

そして今、「クズに対してクズというのは正当なレビュー」という人類が長年守ってきた文化に対して「ハラスメント」という概念から疑問符が投げかけられている。

ツイッターにおける誹謗中傷に対して弁護士が出てくることも増えた。

この時代価値観で振り返ってみると、クソゲーから何を言ってもいいし晒し上げにしてお祭り化してもいいという考えはかなりアウトに思える。

上辺で「愛がなければ出来ない」というくだらん言い訳をした所で、それは学校イジメにおける「弄りを通してクラスに馴染んで欲しかった」と同じようなもんじゃないのかと。

KOTY文化が滅びるのが間に合ってよかった……。

もしもあと5年も続けていれば、いよいよどこかの会社がブチ切れて殴り込んできたんじゃないだろうか?

2000年頃のインターネット価値観世間一般価値観においてはまだそういった行為は単なるお遊びで済んでいた。

でも今の時代価値観で見るとそれはかなり危険行為になっている。

時代の変化によりモラルラインが変動しているということだ。

昭和時代他人をぶん殴るというのは割りと一般的なことで、ちょっとした口論から派生して手が出るのはそんなに珍しいことではなかった。

それは「殴る」という行為が持つ意味、重さが今とは違ったからだ。

今の時代において「殴る」というのは最終手段としての面が強い。

論理を飛び越えて物理的に相手言動排除しようと試みることは、社会における通常の枠組みの外に位置しているのだ。

たとえばこれが原始時代であれば、暴力によって気に食わないもの排除するのは一般的だった。

気に食わないもの排除してから死人に口がないのを良いことに好き放題に自分に都合がいい理論暴力を振るったあとに語るのは通常の営みであった。

それは実際に「決闘」というシステムとして社会に組み込まれていた。

だがいつしか決闘禁止され、現代においても決闘を挑んだ時点で6か月以上2年以下の懲役が課せられるように法律で決まっている。

暴力を通して自分意見を通すことは、原始社会においては許されていたが、現代社会においては禁じ手なのだ

これは実に明確な「時代によるモラルの変動」の例だと言える。

同じように現代においては「相手罵声を浴びせる」ということにより相手心理的に追い詰めることも禁止されつつある。

現代社会において人類論理的に振る舞うことを目指している部分が強く、都合の悪い他者社会から葬り去ろうにもそこには論理的な手段が求められる。

たとえばそれは権力構造であったり金銭の流れであったり法律であったりだ。

そういったものを通すことなく「相手精神的な負荷をかける」ことによって自分の都合を通すことは、現代的でないものとして次々に禁止されてきている。

気に食わない商品に対してマイナスイメージを広めることで市場から追放することは、果たして論理的に正当な手段を用いているのだろうか?

ここからは完全に私個人価値観によるものだ。

クソゲーを掴まされた時に辛辣レビューを通して次に購入しようとした人に警鐘を鳴らすのはセーフなのか」を命題とする。

この場合、「一個人レビュー範疇に収まるか」によってその是非決定されると私は考えている。

それは以下の5つの条件を満たしているかによって決まる。

レビュー手段として正当な方法

②一個人が語る文量/回数として決して多すぎない範囲

あくまゲームの内容に対しての批判

脅迫を伴わない

他者扇動しようとする意図がない

それぞれの反例をあげてみる

①’販売店舗にて「クソゲー絶対買ってはいけません!」と言うテロップ勝手に貼る

②’複数アカウント作成してレビューサイトに何度も批判を書き込む

③’製作者の人格や経歴についての批判ゲームレビューに持ち込む

④’「次回作はこうしないと会社を爆破します」

⑤’「本当にクソゲーですよね。皆さんの意見を集めて投書したいと思います

こういったことをね、本当にやっていた人がいたんですよね……インターネット歴史の中では……マジで……

このレベルのことをしていないなら、今の価値観でも大丈夫だと思う。

でも最後の⑤が結構難しい。

反例として挙げたのは明確にアウトな行為だと思うが、そこより下のラインでどこからアウトになっているのかがよく見えない。

「このクソゲー酷すぎwww」と書き込んだ時点でそこには「皆も一緒に叩こうぜ!」という意思はあるんじゃないだろうか?

だったらそれはレビューサイトにてあらゆる批判をすること自体ある意味扇動意思があることになってしまう。

まあ実際にそれは事実で、あと50年もしたらレビューなんてものが完全に禁止されるのかも知れないわけだが。

現状においてのセーフラインはどこかにあるはずだ。

でもそれは会社によっても、製作者によっても、その時の空気によっても、そして刻一刻と変わっていってるわけで。

そこが見えないんだよな。

いね

公式発表がないままストライクゾーンが変わっていくようなもんだよ。

アプデ告知のないオンラインゲームみたいなもんだ。

おい運営どうなってんだよ。

マジでクソゲーすぎませんか?

皆さんどう思います

2023-04-28

anond:20230428095843

これ。

個人的にはむしろ子どもの声を合法化するより、おひとりさまを(言うなれば)違法化したほうがいいと思う。

子どもの声の定義もそうだけど、

なんか被害者側が対策を迫られるのではなく、加害者側が対策されるべきだ。

2023-04-27

anond:20230427163403

ん〜わかってないなぁ

言うなれば花を育てる感じ?

別に売るわけでもないし、食えるわけでもない

だけど高い肥料買って花植えて育てたりするじゃん

それと同じで、栄養にも金にも何にもならないけど、ただ人生に彩りを与えてくれる存在っていうの?

それが推しなんだよね

ただ応援して眺めているだけで十分なの

まぁ、セックスしてくれるならするけど

2023-03-20

anond:20230318171119

言うなれば運命共同体

互いに頼り、互いに庇い合い、互いに助け合う。

一人が二人の為に、二人が一人の為に。

からこそ日常が報せられる。夫婦実在増田家族持ち。

嘘を言うなっ!

猜疑に歪んだ暗い瞳がせせら嗤う。

低脳コピペ、虚偽、再投稿

どれ一つ取ってもネットでは命取りとなる。

それらを纏めて増田で括る。     

誰が仕組んだ地獄やら。      

兄弟家族が嗤わせる。     

お前もっ!

お前もっ!

お前もっ!

からこそ、

俺の為に読めっ!

俺達は、何のために読ませられたのか。

2023-03-16

北海道男女差別と言われてるクラブイベント問題

内容と経緯としてはこれを読んでる人はまぁみんな分かってると思う。

北海道で開催される予定のアニソンDJイベントで、男性は1600円、女性は50000円の入場料設定がされていて、参加者の一名が「女要らん」という趣旨ツイート投稿。これを見た某19歳の女性がこれを男女差別批判Twitter問題提起した結果、DJイベント界隈の中で反響を呼び現在に至る。

ざっくりと説明するとこんな感じ。

これを見て思ったことがあるけど、巻き込まれたくないのでここで書きたいと思う。というか件の19歳の方も「嫌われて悲しい」みたいな話をTwitterでするなら、最初問題提起匿名にすればよかったのではと思わないでもないけど。

ちなみに私はフロアシーンにもよく顔を出すけど、北海道民ではない。

件のイベントの方も悪ノリが過ぎたと思う。そこは反省すべき点のひとつだと思うし、真摯対応して欲しいと思っています

ただ、この問題の大きなポイントとして、19歳の方(以下Aさんとする)に行動の責任能力がなさすぎる。

まずはこれがめちゃくちゃ大きいと思う。男女差別容認と思われるのも嫌なので最初にハッキリとさせておくと私の主張としては、まず「女要らん」はマジで良くないと思ってる。

思ってるけど、このAさんの行動があまりにも良くなさ過ぎて、どっちもどっちやんというのが外から見た印象。

Twitterというもの不特定多数が見るもので、言ってしまえばこれをダシにして北海道クラブフロアシーンを壊すことで徳をする人が出てきてもおかしくないと思う。Aさんにも「変な宗教フェミニストに絡まれ可能性」ももちろん出てくるし、いわゆるみんなが見える表垢でこんなことをすると、このイベント関係者嫌がらせを受けるかもしれないリスクもある。だから当人間で問題解決されるべきで、解決が見込めない場合に全体周知をして、世間意見を求めるという形をとる方が、後々自分相手も傷が少なくて済む。これが基本的問題解決に向けての考え方だと思う。

一方でAさんのとった行動は、本人は「フロアシーンを壊す気は無い」「開催するなとは言ってない」と再三言っているが、「おもんな!!」や「何が楽しいの?」と言う言葉不特定多数が見える領域で使っている。

加えて、問題提起から日経っても「イベント主催者がだんまり決め込んでる!イベント主催者としてどうなの?」や「姉が女要らん告知した人が、それを消したのダサイって言ってます」といった、言うなれば批判をする上でどう考えても必要以上の攻撃性を見せ続けている。言ってしまえば問題を再燃させようとしている。

傍目ではどう見ても自分を認めないイベントフロアシーンを潰そうとしてるように見えてしまう。

その上でAさんは「嫌われただけで問題解決できなかったのは悲しい。」というスタンスツイートをされている。

もうここでハッキリさせておくと、そりゃ嫌われるよな。というのが私の印象。

これは批判された側、されてない側関係なく、ここまで攻撃的にイベントを見てる人に目をつけられると自分イベントDJにAさんからみて嫌なところがあると「同じことされるんじゃないか」ということを考えてリスクヘッジしたら、避けたりするのは当然といえば当然。

ただ、Aさんの主張である攻撃的なDM札幌の方から次々届いている」というのが事実なら、やった人は札幌フロアシーンを何も考えてないと思う。ここまでやるAさんがそのDM晒したら、その攻撃DMを送った人の所属イベント主催イベントはそういうことをする人がいるという印象がつく可能性が高い。少なくとも私もそんなことする人がいるイベントには行きたくはない。その時点で私なら名前隠さずに攻撃DMしてきた人を晒すだって悪意のある攻撃からね。今Aさんがやらない理由イマイチからないけれど。捨て垢とかからやられてるならそれが札幌の人かどうか分からないと思うし、どうやって札幌の人って特定してるんだろう。

それは置いておいて、Aさんが本当に「札幌人達と仲良くしたい」なら、まずしたほうがいいこととして、件のツイートを全部消して、該当イベント主催者DMかサシで話すこと。相手が応じないならもうそイベント関係者とは関わらないこと。どうしても問題化したいなら、本人が話すのではなくて、信じられる大人の方を通すこと。

法律的にも責任能力があるとは言えない未成年が矢面に立つ現状は見栄えが良くないし、発言を見てると怒りと問題提起がごっちゃになってるように見えるので、一旦自分発言にも悪いこと、やってはいけないことがあることを理解したほうがいいと思う。

ここからは私の感情論になるけど、自分の姉がこう言ってましたって趣旨ツイートRTして「手が滑ったーーー」とかやってるのは本当に第三者として気分が悪い。男女差別批判したいのならやる必要が本当にない。かつ自分の姉も問題に巻き込んで、危険晒してることを微塵も理解してない。

もっというとスペースを開いて何人かの大人が話をしてる中一生聞こえてきたスプラトゥーンプレイ音。

固定ツイートにしている「炎上したので自己紹介します」。

本当に男女差別という問題を真面目に考えてるのか?と思いました。自分が嫌なこと、不快に感じたことを感情で叩いて、反撃にあったら「皆にいじめられます」は子供理論だよ。発言には責任が伴う。批判が伴う。それが大人になるってことだと思う。

そのあたりをまず1回ちゃんと考えて欲しい。

こんなことを続けてると、DJイベント界隈だけではなくて、どこに行っても嫌われたり叩かれたりする人になってしまうと思うし、誰からも信用されない人になってしまうと思う。

身内ノリや界隈、権威で良くないことが曖昧になってしまクラブという場所でこれは良くないってちゃんと言えることは本当にすごいと思ってます。怖いと思うし、言いたくないと思う。

でも、もう少しこれをしたらどうなるかをする前に考えて行動した方がいいと思う。

信頼できる大人を味方につけて、言いたいことをちゃんと「大人文章」にしてもらってから問題提起をした方がいいと思う。

本人に届くか分からないけど、届いたならこの文章に1回「ふざけんな」と思っても、一旦書いてあることをもう1回読んでみてほしいです。

それでも許せないと思ったなら、批判ツイートしてください。

きちんと読ませてもらって、私の糧にします。

私は貴女が素敵な大人になることを心から願っています

2023-03-14

https://www.forbes.com/sites/brucelee/2023/03/11/cochrane-says-review-does-not-show-that-face-masks-dont-work-against-covid-19/

You know that recently published Cochrane review that some have claimed as evidence that face masks don’t work? Well, have some of these claims been a bit, shall we say, too cocky and not Cochrane-y enough? Well, in a statement issued on March 10 by the Cochrane Library, Karla Soares-Weiser, MD, PhD, MSc, Editor-in-Chief of the Cochrane Library, emphasized, “Many commentators have claimed that a recently-updated Cochrane Review shows that ‘masks don't work,’ which is an inaccurate and misleading interpretation.” Yikes.

最近発表されたコクランレビューで、フェイスマスクが効かないという証拠だと主張する人がいるのをご存知でしょうか。その主張の中には、ちょっと言うなれば生意気すぎるし、コクランらしさが足りないものもあったのではないでしょうか?コクランライブラリー編集長であるKarla Soares-Weiser(MD、PhD、MSc)は、3月10日に発表した声明の中で、「多くのコメンテーターが、最近更新されたコクランレビューが『マスク効果がない』ことを示していると主張していますが、これは不正確で誤解を招く解釈です」と強調しました。うわぁ。

2023-03-13

是枝裕和監督『誰も知らない』と、最悪な映画体験について

私と『誰も知らない』に関する最悪な映画体験について、書き残しておきたい。書きやす文体として饒舌体としているが、誰が読んだって読まなくたっていい。ちなみにオチはない。ただただ、最悪だった、という話。

『誰も知らない』という映画をご存知だろうか。

2004年公開、是枝裕和監督脚本製作総指揮を行い、主演を務めた当時14歳柳楽優弥カンヌ国際映画祭最優秀主演男優賞を受賞した作品である。『万引き家族』が話題になった際に取り上げられた作品でもあるため、耳にしたことのある人は多いのではないだろうか。

本作は1988年巣鴨子供置き去り事件という、母親が4人の子供を家に置き去りにした事件を題材とした、いわゆる社会問題系の映画だ。

私はこの作品を、他の誰もこんなクソ最悪なシチュエーションでは観てはいないだろう、というシチュエーションで観た。

平たく言えば私はこの映画を、家出していた母親半年ほど経って帰ってきた少し後に、その母親に連れられて映画館で観た。

私の両親は二人ともよく言えば自由タイプで、悪く言えばたぶんあまり常識がない。私が十歳に満たない頃にどっちの不倫が原因だか知らないが、あれこれとあった結果、母親携帯をはじめ何もかもを置いて家を出ていった。こちから連絡はつかず時折一方的電話があるのみで半年が経ち、ある日、「今から帰る」という電話を寄越してへらへら笑いながら帰ってきた。私が泣きわめいてもへらへらと笑うだけで説明言い訳謝罪も一切なかった、それが我が母である

その母は、それまで映画館で映画などほとんど観ない人間であったのに、帰宅から少し後に私を連れて公開されたばかりの『誰も知らない』を観た。あるいは、家出前は父がうるさく自由趣味時間が取れなかったのかもしれないが、私には知る由もない話だ。

『誰も知らない』ストーリーについてはWikipediaなどにかなり詳細に載っているので、こちらでは特にさない。とりあえず適当サイトストーリーを読んでほしい。そして薄っすらとでも察してほしい。私の体験がどれだけ最悪だったかを。

もう20年近くも前のことなのに、一度しか観ていないのに、今でも映画の色々なシーンを思い出してしまう。けれど自分がどう思ったのかは、少ししか覚えていない。世間でも評価されている通り子供たちの演技が妙にリアルで、子供ながらに、ああ、私はもう助からないのだな、というようなことを思った記憶けがある。

そうして、映画を観た後、映画の中の母親と同じように私の母は再度家を出ていき、幸せそうな別の家庭を持った。母の映画感想がどうだったのかは、聞きたくもないし知りたくもないし、映画を見たあと母は何も言わなかった。

映画を観ていて良かったのかもしれない、と今となっては思う。今の私はごくごくまともな、この不景気の世では少し恵まれているくらいの生活を送れていて、このまともな生活を手に入れるためには、他の子供たちよりも別ベクトルの頑張らなければいけないことが多かったように思う。頑張ることができたのは、もしかたらこの最悪な映画体験があったおかげかもしれない。一切関係していない可能性も十分にあるが。

あのとき私は救われたかった。映画の中では子供たちは誰にも助けられず、子供たちは誰にも知られないまま生きていく最後が描かれていて、私はそうはなりたくなかった。私はまともになりたいと望んで、結果的にまともになることができた。

そうは思うものの、あの映画の意義はなんだったんだろうかと今でも考えることがある。世界は変わったんだろうか。『誰も知らない』ものを、知る人は一人でも増えたんだろうか。

少なくとも2010年代前半、毒親という言葉の一次ブームだろうか。あのころ学生だった私は、家の不満を少しでも漏らそうものなら肉親にも他人にも窘められた。乱暴言葉は使わず、起きていることだけを訴えても、親にも事情があるのだと黙らされた。大人になり、経済的に完全に自立した今になって振り返っても、私の両親の言動は著しく大人としての責任感と良識を欠いたものだったと思うが、私が悪かったのだろうか。そして今は少しでも、子供を取り巻く環境は変わっているのだろうか。

なんのためにあの地獄模倣されたのか。誰も知らない子供たちのことを誰かに伝えて、何か変わったのか。私はどうすればよかったのか。少なくとも今の私は、恵まれない子供がいると分かっていても何も行動には移せない。今でも考えてしまう。子供はあの映画を観てどう思えばいいのかと、監督に聞いてみたい。そもそも想定されていない観客なのだろうけど。

ちなみに母親が別で持った家庭はまた十年足らずで終わったので、あの映画母親もどのみち幸せにはならなかったのだろうなと勝手に思っている。

それでも、今でも思い出す。映画の中の母親が、知らない家の軒先で知らない家族の“母親”をしている姿を。

ちなみに主題の都合上母親ばかり悪し様に書いているが、父親も負けず劣らずだったことには留意されたい。というかまあ、映画と同様に子供にとっては『実行犯ではなかった』というだけの話。

まあ妻が逃げた後は普通に子供虐待し始めるタイプだったので、映画以降は紛れもない実行犯だったのだが。これが話のオチといえばオチになるか。

20230317 追記

思ったより反応がついてちょっと驚いた。内容が内容なので、てっきり誰も関心は持たないだろうと思ってたから。

ちょこちょこコメントをもらったので追記すると、あくまで私の意見としては「こんな映画を撮りやがって」という話ではない。映画批判するコメント肯定するコメント否定はしないが。難しい題材だから、人によって意見が違うのは当然だと思う。

ただ、恐らくあのときの私が観るべきものではなかったし、私には意義が分からなかった、という話。きっと意義が分かる人もいるんだろう。

言いたいことが膨らみすぎて霞んでしまったけれど、記事のメインの意図言うなれば新車の納品日がクソ暴風雨で最悪だったので、日記を書いておこうと思う。あと痛ましい愛車の写真も載せておく」みたいな話だったんだ。タイミングが悪すぎるにも程度ってものがあっただろ、って。

同情はありがたく受け取るし、笑う人は笑ってくれればいいし、正直なところ言及の“4DX超え”はかなり笑いのセンスがいいと思う。その程度の話だと思ってほしい。

2023-03-10

ミリオタ界隈は暇空茜に対する戦い方を根本的に間違ってる

暇空茜vsクソ利権外野から愉しんでるギャラリーだったんだけど、最近暇空側の方がミリオタ界隈と見てて不快になるタイプ喧嘩を始めて、双方に若干イラッとしている。しかTwitterに書いてどっちかの陣営エゴサ引っかかって絡まれるのも厄介なのでここに書く。

 

 

暇空茜の方はわざとにしても触れる事すらアホらしいと思うような煽りばっかりなのでもういいが、それにしてもミリオタ界隈も煽られすぎたせいか相手分析がろくに出来てなくてイラっとする。(まあ争いは同レベル帯でしか起きないのでしょうがないけど)

そもそもミリオタ界隈は暇空茜に対して論破してやろうとか、普通荒らしみたいな対応をしようというのが根本的な間違いなのだ相手分析が出来ていない。

 

 

まず暇空茜がもつ分析能力妨害能力は高い。そこは認めるべき彼の強さであるしかしその一方で、彼は品性社会性というものに欠けるワガママオッサンである。おまけにTwitter2ちゃんの延長という風にしか考えていない程度には感性オッサンである

まり、暇空茜は能力は高いが時に迷惑だし相手するのは面倒という、言うなればひろゆきホリエモンといった有名なネット上の害悪オッサンと同じ分類のオッサンなのである。そんな奴にレスバ挑んでも負け宣言が飛び出る訳ないだろうが。

 

 

もし彼にちゃんと勝とうとするならひろゆきレスバで勝つくらいのつもりで挑む必要がある。ただ多分それは常人には無理である。かと言って少しでも逃げの姿勢を見せれば躊躇なく背中撃ちされるので生半可な逃げも負けである

常人に出来る最適解はガン無視して鼻で笑う事くらいだろうか。もし相手に触れるのであれば彼をあやすくらいの気持ちで接するしかないだろう。あと著名な先生方であれば、戦場ネットからリアルに上手く変える事が出来れば多分彼の方から勝手に逃げる。

上記分析が全て合ってる訳ではないが、ミリオタ界隈も一応軍事知識を学んでいるならこのくらいは戦う相手分析くらいしてほしい。相手が「はい論破」に近いネットオタクって事くらい、すぐわかるやろがい。

 

 

最後

私はこの増田で暇空氏をに関して色々言ったが、彼の能力と対クソ利権の戦績だけは褒めるべきもの評価している。また、クソ利権側に関しては名前も出したくないくら邪悪だと思っているので、何をどう言われてもクソ利権側の味方にまわるつもりはない。これだけはキッチリ書いておく。

(ただ、彼の人間性に関しては嫌いなのでこの問題が終わったらフォローを外そうと思う)

2023-03-03

創作意欲が最も搔き立てられる瞬間

超絶面白い良作に触れた時よりも中途半端に出来の悪いツマラナイ作品に触れた時のほうが、創作的なやる気はみなぎってくるような気がする。

言うなれば、はっ、こんなもん、おれでも書けるわ、ちょろ過ぎる、と作品に対してナメた態度をとった瞬間にこそ爆発的なエネルギーが生まれている気がする。原理はよくわからないけど。

なんだろうね?あの気持ち。気に入らないとか、憎いとか、単なる対抗心ではない。

思うに、ツマラナイ作品というのは、その場で生意気に見下しているだけあって、なんとなくそ世界の要領が分かったような錯覚に陥るのだろう。

肥沃でない地面を踏み、なるほどね、大体理解したわ、オッケー、やってやるぜ、という、至極フレッシュ気持ちになる。そうして新しい風が吹く。おれを導いてくれる風。すなわちチャレンジ精神だ。何かに挑戦するための最大風速、出てます出てますめっちゃイイ感じに吹いてます、よーし、やってやるぜ、という意気が溢れている。今ならなんでもできる気がする。ばっちこい。そして飛翔。

しかし、良作を味わっている時には、意外にそういった気分は訪れない。不思議と、妄想好奇心ってものが出てこない。それは強大な何かに打ちのめされた感じとか、おれの意思が介入する隙もなく別世界へと連れていかれる感じとか、つまりすさまじい引力である

「○○を見てインスピレーションが湧いた」という表現はよく目にするが、良き作品を見て、そこから何かが降りてくるってことはそれほどないのではないかと思う。強大な力を持った何かが目の前にあるだけだ。実力の違いを肌で感じ、それが何か大きな原動力にはなるかもしれないけど、それはもっともっと深い根っこの部分の話であり、自らの活動を促すような刺激にはならない。

出来の悪い創作を見た時のざわつきというのは、良い作品を見た時よりも、もっと突発的で刹那的なやつだ。皮膚の表面に電流がビリッとながれる感じ。あるいは食欲に似ているかもしれない。

それで最近考えるのは、自分教養的な古典ではなく、流行的な現代作品を読むべきかもしれないということ。古典作品ほどやはり完成されているので、ためにはなるけれど、動力源としての役目は果たさない。それならば、「ためになる」は一旦脇に置いておいて、粗の目立つような今の話題作品を読むほうがよっぽどいいのかもしれない。

2023-02-27

頭には限りがあるから

小学生算数宿題のようなものだけで頭をいっぱいにしようとするな

それがそうならこれはどうだというのは揚げ足取りで頭のリソースそして貴重な時間を浪費させようとすること言うなればテーマ押し売りである

2023-02-25

地雷」を持つこと〜ウマ娘 プリティーダービー

ウマ娘プリティーダービーとは。

実在した競走馬モデルとして擬人化した少女ウマ娘を育成する育成レースゲームである

魅力的なキャラクターが多数登場し、100人を超えるウマ娘たちの中には一癖も二癖もあるキャラクターたちがたくさん存在する。

そのキャラクターに向き合う上で、私には「地雷」がある。

地雷オタク界隈で、「苦手だったり嫌いだったりで、避けて通りたいし出来れば視界に入れたくないもの」を指す。

私の地雷は「ウマ娘トレーナー恋愛要素」である

先に説明しておくと、当ゲームウマ娘デビューしてから大事な3年間をプレイヤートレーナーとして育成する、というのが基本的シナリオとなっている。

その中で、日本ダービー有馬記念をはじめとした実在レースに出走したり、夏合宿トレーニングをしたり、時にはウマ娘とお出かけしたり、オフの日をあげて休ませたり。

季節イベントとして、クリスマスを一緒に過ごしたりバレンタインチョコを受け取ったりするものもある。

私が嫌いなのは、こうした描写から「このウマ娘は俺(トレーナー)に気がある」と思い込んでいる二次創作がなんとも多いことだ。

言うなればトレーナー先生であるコーチである

ウマ娘が、あるいは選手が、学生自身の夢を叶えるために頑張るのを、共に目標を立てて大事最初の3年間後押しする存在である

先生だってクリスマスを祝い得るだろう。

先生だってお世話になっていて校則許可されていたらチョコも渡してもおかしくないだろう。

……それで自分のことを好きと思い込むのはいささか早計ではなかろうか。

「いや、○○ちゃんはこんなふうにも言ってたし」そんなことは聞いていない。そんなふうに世の中のウマ娘だの女性だのがトレーナー先生とやらに好意を持っていると勘違いする人が教師になるから生徒を襲うんだよ。

二次創作には「トレーナーのことが好きすぎる○○」「トレーナー結婚して人妻となった○○」「俺と○○の娘が〜〜」とかこういうものが多すぎる。

ウマ娘二次創作ガイドラインとして、実馬の名誉を傷つける創作エログロ禁止されている。

……数々の苦境を乗り越えてきて栄光を掴んだ優駿がそんな一般トレーナーサマと結婚とは、名誉を傷つけているとも取れないだろうか。

実馬には種付け等の問題があるゆえ、確かに様々な相手と交配を行う。しかし、「こいつ俺のこと好きに違いない」マインドですぐに「結婚」「人妻」「うまぴょい」だの言うのは脳みそチンポである

※うまぴょい……ウマ娘代表する楽器「うまぴょい伝説」より。うまぴょいにこれといった意味はないが、脳みそチンポトレーナーは「セックス」の意味だと思い込んでいる。

で。

私は上述したように、トレーナーウマ娘恋愛描写脳みそチンポだと感じる。地雷である

しかしながら、二次創作マジョリティはこのトレウマないしウマトレと呼ばれるカップリングである

男性ファンが多いジャンルなのはわかるが、流石になんというか画面の中に愛を求めすぎていて気色が悪い。

かくいう私も男なのだが、センシティブエログロ禁止された世界にも結婚だの抱いてくれないだのそういう概念を持ち出すのは流石に顔面チンポとしか言いようがないだろう。

そのため、ウマトレの二次創作を行う人はとりあえず片っ端からブロックしている。

視界に入れたくないので。

なんなら、トレーナーとのカップリングにすぐに結びつけられるウマ娘に対しては警戒している。このキャラクター二次創作ならやりかねん、と。

そうしたら。

2023年バレンタインイベントで何人かのウマ娘が「やりやがった」のだ。

トレーナーへの恋愛要素と取れるようなメッセージチョコに添えるだのなんだの。

Cygames公式脳みそもおチンポになられてしまったのでございましょうか。

ウマ娘、ひいては優駿達は自称トレーナー男性、チー牛、瞬足ベリベリ財布、英字シャツ)に自ら媚を売り、股を開くキャラに成り下がっても良いのだろうか。

私はそのようなことはあってはならないと感じる。名馬の尊厳や栄誉を盾にするようだが、尊厳を傷つける創作に近しいものを、「地雷」と公言することは許していただきたい。

そして、そうした性の対象にされるキャラクターを苦手と公言しても良い世の中であって欲しい。

2023-02-10

大金貰ってる将棋プロ芸能人寄付してるアピールしても無意味

寄付言うなればキャバクラ指名と同じなんだよな。

税金として再分配したほうがマシ。

2023-01-31

貧乏人、家を買う

タイトル通り。

大袈裟でも何でも無い、我が家は本物の貧乏家族である

子供が5人以上、10人未満。

加えて私ら親はオッサンとオバハン。

唯一の救いは、お互いに安定した収入がある事。

だが、その額は決して高くは無い…。

食べ盛りの子供達の食費や習い事

生活費、夫のお小遣い

これに家賃光熱費を払うとなれば、

残るのは微々たる物しか無い。

給料日当日、払うものを分けて薄っぺらくなった自分給与封筒を持った夫が言った。

「…俺は支払いの為に働いているのかもしれない…」

それでも、楽しみながら節約レシピを参考にしては、新しい物に挑戦してみたりする。

もやしあんかけが美味しいって!

作ったげようか?!もやしは安いし!」

そんな私に長女は穏やかに

いいね、美味しそうだね」と答えてくれる。

そこに縦にも横にも急成長している男子が返答する。

「んじゃ、オレは肉」

………もやし下りを一蹴される。

男って………いつか結婚した時、嫁にシバかれるであろう。

だが、確かにもやしだけでは栄養がと考えさせられ、仕方なく肉を自分以外の家族全員分を買いにスーパーへ走るのである

そんな毎日に、金を貯めるなんて余裕は本当に無かった。

この十数年の間に受験やら入学卒業、そんなイベントの度に幾ばくかの貯金も底をつくことを繰り返して来た。

からタイトルにある家を買うなんて事は、夢のまた夢であり、憧れでしか無かったのだ。

それに、オンボロ貸家で暮らすこの日々は、不便もあったがそんなに悪く無かった。

近所の人に恵まれた事や、小さいながらも庭がある事。

薄すぎる壁のおかげで外の音もよく聞こえる。

夫の車の音もしっかりと聞こえたし、子供達の登校時の笑い声や、帰宅途中の元気な足音、すずめの鳴き声、行き交う人々の何気ない雑談

嫌う人も多いかもしれないが、私には心地良い日常だった。

私の住む地域は降雪量がそれなりにある場所で、冬はどうしたって厳しい。

何よりもしんどいのは夜、眠りにつこうとする時だ。

家族全員が眠りについてから家事を終えた私は下の子の布団に入る。

この時点で寒過ぎる。

ストーブはついているのに、冷気がものすごい勢いで入ってくる。

そっと下の子の頬に手を当てると、もう冷え冷えになっている。

生きてるよね?!のレベルで、腹の動きを見て呼吸を確かめしまうほどだ。

今でこんなに冷たくなっていては、夜中はどうなるのか。低体温になってしまうのでは無いか不安になり、居ても立っても居られず冷気の入る場所を探り出す。

ここだ!と思ったのは、やはりドアの隙間。

一応クッション性のあるテープは貼られているものの、年数が経って冷風が吹き出しているでは無いか

パッと部屋を見渡したら、使ってなかったマフラーが落ちていた。

我が家の2歳になる女児は、物色職人として日々働いている為、色々な所に色々な物が引っ張り出されている。

いつもであればヒステリックグラマーと化して片付けておくのだが、何度閉まっても出てくるマフラーを諦めていたのが幸いだった。

挟めてやった。

冷気レベルを下げる事に成功

ものすごい発明だ、冷気には長い布だと自己満足し、さて寝るか…と思ったのも束の間、布団に入ろうとした私を吹き付ける更なる冷気を感じる。

確認

ああ、もうダメだ。

ドアの四方全てから冷気が出てやがるとがっかりした。が、そんな事で諦める私では無かった。

外気温とほぼ変わらなくなった居間に行き、工具箱からマスキングテープを取り出す。

そしてドアの隙間という隙間にマステを貼りまくり、冷気・シャットアウト!!

何この達成感。

diyってこういう事なんだ、癖になりそう(後に違う事を確認

自信を持って布団に入る。

後は安眠するだけでは無いか、冬に圧勝したと思ったその時だった。

………鼻が寒い

鼻だけが異常に寒い

の子もやはり温まって来ない。

なぜ…?

せっかく入った布団から上半身を出し、ティッシュの切れ端を片手に冷気を探る。

もはやコールドバスターである

「ヒュ〜〜………」

かに冷気の音がする。

どこだ…どこなんだ…まさか

そう、ドア横にあるコンセントの穴から、冷気どころか寒風が流れ出ている!!!

けれど、コンセント自体劣化していて、そこにテープを直張りする勇気など無かった私は、おもちゃ箱授乳クッションを積み重ね、言うなればブルーメン音楽隊工法で冷気を横に逃す事にしたのだ。

寒い事は変わらないが、直接当たるより良いだろう…。

眠さも寒さも限界だった…。

もう布団に入るのは何度目だろうか、

二度と朝まで布団から出るまい。

明日、この功績を皆に伝えようとウトウトしていた時

「テーレーレーレーレーーレレーーー♪」

静寂をぶち壊す大音量で、ストーブが鳴いた。

延長ボタンを押さなければならない。

手は届かないだろうと確信していたが、今、上下逆になって足で延長を押すのはきっと無理だよなと色々悩んだ末、布団から出て行った。

ただの厄日だったかもしれない。

だが、私は決意した。

家買うと。

手を加えるにしても、また小金が掛かる。

自分の物にならないのに…これまでも結構掛かっているのだ。

潮時だ…。

ここはコールドスリーブ施設だ。

きっかけはそんなこんなで、家を買いました。

今月とうとう引越しです。

嬉しいのと、寂しいのと、冷気への苛立ちと…

この気持ちを残しておこうと思い立って、書いてみた次第です。

2023-01-14

上手に生きるコツは美味しいカルボナーラの作り方とよく似ている。

上手に生きるコツは美味しいカルボナーラの作り方とよく似ている。

30歳を過ぎるまでカルボナーラを作ったことのない僕が人生に躓いたのは仕方がないことだったのだと思う。

料理をしなかったわけではないし、パスタを作ったことがなかったわけでもない。

しろ僕は同年代の人たちと比べたらよく料理をする方だった。

でもカルボナーラだけは作ったことがなかった。

普通の人はペペロンチーノを作り、ボロネーゼを作り、カルボナーラを作る。

でも僕はカルボナーラ飛ばしジェノベーゼアマトリチャーナなど他のパスタを作り続けた。

なぜかカルボナーラ敬遠してしまった。それを説明することはむずかしい。あのクリーミーさに満ちた感じだったり、半卵なのか全卵なのかはっきりしない感じだったり、そもそもカルボナーラという名前だったり、いろいろな理由を挙げることはできる。

しかし、どれが理由なのかと言われると、はっきりとは明言できない。言うなればカルボナーラカルボナーラ足らしめてるカルボナーラらしさがなんとなく僕にカルボナーラ敬遠させた。

そしてそれこそが僕が人生に躓いた理由ととてもよく似ていた。


僕は同い年の人たちと同じようにかわいい子に声をかけ、デートをして、セックスをした。でも、それだけだった。

恋することや愛することは一度もなかった。

それは小説映画などで使われる、話をおもしろくするための修辞学的な表現だと思っていた僕は、それが現実存在するものだと知ってひどく驚いたものだった。

セックスが終わり、僕の腕を枕にした彼女が教えてくれた。

僕は恋や愛をユニコーンペガサスのようなものだと思っていた。

現実動物ベースにしているから、似ている動物はいる。しかし、それはあくま空想上の生き物であると。

でも、それは間違いで恋も愛も現実存在しているものらしい。

あなたってイギリス人みたいね

「どういうこと?」

「カモノハシの標本を送られたイギリス人もその存在を信じなかった。鴨のくちばしとビーバーの体をツギハギしたものだと思い込んで。おかしな話よね。そこにカモノハシはいたのに」

彼女とはそれっきりだった。


カルボナーラの作り方はとあるオカマに教えてもらった。

彼は自らのことをニューハーフともトランスジェンダーとも言わなかった。ただのオカマだと言った。彼女と呼ばれるのも好まなかった。

女性ホルモン摂取していたが不定期だった。真面目にクリニックに通ったかと思うと、突然行くのをやめた。そんなことを繰り返していたので、オカマ男性女性の間を行ったり来たりしていた。

特に深い理由があったわけではない。ある時僕はオカマと寝た。酒で記憶をなくしたわけでも、ヤケになったわけでもなく、なんとなく僕はオカマと寝た。それがどこか自然な成り行きのように思えた。オカマ男性みたいで女性みたいで不思議な感じだった。

オカマとは付き合っていたわけではなく、友達のような関係だった。僕に彼女がいた時もあったし、オカマ彼氏がいた時もあった。でも、どちらからともなく連絡を取って、相手の家でご飯を作り、ワインを飲んで、セックスをした。僕とオカマはそんな関係だった。

いつものようにオカマの家に泊まった翌日、僕が起きるとオカマ料理を作っていた。

オカマはいつも楽しそうに料理を作った。料理を作るオカマを見るのが僕は好きだった。

オカマは話をしてくれた。オカマという生物の生態についての話だった。


オカマになるのは金がかかる。昼の仕事で稼ぐには厳しいし、そもそもオカマになればなるほど、昼の仕事は難しくなる。オカマが言う通り僕はオカマ警官教師というものを見たことがなかった。だから多くのオカマは夜の仕事をする。

若いオカマはいい。若いオカマは綺麗だから自分も周りも満足する。でもオカマも年をとる。年をとったオカマは醜くなる。夜の仕事は難しくなり、周りから求められることも少なくなり、その醜さに何よりも自分自身が絶望する。昼の仕事経験もなく、夜の仕事を続けられるわけでもなく、誰からも求められることのなくなった醜いオカマとなってオカマの生態は終焉を迎える。

「ねえ、バビルサって知ってる?」

「なにそれ?」

インドネシアにいるイノシシの仲間。長いツノが生えててだんだん伸びて最後には自分の頭に刺さって死んじゃうんだって

自分ツノで?」

「そう、自分ツノで」

「へえ、変わってるね。でも急にどうしたの?」

「それってオカマに似てるなって思ってね」

そう言ってオカマは2人分のカルボナーラを持ってきた。僕はカルボナーラは好きじゃなかったけど、オカマカルボナーラだけは好きだった。確かに美味しいカルボナーラだったけど特別美味しいってわけではなかった。でもなぜだか好きだった。まるでオカマのようだった。そういって僕らはカルボナーラを食べた。僕らの関係オカマ自殺するまで続いた。


オカマが死んだ後、僕の生活はすこし変わった。

女の子と上手に遊べなくなった。

嘘というわけではないのだけど、思ってもいない言葉を言えなくなった。

例えば本当に綺麗な子以外には綺麗だと言えなくなった。そして本当に綺麗な子は、多くの場合、綺麗なこと以外には褒めるべきとこがなかった。そういったわけで僕は女の子と上手に遊べなくなった。僕は暇を持て余した。

ただこの話にはミステリアス少女もオシャレな小人も出てこない。劇的な体験だったり非日常的な冒険だったりそういったイベントも起こらない。仕事をして、洗濯をして、アイロンをかけて、料理を作って、ワインを飲んで、夜に眠る。そんな生活が何年も続いた。そして僕は何年も飽きることなカルボナーラを作り続けた。

オカマカルボナーラを思い出しながら作り、カルボナーラを食べながらオカマを思い出した。男のようなオカマを思い出し、女のようなオカマを思い出し、元気なときオカマを思い出し、辛そうなオカマを思い出した。思い出すオカマによってカルボナーラの味は変わっていった。

でもしばらく経った頃からカルボナーラの味は変わらなくなった。そして僕の生活はすこし変わり始めた。相変わらず思ってもいない言葉は言えなかったが、以前より思う幅が増えた。どんな人にも美しさがあり、優しさがあるように思えた。もちろん、多くの場合は、という留保付きだったけれど。

僕は相変わらずカルボナーラを作り続けた。パスタを茹で、生ハムを炒め、ワインを加え、パスタを入れて、卵とチーズを混ぜて、黒胡椒たっぷりとかける。ひとつひとつの行動が美味しいカルボナーラを形作るように、僕の生活ひとつひとつの行動が意味を持ち始めた。現実人生が地続きになった。

もちろん、失敗することもある。茹で過ぎたり、ワインを入れすぎたり、火が強すぎたり。でもそういった失敗もどこか友達みたいに思えるようになった。そして僕はそんな具合に人生を生きるようになった。カルボナーラのように。相変わらず時々失敗はするけれど、どんなカルボナーラでも美味しいものだ。多くの場合は。



2016-03-202016-03-26

2023-01-14 部分改稿

供養。

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2023-01-03

anond:20230102104156

実際、人流がスッカスカだったし、増田認識は大きくは外してないと思った。ただ、一般参加者、とくに評論島好きとして参加して、今回惜しいと思ったこともあるから書く。

自分は午後入場チケを買って、1時半に入場し、評論島には2時過ぎに着いたんだけど、この時点で島全体に消化試合感が漂ってんだよな。明らかにコロナ前の同時間帯より悪化してる。これがよろしくない。

言うなれば7回表から野球見せられる感じ。しかも知らないチーム同士で、点差もついちゃってる感じの。

ある程度捌けただろうサークルはもう片付け終わってるし、手応えが無かっただろうところは諦めムードが隠せてない。あるところは箱詰め始めてるし、あるところは隣や知り合いとくっちゃべって通路に目も向けてない。こっちも様子を伺おうにも、見本誌の上にはなんかバインダー置いてあってよく見えなかったり、下向いてスマホいじってたりする。

自分はまさにふらっと行ってジャケ買いするタイプ人間なんだけど、そんな感じで居られちゃうと「手に取ってみようかな?」って逡巡しても、諦めちゃう

商魂逞しく呼び込みしてほしいってわけじゃないんだけど、テーマがわかりやすく表紙にまとまっていて、新刊の見本が手に取りやすくたてかけてあって、ある程度ニコニコしてて、目があったら「どうぞ」ぐらい言ってくれれば大分違うと思うけどな。

元増田の言う通り、午前の売れなさで意気消沈してしまうんだろうけど、ジャケ買い物見遊山勢は午後からくるからちゃんとやれば2時〜3時にもう一山売れると思う。

実際、まだ心折れてないサークルもいくつかあって、見たこともなかったテーマ評論本をガサッと手に入れることができた。

コロナ前と比べて明らかにムードが変わってた(悪い意味で落ち着いた)から書いてみた。

3歳年をとってお前の新しいものへのアンテナが落ち込んだんだと言われればそれまでだけどね。

2022-12-31

今年個人的に好きだった増田

言うなれば股舐共同体。

正月三が日からクンニ増田本領発揮。

やべーやつ番付の作成者についてはてなに問い合わせた。

「麻原とデュエットを歌ってた」「一気飲み、なんて単語が出るのはオウム修行中の液体摂取か何かなんだろうな。嬉々として飲んでたんだろうなあ。」

ぷち氏といきてゆく

「国際数学オリンピック予選落ち地区優秀賞をひっさげていきてゆく~」

情報求む。

「以下に記すのは、現在進行中のラスプーチンホルマリン漬け超巨根チンポを巡る闘争について、私が知り得た情報である。」

2022-12-29

anond:20221228072949

多分、書いた人が自分のことのように読むから大人になれ」とか「愛を乞う」とか勘違いしたこと言うんだろうな。

言うなれば、受賞するために頑張ることと、頑張った結果気づいたら受賞していたくらいの違いがある話なんだけど、感覚がわかるかな。

結婚したら、自分の中の鬱屈した感情が霧のように消えてしまっていたという話をしているのに、鬱屈した感情を消すために結婚したみたいな話だと思われても困る。

「居てくれるだけでいい」というのは別に相手存在するということそのものに喜びを感じるわけで、「生きていることのなつかしさに ふと胸が熱くなる」みたいな感じだな。

祝婚歌って知ってる?

anond:20221229071847

アリとキリギリスの古い童話を思い出した。

現代の最新にアップデートされた価値観と比べると、童話はいかにも古めかしい。

人間生産性でみるような考え方は差別的だとして批判されてる。

アリは働く才能に恵まれていて、働くのを自分自由意志選択した。

キリギリスは歌って踊るのが才能だった。

からアリがキリギリスに食料を分け与えるのは当然で、キリギリス反省して生き方を変えるも同じように歌って踊り、次の年もアリの食料供給を受けるのも、自由意志で決められるし、社会はそれを尊重すべきだ。才能はみんな違ってみんないい。アリは言うなればキリギリスの受け皿だ。

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